ヴァイグブルグ伯爵家が抱える借金を返済し、財を築いたリオルの意見を、父は無視できないというわけである。
そんなわけで、私は晴れて魔法学校に通えることとなった。
ただ、男装がバレたら一大事である。当時の私は十七歳となり、少年と誤魔化すのはいささか無理があった。
体には凹凸があり、声変わりもしない。魔法学校の制服をただ着ただけでは、女にしか見えないのだ。
どうしようかと悩む私に、リオルがある魔法薬のレシピを教えてくれた。
それは、声変わりの飴玉。
材料は〝カエルの声帯〟に、〝魔石砂糖〟のふたつ。どちらも魔法学校の売店で販売している、手に入りやすい材料だ。
この声変わりの飴玉を舐めると、八時間ほど声が男性のものに変化するらしい。
リオルの指導で、私は声変わりの飴玉の作り方を習得する。
男装については、魔法での解決は今の私では難しいと言われてしまった。
なんでも姿形を偽る魔法は、高い技術とたくさんの魔力を必要とするらしい。国家魔法師である父ですら、できないようだ。
「姉上は上背があるから、体の補正で男に見えるかもしれないよ」
「たしかに」
私の身長はリオルよりも高く、五フィート八インチ(百七十センチ)あった。
社交界デビューのときは、背が高すぎるなんて陰口を叩かれていたけれど、男装時はそれが役に立つ。
ただ、胸に布を巻いてみたものの、苦しくて勉強どころではない。
続けていたら慣れるかと思ったが、そんなことはなかった。
無理した結果、倒れてしまう。医者から胸に布を巻く行為は禁じられてしまった。
どうすればいいものか……。
思い詰めている様子だった私を、事情を知るふたつ年上の従姉、ルミが連れ出してくれた。
「魔法学校に通うようになったら、外出もままならないのでしょう? リオニーさん、今日はお出かけしましょう」
「え、ええ」
ルミと共に向かった先は、貴族令嬢の間で流行っている、女性のみが所属する劇団の舞台。
そこでは男性にしか見えない劇団員が、活き活きと演技していた。苦しそうな様子は一切なかったのだ。
これだ! と思い、後日、女性だけの劇団員を招き、男装時の服の着こなしを習った。
彼女らは独自で開発した補整下着を使っていて、それを譲ってくれた。
引き換えに、私は声変わりの飴玉を提供したわけである。
ちなみに使い方は私とは真逆だ。男性の声に近づくようにお酒を飲んだり、煙草を吸ったりして女性の高い声がでにくい人たちが、たまには可愛らしく歌いたいという、なんとも乙女チックな使い方だったのだ。
そんなわけで、入学前に男装を習得した。ルミも大絶賛の、完璧な男装が完成したのである。
頑張ったのはそれだけではない。
入学前に行われる試験も重要であった。
なんと、上位三名には個室が与えられるのである。
男装する以上、絶対に個室がほしい。見知らぬ男子生徒との同室なんてごめんだ。
そう思い、必死になって勉強したのである。
寝る間を惜しみ、時にはリオルに指導を頼みつつ、私は試験に挑んだ。
結果――私は首席だったのだ。
父も試験結果には大変満足したようで、これから先も首位をキープするようにと言っていた。
入学式の日、紅葉の並木道を歩く私を、誰も見咎めたりはしなかった。私を女だと、認識していなかったのだ。
私は意気揚々と全生徒の前に立ち、新入生の代表挨拶を読み切る。
そんな私に、親の敵を見るような猛烈な視線を向ける者がいたのだ。
艶のある黒髪に、生意気そうな色合いが滲む青の瞳を持つ男子生徒――アドルフ・フォン・ロンリンギアである。
まさか私が女だとばれたのではないのか、と不安になったが、それは杞憂だった。
隣に座っていた男子生徒が、こっそり教えてくれた。
なんでも彼は首席を取るつもりで試験に挑んだようだが、まさかの次席だったのだ。
それが悔しくて睨んでいたのだろう。
入学式が終わったあと、彼は取り巻きを大勢引き連れながら物申しにやってくる。
「おい、お前!」
「何?」
いつも弟がしているみたいに、気だるげな感じで言葉を返す。
その態度がよくなかったのか、彼の瞳は一気につり上がった。
「首席になったからといって、調子に乗るんじゃないぞ」
「は?」
「そのうち、足を掬ってやるからな」
堂々たる態度で宣言し、アドルフは取り巻きを引き連れて去っていく。
これが彼との出会いだが、このときの私は負け犬の遠吠えとしか思っていなかった。
◇◇◇
婚約者として私の前に現れたアドルフは、ごくごく普通の紳士だった。
もしかしたら取り巻きと一緒に現れて、|嫁ぎ(いき)遅れがいると笑いにくると思っていたのに。
本当に私と結婚するつもりのようだ。それも、愛する女性と共に生きるためなのだろうが。
自分ひとりでは抱えきれないので、ルミを呼んで話を聞いてもらう。
さすがのルミも、驚いている様子だった。
「愛人のために結婚って、ロンリンギア公爵家のご子息はそんな酷いことをなさるお方なの?」
私は深々と頷く。そして、これまで誰にも言っていなかったアドルフとの因縁について語り始めた。
それは、魔法学校の入学式にまで遡る。
◇◇◇
アダマント魔法学校はひと学年九十名しか入学できない狭き門である。
寮は家柄によって分けられており、同じような生活基準の者達が集まって暮らしている。
貴族や地主を親に持つ、アッパークラス出身の者たちが集められるのは〝アロガンツ寮〟。
聖職者や法律家、軍の士官、商人などを親に持つ、アッパーミドルクラス出身の者たちが集められるのは〝ギーア寮〟。
労働者階級の者たちを親に持つ、ロウワーミドルクラス出身の者たちが集められた〝トレークハイト寮〟。
以上、みっつに別れているのだ。
なんでも以前までは全部で七つの寮があったようだが、魔法使いの人口減少と共に減っていったらしい。
クラスは家柄、成績に関係なく構成される。
そのため、同じクラスに成績優秀者である特待生(スカラー)、親が学費を支払う自費生(コモナー)と、学校側が学費を支援する奨学生(バーサリー)が並んで魔法を学ぶのだ。
私は親が貴族のため、寮はアロガンツ。学費も問題なく支払ったようで自費生だが、成績優秀者として特待生となった。
特待生は特別なガウンが贈られ、制服の上からの着用が許されている。その特待生は学年でふたりだけ。
ガウンが着られるというのは魔法学校の生徒にとって、大変な名誉だと聞いていた。
首席なので、個室が与えられた。
部屋は三階で、魔石昇降機はない古い建物だ。そのため、階段を使って駆け上がらないといけない。入学までに体力作りをしていたものの、三階に上がりきったときには息が乱れる。
けれども部屋は角部屋で、窓は二カ所あった。そこから覗く魔法学校の景色は悪くない。
敷地内は重厚な煉瓦の塀に囲まれており、堂々とした錬鉄(れんてつ)の門が生徒たちを迎える。魔法を学ぶ校舎は礼拝堂のような造りで、美しく厳かな雰囲気をかもしだしていた。
芝生があおあおと茂った校庭に、生徒会を初めとする生徒の活動が行われるクラブハウス、立派な図書館などなど、魔法学校自慢の施設が並んでいる。
中でも目を奪われるのは、半円状の水晶温室である。本物の水晶のような輝きを放ち、中では授業で使う薬草が育てられているのだ。
うっとり見とれていると、隣の部屋からガタゴトと物音が聞こえた。
一年間、生活を共にする生徒である。挨拶をするようにと、魔法学校の卒業生である父が話していた。
さっそく、挨拶に向かう。
扉を叩くと、「誰だ!」と偉そうな返事があった。隣の部屋の者だと答えると、扉がそっと開かれた。
顔を覗かせたのは、アドルフ・フォン・ロンリンギア。
同時にハッと驚くような反応をしてしまった。息を合わせるつもりはなかったのだが……。
まさか、部屋割は成績順なのだろうか。ついていない。
ずっと見つめ合っているわけにもいかないので、「一年間よろしく」とだけ言っておく。
アドルフは私をジロリと睨むばかりであった。
「お前、姉がいるのか?」
突然私について聞かれ、胸が飛び出そうなくらい驚く。
「いるけれど、なんで?」
「結婚は?」
「していないけれど」
「婚約者は?」
「いない」
そう答えた瞬間、アドルフは嘲り笑った。
「なんだ、嫁ぎ遅れか」
私はまだ十七歳で、結婚適齢期である。もしかしたら、父が結婚話を持ってくる可能性だってあるのに。
アドルフは一日に二回も、私の神経を逆なでてくれたのだった。
◇◇◇
入学式の翌日は、クラス発表があった。寮の部屋に伝書鳩が振り分けが書かれた手紙を運んできてくれたのだ。
クラスは一学年の二組。クラスメイトと仲良くできるのか、ドキドキしながら身なりを整える。
顔を洗い、歯を磨く。購買部で購入した洗髪剤は髪質に合わなかったからか、少し髪がごわついた。家で使っているものを送るように、メイドに手紙を書かなければならない。
ボサボサの髪を梳り、ベルベットのリボンでひとつに纏める。
寝間着を脱いで下着の上から補正下着を着用し、肌着を重ねる。その上にシャツを着込み、ズボンを穿いた。
このズボンも最初は慣れなかったが、今ではドレスよりも楽だと思うくらいである。首に巻くタイは窮屈だが、腰回りを絞めるコルセットよりはマシだろう。
ちなみにタイは寮ごとに異なり、アロガンツ寮は赤をベースにした縞模様が特徴である。
ギーア寮は青、トレークハイト寮は黄色と、制服姿でもタイのカラーで寮が解るようになっているのだ。
これは学校内で怪我をしたときや、トラブルに巻き込まれたさいに、周囲にいる者が対処できるような目印となるらしい。
若い生徒というのは想定外の行動をしがちだという。そのため、寮ごとに管理したほうが色々と便利なのだろう。
シャツの上にウエストコートを合わせ、ジャケットを着る。姿見で全身を確認したが、問題なかった。
食堂は寮の一階にあり、三十人は座れそうな巨大なテーブルがいくつも鎮座している。
用意されている料理を好きな量だけ取り分けて、それぞれ食べる形式だと聞いていた。
料理は実家で食べていたものとそう変わらない。
オートミールに魚の燻製、ソーセージにチーズ。飲み物はミルクのみ。朝食は基本的に火を使わないものが出される。
食べられるだけの量を確保していたのだが、周囲の男子生徒は皿にチーズやソーセージを山盛りにしていた。育ち盛りなので、これくらいが普通なのだろう。
食事に近い席を上級生が使い、食事に遠い席を下級生が使う。
どの席に座ろうか迷っていたら、食堂の前方で腕組みしていた上級生が声をかけてくる。
「君、席はえり好みしていないで、空いている場所に座りたまえ」
髪をオールバックにした、眼鏡をかけた上級生は腕章を付けていた。彼は各寮にひとりだけ配置される監督生(プリーフェクト)である。名前はたしか、エルンスト・フォン・マイと言っていたか。
監督生は下級生を監督、指導する立場で、皆が集まる場でこうして周囲に厳しい目を配っているのだ。
以前までは〝寮長〟という肩書きもあったようだが、生徒の減少とともになくなったらしい。
そんな事情もあり、寮の頂点に立つのは監督生というわけだ。
この監督生に目を付けられたら厄介である。すぐに返事をして、従順な態度を示しておく。
近くの空いている席に座ろうとしたら、昨日入学式で話しかけてくれた男子生徒が手を振りながら声をかけてくれた。
「おい、首席、こっちの席に来いよ」
赤い髪に垂れた目が特徴的だったので、しっかり顔を覚えていたのだ。
「首席じゃなくて、リオルだよ。リオル・フォン・ヴァイグブルグ」
「リオルか。俺はランハート。ランハート・フォン・レイダー。よろしく」
レイダー家と言えば、魔法騎士を多く輩出している名家だ。仲良くしていて損はない相手である。
ランハートと握手を交わしたところで、大勢の取り巻きを引きつれたアドルフがやってきた。
特待生のガウンを、これでもかと見せつけるように翻している。
「まるで王様のパレードだな」
ランハートの言葉に、深々と頷いてしまった。
アドルフは堂々たる態度で取り巻きの先頭を歩いていたのだが、途中で監督生から三名以上の集団行動はしないようにと注意されていた。
取り巻きの気まずげな表情がなんとも言えない。
こっそり笑っていたつもりだったが、アドルフと目が合ってしまう。またしても親の敵のような視線を浴びてしまった。
朝食を食べたあとは、魔法書を片手に校舎へ向かう。廊下を歩いていたら、ランハートが肩を組んできた。
体当たりするような勢いだったため、驚いてしまう。
そういえば父も、知り合いとこういう触れ合いをしていたような。女性社会にはない、一種のスキンシップなのだろう。
「おい、リオル、お前、どの組だ?」
「僕は二組だよ」
「やった! 一緒じゃん」
顔見知りがいるので、ひとまずホッと胸をなで下ろす。
一限目は魔法生物学だ。最初の授業では使い魔を召喚するらしい。
使い魔というのは、魔法師の手足となって薬草採取をしたり、背中に跨がって移動したりする、妖精や精霊、幻獣である。
授業で召喚した使い魔は、魔法学校を卒業するまでの付き合いとなるのだ。希望すれば、その先も契約を交わすことができるらしい。
どの使い魔が召喚されるかは、完全にランダムである。運が重要というわけだ。
使い魔の召喚は魔法学校に入学が決まってから、一番楽しみにしていた授業である。
うきうき気分で教室に向かった。
朝届いたクラス分けの手紙には、席順も書かれてあった。指定された端の席に座る。
