恋の味ってどんなの?

「何でここにいるの、宮部くん」
「……ごめん、昨日あれからお前の帰りつけてった」
 あっ、とクラスメイトに揶揄されて恥ずかしくてダッシュで清太郎の下宿先の親戚の弁当屋の前を走ったことを思い出した藍里。

 あれからかなりの距離があるのにつけてこられたのかと思うと自分のセキュリティが甘いと反省する。

「あと、下のファミレス……客として入った」
「えええっ!」
「おらんかったな」
「……私、調理担当で」
「あ、働いたったんか。バイトしてるんやろ? って聞こうと思ってたんやけど」
「しまった、認めてしまった」
 清太郎は笑った。藍里もつられて笑う。彼女は昨日はミスをして中で怒られていたが、まさか客として清太郎がいたのか、と思うとどこかで自分が作ったものがカレの口に入ったのかと思うと……苦笑いしかできない。

「あそこのウエイターさんたち、かなりピリピリしてて笑顔ないな」
「まぁ、色々あってさ」
「色恋沙汰?」
「……まぁそういうこと。てかわかるの」
「なんとなく」
 藍里は参ったなぁという表情で清太郎と学校までの道のりを歩く。

「ここまで学校と逆方向じゃん」
「んー、確かにだけど散歩と思えば」
「散歩って……てかストーカーだよ」
「人聞き悪いな。あっちって言いながら反対方向に帰るしさ。まぁ色々あったみたいだけどお前のこと守ってやれるの、俺だけだろ」


 ドキン


 藍里は似たような痛みを清太郎の言葉でも感じてしまう。生理痛なのか、なんなのか。

 時雨がいなければもうすぐにキュンとして朝からギュッという案件である。

「……なにぎざってるのよ。そんなキャラだっけ」
「るっせぇ。小学校の時に男子たちにちょっかい出されて泣いてたのを助けたのは俺だろ」
「そうだったけど……」
「そうやら」
「そうでした」
 清太郎はスタスタと歩いていく。

「待ってよ、待って」
「なんだよ、さっきはストーカーとか言って」
「ごめん、ストーカーは言いすぎた」
「罰として走って学校まで行くぞ!」
 と走り出す清太郎。だが藍里は走れない。生理がきたばかりだから。体が重い。

「何だよー、走れ!」
 あっという間に遠くまで行く清太郎。

「歩いて行きたいー」
「ここまでだけでも走れ!」
「いーやーだー!!!」
 と藍里が叫んだ瞬間、下腹部から何かどろっとしたものが出たのがわかった。でもそれは吸収されるが不快感でしかなかった。下着の上から重ねて黒色の腹巻き型パンツも履いているのだがそこにもナプキンをセットして安心感を増しておく。
 生理の経血の汚れの失敗をしたくない、数年の経験が編み出した裏技でもある。

 清太郎は容赦ない。藍里は走らず出来るだけ歩数狭めに早く歩いていく。

「おーそーいっ」
「むーりー!」
「……今日は無理か」
「無理」
「わかった。藍里が走れそうな時は学校まで走るぞ」
「うん……て、これからも?」
 清太郎は頷いた。藍里は顔が真っ赤になる。彼がわざわざ学校とは正反対の家まで迎えにきて一緒に登校するということなのだ。

「歩くときは離れて」
「……まぁ、な」
 と2人を数人の生徒たちが通り過ぎていく。

「恥ずかしい」
「……顔真っ赤だ、バカ」
 そんな朝。
 やはり相当きつかった。いつもよりもこの一ヶ月間の中で一番しんどい日である。藍里は教室に入ってようやく着いた、とほっとするや否や昨日帰りに茶化してきたクラスメイトたちがやってきた。

「おはよ、やっぱり宮部くんと仲良いのね」
「おはよう、たまたま通学路が同じで……」
「って宮部くんの下宿先はすぐそこの弁当屋さんだから藍里ちゃんを待ってたんじゃないの」
 いつの間にか下の名前にちゃんづけで呼ばれてる藍里。それはさておき、実際は迎えにきてもらってる、が正しいのだがどうやらこの3人はその現場を見ていないわけでホッとしてるようだ。
 清太郎はというと隣のクラスの友人に呼び止められて話し込んでいる。

「宮部くんってどうなの? なんか紳士的だけどもなんかそこまで深く関わろうとしないし」
「藍里ちゃんは幼馴染でしょ? 何か知ってる? どこまで知ってるの?」
「どこまでって言われても、小学6年くらいまで近くに住んでいて……あ、お姉さんがいるわ。四つ上の」

 と話し出すと他の女子生徒も興味津々で藍里をいつのまにか囲むような状態に。

「えっ、お姉さんがいたことなんて知らなかったわ」
「私は聞いていたけど、4歳上は知らなかったー」
「お姉さんがいるからなにかと叩き込まれてたんじゃないかしら」
 となにやら清太郎の性格の裏側を検証するようなことを始め出している女子生徒たち。

「あの、なんでみんなは宮部くんのこと気になるの?」
 騒いでた女子生徒たちは藍里のその疑問でピタリと止まった。

「い、いやーさ、ねぇ」
「ねぇー」
 自分の幼馴染が女子たちの好意の的に当たってるのはもどかしい。子供の頃はそんなに清太郎はモテる方ではなかったが、今の背の高さや容姿の変化させたら少しは納得いくのか、でもそうでもないかなと。

