恋の味ってどんなの?

 リビングのソファーで時雨がシクシクと泣いている。
「ごめんね、変なところ見せてしまって……」
「僕もなんとなく気持ちわかります……わかるとか簡単に言ってしまうのはアレですけど、はいティッシュ」
「ありがとね、ほんと僕はもう泣き虫で」
 チーンと鼻水をティッシュに出す時雨。

「……藍里ちゃんたちも知ってたの?」
「私は……ついこの方知ったばかりで。先生や清太郎から教えてもらった」
「先生にもバレてるのか」
 時雨は項垂れている。

「てかさっき時雨さん、藍里に抱きついてましたよね……」
「あ、その」
 代わりに藍里が声を出してしまった。時雨も顔を上げた。

「……ごめん、いつも藍里ちゃんに話とか聞いてもらっててさ」
「いや、だからといって藍里に抱きつくなんて。それに藍里も藍里でさ抱きしめてなかった?」
 あっ、と藍里は目線を逸らす。

「誰だって泣いてる人いたら……どうかしてあげたいとか思わない?」
「まぁそうだけどさ」
 清太郎はムッとした顔をしている。

「ごめん、藍里ちゃんの彼氏の君の目の前で……でもね、藍里ちゃんは本当に優しくて」
「……」
 藍里も
「清太郎、別にそんな関係じゃないし……優しくしてもらって、夏休みの間は家事とかご飯とか勉強とか……なかなか外に出られない私と遊んでくれたり話をしてくれたり」
 というがいい顔をしない。


 んーと考えてようやく口を開いた。
「……まぁ、藍里やさくらさんがこう今平和に過ごせてるのも時雨さんのおかげでもあるか」
「ごめん、清太郎くん」
「いえ、ありがとうございます。藍里、これからは俺も藍里たちを幸せにするから」
 と時雨の前で藍里を抱きしめる清太郎。突然のことにびっくりする藍里は時雨と目が合う。

 抱きしめる力が強くなる。
 藍里はもちろん清太郎のことは好きだ。だが時雨と目が合うと気持ちが複雑になる。

 時雨は目線を下げて口をぎゅっと固く閉じる。なぜそんな顔をするのか、藍里はわからなかった。さくらのことを好き、彼女のためにもっと仕事をしてと決意していたはずなのに。

 藍里はそんな時雨の顔を見るともう心がぐらついてしまう、だから目を瞑って清太郎のハグを受け入れた。
「藍里、愛してる……」
「清太郎……」

 時雨は立ち上がった。
「はい! てことで、今から餃子を食べよう。たくさん出来ちゃったし、藍里ちゃんと清太郎くんのラブラブ記念日。さてさて食べよう。僕さくらさん呼んでくるから。あ、2人は藍里ちゃんの部屋でラブラブしてて。今からサラダとか作ったりスープも作るから。はいはい!」

 と藍里たちを立たせて藍里の部屋に押し込めた。

 急に部屋に押し込められ2人きりになった2人。清太郎と藍里は目を合わせた。
 清太郎が笑う。

「……ついつい嫉妬してあそこで抱きついちゃった」
 藍里は口籠る。

「そいやさ、時雨さんの前だから恥ずかしかったのかな」
「えっ?」
 清太郎は藍里をじっと見つめる。
「俺に愛してるって言ってくれなかった」
「……!!」
 そういうつもりではない、と思いながらも藍里は顔を赤らめる。そんな彼女に清太郎はキスをした。
 長く長くなんとも唇を離して付けて……。
「愛してる、藍里」

 藍里頷いて
「わたしも、清太郎のこと愛してる……」
 とまたキスをした。たくさん抱きしめ合い、キスを何度もする。いつもよりも鼓動が高まる。
 奥には時雨達がいるのだがいつもの鼓動とは違うもの、何か疼くものがある。

「……だめだ、これ以上ひっついてるともう」
 清太郎から身体を離した。藍里も少し離れた。

「なに嫉妬してんだか、バカだよな。俺は時雨さん手伝ってくる。藍里はここにいろよ……」
 清太郎はしどろもどろになっている。藍里は息も荒くなっていた。顔が赤くなってるのにも気づく。

「……うん、あとでいく」
 清太郎が部屋から出ると藍里はベッドに横たわる。まだドキドキが止まらない。
 清太郎の男の部分を感じたのだ。子供の頃には感じたことのない感触。
 自分の部分も何故か熱くなっている。清太郎から離れなかったら自分達はどうなっていたのだろうか。

 しばらく藍里はベッドの上で悶えていた。ドラマや漫画でしか知らなかった世界。急に自分の身で感じた彼女。
 こないだのさくらと時雨の愛の交わりの声を聞き、それも思い出しながら男と女は愛し合う、それを自分も味わったら……どうなってしまうんだろうか。

 でも早すぎたのか……。

 どれだけベッドの上にいたのだろうか、気付けばいい匂いがする。

「藍里ーできたぞー」
 清太郎の声を聞いて藍里は身体を起こした。

「はぁい……」
 餃子をホットプレートで焼く音。サラダも丁寧に盛り付けられ四人分の食器セット。

「藍里ちゃん、サラダね清太郎くんが切って盛り付けてくれたんだよ」
 確かに少し荒いがサラダの載せ方がいつもと同じだと気づく。早速教えてもらったんだなぁと。
「見た目は良くないかもだけどね」
「何言う、食べれば同じなんだから」
「そっすかね。弁当屋で働いてるくせに」
「いやいや手を抜くとこは抜かないとさー」
 清太郎と時雨は笑ってる。なんだかんだで2人は仲良くできそうかも、と藍里は見ていた。