ランハートは少し離れた席だった。前は黄色いタイを結んだ小柄な男子生徒。後ろは青いタイを結んだ神経質そうな細身の生徒だった。
隣はいったい誰なのか。ソワソワしているところに、アドルフが入ってきた。
ザワザワと騒がしかった教室が、一瞬にして静まり返る。
四大貴族の生まれである彼は、有名人なのだろう。
ズンズンと大股で教室を闊歩し、あろうことか私の隣に腰を下ろした。
最悪だ。部屋も隣で頭を抱えていたのに、同じクラスで席も隣だとは。
アドルフは一切私のほうを見ようとせず、ぶすっとした表情でいた。
きっと、朝から監督生に注意された件に腹を立てているのだろう。
それにしても、彼と同じクラスだなんてついていない。普通は首席と次席は別のクラスに振り分けるだろうに。教師陣がいったい何を考えているのか謎だった。
ランハートがこちらを見つつ、大丈夫かと口をパクパクさせている。気にするなと手を振って示しておいた。
そうこうしているうちに、授業が始まる。魔法生物科の教師がやってきた。
黒く長い魔法衣(ローブ)を纏い、白い髭が特徴的なお爺さん先生である。
「ええ、新入生のみなさん、おはようございます。私は魔法生物科の教師、ザシャ・ローターです」
さっそく、授業へと移る。
全員に魔法巻物(スクロール)が配られた。中には魔法陣が描かれている。
「えー、魔法生物を召喚するので、机を教室の端に除けてください」
なんでも、大型の使い魔が召喚されることがあるらしい。そのため、魔法はひとりひとり教室の中心で試すという。
方法は簡単だ。魔法巻物の魔法陣に、体液を一滴落とすだけでいいという。
「血液、涙、唾液など、体液ならばなんでも構いません」
ザワザワと周囲が騒がしくなる。皆、どうしようか話し合っているらしい。
アドルフも取り巻きと一緒に言葉を交わしている。
私もどうしようかと考えていたら、ランハートが声をかけてきた。
「なあ、リオル、お前はどうするんだ?」
「涙は無理だし、唾液はなんか汚いから、血液かな」
「ヒュー! お前、勇気あるな」
勇気があるというか、消去法である。
「誰から挑戦しますか?」
手を挙げようとしたその瞬間には、ひとりの生徒が挙手していた。
アドルフである。
「では、えー、ロンリンギア君、挑戦してみなさい」
消毒液に浸かっていた魔法のナイフが差し出される。アドルフは無表情で受け取り、教室の中心に立った。
そして、なんの躊躇もなく手のひらを傷付け、血を魔法巻物に滴らせたのだ。
「ああ、そんなに切りつけなくても――」
ローター先生がそう言いかけた瞬間、アドルフの魔法巻物は眩い光りに包まれていった。
あまりの眩さに目を閉じる。
いったい何が召喚されたのだろうか。
光が収まり、ローター先生が「目を開けても大丈夫です」と口にした。
そっと瞼を開く。
教室の中心には、白くて大きな狼の姿があった。
「あれは――フェンリル!?」
私の呟きを聞いたローター先生が「そうです」と答える。
フェンリルは極めて稀少な、気高き幻獣だ。現代では目撃されず、おとぎ話にのみ登場する存在として伝えられていたのだが……。
ローター先生も驚いているようだった。一方で、アドルフはそこまで動じているようには見えない。
「ロンリンギア君、契約の命名を」
アドルフは頷き、フェンリルを指差しながら名付ける。
「我が名はアドルフ・フォン・ロンリンギア。そして汝の名は、〝エルガー〟」
フェンリルは姿勢を低くし、『ワン!』と低い声で鳴いた。
契約は受け入れられたようで、白く輝く魔法陣が浮かび上がり、パチンと音を立てて弾けた。
「ロンリンギア君、お見事です」
そう言いながら、ローター先生はアドルフの傷付けた手に回復魔法を施す。
元の位置に戻ると、取り巻きたちがワッと沸いた。他のクラスメイトもアドルフの周囲を取り囲み、さすがロンリンギア公爵家の嫡男だと誰もが口にする。
それを聞いたアドルフは、ちっとも嬉しそうではなかった。
未来の公爵さまともなれば、うんざりするくらい褒められながら育ってきたので、慣れっこなのかもしれない。
ここで、ランハートが思いがけないことを耳打ちする。
「なあ、あれ、仕込みだぜ」
「仕込みってどういうこと?」
「あらかじめフェンリルが召喚される魔法巻物を、公爵家が用意したんだ」
「どうしてそんなことができるの?」
「ロンリンギア公爵家が、魔法学校にたっぷり寄付したんだ。その結果だよ」
なんでも首席ではなく次席だったことに危機感を覚えたロンリンギア公爵家が、息子であるアドルフを活躍させるために仕込んだものだという。
ローター先生は驚いていたようだが、あれも演技なのか。
アドルフは喜んでいなかったので、もしかしたら知っていたのかもしれない。
「次は誰がしますか?」
誰も挙手しようとしない。フェンリルという高位の使い魔が召喚されたあとでは、誰だって見劣りする。そのため、二の足を踏んでいるのだろう。
私は別に気にしないので、名乗りでた。
「では、ヴァイグブルグ君、注意して挑戦しなさい」
「はい」
教室の中心に立ち、魔法のナイフを手に取る。
指先をほんのちょっとだけ傷付け、魔法巻物の魔法陣に血をなすりつけた。
魔法陣が眩いくらいに輝く。
その輝きはアドルフがフェンリルを召喚したときよりも強い光だった。
もしかしたら、彼よりもすごい使い魔を喚(よ)べるかもしれない。
孤高の幻獣グリフォンとか。それとも、火山の蜥蜴(とかげ)サラマンダーとか。
いやいや、使い魔最強と名高いドラゴンかもしれない。
胸を高鳴らせながら、使い魔の登場を待つ。
光が収まると、目の前に小さな真っ黒い鳥が飛び込んできた。
『ちゅり!』
「ちゅり?」
それは拳大ほどの黒雀(くろすずめ)であった。
『召喚いただき、ありがとうちゅり!』
「……」
『よろしくおねがいしまちゅり!』
私が三年間使い魔として契約するのは、お喋りな黒雀……。
シーンと静まり返っていたものの、アドルフの取り巻きのひとりが「ぷっ!」と噴き出した。それをきっかけに、クラスメイトは皆、大笑いし始める。
「なんだよ、あれ! 雀の使い魔とか、聞いたことねえぞ!」
「前代未聞だな」
「笑わせてくれるぜ!」
口々に指摘するものだから、さすがの私も恥ずかしくなる。
ローター先生は静かにするようにと声をかけ、私に使い魔の命名をするように指示した。
黒雀は名付けが始まると知り、ドキドキするような視線を向けてくる。
『ドキドキするちゅり!』
「……」
黒雀を指さし、命名した。
「我が名は――」
ここで弟の名を言うのは契約に反する。そのため、黒雀を捕まえて傍に寄せると、小声で「リオニー・フォン・ヴァイグブルグ」と名乗った。
弟と私の名前はそっくりなので、まあ、周囲の人に聞こえていたとしても、聞き違いだと思われるだろう。
続けて、黒雀に名を授ける。
「そして汝の名は、〝チキン〟!」
『チ、チキン!!』
ここでも、大爆笑が巻き起こる。「鶏肉じゃねえか!」なんて指摘(つっこみ)も聞こえる中、黒雀改めチキンは、翼を頬に当てて嬉しそうにしていた。
『チキン……! チキン……! なんて崇高(すうこう)な響きちゅり!』
思いがけず、お気に召してもらえたようだ。まあ、なんというか何よりである。
『ふつつか者ですが、どうぞよろしくおねがいしまちゅり!』
白く輝く魔法陣が浮かび上がり、パチンと弾けた。
契約は受け入れられたわけである。
その後、私の黒雀召喚でハードルが下がったのか、クラスメイトは次々と使い魔を召喚する。
彼らは私を大笑いしたが、召喚したのは蛙(かえる)だったり、蛇(へび)だったりと、黒雀とレベルはそう変わらない。
結局、高位の幻獣を召喚したのはアドルフだけだった。
放課後に今日の授業の成績が張り出されるらしいが、間違いなくアドルフが一位だろう。
その日は一日、魔法の基礎的な座学ばかりだった。どれも家庭教師に習ったものばかりだったが、こうして授業を受けられるだけで幸せだ。
隣に座るアドルフは、思いのほか真剣に授業を受けている。意外だと思った。
放課後――掲示板に魔法生物学の成績が張り出された。三クラス、九十名の生徒全員の順位が張り出されていたわけである。
一位は、アドルフだった。取り巻きらしき一団が大盛り上がりしていた。
当の本人であるアドルフの姿はない。
いったいどこにいったのか、なんて考えていると、ランハートが肩をぽん! と叩いてきた。
「リオルすげえじゃん。二位だってよ」
「うん」
「お前の黒雀、意外と評価高かったんだな」
「みたいだね」
クラスメイトが召喚した使い魔のほとんどが、毛虫や蟻(あり)などの小さな虫だった。
そんな中で見たら、黒雀は優秀なほうなのだろう。
ちなみにランハートが召喚したのは蛙である。ポケットに入れて愛でているようだ。
「リオル、放課後はどうする? クラブの見学に行かないか?」
「いや、今日は購買部で買い物をしたくて」
「そっか。わかった」
一緒についてくる、と言ったらどうしようかと思ったが、ランハートは手を振りつつ去っていった。これが貴族令嬢だったら、絶対に同行を申し出るだろう。男女の付き合いの違いなのか。それともランハートがさっぱりした気質なのか。その辺はよくわからない。
購買部では声変わりの飴玉を作る材料を買いに行く。
入学前にたくさん作っていたのだが、購買部で売っている素材で作れるか試したいのだ。
放課後、生徒のほとんどはクラブ活動を行っている。
もっとも人気なのは魔法騎士クラブだ。従騎士としての活動を行い、希望を出せば卒業後は魔法騎士になれる。
魔法騎士に憧れる者は多く、卒業後は多くの生徒を輩出していると聞いた。
窓を覗くと校庭で魔石馬に跨がり、杖を手に駆けている様子が見えた。
魔石馬というのは、人工ユニコーンと言えばいいのか。額に水晶みたいな角が突き出し、強い魔法耐性を持つ馬である。
魔法騎士の家系であるランハートはきっと、あのクラブに入部するのだろう。
太陽が傾き、あかね色の日差しが差し込んでくる。廊下に窓枠の模様を描いていた。
コツコツと前方から歩いてくる足音が聞こえ、視線を向ける。
やってきたのはアドルフだった。
そのまま無視して通り過ぎようと思ったのに、アドルフはなぜかズンズンと私のほうへやってくる。
いったいなんの用なのか。思わず身構えてしまった。
「教師も、生徒も、……も、皆が皆、馬鹿共ばかりだ」
なぜ、悪態を聞かされなければならないのか。
魔法生物学の成績は一位だったのに、ずいぶんとご機嫌斜めである。
「お前、魔法生物学の順位を見たか?」
「見たけれど」
「どう思った?」
「別に。思ったよりも良かったな、としか」
そう口にした瞬間、アドルフは舌打ちする。
「お前も大馬鹿だったのか」
「は!?」
二位を取っているのに大馬鹿呼ばわりとはどういうつもりなのか。
もしかしたら、自分よりも下位に位置する者は全員馬鹿なのかもしれない。
「お前が一位だったはずだ。それに気づいていないとはな」
「いや、でも……」
フェンリルよりも黒雀が勝っているなんてありえないだろう。
「俺のフェンリルは実家の仕込みだ」
やはり、アドルフは知っていたようだ。なんというか、こういうことをされるのは本人としても悔しいだろう。
「教師に訴えたが、聞き入れてもらえなかった」
「そう」
アドルフは眉間に皺を寄せ、苦悶の表情でいた。
なんというか、良家に生まれた子にも悩みはあるのだろう。
「でもまあ、フェンリルを喚べたとしても、契約するかはフェンリル次第だから。契約できた実績は、あなたの本当の実力だと思う」
これ以上悪態を吐かせないため、私は彼の前から去る。どんな表情をしていたかは、わからなかった。
この日から、アドルフとの熾烈(しれつ)な成績争いが始まったというわけである。
幼少期から弟リオルばかり優秀だと思っていた。けれども魔法学校に通い始めて、私もリオルには敵わないものの、けっこう優秀であるということに気づく。
リオルに理解できる魔法をできなかったり、私が読めない魔法書がリオルには読めたりと、自尊心が傷つくときもあった。けれどもそれはリオルが飛び抜けた天才だったというだけで、魔法学校で丁寧に習うと、どれもできるようになる。
魔法学校に通ってよかったと思うのはそれだけではない。
親元を離れて暮らす寮生活は思いのほか楽しく、卒業後は家を出て家庭教師でもしながら暮らすのもいいなと思ったくらいである。
男同士の付き合いも、どこかカラッとしていて面白い。
入学式で出会ったランハートは、今や大親友である。
魔法について勉強する量も、実家にいた頃よりずっと増えた。
というのも、アドルフというライバルがいたからだ。
私とアドルフの成績は五分五分だった。入学式のときに首位が取れたのは、本当に運がよかったのかもしれない。
二回目の試験で二位となってしまった私は、アドルフからこう言われたのだ。
「お前、勉強してなかったのか?」
そんなわけない。試験前は部屋に引きこもり、夜遅くまで勉強していた。
精一杯の実力を出したのにもかかわらず、二位だったのだ。
アドルフが私を見つつ、嘲り笑いながら「次は頑張れ」と声をかけてきた瞬間、私の闘争心に火が点いた。
それからというもの、私はクラブ活動に参加せず、勉強に励んだのだった。
と、勉強漬けだった一学年目の思い出をルミに語って聞かせる。
「リオニーからのお手紙には、いつも楽しそうに過ごしているとあったので、まさかロンリンギア公爵家のご子息と、そんなことがあっていたとはまったく思いもしませんでした」