「だから藍里は幼馴染として堂々思うの」
「どう思うって……子供のころはほんとヤンチャで、あと正直に言っちゃうし、猪突猛進だし、みんながこうキャーキャーいうのっておかしいって思うくらい!」
 藍里はそう言い切る。

「だーれがおかしいって?」
「あっ……」
 クラスメイトはクスクス笑ってる。いつのまにか清太郎が教室に入ってた。

「その、ね……あのーみんながさっ!」
 クラスメイトたちは違う話題をし始めている。

「橘綾人の新CM見た? あのコーヒーのブランドってうちの自動販売機にあるからポスター貼られるかもね」
「東海地区限定のメッセージ嬉しかったよね。他の地区のファンが動画落ちてないかネットで大騒ぎ」
 藍里のことは無視していて、その内容も綾人の今朝のCMの話であった。

「……猪突猛進ですけども?」
「ごめん」
「事実だからいいけど。あ、先生来た。起立!」

 クラスの中に清太郎の声が響く。担任がやってきた。

「おはようございます!」
「おはようございます!」

 朝の会。みんなあんなに騒いでいたのになんであんなにもすぐ静かになるのだろう、藍里は不思議でしかなかった。

 前の行っていた神奈川の中学と高校はそんなにすぐ静かになるものではなかった。

「あ、百田さん……後で先生の所来て。宮部、号令。朝の会終わり」

「起立! 例! 本日もよろしくお願いいたします!」
「よろしくお願いいたします!」

 清太郎の声が本当によく通る、横から見る喉仏に惚れ惚れしている藍里。時雨はもう30過ぎた大人だから完全に大人の体だが、清太郎の少年から大人になる途中の体に藍里はドキドキしてしまうのだ、尚更。

「藍里」
「はっ、はい……」
 突っ立って清太郎を見ていた藍里。周りはクスクスと笑う。

「先生に呼ばれてんだろ」
「そうだった……」
 と、思った瞬間。何かどろっとしたものが下腹部から伝わる感覚。

「そうだった……」
 先生のところに行ったらトイレに行こう、そう思った藍里だった。
 藍里は担任の元に行く。後ろではクラスメイトの女子が笑っている。神奈川にいた頃の冷ややかな笑いとは違った、少しからかい気味だけども嫌な感じはしなかった。

「おう、すまんなぁ。出してくれた書類のことでな。親さんに渡してくれ。記名してないところがあってな。来週までに記入してくださいと」
「すいません」
「どうだ、こっちの暮らしは慣れたか?」
 担任は既婚者で机の上に家族の写真を置く、私情を持ち込む教師である。
 年齢は分からないが藍里と同じ歳くらいの女の子と少し小学生くらいの男の子、そして自分の妻の4人が仲良く肩を寄り添った写真を見るともしかしたら綾人と年齢が変わらないのだろうかと。
 42歳にしてはかなり老けこんでいるな、という藍里の考えである。

「……なんとか、やってます」
「そうか。バイトもして勉強との両立も大変だろうし。お母様も仕事しながら家事をするのも大変だろう。互いに協力してくれな。なんかあったらいうんだぞ」
「ありがとうございます」
 担任は百田家に料理と家事をする居候の男がいるだなんて全く知らないであろう。
 にしても話が長い、用事だけ聞いてトイレに行きたかった藍里は早く終わらないかと思ってしまう。

「何かあったらいつでも相談してくれ。無理はするな」
「ありがとうございます……失礼します」
 藍里は心の内で相談してもどうにもならない、と経験上冷ややかに思いながら一旦書類の入った袋を机の中に入れて、ナプキンの入った巾着をさっとスカートのポッケに入れてトイレに向かった。




 藍里はトイレから出ると清太郎が待ってた。
「びっくりしたー」
「おう、待ってた」
「またあとをつけてたでしょ」
「悪いかよ」
「……こんなにもストーカー気質とは思わなかった」
「言い方……っ。ちょっとお前に言いたいことあってさ」
 首を横に傾げる藍里。すると急に清太郎は彼女の腕を引っ張り、人のいないところまで連れていく。

「な、なによ」
 藍里が腕を払うと、すまんという顔をした清太郎だがすぐに真剣な顔になる。

「担任のことあまり飲み込むなよ」
「わかってる。当てにならない、何かあったらいつでも相談してくれっていう言葉」
「それなら話は早いけど」
「……いつもその言葉に騙されてきた」
「一体お前の数年間どれだけ闇なんだよ。担任のやろう、噂だけどシングルマザーの保護者の弱み握って身体の関係持つらしいから」
 という衝撃な情報。新しい場所に来てそう知り合いもいないが、先ほど見た担任の机の上の仲の良い家族写真は、と思ってしまう。

「ちなみにやつはここの学校に融資している会社の息子だからな……もみ消されてるから。お前の母ちゃん気をつけろ」
「……う、うん。多分大丈夫」
 ふと頭の中に時雨が思い浮かぶ。さくらには時雨がいるから大丈夫、そんな安易な考えだが弱い彼女は時雨がいなかったら優しくされただけであのドラたぬき担任に寄り添ってしまうのでは、という不安もよぎる。

「生徒とかに手を出してたらアウトだけどね」
「それは完全にアウトやろ。そもそも20以上も下の女の子には手を出したらあかんやろ」

 どきっ!

