恋の味ってどんなの?

 朝の教室、生徒達がざわつく。もうすぐ担任が来るというのに。それはいつものことだろうが、少し何か違う。

 窓際で本を読みながら級長の宮部清太郎はそれを感じ取っていた。というか知っていた。担任から今日は転校生が来ると。
 神奈川県から引っ越してきて、以前清太郎と同じ故郷に住んでいたと。他にも訳があってクラスに馴染めるようサポートしてくれないかと言われたのである。

 告げられた名前を聞いて清太郎はハッとした。

「ねぇ、なんかみんな騒がしいけどなんでなんで」
 転校生が来ることを知らない一部の生徒。


「今日転校生が来るんだって……ねぇ、宮部くん」

 と、急に振られて清太郎は頷く。転校生が来ると知っていた数名、そして声のでかい女子生徒が「転校生」と言うキーワードを発したらさらに教室はざわつく。

 転校生が誰かを知ってるのは級長である清太郎だけだったから。

「ねぇ、どんな人? イケメン?」
「いや、男とは限らんだろ、ほら……宮部の横の席空いてるから女の子じゃない?」
「えー、なんで宮部くんしか知らないの。ずるーい。さらに口硬いから一切教えてくれないし!」

 詰め寄られる清太郎は読んでいた本で覆う。

 
「おい、お前ら席につけ!」

 チャイムと共に大きな声の担任が入ってきた。まだその転校生は入ってきていない。生徒達は慌てて自分の席に着く。高校2年生ともあり、内申点を気にしてか教師のことは従わなくてはという生徒もいるのだろう。

 清太郎はため息をついて本に栞を挟んで席に戻って
「起立、礼」
 と声を出す。

「おはようございます」
 教室に声が響く。

 清太郎は声がでなかった。なぜかというと扉の向こうに立っていた転校生の女子生徒、藍里と目があったからだ。



 清太郎と藍里は中学を上がる前に離れ離れになった。急にだ。
 子供の頃からずっと仲良かった、バイバイといえば次の日も会える、と思ってたのに。
この数年間、なぜ会えなかったのか。もう会うこともできないのかと。

 高校2年生の夏休み明けにこのような形で再会するとは。
 2人はずっと見つめ合っていた。
「宮部くん、どうしたのずっと立ってて……てかあんたが着席って言わないとみんな着席しないんだけど」
 前の席の女子に言われ清太郎は慌てて
「着席っ!!!」
 と、言うと教室は大爆笑。藍里も笑っていた。

「実は宮部と百田さんは同郷……幼馴染らしい」
 余計なことを言うなよ、と清太郎は頭をかくが藍里は彼を見ている。

「はじめまして、神奈川からきました百田藍里です。先生がご紹介してくださった通り私は隣の岐阜県で生まれました。訳あって中学前に母と神奈川に行き、また隣の県ですが愛知県に戻ってきました。この辺りはよくわかりませんが、早く慣れて遊びに行きたいです」
 藍里は緊張しつつもサラサラと話すそのそぶりを見てクラスメイト達はハッとする。

 姿勢も良く、容姿も整った藍里にクラスメイトたちは惚れ惚れする。
 そして変に清太郎と藍里を茶化すことはしなかった。

 そして藍里が清太郎の横の席に座る。
「……久しぶりやな、藍里。てか苗字は……」
「まぁ色々あってさ」
「……色々」
 清太郎は担任の目を気にして喋りかけるのはやめた。藍里の横顔を見て最後に見たあの時の姿と比べる。
 こんなに美しくなったのか、と。

 藍里も清太郎の目線が黒板に移った同時に彼を見る。あの頃は自分よりも小さかった彼も自分よりも背が高いであろう、そして喉仏。子供っぽさが抜けて大人の男に近づいた横顔にドキッとする。

 しかし、彼女は少し苦い顔をしている。


「なんでこのタイミングで?」
 それは一般の高校生が夏休みに入る前だろうか。藍里と母のさくらが神奈川から愛知のとある市のマンションに越してきたばかりのことだった。