 すると部屋に閉じこもっていたさくらもやってきた。
 時雨がさくらの椅子を引いてどうぞ、と。さくらはありがとう、と微笑む。

「さーてさてさて、4人いるから弱肉強食だからね」
 さっきまでの雰囲気とは変わってさくらはニヤリと笑った。

 弱肉強食、藍里は思い出した。また子供の頃を。料理やお菓子など家族で食べる時はきっちり人数分で分ける。それは兄弟がいた綾人はとてもこだわっていた。
『きっちりわけろ。さくら、おまえは一人っ子だからさぁ。わからねぇだろ。藍里もワガママの規律のわからない娘だと言われたらどうするんだ!』
 と言う綾人のセリフ。一人っ子イコールわがまま、規律を乱す、そうなの? と藍里は子供ながらに思っていた。

 本当はもっと食べたい、でも一人一人量はしっかり守らないと。怒られてしまう……さくらと2人きりの時に2人で買って食べたお菓子。包装紙の一部が落ちていたのを見た綾人が
『お父さんの分は? お父さんが汗水垂らしてる時に呑気にお菓子食べてるのか。ずるいなぁ、藍里はもっと考える子にならないと。じゃ無いとお母さんみたいな空気の読めない女って言われて結婚できないぞ』
 と言われてから何かおやつをもらった時には頑なに綾人の分を残していた。
 それを渡すと
『えらいぞぉ、藍里』
 と綾人に褒められた。でもその横にいたさくらの顔はとても暗かった。


 でも今のさくらの顔はとてもイキイキしている。さっきはヒヤッとしていたが時雨といる時の顔はやはり良い。

「弱肉強食とか言いつつもちゃんとみんなが満足できる分作ってますから。はい、遠慮せず。ほれっ」
 と時雨は藍里の更に焼き上がった餃子をヘラを使って乗せる。いい匂いが漂う。

「よくもまぁ1人でこんな量作ったわよね」
 さくらも感心する。よくよく考えれば藍里はさくらが包んだ餃子は食べた記憶がなく、冷凍物を焼いたものだったのを思い出す。それはそれで美味しかったのだが。

「ん? なんか皮から作りたくなって無心になって黙々とやってたらこんなにね。タネが切れて一部はチーズ入りもある」
 無心になってやっていたのはまたきっと色々考えてしまった時に料理に集中すると忘れられるという時雨の性質である。
 さくらはわかっているのだろうか……。

「えっ、チーズどれどれ」
「あ、それはキムチチーズね」
「うっまそー」
 清太郎はキムチチーズ入り餃子を時雨から分けてもらってすぐ口の中に入れて美味しいっとホクホク顔。
 さくらも私も私も、と同じものを求める。時雨はニコニコしながら皿に乗せる。
 藍里は手をつけないでその様子を見ていた。

「藍里ちゃん、食べな。焼けてるからどんどん食べないと」
「……時雨くんは食べないの?」
「もちろん食べるけど僕はみんなにまず食べてもらいたいんだ」
「でも作った本人が焦げたもの食べても……先に食べたほうがいいよ」
 藍里がそういうとさくらはハッとする。藍里が過去の綾人の教えを守ってしまっているんだと。

「……藍里、別に……」
「大丈夫。僕はこれでいい。みんなが美味しいって言う顔を見ながら食べるのが好き」
 時雨はそう笑った。

「みんながそれぞれのスタイルで食べればいいよ。俺が一番に食べるんだ、とか均等に分けろとかあるよね。それはそれでいい。僕はそれに従う。藍里ちゃんは気を遣ってくれたんだね、優しい子だ。そうやって教えてくれた人も悪くはないんだよ。そういうふうに考える人もいるんだって考える機会を与えてくれた。経験もできた。僕はずーっと似たような環境にいたからさ。人から聞くくらいしかないもん」
 藍里は綾人のことを思い出した。確かに高圧的なところもあった。さくらにも酷いことを言っていた。

 だが台本読みを手伝ってくれたり、撮影のポージングも研究してくれたり、さくらではカバーできない体力のいる遊びもしてくれた。

 藍里はさくらを見る。さくらは微笑んだ。
「藍里、今、あなたは均等に食べたかったらそれでいいし、好きなだけ食べたかったらそれでいい。てか、早く食べないと焦げる!」
 とさくらが箸でプレートの上に乗っているやや焦げた餃子を大きめの皿に移した。

「あああ、そっちに移そうか。その間に藍里ちゃんと清太郎くん食べてて!」
 と時雨とさくらで餃子をプレートからお皿に移す。あたふたしながらも笑い合って。

「食べろ食べろ。てか俺のキムチ餃子やるわ」
 清太郎は口の中に入れつつも藍里の皿に乗せていく。藍里は頷いた。

「ありがとう。あっ、私その熱々の食べたい!」
「いいぞ! 食べてっ!」
「あっ、俺も!」
「わたしもー!!」
 4人はたらふくになるまで餃子を食べた。
 餃子は流石に食べ切れないものはバットに移して時雨が冷凍庫に閉まっていた。また後日食べられるように。
 作り過ぎちゃった、と言ってたもののさくらの仕事の内容のことで色々と気にしてしまったのを打ち消すため黙々と作り過ぎたものだが……。

「もう遅くなっちゃったし後片付けはうちらがやるから宮部くんは帰りなさい」
 とさくらが言った。

「申し訳ないです。でも餃子、美味かったしサラダと卵スープのコツ、時雨さんに教わって……4人で楽しく食べれて楽しかったです、あ……あと」
 と清太郎が言う。

「さくらさん、今週末はよろしくお願いします。少しだけでもうちの母さんに会ってください」
 これで3度目の打診になる。病院、さっきの食事中、そして今。
 さくらは口を閉ざすが、頷いた。

「わかったわ。……色々とあの時話聞いてくれたし、心配しないでって伝えるためにも会うわ。仕事も夕方前には終わりそうだから、連絡お願いします」
「よかったね、清太郎。私もおばさんに会うの楽しみ……て、里枝さんにほぼ毎日会ってるから久しぶりって気もしないけど」
「……確かに。こないだ見た時すごく似てた」
 さくらと藍里は笑う。清太郎もホッとしたようだ。

