次の日、藍里はハッとして目が覚めた。何かお尻から冷たい感じが……。
飛び上がってみるとお尻の辺りから血が。そう、藍里も生理が来てしまったのだ。幸いまだそこまで大量ではないのだが、ショーツはもちろんズボン、敷布団の上に載っている敷きパッドが血で汚れた。
「最悪」
自分自身も時雨に恋をし、ひさしぶりに幼馴染に会って成長した姿に浮かれてしまったのか? と思いながらも敷きパッドを丸めて持って洗面所に向かう。まだ朝も早い。台所には時雨はいるとして洗面所に向かうまでにお尻の血のシミが見えないよう前後逆にして、制服一式も持っていきこっそり部屋から出て洗面所に向かう。
ちなみに生理用品はさくらが買ってきて、血で汚れた場合は自分達で洗う。もちろん敷きパッドとかと同様だ。それはさくらと藍里母娘が時雨と同棲する時に決めたルールでもあった。
藍里はまず新しい生理用のショーツに夜用のナプキンをつけてタオルと共に置いておく。夜用にしたのもこの数年自分の血液の流出する量が多いとわかっているからである。
全部服を脱いでシャワーを浴びる。髪の毛はしっかり束ねて。
まだ始まったばかりなのかそこまでは出てくることはなかった。
もしかして、と昨日のちくんとする痛みは恋の苦しみではなくて生理前だったからなのかと。
浴室で体をタオルで拭き、ナプキンをつけたショーツを履き、浴室から出る。
ついでにシャツも替えて制服を着る。その時だった。
トントン
扉を叩く音。藍里はびっくりした。
「藍里ちゃん?」
時雨の声だった。きっとシャワーの音が聞こえたからか来たのだろう。今からショーツやシーツに着いた血液汚れを流そうとしたのだが。
「う、うん」
「ごめん……洗濯したいんだけどシャワーならまた後で呼んでね」
「わかった」
藍里は心臓がバクバクと言っているのに気づく。鍵はかけられる洗面所だった。
慌てて血液洗剤を取り出してかけたらたくさん出てしまって慌てる。
しかもいつもよりも朝早く目が覚めて少し眠い。
生理が来るたび女じゃなきゃよかったのにと口走ってしまう藍里。さくらも頷いていた。
でもこの数日辛いだけで乗り越えればなんとかなる、また汚したりしないだろうか。それを時雨に見られてしまったら。恥ずかしい、そんな気持ちばかりだ。
完全には落ちたわけではないかある程度汚れは落ちた。血液洗剤の独特な匂いが鼻にツンと来る。
この匂いだけでも勘付かれやしないか、ましてや洗濯機の中に敷きパッドが突っ込まれていたら……わかってしまうだろう。
いや何か聞かれたらもう替えたくて、といえばいいのか。いつも一週間に一回カゴに突っ込んであとは時雨に任せている自分に反省する。
いつもならこれくらいなのかな、と思う生理の日もなぜか藍里が思ってたのよりも早すぎて事前にナプキンを仕込むこともできなかったと思いながらも、生理はうつる、さくらからうつったんだろうという高校生ながらの安易な考えを思い浮かべる。
ショーツ、パジャマは洗濯機に入れたが一部洗って濡れた敷きパッドはどうすればいいのか。むやみに入れるとパンパンだから時雨に出されてバレてしまうのではないか……。
藍里はぐるぐる悩んでいた。
確かに今入れるのパンパンだと目視して藍里は悩む。
「どうしよう」
すぐ近くには大きなカゴ。藍里は堪忍して洗った部分を折り畳んだ敷きパッドを詰め込んだ。
結局は諦めた。このまま入れてくれるのだろう……と藍里は洗面所を出た。
台所を通ると時雨が朝ごはんを作っていた時雨。藍里の弁当箱はもう保冷バッグに入っている。
「おはよ、早かったね」
「う、うん……あのね」
藍里は洗濯物のことを言おうとするとリビングから音が聞こえた。テレビがついている。そしてさくらが起きていることに気づく。
「さくらさんも、起きてるんだけどさ……」
「ママも早いよね」
「僕が起きたら起きちゃって5時からずっとリビングでテレビ見てたんだけど」
母親が機嫌悪い、それを聞くとひやっとする藍里。機嫌の悪いさくらは少し苦手なのだ。
