ついに、アドルフと舞台を観に行く日を迎えてしまった。
朝から憂鬱(ゆううつ)でしかなかったが、やるしかない。今日を乗り切ったら、アドルフとの縁が切れるかもしれないのだ。私の頑張りにかかっている。
外出用のドレスも、新しく仕立てた。うんざりするくらい派手な、ファイアレッドのドレスである。
こんな明るい色合いのドレスなんて、今時誰も着ていないだろう。周囲の人たちから、品のない女性だと見られるに違いない。
髪はこれでもかとばかりに気合いを入れて巻き、薔薇の髪飾りを差し込む。ルビーの耳飾りを装着し、それと同じ色合いの真っ赤な口紅を塗った。
これ以上ない気合いを入れた出で立ちで、アドルフとの戦いに挑む。
姿見で確認すると、目をそらしたくなるくらいの酷い恰好であった。
「これで勝つ! これで勝つ!」
自らに言い聞かせるように、勝利の言葉を口にしておいた。
身なりが整ったので、そろそろ出発だ。
いつものように肩に乗るチキンを、そっとテーブルの上に下ろす。
「今日はアドルフと会う日だから、あなたはお留守番」
『そんなー! ちゅりー!』
「チキンが傍にいたら、バレるから」
『ちゅり……』
ここ二年で気づいたのだが、黒雀というのは極めて珍しい生きもので、まずこの辺りでは見かけない。そのため、私がチキンを連れていたら、「どうして弟の使い魔を連れているんだ?」と思われてしまうだろう。
何かあったときは召喚魔法で呼び出すからと言葉を残し、私室を出る。
家族に見つからないようにこそこそ出て行こうとしていたら、リオルと会ってしまった。
普段は地下の研究室に引きこもって、姿なんか見せないのに。
私を見た途端、感想を口にする。
「何その恰好。娼婦みたい」
「リオル、それは気のせいですわ」
さほど興味がないのか、追及しようとしない。ただ、ジト目で見つめてくる。
「では、行ってまいります」
「気を付けて」
「ええ」
急ぎ足で家を飛び出し、なんとか馬車に乗りこむ。深呼吸をしたのちに、御者に合図を出した。
我が家の街屋敷(タウンハウス)から舞台が上演される劇場まで、馬車で十分といったところか。あっという間に辿り着いてしまった。
馬車を乗り降りする円形地帯(ロータリー)で降りると、すぐに声をかけられた。
「リオニー嬢、こっちだ」
アドルフの声である。名前で呼ばれ、ギョッとしてしまった。
婚約者なのだから、なんら不思議なことではないのだが。ここ二年ほど、リオルと呼ばれ続けたので、本当の名前で呼ばれてしっくりこないのかもしれない。
振り返った先にいたのは、いつもと異なる恰好をしたアドルフだった。
前髪はオールバックにし、灰色のフロックコートを纏っている。手にはステッキを握り、その姿は紳士然としていた。普段よりもずっと大人っぽい恰好をしているので、なんだか落ち着かない気持ちになる。
ドキドキ――ではない。彼が彼でないように見えるので、違和感を覚えているのだろう。
アドルフは私を見た瞬間、サッと顔を逸らした。
リオル曰く娼婦みたいな恰好が、お気に召さなかったに違いない。作戦通りである。
ここで文句のひとつやふたつ言うだろう。そう思っていたのに、アドルフはまさかの行動に出る。
私に向けてそっと手を差し伸べたのだ。
「リオニー嬢、手を」
この辺りは人が多く、はぐれないために傍にいたほうがいい、なんて言葉を付け加えた。それならば、拒否なんてできないだろう。
一刻も早く婚約破棄してほしかったが、馬車から下りた人々が川の流れのように押し寄せてくるのだ。ひとまず、立ち止まれる場所まで移動する必要がある。
アドルフは握った私の手を腕に誘導させ、腕組みした状態で歩いていった。
後方から人がぶつかりそうになったら、そっと引き寄せてくれる。なんともスマートなエスコートだった。