 さくらの職場の同じ系列先から引き抜きがあり、それが地元の岐阜の隣であった愛知県に移動することになった。
その会社の所長の妹がマンション経営をしていてそこの一室を紹介してくれたのだ。

 5階建ての最上階角部屋。それもこれもさくらが仕事で可愛がられたから、とのことだが一階が某チェーン店のファミレスともあって夜まで良い言い方をすれば賑やかである。

 築数もそれなりに経ってるが2LDKでトイレ風呂別と母の二人暮らしには贅沢ではある。あれやこれやらのワガママは言ってられない。

 他にもこの2人にはとある事情があるからだ。


 母娘2人で生活するようになったのもこの5、6年のことで、それまでは岐阜で父母娘という典型的な核家族で過ごしていた。
 と言っても藍里の父親は正社員の仕事の傍ら趣味の演劇サークルの主催をし、なおかつ藍里自身も子役として小さい事務所に所属をして稽古やオーディションを受けていて、さくらはマネージャーとして駆け回っていた。

 しかし家族でせっかく集まれたかと思うと父はさくらのやることなすこと全てを否定し、完璧にやってもアラを探してほじくり返すことをしているため、常に家庭の中はピリピリしている。怒られないよう、いびられないよう、さくらは耐え続けている姿を藍里は目の前で見ていた。

 かと言って父は藍里に対しては優しく接していたのであったため、彼女はそこまで父のことは怖いとか嫌だとかは思っていなかった。

 ただ、家族で集まるあの空気感が嫌いだった。

 しかしそれは急に変わることになる。数日前から見知らぬ女性2人がやってきてさくらと話をしているのだ。
まだ小6であった藍里は何か深刻な話をしている、それだけはわかっていた。

 その数日後。
「今から荷物まとめなさい。修学旅行で使ったキャリーケースに必要なものを、いい?」
 藍里は突然そんなことを言われてもわからず、狼狽えている最中、さくらがキャリーケースを出して開き、藍里と共に荷物を入れた。

「ママはもう用意したからあんただけ。あ。それは要らないわよ。本当に必要なものだけ」
 漫画本やぬいぐるみはすぐさまキャリーケースから捨てられた。

 そしてキャリーケース以外にも普段使っているカバンに貴重品や通帳、他にももう一つ大きなカバンに下着類を詰め込まれて一時間で終わらせ、家から出て車に積んだ。

 これは父がいない間の夕方に行われた。

 藍里は訳もわからず車に乗る。ふとその時頭によぎったのは……清太郎のことだった。



 それからは藍里は小4の頃から持たされていたスマホは使えなくなり、4年間見知らぬ土地……神奈川のとある社宅に身を寄せていた。さくらは仕事と離婚の手続きのために家を留守にすることが多かった。

 父から娘だけでも、と藍里との面会要請もあったがさくらは拒否をした。

 清太郎をはじめ、地元の友達とも連絡が取れない、越した先の中学校、高校では馴染めず友達ができなかった藍里。

 だが父から離れ、一年で離婚が決まったあとのさくらは少し穏やかになっているのを見て良かったのか……と思うしかなかったのであった。

 父といたさくらは表情は暗く、笑わず何か伺うような顔、藍里に対しても八つ当たりをしていたのだが今ではとても穏やかで、化粧もするようになって全く別人な女性になったことに藍里は驚いていた。