「本当に、いい迷惑でした」
「もしかして、ロンリンギア公爵家のご子息に、いじめられていたのですか?」
「いいえ、あのお方は自分で手を下しませんでした」
アドルフの取り巻きには、本人がいない場面で絡まれた。無視していたら、手を出してくる日もあったのだ。
それに関しては、使い魔のチキンが活躍してくれた。
私の手の甲に止まっていたチキンの嘴の下を、指先でそっと撫でる。すると、気持ちいいのか目を細めていた。
「このチキンが、取り巻きを追い返してくれましたの」
「まあ! そうだったのですね」
チキンは一見して小さな鳥だが、その体には大きな力を秘めている。
私に手を差し伸べてきたアドルフの取り巻きには、翼で叩(はた)いてくれた。腕を掴んできた奴にいたっては、顔を嘴で攻撃するのである。
返り討ちにあった取り巻きたちは教師に報告したが、先に被害を報告していたので、私が咎められることはなかった。
「それにしても、ロンリンギア公爵家のご子息は本当にリオニーさんと結婚なさるおつもりでしょうか?」
「彼は有言実行のお方です。きっと、わたくしと結婚するつもりでしょう」
それを阻止するために、私はいろいろ考えている。大人しく結婚するつもりなんて、毛頭なかった。
「彼は公爵家に生まれた貴族として、礼儀や教養を重んじている男性(ひと)ですの。度が過ぎた我が儘を申したり、一緒にいて恥ずかしい振る舞いをしたりしていたら、婚約破棄するはずです」
拳を握り、ルミに作戦を訴える。
ルミは心配そうに、「上手くいくでしょうか」と零していた。
「今度、アドルフに舞台を観に行かないかと誘われましたの。そこでわたくし、直前になって行きたくないと申してみようかと」
アドルフはきっと「なんだこいつは、失礼だな!!」と激昂し、その流れで婚約破棄するに違いない。
「絶対に上手くいきますわ!」
ルミは眉尻を下げ、困ったように微笑んでいた。きっと上手くいかないと思っているのだろう。
私は二年間、アドルフという男を見続けていたのだ。彼がどんなに短気で心が狭いのか、よく知っている。
魔法学校に入学して、あっという間に二年経った。
今は三年目で、授業も少ない。そのため、長期休暇以外にも実家に帰る許可が貰えるのだ。
明日からは学校である。しっかり気を引き締めないといけない。
ルミと別れ、魔法学校に戻る準備を行う。
家を出ようとしていたら、父に呼び出された。
「お父様、何用ですの?」
「男装姿でいると、リオルと話しているみたいだな」
「いい加減、慣れてくださいませ」
いつまで経っても、父は私の男装姿に慣れないのだ。
「それで、お話とは?」
「ああ、そう。お前が魔法学校の進級前試験で首席だったと聞いてね。よく頑張っている」
そうなのだ。ただひたすら勉強ばかりしていた結果、私は首位となった。
二年目の進級前試験ではアドルフが首席だったので、これまで以上に躍起になっていたのかもしれない。
「けれども、監督生にはなれませんでした」
寮にひとり選ばれる監督生には、アドルフが任命された。私も実は監督生の役割を狙っていたので、ショックを受けたのだ。
監督生は成績がいいというだけで選ばれるわけではない。
校長(ヘッド・マスター)や副校長(セカンド・マスター)、教師(アッシャー)の評価に加え、寮監督教師(ハウス・マスター)や個人指導師(チューター)の推薦も必要とする。学校と寮、両方のふるまいが判断材料となるのだ。
学校での私は模範生だと言われていたものの、寮に戻ると勉強漬け。
部屋にやってきた下級生に勉強を教えたことはあったものの、アドルフはさらに目立った行動に出ていた。
彼は教師や指導師がよく出入りする自習室(コンモン・ルーム)に足を運んで下級生に勉強を教えたり、調子に乗って遊ぶ生徒を注意したりしていたのだとか。
満場一致でアドルフが監督生にと選ばれるわけである。
「監督生にまでならなくてもいい。あまり目立つ行動はするな」
「わかっております」
話はこれで終わりだというので、一礼して部屋を出る。
チキンと共に魔法学校に戻ったのだった。
◇◇◇
三学年になると、寮は一階になる。それぞれの階でよさがあるのだ。
一学年のときに使っていた三階は魔法学校の敷地内を一望できる。二学年のときに使っていた二階は窓を開けると|桑の実(マルベリー)の木があって、実が付く初夏は食べ放題だった。一階は中庭に咲く四季の花々を堪能できる。
学期始めとなる秋は、薔薇の花が満開となっていた。春に比べたら開花しているものは少ないものの、濃い芳香を放つ薔薇の花々が咲き誇っている。
朝から焼いたクッキーが余ったので缶に詰め、小脇に抱えて持ってきた。足早に廊下を歩いていると、会いたくない相手と鉢合わせしてしまう。
大鴉みたいな漆黒の髪に、青い瞳の青年――アドルフだ。
監督生となった彼は、金のカフスが輝く灰色のウエストコートにジャケットを羽織り、赤い腕章を合わせた姿でいる。あれは監督生にのみ許された、特別な恰好であった。
私も二年間特待生だった証として、銀のボタンが与えられたものの、金のカフスに比べたら劣っているように思えて複雑だった。
アドルフのその姿を見た瞬間、悔しくなってしまう。無視して通り過ぎようと思っていたのに、アドルフのほうからズンズンとこちらへ接近してきた。
「おい」
そう声をかけたあと、何を思ったのかぐっと接近する。ジャケットに顔を近づけ、くんくんと匂いをかぎ始めた。
「ちょっ、何をするんだ!」
拳を突き出し、肩を押して彼を遠ざける。
「お前、女の匂いがする」
指摘され、カーッと顔が熱くなっていくのを感じた。女の匂いがするのは、女装していたからだろう。化粧品や香油がまざった匂いがしたに違いない。
別に外出はしていないので、風呂はいいかと思ってそのままやってきたわけである。
「女の匂いとかどうとか、どうでもいいだろうが」
「お前の姉さんといたから、匂いが移ったのか?」
「へ!?」
リオルの姉というのは、つまり私である。
面倒なので、匂いが移ったということにしておいた。
「まあ、そうかもしれないね」
「やはり、そうだったか」
「そうだったか、じゃなくて。勝手に他人の匂いをかぐな。気持ち悪い」
「女の匂いを男子寮でぷんぷんまき散らしているやつが悪いんだろうが」
アドルフと話していて、改めて確信する。こんな奴と結婚したら、絶対に不幸になると。
お見合いのときに愛想よくしていたのは、せっかく見つけた都合がいい結婚相手を逃したくないからだろう。
その面の皮を、リオニーとして会ったときに早く引き剥がしたい。
「お前、姉さんとは仲がいいのか?」
「別に普通」
「何か喋ったりしているのか?」
「別に、特別な会話はしないよ」
こんな質問を投げかけてくるのは、私と婚約したからか。これまで姉弟仲なんて気にしたことなんてなかったのに。
アドルフの反応が見たくて、顔を見上げる。ちょうど髪をかき上げた瞬間だったので、表情はよくわからなかった。
それにしても、アドルフの背はずいぶんと高くなった。
二年前、入学したときは身長が同じくらいだったが、今はアドルフのほうがはるかに伸びている。六フィート(百八十五)くらいはあるだろう。私は二年前からまったく変わらないので、アドルフと会話するときは視線は上向きとなる。それがなんだか腹立たしい。
「それはそうと、その缶はなんだ?」
アドルフは尊大な態度で、手にしていたクッキー缶を指差す。
ルミに食べさせるために焼いたクッキーだが、余ったので夜食にしようと持ってきたのだ。
「これは、姉さんが焼いたクッキーだよ」
「あれはクッキーが焼けるのか?」
アドルフのあれ呼ばわりにカチンときたが、これ以上会話を長引かせたくない。そのため、怒りはぐっと堪えた。
「従姉と食べるために焼いたらしい。これは余り」
そう答えると、アドルフは何を思ったのか手を差し伸べてくる。
「何?」
「俺は貰っていない。だから寄越せ」
「は?」
「リオニー・フォン・ヴァイグブルグの婚約者である俺にも、手作りクッキーを食べる権利があるはずだ」
「お前……どういう理屈だよ」
アドルフはクッキー好きなのだろうか。そうでないと、他人の作ったクッキーなんか欲しがらないだろう。
「クッキーを食べたかったら、購買部に行けよ。あそこには王宮御用達の高級クッキーがあるだろうが」
「俺はそのクッキーが食べたいんだ」
寮から購買部に移動するのが面倒に思っているのか。監督生の権力を使ったら、厨房の料理人からクッキーを焼いてもらえる。きっとこの暴君は、今、私が持っているクッキーを食べたいのだろう。
「余っていて、しぶしぶ持って帰ってきたんだろうが? それだったら、俺が食べてやるから」
「素人が作ったありあわせのクッキーを、天下の監督生さまが引き取るってこと?」
「そうだ」
ちらりとアドルフを見上げると、目がギラギラしていた。あれは、肉食獣が獲物を捕らえるときに見せるものだろう。
どうしても、このクッキーが食べたいようだ。よほど飢えているのだろう。
若干可哀想になったが、無償でくれてやるわけにはいかない。
「だったら、温室の薬草の水やり当番を代わって。やり方は管理人が教えてくれるから」
「わかった」
了承するとは思わなかったので、驚いてしまう。
薬草の水やりは、私のささやかな活動の一環である。
一年と二年のときはこういった活動をしていなかったのだが、進級前に薬草学の先生から薬草の世話を手伝ってくれと泣きつかれたのだ。
ちなみにクラブではなく、人数が少ないので同好会(ソサエティ)だ。
ただ手伝うよりも、同好会の活動にしたほうが評価される。そう思って、急遽作ってもらったのだ。
部員がひとりだけの、薬草クラブである。顧問の先生と交代で薬草に水やりをしているのだ。
「じゃあ、これ」
クッキー缶を差し出すと、アドルフは奪い取るように掴む。
やはり彼は暴君だ。これからはクッキー暴君とでも呼ぼうかと思ってしまった。
缶の中にあるクッキーを目の前で馬鹿にされたくないので、すぐに踵を返す。
「――やった!」
我が耳を疑う声が聞こえ、振り返った。
すでにアドルフは背中を向け、歩き始めている。
きっと聞き違いだろう。そう、自分に言い聞かせた。
その日の晩、談話室に借りていた本を返しに行く。去年まで賑わっていた談話室も、三学年ともなれば誰もいない。皆、寮におらず、就職するための活動をしに学校を離れているのだろう。
新しい本が入ってきていたので、手に取ってソファに腰かける。すると、偶然通りかかったランハートが声をかけてきた。
「よう、リオル。久しぶり」
ランハートは魔法騎士隊の遠征に参加していたようで、一週間ぶりに寮に戻ってきたという。
「クッキーは?」
出会ってすぐにこれである。ランハートは私が実家から持ち帰る手作りクッキーを気に入っており、売ってくれとまで言うのだ。夜、自習室で勉強するときに分けてあげようと思っていたのだが、あいにく手元にない。
「今日はない」
「えー、そんな! 俺、楽しみにしていたのに」
「明日、購買部のクッキーを買ってあげるから」
「リオルの実家のクッキーが食べたいんだよ」
今度遊びに行ってもいいかと聞かれるが断った。リオルと会ったら大変だ。彼は来客時は姿を隠すという繊細な行動ができないのだ。
「お前、絶対に実家に誰も呼ばないよなー」
「行くほどの場所じゃないし」
「またまたー、ご謙遜を」
ちなみにランハートには、私が作ったクッキーとは言っていない。目の前で絶賛されたので、言いにくくなっているのだ。
「実家と言えば、リオルのお姉さん、アドルフと婚約したんだって」
「ああ、まあね」
「びっくりしたな。アドルフは結婚相手をえり好みしているって話だったから、隣国の王女さまとでも結婚するのかと思っていた」
「僕もだよ」
なんでも、ランハートは本人から直接話を聞いたらしい。勇気がある男だ。
「あいつ、意外と純情だったんだなー」
「は? どうしてそうなる?」
「なんでもアドルフの奴、三年前に参加した夜会で、リオルのお姉さんを見初めたらしいぜ」
「いや、ありえない!!」
三年前といえば、私が社交界デビューした年である。たしかに夜会に参加していたが、私を見初めた男なんてひとりもいなかった。
きっと見初めたのは私ではなくて、アドルフの本命なのだろう。
どうして婚約したのかと聞かれて困った結果、私ではなく本当に愛している相手との思い出を語ったに違いない。
「頭が痛くなってきた」
「そりゃ、アドルフが親戚になるんだから、そうなるよなあ」
親戚どころではなく、夫である。
一刻も早く、婚約破棄して心の安寧を取り戻したい。
そのためには、次の面会で失望される必要があるだろう。
「リオル、早めに部屋で休んだほうがいいぞ」
「そうだね」
新刊を読む余裕はなさそうなので、本棚に押し込んだ。
ランハートに支えられながら、トボトボと部屋に戻ったのだった。
ついに、アドルフと舞台を観に行く日を迎えてしまった。
朝から憂鬱(ゆううつ)でしかなかったが、やるしかない。今日を乗り切ったら、アドルフとの縁が切れるかもしれないのだ。私の頑張りにかかっている。
外出用のドレスも、新しく仕立てた。うんざりするくらい派手な、ファイアレッドのドレスである。
こんな明るい色合いのドレスなんて、今時誰も着ていないだろう。周囲の人たちから、品のない女性だと見られるに違いない。
