恋の味ってどんなの?

 それは一般の高校生が夏休みに入る前だろうか。藍里と母のさくらが神奈川から愛知のとある市のマンションに越してきたばかりのことだった。

 さくらの職場の同じ系列先から引き抜きがあり、それが地元の岐阜の隣であった愛知県に移動することになった。
その会社の所長の妹がマンション経営をしていてそこの一室を紹介してくれたのだ。

 5階建ての最上階角部屋。それもこれもさくらが仕事で可愛がられたから、とのことだが一階が某チェーン店のファミレスともあって夜まで良い言い方をすれば賑やかである。

 築数もそれなりに経ってるが2LDKでトイレ風呂別と母の二人暮らしには贅沢ではある。あれやこれやらのワガママは言ってられない。

 他にもこの2人にはとある事情があるからだ。


 母娘2人で生活するようになったのもこの5、6年のことで、それまでは岐阜で父母娘という典型的な核家族で過ごしていた。
 と言っても藍里の父親は正社員の仕事の傍ら趣味の演劇サークルの主催をし、なおかつ藍里自身も子役として小さい事務所に所属をして稽古やオーディションを受けていて、さくらはマネージャーとして駆け回っていた。

 しかし家族でせっかく集まれたかと思うと父はさくらのやることなすこと全てを否定し、完璧にやってもアラを探してほじくり返すことをしているため、常に家庭の中はピリピリしている。怒られないよう、いびられないよう、さくらは耐え続けている姿を藍里は目の前で見ていた。

 かと言って父は藍里に対しては優しく接していたのであったため、彼女はそこまで父のことは怖いとか嫌だとかは思っていなかった。

 ただ、家族で集まるあの空気感が嫌いだった。

 しかしそれは急に変わることになる。数日前から見知らぬ女性2人がやってきてさくらと話をしているのだ。
まだ小6であった藍里は何か深刻な話をしている、それだけはわかっていた。

 その数日後。
「今から荷物まとめなさい。修学旅行で使ったキャリーケースに必要なものを、いい?」
 藍里は突然そんなことを言われてもわからず、狼狽えている最中、さくらがキャリーケースを出して開き、藍里と共に荷物を入れた。

「ママはもう用意したからあんただけ。あ。それは要らないわよ。本当に必要なものだけ」
 漫画本やぬいぐるみはすぐさまキャリーケースから捨てられた。

 そしてキャリーケース以外にも普段使っているカバンに貴重品や通帳、他にももう一つ大きなカバンに下着類を詰め込まれて一時間で終わらせ、家から出て車に積んだ。

 これは父がいない間の夕方に行われた。

 藍里は訳もわからず車に乗る。ふとその時頭によぎったのは……清太郎のことだった。



 それからは藍里は小4の頃から持たされていたスマホは使えなくなり、4年間見知らぬ土地……神奈川のとある社宅に身を寄せていた。さくらは仕事と離婚の手続きのために家を留守にすることが多かった。

 父から娘だけでも、と藍里との面会要請もあったがさくらは拒否をした。

 清太郎をはじめ、地元の友達とも連絡が取れない、越した先の中学校、高校では馴染めず友達ができなかった藍里。

 だが父から離れ、一年で離婚が決まったあとのさくらは少し穏やかになっているのを見て良かったのか……と思うしかなかったのであった。

 父といたさくらは表情は暗く、笑わず何か伺うような顔、藍里に対しても八つ当たりをしていたのだが今ではとても穏やかで、化粧もするようになって全く別人な女性になったことに藍里は驚いていた。

 さらにさくらの仕事の関係で愛知に移り住み、ここ最近はもっと美しくなったことに気づいたのは同性だからなのか。

 さくらはよく笑う、機嫌も良い。

 藍里は一人で家にいることはもう慣れていた。勉強はできた彼女は新しい高校にテストで合格した。
制服の一式を学校のご厚意でいただき、真新しい制服に腕を通した。

 母のさくらが変わったのなら自分も変わらなくては……姿見を前にそう誓った藍里だった。

 そんな最中にさくらが帰ってきたのだ。
「帰ったよー」
 声がいつもよりも明るい、それにも気づいた。

 予感は的中した。さくらの横にとある男性が立っていたのだ。

「藍里、彼氏連れてきた」
 にかっとさくらが笑う横にその若い男性も笑った。

 藍里はその男性の微笑みにドキッとした。久しぶりの感覚、いや今までにない心臓の昂りに戸惑った。

 その彼氏、時雨《しぐれ》くんとさくらに紹介されてから時雨くんと藍里も呼ぶ。
 さくらよりも6歳年下で三十四歳、(藍里にとっては10いくつ近く上になる)背は藍里と同じくらいの166センチ。少し童顔で実年齢には見えないが最近の流行は知らないようで、その辺りが三十四歳だなと藍里は感じた。

 なんと時雨がその日から一緒に住むことになったのだ。
 今まで女二人の生活に見知らぬ若い男性。父親とも最近暮らしてないし、神奈川での転校先の学校では男子とも馴染めず、男性とろくに喋ることはしばらくなかった。

 時雨はもともとは名古屋の料亭で働いていて、そこでさくらは出会って一目惚れして付き合うようになったとのことだが、その直後に料亭は経営不振で潰れて住み込みで働いていた時雨が宿なしになってしまったところをさくらが助けたのである。

 もちろん時雨はさくらの部屋で寝起きする。しかししばらく仕事先が見つからず、なおかつさくらが仕事でいない時が多いため料理や家事が得意な時雨が受け持つことになり、お小遣い付きの家政夫として雇われたという形になったのでほぼ家に時雨がある状態。

 つまり藍里はさくらよりも時雨と過ごす時間が多くなるというわけである。
かといいつつも藍里はさくらのことを援助するためにアパート階下にあるファミレスの厨房で働いてた。