すると時雨が台所の奥に藍里を手招く。そしてリビングにいるさくらに聞こえないように小声で伝えてくれた。
「さっきテレビで……前の旦那さんが出ててさ」
「パパ……」
「そっから機嫌悪くなってさ」
小声でこそっと話を少しいつもより近い距離でするのにどきっとする藍里。洗濯物のことはいつ言えばいいのか……もどかしくなる。
するとリビングから声がした。
「時雨くーん」
「はーい」
近くの距離でいられた時間はあっという間に終わった。
まだドキドキはしていた。
あんなに近くで話したのは藍里にとっては初めてだった。ほのかに匂うレモンの匂い、正直彼が初めて家に来た頃は女世帯の家に1人の男性が来たのもあってか、家の中の匂いが変わったのを藍里は感じとった。
父といた頃、父はいい香りの香水をつけていた。何と言う香水だったか、レモンの匂い……そして微かに彼の吸っていたタバコの匂い。
タバコの煙は苦手だったが父の匂いは嫌ではなかった。父と住まなくなってから次第に臭いはなくなり、なんか寂しくなった時期もあったが次第に慣れていくのが不思議と感じる。
そして久しぶりの男の人の匂い。そういえば、と藍里は思い出した。父と最後にいた頃の年齢と時雨の年齢は同じくらいだ。
時雨は今はタバコを吸わないが家に来た頃はタバコを吸っていたらしい。今は働いてないからと吸ってはない。きっと彼も香水かなにかレモン系のものを身体に纏っているのだろうか、来た頃にふと香る匂いに藍里は懐かしさを感じた。
さくらは台所に置いてあったお弁当箱をいつも忘れないように玄関に置きにいくと、リビングからさくらの声が聞こえた。
朝からよくもまぁそんな大きな声を出せるなぁと藍里は思いながらもリビングに戻る。
「もう知らないっ!」
「ごめん、さくらさん……あ、藍里ちゃん」
時雨は困った顔をしていた。こういう場面は初めてではなかったが、たった少し部屋を離れただけで怒りの沸点に達するさくらは相当今日はカリカリしている、触れない方がいいと藍里はもうずっと一緒にいるからわかってはいる。だからあえてさくらのもとには行かないようにした。
「食べる? 朝ごはん」
「うん、食べる。ママは食べたの?」
ソファーに毛布をかぶって横になるさくらを横目に椅子に座る藍里。時雨は首を横に振った。
「じゃあ今から用意するから待っててね」
時雨が台所に行っている間にリビングのテレビのチャンネルをザッピングする。
朝はいつも同じ番組を流し、天気予報にメインニュース、芸能情報、最近のトレンド、そして占いを見るころには藍里の出る時間だ。
いつもよりも早く起きたから少し見たことないコーナーが流れる。他の局の番組に変えるのも楽しいものだと変えていくと地元の情報番組に手が止まった。
藍里が岐阜の頃によく見ていたなぁと。父はこの番組を好んで見ていた。愛知出身の男女2人のタレントが朝から名古屋弁を捲し立ててやっていたのだが10年くらい前にアナウンサーがMCとなり、いまだにタイトルも変わらず地元の情報をメインに伝えている。
実は藍里の父は地元のコーナーで素人代表でレポーターをしていたらしい。
最初は野次馬の1人だったがとあるコーナーで目をつけられて、地元の劇団員ともあって柔軟に対応もでき、背も高く顔もそこそこよかったからスカウトされて藍里が生まれる前からの何年か出ていた、と母から聞かされていたのを思い出した。
その番組に出なくなっても父はその番組を見ていた。だから藍里も当たり前のように見ていた。
岐阜から出てようやく神奈川での生活が落ち着いた頃に、朝その番組をつけたが全く違う番組がやっていて落胆したことも。県外で暮らしたことがなかった藍里はあれが東海地方限定の番組であることを知るのは少ししてからであった。
ようやくその番組を見れる地域に戻ったがさくらの前ではつけるのは躊躇したが今日は何の気なしにその局に変えた。
相変わらず番組名は変わってないがMCも出演者もスタジオも変わっていてまるで浦島太郎の気持ちである。