 と藍里は時雨のことを再び思い出した。時雨と藍里は20も離れている。もしこれから恋に落ちるとして2人の関係が始まったとしたら。
 2人が恋に落ちたら同意の上だからセーフかもしれないが、周りからしたら白い目で見られるのだろうか。

 もちろん2人の間にそんなやましい関係はないが2人で一緒にいる時間はかなり多い。

「ん、どうした。てか教室戻ろか」
「うん。書類の不備確認したいから」
 と教室にもどる藍里と清太郎。やはり2人で戻るとクラスメイトたちがニヤニヤ見てる。藍里は少し平気になった。それは清太郎が幼馴染であったし、昔も小学生の時だったが平気でいつも一緒にいたからなのか。

 席に戻って書類を出す。清太郎は横の席でそれを見ている。

 さくらの職業欄が「サービス業」と殴り書きされているだけであった。そういえば、と藍里はさくらがどんな仕事をしているのを具体的に知らない。
 日中はほぼいないし、週に1日くらい休んだかと思ったらすぐ夜に出たり、朝帰りだったり、月初は時雨が来てからは夜遅くから出てほとんどいなかったり、生理の日は休んで……。

 サービス業とは。

「サービス業ってなにがあると思う?」
「藍里のファミレスで働いてるのもサービス業になるけど飲食店勤務になるよな。それにお前は裏方だからなー。俺の弁当屋のバイト……あれもサービス業にも含まれるな。定義は広い」
 そう言われると一体何なんだと。

「そいや、藍里は進路とか決めてんの」
「……まだ」
「来月には進路相談あるから決めとかないとな。まだ時間あるから、じゃないと担任に勝手に流されるように適当な進路に導かれるぞ」
「それはやだ」

 藍里は言えなかった。女優になりたい、でもどうなればいいかわからないが。
 ずっと気怠さがある藍里。やはり生理なのか、彼女は貧血になりやすい。
 よくさくらが焼き鳥屋さんでレバ串を買ってくるがあれほど不味くて苦手なものはない。
 さくらは好んで食べていたが理解できなかった。
「嫌でも食べられるようになるけど今からたくさん食べておきなさい」
 と言われても食べたくなかった。パサパサしてまずい。

 授業中も集中できないくらいの気怠さ。お腹も痛い。

 学校も終わり、通学路を清太郎と歩く。歩くのも気だるいが家に帰ってもすぐバイトがある。
「今日、バイト先に行っていい?」
「えっ、まぁいいけど。私は出てこないけど」
「藍里が作ったもの食べられるやん」
「仕上げだけだから」
「それでもいい」
「変な人」
 清太郎は歩くのが早い。藍里は合わせるのが大変だ。まだお腹痛い。

 清太郎の話を半分ぐらい上の空である。子供の頃もこうして話して帰ったような、というのも思い出す。
「そういえば宮部くんのお母さん、お花まだ好き?」
 清太郎の母はガーデニングが好きで常に花を庭に埋め尽くしていた。

「おう、ここ最近はガーデニング講師をやっとる」
「すご」
「最初は近所の人で集まって教えてたけどだんだん広まって今じゃカルチャースクールでも教えてる。親父もいないからすごくのびのびしとるな」
「好きなことを仕事にできるっていいな」
「そやけど母ちゃんは『好きを仕事にするのはダメヨォ』って」
 と、清太郎は彼の母親の口調と仕草の真似をした。藍里は思い出した。かなり特徴のある喋り方だったと。
 正直さくらのことで病んでしまったというがそんな人に思えないほどポジティブでシャキシャキしていた。

「似てる……懐かしいなぁ」
「まぁ相変わらずうざい。ガーデニングやってるといろんなことを忘れる、とは言ってたがな」
 と話していると藍里のマンションの前に着いた。もちろん一階のファミレスの客席が目の前にある。
 ちらっとバイトの先輩と目が合い藍里は清太郎から離れた。

「じゃあ、これで」
「おう、仕事頑張れよ。俺もこのあと配達行くから」
「うん、頑張ろう!」

 だがなかなかしんどい、ピークが来ていた。ここからバイトかぁ、と思うと憂鬱な藍里だった。こうやって毎日行きも帰りも清太郎と一緒というと思うと学校生活も楽しくなりそう、と彼の背中を見送りながら微笑む。


 部屋に戻る。明かりはついているが静かである。玄関側の洗面所に行く。そういえばあの敷きパッド……とカゴを見るとなかった。
 時雨が洗濯してくれたのだろうかと思うと恥ずかしくなった。

 大抵この時間は時雨が料理をしているから料理中の音や匂いがするはずだと藍里は不思議がる。
 あるいは時雨が寝てしまったか? さくらは仕事休みだしもしかして2人で……と良からぬことを考えてしまう藍里。あの時のリビングで2人が愛し合ってる時を思い返す。