「じゃあまた明日からもよろしくね……あ、見送りに……いててて」
 時雨は腕を引っ張られる。さくらが引っ張ったのだ。そして藍里を清太郎の方に突き出して
「藍里、玄関先まで見送ってきな」
「……えっ、あ、うん」
 さくらは藍里と清太郎を2人きりにさせたかったのである。

 2人は玄関から出てドアを閉める。再び2人きり。仄かな電気にもうすっかり周りは暗くなっている。

 2人は見つめあって笑い合う。
「2人きりにさせられたね」
「そうだな、また明日会うのに……てか餃子の匂い明日まで残りそう」
「すごいニンニクマシマシ……っ」
 清太郎は藍里を抱きしめた。不意でびっくりしている。そしてそのあとキスをした。

「互いに同じもん食ってるから気にしない」
 と清太郎はさらにキスをする。藍里ももっとキスをする。2人は立ったまま腕をぎゅっと抱きしめて体密着させ何度もキスをする。

「はいはい、終わり。これ以上は……なっ! じゃあ帰る! おやすみ!」
「おやすみっ……もぉ」
 清太郎は走って去っていった。藍里はドキドキしつつもなぜあんなに抱いてキスをしたのか分からなかった。
 ふぅ、と余韻に浸りながらもドアを開けると玄関にあたふたしてる時雨とさくらが。
 どうみてもさっきまでドアの覗きスコープから見ていたのではと思うくらいの距離。

「いや、別に覗き見とか……してないよ」
「うんうん、ただその藍里が心配で、案の定キス……」
 やはり二人はのぞいていたのだ。藍里は顔を真っ赤にした。

「もぉ! なに覗いてんのよっ!」
「ごめん、ごめん……そんなつもりじゃ」
 と必死に謝る時雨。さくらも宥める。

「藍里、片づけするよ。時雨くんはもう休んでていいから」
「えっ、やるよやる。さくらさんも明日仕事でしょ」
 さくらは首を振る。彼女が家事をするのはどれくらいぶりだろうか。藍里は思い出す。

「もうこれから私もやることにしたから。あ、ちゃんとお金払うけど」
「いや、むしろもう……お金はいらない。それにさくらさんは弁当屋で一緒に働こう!
 ってまだ給料貰ってない身が何を言うって感じかもだけどさ……」
 さくらが時雨に頭ピン、と弾く。
「でしょ。それにあなたがこれから稼ぐって言うなら私も家事やって二人でジャンジャン稼ごうよ。弁当屋の仕事は……考えておくわ。今の仕事の方が効率良く稼げるし」
「……そ、かぁ」

 やはり時雨は表情が曇る。でも効率良く稼げるのは事実である。

「はいはい、時雨くんは先にお風呂入って。私たちで片付けするから」
「わかった。じゃあよろしくお願いします」
 と時雨は二人に頭を下げた。

 藍里とさくら、ふたりで台所。初めてである。横に並んで料理する日が来た。なんだか藍里は不思議な気持ちでさくらが洗ったものをすすいでマットの上に乗せていく。
 よく時雨の横で手伝っていたが、彼はささっとやるが手際よく、しかしさくらはチャチャっと洗って終わり、そういうところを綾人が指摘していたのを瞬間思い出したがまぁいいかと流した。
 藍里はさくらの横顔を見る。今は化粧をしていないが明らかに昔よりも若返った気もしなくもない。
「なぁに、私の顔見て。ちゃっちゃかやって風呂入って早く寝よ」
「うん……なんかママが台所にいるの珍しいからつい見ちゃった」
「珍しいって……昔はよくいたじゃん」
「そうでしたね」
「もう、忘れたの?」
「なんか時雨くんのイメージ」
「まぁそうよねぇ……」
 さくらは笑った。

「藍里、時雨くん……どう?」
「えっ?」
 どう、というのはどの意味でなのか? と藍里はさくらを見た。

「なに動揺してんの。家族としてどうなんかって。……二人仲良いしさ。まさか変な関係じゃないよね」
「じゃないし。でもゲームもしてくれるし勉強も教えてくれるし、話し相手になってくれる」
 と藍里は動揺する気持ちを抑えて無難に答えるとさくらは
「そう」
 と言ってそこからは喋らなかった。
 週末。さくらは昨晩から仕事に行っている。藍里と時雨は土曜日だが4時半に起きて朝ご飯を一緒に食べて弁当屋に向かった。
 昼までの仕事を終えたら二人で名古屋に向かうのだ。

 それが楽しみな二人。今日は天気もそこそこいいので弁当を買って近くの動物園やレジャー施設に行く人も多いようで、朝早くから藍里は清太郎と共に店先に立ち弁当を販売した。

「すいませぇーん」
 藍里は店先から里枝の声がする、と思いふと振り返ると、清太郎が嫌そうな顔をして店内に入っていく。

 まさか、と思い行ってみると

「里枝姉さん、清太郎ー、お義兄さんおじゃましますー」
 里枝をややスリムにした女性……清太郎の母、路子とさらにスリムにして若くした女性……清太郎の姉の清香が立っていた。

「もしかして、清太郎の……」
「……いやもしかして! 藍里ちゃんやないのぉおおお。清香、覚えてるでしょ。清太郎が好きだと言ってた」
「えっ」
 藍里は路子の言葉にびっくりする。

「母さんっ!!」
 清太郎もその言葉を聞いて引き返した。
「……好き好き言ってて、いなくなった時めっちゃ泣いてたの誰?」
 清香からもそのことを聞くと藍里は清太郎をついじっと見てしまう。