「この番組も長いよね、こないだ何十周年かの特番やっててさ」
「そうなんだ……あっ」
時雨は何かを思い出したかのように番組を変えた。藍里も懐かしさにかまけてすっかり忘れていた。
この番組はさくらにとって過去を、父を思い出すものでもあった。
タイミングが悪かった、そしてさらにタイミングの悪さがかさなる。
『この番組をご覧の皆様、おはようございます。橘綾人です』
この地元の番組のエンタメコーナーに父、桜にとっては元夫の綾人が映ったのであった。
さくらは綾人の声が聞こえるなりビクッと身体を起こした。そして毛布をその場に叩き落として部屋に入っていった。
しまった、という顔を互いにして見つめ合う。テレビには綾人がニコッとして微笑みながら他局のエンタメニュースでも出ていた新CMのこの番組のための宣伝だった。
やはりこの番組にはお世話になってたとにこやかに話す綾人。ちらっと過去の映像も流れる。そして最後はやはりCMの話題に戻って終わった。
「……」
藍里は久しぶりにとまではいかないが意識的にテレビを見た父、綾人の姿に懐かしい気持ちを思い出した。ずっと彼と会っていないのだが、最後に会った時の面影も残しつつもそれから人気になりスターとなり洗練されてさらにカッコ良くなった父に見とれていた。
「綾人さん、かっこいいよね。こんなことはさくらさんの前では言えないけどさ」
「……かっこいいよ、パパは」
2人の間で何ともいえない空気が流れる。さくらの部屋からは啜り泣く声も聞こえる。藍里はテレビの電源を切り、椅子に座って朝ごはんを食べ始めた。
ピザトースト、コーンスープ、ヨーグルト、バナナ、牛乳。
「ママのところに行かなくていいの?」
藍里は時雨に聞く。
「……後で行く。多分今何言ってもダメだし」
「さっきもママに何か言われてたよね」
「僕の言葉がいけなかったから……うん。今は何言ってもさくらさんにはネガティヴに捉えられてしまうから」
と時雨もピザトーストを齧る。いつも2人は一緒にご飯を食べる。朝はさくらが仕事でいない時もあるからだ。
時雨が来る前は1人で食べる時が多かった。今ならいつも時雨がいる。バイト先で食べている時以外、彼の作った温かいご飯をいつも食べられる藍里。
家のこと全てをやってくれている時雨にさくらの機嫌の悪さ、感情を全てぶつけられる時雨に少し申し訳ないと思うが今は彼と2人きりでいられる時間が増えたと思うと少し嬉しい。なんで時雨は複雑な過去を持つさくらと付き合っているのだろう、そしてそのさくらの娘である藍里と一緒にいるのだろうか、と藍里は思ったこともあったのだが。
しかしそれよりも綾人のことが気になる藍里であった。
ご飯を食べ終え、身なりを整えて藍里は時雨の作ってくれて弁当を持って学校に向かった。
「行ってらっしゃい」
「いってきます……ごめんね、ママのこと」
「大丈夫、帰ってきた頃には良くなってると思うから」
ニコッと笑う時雨。
「辛くないの」
「……人間だから……こういうこともあるよ」
「なにそれ、じゃあいってくる」
このたわいもない会話も藍里にとっては幸せである。
「ママじゃなくて、わたしでいいのに」
と呟いてマンションから出た時だった。
「藍里」
清太郎がいたのだ。
「何でここにいるの、宮部くん」
「……ごめん、昨日あれからお前の帰りつけてった」
あっ、とクラスメイトに揶揄されて恥ずかしくてダッシュで清太郎の下宿先の親戚の弁当屋の前を走ったことを思い出した藍里。
あれからかなりの距離があるのにつけてこられたのかと思うと自分のセキュリティが甘いと反省する。
「あと、下のファミレス……客として入った」
「えええっ!」
「おらんかったな」
「……私、調理担当で」
「あ、働いたったんか。バイトしてるんやろ? って聞こうと思ってたんやけど」
「しまった、認めてしまった」