 さらにさくらの仕事の関係で愛知に移り住み、ここ最近はもっと美しくなったことに気づいたのは同性だからなのか。

 さくらはよく笑う、機嫌も良い。

 藍里は一人で家にいることはもう慣れていた。勉強はできた彼女は新しい高校にテストで合格した。
制服の一式を学校のご厚意でいただき、真新しい制服に腕を通した。

 母のさくらが変わったのなら自分も変わらなくては……姿見を前にそう誓った藍里だった。

 そんな最中にさくらが帰ってきたのだ。
「帰ったよー」
 声がいつもよりも明るい、それにも気づいた。

 予感は的中した。さくらの横にとある男性が立っていたのだ。

「藍里、彼氏連れてきた」
 にかっとさくらが笑う横にその若い男性も笑った。

 藍里はその男性の微笑みにドキッとした。久しぶりの感覚、いや今までにない心臓の昂りに戸惑った。

 その彼氏、時雨《しぐれ》くんとさくらに紹介されてから時雨くんと藍里も呼ぶ。
 さくらよりも6歳年下で三十四歳、(藍里にとっては10いくつ近く上になる)背は藍里と同じくらいの166センチ。少し童顔で実年齢には見えないが最近の流行は知らないようで、その辺りが三十四歳だなと藍里は感じた。

 なんと時雨がその日から一緒に住むことになったのだ。
 今まで女二人の生活に見知らぬ若い男性。父親とも最近暮らしてないし、神奈川での転校先の学校では男子とも馴染めず、男性とろくに喋ることはしばらくなかった。

 時雨はもともとは名古屋の料亭で働いていて、そこでさくらは出会って一目惚れして付き合うようになったとのことだが、その直後に料亭は経営不振で潰れて住み込みで働いていた時雨が宿なしになってしまったところをさくらが助けたのである。

 もちろん時雨はさくらの部屋で寝起きする。しかししばらく仕事先が見つからず、なおかつさくらが仕事でいない時が多いため料理や家事が得意な時雨が受け持つことになり、お小遣い付きの家政夫として雇われたという形になったのでほぼ家に時雨がある状態。

 つまり藍里はさくらよりも時雨と過ごす時間が多くなるというわけである。
かといいつつも藍里はさくらのことを援助するためにアパート階下にあるファミレスの厨房で働いてた。

 ウエイトレスの可愛い服を着たかったがそれを横目に奥の厨房で夏休み中は皿洗いから始まり、夏休み終わる頃にはメニュー全て食べ尽くし、覚え、盛り付けや仕上げも任せられるようになるが、家事を手伝ったり料理はしたことが無く、あまり上手くいかず……夏休みは与えられた課題をするなどで受験前の高校2年生の夏休みは終わってしまった。

 そんな藍里のそばには時雨は毎日いたし、昼のファミレスの賄い以外は時雨の料理を食べていた。

 見た目も綺麗で、美味しい、そして手際良い彼の料理に藍里はすっかり胃袋を掴まれ、優しく微笑み勉強を教えてくれたり、愚痴を聞いてくれる時雨に心も掴まれていた。


 でもあくまでも時雨はさくらの彼氏である。時間が不変動なさくらの仕事。
夜遅くに仕事して朝早く帰ってきて疲れて帰ってきた時、藍里はまだ寝ていたがドアの音で帰ってきたのはわかっていた。

 少ししたあと、藍里はリビングに行く手前でドアノブを回すのをやめた。

 リビングにさくらと時雨が2人でいる。時雨がさくらに甘えていた。それに応えるようにさくらも甘い声を出す。

 昨晩、藍里と時雨二人でゲームして過ごして笑いあってたあのソファーでさくらと時雨は愛し合ってるのだ。

 そこで藍里は時雨はさくらのものだ、と気付かされる。

 部屋に戻って布団をかぶると心臓がバクバク言ってることに気づく。まだ藍里には男女の深い関係どころか甘い関係を経験したことはない。ドラマや映画、漫画でしか知らない。
 そしてさくらがあんなに父に体を触られて拒絶していたのに今では時雨に体を許し、甘い声を出している、彼女も大人の女であるのかと。そして時雨のあの声も……聞いただけで何か身体の部分が熱くなる。

 1時間経ってからそろそろいいかと藍里はわざとドアを音が鳴るように開けて足音も大きくリビングに向かう。まだ二人一緒だったら……。

「おはよう、藍里ちゃん。朝ご飯できてるよ」
 屈託のない笑顔の時雨くん。ふとリビングのソファーを見る。二人はあそこで……なんぞ思いながらもダイニングの上に置いてあるホットドックとコーンスープとサラダ。