 ウエイトレスの可愛い服を着たかったがそれを横目に奥の厨房で夏休み中は皿洗いから始まり、夏休み終わる頃にはメニュー全て食べ尽くし、覚え、盛り付けや仕上げも任せられるようになるが、家事を手伝ったり料理はしたことが無く、あまり上手くいかず……夏休みは与えられた課題をするなどで受験前の高校2年生の夏休みは終わってしまった。

 そんな藍里のそばには時雨は毎日いたし、昼のファミレスの賄い以外は時雨の料理を食べていた。

 見た目も綺麗で、美味しい、そして手際良い彼の料理に藍里はすっかり胃袋を掴まれ、優しく微笑み勉強を教えてくれたり、愚痴を聞いてくれる時雨に心も掴まれていた。


 でもあくまでも時雨はさくらの彼氏である。時間が不変動なさくらの仕事。
夜遅くに仕事して朝早く帰ってきて疲れて帰ってきた時、藍里はまだ寝ていたがドアの音で帰ってきたのはわかっていた。

 少ししたあと、藍里はリビングに行く手前でドアノブを回すのをやめた。

 リビングにさくらと時雨が2人でいる。時雨がさくらに甘えていた。それに応えるようにさくらも甘い声を出す。

 昨晩、藍里と時雨二人でゲームして過ごして笑いあってたあのソファーでさくらと時雨は愛し合ってるのだ。

 そこで藍里は時雨はさくらのものだ、と気付かされる。

 部屋に戻って布団をかぶると心臓がバクバク言ってることに気づく。まだ藍里には男女の深い関係どころか甘い関係を経験したことはない。ドラマや映画、漫画でしか知らない。
 そしてさくらがあんなに父に体を触られて拒絶していたのに今では時雨に体を許し、甘い声を出している、彼女も大人の女であるのかと。そして時雨のあの声も……聞いただけで何か身体の部分が熱くなる。

 1時間経ってからそろそろいいかと藍里はわざとドアを音が鳴るように開けて足音も大きくリビングに向かう。まだ二人一緒だったら……。

「おはよう、藍里ちゃん。朝ご飯できてるよ」
 屈託のない笑顔の時雨くん。ふとリビングのソファーを見る。二人はあそこで……なんぞ思いながらもダイニングの上に置いてあるホットドックとコーンスープとサラダ。

 さくらと混ざり合った後に作ったのか、複雑な気持ちでまずコーンスープを飲む。

「ママは?」
「さくらさんは寝てるよ。今日もお昼まで寝てるらしい」
「そうなんだ。じゃあ起きたら私はいつもの時間に上がるよって言っといて」
「わかった。伝えとく」

 と時雨もホットドッグを齧る。すこし粒マスタードの辛味が舌に来たが、今まで知らなかった時雨の大人の男な部分を知り、藍里は下の中はとても辛味と苦味が混ざる。

「辛かったかな……粒マスタード」
「……うん。でもこれがあるから美味しさ引き立つのかな」
「高二でこの美味しさ知っちゃったな」
 ニカっと笑う時雨。そして何かに気づき、藍里の口元に指を近づけた。
 時雨の右人差し指が藍里の口の端についた粒マスタードを掬い、そのまま自分の口に入れた。

 その仕草に藍里はドキッとした。
「……付いてた」
時雨も藍里のことを見ていた。なんとも言えない空気感が二人の間に流れる。

 それは一般の高校生が夏休みに入る前だろうか。藍里と母のさくらが神奈川から愛知のとある市のマンションに越してきたばかりのことだった。

 さくらの職場の同じ系列先から引き抜きがあり、なんと地元の岐阜の隣であった愛知県だったのだ。
 その会社の所長の妹がマンション経営をしていてそこの一室を紹介してくれたのだ。

 5階建ての最上階角部屋。それもこれもさくらが仕事で上の人から気に入られたから、とのことだが一階が某チェーン店のファミレスともあって夜まで良い言い方をすれば賑やかである。

 築数もそれなりに経ってるが2LDKでトイレ風呂別と母と娘二人暮らしには贅沢ではある。あれやこれやらのワガママは言ってられないものだが……。

 他にもこの2人にはとある事情があるからだ。


 母娘2人で生活するようになったのもこの5、6年のことで、それまでは岐阜で父母娘という典型的な3人の核家族で過ごしていた。
 と言っても藍里の父親は正社員の仕事の傍ら趣味の演劇サークルの主催をし、なおかつ藍里自身も子役として小さい事務所に所属をして稽古やオーディションを受けていて、さくらはマネージャーとして駆け回っていた。

 しかし家族でせっかく集まれたかと思うと父はさくらのやることなすこと全てを否定し、完璧にやってもアラを探してほじくり返すことをしているため、常に家庭の中はピリピリしている。怒られないよう、いびられないよう、さくらは耐え続けている姿を藍里は目の前で見ていた。

 かと言って父は藍里に対しては優しく接していたのであったため、彼女はそこまで父のことは怖いとか嫌だとかは思っていなかった。

 ただ、家族で集まるあの空気感が嫌いだった。

 しかしその生活は急に変わることになる。数日前から見知らぬ女性2人がやってきてさくらと話をしているのだ。
 まだ小6であった藍里は何か深刻な話をしている、それだけはわかっていた。

 その数日後。
「今から荷物まとめなさい。修学旅行で使ったキャリーケースに必要なものを、いい?」
 藍里は突然そんなことを言われてもわからず、狼狽えている最中、さくらがキャリーケースを出して開き、藍里と共に荷物を入れた。