「……ま、昔から好きやった。藍里のこと。てか、母さん、姉ちゃん。今藍里と付き合ってる」
「あらま」
「うそぉ」
 清太郎は藍里の肩に手をやる。藍里は恥ずかしくてたまらない。お客さんもいるからである。

「まぁ、でもほんと綺麗になってね。さくらさんも綺麗だったからもっと化粧したらどうかって言ってもお金がないとか言ってて私が化粧品押し付けたんだけど全くしなくてね。にしても藍里ちゃん大変だったね」
 路子が相変わらず話が唐突すぎるあたりが昔と変わらない、そして姉の清香は鉄仮面のごとく表情が変わらないためすごく近寄り難いとヒヤヒヤする藍里。

「お昼はここの弁当食べるわ。里枝姉ちゃん、上がるねー」
「はーい」
 路子と里枝、二人が揃うとかなり賑やかになりそうだ。里枝の夫も眉毛を下げ苦笑いしてるあたりが何かを物語ってるようだ。路子、清香親子は奥に入っていく。清太郎もあとをついていく。

「里枝さんそっくだね、ほんと」
 時雨はそう言いながら賄いを作っていた。
「……まったくかわってなかったわ」
「きょうだいって面白いもんだなあ」
「時雨くんは弟がいたんだっけ……」
「うん、あいつが母さんに似て僕は父さんに似たから見た目は違うけど不思議なもんで遠目から見ると似てるって言われる」
「面白い」
「藍里ちゃんもさくらさんがベースだけど綾人さんにも少し似てると思うよ」
「それ、よく言われる」
 時雨は賄いの豚カツとキャベツを丼に乗せて藍里に渡した。

「本当は名古屋で美味しいもん食べた方がいいけどどうぞ」
「全然時雨くんのご飯の方が美味しい」
「言うねぇ、藍里ちゃん」
「事実なんだもん、早く食べて名古屋行こー」
「うん。店長、里枝さんー昼いただきますー」
 時雨は心なしかなんだか嬉しそうである。藍里は時雨の作ってくれたトンカツ丼を食べながらもあの餃子パーティーのときに時雨のことをどう思うかと言われた時のことを思い出す。あれから何度も。

 もちろん清太郎が藍里の恋人、時雨がさくらの恋人、というのはわかっている。

 でも藍里にとって一番しっくりくる相手が目の前で食べている時雨なのだ。

「こっちに逃げてきたわ」
 清太郎が弁当を持って藍里たちのところに来た。遠くから里江か路子の声が聞こえる。

「大学展行きたいわ、俺も……」
 明らかに路子たちが来てからテンションが下がっている藍里。

「夕方までなんだから……それさえ終わればまた帰るんでしょ」
「まぁな、ああああー」
「まあまあ、はいとんかつあげるから」
 藍里が清太郎の弁当の中にトンカツを入れるが

「弁当にもう入ってる……でもありがとう」
 とすっかりトンカツ弁当を清太郎が食べているのを忘れてた藍里。笑い合う二人。微笑ましく時雨は見ていた。

「そうだ、藍里はある程度目星つけたか? 大学」
「うーん、実のところあまり。今の家から行きやすいと言ったら〇〇女か△△大だけど……」
「たくさん大学あるのに悩むぞ……」
「だよねぇ。でも一応文系、ていうのは決めた」
「ざっくばらんだな……なんなら俺についてくるか」
 清太郎はあっさり言った。清太郎は東京の大学を受ける予定だ。

「……東京」
「うん。同棲してもいいし」
 時雨が丼を置いた。

「……ど、同棲??」
「いや、もしもですし。まぁ無理して俺の人生についてこなくてもいい」
 そう言われると藍里はぐるぐるまた考えてしまう。さくらのことを考えて今の住んでいる場所から近い大学を選んだ。

 でも近いという理由だけである。なんなら付き合ってる清太郎とともに東京という新しい環境に飛び込んでも良い、そう思ったがやっぱりいいとか言われ混乱する。

「今日はヒントをもらうつもりと思ってさ、気を重くせず観に行こうよ」
「だね、ほんと何になりたいとか思いつかないし……まずは知って見て、だよね」
 時雨に対する藍里の受けごたえを見ていた清太郎はなにか感じ取った。

 何か自分にこえられないような壁があるのを。

 正直このあと藍里が時雨と名古屋に行くのも引っかかっていた。でも自分は母親と姉たちに連れ回され満足させなくてはいけない。

「清太郎ー、ねぇねぇ〇〇百貨店てどの駅からいけばいい?」
 清香が顔を覗かせた。地元の大学に進学した彼女は滅多に名古屋に行けずこれを機にたくさん買い物をするようだ。
「……ああ、教えるから待ってて」
「大学展の近くだね、〇〇百貨店」
「そうだな……あと夕方の食事場所から離れないように考えてきてもらったんだけどね」
「頑張ってね」

 母たちに連れ添うのを断って藍里についていけばいいのに、と自分でもわかっていてもそれはできない清太郎であった。
 昼ごはんを食べ終え、片付けも終わったところで藍里と時雨は店を出た。
 清太郎が心なしか暗そうに見えたが
「気をつけてな!」
 と声をかけてくれたのを藍里は少しほっとして、ニコッと笑って返した。

 時雨とここまで遠出をするのはもちろん初めてである。車でもよかったが夕方からの食事会でさくらはお酒飲むであろうと時雨は電車を選んだ。

 土曜日ともあって混み合っている。

 大学展の会場はとても広く、これまた人がたくさんである。大学だけでなく企業や学生たちによる出店もある。

「ここで弁当売ったらめっちゃ売れそう」
「時雨くん、お仕事終わったのにまたそんなこと考えてさ」
「ついつい商売柄……昔旅亭の時もこういうイベントで出店したことあるし、学生時代も専門学校だけどやったことあるよ。今度里枝さんたちにこういうイベントに出てみるとか提案してみるよ」
 時雨は本来の目的地を忘れて出店をあちこち見回ってる。藍里は彼にはぐれないように追いかける。途中で気づいたのかごめんごめん、と言おうおしたら藍里が遠いところで二人組のハッピを着た男子学生に藍里が声をかけられていた。