 さくらと混ざり合った後に作ったのか、複雑な気持ちでまずコーンスープを飲む。

「ママは?」
「さくらさんは寝てるよ。今日もお昼まで寝てるらしい」
「そうなんだ。じゃあ起きたら私はいつもの時間に上がるよって言っといて」
「わかった。伝えとく」

 と時雨もホットドッグを齧る。すこし粒マスタードの辛味が舌に来たが、今まで知らなかった時雨の大人の男な部分を知り、藍里は下の中はとても辛味と苦味が混ざる。

「辛かったかな……粒マスタード」
「……うん。でもこれがあるから美味しさ引き立つのかな」
「高二でこの美味しさ知っちゃったな」
 ニカっと笑う時雨。そして何かに気づき、藍里の口元に指を近づけた。
 時雨の右人差し指が藍里の口の端についた粒マスタードを掬い、そのまま自分の口に入れた。

 その仕草に藍里はドキッとした。
「……付いてた」
時雨も藍里のことを見ていた。なんとも言えない空気感が二人の間に流れる。

 それは一般の高校生が夏休みに入る前だろうか。藍里と母のさくらが神奈川から愛知のとある市のマンションに越してきたばかりのことだった。

 さくらの職場の同じ系列先から引き抜きがあり、なんと地元の岐阜の隣であった愛知県だったのだ。
 その会社の所長の妹がマンション経営をしていてそこの一室を紹介してくれたのだ。

 5階建ての最上階角部屋。それもこれもさくらが仕事で上の人から気に入られたから、とのことだが一階が某チェーン店のファミレスともあって夜まで良い言い方をすれば賑やかである。

 築数もそれなりに経ってるが2LDKでトイレ風呂別と母と娘二人暮らしには贅沢ではある。あれやこれやらのワガママは言ってられないものだが……。

 他にもこの2人にはとある事情があるからだ。


 母娘2人で生活するようになったのもこの5、6年のことで、それまでは岐阜で父母娘という典型的な3人の核家族で過ごしていた。
 と言っても藍里の父親は正社員の仕事の傍ら趣味の演劇サークルの主催をし、なおかつ藍里自身も子役として小さい事務所に所属をして稽古やオーディションを受けていて、さくらはマネージャーとして駆け回っていた。

 しかし家族でせっかく集まれたかと思うと父はさくらのやることなすこと全てを否定し、完璧にやってもアラを探してほじくり返すことをしているため、常に家庭の中はピリピリしている。怒られないよう、いびられないよう、さくらは耐え続けている姿を藍里は目の前で見ていた。

 かと言って父は藍里に対しては優しく接していたのであったため、彼女はそこまで父のことは怖いとか嫌だとかは思っていなかった。

 ただ、家族で集まるあの空気感が嫌いだった。

 しかしその生活は急に変わることになる。数日前から見知らぬ女性2人がやってきてさくらと話をしているのだ。
 まだ小6であった藍里は何か深刻な話をしている、それだけはわかっていた。

 その数日後。
「今から荷物まとめなさい。修学旅行で使ったキャリーケースに必要なものを、いい?」
 藍里は突然そんなことを言われてもわからず、狼狽えている最中、さくらがキャリーケースを出して開き、藍里と共に荷物を入れた。

「ママはもう用意したからあんただけ。あ、それは要らないわよ。本当に必要なものだけ」
 漫画本やぬいぐるみはキャリーケースから捨てられた。

 そしてキャリーケース以外にも普段使っているカバンに貴重品や通帳、他にももう一つ大きなカバンに下着類を詰め込まれて一時間で終わらせ、家から出て車に積んだ。

 これは父がいない間の夕方に行われた。

 藍里は訳もわからず車に乗る。ふとその時頭によぎったのは……清太郎のことだった。



 それからは藍里は小4の頃から持たされていたスマホは使えなくなり、4年間見知らぬ土地……神奈川のとある社宅に身を寄せていた。さくらは仕事と離婚の手続きのために家を留守にすることが多かった。