 リビングのドアの前に立ってじっと待つが音は聞こえない。誰もいないようだ。

「ママー、時雨くん?」
 小さな声で藍里は部屋に声かけるが返事がない。

 台所に行く。時雨がコンロの前でメガネを外して目頭を押さえて項垂れていた。
「藍里ちゃん、おかえり……」
「ただいま、敷きパッドありがとう」
「あ、うん。天気もいい取り込むよ」
 時雨の目が真っ赤である。メガネをしてないのもドキッとするが……。

「大丈夫?」
「いや、玉ねぎみじん切りしてたら目に染みてさ……」
 手元には玉ねぎはない。どころか何も手付かずであった。

「大丈夫じゃないじゃん」
 と藍里は近づいて近くにあったキッチンタオルを時雨の目元にやる。

 その時だった。
「藍里ちゃん~!!!」

 時雨が藍里に泣きついたのだ。
 藍里は突然のことにびっくりした。まだこの家の中にはさくらがいるかもしれないと思うと藍里はどしようって思ったら狼狽えるが、泣いている時雨を突き放すことはできない。
 きっとさくらのことで泣いているのであろう。20も上の男性が泣き喚くのは初めて見た藍里。そして初めて父親以外の男性に抱きつかれたのがこんなシチュエーション。
 いつかは願ってはいたのだがまさかこんな形で願いが叶うのかと……。自分の近くで大人の男性が自分の腕の中にいる感覚、なんとなく自分の父親に抱きついた時の自分を思い出す藍里。

 父のことを抱きしめた小学生の頃、あの温かい体温、もさもさの髪の毛。さくらとは違った男の人の独特の香り。忘れてはいたが、なんとなく似ていた。藍里は少しぎゅっと抱きしめた。その中でずっと時雨は泣いている。いつもニコニコとしていたのに。初めて見た彼の弱さを知ることになった。



 五分ほどして時雨は少しずつ呼吸も落ち着いてきて、藍里からキッチンタオルをもらい涙を拭って眼鏡をかけ、最後に鼻をすすって台所にある丸椅子に座った。
「ごめん、抱きついたりして……しかもこんな情けないところを見せてしまったよ」
「ううん、ビックリしたったけど。もしかしてママのことで?」
 時雨は頷いた。さくらの部屋に行こうとしたが時雨に引き止められた。

「多分今日はダメだと思う、1人にしてやったほうがいい。食事は持っていくし、機嫌良くなったら良くなったで彼女のペースに合わせるしかない」
「こういうこと初めてじゃないよね。ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ、僕は何もできなくて不甲斐ないって気持ちでいっぱいなんだ」

 時雨はグッと口を閉じる。彼はさくらから前の夫、綾人から受けたモラハラを全て聞いている。不定期に彼女が不安定になるたびに寄り添っていたのだが今日はもう耐えられなかったようだ。

「藍里ちゃんのお父さんのことを悪くいうつもりはないし、したくはないけども……離婚して離れても彼女の心の傷はとにかく深い。心の暴力は目に見えない、その傷はずっとさくらさんの心をえぐり取って。僕が美味しいものを作っても抱きしめても宥めてもなんともならない……それが悔しい」
 時雨は再び涙が溢れるがすぐ左手で拭った。藍里もさくらと一緒に逃げたのだが逃げる前から常に不安定だったし、当たられていたし、逃げてからも施設にいる時もまだまだ怯え、離婚が決まって再び地元の近くに戻ってからも、時雨がいても時折襲ってくる不安定さは藍里にもどうすることもできなかった。

 もうさくらは綾人から離れて何もひどいことも言われてもされてもいないのに、なんでだろうって思うしかなかった。ここしばらく時雨といる時はあんなに笑うようになったのに、もう自分にヒステリックに泣き叫ばれることもないとホッとしていたのに、藍里も時雨の涙に泣きそうになったが涙は出なかった。

「悔しがることないよ。ママは時雨くんと一緒になってから笑うようになったし。それにいつも料理してくれるじゃん……家事だって。それだけでも私は助かってるよ」
 そう藍里がいうと、時雨は小さくありがとう、と言った。


「……今日は賄い食べてくるんだっけ」
「うん。でも時雨くん料理好きだから少し時雨くんの料理食べたいけど……今からでは無理だよね」
 時雨は何も手付かずの台所を見たが横に首を振った。そして冷凍庫を開けた。

「こういう時のために冷凍食品ってのがあるんです」
 目を真っ赤にしながらもニカっといつものように笑った時雨。冷凍庫にはいくつかの冷凍食品。藍里は笑った。冷凍ポテトを取り出した。

「私はこれを揚げるだけでもいいけどこれを使ってジャーマンポテトとかチーズグラタンとか好き。簡単なんだもん」
「簡単でいいんだよ。揚げなくても炒めたりトースターでチンするだけ。今日はどっちがいい?」
「じゃあ……チーズ乗せ。これだったら私もできる」
「おう、じゃあご飯は炊けてるんだけど……卵スープ作るよ」
「はぁい」
 さっきまでしんみりと静かだった台所が明るくなった。2人で台所にいることはよくあるがほとんど時雨が料理をしてて、その傍で藍里は話をしてることが多かった。
 時雨も手を動かしているうちにいつも通りに笑顔になっていく。藍里はグラタン皿を出して以前時雨がやってたようにバターを塗ってポテトを入れて塩胡椒し、ピザチーズをのせた。そしてその上に青のりを皿に乗せた。