清太郎は笑った。藍里もつられて笑う。彼女は昨日はミスをして中で怒られていたが、まさか客として清太郎がいたのか、と思うとどこかで自分が作ったものがカレの口に入ったのかと思うと……苦笑いしかできない。
「あそこのウエイターさんたち、かなりピリピリしてて笑顔ないな」
「まぁ、色々あってさ」
「色恋沙汰?」
「……まぁそういうこと。てかわかるの」
「なんとなく」
藍里は参ったなぁという表情で清太郎と学校までの道のりを歩く。
「ここまで学校と逆方向じゃん」
「んー、確かにだけど散歩と思えば」
「散歩って……てかストーカーだよ」
「人聞き悪いな。あっちって言いながら反対方向に帰るしさ。まぁ色々あったみたいだけどお前のこと守ってやれるの、俺だけだろ」
ドキン
藍里は似たような痛みを清太郎の言葉でも感じてしまう。生理痛なのか、なんなのか。
時雨がいなければもうすぐにキュンとして朝からギュッという案件である。
「……なにぎざってるのよ。そんなキャラだっけ」
「るっせぇ。小学校の時に男子たちにちょっかい出されて泣いてたのを助けたのは俺だろ」
「そうだったけど……」
「そうやら」
「そうでした」
清太郎はスタスタと歩いていく。
「待ってよ、待って」
「なんだよ、さっきはストーカーとか言って」
「ごめん、ストーカーは言いすぎた」
「罰として走って学校まで行くぞ!」
と走り出す清太郎。だが藍里は走れない。生理がきたばかりだから。体が重い。
「何だよー、走れ!」
あっという間に遠くまで行く清太郎。
「歩いて行きたいー」
「ここまでだけでも走れ!」
「いーやーだー!!!」
と藍里が叫んだ瞬間、下腹部から何かどろっとしたものが出たのがわかった。でもそれは吸収されるが不快感でしかなかった。下着の上から重ねて黒色の腹巻き型パンツも履いているのだがそこにもナプキンをセットして安心感を増しておく。
生理の経血の汚れの失敗をしたくない、数年の経験が編み出した裏技でもある。
清太郎は容赦ない。藍里は走らず出来るだけ歩数狭めに早く歩いていく。
「おーそーいっ」
「むーりー!」
「……今日は無理か」
「無理」
「わかった。藍里が走れそうな時は学校まで走るぞ」
「うん……て、これからも?」
清太郎は頷いた。藍里は顔が真っ赤になる。彼がわざわざ学校とは正反対の家まで迎えにきて一緒に登校するということなのだ。
「歩くときは離れて」
「……まぁ、な」
と2人を数人の生徒たちが通り過ぎていく。
「恥ずかしい」
「……顔真っ赤だ、バカ」
そんな朝。
やはり相当きつかった。いつもよりもこの一ヶ月間の中で一番しんどい日である。藍里は教室に入ってようやく着いた、とほっとするや否や昨日帰りに茶化してきたクラスメイトたちがやってきた。
「おはよ、やっぱり宮部くんと仲良いのね」
「おはよう、たまたま通学路が同じで……」
「って宮部くんの下宿先はすぐそこの弁当屋さんだから藍里ちゃんを待ってたんじゃないの」
いつの間にか下の名前にちゃんづけで呼ばれてる藍里。それはさておき、実際は迎えにきてもらってる、が正しいのだがどうやらこの3人はその現場を見ていないわけでホッとしてるようだ。
清太郎はというと隣のクラスの友人に呼び止められて話し込んでいる。
「宮部くんってどうなの? なんか紳士的だけどもなんかそこまで深く関わろうとしないし」
「藍里ちゃんは幼馴染でしょ? 何か知ってる? どこまで知ってるの?」
「どこまでって言われても、小学6年くらいまで近くに住んでいて……あ、お姉さんがいるわ。四つ上の」
と話し出すと他の女子生徒も興味津々で藍里をいつのまにか囲むような状態に。
「えっ、お姉さんがいたことなんて知らなかったわ」
「私は聞いていたけど、4歳上は知らなかったー」
「お姉さんがいるからなにかと叩き込まれてたんじゃないかしら」
となにやら清太郎の性格の裏側を検証するようなことを始め出している女子生徒たち。
「あの、なんでみんなは宮部くんのこと気になるの?」
騒いでた女子生徒たちは藍里のその疑問でピタリと止まった。
