ロンリンギア公爵家の御者は、我が家の馬車も呼んでくれていたようだ。
アドルフと別れ、馬車に乗りこむ。
御者と護衛の慌てようから、アドルフがいなくなったと大騒ぎになっていたのかもしれない。
アドルフは現在地がバレないように、指輪の機能を封印していたらしい。それを、公爵家の魔法師に解除され、発見されてしまったのだという。
別れ際のアドルフは、それはもう不機嫌だった。
けれども、私に声をかけるときは落ち着いていて、「この埋め合わせはいつか必ず」とまで言っていた。
別に、そろそろ帰る時間だったので、問題はないのだが……。
帰宅すると、父が待ち構えていた。
「……ただいま帰りました、父上」
「ああ、よくぞ帰った。今日はロンリンギア公爵家のアドルフ君と出かけたようだな」
「ええ、まあ」
父は私がアドルフの婚約者に選ばれたことに関して、もっとも喜んでいるようだった。
これから婚約破棄の流れになるので、落胆させてしまうのだが。
「アドルフ君の機嫌をそこねないように、上手く付き合うように」
「なるべく努めます」
父との会話は適当に流しておく。リオルへのお土産のクッキーは執事に託し、疲れたからと言って部屋に戻った。
廊下を歩いていると、チキンが飛んでくる。
『お帰りなさいちゅりー』
「ただいま。いい子にしてた?」
『もちろんでちゅり!』
チキンは私の肩に止まり、頬ずりしてくる。
年々甘えん坊になっている気がするが、使い魔というのはそんなものなのだろう。
メイドがお風呂の準備をしてくれたので、浴槽にゆっくり浸かる。
今日の疲れが、湯に溶けてなくなるような気がした。
なんというか、婚約破棄はされなかったし疲れてしまった。けれども、なんだか楽しかったような気がする。
きっと自分が行きたいと思うところに行けて、勝手気ままに振る舞えたからだろう。
アドルフの怒る以外の表情を見られたのも面白かった。
思いのほか、彼は女性に対して寛大である。その度量を、普段の学校生活でも見せてくれたらいいのだが。
それはそうと、アドルフが薔薇の花束と恋文を贈っていたのは誰なのか。
単なる好奇心だが、相手についての情報も知りたい。
それらについて情報提供をしてくれたのはランハートだ。今度会ったときにでも、詳しい話を聞いておこう。
お風呂に入ったら疲れが取れた。夕食後にクッキー作りを行う。
いつも作っているのは、シンプルなシュガークッキーだ。
素朴な味わいで、紅茶やミルクとよく合う。
私が作るクッキーの中で、リオルが唯一おいしいと認めるものでもあった。
髪が邪魔にならないように纏め、三角巾を当てて結ぶ。エプロンをかけ、腰部分でリボンを結んだ。
材料は小麦粉、バター、顆粒糖に卵、バニラビーンズ。
まずはバターを室温にし、なめらかになるまでホイップする。クリーム状になったバターに顆粒糖を加え、さらに混ぜた。これにバニラビーンズ、小麦粉を入れ、生地がまとまるまで練っていく。
生地がなめらかになったら布に包み、保冷庫の中で一時間休ませる。
一時間後――棒状に伸ばした生地に顆粒糖を軽く振るう。次にクッキーの形を整えるのだが、私は型抜きではなく、クッキースタンプと呼ばれるものを使う。
クッキースタンプというのは、模様が刻まれた型である。生地に押し当てると、美しい模様が移しだされるのだ。
今、お気に入りなのは、マーガレットに似たクッキースタンプである。これを生地に押し当てると、マーガレット型のクッキーに仕上がるのだ。
生地を一口大にカットしたものに、クッキースタンプを押し当てる。可愛らしいマーガレット型のクッキー生地を、油を薄く塗った鉄板に並べていった。
生地の形が整ったら、最後に熱していた窯で焼いていくのだ。
十五分ほどで、おいしそうに焼き上がった。
粗熱が取れるのを待っていると、厨房にリオルがやってきた。
「クッキー、また焼いたんだ。ルミに頼まれたの?」