「前よりも手際いいね」
「見てたからね、時雨くんの」
「……覚えてくれてたんだね。あ、それに刻んだベーコン乗せると皿に美味しい。さくらさんが好きなんだ」
「ふふっ」
「なんなんだい」
 時雨が割った卵をかき混ぜて温めたスープの中に入れる。

「ママのことを常に考えているもん」
「ハハッ、そりゃさくらさんも好きなんだもん。あ、ちょっとトイレ行ってくるからスープ見といてね」
 藍里は少し心が苦しくなる。やはり時雨はさくらの恋人。トースターの中にいれてタイマーをセットする。トースターの窓からポテトの上で少しずつ溶けていくチーズを眺めていく。

「……さくらさんも……も?」
 ふと口に出す藍里。その、「も」という言葉に引っかかった。
 少しチーズポテトを食べ、バイトに行ったがやはり生理1日目もあってしんどかった藍里。
 仕事中は頭もぼーっとして社員の沖田から怒られたり、他の先輩から学校帰りに一緒にいたのは誰? と店からやはりみられていたらしく、揶揄われた。

 少しでも生理による貧血の改善にと店のレバニラ炒めを食べるが、やはり美味しいという感じではなさそうだ。

 明日もこの調子でバイトはまた入っている。しかも土曜日。家族連れも多くなる。尚更忙しい日と生理のピークが被るのはアウトである。しかもただでさえ一番気の許せる理生が学校の授業の関係でいないというのが一番大変である。

 憂鬱になりながらもバイトを終えてエレベーターで部屋に戻る藍里。玄関のドアを開けた途端に例の敷きパッドのことを思い出した。

「ただいま! 時雨くんっ……」
 するとリビングにはさくらがいた。少し機嫌は良さそうである。

「おかえり。あんたの作ったチーズポテト、最高だったよ」
「よかった、多めに作っておいて。どう、体調」
「……すこぶるいいわ。カイロお腹と背中に貼られたからね」
 と、立ち上がっていちいち見せつけるさくら。時雨に貼ってもらったものだ。

 ふと藍里は思い出した。昔もさくらが生理で苦しんでいる時に横になっているだけでも父が機嫌悪かったことを。
 生理がまだきてなかった藍里にとって月に一回、母の調子が悪そうな時があったがしんどそうな母の背中をさすったら
「ありがとう。やさしいのね」
 といってくれたことを思い出す。そんな藍里も五年生の時に生理になったが、自分もお腹痛かったり、辛かったりしても言ってはダメな気もして我慢していた。恥ずかしさもあってなのか。

 だからこそ時雨の優しさが染み入る。きっとさくらもそうだろう、と。

「おかえり、藍里ちゃん」
「ただいま」
「疲れ顔だね。早くお風呂入って寝てね。もうさくらさんも僕もお風呂入ったから」
「ありがとう」
 時雨はエプロンを脱ぎ、洗面所に向かっていった。藍里は敷きパッドのことを言おうと追いかけようとしたが、さくらに手招きされる。

「あんた、汚したならちゃんとしなさいよ」
 あっ、と藍里は声が出た。
「一度シャワー浴びようと洗濯機の前の籠見たら血の汚れ落ちてない敷きパッドがあったから私が洗っておいた」
「ごめん……なさい。やるつもりが忘れちゃった」
「時雨くんはその辺のセンシティブなことは戸惑ってしまうからね。今日はタオル敷いて寝なさいよ」
 そうさくらが言ったタイミングで時雨が戻ってきた。

「どうした?」
 藍里母娘の会話をしていた間に入ってしまったかな、気不味そうな顔をしている。
「なんでもない……あ、ママ。学校から書類の書いてないところしっかり書いてくださいって」
 藍里は慌てて部屋に戻って書類の入った袋を持ってきてさくらに渡した。

「……明後日までに、って言われた」
 嘘である。さくらは昔から忘れやすいことが多く、それを綾人に指摘されて罵られていたのだが、その後もさくらの忘れやすさは直らない。藍里の中で対策はあって期限がなくても何日までにと設定してさくらに促すようにしているのだ。
 明日までの方がいいと思ったが夜遅いため明後日までにとしたのも娘である優しさなのだろう。

「はいはい……あ、これね。接客業じゃダメなの」
「ダメだって」
 さくらはため息をついて何か悩んでる。
「わかったわ。明後日の朝に渡すから。仕事行く前に」
「無理しちゃダメだよ。今日明日ゆっくり休んで……」
「そうよー。私働かないと2人養っていけないから」
「僕もその分この家のこと頑張ります」
 時雨は少しばつの悪い顔をしている。さくらの横に座った。

「そいや藍里、進路相談が今度あるって」
「あ」
 忘れやすいさくらだがたまに変なタイミングで思い出すこともある。藍里は普通にこの後部屋に戻ろうとしたが。

「まぁここに越したばかりだし、学校とか分からないよね。岐阜に住んでた頃に比べれば名古屋の大学には通いやすいからね。あ、別に大学じゃなくても就職でもいいけどさ」
「そうだね……まだ考えてない。ママは〇〇女子大だっけ」
「そう。高校で演劇部、大学で演劇サークル……授業は色々と文化を学んでたわ。まぁ何も今に生かされてないけど」
 鼻で笑うさくら。