「い、いやーさ、ねぇ」
「ねぇー」
自分の幼馴染が女子たちの好意の的に当たってるのはもどかしい。子供の頃はそんなに清太郎はモテる方ではなかったが、今の背の高さや容姿の変化させたら少しは納得いくのか、でもそうでもないかなと。
「だから藍里は幼馴染として堂々思うの」
「どう思うって……子供のころはほんとヤンチャで、あと正直に言っちゃうし、猪突猛進だし、みんながこうキャーキャーいうのっておかしいって思うくらい!」
藍里はそう言い切る。
「だーれがおかしいって?」
「あっ……」
クラスメイトはクスクス笑ってる。いつのまにか清太郎が教室に入ってた。
「その、ね……あのーみんながさっ!」
クラスメイトたちは違う話題をし始めている。
「橘綾人の新CM見た? あのコーヒーのブランドってうちの自動販売機にあるからポスター貼られるかもね」
「東海地区限定のメッセージ嬉しかったよね。他の地区のファンが動画落ちてないかネットで大騒ぎ」
藍里のことは無視していて、その内容も綾人の今朝のCMの話であった。
「……猪突猛進ですけども?」
「ごめん」
「事実だからいいけど。あ、先生来た。起立!」
クラスの中に清太郎の声が響く。担任がやってきた。
「おはようございます!」
「おはようございます!」
朝の会。みんなあんなに騒いでいたのになんであんなにもすぐ静かになるのだろう、藍里は不思議でしかなかった。
前の行っていた神奈川の中学と高校はそんなにすぐ静かになるものではなかった。
「あ、百田さん……後で先生の所来て。宮部、号令。朝の会終わり」
「起立! 例! 本日もよろしくお願いいたします!」
「よろしくお願いいたします!」
清太郎の声が本当によく通る、横から見る喉仏に惚れ惚れしている藍里。時雨はもう30過ぎた大人だから完全に大人の体だが、清太郎の少年から大人になる途中の体に藍里はドキドキしてしまうのだ、尚更。
「藍里」
「はっ、はい……」
突っ立って清太郎を見ていた藍里。周りはクスクスと笑う。
「先生に呼ばれてんだろ」
「そうだった……」
と、思った瞬間。何かどろっとしたものが下腹部から伝わる感覚。
「そうだった……」
先生のところに行ったらトイレに行こう、そう思った藍里だった。
藍里は担任の元に行く。後ろではクラスメイトの女子が笑っている。神奈川にいた頃の冷ややかな笑いとは違った、少しからかい気味だけども嫌な感じはしなかった。
「おう、すまんなぁ。出してくれた書類のことでな。親さんに渡してくれ。記名してないところがあってな。来週までに記入してくださいと」
「すいません」
「どうだ、こっちの暮らしは慣れたか?」
担任は既婚者で机の上に家族の写真を置く、私情を持ち込む教師である。
年齢は分からないが藍里と同じ歳くらいの女の子と少し小学生くらいの男の子、そして自分の妻の4人が仲良く肩を寄り添った写真を見るともしかしたら綾人と年齢が変わらないのだろうかと。
42歳にしてはかなり老けこんでいるな、という藍里の考えである。
「……なんとか、やってます」
「そうか。バイトもして勉強との両立も大変だろうし。お母様も仕事しながら家事をするのも大変だろう。互いに協力してくれな。なんかあったらいうんだぞ」
「ありがとうございます」
担任は百田家に料理と家事をする居候の男がいるだなんて全く知らないであろう。
にしても話が長い、用事だけ聞いてトイレに行きたかった藍里は早く終わらないかと思ってしまう。
「何かあったらいつでも相談してくれ。無理はするな」
「ありがとうございます……失礼します」
藍里は心の内で相談してもどうにもならない、と経験上冷ややかに思いながら一旦書類の入った袋を机の中に入れて、ナプキンの入った巾着をさっとスカートのポッケに入れてトイレに向かった。
藍里はトイレから出ると清太郎が待ってた。
「びっくりしたー」
「おう、待ってた」
「またあとをつけてたでしょ」
「悪いかよ」