「ねぇ、お姉さん。クレープどう? 安いよ、美味しいよ」
 お姉さん、と言われて藍里はへっ? と声を出してしまった。
「お姉さん可愛いね。一人? どこの大学? よかったら夜の飲み会来ない? 明日の打ち上げでもいいけどさー」
 ニヤニヤと笑う男子学生たちに狼狽える藍里。するも時雨が駆け寄って
「彼女ははまだ高校生だよ。……クレープか。僕クレープ好きだから買うよ?」
 と割って入った。すると一人の男子学生が舌打ちして

「なんだよ、彼氏いるのかよ……あっちでやってるんで、どーぞ」
 と割引券をぶっきらぼうに渡して男子学生は去っていった。その割引券のサークル名を見て時雨は

「な、なんなんだよ……18歳未満やばいし、彼氏いたらダメなのかよ。て藍里ちゃん、ああいう男たちがいるからすごく心配だよ、大学。テニスサークルとか言って飲み会ばかりして酒飲ませて女の子に意地悪するサークルだよ、きっと」
 時雨は割引券をゴミ箱に捨てた。藍里は顔を真っ赤にした。周りから見たら自分達はカップルに見えるのかと。

 そもそも自分自身も高校生以上に見られていたのもびっくりしたのだ。

「にしても18歳未満だったら手を出しちゃダメとかなんなんだよ。だったら僕自身も周りからしたら……そう思われてるのかな」
「そんなことないよ。時雨くんが若く見えるし、彼氏だって思われたから大丈夫」
「……てことは高校生に見えるのかな。よく童顔て言われるけど30超えてからもそれってなぁ」
「もう、寄り道してないで大学展見たいんですけどー」
「あ、ごめんごめん……」
 二人は大学展の本会場に向かった。
 藍里が検討していた〇〇女や△△大学はやはり人気でポピュラーな大学のためごった返していた。
 とりあえずパンフレットだけでもと持っていくがほとんど予約がいっぱいになっている。
「やっぱり午前中から行かないとダメか」
「しょうがないよ。オンラインでもかなり前から予約いっぱいだったしさ……」
「〇〇女は内部生が多いだろうなぁ」
「内部生?」
「うん、ここは幼稚園から大学まで一貫校だから大学で入る人と幼稚園からや小学校からの子が多いんだろうなぁ……」
 そういえば、と藍里は昨晩さくらに〇〇女は私立で、その中でもさらにお金がかかると言われた。
 近いだけで選んだのだが……と頭を悩ませる。

「でも女性の生徒だけだからさっきみたいな合同サークルを断って学校内の単独サークルに入れば安心だな」
「……かなぁ」

 会場内を歩いて回ると本当にたくさんの大学があるんだ、と藍里は思い知らされた。
 ほとんど家の中にいたし、ネットはあまりしない、人との交流も少ない、テレビもあまり見なかった時期が長く、さくらとの会話もあまりなかったため全く何も分からぬままきたようなものである。

 企業も出店している。
「……大学行かずに就職する手もあるのかなぁ」
「まぁそれもあるよね。何もその先を考えれずに四年間いるよりかはもう仕事するという手もある。でもやはり高卒の大卒だと給料差が出るんだ。いくら女の子は結婚して時短になったり退職をする確率が高いかもだけど今は共働きの時代だからね。大学は出たほうがいい。専門学校出の僕でもそれを実感している……」
 なるほどねぇ、と藍里は納得した。

 今後もし清太郎と結婚するとなったら……清太郎は稼ぐために銀行員になってなんたらかんたらと言っていたことを思い出した。
 でも自分も働かなくては……でも何を? とまた頭がぐるぐるとして混乱する。ただでさえ人混みの多い中、バイトも終わって寝不足なのある。

「藍里ちゃん、大丈夫か。休もうか」
「うん……」
 と会場内にあるベンチに座る。

「ほんとこりゃ悩むなぁ。こんなによりどりみどり」
「……」
 藍里は一点を見つめる。それは会場の外の大きな看板であった。

 綾人の映画の看板である。そこにも多くの人がいる。中にはファンなのか写真を撮る人たちも。自然と藍里は立ち上がってそこに向かう。

「藍里ちゃん、会場でるとなったら再入場のスタンプもらわなと。あとで見よう」
「……今見たい」
 藍里たちは再入場のスタンプをもらって会場の外に出て綾人の看板の前に藍里は立つ。

「……お父さん」
 すると時雨がその看板の前にもう一つつい立があるのに気づく。

「橘綾人娘役オーディション会場……このホールの5階でやってるみたいだよ」
「えっ……」
「募集してたけどいつのまにかオーディション始まってたんだ」
 そう言えば二人でテレビ見た時にやっていたなぁと。そしてつい最近クラスで雑誌の応募を見たのも思い出した藍里。

 この看板の周りにいる人たちは確かにオーディションを受ける感じも見受けられる。

「もうオーディション、書類選考で受かった子がやるんだろうね……」
「藍里ちゃん、受けるつもりだったの……?」
 藍里は俯いた。

「……娘役、だなんて。確かにこの主宰してる事務所は私が昔子役やってた時のだし大手だし。娘役にならなくても他の提携してる事務所からスカウトとか候補生とかに声かけてもらえるんだろうね……でもそこからが大変なんだよ。赤ちゃんの頃から事務所に所属していた私は全くダメだった」
「ダメだなんて……」
「じゃあ私の出た番組とか雑誌とかCMとか知ってる?」
 藍里がそう言うが時雨は答えられなかった。