「藍里、女子大はやめときな。社会に出たらいきなり男社会に放り出されて何もできないわよ。ママはすぐ結婚だったけど……あんたを入れてた芸能事務所でマネージャーしてた時に痛感したわ」
「うん……」
 心の中で今このタイミングでこの話題にさせてしまったことにヒヤッとした藍里。またネガティヴになりそうだと。

「あ、僕は高校卒業して調理専門学校に入ってそこから紹介してもらったところでずっと働いてた。学生時代二つくらい料理系のバイトしてたんだ。お金より経験……」
 手を上げて明るくそういう時雨。

「え、どこのバイト?」
「聞く聞く?」
 こうやってネガティヴを和ませてくれるのが時雨である。少しホッとした藍里。少し遅くまで時雨の話を聞いてこの日は終えた。
 次の日の帰りの会が終わったあと。もう藍里は限界が来ていた。ピークでもあった。昨日のバイトの時も少し辛かったが痛み止めをこっそり飲んだ。昨晩遅く寝たことに後悔しつつも授業中はお腹の痛みも襲う。

 横ではクラスメイトたちがあいも変わらずキャッキャと笑い合い、話題は綾人のことだ。
「今度綾人の映画のオーディションだって! 東海地方在住……高校生! わたしたち対象?」
「ばーか、あんたみたいなデブスが通るわけないよ」
「そのデブスさが通るんだよ、案外」

 あの輪の中には入れないし、まさか彼女たちは綾人の娘がすぐそばにいるだなんて知らないだろうし、藍里は父のことでキャーキャー言ってるのも不思議であった。
 自分もだが高校生は同級生よりも20以上の男性にも興味があるのか……。
 そして彼女たちの抱く綾人のイメージと藍里の知っているさくらに対して罵る綾人……でも父は嫌いでも無い。

 ぐるぐるとネガティヴになってしまう。それは生理のせいなのか、寝不足なのか。
 手元には書類。今度名古屋の中心部で大学展があるのだ。帰りの会に全員に配られた。

 担任にまた書類の催促をされて明日には出します、と伝えると担任は

「まぁ、はっきり書かなくていいと思うけどね。母娘で今の時代働けるところ、限られてるからさ……その辺は配慮しますから。でも緊急事態に何かあったら連絡先わからないと、ねえ。仕事中は携帯出られませんとか聞いてあったから」

 と言った後にニヤッと笑う顔に気持ち悪さを感じた藍里。緊急連絡先……ずっと家にいる時雨の番号でも、と思ったが家族以外の男がいるという事実も良くない、と口を閉じた。

「藍里、今日1日体調悪そうやったな」
 級長の仕事を終えて教室に戻ってきた清太郎。一緒に玄関まで行く。

「うん……でもこのあと直でバイトだから1人で帰る」
「マジかよ。無理すんなって」
「ありがとう。人がいないから私が行かないと」
「……どこも人不足だな。まぁ俺んとこはいっつも不足。あ、その大学展の日はうちの母さんと姉ちゃんこっちにくるんや」
「えっ、来るの?」
「で、観光案内せぇって言われてるから付き添ってやれん。すまんな」

 何も頼んでいたいのに清太郎が付き添うつまりだったのかと藍里は驚いて顔は真っ赤でドキドキしていた。

「別に付き添ってなんて言ってないし……てか大学展よりもおばさんとお姉さんに会いたいわ」
「次の日もおるから大学展見に行かないと。今年は1日だけやから。人生かかっとるよ」
「……でも。清太郎は決まってるの?」
「うん、まぁ。ここら辺やないし」
「え、名古屋の方じゃ無いの?」
「関東のな、W大学……」
「えっ、そうなの? って、確かお父さん銀行員だし、W大学出身よね。まさか銀行員?」
「うん……まぁ」

 子供の頃を思い出すとそんな感じは一ミクロンも感じ取れなかったと藍里は驚く。

「こう見えても、な……」
「すごっ、将来安泰じゃん」
「かなぁ。母ちゃんたちは反対してるけどね……帰ってこいって。俺は帰らん」
 清太郎はいつもよりも真剣な顔をしていた。たしかに子供の頃から強烈なキャラの母親と気高い姉に彼は挟まれているとは思っていたが。
「意志強いね」
「……別に銀行員じゃなくてもいいけど家には帰りたく無い、ただそれだけ。藍里は?」
 藍里はふとさくらを思い浮かべる。もし自分が関東に行ったら……心配するだろう。そもそも関東には綾人がいる。

 さくらは時雨とこれから一緒になるのだろうか。でもそうなったら自分は……と。

「もし俺がついてこいって言ったら来るか?」
 気づくともう清太郎の住む弁当屋の前だった。藍里はエッと声を出してしまった。

「……エッてなんだよ。またなんかあったら聞く、それに母ちゃんたちがお前ともしよかったらお前の母さんにも会いたいって言ってるからもしよかったら会ってやってくれないか」
「うん、私はいいけどさママは聞いてみないとわからない」
「無理すんな」
 すると弁当屋からエプロンを女性が出てきた。清太郎の叔母で清太郎の母の姉ともあって顔もなんとなく似ていた。藍里は会釈した。