「……こんなにもストーカー気質とは思わなかった」
「言い方……っ。ちょっとお前に言いたいことあってさ」
首を横に傾げる藍里。すると急に清太郎は彼女の腕を引っ張り、人のいないところまで連れていく。
「な、なによ」
藍里が腕を払うと、すまんという顔をした清太郎だがすぐに真剣な顔になる。
「担任のことあまり飲み込むなよ」
「わかってる。当てにならない、何かあったらいつでも相談してくれっていう言葉」
「それなら話は早いけど」
「……いつもその言葉に騙されてきた」
「一体お前の数年間どれだけ闇なんだよ。担任のやろう、噂だけどシングルマザーの保護者の弱み握って身体の関係持つらしいから」
という衝撃な情報。新しい場所に来てそう知り合いもいないが、先ほど見た担任の机の上の仲の良い家族写真は、と思ってしまう。
「ちなみにやつはここの学校に融資している会社の息子だからな……もみ消されてるから。お前の母ちゃん気をつけろ」
「……う、うん。多分大丈夫」
ふと頭の中に時雨が思い浮かぶ。さくらには時雨がいるから大丈夫、そんな安易な考えだが弱い彼女は時雨がいなかったら優しくされただけであのドラたぬき担任に寄り添ってしまうのでは、という不安もよぎる。
「生徒とかに手を出してたらアウトだけどね」
「それは完全にアウトやろ。そもそも20以上も下の女の子には手を出したらあかんやろ」
どきっ!
と藍里は時雨のことを再び思い出した。時雨と藍里は20も離れている。もしこれから恋に落ちるとして2人の関係が始まったとしたら。
2人が恋に落ちたら同意の上だからセーフかもしれないが、周りからしたら白い目で見られるのだろうか。
もちろん2人の間にそんなやましい関係はないが2人で一緒にいる時間はかなり多い。
「ん、どうした。てか教室戻ろか」
「うん。書類の不備確認したいから」
と教室にもどる藍里と清太郎。やはり2人で戻るとクラスメイトたちがニヤニヤ見てる。藍里は少し平気になった。それは清太郎が幼馴染であったし、昔も小学生の時だったが平気でいつも一緒にいたからなのか。
席に戻って書類を出す。清太郎は横の席でそれを見ている。
さくらの職業欄が「サービス業」と殴り書きされているだけであった。そういえば、と藍里はさくらがどんな仕事をしているのを具体的に知らない。
日中はほぼいないし、週に1日くらい休んだかと思ったらすぐ夜に出たり、朝帰りだったり、月初は時雨が来てからは夜遅くから出てほとんどいなかったり、生理の日は休んで……。
サービス業とは。
「サービス業ってなにがあると思う?」
「藍里のファミレスで働いてるのもサービス業になるけど飲食店勤務になるよな。それにお前は裏方だからなー。俺の弁当屋のバイト……あれもサービス業にも含まれるな。定義は広い」
そう言われると一体何なんだと。
「そいや、藍里は進路とか決めてんの」
「……まだ」
「来月には進路相談あるから決めとかないとな。まだ時間あるから、じゃないと担任に勝手に流されるように適当な進路に導かれるぞ」
「それはやだ」
藍里は言えなかった。女優になりたい、でもどうなればいいかわからないが。
ずっと気怠さがある藍里。やはり生理なのか、彼女は貧血になりやすい。
よくさくらが焼き鳥屋さんでレバ串を買ってくるがあれほど不味くて苦手なものはない。
さくらは好んで食べていたが理解できなかった。
「嫌でも食べられるようになるけど今からたくさん食べておきなさい」
と言われても食べたくなかった。パサパサしてまずい。
授業中も集中できないくらいの気怠さ。お腹も痛い。
学校も終わり、通学路を清太郎と歩く。歩くのも気だるいが家に帰ってもすぐバイトがある。
「今日、バイト先に行っていい?」
「えっ、まぁいいけど。私は出てこないけど」
「藍里が作ったもの食べられるやん」
「仕上げだけだから」
「それでもいい」
「変な人」
清太郎は歩くのが早い。藍里は合わせるのが大変だ。まだお腹痛い。