劇場の前に辿り着くと、彼は懐を探ってチケットを探しているようだった。
言うならば、今である。何度も練習したとっておきの言葉を放った。
「あの、アドルフ。わたくし、舞台には興味がありませんの」
これにはさすがのアドルフも、驚いた表情を浮かべていた。
もしも舞台に興味がないのであれば、誘われた時点で言うのが礼儀だろう。
劇場の前で言うなんて、失礼甚だしい。
さあ、ここで婚約破棄だ。自慢の短気を今見せるときであった。頑張れ、頑張れと心の中でアドルフを鼓舞させる。
ドキドキしつつ反応を待ったが、ここでもアドルフは想定外の言葉を口にした。
「わかった。舞台はやめよう」
手にしていたチケットを、舞台を観るか迷っていたカップルにあげてしまった。
恐る恐るアドルフを見上げると、怒っている様子はこれっぽっちもない。
まさかの器の量を、私に見せつけてくれた。
あとは、このまま帰るだけになる。そう思っていたのに、アドルフは優しい声で問いかけてきた。
「リオニー嬢、今日はどこに行きたい?」
驚いた。この暴君は行き先を私に委ねてくれるらしい。
別の提案もできただろうが、また断られるかもしれないと踏んで、選択権を寄越したのだろう。
ちらりとアドルフの様子を探る。本当にまったく怒っている様子はないのだ。
これまで彼の短気を何度も目にしてきた当事者としては、驚きの一言である。
それはそうと、計画が崩れてしまった。
今日、いきなり婚約破棄とならなくても、アドルフはここで怒って帰ると思っていたのだ。
どこに行きたいかと聞かれても、アドルフと一緒に行きたいところなんてない。
困った。
「アドルフと行きたいところ、ですか……」
考える素振りを見せると、アドルフはギラギラとした視線を向ける。
これはつい先日、私にクッキーを寄越すようにと脅したときに見せた目だった。
いい機会なので、クッキーについて質問してみた。
「ああ、そういえば、弟リオルから聞いたのですが、アドルフはクッキーがお好きなようですね」
それを聞いたアドルフは目を泳がせ、みるみるうちに頬を赤く染めていく。
こういう反応を見るのは初めてである。
尊大な態度で奪っていったのを、今更恥ずかしく思ったのだろうか。
「先日、リオル君から、リオニー嬢が焼いたクッキーを分けてもらった」
〝リオル君〟だって!?
学校にいるときは、「お前」としか呼ばないのに。
普段聞き慣れない呼び方だったため、全身に鳥肌が立ってしまった。
「あら、お恥ずかしいですわ。素人が趣味で焼いたクッキーでしたのに」
「いや! とてもおいしかった! あのクッキーは、購買部のクッキーにも勝(まさ)っている!」
なぜかアドルフは拳を握り、私が焼いたクッキーのおいしさについて力説を始めた。
びっくりしたものの、あのクッキーはランハートもおいしいと言っていた。もしかしたら私は、クッキー作りの才能があるのかもしれない。
ただ、王宮御用達の高級クッキーよりおいしいというのは言い過ぎだろう。
「本当に、おいしかった。俺は、嘘は言わない」
「そ、そうでしたか。でしたら、今日、舞台をお断りしてしまったお詫びに、クッキーを焼いて贈りますね」
ごくごく軽い気持ちで言ったのだが、アドルフはカッと目を見開く。それだけでなく、私の両手を掴んで、ぐっと顔を近づける。
普段、絶対に接近しない美貌が、眼前に迫った。
「いつ、贈ってくれる?」
「えっと、そうですわね……。たしかなお約束はできないのですが、その、近いうちに」
「――っ! 楽しみにしている」
なんというか、驚いた。彼がここまでクッキーが好きだったなんて。
クッキー暴君というあだ名は、あながち間違いではないのかもしれない。