髪はこれでもかとばかりに気合いを入れて巻き、薔薇の髪飾りを差し込む。ルビーの耳飾りを装着し、それと同じ色合いの真っ赤な口紅を塗った。
これ以上ない気合いを入れた出で立ちで、アドルフとの戦いに挑む。
姿見で確認すると、目をそらしたくなるくらいの酷い恰好であった。
「これで勝つ! これで勝つ!」
自らに言い聞かせるように、勝利の言葉を口にしておいた。
身なりが整ったので、そろそろ出発だ。
いつものように肩に乗るチキンを、そっとテーブルの上に下ろす。
「今日はアドルフと会う日だから、あなたはお留守番」
『そんなー! ちゅりー!』
「チキンが傍にいたら、バレるから」
『ちゅり……』
ここ二年で気づいたのだが、黒雀というのは極めて珍しい生きもので、まずこの辺りでは見かけない。そのため、私がチキンを連れていたら、「どうして弟の使い魔を連れているんだ?」と思われてしまうだろう。
何かあったときは召喚魔法で呼び出すからと言葉を残し、私室を出る。
家族に見つからないようにこそこそ出て行こうとしていたら、リオルと会ってしまった。
普段は地下の研究室に引きこもって、姿なんか見せないのに。
私を見た途端、感想を口にする。
「何その恰好。娼婦みたい」
「リオル、それは気のせいですわ」
さほど興味がないのか、追及しようとしない。ただ、ジト目で見つめてくる。
「では、行ってまいります」
「気を付けて」
「ええ」
急ぎ足で家を飛び出し、なんとか馬車に乗りこむ。深呼吸をしたのちに、御者に合図を出した。
我が家の街屋敷(タウンハウス)から舞台が上演される劇場まで、馬車で十分といったところか。あっという間に辿り着いてしまった。
馬車を乗り降りする円形地帯(ロータリー)で降りると、すぐに声をかけられた。
「リオニー嬢、こっちだ」
アドルフの声である。名前で呼ばれ、ギョッとしてしまった。
婚約者なのだから、なんら不思議なことではないのだが。ここ二年ほど、リオルと呼ばれ続けたので、本当の名前で呼ばれてしっくりこないのかもしれない。
振り返った先にいたのは、いつもと異なる恰好をしたアドルフだった。
前髪はオールバックにし、灰色のフロックコートを纏っている。手にはステッキを握り、その姿は紳士然としていた。普段よりもずっと大人っぽい恰好をしているので、なんだか落ち着かない気持ちになる。
ドキドキ――ではない。彼が彼でないように見えるので、違和感を覚えているのだろう。
アドルフは私を見た瞬間、サッと顔を逸らした。
リオル曰く娼婦みたいな恰好が、お気に召さなかったに違いない。作戦通りである。
ここで文句のひとつやふたつ言うだろう。そう思っていたのに、アドルフはまさかの行動に出る。
私に向けてそっと手を差し伸べたのだ。
「リオニー嬢、手を」
この辺りは人が多く、はぐれないために傍にいたほうがいい、なんて言葉を付け加えた。それならば、拒否なんてできないだろう。
一刻も早く婚約破棄してほしかったが、馬車から下りた人々が川の流れのように押し寄せてくるのだ。ひとまず、立ち止まれる場所まで移動する必要がある。
アドルフは握った私の手を腕に誘導させ、腕組みした状態で歩いていった。
後方から人がぶつかりそうになったら、そっと引き寄せてくれる。なんともスマートなエスコートだった。
劇場の前に辿り着くと、彼は懐を探ってチケットを探しているようだった。
言うならば、今である。何度も練習したとっておきの言葉を放った。
「あの、アドルフ。わたくし、舞台には興味がありませんの」
これにはさすがのアドルフも、驚いた表情を浮かべていた。
もしも舞台に興味がないのであれば、誘われた時点で言うのが礼儀だろう。
劇場の前で言うなんて、失礼甚だしい。
さあ、ここで婚約破棄だ。自慢の短気を今見せるときであった。頑張れ、頑張れと心の中でアドルフを鼓舞させる。
ドキドキしつつ反応を待ったが、ここでもアドルフは想定外の言葉を口にした。
「わかった。舞台はやめよう」
手にしていたチケットを、舞台を観るか迷っていたカップルにあげてしまった。
恐る恐るアドルフを見上げると、怒っている様子はこれっぽっちもない。
まさかの器の量を、私に見せつけてくれた。
あとは、このまま帰るだけになる。そう思っていたのに、アドルフは優しい声で問いかけてきた。
「リオニー嬢、今日はどこに行きたい?」
驚いた。この暴君は行き先を私に委ねてくれるらしい。
別の提案もできただろうが、また断られるかもしれないと踏んで、選択権を寄越したのだろう。
ちらりとアドルフの様子を探る。本当にまったく怒っている様子はないのだ。
これまで彼の短気を何度も目にしてきた当事者としては、驚きの一言である。
それはそうと、計画が崩れてしまった。
今日、いきなり婚約破棄とならなくても、アドルフはここで怒って帰ると思っていたのだ。
どこに行きたいかと聞かれても、アドルフと一緒に行きたいところなんてない。
困った。
「アドルフと行きたいところ、ですか……」
考える素振りを見せると、アドルフはギラギラとした視線を向ける。
これはつい先日、私にクッキーを寄越すようにと脅したときに見せた目だった。
いい機会なので、クッキーについて質問してみた。
「ああ、そういえば、弟リオルから聞いたのですが、アドルフはクッキーがお好きなようですね」
それを聞いたアドルフは目を泳がせ、みるみるうちに頬を赤く染めていく。
こういう反応を見るのは初めてである。
尊大な態度で奪っていったのを、今更恥ずかしく思ったのだろうか。
「先日、リオル君から、リオニー嬢が焼いたクッキーを分けてもらった」
〝リオル君〟だって!?
学校にいるときは、「お前」としか呼ばないのに。
普段聞き慣れない呼び方だったため、全身に鳥肌が立ってしまった。
「あら、お恥ずかしいですわ。素人が趣味で焼いたクッキーでしたのに」
「いや! とてもおいしかった! あのクッキーは、購買部のクッキーにも勝(まさ)っている!」
なぜかアドルフは拳を握り、私が焼いたクッキーのおいしさについて力説を始めた。
びっくりしたものの、あのクッキーはランハートもおいしいと言っていた。もしかしたら私は、クッキー作りの才能があるのかもしれない。
ただ、王宮御用達の高級クッキーよりおいしいというのは言い過ぎだろう。
「本当に、おいしかった。俺は、嘘は言わない」
「そ、そうでしたか。でしたら、今日、舞台をお断りしてしまったお詫びに、クッキーを焼いて贈りますね」
ごくごく軽い気持ちで言ったのだが、アドルフはカッと目を見開く。それだけでなく、私の両手を掴んで、ぐっと顔を近づける。
普段、絶対に接近しない美貌が、眼前に迫った。
「いつ、贈ってくれる?」
「えっと、そうですわね……。たしかなお約束はできないのですが、その、近いうちに」
「――っ! 楽しみにしている」
なんというか、驚いた。彼がここまでクッキーが好きだったなんて。
クッキー暴君というあだ名は、あながち間違いではないのかもしれない。
ここでピンとくる。アドルフと一緒に行きたい場所を思いついたのだ。
「そんなにクッキーがお好きなのでしたら、いいお店を知っています。ご案内いたしますわ!」
遠慮なくアドルフの腕を掴み、ぐいぐいと引いていく。
アドルフは「いや、別にクッキーが好きなわけでは……」などと言っていたのだが、きれいさっぱり無視をした。
「リオニー嬢、待ってくれ。馬車を手配する」
劇場近くの回転道路には、馬車を預ける場所がある。管理人が立っているので、事前に受け取っていた木札を渡すと、御者に主人が馬車を待っていると連絡するという仕組みだ。
「馬車ではなく、歩きましょう。すぐ近くですので」
店が近くにあるように匂わせたが、クッキーのお店があるのは下町のほうだ。けっこう歩かないといけない。これも、婚約破棄へ誘(いざな)うための作戦であった。
「アドルフ、そちらの道を右です」
「そっちは路地裏だぞ」
「近道なんです」
幼少期に、私とリオルは貴族の集まりを抜けだし、街を大冒険したことがあった。
そこで、最終的に辿り着いたのが、下町のクッキー店だったのだ。
そこのクッキーをリオルがとても気に入り、また食べたいと訴える。けれども大冒険をした私たちは父からしこたま怒られ、二度と歩き回らないように、と言われていたのだ。
どうしてもクッキーが食べたいと言う弟のために、私はクッキー作りを始めたのだ。
最初のほうは、火加減を間違えて焦がしてしまったり、生焼けだったり。仕上がりは酷いものだった。
普通に食べられるようになるレベルから、リオルが「おいしい」と言うまで五年はかかったような気がする。
私もよく飽きずに、クッキーを作り続けたものだと、我ながら呆れてしまった。
高い建物が並ぶ路地裏は、太陽の光があまり差し込まず、少し薄暗い。
古びたアンティークを売る露店や占いをする魔女など、怪しい商売をする人たちであふれかえっている。
「よく、こういう道を知っていたな」
「あら、アドルフは大人の目を盗んで、王都を冒険したことはありませんの?」
「ない。外出するときは、いつも護衛がいたから」
そうなのだ。四大貴族の嫡男ともなれば、行く先々に屈強な護衛がいる。
お見合いの日も護衛を連れていたが、今日はいなかった。
「護衛のお方はどうしましたの?」
「いらないと言ってきた。もう、十八歳で成人だから」
「なるほど。そういうわけでしたのね」
私はアドルフよりもひとつ年上の十九歳である。
年上の女性を妻として選ぶのは、極めて稀だ。ただ、アドルフの場合は愛人との平穏な暮らしのために私を選んだのだ。年齢なんて気にしていないのだろう。
露店の前で立ち止まり、並んでいるガラス玉の首飾りを指差す。
「アドルフ、見てくださいませ。きれいなアクセサリーが販売されております」
値段を見て驚く。ただのガラス玉に、本物の宝石ほどの値段がつけられていたのだ。ぼったくりもいいところである。
ひとつ手に取ったのは、くすんだ青いガラス玉がついた首飾り。それをアドルフのほうに向け、瞳と透かしてみた。
「あなたの瞳の色にそっくりですわ」
明らかに透明度が低いガラス玉に似ていると言われても、まったく嬉しくないだろう。
それ以上に、ガラス玉を宝石と信じている女を、軽蔑するかもしれない。それを狙って言っているのだ。
アドルフはどういう反応を見せるのか。顔を見上げたら、少しだけ泣きそうな表情を浮かべていた。
「そうだな。そっくりだ」
アドルフは「これをくれ」と言い、銀貨を露店の店主へと差し出す。
店主は本物の銀貨を前に、心底驚いているようだった。
「あ、あの――!」
「ほら。欲しかったんだろう?」
アドルフは購入したガラス玉のペンダントを、私の手に握らせる。
なぜ、ここまでしてくれるのか。
しばし彼を見つめたが、真意は掴めなかった。
アドルフが泣きそうな表情を見せていたのは一瞬だけで、露店を通り過ぎるといつも通りの彼だった。もしかしたら目にゴミが入ったか、見間違いだったのかもしれない。気にしたほうが負けだと思い、気づかなかったことにする。
先ほど買ってもらった首飾りをつけ、どうかと聞いてみた。
「リオニー嬢は本当にそれが気に入ったのか?」
「ええ、もちろんです」
どこからどうみてもガラス玉だが、貴族女性としての役割をまっとうできず、魔法学校に通っている私にはお似合いに違いない。
そうでなくても、どこか寂しげな色合いの青いガラス玉は他にない色合いで、気に入っている自分がいた。
「俺と一緒にいるときはいいが、それ以外の場所につけていかないほうがいい」
ガラス玉の首飾りなんかつけていったら、社交場で恥をかくからだろう。
その理由をそのまま言うのか。気になったので問いかけてみる。
「あら、どうしてですの? すてきな首飾りですので、たくさんの方に見ていただきたいのに」
「それは――」
アドルフは眉間にぎゅっと皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべる。
きっと、私の間違いを指摘し、恥をかかせるということをしたくないのだろう。
紳士の鑑(かがみ)である。
彼が女性に対し、ここまで優しい男性(ひと)だとは知らなかった。
魔法学校で出会っていなければ、「すてきなお方!」と思ったに違いない。
今は暴君の本性を知っているので、猫かぶりめ、としか感じなかったが。
さて、アドルフはどう答えるか。
ちらりと顔を見ると、顔を真っ赤にしながら私を見つめていた。
「その首飾りをつけたリオニー嬢はあまりにもきれいだから、他の人には見せたくない!」
「まあ!」
そうきたか! と膝を打ちたくなる。
彼は普段、こういう甘い言葉を吐くひとではないのだろう。
相手に恥をかかせるよりも、自分が恥をかくことを選んだのだ。
少し前まで、アドルフにこれがガラス玉だとわかっていて、あなたの瞳に似ていると言ったのだ、と打ち明けようとしていた。
それを聞いた彼が、私を嫌うだろうと思ったから。
けれども今、アドルフ最大の気遣いを前に、言えるわけがなかった。
最後まで道化を演じようと心の中で誓ったわけである。
「では、アドルフの前でだけ、こっそりつけますね」
「そうしてくれると非常に助かる」
路地を抜けた先は下町だ。人通りが多い。今の時間帯は買い物客で溢れているのだ。
キラキラしたものを身に着けていたら、盗まれてしまうかもしれない。そう思って首飾りを外す。