 父から娘だけでも、と藍里との面会要請もあったがさくらは拒否をした。

 清太郎をはじめ、地元の友達とも連絡が取れない、越した先の中学校、高校では馴染めず友達ができなかった藍里。

 だが父から離れ、一年で離婚が決まったあとのさくらは少し穏やかになっているのを見ることができて良かったのか……と思うしかなかったのであった。

 父といたさくらは表情は暗く、笑わず何か伺うような顔、藍里に対しても八つ当たりをしていたのだが今ではとても穏やかで、化粧もするようになって全く別人な女性になったことに藍里は驚いていた。

 さらにさくらの仕事の関係で愛知に移り住み、ここ最近はもっと美しくなったことに気づいたのは同性だからなのか。

 さくらはよく笑う、機嫌も良い。

 藍里は一人で家にいることはもう慣れていた。勉強はできた彼女は新しい高校にテストで合格した。
制服の一式を学校のご厚意でいただき、真新しい制服に腕を通した。

 母のさくらが変わったのなら自分も変わらなくては……姿見を前にそう誓った藍里だった。

 そんな最中にさくらが帰ってきたのだ。
「帰ったよー」
 声がいつもよりも明るい、それにも気づいた。

 予感は的中した。さくらの横にとある男性が立っていたのだ。

「藍里、彼氏連れてきた」
 にかっとさくらが笑う横にその若い男性も笑った。

 藍里はその男性の微笑みにドキッとした。久しぶりの感覚、いや今までにない心臓の昂りに戸惑った。


 その彼氏、時雨《しぐれ》くんとさくらに紹介されてから時雨くんと藍里も呼ぶ。

 さくらよりも6歳年下で三十四歳、(藍里にとっては10いくつ近く上になる)背は藍里と同じくらいの166センチ。少し童顔で実年齢には見えないが最近の流行は知らないようで、その辺りが三十四歳だなと藍里は感じた。

 なんと時雨がその日から一緒に住むことになったのだ。
 今まで女二人の生活に見知らぬ若い男性。父親とも最近暮らしてないし、神奈川での転校先の学校では男子とも馴染めず、男性とろくに喋ることはしばらくなかった。

 時雨はもともとは名古屋の料亭で働いていて、そこでさくらは出会って一目惚れして付き合うようになったとのことだが、その直後に料亭は経営不振で潰れて住み込みで働いていた時雨が宿なしになってしまったところをさくらが助けたのである。

 もちろん時雨はさくらの部屋で寝起きする。しかししばらく仕事先が見つからず、なおかつさくらが仕事でいない時が多いため料理や家事が得意な時雨が受け持つことになり、お小遣い付きの家政夫として雇われたという形になったのでほぼ家に時雨がある状態。

 つまり藍里はさくらよりも時雨と過ごす時間が多くなるというわけである。
かといいつつも藍里はさくらのことを援助するためにアパート階下にあるファミレスの厨房で働いてた。

 ウエイトレスの可愛い服を着たかったがそれを横目に奥の厨房で夏休み中は皿洗いから始まり、夏休み終わる頃にはメニュー全て食べ尽くし、覚え、盛り付けや仕上げも任せられるようになるが、家事を手伝ったり料理はしたことが無く、あまり上手くいかず……夏休みは与えられた課題をするなどで受験前の高校2年生の夏休みは終わってしまった。

 そんな藍里のそばには時雨は毎日いたし、昼のファミレスの賄い以外は時雨の料理を食べていた。

 見た目も綺麗で、美味しい、そして手際良い彼の料理に藍里はすっかり胃袋を掴まれ、優しく微笑み勉強を教えてくれたり、愚痴を聞いてくれる時雨に心も掴まれていた。


 でもあくまでも時雨はさくらの彼氏である。時間が不変動なさくらの仕事。
夜遅くに仕事して朝早く帰ってきて疲れて帰ってきた時、藍里はまだ寝ていたがドアの音で帰ってきたのはわかっていた。