「何にもない……まぁ強いていればその他大勢。名前も載らなかった」
 藍里は俯いた。

 その時だった。
「藍里! 藍里!」
 聞き覚えのある声。あのクラスメイト三人衆であった。アキだけ遅れてやってきた。

 藍里は時雨から手を離した。
「……あれ、宮部くんは?」
「今日はお母さんたち連れて名古屋観光」
「そのひとは?」
「あ、その……」
「彼氏?」
「その……」
「えー、宮部くんが彼氏と思ってたけど……年上彼氏かぁ。いいじゃん」
「その……」
 否定もできず時雨は藍里の彼氏というテイになってしまった。

 するとなつみとゆうかがアキを、押し出した。彼女はさっきからなにか言いたさそうにしていたがなかなか言わない。

「……藍里、ごめん。わたしね、勝手に応募しちゃったんだ」
「えっ?」
 アキは綾人の看板を指差した。そしてなつみが代わりにアキのスマートフォンを、差し出した。

「今日、この後1時間後に藍里はオーディションを受けることになってる。本当は本人の同意が必要だったけどアキが勝手に応募して書類審査受かってうちらで同意書類作って送った。ちなみに高校生は担任の同意も必要だったけどうまく誤魔化してもらえた」
「えええっ……」
 なつみがオーディションの案内書を差し出した。
 藍里は時雨を見る。時雨もびっくりしている。

「もし受かったら推薦金は藍里に渡す。藍里、色々進路悩んでたし。そもそも可愛いから是非受けてほしいなあって」
「……でも、どうしよう時雨くん」

 すると時雨がなつみから案内書をつかみ、藍里の手を引っ張った。

「行こう、オーディションに。1時間のだろ? まだ間に合う……昔の君と今の君は違う!」
「ええええっ……」
 時雨は藍里と手を繋いで走っていった。

「わぉ、彼氏さんやるぅ」
 ゆうかは呆然としている。なつみはアキの肩を叩く。

「……受かるといいね」
「そうだね。でも推薦金全部あげるのはほんと?」
「少しはもらえるよね、たぶん」
「そいや高校生は保護者も付き添いでとか書いてあったけどよかったよねー。彼氏さん下手すりゃあ保護者でも通じるよね」
「……多分さっきの人は見た目30前半くらいかなー年上好きだなんて意外」
「意外かどうかわからないけどね」

 ふとゆうかが看板を見つめる。

「ってさ、なんかこの綾人ってさ……藍里が真顔の時に似てない?」
「嘘だーっ、いつものイケメンフェイスじゃない」
「気のせいかー」
 時雨は藍里と共に案内通りにオーディション会場に行く。人がたくさんいたためすぐわかったようだ。
 すれ違う人たちは
「受かるかなぁ……」
「書類審査である程度落としたとかいう割には1日かけてたくさんの人呼んでるよね」
「にしても生の綾人にはびっくりしたわーびっくりして声ひっくり返ったり泣いてる子いたわー」
 と大声で話す人たちは大抵素人だと藍里は察した。芸能事務所に入っている人たちは大抵はオーディション内容を外で明け透けに話すことはほとんどなかったという記憶があるのだ。

 時雨が勢いよく会場近くまで走ったため二人とも息を切らす。

「……ここの中に……お父さんがいるのね」
「今日来てるのか……気合い入ってるなぁ」
 オーディションも実に数年ぶりである。いつもはさくらが付いてきた。しかし今日は時雨がそばにいる。
 綾人がいるという噂を聞きつけた野次馬もいるがスタッフから制止されている。

「オーディションの方ですか?」
 スタッフから声をかけられた藍里。野次馬の一人と思われたのだろう。
「はい、書類もあります」
「確認いたしました。時間まであちらで……高校生ということですがお隣の方は」
 スタッフが時雨を見る。時雨は顔をシャキッとさせて

「ほ、保護者です」
「はいかしこまりました……親さんの同意書は百田さくらさんになっていますが、あなたはご主人ということですね。藍里さんのお父様」
「……はいっ」
「では、ご一緒に」
 通された控室、一人でいるものから親かマネージャーらしき人と一緒にいる人までいろんな女の子がいる。だいたい年代は同じだろう。
 静まり返るほどではないが皆緊張しているようだ。

「……マネージャーでもよかったのに」
「そうかもね。だとしたら名刺渡さなきゃいけなかったろうし」
「でも今回は彼氏とは思われなかったのかな」
「やっぱ芸能関係の人はその辺の見極めできるのかなぁ」
 藍里と時雨は笑った。

「にしても親の同意書も……どう捏造したんだろ」
「これがなかったら受けられなかったかもしれないからあまり詮索しなくてもいいと思うよ」
 藍里はそうかぁ……と思いながらもスタッフから手渡された書類を開いた。

『本日は自己紹介と簡単な演技をしていただきます。次のページの台詞を呼んでいただきます』

「自己紹介……」
 子供の頃何度もオーディションをした。自己紹介も最初の頃はさくらが、考えてくれた。小学生に上がると自分で考えて言えるようになってきた。

「あと1時間だけど……」
 藍里は頷いた。

「大丈夫。なんとかなる」
「さすがだなぁ、藍里ちゃん。あと……簡単な演技って」
 藍里は次のページを開いた。

 ……藍里はその文字に目を大きく開いた。


『お父さん、ありがとう』

 約5年前に綾人が仕事に出た後にさくらと共に市役所の人の車に荷物と共に乗り込み、部屋を出た。その数ヶ月後に電話で震えた声で

『藍里……藍里……』
 と聴いたのが最後だった。藍里は何も返す言葉はなく電話機をさくらに返したのを思い出した。

「藍里ちゃん……」
 時雨は心配した顔をしている。

「……」
 藍里は左手で時雨の手を握る。何も言わない。

 時雨も何も言わず手を握り返した。藍里はずっとその一つのセリフを見つめる。


「それではこの列の皆様、お立ちください。今から入っていただきます。もう遅いですが今回のオーディションの内容などはSNSに載せないようよろしくお願いします。また事務所関係者様、保護者様もご入場いただき、後ろの用意された椅子にお掛けください」