「ママはもう用意したからあんただけ。あ、それは要らないわよ。本当に必要なものだけ」
 漫画本やぬいぐるみはキャリーケースから捨てられた。

 そしてキャリーケース以外にも普段使っているカバンに貴重品や通帳、他にももう一つ大きなカバンに下着類を詰め込まれて一時間で終わらせ、家から出て車に積んだ。

 これは父がいない間の夕方に行われた。

 藍里は訳もわからず車に乗る。ふとその時頭によぎったのは……清太郎のことだった。



 それからは藍里は小4の頃から持たされていたスマホは使えなくなり、4年間見知らぬ土地……神奈川のとある社宅に身を寄せていた。さくらは仕事と離婚の手続きのために家を留守にすることが多かった。

 父から娘だけでも、と藍里との面会要請もあったがさくらは拒否をした。

 清太郎をはじめ、地元の友達とも連絡が取れない、越した先の中学校、高校では馴染めず友達ができなかった藍里。

 だが父から離れ、一年で離婚が決まったあとのさくらは少し穏やかになっているのを見ることができて良かったのか……と思うしかなかったのであった。

 父といたさくらは表情は暗く、笑わず何か伺うような顔、藍里に対しても八つ当たりをしていたのだが今ではとても穏やかで、化粧もするようになって全く別人な女性になったことに藍里は驚いていた。

 さらにさくらの仕事の関係で愛知に移り住み、ここ最近はもっと美しくなったことに気づいたのは同性だからなのか。

 さくらはよく笑う、機嫌も良い。

 藍里は一人で家にいることはもう慣れていた。勉強はできた彼女は新しい高校にテストで合格した。
制服の一式を学校のご厚意でいただき、真新しい制服に腕を通した。

 母のさくらが変わったのなら自分も変わらなくては……姿見を前にそう誓った藍里だった。

 そんな最中にさくらが帰ってきたのだ。
「帰ったよー」
 声がいつもよりも明るい、それにも気づいた。

 予感は的中した。さくらの横にとある男性が立っていたのだ。

「藍里、彼氏連れてきた」
 にかっとさくらが笑う横にその若い男性も笑った。

 藍里はその男性の微笑みにドキッとした。久しぶりの感覚、いや今までにない心臓の昂りに戸惑った。


 その彼氏、時雨《しぐれ》くんとさくらに紹介されてから時雨くんと藍里も呼ぶ。

 さくらよりも6歳年下で三十四歳、(藍里にとっては10いくつ近く上になる)背は藍里と同じくらいの166センチ。少し童顔で実年齢には見えないが最近の流行は知らないようで、その辺りが三十四歳だなと藍里は感じた。

 なんと時雨がその日から一緒に住むことになったのだ。
 今まで女二人の生活に見知らぬ若い男性。父親とも最近暮らしてないし、神奈川での転校先の学校では男子とも馴染めず、男性とろくに喋ることはしばらくなかった。

 時雨はもともとは名古屋の料亭で働いていて、そこでさくらは出会って一目惚れして付き合うようになったとのことだが、その直後に料亭は経営不振で潰れて住み込みで働いていた時雨が宿なしになってしまったところをさくらが助けたのである。

 もちろん時雨はさくらの部屋で寝起きする。しかししばらく仕事先が見つからず、なおかつさくらが仕事でいない時が多いため料理や家事が得意な時雨が受け持つことになり、お小遣い付きの家政夫として雇われたという形になったのでほぼ家に時雨がある状態。

 つまり藍里はさくらよりも時雨と過ごす時間が多くなるというわけである。
かといいつつも藍里はさくらのことを援助するためにアパート階下にあるファミレスの厨房で働いてた。

 ウエイトレスの可愛い服を着たかったがそれを横目に奥の厨房で夏休み中は皿洗いから始まり、夏休み終わる頃にはメニュー全て食べ尽くし、覚え、盛り付けや仕上げも任せられるようになるが、家事を手伝ったり料理はしたことが無く、あまり上手くいかず……夏休みは与えられた課題をするなどで受験前の高校2年生の夏休みは終わってしまった。

 そんな藍里のそばには時雨は毎日いたし、昼のファミレスの賄い以外は時雨の料理を食べていた。

 見た目も綺麗で、美味しい、そして手際良い彼の料理に藍里はすっかり胃袋を掴まれ、優しく微笑み勉強を教えてくれたり、愚痴を聞いてくれる時雨に心も掴まれていた。


 でもあくまでも時雨はさくらの彼氏である。時間が不変動なさくらの仕事。
夜遅くに仕事して朝早く帰ってきて疲れて帰ってきた時、藍里はまだ寝ていたがドアの音で帰ってきたのはわかっていた。

 少ししたあと、藍里はリビングに行く手前でドアノブを回すのをやめた。

 リビングにさくらと時雨が2人でいる。時雨がさくらに甘えていた。それに応えるようにさくらも甘い声を出す。

 昨晩、藍里と時雨二人でゲームして過ごして笑いあってたあのソファーでさくらと時雨は愛し合ってるのだ。

 そこで藍里は時雨はさくらのものだ、と気付かされる。

 部屋に戻って布団をかぶると心臓がバクバク言ってることに気づく。まだ藍里には男女の深い関係どころか甘い関係を経験したことはない。ドラマや映画、漫画でしか知らない。
 そしてさくらがあんなに父に体を触られて拒絶していたのに今では時雨に体を許し、甘い声を出している、彼女も大人の女であるのかと。そして時雨のあの声も……聞いただけで何か身体の部分が熱くなる。

 1時間経ってからそろそろいいかと藍里はわざとドアを音が鳴るように開けて足音も大きくリビングに向かう。まだ二人一緒だったら……。

「おはよう、藍里ちゃん。朝ご飯できてるよ」
 屈託のない笑顔の時雨くん。ふとリビングのソファーを見る。二人はあそこで……なんぞ思いながらもダイニングの上に置いてあるホットドックとコーンスープとサラダ。