薄暗い通りから、太陽がさんさんと差し込む大きな通りにでてきた。
そこで見たガラス玉の首飾りは、暗がりで見るよりも美しかった。
「きれい」
思わず口にしてしまう。それがアドルフにも聞こえてしまったようだ。
彼はまっすぐに私を見つめていた。気まずくなって、早口で話しかけてしまう。
「アドルフもそう思いませんか?」
「ああ、きれいだ」
アドルフは首飾りではなく、こちらを見ながら言った。
まるで彼が私をきれいだと言ったように聞こえて、気恥ずかしくなってしまった。
「リオニー嬢、顔が赤い」
「へ!?」
ご令嬢とは思えない、素の声が出てしまう。まさか、目に見えてわかるほど赤くなっていたなんて。
「今日は日差しが少々強いから、肌が焼けてしまったのだろう。気づかなくてすまない」
「あ! えっと、そう! かもしれません」
外歩きをする予定はまったくなかったので、日傘や帽子など持ってきていなかったのだ。
「どこかに日避けを売る店があればいいのだが」
下町にそんな小洒落た店があるわけがない。
キョロキョロと周囲を見渡しているところに、ひとりの幼い少女が近づいてきた。年頃は七歳くらいだろうか。
手には花が入ったカゴがあって、一輪の花を差し出してくる。
「お花、買いませんか? 銅貨一枚です」
それはどこにでも咲いている|野の花(メドウ)。紫色のリンドウの花である。
アドルフはすぐに銅貨三枚を少女に手渡す。
「あ、三本、ですか?」
「いいや、一本でいい」
「あ、ありがとうございます」
少女は可愛らしくぺこりと会釈し、去っていった。
その花をどうするのか。見守っていたら彼はまさかの行動に出る。
リンドウをポケットに挿し、懐から粉インクが入った缶を取り出す。
蓋を開くと、銀色の輝く粉が見えた。あれは魔法陣を描くときに使う道具だ。
何をするのかと思えば、指先で粉インクを掬い、手のひらに魔法陣を描いた。
ちらりと横目で呪文を覗き見る。あれは、質量変化の魔法だった。
魔法陣を描いた手のひらでリンドウを握ると、茎や花が巨大化した。
瞬く間に、先ほどの少女の身の丈ほどにまで大きくなったのだ。
アドルフは巨大化させたリンドウを私に手渡す。
「間に合わせだが、これを日傘代わりに使ってくれないか?」
「あ、ありがとう、ございます」
なんとも可愛らしい日傘だ。見た目が優れているだけでなく、きちんと日差しを避けてくれる。
それにしても驚いた。高位魔法をいとも簡単に、短時間で使って見せるとは。
私がこの魔法を発動させるとしたら、魔法陣の作成に五分はかかっていただろう。
筆記は私が強いが、実技はアドルフが強い。
試験は筆記科目が多いので、私が有利になってしまうのだ。
こういう優秀な面をさらりと見せられると、悔しくなってしまう。
花を日傘に見立てるというアイデアも、素晴らしいとしか言いようがない。
リンドウの日傘を持って歩いていたら、道行く女性たちに「それ、どこで買ったの?」と聞かれてしまう。
そのたびに「彼からの贈り物ですの」と答えていた。
「すまない。その日傘のせいで、余計な手間をかけてしまった」
「いいえ。道行く方々に、可愛いと言っていただけて嬉しかったです」
「そうか。だったらよかった」
そんな話をしているうちに、目的地のクッキー店に到着した。
「ここが、そうなのか?」
「ええ」
築二百年以上の、年季が入りまくりな店舗である。
店内は薄暗く、外から見ても営業しているか否かわかりにくい。
今日はお菓子が店内に並んでいるので、営業しているのだろう。
「こちらは修道女が作るお菓子を販売しているお店ですの」
家が傾いているからか、扉は開けにくい。コツがあって、扉を押しながら足で蹴るとすぐに開く。
今はしとやかなご令嬢としてやってきたので、蹴りは入れられない。
扉を開けるのに苦戦していたら、アドルフが代わってくれた。
彼が取っ手を捻ると、すぐに開いた。ただ、力が強すぎたからか、お店全体が揺れた。
天井からは粉塵がパラパラと降ってくる。
「店が崩壊するかと思った」
「大丈夫です。たぶん」
店内のお菓子は、すべて|ガラス瓶(ジャー)に入っているので、埃や塵が舞っても問題ないというわけであった。
棚には所狭しと、クッキーが入った瓶がずらりと並べられている。
店主はいないが、呼べばくるだろう。
「こういう店は初めてだ。あの大きな瓶ごと買うのか?」
「いいえ、ここのお店は量り売りですの。このカゴの中に、欲しいクッキーを入れて会計するのです」
「なるほど」
一枚から販売していて、近所の子どもが半銅貨を握りしめて買いにやってくるらしい。
私やリオルみたいな裕福な家の子は初めてだと、以前店主は話していた。
当時はまったく裕福ではなかったのだが、まあ、下町の人たちに比べたら豊かな暮らしをしていたのだろう。
店内に並ぶクッキーは二十種類くらいか。
貴族の茶会で出されるサブレやラングドシャ、ディアマンクッキーといったおなじみの物はない。
素朴なバタークッキーやビスケットが主力商品なのである。
「アドルフ、この近くに高台があって、王都の景色を一望できるのですが、ここのクッキーを食べながら見ません?」
「わかった」
私はごつごつとした岩のような見た目のオーツクッキーを選び、 アドルフは栄養豊富なオートミールのクッキーを選ぶ。
リオルへのお土産として、アーモンドのクッキーを買った。
購入したクッキーは、追加料金を払うと包んでもらえる。リオルのお土産のクッキーは油紙に包んだあと紐で縛ってもらい、それ以外のクッキーは剥き出しのままだった。すぐに食べるのでまあいいかと思い、絹のハンカチに包んでおく。
クッキー店をあとにすると、ちょうどミルク売りが通りかかった。
ミルク売りというのは、荷車に瓶入りのミルクを積んで売り歩く商人である。
アドルフは不可解な生きものを見る目で、ミルク売りを眺めていた。中心街ではこのようにミルクを売っていないので、驚いているのだろう。
クッキーだけ食べたら喉が詰まるので、何か飲み物がほしいと思っていたところである。
「店主さま、ミルクをいただけるかしら?」
「おうよ」
新作だと言って紹介されたのは、ミルクティーである。
「なんでもお貴族さまが好んで飲んでいるらしい。これがよく売れるんだ」
「でしたら、ミルクティーをふたつ」
「銅貨三枚だ」
財布を取り出そうとした瞬間には、アドルフがミルク売りの店主に支払いを済ませていた。
「あ、あの、ありがとうございます」
「気にするな。先ほどの首飾りに比べたら、安い物だ」
そうだった。ついさっき、彼に銀貨一枚支払わせたばかりである。
思わず笑ってしまった。アドルフにとっては笑い事ではないだろうが。
瓶入りのミルクティーをアドルフは店主から受け取る。紙袋はなく、剥き出しのまま差し出されたので戸惑っているようだった。
下町に無償の袋文化などないのだ。諦めてほしい。
「では、高台に行きましょう」
道草を食べつついろいろ歩き回っていたからか、太陽は傾きつつあった。急がないと、あっという間に日が暮れてしまうだろう。
途中でリンドウの日傘は「可愛いねえ」と褒めてくれた少女に手渡し、高台を目指していく。
下町から旧街道のほうへ向かい、途中にある石の階段を上がっていく。
スカートを摘まみ、頂上を目指した。
「王都にこういう場所があるなんて、知らなかった」
「魔法騎士隊の警備塔ができる前は、ここから街の様子を見ていたそうです」
「なるほど。そういう用途だったか」
子どもの頃は駆け上がれた階段も、今は息が乱れてしまう。
アドルフはクラブ活動で体を鍛えているからか、平然としていた。
「リオニー嬢、手を」
「え?」
「急がないと、太陽が沈んでしまう」
「そう、ですわね」
差し出された手に、指先を重ねる。力強く握り返され、階段を上がりやすいように手を引いてくれた。
やっとのことで、頂上に辿り着く。
太陽が沈む絶妙な時間で、王都の街並みはあかね色に染まっていた。
「美しいな」
「ええ」
私とアドルフは、太陽が沈みきるまで会話もなく、景色を眺めていた。
太陽が地平線に沈み、薄暗くなってからハッと気づく。
「あ、クッキーとミルクティーの存在を失念しておりました」
「そこに座って食べよう」
今は使われていない、石造りの椅子があるのだ。
アドルフは胸ポケットに入れていたハンカチを広げ、私にどうぞと手で示してくれた。
「ありがとうございます」
こういうところも抜け目はないようだ。さすが、ロンリンギア公爵家のご子息である。
アドルフはオートミールのクッキー、私はオーツクッキーを手に取る。
「リオニー嬢のクッキーは珍しいな」
「岩みたいでしょう?」
「ああ」
半分に割って差し出すと、アドルフは目をまんまるにさせて私を見る。
「どうぞ。お召し上がりになって」
とてもおいしいからと言うと、小さな声で「感謝する」と言った。
ただ、アドルフの手はオートミールのクッキーとミルクティーで塞がっていた。仕方がないと思い、口に運んであげる。
「アドルフ、あーん」
「は!?」
「あーん、です。お口を開けてくださいませ」
アドルフは言葉に従い、口を開く。そこにオーツクッキーを詰め込んだ。
バターが少ないクッキーだからか、アドルフは食べた瞬間に咽せていた。
「アドルフ、ミルクティーを飲むのです」
「ごほ、ごほ!」
ミルクティーを飲み、ごくんと呑み込む。アドルフは驚いた表情のまま、感想を述べた。
「おいしい……!」
「でしょう?」
クッキーとミルクティーの相性は最強なので、極上の味わいだっただろう。私もクッキーを一口食べ、ミルクティーを飲む。
「おいしいです」
何を思ったのか、アドルフはオートミールのクッキーを半分に割っていた。片方を私に差し出す。
「これも食べてみろ」
「ありがとうございます」
まさか、アドルフとクッキーを半分こにする日がくるとは、まったく思わなかった。
分けてもらったクッキーは、とてもおいしかった。
ミルクティーを飲み干した瞬間に、アドルフが親指に嵌めていた銀の指輪が光る。
アドルフは驚愕の表情を浮かべ、指輪を押さえた。
「なっ――封じていたはずなのに」
いったいどうかしたのか。問いかけようとしたら、遠くから声が聞こえた。
「アドルフお坊ちゃまーー!!」
「いました」
その声を聞いたアドルフは、チッと舌打ちした。
いつもの暴君の姿が垣間見える。
声がしたほうを振り返ると、御者と護衛がこちらへ駆けてきた。
「ああ、よかった。舞台が終わっても呼び出しがないので、心配しました」
「ご無事で何よりです」
なんでも指輪には追跡魔法がかけられていたのだという。
アドルフは途端に、不機嫌な様子となった。
「あの、アドルフ、そろそろ帰りましょうか」
「ああ」
これまでの楽しかった雰囲気は消え失せ、なんとも気まずい空気が流れる。
アドルフとのお出かけは、ロンリンギア公爵家の者達の介入とともに終了となったのだった。
ロンリンギア公爵家の御者は、我が家の馬車も呼んでくれていたようだ。
アドルフと別れ、馬車に乗りこむ。
御者と護衛の慌てようから、アドルフがいなくなったと大騒ぎになっていたのかもしれない。
アドルフは現在地がバレないように、指輪の機能を封印していたらしい。それを、公爵家の魔法師に解除され、発見されてしまったのだという。
別れ際のアドルフは、それはもう不機嫌だった。
けれども、私に声をかけるときは落ち着いていて、「この埋め合わせはいつか必ず」とまで言っていた。
別に、そろそろ帰る時間だったので、問題はないのだが……。
帰宅すると、父が待ち構えていた。
「……ただいま帰りました、父上」
「ああ、よくぞ帰った。今日はロンリンギア公爵家のアドルフ君と出かけたようだな」
「ええ、まあ」
父は私がアドルフの婚約者に選ばれたことに関して、もっとも喜んでいるようだった。
これから婚約破棄の流れになるので、落胆させてしまうのだが。
「アドルフ君の機嫌をそこねないように、上手く付き合うように」
「なるべく努めます」
父との会話は適当に流しておく。リオルへのお土産のクッキーは執事に託し、疲れたからと言って部屋に戻った。
廊下を歩いていると、チキンが飛んでくる。
『お帰りなさいちゅりー』
「ただいま。いい子にしてた?」
『もちろんでちゅり!』
チキンは私の肩に止まり、頬ずりしてくる。
年々甘えん坊になっている気がするが、使い魔というのはそんなものなのだろう。
メイドがお風呂の準備をしてくれたので、浴槽にゆっくり浸かる。
今日の疲れが、湯に溶けてなくなるような気がした。
なんというか、婚約破棄はされなかったし疲れてしまった。けれども、なんだか楽しかったような気がする。
きっと自分が行きたいと思うところに行けて、勝手気ままに振る舞えたからだろう。
アドルフの怒る以外の表情を見られたのも面白かった。
思いのほか、彼は女性に対して寛大である。その度量を、普段の学校生活でも見せてくれたらいいのだが。
それはそうと、アドルフが薔薇の花束と恋文を贈っていたのは誰なのか。
単なる好奇心だが、相手についての情報も知りたい。
それらについて情報提供をしてくれたのはランハートだ。今度会ったときにでも、詳しい話を聞いておこう。
お風呂に入ったら疲れが取れた。夕食後にクッキー作りを行う。
いつも作っているのは、シンプルなシュガークッキーだ。
素朴な味わいで、紅茶やミルクとよく合う。
私が作るクッキーの中で、リオルが唯一おいしいと認めるものでもあった。