 少ししたあと、藍里はリビングに行く手前でドアノブを回すのをやめた。

 リビングにさくらと時雨が2人でいる。時雨がさくらに甘えていた。それに応えるようにさくらも甘い声を出す。

 昨晩、藍里と時雨二人でゲームして過ごして笑いあってたあのソファーでさくらと時雨は愛し合ってるのだ。

 そこで藍里は時雨はさくらのものだ、と気付かされる。

 部屋に戻って布団をかぶると心臓がバクバク言ってることに気づく。まだ藍里には男女の深い関係どころか甘い関係を経験したことはない。ドラマや映画、漫画でしか知らない。
 そしてさくらがあんなに父に体を触られて拒絶していたのに今では時雨に体を許し、甘い声を出している、彼女も大人の女であるのかと。そして時雨のあの声も……聞いただけで何か身体の部分が熱くなる。

 1時間経ってからそろそろいいかと藍里はわざとドアを音が鳴るように開けて足音も大きくリビングに向かう。まだ二人一緒だったら……。

「おはよう、藍里ちゃん。朝ご飯できてるよ」
 屈託のない笑顔の時雨くん。ふとリビングのソファーを見る。二人はあそこで……なんぞ思いながらもダイニングの上に置いてあるホットドックとコーンスープとサラダ。

 さくらと混ざり合った後に作ったのか、複雑な気持ちでまずコーンスープを飲む。

「ママは?」
「さくらさんは寝てるよ。今日もお昼まで寝てるらしい」
「そうなんだ。じゃあ起きたら私はいつもの時間に上がるよって言っといて」
「わかった。伝えとく」

 と時雨もホットドッグを齧る。すこし粒マスタードの辛味が舌に来たが、今まで知らなかった時雨の大人の男な部分を知り、藍里は下の中はとても辛味と苦味が混ざる。

「辛かったかな……粒マスタード」
「……うん。でもこれがあるから美味しさ引き立つのかな」
「高二でこの美味しさ知っちゃったな」
 ニカっと笑う時雨。そして何かに気づき、藍里の口元に指を近づけた。
 時雨の右人差し指が藍里の口の端についた粒マスタードを掬い、そのまま自分の口に入れた。

 その仕草に藍里はドキッとした。
「……付いてた」
時雨も藍里のことを見ていた。なんとも言えない空気感が二人の間に流れる。
 その時
「喉乾いちゃったー。藍里おはよ」
 と、さくらが上はスエットで下はショーツだけという姿で現れた。藍里にとってはこんな母の姿は見たことがなかった。

 女二人の生活でさえもこんな姿はしなかったのに時雨が来てからというとさくらはとても笑い、微笑み、そして男の人に甘える。
 前の夫に対しては笑いもせず、いつも怯え、顔色を伺い、よく泣いていた。

 藍里はこんな顔をするのかと驚くばかりである。化粧も彼と付き合った頃からであろうか、上手になっていき髪型も服装もそれなりによくなっていく姿を見ると恋をしたらこうなるのか、では前の夫に対しては恋もなかったのかと不思議になるものだ。

 だがいくらなんでもスエットにショーツという姿、ノーブラでもあるその姿は流石に気が緩みすぎている、だが先ほどリビングのソファーで時雨と絡み合って甘い声を出していたさくらのことと重ねるとその姿はとてもセクシーに感じ、目のやり場に同性であっても戸惑ってしまう。

 やはり親の性に触れるとどうしたもんだか、なんかモゾモゾと感じてしまうのだろう、そして前の夫から藍里の目の前でやられていたボディタッチやハグやセンシティブな箇所を触る行為、すべてさくらは嫌がっていた。子供の前だからやめて、触るのをやめてと拒否している姿を藍里は目に焼き付けていた。

 あんなに嫌がっていた母親が今では別の男に抱かれても抵抗なく、そしてこんな露わな姿を娘に見せられるのはなぜなのか、藍里の中でぐちゃぐちゃと複雑な感情が生まれる。

「さくらさん、下のズボンは?! 藍里ちゃん見てるし……」
 かなりの慌てようの時雨は慌ててさくらのところに行き、近くにあったブランケットを彼女の腰に巻きつけ高校2年生の多感な藍里のために隠した。