 さくらと混ざり合った後に作ったのか、複雑な気持ちでまずコーンスープを飲む。

「ママは?」
「さくらさんは寝てるよ。今日もお昼まで寝てるらしい」
「そうなんだ。じゃあ起きたら私はいつもの時間に上がるよって言っといて」
「わかった。伝えとく」

 と時雨もホットドッグを齧る。すこし粒マスタードの辛味が舌に来たが、今まで知らなかった時雨の大人の男な部分を知り、藍里は下の中はとても辛味と苦味が混ざる。

「辛かったかな……粒マスタード」
「……うん。でもこれがあるから美味しさ引き立つのかな」
「高二でこの美味しさ知っちゃったな」
 ニカっと笑う時雨。そして何かに気づき、藍里の口元に指を近づけた。
 時雨の右人差し指が藍里の口の端についた粒マスタードを掬い、そのまま自分の口に入れた。

 その仕草に藍里はドキッとした。
「……付いてた」
時雨も藍里のことを見ていた。なんとも言えない空気感が二人の間に流れる。
 その時
「喉乾いちゃったー。藍里おはよ」
 と、さくらが上はスエットで下はショーツだけという姿で現れた。藍里にとってはこんな母の姿は見たことがなかった。

 女二人の生活でさえもこんな姿はしなかったのに時雨が来てからというとさくらはとても笑い、微笑み、そして男の人に甘える。
 前の夫に対しては笑いもせず、いつも怯え、顔色を伺い、よく泣いていた。

 藍里はこんな顔をするのかと驚くばかりである。化粧も彼と付き合った頃からであろうか、上手になっていき髪型も服装もそれなりによくなっていく姿を見ると恋をしたらこうなるのか、では前の夫に対しては恋もなかったのかと不思議になるものだ。

 だがいくらなんでもスエットにショーツという姿、ノーブラでもあるその姿は流石に気が緩みすぎている、だが先ほどリビングのソファーで時雨と絡み合って甘い声を出していたさくらのことと重ねるとその姿はとてもセクシーに感じ、目のやり場に同性であっても戸惑ってしまう。

 やはり親の性に触れるとどうしたもんだか、なんかモゾモゾと感じてしまうのだろう、そして前の夫から藍里の目の前でやられていたボディタッチやハグやセンシティブな箇所を触る行為、すべてさくらは嫌がっていた。子供の前だからやめて、触るのをやめてと拒否している姿を藍里は目に焼き付けていた。

 あんなに嫌がっていた母親が今では別の男に抱かれても抵抗なく、そしてこんな露わな姿を娘に見せられるのはなぜなのか、藍里の中でぐちゃぐちゃと複雑な感情が生まれる。

「さくらさん、下のズボンは?! 藍里ちゃん見てるし……」
 かなりの慌てようの時雨は慌ててさくらのところに行き、近くにあったブランケットを彼女の腰に巻きつけ高校2年生の多感な藍里のために隠した。

「そんなことしなくてもいいの。私は水が飲みたい」
 と甘える。家事も料理も掃除も時雨に甘えっぱなしのさくら。
 前の時は家事に対して手を抜けなかった。料理も掃除もすべて前の夫が厳しくチェックされていたのだ。

 完璧にやっても粗を探られる。少しでも楽をしようとするのであれば論破されて正される。さくらが怯えてたりしていたワケはこれに一致するものだが、彼女は総じて家事が得意でなく、ずっと苦労していたようだ。
 母娘二人暮らしの時でさえもうまくできずにすぐ部屋は汚くなり、料理もインスタントを使うようになった。前の夫のときには絶対使わなかった。

 無理をしていたのだ、さくらは。

 藍里自身もさくらから教わることもなくここまできたが、バイト先で調理補助がうまくできなかったときに
「お前は親の手伝いをしなかったからできないんだ」
 となじられて苦しくて悔しい思いをしたことがあった。何度も練習はしたができないとなるとさくらと同じくどうやらうまくでにないようだ。

 その時ばかりはさくらを憎みたくなるものだが、そんなことしてもどうにもならないと藍里は胸にしまった。

 家事をしなくなったさくらはなぜかのびのびとしてて穏やかで自分に負の感情を当てられないと思えばまだいいか、と。

 そしてさくらは水を飲んだ後また部屋に戻って行った。
「……時雨くん、優しいよね」
「そうかな。あ……コーヒー持ってくるよ」
 少し頬を赤らめている時雨ば台所に行った。

「そういえば藍里ちゃん、もう少ししたら学校だね。前、かわいい制服着てたけどあそこはこの辺ではいい学校って聞いたよ」

 台所からそう話しかけられる。時雨は二人が初めて会った時に藍里が着ていた制服を、覚えていたようだ。

「そうなんだ。聞いたことなかったけど制服とか色々とくれたから」
「そこか、まぁすごいよね。2年生からでも受け入れてくれるとかいい学校だと思うよ。大学もいいところに進学してる確率高いし」

 大学……と藍里は口に出した。

「藍里ちゃんは将来何になりたいの? そいやあまりそういうこと聞いたことがなかったなぁって」
「将来かぁ」

 いきなり全てを捨て何もかも失い、将来よりも明日、いや今をもがいて生きていた彼女には将来についてしばらく考えていなかったと。目の前にコーヒーを出してもらい、猫舌な彼女はゆっくりと啜る。

 コーヒーが飲み終わるまで答えはできなかったが、過去に抱いていた夢は思い出した。


 女優になりたかった、ことを。
 藍里は実は赤ん坊の頃から子役モデルとして活動していた。最初は親のエゴであったが、子供の頃から芸能界という中で過ごすのは彼女にとっては当たり前で日常的であってずっとその中で生きる者だと子供ながらに思っていた。