 スタッフがそう話すと藍里は息を大きく吸って立ち上がった。

「藍里ちゃん……」
「……」

 藍里は時雨の手をそっと離した。
 順番に入っていく。控室とは違った空気の張り詰めた空間。藍里より先に入った一般の女の子や保護者たちがびっくりした声を出している。
 きっと綾人がいたからであろう。
 藍里よりも時雨の方が緊張しているのか挙動不審になっている。

 藍里も中に入ると目の前に5人席に横に並んで座っている。

 中年男性、女性二人、そして……

 一人だけ明らかに違うオーラを藍里は感じた。

 橘綾人がいた。

 5年ぶりに見た綾人。その時よりもすっきりとした顔立ち、きれいに整えられた髪の毛、鍛え抜かれた体型、シャキッとした皺のないブランド服。目元はサングラスではっきり見えない。

 だがサングラス越しに藍里は目が合ったのがわかった。そして目が合った後に綾人はびっくりした顔をして藍里のエントリーシートを手元から探したようだ。
 そしてそれを見てもう一度藍里を見た。

「綾人さん、綾人さん……」
 隣の中年男性に声をかけられて綾人は我に返った。
「は、はい。すいませんね……みなさんがとても魅力的でね」
 相変わらず適当なことを言って取り繕う癖は直ってないなぁと藍里は思った。

「オーディションきてくださってありがとうございます。僕の娘役としてオーディション来てくださってありがとうございます。それでは右側の方から自己紹介をお願い致します。演技は全員の自己紹介終わってからになります」

 藍里は最後から二人目になった。次々と自己紹介をしていく。事務所所属の人は最初の一名のみであとは一般からのエントリーであるようだ。

 後ろに座る時雨も自分がオーディションを受けるかのような感覚で緊張している。

 藍里も緊張しているが昔とは違った緊張感がある。自分の父親が5年ぶりに目の前にいるのだから当たり前である。
 自己紹介と言いながらも、審査員の5人たちは質問を投げかけている。それを知らず戸惑って頓珍漢な答えをしてしまう人もいた。それを見た他の参加者がオロオロしだす。藍里もである。

 他にも色々頭の中を駆け巡る。個人情報が彼の元にあるはずだ。それを見て家に来たりしないだろうか。
 このオーディションのことはさくらには知らせてないし、もし綾人がさくらを見つけ出して来てしまったら……せっかく平和だった日常、壊してしまうのでは。と藍里は思った。そう思うと手も震えてきた。

 息を整え、気持ちを落ち着かせるものの、さくらが恐怖に震えて怯えている顔が思い浮かぶ。それに自分も空気を察して苦しい気持ちだったことを思い出す。

「では、次の……百田さん。百田、藍里さん」

 綾人が藍里の名前を呼んだ。

「……はい……」
 藍里は立った。直立不動、綾人のことをじっと見る。

「自己紹介を、どうぞ」
 綾人の横の女性が言う。藍里は目線を綾人から変えた。

「愛知県〇〇市から来ました。百田藍里です。生まれは岐阜県〇〇市……」
 と言った時、綾人と目が合うがまた目を逸らしてもう一度話し出す。

「生まれは岐阜県〇〇市、実は生まれてすぐ△△テレビアカデミーの子役部門に入り小学5年生までレッスン生として活動していました」
 エントリーシートには書いていないことに審査員はざわつく。その中で事実を知っている綾人は冷静に見つめる。

「昔子役をやっていたと、うちの事務所で」
 藍里は思い出した。綾人の隣に座っていたのは藍里が事務所所属時にいた事務員の女性でさくらとも認識がある。藍里は名前は覚えていなかったが少し思い出した。
 しかし当時は子役の数が多く、彼女は把握できていないのだろう。

「……はい、そちらには書いていませんでしたがいつかはわかるだろうと」
 審査員はさらにざわつく。

「でも今は所属されてなくてのエントリーなのですね。この推薦者の方はあなたが子役であることは知ってらっしゃるの?」
「いいえ、転校してきたばかりで知りません。彼女には感謝しております。彼女がこのオーディションに推薦してくれなかったらここにはいません。先ほども会いました」
 綾人はジッと藍里を見る。

「転校を2回されたとのことですがご家庭で色々合ったのでしょうか」
 かなり突っ込んだことを聞いてくるもんだと後ろで見ていた時雨はやきもきする。

「はい……。岐阜から離れて神奈川に行きました。母と私二人で数年暮らした後、夏に愛知に、東海地方に戻ってきて。少し落ち着いたところです。ああ、岐阜じゃないけど何だか落ち着く……て思えました。幼馴染が偶然同じ高校のクラスが一緒で……」

 藍里はなかなか話がまとまらない。
「なるほどね。後ろの方は……彼氏さん?」
 時雨はハッとする。綾人が時雨を見る。とても眼光が鋭い。テレビで刑事役をやっていた彼の迫力そのものである。藍里は首を横に振る。

「母の恋人です」
 はっきり言った。綾人は表情を変えなかった。時雨は顔を真っ赤にして俯く。

「わたしたちに美味しいご飯を作ってくれて働く母のために家事もしてくれて……次第に私も手伝うようになって、母もここ最近は……」
「もういいですよ」
 綾人が遮った。そして微笑みながら
「ここはあなたのアピールする場だ。残念ながらもう持ち時間はない、その辺りも自分で臨機応変に切り替えて自分の話に持ち込むのも技術の一つですよ」
 と言った。
 そういえば綾人は自分にいう時はきつく言わず回りくどく優しく話してきたことを藍里は思い出した。