ここでピンとくる。アドルフと一緒に行きたい場所を思いついたのだ。
「そんなにクッキーがお好きなのでしたら、いいお店を知っています。ご案内いたしますわ!」
遠慮なくアドルフの腕を掴み、ぐいぐいと引いていく。
アドルフは「いや、別にクッキーが好きなわけでは……」などと言っていたのだが、きれいさっぱり無視をした。
「リオニー嬢、待ってくれ。馬車を手配する」
劇場近くの回転道路には、馬車を預ける場所がある。管理人が立っているので、事前に受け取っていた木札を渡すと、御者に主人が馬車を待っていると連絡するという仕組みだ。
「馬車ではなく、歩きましょう。すぐ近くですので」
店が近くにあるように匂わせたが、クッキーのお店があるのは下町のほうだ。けっこう歩かないといけない。これも、婚約破棄へ誘(いざな)うための作戦であった。
「アドルフ、そちらの道を右です」
「そっちは路地裏だぞ」
「近道なんです」
幼少期に、私とリオルは貴族の集まりを抜けだし、街を大冒険したことがあった。
そこで、最終的に辿り着いたのが、下町のクッキー店だったのだ。
そこのクッキーをリオルがとても気に入り、また食べたいと訴える。けれども大冒険をした私たちは父からしこたま怒られ、二度と歩き回らないように、と言われていたのだ。
どうしてもクッキーが食べたいと言う弟のために、私はクッキー作りを始めたのだ。
最初のほうは、火加減を間違えて焦がしてしまったり、生焼けだったり。仕上がりは酷いものだった。
普通に食べられるようになるレベルから、リオルが「おいしい」と言うまで五年はかかったような気がする。
私もよく飽きずに、クッキーを作り続けたものだと、我ながら呆れてしまった。
高い建物が並ぶ路地裏は、太陽の光があまり差し込まず、少し薄暗い。
古びたアンティークを売る露店や占いをする魔女など、怪しい商売をする人たちであふれかえっている。
「よく、こういう道を知っていたな」
「あら、アドルフは大人の目を盗んで、王都を冒険したことはありませんの?」
「ない。外出するときは、いつも護衛がいたから」
そうなのだ。四大貴族の嫡男ともなれば、行く先々に屈強な護衛がいる。
お見合いの日も護衛を連れていたが、今日はいなかった。
「護衛のお方はどうしましたの?」
「いらないと言ってきた。もう、十八歳で成人だから」
「なるほど。そういうわけでしたのね」
私はアドルフよりもひとつ年上の十九歳である。
年上の女性を妻として選ぶのは、極めて稀だ。ただ、アドルフの場合は愛人との平穏な暮らしのために私を選んだのだ。年齢なんて気にしていないのだろう。
露店の前で立ち止まり、並んでいるガラス玉の首飾りを指差す。
「アドルフ、見てくださいませ。きれいなアクセサリーが販売されております」
値段を見て驚く。ただのガラス玉に、本物の宝石ほどの値段がつけられていたのだ。ぼったくりもいいところである。
ひとつ手に取ったのは、くすんだ青いガラス玉がついた首飾り。それをアドルフのほうに向け、瞳と透かしてみた。
「あなたの瞳の色にそっくりですわ」
明らかに透明度が低いガラス玉に似ていると言われても、まったく嬉しくないだろう。
それ以上に、ガラス玉を宝石と信じている女を、軽蔑するかもしれない。それを狙って言っているのだ。
アドルフはどういう反応を見せるのか。顔を見上げたら、少しだけ泣きそうな表情を浮かべていた。
「そうだな。そっくりだ」
アドルフは「これをくれ」と言い、銀貨を露店の店主へと差し出す。
店主は本物の銀貨を前に、心底驚いているようだった。
「あ、あの――!」
「ほら。欲しかったんだろう?」
アドルフは購入したガラス玉のペンダントを、私の手に握らせる。
なぜ、ここまでしてくれるのか。