「いいえ、これはアドルフに差し上げるものです」
「本気?」
「嘘を言ってどうするのですか」
リオルはズンズン接近し、焼きたてのクッキーを摘まむとそのままパクリと食べる。
「熱っ……!」
「できたてほやほやですので、当たり前です」
勝手に食べたのに、抗議するような視線を向けていた。文句を言うと思っていたが、想定外の言葉を彼は口にする。
「修道院のクッキーより、姉上のクッキーのほうがおいしいな」
「それは当たり前です。あなたの好みに合うように、改良したのがこちらのクッキーですから」
「そうだったんだ。だったら、姉上が作るクッキーはすべて僕の物なんじゃないの?」
「何をどう考えたら、そういう思考に至るのか」
まあ、いい。たくさん作ったので、三分の一はリオルに分けてあげる。
ランハートにもあげよう。情報料として渡すのだ。
リオルは満足したのか、クッキーを持っていなくなった。
粗熱が取れたクッキーは缶に詰め、アドルフ宛てに書いたカードを添えておく。
包装してからロンリンギア公爵家のアドルフに送るようにと、侍女にお願いしておいた。
なんとか労働責任量(ノルマ)を達成できたので、ひと息つく。
今日はゆっくり眠れそうだ。
◇◇◇
実家から魔法学校に戻ると、日常が帰ってきたと思ってしまう。
いつの間にか、貴族令嬢としての私は非日常になっていたようだ。
制服に身を包み、朝から冷え込むので特待生のガウンを着込む。
これを着る栄光を得られたのも三年目。
結局、このガウンを着用できたのは私とアドルフだけだった。
つまり、まるまる二年もの間、アドルフとお揃いのガウンを着続けたというわけである。
一時期は恥ずかしくて、アロガンツ寮のガウンを着て学校に通っていたときもあった。
けれども、特待生のガウンは保温及び保冷魔法がかけられていて、快適に過ごせるのだ。一方で、寮のガウンはただの上衣である。圧倒的に、特待生のガウンが過ごしやすい。
私の恥ずかしいという気持ちは、寒さと暑さを前にするとあっさり負けてしまうのだ。
朝――食堂に行くと、新入生が大勢押しかけていた。
パンやチーズを大盛りに取り分け、時間が許す限り食べている。
そういう食べ方ができるのは、今だけだ。
三学年となった者たちは、パンはひとつ、チーズは一切れと、皿の上は慎ましい量しかない。
二年間の寮生活で、食べたいだけガツガツ食べるというのは品がない、と厳しく躾けられた証である。
食事量に制限はない。けれどもお腹いっぱい食べられるという環境は贅沢なものだ。
自分たちは恵まれた者たちだと自覚し、必要最低限の食事を取る。
それこそ、|高貴なる(ノブレス)|存在の務め(オブリージュ)なのだと、卒業していったかつての監督生が語っていた。
ちなみにこれらの指導は、朝食時のみである。昼食や夕食は好きなだけ食べられるのだ。
少々厳しすぎるのではないか、育ち盛りの子どもに食事を制限するなんて酷い行為だ、などという声を上げる保護者もいる。
けれども朝からお腹いっぱい食べ、満腹感から授業中に眠ってしまう子どももいたため、この決まりは伝統と化してしまったようだ。
魔法学校が貴顕紳士を作り出す場所だというのは、上手く言ったものだと思う。
その言葉のとおり、野生育ちのようでわんぱくな生徒も、三学年ともなれば立派な紳士然となるのだ。
入学して一週間くらいは、大人しく席について食べていたら厳しく注意されない。
けれどもそれを過ぎたら、厳しい食事マナーの指導が始まるのだ。
今のうちにたくさんお食べ、と心の中で新入生たちに声をかけた。
ジリジリとけたたましいチャイムの音が鳴る。
新入生たちに朝食の時間が終了したと告げる音だ。食堂の混雑を避けるために、各学年、時間をずらすようにしているのだ。
急いでベーコンを食べる者、パンを制服のポケットに忍ばせる者、食事を残して足早に去る者と、さまざまだった。