清太郎の話を半分ぐらい上の空である。子供の頃もこうして話して帰ったような、というのも思い出す。
「そういえば宮部くんのお母さん、お花まだ好き?」
清太郎の母はガーデニングが好きで常に花を庭に埋め尽くしていた。
「おう、ここ最近はガーデニング講師をやっとる」
「すご」
「最初は近所の人で集まって教えてたけどだんだん広まって今じゃカルチャースクールでも教えてる。親父もいないからすごくのびのびしとるな」
「好きなことを仕事にできるっていいな」
「そやけど母ちゃんは『好きを仕事にするのはダメヨォ』って」
と、清太郎は彼の母親の口調と仕草の真似をした。藍里は思い出した。かなり特徴のある喋り方だったと。
正直さくらのことで病んでしまったというがそんな人に思えないほどポジティブでシャキシャキしていた。
「似てる……懐かしいなぁ」
「まぁ相変わらずうざい。ガーデニングやってるといろんなことを忘れる、とは言ってたがな」
と話していると藍里のマンションの前に着いた。もちろん一階のファミレスの客席が目の前にある。
ちらっとバイトの先輩と目が合い藍里は清太郎から離れた。
「じゃあ、これで」
「おう、仕事頑張れよ。俺もこのあと配達行くから」
「うん、頑張ろう!」
だがなかなかしんどい、ピークが来ていた。ここからバイトかぁ、と思うと憂鬱な藍里だった。こうやって毎日行きも帰りも清太郎と一緒というと思うと学校生活も楽しくなりそう、と彼の背中を見送りながら微笑む。
部屋に戻る。明かりはついているが静かである。玄関側の洗面所に行く。そういえばあの敷きパッド……とカゴを見るとなかった。
時雨が洗濯してくれたのだろうかと思うと恥ずかしくなった。
大抵この時間は時雨が料理をしているから料理中の音や匂いがするはずだと藍里は不思議がる。
あるいは時雨が寝てしまったか? さくらは仕事休みだしもしかして2人で……と良からぬことを考えてしまう藍里。あの時のリビングで2人が愛し合ってる時を思い返す。
リビングのドアの前に立ってじっと待つが音は聞こえない。誰もいないようだ。
「ママー、時雨くん?」
小さな声で藍里は部屋に声かけるが返事がない。
台所に行く。時雨がコンロの前でメガネを外して目頭を押さえて項垂れていた。
「藍里ちゃん、おかえり……」
「ただいま、敷きパッドありがとう」
「あ、うん。天気もいい取り込むよ」
時雨の目が真っ赤である。メガネをしてないのもドキッとするが……。
「大丈夫?」
「いや、玉ねぎみじん切りしてたら目に染みてさ……」
手元には玉ねぎはない。どころか何も手付かずであった。
「大丈夫じゃないじゃん」
と藍里は近づいて近くにあったキッチンタオルを時雨の目元にやる。
その時だった。
「藍里ちゃん~!!!」
時雨が藍里に泣きついたのだ。
藍里は突然のことにびっくりした。まだこの家の中にはさくらがいるかもしれないと思うと藍里はどしようって思ったら狼狽えるが、泣いている時雨を突き放すことはできない。
きっとさくらのことで泣いているのであろう。20も上の男性が泣き喚くのは初めて見た藍里。そして初めて父親以外の男性に抱きつかれたのがこんなシチュエーション。
いつかは願ってはいたのだがまさかこんな形で願いが叶うのかと……。自分の近くで大人の男性が自分の腕の中にいる感覚、なんとなく自分の父親に抱きついた時の自分を思い出す藍里。
父のことを抱きしめた小学生の頃、あの温かい体温、もさもさの髪の毛。さくらとは違った男の人の独特の香り。忘れてはいたが、なんとなく似ていた。藍里は少しぎゅっと抱きしめた。その中でずっと時雨は泣いている。いつもニコニコとしていたのに。初めて見た彼の弱さを知ることになった。
五分ほどして時雨は少しずつ呼吸も落ち着いてきて、藍里からキッチンタオルをもらい涙を拭って眼鏡をかけ、最後に鼻をすすって台所にある丸椅子に座った。
「ごめん、抱きついたりして……しかもこんな情けないところを見せてしまったよ」