しばし彼を見つめたが、真意は掴めなかった。
朝から憂鬱(ゆううつ)でしかなかったが、やるしかない。今日を乗り切ったら、アドルフとの縁が切れるかもしれないのだ。私の頑張りにかかっている。
外出用のドレスも、新しく仕立てた。うんざりするくらい派手な、ファイアレッドのドレスである。
こんな明るい色合いのドレスなんて、今時誰も着ていないだろう。周囲の人たちから、品のない女性だと見られるに違いない。
髪はこれでもかとばかりに気合いを入れて巻き、薔薇の髪飾りを差し込む。ルビーの耳飾りを装着し、それと同じ色合いの真っ赤な口紅を塗った。
これ以上ない気合いを入れた出で立ちで、アドルフとの戦いに挑む。
姿見で確認すると、目をそらしたくなるくらいの酷い恰好であった。
「これで勝つ! これで勝つ!」
自らに言い聞かせるように、勝利の言葉を口にしておいた。
身なりが整ったので、そろそろ出発だ。
いつものように肩に乗るチキンを、そっとテーブルの上に下ろす。
「今日はアドルフと会う日だから、あなたはお留守番」
『そんなー! ちゅりー!』
「チキンが傍にいたら、バレるから」
『ちゅり……』
ここ二年で気づいたのだが、黒雀というのは極めて珍しい生きもので、まずこの辺りでは見かけない。そのため、私がチキンを連れていたら、「どうして弟の使い魔を連れているんだ?」と思われてしまうだろう。
何かあったときは召喚魔法で呼び出すからと言葉を残し、私室を出る。
家族に見つからないようにこそこそ出て行こうとしていたら、リオルと会ってしまった。
普段は地下の研究室に引きこもって、姿なんか見せないのに。
私を見た途端、感想を口にする。
「何その恰好。娼婦みたい」
「リオル、それは気のせいですわ」
さほど興味がないのか、追及しようとしない。ただ、ジト目で見つめてくる。
「では、行ってまいります」
「気を付けて」
「ええ」
急ぎ足で家を飛び出し、なんとか馬車に乗りこむ。深呼吸をしたのちに、御者に合図を出した。
我が家の街屋敷(タウンハウス)から舞台が上演される劇場まで、馬車で十分といったところか。あっという間に辿り着いてしまった。
馬車を乗り降りする円形地帯(ロータリー)で降りると、すぐに声をかけられた。
「リオニー嬢、こっちだ」
アドルフの声である。名前で呼ばれ、ギョッとしてしまった。
婚約者なのだから、なんら不思議なことではないのだが。ここ二年ほど、リオルと呼ばれ続けたので、本当の名前で呼ばれてしっくりこないのかもしれない。
振り返った先にいたのは、いつもと異なる恰好をしたアドルフだった。
前髪はオールバックにし、灰色のフロックコートを纏っている。手にはステッキを握り、その姿は紳士然としていた。普段よりもずっと大人っぽい恰好をしているので、なんだか落ち着かない気持ちになる。
ドキドキ――ではない。彼が彼でないように見えるので、違和感を覚えているのだろう。
アドルフは私を見た瞬間、サッと顔を逸らした。
リオル曰く娼婦みたいな恰好が、お気に召さなかったに違いない。作戦通りである。
ここで文句のひとつやふたつ言うだろう。そう思っていたのに、アドルフはまさかの行動に出る。
私に向けてそっと手を差し伸べたのだ。
「リオニー嬢、手を」
この辺りは人が多く、はぐれないために傍にいたほうがいい、なんて言葉を付け加えた。それならば、拒否なんてできないだろう。
一刻も早く婚約破棄してほしかったが、馬車から下りた人々が川の流れのように押し寄せてくるのだ。ひとまず、立ち止まれる場所まで移動する必要がある。
アドルフは握った私の手を腕に誘導させ、腕組みした状態で歩いていった。
後方から人がぶつかりそうになったら、そっと引き寄せてくれる。なんともスマートなエスコートだった。