食堂はあっという間に、静けさを取り戻す。
一学年のあとは、三学年の時間となっている。ほとんどの生徒が校外学習にでかけているため、食堂へやってくる生徒は少なかった。
さて、今日は何を食べようか、と考えていたら、背後より声がかけられる。
「リオル・フォン・ヴァイグブルグ! ぼんやり立ち止まらない!」
振り返った先にいたのは、特待生のガウンに監督生の腕章を合わせた姿のアドルフだった。
注意したあと、してやったりとばかりに笑っていた。
私に恥をかかせようと、わざと言ったのだろう。腹立たしい気持ちになる。
昨日、リオニーだった私には、恥をかかせまいと泥を被ってくれたというのに。
女性を敬い、尊重するという姿勢は、魔法学校に通って身に着けた紳士教育の一環だ。きちんと身についているではないか、と内心賞賛する。
肩に止まっていたチキンが、物騒な提案を耳元で囁く。
『ご主人さま、あいつの頭に、羽根をぶっ刺してきましょうか? ちゅり?』
「絶対に止めて」
チキンが自主的に私を守る行動を取る前に、アドルフの前から立ち去らなければ。
そう思っていたのに、引き留められる。
「おい、お前」
お前だけでは多くの人が当てはまる。そのまま立ち去ろうとしたのに、腕を取られてしまった。
「何?」
「昨日、リオニー嬢……お前の姉さんは、なんか言っていたか?」
「なんかって?」
「その、怒っていなかったか?」
ロンリンギア公爵家の者たちの介入により、外出が強制的に終了してしまった件に関して、憤慨していたのではないか心配だったらしい。
「別に、なんとも」
「そうか」
明らかにホッとしたような表情を浮かべる。私の気分を害していないか、気がかりだったようだ。
結婚のために、天下のアドルフ・フォン・ロンリンギアがご機嫌伺いをするなんて。愛人を迎えるにあたり、格下の家柄の娘との結婚を確実に成立させたいのだろう。
彼がそこまで情熱を傾ける相手とは、いったい誰なのか。気になって仕方がない。
「リオル」
初めて名前を呼ばれ、驚いてしまう。リオルは弟の名前だが、二年間呼ばれ続けると、自分のもののように思えるから不思議だ。
アドルフはこれまでにないくらい、真剣な眼差しで私を見つめている。そして、想定外の言葉を口にした。
「今後、お前の姉さんを悲しませるようなことはしない。約束する」
昨日の出来事を受けての誓いなのだろう。
けれども、本当にそれが遂行できるのだろうか?
妻以外の愛する女性を傍に置き、悲しい思いをさせないなんて、ありえないだろう。
私もまっすぐアドルフを見つめ、言葉を返した。
「姉の結婚相手が、君でなくてもいいんじゃないかって、僕は思っているよ」
何か言い返すのではないか、と思ったが、アドルフは雨の中に捨てられた子犬のような表情でいた。
そんな彼を無視して、食事が並んだテーブルのほうへ向かう。今度は引き留められなかった。
◇◇◇
放課後――誰もいない談話室に、ランハートの姿があった。難しい表情で、参考書とにらめっこしている。
「やあ、ランハート」
「ああ、リオル! ちょうどいいところにきた」
魔法騎士隊の従騎士となったランハートは、レポートの作成に苦労していたらしい。
どういうふうに書けばいいのかわからず、頭を抱えていたようだ。
「自習室じゃなくて、どうしてここでやっていたの?」
「ここにいたら、リオルが通りかかるんじゃないかって思って」
神さま、天使さま、リオルさま、と言い、手と手を合わせる。仕方がないと思い、レポート作りを手伝ってあげた。
一時間後――ランハートは満足げな表情で背伸びする。
「いやはや、助かったよ。さすがリオルだ。感謝の印として、今度購買部でお菓子を奢ってやるよ」
「それよりも、教えてほしい情報がある」
「ん?」
周囲に人がいないことを確認し、ランハートに耳打ちをする。
