(そうは仰るけれど、私には何も……)
蓮華は節目がちになり、黙り込んだ。‟愛する‟という言葉の意味を教えてもらっても、蓮華には依然として実感が沸かない。
(私には、なんの後ろ盾もない。そればかりか、世にひた隠しにされ続けていた存在だというのに)
「私は、蓮華様のお優しいお人柄がとても好きなのでございます」
「え……?」
「他人を見下さない。悪く言わない。とても謙虚で、礼儀正しい。そういうところを、お坊ちゃまも気に入られているのだと思います」
蓮華はそれでも腑に落ちなかった。はな子のいうように、自身ができた人間だとは思えないからだ。
千桜の面汚しとならぬよう、立派な淑女となるべく邁進しなくてはならないというのに、思うように手がつかなくなっている。こうなってしまっては、落胆されて追い出されてしまうかもしれない。
(どうしましょう……)
蓮華はそわそわと落ち着かなかった。
「気になるのであれば、直接旦那様に聞かれてみてはいかがでしょうか」
「それは……!」
表情を曇らせる蓮華に向けて、はな子は人懐っこい笑みを浮かべた。豆鉄砲を食らわされたかのごとく蓮華が口を開ける一方で、はな子はあっけらかんとしている。
(不躾にもほどがあるのではないかしら)
聞くといっても、いったい何をどのように切り出せばよいものか。
(いや、私が問いかけていいはずはないわ)
ただでさえ良くしてもらっているのだ。これまでに何も返せていないというのに、図々しいにもほどがあるではないか。
多忙な千桜に時間を使わせてはならない。
黙り込む蓮華相手に、はな子は親身になって寄り添った。
「蓮華様、これは、ご自身がどう思われるかは関係がないのです」
はな子のぽってりとした眉が優しく下がった。目尻が細められ、蓮華を宥めるようにして話しかける。
「ですが」
「大丈夫。旦那様は、そのようなことで機嫌を損ねたりいたしません」
「……はな子さん」
「他人の気持ちなど、聞かねば誰にだって分からないものです。だからこそ、時に踏み込んだ会話が必要なのでしょう」
蓮華はその日、はな子の身の上話を聞きながら読み書きの練習をした。
はな子は東北地方出身であり、十八歳の時、単身で上京をする。汽車に長時間揺られたのち、はじめて帝都の地を踏みしめた時の感動はすさまじかったと、はな子は言った。
蓮華は、たった一人で遠方まで出稼ぎにでるなど、不安はなかったのかと問いかける。きっと自分であったら、どこかで行き倒れてしまうだろうと思った。とてもじゃないが、はな子のような決断をすることなどできないとも考えた。
西洋文化が入り混じる街中で、田舎町からはるばるやってきたはな子は浮いていた。はな子の地元では洋服などは出回っておらず、普段着としては着物が主流であったのだ。ぎゅうぎゅうに建ち並んでいる近代的な建物。闊歩する紳士淑女。行き交う人々に揉まれながら、はな子は職を探した。
レストランの給仕もだめ、呉服屋の見習いもだめ、古書店の店番も買って出たがだめだった。
読み書きそろばんができることがはな子の強みだと思っていた。そのため、会計係にでも使ってほしいと申し出たが、帝都の大人たちは小馬鹿にするように鼻で笑った。
しばらく路頭に迷った末に出会ったのが、小鳥遊家だった。たまたま使用人の求人があり、面接を受ける。当時、はな子の面接対応をしたのは、千桜本人だった。
はな子ははじめ、表情がぴくりとも動かない千桜に恐れを抱いたという。ましてや、華族の――軍人の家など、田舎から出てきたばかりの自分にとっては敷居が高すぎたのかもしれないと思った。
だが、その印象はしだいに薄れることになる。淡々とした口調ではあるが、これまでのどの面接官よりも、はな子自身を知ろうとしてくれていたのだ。
これまで出会った人たちは、世間知らずの田舎娘としか見てくれなかった。
最後まで話を聞いてくれた試しもなく、かるく足蹴にされるのみ。悔しさとやるせなさで押しつぶされそうになっていたはな子にとって、この千桜との出会いは、人生においてかけがえのない宝物になった。
蓮華は、終始不思議な心地がした。
巴家にいたころは、千代も喜代も義母である美代も、その他の使用人に至っても誰一人として蓮華と口をききたがらなかった。昔話などもってのほかだ。蓮華にはほんの些細な会話をする相手すらいなかった。