劇場の前に辿り着くと、彼は懐を探ってチケットを探しているようだった。
言うならば、今である。何度も練習したとっておきの言葉を放った。
「あの、アドルフ。わたくし、舞台には興味がありませんの」
これにはさすがのアドルフも、驚いた表情を浮かべていた。
もしも舞台に興味がないのであれば、誘われた時点で言うのが礼儀だろう。
劇場の前で言うなんて、失礼甚だしい。
さあ、ここで婚約破棄だ。自慢の短気を今見せるときであった。頑張れ、頑張れと心の中でアドルフを鼓舞させる。
ドキドキしつつ反応を待ったが、ここでもアドルフは想定外の言葉を口にした。
「わかった。舞台はやめよう」
手にしていたチケットを、舞台を観るか迷っていたカップルにあげてしまった。
恐る恐るアドルフを見上げると、怒っている様子はこれっぽっちもない。
まさかの器の量を、私に見せつけてくれた。
あとは、このまま帰るだけになる。そう思っていたのに、アドルフは優しい声で問いかけてきた。
「リオニー嬢、今日はどこに行きたい?」
驚いた。この暴君は行き先を私に委ねてくれるらしい。
別の提案もできただろうが、また断られるかもしれないと踏んで、選択権を寄越したのだろう。
ちらりとアドルフの様子を探る。本当にまったく怒っている様子はないのだ。
これまで彼の短気を何度も目にしてきた当事者としては、驚きの一言である。
それはそうと、計画が崩れてしまった。
今日、いきなり婚約破棄とならなくても、アドルフはここで怒って帰ると思っていたのだ。
どこに行きたいかと聞かれても、アドルフと一緒に行きたいところなんてない。
困った。
「アドルフと行きたいところ、ですか……」
考える素振りを見せると、アドルフはギラギラとした視線を向ける。
これはつい先日、私にクッキーを寄越すようにと脅したときに見せた目だった。
いい機会なので、クッキーについて質問してみた。
「ああ、そういえば、弟リオルから聞いたのですが、アドルフはクッキーがお好きなようですね」
それを聞いたアドルフは目を泳がせ、みるみるうちに頬を赤く染めていく。
こういう反応を見るのは初めてである。
尊大な態度で奪っていったのを、今更恥ずかしく思ったのだろうか。
「先日、リオル君から、リオニー嬢が焼いたクッキーを分けてもらった」
〝リオル君〟だって!?
学校にいるときは、「お前」としか呼ばないのに。
普段聞き慣れない呼び方だったため、全身に鳥肌が立ってしまった。
「あら、お恥ずかしいですわ。素人が趣味で焼いたクッキーでしたのに」
「いや! とてもおいしかった! あのクッキーは、購買部のクッキーにも勝(まさ)っている!」
なぜかアドルフは拳を握り、私が焼いたクッキーのおいしさについて力説を始めた。
びっくりしたものの、あのクッキーはランハートもおいしいと言っていた。もしかしたら私は、クッキー作りの才能があるのかもしれない。
ただ、王宮御用達の高級クッキーよりおいしいというのは言い過ぎだろう。
「本当に、おいしかった。俺は、嘘は言わない」
「そ、そうでしたか。でしたら、今日、舞台をお断りしてしまったお詫びに、クッキーを焼いて贈りますね」
ごくごく軽い気持ちで言ったのだが、アドルフはカッと目を見開く。それだけでなく、私の両手を掴んで、ぐっと顔を近づける。
普段、絶対に接近しない美貌が、眼前に迫った。
「いつ、贈ってくれる?」
「えっと、そうですわね……。たしかなお約束はできないのですが、その、近いうちに」
「――っ! 楽しみにしている」
なんというか、驚いた。彼がここまでクッキーが好きだったなんて。
クッキー暴君というあだ名は、あながち間違いではないのかもしれない。
ここでピンとくる。アドルフと一緒に行きたい場所を思いついたのだ。