「そんなことしなくてもいいの。私は水が飲みたい」
 と甘える。家事も料理も掃除も時雨に甘えっぱなしのさくら。
 前の時は家事に対して手を抜けなかった。料理も掃除もすべて前の夫が厳しくチェックされていたのだ。

 完璧にやっても粗を探られる。少しでも楽をしようとするのであれば論破されて正される。さくらが怯えてたりしていたワケはこれに一致するものだが、彼女は総じて家事が得意でなく、ずっと苦労していたようだ。
 母娘二人暮らしの時でさえもうまくできずにすぐ部屋は汚くなり、料理もインスタントを使うようになった。前の夫のときには絶対使わなかった。

 無理をしていたのだ、さくらは。

 藍里自身もさくらから教わることもなくここまできたが、バイト先で調理補助がうまくできなかったときに
「お前は親の手伝いをしなかったからできないんだ」
 となじられて苦しくて悔しい思いをしたことがあった。何度も練習はしたができないとなるとさくらと同じくどうやらうまくでにないようだ。

 その時ばかりはさくらを憎みたくなるものだが、そんなことしてもどうにもならないと藍里は胸にしまった。

 家事をしなくなったさくらはなぜかのびのびとしてて穏やかで自分に負の感情を当てられないと思えばまだいいか、と。

 そしてさくらは水を飲んだ後また部屋に戻って行った。
「……時雨くん、優しいよね」
「そうかな。あ……コーヒー持ってくるよ」
 少し頬を赤らめている時雨ば台所に行った。

「そういえば藍里ちゃん、もう少ししたら学校だね。前、かわいい制服着てたけどあそこはこの辺ではいい学校って聞いたよ」

 台所からそう話しかけられる。時雨は二人が初めて会った時に藍里が着ていた制服を、覚えていたようだ。

「そうなんだ。聞いたことなかったけど制服とか色々とくれたから」
「そこか、まぁすごいよね。2年生からでも受け入れてくれるとかいい学校だと思うよ。大学もいいところに進学してる確率高いし」

 大学……と藍里は口に出した。

「藍里ちゃんは将来何になりたいの? そいやあまりそういうこと聞いたことがなかったなぁって」
「将来かぁ」

 いきなり全てを捨て何もかも失い、将来よりも明日、いや今をもがいて生きていた彼女には将来についてしばらく考えていなかったと。目の前にコーヒーを出してもらい、猫舌な彼女はゆっくりと啜る。

 コーヒーが飲み終わるまで答えはできなかったが、過去に抱いていた夢は思い出した。


 女優になりたかった、ことを。
 藍里は実は赤ん坊の頃から子役モデルとして活動していた。最初は親のエゴであったが、子供の頃から芸能界という中で過ごすのは彼女にとっては当たり前で日常的であってずっとその中で生きる者だと子供ながらに思っていた。

 アマチュア演劇で活動する父とその彼と同じサークルの後輩であった、さくらも実は演劇経験者で結婚と同時に役者を諦めて、娘である藍里に全てを託した。そのためマネージャー業も徹していた。

 藍里はとある劇団で舞台女優として活躍するさくらの映像を見せてもらった時に
「私も女優さんになりたい」
 と言った。裏役に徹して化粧っ気もなく地味になった母親が自分の知らない時に華々しい美しい見たこともない表情や声で活躍する姿は別人のように見えたが、すごく憧れでもあった。

 子供だからと多くの大人から可愛い可愛いとチヤホヤされつつも、子役として活躍して成功するのはほんの一握りで、藍里のこれといった大きな仕事はあまりなく、地元のスーパーの広告だったり、ドラマのエキストラや他の有名な子役を引き立てる生徒役だったり、バックダンサーだったり。
 唯一、全国区で流れた一つのCMがあるが半年後にその会社が倒産してしまい、終わってしまった。
 そして藍里が小学生に上がった頃に同じくして所属事務所が潰れて藍里の芸能人生はあっという間に終わりを迎えるのであった。