 アマチュア演劇で活動する父とその彼と同じサークルの後輩であった、さくらも実は演劇経験者で結婚と同時に役者を諦めて、娘である藍里に全てを託した。そのためマネージャー業も徹していた。

 藍里はとある劇団で舞台女優として活躍するさくらの映像を見せてもらった時に
「私も女優さんになりたい」
 と言った。裏役に徹して化粧っ気もなく地味になった母親が自分の知らない時に華々しい美しい見たこともない表情や声で活躍する姿は別人のように見えたが、すごく憧れでもあった。

 子供だからと多くの大人から可愛い可愛いとチヤホヤされつつも、子役として活躍して成功するのはほんの一握りで、藍里のこれといった大きな仕事はあまりなく、地元のスーパーの広告だったり、ドラマのエキストラや他の有名な子役を引き立てる生徒役だったり、バックダンサーだったり。
 唯一、全国区で流れた一つのCMがあるが半年後にその会社が倒産してしまい、終わってしまった。
 そして藍里が小学生に上がった頃に同じくして所属事務所が潰れて藍里の芸能人生はあっという間に終わりを迎えるのであった。

 それ以来は普通の小学生として過ごしていた。彼女が子役だったことを知る人はほんの僅かで、演劇の時間であっても藍里は目立とうともしなかった。

 しかし夢は心の中に残していた。だがじしんの女優の夢も、娘の夢も手放したさくらの前では言ってはいけないと子供ながら思っていた藍里は黙っていた。

「僕のね夢は店を出すことなんや」
 過去のことを思い出していた藍里は時雨のその一言で一気に現実に戻った。

「料理屋さん?」
「そう。……実家で母さんが居酒屋やっててそれを手伝ってるうちに料理が楽しいって思えてさ」
「すごく美味しいもん、時雨くんの料理」
「ありがとう。母ちゃんや一緒に働いてたおばさんのを見よう見まねでやっとったんやけどさ、もっと上手くなりたいって思ったから前の料亭に住み込みで10年働いてたん」
「10年も!」
「なんだかんだでね……お金貯まったら、と思ってるうちに居心地良すぎて。店の雰囲気も大将やみんなといるのが楽しいし勉強もなったん」

 ニコニコと語る時雨。こんなに愛嬌があったら多くの人に可愛がられるのも目に見える。そんなふうに藍里は思ってた。

「仕事以外でも料理はしてたの?」
「うんうん、住み込みでもあったけどさ。今日は誰が賄い作る? 朝ごはん作る? って。実家の時も忙しい母ちゃんと一緒に家事や料理もしとったんや」
「だから家事もテキパキできる……」
「下に弟おってな。2人で一緒にな」
「男の人なのに家事とか料理するのね」

 と、藍里が言うと時雨はン? という顔をした。

「んー、家事料理は男女も関係ないよ」
 再びニコッと笑う時雨。

「好きな人がやればいい。僕は好きだった」
「でも好きじゃない人は?」
「んー、それはみんなで協力すればいい。それでもダメならそういうサービスに頼るのもよし」
「お金かかるよ……何回か頼まなきゃいけないことがあってさ、ママが倒れた時」
「ほぉ」

 藍里はその時のことを思い出した。まだ離婚する前だった頃か。さくらがメニエールで倒れてしまったのだ。父親は仕事が忙しく、家事は全くしない、近くに彼の両親がいたが当時両方とも体調が悪くその時ばかり助けられないと言われ、藍里もまったく家事も料理ができない小学生であった。
 さくらはしかたなくこっそりハウスキーパーを雇うがバレて怒られていた。

「こんな高い金使うな!」
 床に落ちていたチラシを見たら確かに数字がいくつも並んでいた、と覚えている。

 父親は母親が倒れてどうする、倒れてでも最低限のことをしろと言っていた。
 実の所、さくらが結婚と同時に演劇を辞めたのも家事に専念して欲しいからとのことだった。だが父親の仕事があまり軌道に乗らなかったからさくらも仕事をしようとしたが社会人を経験せずに結婚したため上手くいかず、藍里に託したのもあるのだ。

 全てをさくらに押し付け家庭を顧みない父親、さくらに家事の不出来をなじる大きな声、さくらの啜り泣く声、そのストレスを藍里にぶつけるかのようにヒステリックに叫ぶ声……。

「藍里ちゃん? どしたの」
「……何でもない」
 また現実に引き戻された藍里。忘れたと思っていたがやはりふとした時に思い出す。

「でも誰もやれなかったらお金出してでも誰かに頼ってもいいんだよ。僕はそう思う。てか僕ってそうじゃない?」
 そういえば、と。時雨くんはさくらにこの家に住まわせてもらって家事料理全部やっているのだ。藍里は笑った。

「でしょ。でもお金だけじゃないよ。2人が楽しそうにニコニコとしてるのを近くで見られる、それも活力になってる。ありがとう」

 ありがとう、家事や料理を全部やってもらい、自分が反対に率先して言わなくてはいけないのに……と藍里はふと思う。

 時雨が来てからさくらは笑うようになった。ヒステリックに叫ぶことはなかった。

 そして自分も笑うようになった……と。

「ありがとう、時雨くん」
「どういたしまして」

「久しぶりやな」
「だね」
「うわ、喋りがやっぱ都会の人間になっとるわ」
「そう? 神奈川にいたのも三、四年だし」
 休み時間、級長である清太郎に学校案内してもらう藍里。
 久しぶりの再会である清太郎との会話も弾む。