「そんなにクッキーがお好きなのでしたら、いいお店を知っています。ご案内いたしますわ!」
遠慮なくアドルフの腕を掴み、ぐいぐいと引いていく。
アドルフは「いや、別にクッキーが好きなわけでは……」などと言っていたのだが、きれいさっぱり無視をした。
「リオニー嬢、待ってくれ。馬車を手配する」
劇場近くの回転道路には、馬車を預ける場所がある。管理人が立っているので、事前に受け取っていた木札を渡すと、御者に主人が馬車を待っていると連絡するという仕組みだ。
「馬車ではなく、歩きましょう。すぐ近くですので」
店が近くにあるように匂わせたが、クッキーのお店があるのは下町のほうだ。けっこう歩かないといけない。これも、婚約破棄へ誘(いざな)うための作戦であった。
「アドルフ、そちらの道を右です」
「そっちは路地裏だぞ」
「近道なんです」
幼少期に、私とリオルは貴族の集まりを抜けだし、街を大冒険したことがあった。
そこで、最終的に辿り着いたのが、下町のクッキー店だったのだ。
そこのクッキーをリオルがとても気に入り、また食べたいと訴える。けれども大冒険をした私たちは父からしこたま怒られ、二度と歩き回らないように、と言われていたのだ。
どうしてもクッキーが食べたいと言う弟のために、私はクッキー作りを始めたのだ。
最初のほうは、火加減を間違えて焦がしてしまったり、生焼けだったり。仕上がりは酷いものだった。
普通に食べられるようになるレベルから、リオルが「おいしい」と言うまで五年はかかったような気がする。
私もよく飽きずに、クッキーを作り続けたものだと、我ながら呆れてしまった。
高い建物が並ぶ路地裏は、太陽の光があまり差し込まず、少し薄暗い。
古びたアンティークを売る露店や占いをする魔女など、怪しい商売をする人たちであふれかえっている。
「よく、こういう道を知っていたな」
「あら、アドルフは大人の目を盗んで、王都を冒険したことはありませんの?」
「ない。外出するときは、いつも護衛がいたから」
そうなのだ。四大貴族の嫡男ともなれば、行く先々に屈強な護衛がいる。
お見合いの日も護衛を連れていたが、今日はいなかった。
「護衛のお方はどうしましたの?」
「いらないと言ってきた。もう、十八歳で成人だから」
「なるほど。そういうわけでしたのね」
私はアドルフよりもひとつ年上の十九歳である。
年上の女性を妻として選ぶのは、極めて稀だ。ただ、アドルフの場合は愛人との平穏な暮らしのために私を選んだのだ。年齢なんて気にしていないのだろう。
露店の前で立ち止まり、並んでいるガラス玉の首飾りを指差す。
「アドルフ、見てくださいませ。きれいなアクセサリーが販売されております」
値段を見て驚く。ただのガラス玉に、本物の宝石ほどの値段がつけられていたのだ。ぼったくりもいいところである。
ひとつ手に取ったのは、くすんだ青いガラス玉がついた首飾り。それをアドルフのほうに向け、瞳と透かしてみた。
「あなたの瞳の色にそっくりですわ」
明らかに透明度が低いガラス玉に似ていると言われても、まったく嬉しくないだろう。
それ以上に、ガラス玉を宝石と信じている女を、軽蔑するかもしれない。それを狙って言っているのだ。
アドルフはどういう反応を見せるのか。顔を見上げたら、少しだけ泣きそうな表情を浮かべていた。
「そうだな。そっくりだ」
アドルフは「これをくれ」と言い、銀貨を露店の店主へと差し出す。
店主は本物の銀貨を前に、心底驚いているようだった。
「あ、あの――!」
「ほら。欲しかったんだろう?」
アドルフは購入したガラス玉のペンダントを、私の手に握らせる。
なぜ、ここまでしてくれるのか。
しばし彼を見つめたが、真意は掴めなかった。