 それ以来は普通の小学生として過ごしていた。彼女が子役だったことを知る人はほんの僅かで、演劇の時間であっても藍里は目立とうともしなかった。

 しかし夢は心の中に残していた。だがじしんの女優の夢も、娘の夢も手放したさくらの前では言ってはいけないと子供ながら思っていた藍里は黙っていた。

「僕のね夢は店を出すことなんや」
 過去のことを思い出していた藍里は時雨のその一言で一気に現実に戻った。

「料理屋さん?」
「そう。……実家で母さんが居酒屋やっててそれを手伝ってるうちに料理が楽しいって思えてさ」
「すごく美味しいもん、時雨くんの料理」
「ありがとう。母ちゃんや一緒に働いてたおばさんのを見よう見まねでやっとったんやけどさ、もっと上手くなりたいって思ったから前の料亭に住み込みで10年働いてたん」
「10年も!」
「なんだかんだでね……お金貯まったら、と思ってるうちに居心地良すぎて。店の雰囲気も大将やみんなといるのが楽しいし勉強もなったん」

 ニコニコと語る時雨。こんなに愛嬌があったら多くの人に可愛がられるのも目に見える。そんなふうに藍里は思ってた。

「仕事以外でも料理はしてたの?」
「うんうん、住み込みでもあったけどさ。今日は誰が賄い作る? 朝ごはん作る? って。実家の時も忙しい母ちゃんと一緒に家事や料理もしとったんや」
「だから家事もテキパキできる……」
「下に弟おってな。2人で一緒にな」
「男の人なのに家事とか料理するのね」

 と、藍里が言うと時雨はン? という顔をした。

「んー、家事料理は男女も関係ないよ」
 再びニコッと笑う時雨。

「好きな人がやればいい。僕は好きだった」
「でも好きじゃない人は?」
「んー、それはみんなで協力すればいい。それでもダメならそういうサービスに頼るのもよし」
「お金かかるよ……何回か頼まなきゃいけないことがあってさ、ママが倒れた時」
「ほぉ」

 藍里はその時のことを思い出した。まだ離婚する前だった頃か。さくらがメニエールで倒れてしまったのだ。父親は仕事が忙しく、家事は全くしない、近くに彼の両親がいたが当時両方とも体調が悪くその時ばかり助けられないと言われ、藍里もまったく家事も料理ができない小学生であった。
 さくらはしかたなくこっそりハウスキーパーを雇うがバレて怒られていた。

「こんな高い金使うな!」
 床に落ちていたチラシを見たら確かに数字がいくつも並んでいた、と覚えている。

 父親は母親が倒れてどうする、倒れてでも最低限のことをしろと言っていた。
 実の所、さくらが結婚と同時に演劇を辞めたのも家事に専念して欲しいからとのことだった。だが父親の仕事があまり軌道に乗らなかったからさくらも仕事をしようとしたが社会人を経験せずに結婚したため上手くいかず、藍里に託したのもあるのだ。

 全てをさくらに押し付け家庭を顧みない父親、さくらに家事の不出来をなじる大きな声、さくらの啜り泣く声、そのストレスを藍里にぶつけるかのようにヒステリックに叫ぶ声……。

「藍里ちゃん? どしたの」
「……何でもない」
 また現実に引き戻された藍里。忘れたと思っていたがやはりふとした時に思い出す。

「でも誰もやれなかったらお金出してでも誰かに頼ってもいいんだよ。僕はそう思う。てか僕ってそうじゃない?」
 そういえば、と。時雨くんはさくらにこの家に住まわせてもらって家事料理全部やっているのだ。藍里は笑った。

「でしょ。でもお金だけじゃないよ。2人が楽しそうにニコニコとしてるのを近くで見られる、それも活力になってる。ありがとう」

 ありがとう、家事や料理を全部やってもらい、自分が反対に率先して言わなくてはいけないのに……と藍里はふと思う。

 時雨が来てからさくらは笑うようになった。ヒステリックに叫ぶことはなかった。

 そして自分も笑うようになった……と。

「ありがとう、時雨くん」
「どういたしまして」