蓮華は節目がちになり、黙り込んだ。‟愛する‟という言葉の意味を教えてもらっても、蓮華には依然として実感が沸かない。
(私には、なんの後ろ盾もない。そればかりか、世にひた隠しにされ続けていた存在だというのに)
「私は、蓮華様のお優しいお人柄がとても好きなのでございます」
「え……?」
「他人を見下さない。悪く言わない。とても謙虚で、礼儀正しい。そういうところを、お坊ちゃまも気に入られているのだと思います」
蓮華はそれでも腑に落ちなかった。はな子のいうように、自身ができた人間だとは思えないからだ。
千桜の面汚しとならぬよう、立派な淑女となるべく邁進しなくてはならないというのに、思うように手がつかなくなっている。こうなってしまっては、落胆されて追い出されてしまうかもしれない。
(どうしましょう……)
蓮華はそわそわと落ち着かなかった。
「気になるのであれば、直接旦那様に聞かれてみてはいかがでしょうか」
「それは……!」
表情を曇らせる蓮華に向けて、はな子は人懐っこい笑みを浮かべた。豆鉄砲を食らわされたかのごとく蓮華が口を開ける一方で、はな子はあっけらかんとしている。
(不躾にもほどがあるのではないかしら)
聞くといっても、いったい何をどのように切り出せばよいものか。
(いや、私が問いかけていいはずはないわ)
ただでさえ良くしてもらっているのだ。これまでに何も返せていないというのに、図々しいにもほどがあるではないか。
多忙な千桜に時間を使わせてはならない。
黙り込む蓮華相手に、はな子は親身になって寄り添った。
「蓮華様、これは、ご自身がどう思われるかは関係がないのです」
はな子のぽってりとした眉が優しく下がった。目尻が細められ、蓮華を宥めるようにして話しかける。
「ですが」
「大丈夫。旦那様は、そのようなことで機嫌を損ねたりいたしません」
「……はな子さん」
「他人の気持ちなど、聞かねば誰にだって分からないものです。だからこそ、時に踏み込んだ会話が必要なのでしょう」
蓮華はその日、はな子の身の上話を聞きながら読み書きの練習をした。
はな子は東北地方出身であり、十八歳の時、単身で上京をする。汽車に長時間揺られたのち、はじめて帝都の地を踏みしめた時の感動はすさまじかったと、はな子は言った。
蓮華は、たった一人で遠方まで出稼ぎにでるなど、不安はなかったのかと問いかける。きっと自分であったら、どこかで行き倒れてしまうだろうと思った。とてもじゃないが、はな子のような決断をすることなどできないとも考えた。
西洋文化が入り混じる街中で、田舎町からはるばるやってきたはな子は浮いていた。はな子の地元では洋服などは出回っておらず、普段着としては着物が主流であったのだ。ぎゅうぎゅうに建ち並んでいる近代的な建物。闊歩する紳士淑女。行き交う人々に揉まれながら、はな子は職を探した。
レストランの給仕もだめ、呉服屋の見習いもだめ、古書店の店番も買って出たがだめだった。
読み書きそろばんができることがはな子の強みだと思っていた。そのため、会計係にでも使ってほしいと申し出たが、帝都の大人たちは小馬鹿にするように鼻で笑った。
しばらく路頭に迷った末に出会ったのが、小鳥遊家だった。たまたま使用人の求人があり、面接を受ける。当時、はな子の面接対応をしたのは、千桜本人だった。
はな子ははじめ、表情がぴくりとも動かない千桜に恐れを抱いたという。ましてや、華族の――軍人の家など、田舎から出てきたばかりの自分にとっては敷居が高すぎたのかもしれないと思った。
だが、その印象はしだいに薄れることになる。淡々とした口調ではあるが、これまでのどの面接官よりも、はな子自身を知ろうとしてくれていたのだ。
これまで出会った人たちは、世間知らずの田舎娘としか見てくれなかった。
最後まで話を聞いてくれた試しもなく、かるく足蹴にされるのみ。悔しさとやるせなさで押しつぶされそうになっていたはな子にとって、この千桜との出会いは、人生においてかけがえのない宝物になった。
蓮華は、終始不思議な心地がした。
巴家にいたころは、千代も喜代も義母である美代も、その他の使用人に至っても誰一人として蓮華と口をききたがらなかった。昔話などもってのほかだ。蓮華にはほんの些細な会話をする相手すらいなかった。