髪が邪魔にならないように纏め、三角巾を当てて結ぶ。エプロンをかけ、腰部分でリボンを結んだ。
材料は小麦粉、バター、顆粒糖に卵、バニラビーンズ。
まずはバターを室温にし、なめらかになるまでホイップする。クリーム状になったバターに顆粒糖を加え、さらに混ぜた。これにバニラビーンズ、小麦粉を入れ、生地がまとまるまで練っていく。
生地がなめらかになったら布に包み、保冷庫の中で一時間休ませる。
一時間後――棒状に伸ばした生地に顆粒糖を軽く振るう。次にクッキーの形を整えるのだが、私は型抜きではなく、クッキースタンプと呼ばれるものを使う。
クッキースタンプというのは、模様が刻まれた型である。生地に押し当てると、美しい模様が移しだされるのだ。
今、お気に入りなのは、マーガレットに似たクッキースタンプである。これを生地に押し当てると、マーガレット型のクッキーに仕上がるのだ。
生地を一口大にカットしたものに、クッキースタンプを押し当てる。可愛らしいマーガレット型のクッキー生地を、油を薄く塗った鉄板に並べていった。
生地の形が整ったら、最後に熱していた窯で焼いていくのだ。
十五分ほどで、おいしそうに焼き上がった。
粗熱が取れるのを待っていると、厨房にリオルがやってきた。
「クッキー、また焼いたんだ。ルミに頼まれたの?」
「いいえ、これはアドルフに差し上げるものです」
「本気?」
「嘘を言ってどうするのですか」
リオルはズンズン接近し、焼きたてのクッキーを摘まむとそのままパクリと食べる。
「熱っ……!」
「できたてほやほやですので、当たり前です」
勝手に食べたのに、抗議するような視線を向けていた。文句を言うと思っていたが、想定外の言葉を彼は口にする。
「修道院のクッキーより、姉上のクッキーのほうがおいしいな」
「それは当たり前です。あなたの好みに合うように、改良したのがこちらのクッキーですから」
「そうだったんだ。だったら、姉上が作るクッキーはすべて僕の物なんじゃないの?」
「何をどう考えたら、そういう思考に至るのか」
まあ、いい。たくさん作ったので、三分の一はリオルに分けてあげる。
ランハートにもあげよう。情報料として渡すのだ。
リオルは満足したのか、クッキーを持っていなくなった。
粗熱が取れたクッキーは缶に詰め、アドルフ宛てに書いたカードを添えておく。
包装してからロンリンギア公爵家のアドルフに送るようにと、侍女にお願いしておいた。
なんとか労働責任量(ノルマ)を達成できたので、ひと息つく。
今日はゆっくり眠れそうだ。
◇◇◇
実家から魔法学校に戻ると、日常が帰ってきたと思ってしまう。
いつの間にか、貴族令嬢としての私は非日常になっていたようだ。
制服に身を包み、朝から冷え込むので特待生のガウンを着込む。
これを着る栄光を得られたのも三年目。
結局、このガウンを着用できたのは私とアドルフだけだった。
つまり、まるまる二年もの間、アドルフとお揃いのガウンを着続けたというわけである。
一時期は恥ずかしくて、アロガンツ寮のガウンを着て学校に通っていたときもあった。
けれども、特待生のガウンは保温及び保冷魔法がかけられていて、快適に過ごせるのだ。一方で、寮のガウンはただの上衣である。圧倒的に、特待生のガウンが過ごしやすい。
私の恥ずかしいという気持ちは、寒さと暑さを前にするとあっさり負けてしまうのだ。
朝――食堂に行くと、新入生が大勢押しかけていた。
パンやチーズを大盛りに取り分け、時間が許す限り食べている。
そういう食べ方ができるのは、今だけだ。
三学年となった者たちは、パンはひとつ、チーズは一切れと、皿の上は慎ましい量しかない。
二年間の寮生活で、食べたいだけガツガツ食べるというのは品がない、と厳しく躾けられた証である。
食事量に制限はない。けれどもお腹いっぱい食べられるという環境は贅沢なものだ。
自分たちは恵まれた者たちだと自覚し、必要最低限の食事を取る。
それこそ、|高貴なる(ノブレス)|存在の務め(オブリージュ)なのだと、卒業していったかつての監督生が語っていた。
ちなみにこれらの指導は、朝食時のみである。昼食や夕食は好きなだけ食べられるのだ。
少々厳しすぎるのではないか、育ち盛りの子どもに食事を制限するなんて酷い行為だ、などという声を上げる保護者もいる。
けれども朝からお腹いっぱい食べ、満腹感から授業中に眠ってしまう子どももいたため、この決まりは伝統と化してしまったようだ。
魔法学校が貴顕紳士を作り出す場所だというのは、上手く言ったものだと思う。
その言葉のとおり、野生育ちのようでわんぱくな生徒も、三学年ともなれば立派な紳士然となるのだ。
入学して一週間くらいは、大人しく席について食べていたら厳しく注意されない。
けれどもそれを過ぎたら、厳しい食事マナーの指導が始まるのだ。
今のうちにたくさんお食べ、と心の中で新入生たちに声をかけた。
ジリジリとけたたましいチャイムの音が鳴る。
新入生たちに朝食の時間が終了したと告げる音だ。食堂の混雑を避けるために、各学年、時間をずらすようにしているのだ。
急いでベーコンを食べる者、パンを制服のポケットに忍ばせる者、食事を残して足早に去る者と、さまざまだった。
食堂はあっという間に、静けさを取り戻す。
一学年のあとは、三学年の時間となっている。ほとんどの生徒が校外学習にでかけているため、食堂へやってくる生徒は少なかった。
さて、今日は何を食べようか、と考えていたら、背後より声がかけられる。
「リオル・フォン・ヴァイグブルグ! ぼんやり立ち止まらない!」
振り返った先にいたのは、特待生のガウンに監督生の腕章を合わせた姿のアドルフだった。
注意したあと、してやったりとばかりに笑っていた。
私に恥をかかせようと、わざと言ったのだろう。腹立たしい気持ちになる。
昨日、リオニーだった私には、恥をかかせまいと泥を被ってくれたというのに。
女性を敬い、尊重するという姿勢は、魔法学校に通って身に着けた紳士教育の一環だ。きちんと身についているではないか、と内心賞賛する。
肩に止まっていたチキンが、物騒な提案を耳元で囁く。
『ご主人さま、あいつの頭に、羽根をぶっ刺してきましょうか? ちゅり?』
「絶対に止めて」
チキンが自主的に私を守る行動を取る前に、アドルフの前から立ち去らなければ。
そう思っていたのに、引き留められる。
「おい、お前」
お前だけでは多くの人が当てはまる。そのまま立ち去ろうとしたのに、腕を取られてしまった。
「何?」
「昨日、リオニー嬢……お前の姉さんは、なんか言っていたか?」
「なんかって?」
「その、怒っていなかったか?」
ロンリンギア公爵家の者たちの介入により、外出が強制的に終了してしまった件に関して、憤慨していたのではないか心配だったらしい。
「別に、なんとも」
「そうか」
明らかにホッとしたような表情を浮かべる。私の気分を害していないか、気がかりだったようだ。
結婚のために、天下のアドルフ・フォン・ロンリンギアがご機嫌伺いをするなんて。愛人を迎えるにあたり、格下の家柄の娘との結婚を確実に成立させたいのだろう。
彼がそこまで情熱を傾ける相手とは、いったい誰なのか。気になって仕方がない。
「リオル」
初めて名前を呼ばれ、驚いてしまう。リオルは弟の名前だが、二年間呼ばれ続けると、自分のもののように思えるから不思議だ。
アドルフはこれまでにないくらい、真剣な眼差しで私を見つめている。そして、想定外の言葉を口にした。
「今後、お前の姉さんを悲しませるようなことはしない。約束する」
昨日の出来事を受けての誓いなのだろう。
けれども、本当にそれが遂行できるのだろうか?
妻以外の愛する女性を傍に置き、悲しい思いをさせないなんて、ありえないだろう。
私もまっすぐアドルフを見つめ、言葉を返した。
「姉の結婚相手が、君でなくてもいいんじゃないかって、僕は思っているよ」
何か言い返すのではないか、と思ったが、アドルフは雨の中に捨てられた子犬のような表情でいた。
そんな彼を無視して、食事が並んだテーブルのほうへ向かう。今度は引き留められなかった。
◇◇◇
放課後――誰もいない談話室に、ランハートの姿があった。難しい表情で、参考書とにらめっこしている。
「やあ、ランハート」
「ああ、リオル! ちょうどいいところにきた」
魔法騎士隊の従騎士となったランハートは、レポートの作成に苦労していたらしい。
どういうふうに書けばいいのかわからず、頭を抱えていたようだ。
「自習室じゃなくて、どうしてここでやっていたの?」
「ここにいたら、リオルが通りかかるんじゃないかって思って」
神さま、天使さま、リオルさま、と言い、手と手を合わせる。仕方がないと思い、レポート作りを手伝ってあげた。
一時間後――ランハートは満足げな表情で背伸びする。
「いやはや、助かったよ。さすがリオルだ。感謝の印として、今度購買部でお菓子を奢ってやるよ」
「それよりも、教えてほしい情報がある」
「ん?」
周囲に人がいないことを確認し、ランハートに耳打ちをする。
「以前聞いた、アドルフが薔薇と恋文を送っていた相手について知りたい」
これまでへらへらしていたランハートの表情が、一気に引き締まる。
「いきなりどうしたんだ?」
「アドルフは見合いの席で、薔薇と恋文を渡していた相手について、言わなかったらしい。そういう相手がいるならば、きちんと事前に伝えておくのが礼儀だろう?」
「まあ、それはそうかもしれないけれど」
貴族にとって結婚は、政略的な意味合いが強い。そのため、結婚相手との生活を義務とし、爵位を継承する子どもが生まれたら、愛人を迎える者も多い。
平和な暮らしを送るために、愛人を傍に置くときは、配偶者に理解を得るのが普通だ。
夫となった者に愛人がいる場合、その女性をしっかり管理するのも妻の務めなのである。
いろいろおかしいけれど、これが貴族のやり方なのだ。
「なあ、薔薇と恋文を贈っていた相手は、リオルのお姉さんじゃないのか?」
「それはない」
アドルフから薔薇と恋文が届いたことなんて、一度もなかった。
「頻繁に薔薇や恋文を受け取ったのが恥ずかしくて、家族に隠していた、なんて可能性は?」
「絶対にない」
「届いていたけれど、父親が処分していたというのは?」
「それもない。父はアドルフとの結婚に賛成だったから」
「そうか」
リオルが処分していたというのも考えにくい。あの子は他人への干渉を面倒に思うようなところがあるから。
ランハートは後頭部をガシガシ掻き、大きなため息をつく。
「いや、なんか悪かったな」
「何が?」
「余計な話をしたと思って。ほら、当時のお前は進級前試験で次席になって、ふてくされていただろう? アドルフの弱みみたいな話をしたら、元気になるかと思ってしたんだよ」
「ああ、そうだったんだ」
たしかに、一年前の今頃は、成績が落ちて酷く落ち込んでいた。
二学年は試験に苦手な実技もあったため、アドルフに差を付けられてしまったのだ。
悔しすぎて、不機嫌な状態が続いていたような気がする。
そんな中で、アドルフが恋人に薔薇の花束と恋文をせっせと贈っている、なんて話を聞いた。あんな奴にも誰かの気を引きたい気持ちがあるのだと、面白がっていた記憶が残っている。
「まあ、何はともあれ、愛人にするような女性がいるのに、黙ったまま姉と結婚するというのは面白くない。だから、どんな女性(ひと)に想いを寄せているのか、調べて――」
「どうするんだ?」
「婚約破棄を促す」
愛する女性と結婚するのが一番だ、なんて夢物語を語るつもりはない。けれども相手に隠し事をしている状態で、結婚するのもどうかと思う。
「アドルフはうちが格下の家だから、それがまかり通るって思っているんだ」
「それはどうだろうなー」
ランハートをジロリと睨む。先ほどから、アドルフ寄りの意見を言っているように思えてならないのだ。
「ランハート、さっきから君はどっちの味方なの?」
「もちろんリオルに決まっている。俺たちの友情を、忘れないでくれよ」
「怪しい友情だ」
ランハートとの友情云々はさておいて。
なぜアドルフの味方になるような発言をするのか問い詰める。
「いやだって、あいつって自尊心はどこまでも高くて、真面目じゃん。だから、結婚する相手に愛人の存在を隠すなんてことはしないと思うんだよねえ」
「だったら、アドルフはいったい誰に薔薇と恋文を贈っているって言うんだ?」
「さあ?」
ここで、ランハートは情報の出所について打ち明ける。
「俺さ、奉仕活動の時間に購買部に行っていたじゃん?」
「ああ、あったね」
下級生時代に毎週行われる奉仕活動――放課後に魔法学校内で業務を行う人たちの手伝いをする時間だ。
その中で、ランハートは購買部を担当していたのだ。
「そこで働くおばちゃんと仲良くなってさー」
「賞味期限が切れそうなお菓子を貰ってきていたよね」
「そう!」
奉仕活動をする中で、薔薇の花束の注文が毎週入るという話を聞いたのだという。
「その生徒は薔薇の花束に手紙を添えて、校外にいる恋人へ送るよう手配をする――なんて話を、ロマンティックだわ~~っておばちゃんが話していたんだ。いったい誰かと気になって、金を支払いにやってくる様子を覗き見したら、アドルフがやってきたってわけ!」
「なるほど」
手紙はアドルフが持っていて、購買部へは薔薇を受け取りにくるだけだった。そのため、宛名は誰だったか、というのはわからないという。
