今から何百年もその昔、京都のとある寺の住職が一人の男に絵を依頼したらしい。なんでも、新しく建設する法堂の天井に雲龍図を描いて欲しかったそうだ。

 その依頼した男というのが巷では神の手を持つと言われるほどに絵が上手く、過去に国からも大きな依頼を引き受けたこともある一流の絵師だった。住職いわく、そんな実績のある男に偶々依頼を受けてもらえたことはとても運が良く、さぞかし立派な雲龍図を描いてもらえるだろうと大きな期待をしていたという。

 しかし、寺に現れた男は噂で聞いていた一流の絵師とは思えないほどの薄汚い身なりをしていた。着ている着物はボロボロで、白髪混じりの髪は乱雑に纏められ髭は伸び放題。そして、依頼を受けた身でありながらも男は住職に対して愛想笑いの一つも無く、無気力気味に依頼の説明をする住職をボーッと見つめていた。話をしている声が聞こえているのかも分からない何処か生気を感じられない瞳は、まるで見えない何かを見ているようで。ただただ思考の読めない視線を静かに向ける男に、住職はいささか気味の悪さを感じていた。

 神の手を持つ一流の絵師という噂は、本当にこの男のことなのだろうか。住職はその男の様子に、噂で聞いていた話と目の前に現れた男は全くの別人ではないのかと酷く疑ったそうだ。薄汚い身なりをして何の気力も感じられない男に、巨大な雲龍図が描けるとはとても思えない。そう信じ難く思いつつも、住職はとりあえず様子を見るために男に雲龍図の制作を促したのだという。

 すると、男は音も無く立ち上がり依頼の説明を受けていた室内から外へと出ると、これから新しく法堂を建設する予定の場所まで足を運んだ。まだ何も建っていないだだっ広い土地に陣取るように胡座をかいて座り、持ち運んでいた風呂敷の中から一本の筆と何枚かの和紙を取り出すと静かに龍の絵を描き始めたそうだ。

 一頭、また一頭と何枚もの和紙に龍を描いては、微かに雑草が生える地面に落としていく。やがて男を中心に地面には、何頭もの龍の絵が広がっていった。時折風が吹いて飛んでいきそうになる和紙を住職は慌てて拾い集めながら、自分の描きあげた絵に対して目も向けずに新たな和紙へとひたすらに筆を走らせる男の様子に少し呆れたように溜め息を吐いた。

 その時だった。グッと肌を刺すような強烈な視線を感じたのは。住職は視線を感じた手の中に目を向けると、そこには紛れもない龍が居た。狭い和紙の中で窮屈そうに身体を丸めて、此方を射抜くように睨みつけている龍が。その瞬間、住職は強く確信したそうだ。この男が神の手を持つ本物の絵師だと。

 無気力気味で何処か生気を感じられなかった男の瞳は、筆を走らせるたびに徐々に熱の籠もった光を宿していった。頭の中のものを流れるように産み出していく男の様子は、得体の知れない何かに取り憑かれているようにも見えたと住職は言う。

 そうして、男は何ヶ月もかけてようやく雲龍図の構図を完成させると、今度は画材の調達やら作業を手伝ってくれる弟子たちを集めては忙しない日々が流れていった。住職の依頼した雲龍図の制作は、気が遠くなるほどに長い時間を要したという。毎日、毎日朝から晩まで一切の手を抜く事なく、巨大な一頭の龍に男は向き合い続けた。何年も何年も掛けて魂を注ぎ込むように丁寧に、男は龍を描き続けのだ。

 そして、七年もの月日が経ち、ようやくその雲龍図を描き終えた男の表情は、まるで愛おしい人を見つめるように酷く穏やかだったという…