「ううん、ビックリしたったけど。もしかしてママのことで?」
時雨は頷いた。さくらの部屋に行こうとしたが時雨に引き止められた。
「多分今日はダメだと思う、1人にしてやったほうがいい。食事は持っていくし、機嫌良くなったら良くなったで彼女のペースに合わせるしかない」
「こういうこと初めてじゃないよね。ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ、僕は何もできなくて不甲斐ないって気持ちでいっぱいなんだ」
時雨はグッと口を閉じる。彼はさくらから前の夫、綾人から受けたモラハラを全て聞いている。不定期に彼女が不安定になるたびに寄り添っていたのだが今日はもう耐えられなかったようだ。
「藍里ちゃんのお父さんのことを悪くいうつもりはないし、したくはないけども……離婚して離れても彼女の心の傷はとにかく深い。心の暴力は目に見えない、その傷はずっとさくらさんの心をえぐり取って。僕が美味しいものを作っても抱きしめても宥めてもなんともならない……それが悔しい」
時雨は再び涙が溢れるがすぐ左手で拭った。藍里もさくらと一緒に逃げたのだが逃げる前から常に不安定だったし、当たられていたし、逃げてからも施設にいる時もまだまだ怯え、離婚が決まって再び地元の近くに戻ってからも、時雨がいても時折襲ってくる不安定さは藍里にもどうすることもできなかった。
もうさくらは綾人から離れて何もひどいことも言われてもされてもいないのに、なんでだろうって思うしかなかった。ここしばらく時雨といる時はあんなに笑うようになったのに、もう自分にヒステリックに泣き叫ばれることもないとホッとしていたのに、藍里も時雨の涙に泣きそうになったが涙は出なかった。
「悔しがることないよ。ママは時雨くんと一緒になってから笑うようになったし。それにいつも料理してくれるじゃん……家事だって。それだけでも私は助かってるよ」
そう藍里がいうと、時雨は小さくありがとう、と言った。
「……今日は賄い食べてくるんだっけ」
「うん。でも時雨くん料理好きだから少し時雨くんの料理食べたいけど……今からでは無理だよね」
時雨は何も手付かずの台所を見たが横に首を振った。そして冷凍庫を開けた。
「こういう時のために冷凍食品ってのがあるんです」
目を真っ赤にしながらもニカっといつものように笑った時雨。冷凍庫にはいくつかの冷凍食品。藍里は笑った。冷凍ポテトを取り出した。
「私はこれを揚げるだけでもいいけどこれを使ってジャーマンポテトとかチーズグラタンとか好き。簡単なんだもん」
「簡単でいいんだよ。揚げなくても炒めたりトースターでチンするだけ。今日はどっちがいい?」
「じゃあ……チーズ乗せ。これだったら私もできる」
「おう、じゃあご飯は炊けてるんだけど……卵スープ作るよ」
「はぁい」
さっきまでしんみりと静かだった台所が明るくなった。2人で台所にいることはよくあるがほとんど時雨が料理をしてて、その傍で藍里は話をしてることが多かった。
時雨も手を動かしているうちにいつも通りに笑顔になっていく。藍里はグラタン皿を出して以前時雨がやってたようにバターを塗ってポテトを入れて塩胡椒し、ピザチーズをのせた。そしてその上に青のりを皿に乗せた。
「前よりも手際いいね」
「見てたからね、時雨くんの」
「……覚えてくれてたんだね。あ、それに刻んだベーコン乗せると皿に美味しい。さくらさんが好きなんだ」
「ふふっ」
「なんなんだい」
時雨が割った卵をかき混ぜて温めたスープの中に入れる。
「ママのことを常に考えているもん」
「ハハッ、そりゃさくらさんも好きなんだもん。あ、ちょっとトイレ行ってくるからスープ見といてね」
藍里は少し心が苦しくなる。やはり時雨はさくらの恋人。トースターの中にいれてタイマーをセットする。トースターの窓からポテトの上で少しずつ溶けていくチーズを眺めていく。
「……さくらさんも……も?」
ふと口に出す藍里。その、「も」という言葉に引っかかった。