「以前聞いた、アドルフが薔薇と恋文を送っていた相手について知りたい」
アドルフと別れ、馬車に乗りこむ。
御者と護衛の慌てようから、アドルフがいなくなったと大騒ぎになっていたのかもしれない。
アドルフは現在地がバレないように、指輪の機能を封印していたらしい。それを、公爵家の魔法師に解除され、発見されてしまったのだという。
別れ際のアドルフは、それはもう不機嫌だった。
けれども、私に声をかけるときは落ち着いていて、「この埋め合わせはいつか必ず」とまで言っていた。
別に、そろそろ帰る時間だったので、問題はないのだが……。
帰宅すると、父が待ち構えていた。
「……ただいま帰りました、父上」
「ああ、よくぞ帰った。今日はロンリンギア公爵家のアドルフ君と出かけたようだな」
「ええ、まあ」
父は私がアドルフの婚約者に選ばれたことに関して、もっとも喜んでいるようだった。
これから婚約破棄の流れになるので、落胆させてしまうのだが。
「アドルフ君の機嫌をそこねないように、上手く付き合うように」
「なるべく努めます」
父との会話は適当に流しておく。リオルへのお土産のクッキーは執事に託し、疲れたからと言って部屋に戻った。
廊下を歩いていると、チキンが飛んでくる。
『お帰りなさいちゅりー』
「ただいま。いい子にしてた?」
『もちろんでちゅり!』
チキンは私の肩に止まり、頬ずりしてくる。
年々甘えん坊になっている気がするが、使い魔というのはそんなものなのだろう。
メイドがお風呂の準備をしてくれたので、浴槽にゆっくり浸かる。
今日の疲れが、湯に溶けてなくなるような気がした。
なんというか、婚約破棄はされなかったし疲れてしまった。けれども、なんだか楽しかったような気がする。
きっと自分が行きたいと思うところに行けて、勝手気ままに振る舞えたからだろう。
アドルフの怒る以外の表情を見られたのも面白かった。
思いのほか、彼は女性に対して寛大である。その度量を、普段の学校生活でも見せてくれたらいいのだが。
それはそうと、アドルフが薔薇の花束と恋文を贈っていたのは誰なのか。
単なる好奇心だが、相手についての情報も知りたい。
それらについて情報提供をしてくれたのはランハートだ。今度会ったときにでも、詳しい話を聞いておこう。
お風呂に入ったら疲れが取れた。夕食後にクッキー作りを行う。
いつも作っているのは、シンプルなシュガークッキーだ。
素朴な味わいで、紅茶やミルクとよく合う。
私が作るクッキーの中で、リオルが唯一おいしいと認めるものでもあった。
髪が邪魔にならないように纏め、三角巾を当てて結ぶ。エプロンをかけ、腰部分でリボンを結んだ。
材料は小麦粉、バター、顆粒糖に卵、バニラビーンズ。
まずはバターを室温にし、なめらかになるまでホイップする。クリーム状になったバターに顆粒糖を加え、さらに混ぜた。これにバニラビーンズ、小麦粉を入れ、生地がまとまるまで練っていく。
生地がなめらかになったら布に包み、保冷庫の中で一時間休ませる。
一時間後――棒状に伸ばした生地に顆粒糖を軽く振るう。次にクッキーの形を整えるのだが、私は型抜きではなく、クッキースタンプと呼ばれるものを使う。
クッキースタンプというのは、模様が刻まれた型である。生地に押し当てると、美しい模様が移しだされるのだ。
今、お気に入りなのは、マーガレットに似たクッキースタンプである。これを生地に押し当てると、マーガレット型のクッキーに仕上がるのだ。
生地を一口大にカットしたものに、クッキースタンプを押し当てる。可愛らしいマーガレット型のクッキー生地を、油を薄く塗った鉄板に並べていった。
生地の形が整ったら、最後に熱していた窯で焼いていくのだ。
十五分ほどで、おいしそうに焼き上がった。
粗熱が取れるのを待っていると、厨房にリオルがやってきた。
「クッキー、また焼いたんだ。ルミに頼まれたの?」
「いいえ、これはアドルフに差し上げるものです」