「綺麗な子だね。あんたの彼女か」
「……なようなもんだ。じゃあな。バイトだろ」
 清太郎は恥ずかしそうにして振り返らず手を振った。叔母さんもニコニコ微笑んで手を振っていた。

「彼女のようなもん……??」
 突然そう言われたが、ああ、もっと早く会えたら自分も頷けたのだろう。藍里は胸が苦しくなった。
 時雨にも清太郎にも少し引っかかったようなことを言われて、一体どういうことなのだろうかと思いながらもバイト先のファミレスの裏口から入っていく。

 と同時に藍里の様子を社員の沖田が慌ててやってきた。
「すまん、藍里ちゃんって160くらいだよね……」
「何が160ですか?」
「身長だよ。雪菜くらいだから雪菜の制服を着られるよな?」
「はっ???」
 と藍里は沖田から制服一式を押し付けられた。きっと雪菜がロッカーに置いてた制服であろう。名札がついていた。

「早く、着替えろ。人が足りないんだ。メニューの取り方とか諸々はバイト入る前の本部研修で習ったろ」
 そう言われた藍里は確かに名古屋のファミレスの本社で1日だけ通しで研修したということを思い出したがたった1日であとは裏方でキッチンの手伝いだけであった。

「着替えろ、早く!」
「は、はい……!!」


 そして五分後には着慣れないファミレスの制服を纏いファミレスのキッチンに入ると数人の忙しそうにしてるキッチンスタッフの男性たちはびっくりした様子で見ている。

「あらぁ似合うじゃない、藍里。さぁ早くもう大変なんだからぁ」
 理生がやってきた。藍里は初めてのフロアでの仕事。平日の夕方はいつも混み合っているのだがそれを何人かのアルバイトたちが回していたのだが夏休み明けのテスト週間、雪菜のボイコットによる欠席でてんてこまい。
 いつもはキッチンからお客さんは多いなぁと思いながら見ていたのだがまさしくそれ以上を越すものであって藍里はどきどきよりも緊張が上回る。

「そこの可愛いオネェさん! 水くださいな」
 早速声がかかった。若い大学生の集団。こちらは違う大学の生徒なのか、テスト期間ではないようだ。

「すいません、さっきから呼んでるけどこなくて」
 と大学生の席に行く前に老人夫婦に呼び止められる。

「おーい、全然注文したもの来ないんだけどぉ」
 とビールを片手にグダを巻くサラリーマン。


 藍里は全てにハイ、と答え対応していくが、目線の先に見覚えのある顔……。
「すいませんーってあれ、藍里じゃん」
 なんと清太郎がいたのだ。しかも何故かクラスメイトの女子数人に囲まれて。クラスメイトの女子が藍里を見てびっくりしている。ひとりはスマホで藍里のファミレスの制服姿を撮影して藍里はやめてって困り顔。清太郎もバツ悪そうな顔をしている。
 きっと藍里が着替えている間に入ってきたのだろう。
「……弁当屋、他のバイトさんに明日と変わって欲しいって言われて暇してたらこいつらにつかまっちゃったんだよ」

 清太郎は他の女子たちよりも明らかにテンションが低い。その合間にも他の席から呼ばれたり、ベルは鳴る。
「藍里、ここで働いているんだね、めっちゃ似合ってる。可愛いいからなんでも似合うんだよ。今からメニュー選ぶから他のところ行ってきて」
「宮部くん、このファミレスの前でウロウロしてて1人で入ろうとしてたんだよねぇ」
 藍里はそうなの? と言いかけたが後ろから来た両手に食事を持っていた沖田から耳打ちされた。

「向かいのカップルのところに早く行ってこい」
「はい……」
 藍里はクラスメイトたちのところを後にして言われた席に向かうと、30代くらいのカップルが座っていた。男性の方はかなりイラついていて、その前に座っていた女性は俯いていた。
「いくらなんでも人が足りてないんじゃないのか」
「申し訳ありません……お伺いしますね」
 藍里はメニューパットを片手に注文を取る。

「そもそもお前がここにいきたいっていうからこんなに混み合ったところに巻き込まれたんだよ」
「すいません……」
「お前が家でご飯ちゃちゃっと作ればいい話なんだよ」
「すいません、ちょっと調子が悪くて」
 藍里のことを無視して男は女に対して大声で話す。他の客も少し反応する。

「調子悪いてなんなんだよ。専業主婦のくせし家事料理も何もうまくできんくってしかも体調管理もできないなんて、毎日ダラダラしてるんだろ? だからそんなに豚みたいに肥えるんだよ」
 その女は特に見た目からして太ってはおらず、ふっくらしているだけであるが藍里は2人のやりとりをみて過去の記憶が蘇る。

 そう、さくらと綾人のやりとりである。綾人は流石にこういう公共の場ではしなかったがよくさくらが悪い、と罵ってさくらは悪くないのにずっと謝っていた記憶がある。
 調子が悪い時も家事料理はしっかりしろという言葉も似たようなのを何回か藍里は聞いたことがあった。

 女が泣き出した。
「おい、泣いてどうなるの? お前はサラダだけだ。俺はステーキセット、ご飯は大盛り……ってウエイトレスさん?」

 藍里はいきなりのウエイター業務と緊張と生理からくる貧血と過去のことを思い出し彼女の体は心身ともに限界がきてその場で倒れた。最後に周りのざわめきと、その中から声が聞こえた。