 こうして久しぶりのオーディション、自己紹介は不本意な結果で終わってしまったが次は演技である。
 その頃、藍里がオーディションを受けていることなんて全く知らない清太郎は路子と清香で名古屋の地下街で買い物をしていた。
 もうヘトヘトである。近くにあったベンチに座りスマートフォンを見る。
 藍里からもメールは来るわけでもない。もともと彼女はメールをしない。

 時雨と2人で大学展に無事行っているのだろうか、変な心配をしてしまう清太郎だがそんなところに清香がやってきた。彼女もヒールできたことを後悔し、ふくらはぎが痛いのか座って揉んでいる。

「姉ちゃんは名古屋なめとんのか」
「なめてた。かなり歩いたからもう疲れたー」
「あそこで靴買ったるから変えや」
「いやよ、スニーカーばかりじゃない。このワンピに似合わない」
 清香はそう言いつつも踵を見ると靴擦れを起こしていた。

「早よ選ぶぞ」
「……ほんとあんたは優しいねぇ」
『あんたらが女には優しくって叩き込んだからやろ』と言うのを飲み込んで靴屋に行き、なんとか服に寄せたスニーカーと靴下を選び清太郎は清香に渡した。

 その後清香はお礼に、とすぐそばのコーヒー屋でコーヒーを清太郎のために買った。

 特にコーヒーは好きでもないが清太郎はとりあえず飲む。再びベンチに戻り久しぶりの姉と弟の会話。

 大学3年の清香は地元岐阜の大学に家から通い、保育士を目指している。
「清太郎はどうよ、こっちの暮らしは」
「まぁぼちぼち。里枝さんやおじさんも優しい人だし……まぁ里枝さんがかあさんにそっくりで嫌になるけど」
「確かに。似すぎだよねー」
 まぁそこまで2人は仲が悪いわけでもない。

「にしてもあんたはずるいよ。こっちに逃げて」
「逃げるってなんなん」
 つい姉との会話になると岐阜弁が出てくる清太郎。ずるい、逃げるという言葉に反応してしまった。

「家からでも通えるやん、なのにおばさんちに住み込んでさ。しかもなに、東京の大学に行くとかあり得んし」
「あり得なくない。もう決めたことや……」
 コーヒーがほぼ無くなって氷の溶けた水を口に含ませる清太郎。

「私は大学、県外ですら出してくれんかったし。バイトも地元、就職活動始まったやろ、お母さんはうちから通えるところしかダメとか言うのよ」
「……そりゃ今女2人しかいないから姉ちゃんまでいなくなったら寂しいでしょ、母さん」
「……でもさ、このまま県内に骨埋めることになるんかなぁ。相手も県内の、しかも近くの人同士で結婚とか? 嫌だよそんなの」
 清香はふくれっつらである。

「だったら姉ちゃんもこっちくればええやん。名古屋からでも電車一本で姉ちゃんの学校行けるし。就活もなんだかんだで本社が実は名古屋とかかなりあるし」
「……まぁでも名古屋もうちから通えるから」
「だよな」
 2人ともそういうと黙った。

「あんたがこっちきちゃったからだよ。ほんとずるいよ」
「まだ言うのか」
「……あんたは甘やかされすぎなのよ。うちの問題も全く知らんし」
「は?」
 気づくと清香の目から涙が出ていた。

「……お母さん、父さんと仲良くいってなかった」
「そうやったん? てか何泣いてんの」
 清太郎がハンカチを差し出すと清香はそのハンカチを清太郎に突き返した。
「ほらわかってない! 殴る蹴るは無かったけどずっと暴言吐かれたり文句言われたり死んだ婆ちゃんにも……いろいろと。あんたはわかってなかったようだけど私は見てたんだから」
 清太郎は分かってないようだ。たしかに中学まで父親方の祖母も同居していたが彼にとっては優しい祖母だった。

「それが原因で今も心療内科に通ってる!」
「嘘だ、あの性格で?」
「表はそうかもしれんけど辛さを隠すためなんだよ。あんたはなにもわかってない、お父さんも」
 清太郎は絶句した。父もまた彼にとっては優しくて尊敬できる人でもあった。

「でも気に病んでたのって藍里の母ちゃんたちが逃げたからじゃないのか」
「それもあるけど。お母さんは藍里ちゃんのお母さんどころか誰にも相談してなかった……助けて欲しいって。同じようなことで辛い思いしてるって聞いて話は聞いてたらしいけど……先に逃げちゃってショックだったみたいよ。私は逃げられないのに、って……」
「それは知らなかった」

 清香は立ち上がった。
「そこよ、そこなのよ!」
 周りの人達もびっくりしている。

「お母さんもおじさんのお姉さんの話聞いてたのもあるし、自分の経験もあって……あんたに女の人には優しくしろって叩き込んでたのにやっぱお父さんに似て分かってない」
「いや、その……」
「そんなんだと藍里ちゃんを不幸にする! ああ、私もお母さんみたいになってしまうよ、このままだと。お母さんもそうさせたくないと思ってるけどお父さんが私の一人暮らしとか許してくれてないって……」

 清太郎は清香を落ち着かせるために座らせた。
「……姉ちゃんもこっちくればええやん。父さん今単身赴任中だし」
 清香は首を横に振る。
「そんなことしたらお母さんかわいそう。ほっとけないよ……」
「矛盾してる」
 清太郎はどうすればいいかわからなかった。

「なーにやってんのよー、疲れた? あと少ししかないから清香、もっと買い物しましょー」
 と路子がルンルンでやってきた。
「何泣いてるの? 清香。あら靴新しいのね」
「……清太郎が買ってくれて嬉しくて泣いてるのよ。そうね、まだ私買い物したい」
 と路子についていく清香。

「はぁ……」
 清太郎は大きくため息をついて2人について行った。