「まぁここ愛知やからな、名古屋弁移るよ」
「岐阜弁もさ、名古屋弁に影響されとるやん」
「あ、出た。藍里の岐阜弁」
「えへへ」
「えへへはちゃうって……」

 2人は何となく照れくさい。それにあまり距離は縮めてしまうと周りからカップルと思われてしまうのも嫌なのか清太郎は少し距離をとる。それを読み取り藍里も少し離れる。

「そいや宮部くん、ここまで電車で通ってるの?」
岐阜から通えない距離ではないし、清太郎と同じく県外からの生徒も多数いる。地元にも高校はいくつかあるのだが、なぜか彼は隣の愛知県に通学しているのに少し藍里は気になっていた。

「あ、一年の途中まではそうやったけどさ。こっちに親戚がおってな。母ちゃんのお姉さん夫婦。一度大雨あった時に泊まらせてもらって、そこから通った方が楽ってわかってさ、夏休み明けからそうしてる」
「え、家族の人はいいって言ったの?」
藍里は清太郎の家族とは顔見知りで、特に母親同士仲良かったが、それでもさくらは清太郎の母親に連絡もしないままであった。

「……まあな。おばちゃんちはもう子供大きいから部屋空いてるし面倒見たがりだから。それに実家から出たかったし」
「お母さん……寂しがってなかった?」
藍里の記憶の中での清太郎の母親は上に女の子、そして次の清太郎の2人の母親で、特に甘えん坊だった清太郎を特に可愛がってるのを覚えていた。

「……べつに。それに父ちゃんは単身赴任中やし、姉ちゃんと女2人きり気楽にやっとるやないの?」
「お姉ちゃん怖いもんね」
「そやそや……うるさいから。ってそれ聞いたら怒るでー」
「ごめんごめん」

 するとすれ違った女子生徒2人が藍里たちを見てコソコソ話している。
 恋人同士と間違えられたのだろうか。2人は少し話すトーンを抑えた。

「それよりもお前の母ちゃん、元気か」
「えっ……」
「うちの母ちゃん、心配しとるんよ」
「まぁ元気にしてるよ」
「ならええけど。お前たちいなくなってから母ちゃん、しばらく病んだんや」
 藍里は言葉を失った。自分達がいなくなったことで心を痛めた人がいるとはと。

「僕も心配やった、めっちゃ……でも母ちゃんはお前の母さんの悩み全部きいとったのに助けてやれんかったって」
「……そうだったんだ。ごめんね」
「謝ることはないし、母さんには言わんといてや。まぁ大人たち同士のことは僕らにはどうもできんけどさ」
 学校案内とかいう名目で久しぶりの再会の会話になるが、そのようなことを聞くとは思わなかった藍里。

「……あとこれ言うのもアレやけどさ。お前の父ちゃん、すごいよな……て父ちゃんじゃないか」
「ああ、そうね。いつかは言わなきゃと思ってたし。離婚したんだよね。それからお父さん東京に行って劇団に引き抜かれて……」
「今じゃプライムタイムで主役級、コマーシャルもたくさん」
「たしかに……」

 そう、藍里の父、さくらの元夫は地方の劇団員から東京の大手劇団に移り、テレビに引っ張りだこの俳優、橘綾人である。

「地元では有名でお祭り騒ぎ」
「なんかもどかしいというかこっぱすかしいというか」
「……離婚しても父さんは父さんでしかないのか、藍里にとって」

 藍里は頷いた。優しくて面白くて背が高くスタイルも良く世間で言うイケメンな父。だが仕事のストレスをさくらに当たる昭和男で、子供の前平気でさくらに対するセクシャルなことを嫌がってるのにも関わらずする一面を目の当たりにしていた彼女は複雑でもある。

「そっか。あ、一応案内は終わりだけど……一緒に帰るか? 部活動は基本自由なんや。塾とかバイトとか行ってる人が多いし、スポーツは優待生メインだしね」
「……私もバイトしてるからもう帰るよ。案内ありがとう」

 すると清太郎が藍里をじっと見た。
「なら一緒に帰ろや」
 自分よりも少し背が高くなり大人びて声変わりした彼に対してドキドキさせられる。
だがここ最近もこんなドキドキをしたばかりだったのに、と思いながらも

「うん」
 と頷く藍里であった。
 2人は学校を出る。藍里は男女2人で帰るのは少し恥ずかしさを感じたが、他にも数組ほど男女で帰ってるのを見てまぁいいかと。

 それよりも幼馴染との再会が嬉しい。
「そいや家はどっちなん」
「あっ……」
 藍里は思い出した。母との約束を。友達やクラスメイトには家を教えないことという。

 一応離婚をしたのだが、一度逃げた神奈川の移住先を父や祖父母たちに乗り込まれてさくらは大変な目にあったと。そのとき藍里は地元の小学校に通っていたから話しか聞いていないが。
 現に父親や祖父母には今は会っていない。離婚が正式に決まる前に会っただけである。

 別にバレても問題はないのだが、さくらはあの時の見つかった時のことをトラウマになっており、時折逃げていた時のように怯えたりフラッシュバックを引き起こすのか鬱になるのを藍里は見たことがあった。

 だから極力教えないで、と。そしてバイト先は住んでる所の下にあるファミレスだが、当初はウエイトレスを頼まれたのだが同じ理由でさくらは店に対して店に出る仕事だけはやめてほしい、と頼み込んで渋々調理担当にさせてもらえたと言う。

「ごめん、そういう理由で……教えられないの。途中まで、あそこの角まで」
「……そうなんか。わかった。僕もこう一緒に帰ろうっていうのもあれだったな」
「ううん。大丈夫。クラスでもまだ馴染めないし、知ってる人がいるだけでもホッとするよ」
 最初は互いにワクワクしていたのだが事情を伝えていくうちに2人の中は重い空気になる。いつかはわかってしまうことで、隠し事したくても隠せない藍里。

 でもそれをしっかり飲み込んでくれる清太郎に、昔と変わらずなんだかんだで優しいとさらにドキッとさせられてしまう。
 こうやって女性に優しいのは彼の姉が女の子は大事にしな、という厳しい言いつけがあるからだ。