「本気?」
「嘘を言ってどうするのですか」
リオルはズンズン接近し、焼きたてのクッキーを摘まむとそのままパクリと食べる。
「熱っ……!」
「できたてほやほやですので、当たり前です」
勝手に食べたのに、抗議するような視線を向けていた。文句を言うと思っていたが、想定外の言葉を彼は口にする。
「修道院のクッキーより、姉上のクッキーのほうがおいしいな」
「それは当たり前です。あなたの好みに合うように、改良したのがこちらのクッキーですから」
「そうだったんだ。だったら、姉上が作るクッキーはすべて僕の物なんじゃないの?」
「何をどう考えたら、そういう思考に至るのか」
まあ、いい。たくさん作ったので、三分の一はリオルに分けてあげる。
ランハートにもあげよう。情報料として渡すのだ。
リオルは満足したのか、クッキーを持っていなくなった。
粗熱が取れたクッキーは缶に詰め、アドルフ宛てに書いたカードを添えておく。
包装してからロンリンギア公爵家のアドルフに送るようにと、侍女にお願いしておいた。
なんとか労働責任量(ノルマ)を達成できたので、ひと息つく。
今日はゆっくり眠れそうだ。
◇◇◇
実家から魔法学校に戻ると、日常が帰ってきたと思ってしまう。
いつの間にか、貴族令嬢としての私は非日常になっていたようだ。
制服に身を包み、朝から冷え込むので特待生のガウンを着込む。
これを着る栄光を得られたのも三年目。
結局、このガウンを着用できたのは私とアドルフだけだった。
つまり、まるまる二年もの間、アドルフとお揃いのガウンを着続けたというわけである。
一時期は恥ずかしくて、アロガンツ寮のガウンを着て学校に通っていたときもあった。
けれども、特待生のガウンは保温及び保冷魔法がかけられていて、快適に過ごせるのだ。一方で、寮のガウンはただの上衣である。圧倒的に、特待生のガウンが過ごしやすい。
私の恥ずかしいという気持ちは、寒さと暑さを前にするとあっさり負けてしまうのだ。
朝――食堂に行くと、新入生が大勢押しかけていた。
パンやチーズを大盛りに取り分け、時間が許す限り食べている。
そういう食べ方ができるのは、今だけだ。
三学年となった者たちは、パンはひとつ、チーズは一切れと、皿の上は慎ましい量しかない。
二年間の寮生活で、食べたいだけガツガツ食べるというのは品がない、と厳しく躾けられた証である。
食事量に制限はない。けれどもお腹いっぱい食べられるという環境は贅沢なものだ。
自分たちは恵まれた者たちだと自覚し、必要最低限の食事を取る。
それこそ、|高貴なる(ノブレス)|存在の務め(オブリージュ)なのだと、卒業していったかつての監督生が語っていた。
ちなみにこれらの指導は、朝食時のみである。昼食や夕食は好きなだけ食べられるのだ。
少々厳しすぎるのではないか、育ち盛りの子どもに食事を制限するなんて酷い行為だ、などという声を上げる保護者もいる。
けれども朝からお腹いっぱい食べ、満腹感から授業中に眠ってしまう子どももいたため、この決まりは伝統と化してしまったようだ。
魔法学校が貴顕紳士を作り出す場所だというのは、上手く言ったものだと思う。
その言葉のとおり、野生育ちのようでわんぱくな生徒も、三学年ともなれば立派な紳士然となるのだ。
入学して一週間くらいは、大人しく席について食べていたら厳しく注意されない。
けれどもそれを過ぎたら、厳しい食事マナーの指導が始まるのだ。
今のうちにたくさんお食べ、と心の中で新入生たちに声をかけた。
ジリジリとけたたましいチャイムの音が鳴る。
新入生たちに朝食の時間が終了したと告げる音だ。食堂の混雑を避けるために、各学年、時間をずらすようにしているのだ。
急いでベーコンを食べる者、パンを制服のポケットに忍ばせる者、食事を残して足早に去る者と、さまざまだった。
食堂はあっという間に、静けさを取り戻す。