「藍里!!!!」

 清太郎の声、そして誰かの温もりだった。
「いらっしゃいませぇえええ……って、あれ?」
 なぜか意識を取り戻したと同時にまだファミレスにいたと思い込んでいた藍里は、今ここはファミレスではないってことに気づく。バイト先の休憩室である。
「大丈夫か、藍里」
「……宮部くんがなんでここ……うっ」

 体をゆっくり起こしたが少し頭に痛みを覚える。清太郎が藍里を再び横にした。
「倒れたんだよ。その時にテーブルの角に頭すったみたいだけど……今救急車呼んだらしい」
「……保険証、多分家」
「お母さん呼ぼうか。電話貸して」
 藍里は首を縦に振る前に、さくらは今日まで生理で体調が悪い……滅多にない休みを自分のために使っていいのだろうか。倒れたのはきっと貧血だろうが。それとも……あの男の客の傲慢な態度を見て過去を思い出したのだろうか。

 清太郎は藍里の頭をアイスノンで冷やす。
「一緒に来てたクラスの子達は……」
「心配してた。まだいるけど」
「……お店は」
「今はそんな心配するな。それよりも早よ電話」
 藍里はスマホで『さくら』と着信履歴から出して清太郎に渡した。自分から電話しようとしたがやはり少し頭が痛い。なかなか着信に出ないようだが清太郎は心配そうに藍里を見ている。
 よりによって自分の倒れた時に彼が客としているだなんて、しかも他のクラスメイトもいた訳であって……恥ずかしさもある。
「……俺の席からあの客見ていたけど酷かったよな。奥さんに対してすごくひどいことを言ってたしな」

 藍里は男性客を綾人、女性客をさくらと重ね合わせてみていた。
「ひどいよな……あ、もしもし? あれ、橘……じゃなくて百田……さくらだっけ藍里のお母さんの名前」
「さくら。ママ出た?」
 清太郎はスマホを持ったまま少しキョトンとした顔している。きっとさくらが寝ぼけて電話に出たのだろうか。
「百田さくらさんのスマホですか。……そうですよね? あの、さくらさんは」

 もしかして、と思い藍里はスマホを取り上げた。
「もしもし」
『もしもし、藍里ちゃん? 今の男の人誰かな。さくらさんは今寝てるんだけどどうしたかな』
 時雨の明るい声だった。しまったーと清太郎を見ながら電話を続けようとするが清太郎がスマホを取り上げた。

「すいません、同じクラスメイトの宮部清太郎です。さくらさんに名前おっしゃっていただけたらわかるはずです。さくらさんの娘さんの藍里さんがバイト中に倒れまして……はい、ええ。今ご自宅の下のファミレスです。頭を打ちましてもうすぐ救急車……」
 救急車の音が聞こえた。

「はい、今すぐ来ていただけますか。お願いします」
 藍里はどうしよう、と思いながらもやはりまだ体はだるい。スマホを返されたが2人の間に沈黙が流れる。

「その、今のはね……」
「男の人、だったね。びっくりしちゃったよ」
 清太郎は苦笑いしている。母娘女所帯であろう百田家に男がいる、それには彼も驚いているようだった。

「救急車きたぞ……たく、また人手足りなくなるぞ」
 沖田が仕事の合間になのか心配するそぶりもなく休憩室に来た。藍里はやっぱり自分は……と苛まれてしまう。子役の時もそうだった。うまくいかずに裏でマネージャーだったさくらがスタッフに怒られているのを。
 家ではそのことを綾人にさくらがなじられていた頃を。そしてさくらと2人きりの時に藍里はさくらから八つ当たりされていた頃を。

 それを思い出すたび息が苦しくなる。息が荒くなる。清太郎はそれに気づいた。
「藍里、大丈夫かっ! ……おっさんも少しは心配しろよ」
「おっさんだと?」
「あぁ、おっさん。藍里が客に絡まれていた時に無視してただろ。それよりも前に鬱陶しいから藍里にあの席で接客させたんだろ。俺は見てたぞ」
 沖田はぬぐっと口を歪めた。清太郎は藍里のそばにいながらもきっとした表情で睨む。

「患者さんはどちらでしょうかっ」
 と救急隊員が休憩室に入ってきた。沖田は複数の隊員によって押しのけられて尻餅をついてしまう。

「くそっ! イタタタっ」
 その後沖田の元に理生がやってきたが情けない彼の姿に見下ろして笑った。
「何笑ってる、少しヘルニアが……俺も倒れたらどうするんだ、この店は」
「バイトを馬鹿にしたバチが当たったのよ。それにあんたの代わりはいくらでもいるわ」
「はぁ?」
「あんたのせいでやめてったバイトの子達を招集してきたから」
 と数人の女性たちも沖田を見下ろす。全員冷たい目線だが誰もいなくなった休憩室に入って着替えを始めるようだ。

 理生に引きずられて休憩室を追い出された沖田は腰を痛そうにしている。
「腰が痛くても座ってできる作業あるでしょ。さっさと動きな」
 理生はその後藍里を追いかけた。