 そしてなんだかんだであっというまに藍里の言った角まで着いてしまった。

「……じゃあ気をつけて帰れよ。ぼくんちはあのすぐそこにある弁当屋、あそこがおばさんたちの店で店舗も構えてる。空いた時間には配達とかしてるから、なんかあったら朝こいよ」

 実のところ、藍里もあの弁当屋の前を通る。でもこの角までと言ったからにはそれは伝えられない。

「電話番号だけでもええやろ。何かあったら電話しろ。あと裏には弁当屋の電話番号あるし」
 と、その場で弁当屋のフライヤーに清太郎は電話番号を書いて藍里に渡した。

「……ありがとう」
「じゃあ、また明日な」
「うん」
 と、清太郎の後ろ姿を見て見えなくなってから動こうと見ていた所だった。

「百田さんー、見てたよー」
 藍里は振り返ると数人の女子たちがいたのだ。クラスメイトたちだった。

「ねえねえ、宮部くんとすっごい仲いいけど……幼馴染って本当?」
「あ、うん……」
「ねぇ、あんなに仲良いなら付き合っちゃいなよ」
「いや、それは」
 藍里は女子たちに囲まれる。

「ごめん、バイトがあるから!」
 と走り去った。すごく顔が真っ赤になってるのはわかる。もうなにがなんだかで、すっかりわすれて清太郎の弁当屋の前を走ってしまった。

「あれ? 藍里?」
 声をかけられたのもわからないほど藍里は走った。

 そしてマンションまで辿り着くとエレベーターに乗り、べたんと座り込んでしまう。

「……彼は幼馴染よ、ただのっ」
 息を切らしてもまだドキドキは止まらなかった。

 ピンポン

 5階に着く。息も絶え絶え。なんとか部屋にたどりつき、ドアを開けた。

 いい匂いがする。きっと時雨が仕事から帰ってくるさくらのためにご飯を作っているのだろう。さくらも走って疲れて食べたいとは思ったが、今日はバイト先で賄いを食べる予定だった。

「あら、おかえり。すっごい髪振り乱して何かあった?」
 台所からぴょこんと顔を出す時雨。

「ただいま……美味しそうな匂い」
「ありがとう。エビチリ作ってるんだけど、食べる?」
 確かにトマトケチャップの匂い、ニンニクの匂いもする。それらがきっとこの美味しそうな匂いなのだ。

「食べる!」
「少しニンニク多めにしちゃったけど……服着替えたら味見して欲しいな。今日バイトでしょ」
「うん。じゃあ今から着替えてくる」
 そのあとエビチリを味見するどころかたくさん食べてしまった。
 今まで食べたエビチリよりも全然味が違う、と感動してしまった。少しニンニクの匂いが強いが。

 藍里は時雨のことが好きなのはこの彼の料理の腕前もあるかもしれない。
 気もそぞろもあってか、バイト中に皿を一枚割ってしまった藍里。

「本当は、君はそそっかしい……」
「すいません」
 調理担当の男性社員沖田はいつも一言多く、厳しい。
「せっかく可愛い顔してんだからウエイターの方行ってニコニコ注文とってりゃーいいやん」
 それはできない藍里。表に立つ仕事はするなとさくらに言われてる。

「まぁそっちでも注文ミスとか皿割ったりしてもっと迷惑かかるか。そっちの方が会社の名誉に傷つく」
「すいません……」
「謝ってばっかじゃん、もういいよ」

 なにがもういいよかわからず、藍里は調理室から離れてスタッフルームに行った。
 女優の夢どころか将来の夢も持てず、バイトでは上手く仕事ができず、いろんなことに不器用な彼女はもう苦痛でしかなかった。
 そしてあの男性社員が父親と重なる。
 母親をなじるあの時の父の声と表情を思い出す。さくらもこんなに苦しかったのだろうか、あの時は全部さくらに当たられていたから感じなかったこの心の痛みが今になってわかっても遅い、と。

「百田さん」
 同じアルバイトの女子大学生の岸田理生が藍里に声をかけた。ウエイター担当で他の派手でシャキシャキとした人たちよりも大人しく落ち着いている。
 唯一藍里がバイト内で話せる相手でもある。

「さっきみてたけさっき見てたけどまた色々言われてたね。あんなの無視無視。バイトの雪菜と喧嘩してるし少し売り上げ下がってて本部からも怒られててカリカリしてるだけだから」
「ですよね、雪菜さんも機嫌悪くて」
 そう、男性社員だけでなく違う高校バイトの雪菜にもネチネチ裏で藍里のミスを指摘されていたのだ。

「雪菜にも言っておいた。私情を持ち込むな、それを人にあたるなって……まぁ百田さんも二ヶ月目だし少しずつ頑張ろうね」
「はい……」
「にしても沖田には気をつけてね。なんだかんだ百田さんにあたってるけど狙われているから」
「えっ」
 藍里は驚く。いつもなにかしら言いがかりをつけたり、粗探しして彼女にきつく当たっていたからよほど気に食わないと思われていたのだ。

「裏で他の男子バイトとか絶対百田さんの名前出るんだから。沖田が百田さんのことをベタ褒めしたから喧嘩して、それで雪菜も沖田も機嫌悪いってわけ」
 そんなことを全く知らなかった藍里はなんか自分がカップルの喧嘩の原因になってしまったのかと申し訳なさと自分が他の男性からうわさの的になるとは、しばらくはそういう環境でなかったのと自分の中では時雨と清太郎しかいなかったため、他の男からの目の存在は知らなかったことにモゾモゾとしてしまう。