一学年のあとは、三学年の時間となっている。ほとんどの生徒が校外学習にでかけているため、食堂へやってくる生徒は少なかった。
さて、今日は何を食べようか、と考えていたら、背後より声がかけられる。
「リオル・フォン・ヴァイグブルグ! ぼんやり立ち止まらない!」
振り返った先にいたのは、特待生のガウンに監督生の腕章を合わせた姿のアドルフだった。
注意したあと、してやったりとばかりに笑っていた。
私に恥をかかせようと、わざと言ったのだろう。腹立たしい気持ちになる。
昨日、リオニーだった私には、恥をかかせまいと泥を被ってくれたというのに。
女性を敬い、尊重するという姿勢は、魔法学校に通って身に着けた紳士教育の一環だ。きちんと身についているではないか、と内心賞賛する。
肩に止まっていたチキンが、物騒な提案を耳元で囁く。
『ご主人さま、あいつの頭に、羽根をぶっ刺してきましょうか? ちゅり?』
「絶対に止めて」
チキンが自主的に私を守る行動を取る前に、アドルフの前から立ち去らなければ。
そう思っていたのに、引き留められる。
「おい、お前」
お前だけでは多くの人が当てはまる。そのまま立ち去ろうとしたのに、腕を取られてしまった。
「何?」
「昨日、リオニー嬢……お前の姉さんは、なんか言っていたか?」
「なんかって?」
「その、怒っていなかったか?」
ロンリンギア公爵家の者たちの介入により、外出が強制的に終了してしまった件に関して、憤慨していたのではないか心配だったらしい。
「別に、なんとも」
「そうか」
明らかにホッとしたような表情を浮かべる。私の気分を害していないか、気がかりだったようだ。
結婚のために、天下のアドルフ・フォン・ロンリンギアがご機嫌伺いをするなんて。愛人を迎えるにあたり、格下の家柄の娘との結婚を確実に成立させたいのだろう。
彼がそこまで情熱を傾ける相手とは、いったい誰なのか。気になって仕方がない。
「リオル」
初めて名前を呼ばれ、驚いてしまう。リオルは弟の名前だが、二年間呼ばれ続けると、自分のもののように思えるから不思議だ。
アドルフはこれまでにないくらい、真剣な眼差しで私を見つめている。そして、想定外の言葉を口にした。
「今後、お前の姉さんを悲しませるようなことはしない。約束する」
昨日の出来事を受けての誓いなのだろう。
けれども、本当にそれが遂行できるのだろうか?
妻以外の愛する女性を傍に置き、悲しい思いをさせないなんて、ありえないだろう。
私もまっすぐアドルフを見つめ、言葉を返した。
「姉の結婚相手が、君でなくてもいいんじゃないかって、僕は思っているよ」
何か言い返すのではないか、と思ったが、アドルフは雨の中に捨てられた子犬のような表情でいた。
そんな彼を無視して、食事が並んだテーブルのほうへ向かう。今度は引き留められなかった。
◇◇◇
放課後――誰もいない談話室に、ランハートの姿があった。難しい表情で、参考書とにらめっこしている。
「やあ、ランハート」
「ああ、リオル! ちょうどいいところにきた」
魔法騎士隊の従騎士となったランハートは、レポートの作成に苦労していたらしい。
どういうふうに書けばいいのかわからず、頭を抱えていたようだ。
「自習室じゃなくて、どうしてここでやっていたの?」
「ここにいたら、リオルが通りかかるんじゃないかって思って」
神さま、天使さま、リオルさま、と言い、手と手を合わせる。仕方がないと思い、レポート作りを手伝ってあげた。
一時間後――ランハートは満足げな表情で背伸びする。
「いやはや、助かったよ。さすがリオルだ。感謝の印として、今度購買部でお菓子を奢ってやるよ」
「それよりも、教えてほしい情報がある」
「ん?」
周囲に人がいないことを確認し、ランハートに耳打ちをする。
「以前聞いた、アドルフが薔薇と恋文を送っていた相手について知りたい」