「購買部の店員だったら、宛名を見たことがあるかもしれない」
そう言って立ち上がると、ランハートも続いて起立する。
「俺も行くよ」
「忙しいんじゃないの?」
「平気。それに、なんか責任感じるし」
「別に気にしなくてもいいのに」
購買部の店員は生徒に関する情報のすべてに守秘義務がある。そのため、私が突然やってきても、情報提供してくれないかもしれないという。
ランハートの同行は必要みたいだ。
校舎の一階、職員室の隣に位置する魔法学校の購買部は、授業で使う魔法書や文房具、お菓子や衣料だけでなく、小説や模型、遊戯盤などの娯楽に関する商品も揃えられている。
魔法学校に入学して一年目は、外出が徹底的に制限されている。そのため、暮らしに関わる品はなんでも取り扱っているのだ。
もしかしたら中央街にある雑貨店よりも、品揃えはいいかもしれない。
購買部の店員はランハートに気づくと、嬉しそうに手を振っていた。
「あら、ランハート君、久しぶりねえ」
「どうも! ご無沙汰してます」
「最近、忙しいんでしょう?」
「まあ、ぼちぼちですねえ」
軽く近況を語り合ったあと、ランハートは本題へと移った。
「そういえばさ、前に薔薇を取り寄せていた生徒がいましたよね?」
「ええ。今も、週末になると注文していた薔薇を受け取りに来ているわよ」
アドルフは婚約が成立した今も、薔薇と恋文を贈っているらしい。
ランハートの笑顔が少しだけ引きつっているように見えたのは、決して気のせいではないだろう。
彼はアドルフが真面目で一途な男で、薔薇と恋文は婚約者となったリオニーに贈っていたと信じていたに違いない。
「毎週欠かすことなく薔薇を贈るなんて、本当にロマンチックな子よねえ」
「で、ですよね」
「私もそういうことをされたいわー。でも、どうしてそれが気になったの?」
「いや、友達がそんなやつなんていないって言い切るから」
何か聞かれたときには、こう答えるようにとランハートに伝えていたのである。
売店の店員の視線がこちらに向く。ぺこりと会釈しておいた。
「それで、誰に贈っていたかっていうのは、わからないですよねえ」
「ええ。さすがに相手については知らないのよ」
それを聞いたランハートは、しょんぼりとうな垂れる。
「あ、でも、いつも蕾の薔薇を注文していたの。届けるのに時間がかかるからって。たしか、馬車で一日半かかる湖水地方のほうだと言っていたわ」
一日半かかる湖水地方といったら、〝グリンゼル〟だろう。あそこは観光地であるのと同時に、貴族たちの保養地でもある。
たしか、ブラント子爵家が領する場所であり、ワインの名産地としても有名だ。
これだけの情報を聞いたら、十分だろう。
そのまま立ち去るのも悪いので、ノートやインクを購入し、購買部から去る。
部屋にランハートを招き、話をした。
「やっぱひとり部屋はいいなー」
「そのために勉強しているといっても、過言ではないからね」
寝台に寝転がろうとするランハートの首根っこを掴み、窓際の椅子へと誘う。
「ランハートのおかげで、いろいろ知ることができた」
「まー、核心に迫る情報は得られなかったけれど」
湖水地方グリンゼルに住む、アドルフと年若い女性――ここまで絞られたら、特定もしやすいだろう。
「グリンゼルっていったら、校外授業の科目にあった気がする」
「え、いったい何するの?」
「宿泊訓練だってさ」
ランハートは生徒会に所属していて、先輩からさまざまな話を聞いている。公開されていない教育課程(カリキュラム)についても詳しかった。
「その宿泊訓練は、いつあるの?」
「来月か再来月くらいじゃない?」
三学年は職業訓練でも忙しい時期である。そのため、自由参加となっているらしい。
卒業前のお楽しみ行事として、就職先が決まった生徒は遊びに行くような気持ちで受けるのだという。
「話を聞いたときは、どうしようかなって思っていたんだけれど、リオルがいくなら希望を出そうかな」
「うん……ランハートがいてくれると、助かるかも」
「でしょう?」
誰にも好かれる明るい性格の彼がいたら、調査もしやすい。
私が感情的になったときも、止めてくれるだろう。
これまでにこやかに話していたランハートだったが、急に真面目な顔で私を見る。
少しだけ身構えてしまった。
「あのさ、リオル、ひとついい?」
「何?」
「進路について、そろそろ聞かせてくれる?」
ついにきたか、と内心思う。
入学当初から、ランハートは私の将来について聞きたがっていたのだ。
本当のリオルの進路は、どこにも属さない研究員である。
優秀な彼のおかげで、ヴァイグブルグ伯爵家の財政はかなり潤っているのだ。
毎年国立魔法研究所から研究員にならないかという誘いがあるようだが、リオルは無視しているらしい。
組織に属したら、自由気ままに研究できないと思っているようだ。
この先、リオルは偉大な研究を成し遂げるだろう。彼の未来は明るかった。
一方で、私の未来には陰が差し込んでいるように思えてならない。
アドルフとの結婚を阻止できなかったら、愛人との三人暮らしが始まってしまう。
婚約破棄できた場合は、ひとりで身を立てて、暮らしていかなければいけないのだ。
大叔母はひとりでも強く生きていけたが、果たして私は同じように生きられるのか。正直、自信はない。
「私は、家業を手伝いつつ、魔法の研究をする」
「えー! いろんなところから仕事の誘いがあるって話だったのに、どれも受けないの?」
「受けない」
二学年のときに、職業適性の授業があった。校外に出て、さまざまな職業を体験するのだ。私はランハートと一緒に魔法騎士の職場に行ったり、養護院を訪問したり、修道士の体験をしたり――貴族令嬢であればできない仕事を体験できた。
その中で、「うちで働かないか」と声をかけてくれる大人たちもいた。
とても嬉しかったが、リオルの姿を借りている私には過ぎた話で、実現できるわけがないのだ。
働かないか、と声をかけてくれる人たちは、魔法学校を卒業した良家の子息を迎えたいのだろう。貴族令嬢の道を外れた、頭でっかちな小娘と働きたいわけではない。
それを思うと、自分が惨めに思えてならなかった。
「リオルはさ、ずっと何かに悩んでいるようだけれど、自分の中で留めずに、誰かに言ったほうがいいよ」
「うん、そうだね。ありがとう」
実は自分は貴族令嬢で、弟の代わりに魔法学校に通っているんだ、なんてランハート相手でも言えるわけがない。
私が女だとわかったら、彼との友情も崩壊してしまうだろう。
ここでの思い出は、美しいものとして残しておきたい。
だから、秘密は誰にも打ち明けるつもりはなかった。
魔法学校の夕食は、合計四カ所で提供されている。
ひとつ目は校内食堂。夜は日替わりで出される料理のみだが、おいしいと評判で人気が高い。
ふたつ目は寮の近くにある、生徒のみが利用できるレストラン。予約制で、食事のマナーを学べる。
みっつ目は各寮の食堂。朝食同様、料理が事前に用意されており、好きなだけ食べられるという形式である。
よっつ目は購買部で販売されている軽食を買い、好きな場所で食べるというもの。パンやチーズ、缶詰などを買い、独自のアレンジをして食べるのが流行っているのだとか。
私はもっぱら、寮の食堂で済ませていた。校内食堂やレストランに比べたら、料理は冷えている上に、質より量といった感じだったが。
食事に対する欲求が、他の人より薄いというのもある。今はとにかく、食事よりも勉強に時間を割きたかったのだ。
ちなみに寮内の食堂でない場所で食べるさい、必ず監督生に報告しなければならない。それも面倒だったので、寮での食事でいいやと思ってしまうのだろう。
今日、ランハートは他寮の友達と一緒に、校内食堂で誕生会を開くと言っていた。私も誘われたものの、顔見知り程度の同級生だったので断ったのだ。
クッキーを渡すのを忘れていたので、誕生会が終わったら談話室で渡すという約束を取り付けていた。
ランハートが部屋に取りに行くと行ったが、彼がいると長居するので断った。
なんとなく、夜に異性を部屋に入れるというのも、抵抗があったし。
今宵も、談話室は無人だった。部屋から持ってきていた勉強道具を広げ、明日の授業の予習を始める。
校内食堂はもうすぐ閉まる。そのため、ランハートは十分と待たずにやってくるだろう。
ランハートは想定していた時間に現れる。
「すまない。待たせたな」
「大丈夫。勉強していたし」
「リオルは本当に真面目だな」
授業中、特待生は教師の注目を集めやすい。当てられて答えられなかったら恥ずかしいので、予習は欠かせないのだ。
「アドルフがいるから大丈夫! って思っている日ほど、当たるんだよな」
「わかる! 俺もアドルフとリオルがいるから大丈夫って思っていたら、ご指名を受けるんだよなあ」
「不思議だよね」
「本当に」
もうすぐ談話室は閉鎖される。忘れないうちにクッキーを渡しておいた。
「うわー、やった! リオルの家のクッキー、絶品なんだよねえ」
「絶品って、これまでおいしいクッキーをたくさん食べていただろうに」
「いーや、このクッキーが一番おいしい。甘すぎないし、ザクザクした歯ごたえが絶妙なんだよね」
リオルとランハート、アドルフはお菓子の好みが一緒なのだろう。三人がお茶とクッキーを囲む様子を想像したが、気まずそうだと思ってしまった。
「一個食べようかな」
「お腹いっぱいケーキと鶏の丸焼きを食べたんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけれど」
個人の誕生日をする場合、希望を出したらケーキと鶏の丸焼きを作ってくれる。
一か月前に予約する必要があるようだが、誕生日ですら実家に帰れない生徒には好評を博しているようだ。
私も毎年ランハートが誘ってくれるものの、その日は弟の誕生日なので、祝われても別に嬉しくない。
本当の誕生日も、同級生よりひとつ多く年を取ってしまったと切ない気持ちになるだけだった。
「クッキーは別腹なんだよ」
そう言って、クッキー缶の蓋を開く。
「うーーん。甘くていい匂い! リオルの実家のクッキー、久しぶりだな」
ランハートはキラキラした瞳で、クッキーを見つめていた。これほど喜んでくれたら、クッキーを作った甲斐があるというもの。
幸せそうにクッキーを頬張る横顔を見つめていたら、廊下からカツカツという足音が聞こえた。
予想するまでもない。アドルフに間違いないだろう。
広げていた勉強道具をきれいに整え、ランハートは二個目のクッキーをごくんと呑み込む。
談話室に顔を覗かせたのは、やはりアドルフだった。
彼は監督生に贈られる金のカフスボタンをいじりつつ、中へ入ってくる。尊大な様子で、私たちに注意し始めた。
「もうすぐここは閉鎖する。早く部屋に戻るように」
「へーーい」
ランハートが気の抜けた返事をしたからか、アドルフにジロリと睨まれてしまった。
気まずく思ったのか、ランハートは思いがけない提案をする。
「あー、えっと、アドルフ、よかったらリオルの実家のクッキーを食べる?」
あろうことか、そのクッキーを勧めるなんて。
「リオル・フォン・ヴァイグブルグの、実家のクッキーだと?」
「そう。特製のシュガークッキーなんだけれど、すっごくおいしいんだぜ」
いやいや待て。それを勧めるなと制止したかったが、もうすでにアドルフが恐ろしい形相でこちらにやってきていた。
クッキー缶の中身を見て、ハッと肩を震わせる。
そして、アドルフが小脇に抱えていたクッキー缶を手に取り、開封した。
ランハートが持っているクッキーと、アドルフが持っているクッキーの中身はそっくりそのまま同じだったのである。
それも無理はない。どちらも、同じ日に私が焼いたクッキーだから。
アドルフはキッと眉をつり上げ、ランハートを睨みつける。まるで親の敵を前にしたような、苛烈な視線であった。
「お前、どうしてそのクッキーを持っている!?」
問いかけられたランハートは、キョトンとしていた。
「いや、どうしてって、貰ったとしか言いようがないというか」
「リオニー嬢が、お前のために贈ったというのか!?」
「え、どういうこと?」
「しらばっくれるな!!」
たかがクッキーくらいで大声をあげないでほしい。
アドルフの包み紙を確認したら、実家から寮に転送してもらったというのがわかる。
「このクッキーは、俺のためにリオニー嬢が焼いたものなんだ! お前が食べていいものではない!」
「えー、そんな!」
面倒な事態になってきた。この場はランハートに任せて、私は自分の部屋で明日の予習をしたいのに。
私にとって無関係な話ではないというか、当事者なので、この場を離れるわけにはいかないのだ。
部屋に置いてきたチキンを召喚しようかと思ったものの、あの子は過剰防衛をする可能性がある。アドルフの頭に羽根を突き刺されたら困るので、呼ばないほうがいいだろう。
「ランハート・フォン・レイダー、お前はリオニー嬢とどういう関係なのだ?」
「どういうって、会ったことすらないんだけれど! これがリオルのお姉さんの手作りクッキーだったことすら、今知ったくらい! 直接貰ったんじゃなくて、リオルが分けてもらったのを、横流ししてもらったの!」
ランハートが必死の形相で訴えると、アドルフのつり上がっていた眉がどんどん下がっていく。
そして、ゴホン!! と咳払いすると、小さな声で「少々誤解があったようだ。すまなかった」と素直に謝罪した。