「おい、百田さんいつまで休憩してんの。早く戻ってよ」
 噂をしてたら沖田が藍里を呼びに来た。理生は笑った。

「さぁ、行きなさい。……気をつけてね」
 なんの気をつけてかわからないが藍里は頷いた。多分世間知らず、とのことだろう。

 その後も理生から聞いたことのせいでさらに男性からの目が気になってミスが続き、その夜はヘトヘトで家に帰るハメになったのはいうまでもない。
 家に帰ると遅くなるはずだったさくらがリビングのソファーで横になっていた。毛布でくるまっている。スマホを触りながら。

「ただいま、ママ」
「おかえりなさい、藍里」
 気だるそうにしているのを見て藍里は察した。きっと生理だ、と。

「おかえり、藍里ちゃん……何か飲む?」
「うん、お茶飲む」

 わかった、と時雨は台所に戻った。さくらの口元を見ると少し赤くなってる。あのエビチリを食べたんだろうな、と思いながら藍里は一旦部屋に戻って部屋着に着替えてリビングに戻った。

 その頃にはもうお茶が置いてあった。
「ちょっと早く生理来ちゃったー。明日明後日休むわ……」
「わかったよ。無理しないでね」
「ありがとう」
 と目を伏せてもスマホには目を通しているさくら。
 何を見ているのかはあえて聞かない藍里。

 毎月さくらが生理になると大抵休みになる。生理休暇、と言ってて藍里は自分のバイト先にはそんなものが無いから羨ましいと思った。

「ごめん、藍里……薬持ってきて」
 顔色が悪いさくらに藍里は頷いて台所に行くと時雨が明日の弁当の準備をしていた。

「どうしたの?」
「ママが頭痛薬ほしいって」
「あー、ここにあるよ」
「ありがとう」
「つきのもの、きちゃったって……」
 時雨は「つきのもの」と恥じらいながら言う。藍里とさくらの母娘2人だけだったら「生理」とダイレクトに言うのだが男である時雨の前では流石にそうは言わない。

「うん……」
「辛そうだね、毎回……こればかりは変わってやれないけど出来ることはさくらさんの身体が少しでも楽になるようにサポートするしかない」
 よく見ると藍里が高校に持っていくお弁当だけでなく他にも器がある。きっとさくらのためのものだろう。
 鍋にはほうれん草、にんじん、コーン、玉ねぎ、鶏肉の入ったシチュー。

「ほうれん草は貧血にいいんだよ。女性は男性よりもより多く鉄分取らなきゃダメだからね。あと温かいスープだと体も温まる……」
「普通に美味しそう」
 バイト先でまかないをたべたのだが美味しそうな匂いについ食べたくなる藍里。

「味見する?」
「……え、いいの?」
「食べたい時に食べていいんだよ」
「太っちゃう」
「ははっ」
 時雨にシチューを注いでもらい、藍里はフーフーと何度も冷ましてから口につける。

「美味しい」
「でしょ。って市販のルーだけどさ」
「……そうなんだ」
「こだわればルーなくてもいけるけど、ルーがなんだかんだでいいと思う」
「うんうん」
 藍里は時雨とのこの時間がたまらなく好きだ。料理をする彼の横顔、こうやってお裾分けしてくれる、そして味見している自分をニコニコしながら見て、こうやって作ったんだよ、と嬉しそうに言う彼の笑顔が堪らなく好きなのだ。

「ねぇ、薬まだなの」
 藍里は現実に一気に戻された。毛布にくるまったさくらが台所まで来ていたのだ。

「さくらさん、寝てていいんだよ。さぁ薬飲んで。さっきエビチリ食べたから薬飲んでも大丈夫かな」
 時雨はすぐシチューのコンロの火を消してさくらの元に行き、リビングまで間寄り添って行く。それを見るとああ、時雨はさくらの恋人なんだ……と。

 苦しい、なぜか藍里は苦しくなった。胸の奥が。時雨に恋をしてから感じた苦しみ。胸の奥というか、お腹というか感じたことのない痛み。
 そう、あのときリビングで、まさしくこのソファーの上で2人が愛し合ってたとき、2人仲良く睦まじくしていたとき。
 思い出すだけで苦しくなる。

 藍里はコップに水を入れてリビングに行く。

「あ、水忘れてたよ。ありがとね、藍里ちゃん」
「いえ……」
 さくらが藍里をじっと見ている。元気のないさくらを見ると昔の表情のない彼女に似ているように感じる。

「藍里は生理しんどい?」
 時雨のいる前でその会話? と顔をするが答えないわけにもいかず。
「まぁしんどいけど薬飲めば大丈夫かな」
「ここ数年はさ、生理周期安定してたんだけどさぁ……」
 と話が進むたびに時雨は居た堪れない顔をしてコップを持っていくついでに台所に行ってしまった。

「ママ、時雨くんの前でこういう話やめようって言ったじゃん」
「ただ聞いただけじゃん」
 さくらは高校大学と女子校というのもあり、さくらとの接し方もそれの延長線上なもののようだ。

「……時雨くんと出会ってから生理周期整ったのよー」
「だからその話」
「藍里、高校でかっこいい人見つけたでしょ?」
「なっ……」
 それ以前に時雨が好きになったなんていえない。そして、幼馴染の清太郎がいたということも。

「共学なんだからさ、いい恋愛してホルモンあげれば肌艶も良くなるわよ。あ、ただしエッチなことはまだダメよ」
 さっきまで具合が悪そうにしていたのにニヤッと笑うさくら。

「さくらさん、横になってください。あとカイロをお腹と背中に貼るといいみたいだよ」
 時雨が頃合いを見てか部屋に戻ってきた。
 手には貼るカイロ二つ。今は春だというのに。

 女の子は冷やしてはいけない、さっきのシチューも……時雨はさくらのために一生懸命に調べたのかと思うと藍里はまた心の中、ちくんとした。