談話室は時間になったら自動施錠される。注意するようにと言い残し、アドルフはそそくさと去っていった。
ランハートとふたり、しばし呆然としてしまう。
アドルフの足音が聞こえなくなると、息苦しさから解放された。
「あの、ランハート、なんかごめん」
「ううん、いいよ。談話室でクッキーを食べた俺が悪いんだし」
ランハートが寛大でよかったと、胸をなで下ろす。
「っていうかさ、リオル。アドルフって、やっぱりお姉さんにベタ惚れしているのでは?」
「は!? どうしてそういうふうに思うの?」
「だって、お姉さんが作ったクッキーを俺が持っているのを知って、激怒してたじゃん」
「アドルフはクッキーが大好物なだけでしょう?」
「そんなこと……あるのかなあ」
「あるよ。僕、心の中でアドルフをクッキー暴君って呼んでいたから」
「クッキー暴君って、なんじゃそりゃ。ぴったりじゃないか!」
ランハートと一緒に、大笑いしてしまう。たかがクッキーひとつで、あそこまで怒れるなんて一種の才能かもしれない。
「でも、そのクッキーがトラブルの火種になったのは確かだから、今度購買部で何か奢ってあげる」
「それよりも、その予習ノートを明日の朝に見せてほしいな」
「そんなのでいいの?」
「それがいいんだよ」
ランハートと裏取引を行っていたら、談話室の閉鎖が告げられるベルが鳴り始める。
閉じ込められたら、明日の朝までここにいなければならなくなる。私とランハートは急いで談話室を飛び出したのだった。
◇◇◇
クッキー暴君との事件から一週間後、実家から手紙が転送されてきた。
お茶会のお誘いが二通、ルミからの手紙、それからアドルフからの手紙と小包が届いていたという。
お茶会の誘いはずいぶんと減った。魔法学校に入学する前は、毎週二十通以上届き、どこに参加するのか頭を悩ませるくらいだった。
魔法学校での暮らしを優先させ、断り続けていた結果がこれである。
二通の差出人はいつもの面々だ。ひとりはルミの友人である侯爵令嬢、クララ様。社交場に姿を現さない私をいつも心配し、誘ってくれるのだ。
もうひとりは私が所属している、慈善活動サロンのお茶会のメンバーからである。これも、毎月クッキーを養育院に送るくらいで、現地での活動には参加できていない。お茶会への誘いは名簿に載っている貴族令嬢全員に送られているのだろう。
ルミからのお手紙は最後の楽しみにしておくとして、問題はアドルフの手紙と小包である。
ため息をつきつつ、手紙を開封した。
便箋には丁寧な文字で前回の外出時の謝罪と、クッキーがおいしかったという感想が書かれてあった。
彼がこんなにきれいな文字を書く人だったなんて、今まで知らなかった。
包みはこの前のお詫びだとある。
いったい何を贈ってきたのだろうか。恐る恐る包みを開く。
木箱に収められていたのは、ドラゴンを模った胸飾りだった。
精巧な出来で、子どもが見たら大喜びしそうな意匠だ。
瞳はルビーで、翼は銀でできている。女性への贈り物としてはいささか武骨ではないのか。
毎週、魔法学校から薔薇と恋文を贈っているロマンチックな男が選んだとは思えないのだが……。
まず、どのドレスにも合わないだろう。
しかしまあ、ぶっきらぼうなアドルフらしいとも言える。
ふと、封筒にカードが入っているのに気づいた。そこには、ドラゴンの胸飾りはお守りなので肌身離さず身につけたほうがいいと書かれてある。さらにまた会いたい、とあった。まるで、恋人を熱望しているようなメッセージに思えてならないのだが……。
前回の外出で、私の不興を買ったと思っているのか。よくわからない。
正直頻繁に会いたくない相手なのだが、アドルフがグリンゼルへの宿泊訓練に参加するか気になる。
もしも彼が現地に行ったら、追跡調査ができる。
リオルの状態では探りを入れられないが、婚約者であるリオニーであれば気軽に聞けるだろう。
便箋を取り出し、ドラゴンの胸飾りに対する感謝の気持ちと、次に実家に戻れる期間を会える日として書いておいた。
書いた手紙は一度実家に戻し、そこから侍女に頼んで改めてアドルフのもとへと届けられる。面倒だが、ここから送ったら魔法学校の消印が付いてしまうので仕方がないことだった。
◇◇◇
今日も今日とて、監督生であるアドルフは食堂の監視をしていた。
学校から贈られた金のカフスが太陽の光に反射して、これでもかと輝いている。
悔しいけれど、彼に似合っていた。
前を通り過ぎようとしたら、声をかけられる。
「おい、リオル・フォン・ヴァイグブルグ」
「何? 違反行為はしていないでしょう?」
「そうじゃない」
アドルフは少しだけ頬を染め、ボソボソと小さな声で言う。
「リオニー嬢の誇りになるよう、真面目に過ごすように」
「は!? どうしてそんなことを言われなければならない?」
私の気が立ったからか、肩に止まっていたチキンの羽毛がぶわっと膨らんだ。
それだけでなく、翼をシュッシュと前に突き出し、戦闘態勢になる。
ここで暴れられたら大変なことになるので、チキンを掴んでポケットに突っ込んでおく。服の上からぽんぽんと叩き、落ち着くように促した。
アドルフは自信満々の態度で言い返してくる。
「どうしてって、俺はリオニー嬢の婚約者だからだ」
私が変な行動を取ると、姉の婚約者であるアドルフも損害を被る、とでも言いたいのか。
まだ結婚していないのに、家族顔されるのはごめんである。
ピリピリした空気が流れつつあったが、突然背後から腕を取る者が現る。ランハートだった。
「おう、リオルじゃないか。あっちの席が空いているぜ!」
ランハートは私の腕をぐいぐい引っ張り、席へと誘導してくれる。そこに座るよう肩を押し、「どーどー」と言いながら背中を摩った。
「リオル、お前、なんで朝からアドルフに絡んでいるんだよ」
「あいつのほうが先に絡んできたんだ」
「アドルフは教師への密告手帳を持つ監督生なんだ。声をかけられても、スルーしろ」
「それができたら、あいつは僕に絡んでこないだろう」
「まあ、そうだろうけれど、気を付けろよー」
「わかっている」
監督生の密告手帳というのは、違反行為を起こした生徒について記録しておくものだ。一日の終わりに教師に報告し、違反内容によっては成績にも影響を及ぼす。
そのため、監督生の前では猫を被っている生徒が多い。
朝食を食べる気にならず、寮母(メイトロン)に頼んで朝食に出ていたもので|お弁当(パックランチ)を作ってもらった。休み時間に食欲が復帰したら食べたい。
本日は登校日であるので、教室には多くのクラスメイトがいた。
半月ぶりに会う者同士が、戦場から戻ってきた兵士と家族のような再会をしていた。
私は端っこにある目立たない席で、新しく取り寄せた魔法書を読む。ランハートは私がやってきた予習を、一生懸命自分のノートに写していた。
ホームルームが始まる。教師はグリンゼルへの宿泊訓練についての摘要(レジュメ)を配っていた。皆、騒がずに落ち着いた様子で見ていたが、顔がにやけている。きっと魔法学校を卒業する頃には、表情筋を鍛える訓練を終え、完璧な紳士として独り立ちするのだろう。今はまだまだ未完成紳士、といったところか。
アドルフのほうをチラリと横目で見ていたら、無表情だった。
さすが、ロンリンギア公爵家のご子息といったところか。表情から感情は読み取れない。
一限目の授業が終わり、休み時間となる。皆、各々集まって宿泊訓練について語っていた。
残念ながら密告手帳を持つアドルフに話しかける猛者はおらず、動向は探れない。
やはり、リオニーとして会ったときに聞くしかないようだ。
ひとまず宿泊訓練のことは頭の隅に追いやり、私は寮母が用意してくれたお弁当を食べ始める。
すると、一学年のときから同じクラスだった男子生徒、ギードが話しかけてきた。
「なんだよ、リオル。お前、育ち盛りか?」
「違う。朝、食欲が湧かなかっただけ」
「そうか」
ギードがやってきたからか、次々とクラスメイトが集まってくる。ここでも、話題の中心は宿泊訓練についてだった。
皆、参加するようで、今から何をするかと話し合っている。
厳しい紳士教育を受けても、彼らはいつでも少年の無邪気な心を持っていた。
そんなクラスメイトを、少しだけ羨ましく思ってしまった。
◇◇◇
アドルフに手紙を送ってから、次の予定はとんとん拍子に決まった。
前回のように歩き回ったら疲れてしまうので、喫茶店で会うという方向性で固まった。
行き先はアドルフに任せた。いったいどんなお店に案内してくれるのやら……。なんせ、ドラゴンの胸飾りを婚約者に贈る男である。
紳士の社交場となっているコーヒーハウスに連れていかれたとしても、驚かないようにしよう。
外出するのは寮監督教師へ申請書を提出しなければならない。
もっとも外出の許可が降りにくいのは、一学年のときだろう。国王陛下が主催する式典に招待されたとか、家族に何かあったとか、そういう理由がないと許可されない。
二学年になると、少しだけ緩和される。美術品の鑑賞や舞台の観劇など、芸術に触れるための外出が許可されるのだ。ただこれも、誰もが行けるわけでなく、監督生と寮監督教師の審議に合格した者のみが行ける。さらに、馬車は学校が用意したもので行き来しなければならない。出発時間と帰着時間がきっちり決まっていて、自由に行動する時間なんてないという。
三学年になると、かなり緩和される。就職活動のための外出や、社交を目的とした外出は審議なく許可される。
十八歳となった魔法学校の生徒たちは、将来の伴侶を探すために社交界デビューをするというわけである。
良家の子息は社交界デビューの年齢が早いが、一般的な貴族の嫡男はだいたい十八歳前後になったら夜会に参加するのだ。
そんなわけで、社交を目的とした私の外出はあっさり許可された。
忙しない毎日を過ごしていると、あっという間にアドルフと面会する日を迎える。憂鬱(ゆううつ)すぎて、夜中に何度も起きてしまう。完全に寝不足であった。
「リオニーお嬢様、本日のお召し物はどうなさいますか?」
「うーん」
派手な出で立ちはアドルフにダメージを与えられないとわかったので、今日は華やかすぎないごくごく普通の恰好で、と侍女に頼む。
侍女がいくつかドレスを持ってやってくる。その中でもっとも控えめな、薄紫(ライラック)のドレスを選んだ。
「髪は三つ編みにして、クラウンみたいにまとめて。香水は鈴蘭(ミュゲ)のをお願い」
こういった侍女への指示も、貴族女性の務めである。よくわからないからといって、侍女の思う通りにさせてはいけない。
何もかもお任せにしていた場合、侍女がドレスや宝飾品を購入することになる。その結果、侍女が権力を握り、最終的に主人を軽んじるのだ。
正直、他人にあれこれ指示するのは得意でないものの、以前よりは上手く侍女を使えるようになったのではないか。
それも、魔法学校で下級生に指示を出していた成果だろう。
化粧品も似たような瓶が大量に並べられる。魔法薬の名前は暗記できるのに、化粧品の種類を覚えられないのはなぜなのか。
面倒なので化粧品の指定はせず、今、社交界で流行っている仕上がりで、とざっくり頼んでおいた。
今日は秋晴れで、日差しが強い。日傘を持参して行こう。
侍女が数本持ってきたので、象牙の|持ち手(ハンドル)が美しい、チュールレースがあしらわれたものを選んだ。
日傘は美しければ美しいほど、重たくなる。今日選んだのもたくさんレースが縫い付けられていたので、手にずっしりときていた。貴族の女性も大変なのだ。
出発前にふと気づく。ドラゴンの胸飾りを忘れていた。
薄紫のドレスには合いそうになかったが、付けていかないわけにもいかないだろう。
さすがに目立つ場所には付けられないので、腰のリボンに合わせた。
侍女は感情を表に出さず、私の指示に従う。なんとなく、質問を投げかけてしまった。
「この胸飾り、どう思います? 婚約者にいただいた品なのですが」
「こちらは――とても勇ましいですね」
その一言に尽きるだろう。苦笑していたら、侍女は控えめに微笑んでくれた。
アドルフの乗る馬車がやってきたと、侍女が耳打ちしてくれた。
本物のリオルと会わないよう、大急ぎで玄関に向かう。
待ち合わせにしたかったのだが、家まで迎えにきたいと手紙に書かれてあったのだ。それを断るのもどうかと思ったので、アドルフの送迎を受けることとなってしまった。
息を整えたのと同時に、玄関の扉が開かれる。
アドルフはパールグレイのフロックコート姿で立っていた。前髪は以前のように後ろに撫で付けず、軽く分けるだけにしていた。監督生になってから、よくしている髪型である。
前回は別人のようだったが、今回は完全に普段のアドルフなので、妙に緊張してしまう。
「リオニー嬢、待たせたな」
そう言って、優雅に手を差し伸べる。
あのアドルフと、手と手を合わせるなんて信じられない。けれどもこれは現実である。
「さあ、行こうか」
こくりと頷くと、アドルフは優しくエスコートしてくれた。
ふたりきりとなった馬車の中で、先手を打って胸飾りについて感謝の言葉を伝える。
「あの、こちらの胸飾り、ありがとうございました」
「ああ。やはり、それは贈った品だったか。よく似合っている」
アドルフの言葉に、微笑みに見える苦笑いを返した。
ドラゴンが似合うと言われて喜ぶ貴族令嬢など存在するのか――わからない。
そんな会話を皮切りに、アドルフとの外出が始まった。