幼少期から弟リオルばかり優秀だと思っていた。けれども魔法学校に通い始めて、私もリオルには敵わないものの、けっこう優秀であるということに気づく。
リオルに理解できる魔法をできなかったり、私が読めない魔法書がリオルには読めたりと、自尊心が傷つくときもあった。けれどもそれはリオルが飛び抜けた天才だったというだけで、魔法学校で丁寧に習うと、どれもできるようになる。
魔法学校に通ってよかったと思うのはそれだけではない。
親元を離れて暮らす寮生活は思いのほか楽しく、卒業後は家を出て家庭教師でもしながら暮らすのもいいなと思ったくらいである。
男同士の付き合いも、どこかカラッとしていて面白い。
入学式で出会ったランハートは、今や大親友である。
魔法について勉強する量も、実家にいた頃よりずっと増えた。
というのも、アドルフというライバルがいたからだ。
私とアドルフの成績は五分五分だった。入学式のときに首位が取れたのは、本当に運がよかったのかもしれない。
二回目の試験で二位となってしまった私は、アドルフからこう言われたのだ。
「お前、勉強してなかったのか?」
そんなわけない。試験前は部屋に引きこもり、夜遅くまで勉強していた。
精一杯の実力を出したのにもかかわらず、二位だったのだ。
アドルフが私を見つつ、嘲り笑いながら「次は頑張れ」と声をかけてきた瞬間、私の闘争心に火が点いた。
それからというもの、私はクラブ活動に参加せず、勉強に励んだのだった。
と、勉強漬けだった一学年目の思い出をルミに語って聞かせる。
「リオニーからのお手紙には、いつも楽しそうに過ごしているとあったので、まさかロンリンギア公爵家のご子息と、そんなことがあっていたとはまったく思いもしませんでした」
「本当に、いい迷惑でした」
「もしかして、ロンリンギア公爵家のご子息に、いじめられていたのですか?」
「いいえ、あのお方は自分で手を下しませんでした」
アドルフの取り巻きには、本人がいない場面で絡まれた。無視していたら、手を出してくる日もあったのだ。
それに関しては、使い魔のチキンが活躍してくれた。
私の手の甲に止まっていたチキンの嘴の下を、指先でそっと撫でる。すると、気持ちいいのか目を細めていた。
「このチキンが、取り巻きを追い返してくれましたの」
「まあ! そうだったのですね」
チキンは一見して小さな鳥だが、その体には大きな力を秘めている。
私に手を差し伸べてきたアドルフの取り巻きには、翼で叩(はた)いてくれた。腕を掴んできた奴にいたっては、顔を嘴で攻撃するのである。
返り討ちにあった取り巻きたちは教師に報告したが、先に被害を報告していたので、私が咎められることはなかった。
「それにしても、ロンリンギア公爵家のご子息は本当にリオニーさんと結婚なさるおつもりでしょうか?」
「彼は有言実行のお方です。きっと、わたくしと結婚するつもりでしょう」
それを阻止するために、私はいろいろ考えている。大人しく結婚するつもりなんて、毛頭なかった。
「彼は公爵家に生まれた貴族として、礼儀や教養を重んじている男性(ひと)ですの。度が過ぎた我が儘を申したり、一緒にいて恥ずかしい振る舞いをしたりしていたら、婚約破棄するはずです」
拳を握り、ルミに作戦を訴える。
ルミは心配そうに、「上手くいくでしょうか」と零していた。
「今度、アドルフに舞台を観に行かないかと誘われましたの。そこでわたくし、直前になって行きたくないと申してみようかと」
アドルフはきっと「なんだこいつは、失礼だな!!」と激昂し、その流れで婚約破棄するに違いない。
「絶対に上手くいきますわ!」
ルミは眉尻を下げ、困ったように微笑んでいた。きっと上手くいかないと思っているのだろう。
私は二年間、アドルフという男を見続けていたのだ。彼がどんなに短気で心が狭いのか、よく知っている。
魔法学校に入学して、あっという間に二年経った。
今は三年目で、授業も少ない。そのため、長期休暇以外にも実家に帰る許可が貰えるのだ。
明日からは学校である。しっかり気を引き締めないといけない。
ルミと別れ、魔法学校に戻る準備を行う。
家を出ようとしていたら、父に呼び出された。
「お父様、何用ですの?」
「男装姿でいると、リオルと話しているみたいだな」
「いい加減、慣れてくださいませ」
いつまで経っても、父は私の男装姿に慣れないのだ。
「それで、お話とは?」
「ああ、そう。お前が魔法学校の進級前試験で首席だったと聞いてね。よく頑張っている」
そうなのだ。ただひたすら勉強ばかりしていた結果、私は首位となった。
二年目の進級前試験ではアドルフが首席だったので、これまで以上に躍起になっていたのかもしれない。
「けれども、監督生にはなれませんでした」
寮にひとり選ばれる監督生には、アドルフが任命された。私も実は監督生の役割を狙っていたので、ショックを受けたのだ。
監督生は成績がいいというだけで選ばれるわけではない。
校長(ヘッド・マスター)や副校長(セカンド・マスター)、教師(アッシャー)の評価に加え、寮監督教師(ハウス・マスター)や個人指導師(チューター)の推薦も必要とする。学校と寮、両方のふるまいが判断材料となるのだ。
学校での私は模範生だと言われていたものの、寮に戻ると勉強漬け。
部屋にやってきた下級生に勉強を教えたことはあったものの、アドルフはさらに目立った行動に出ていた。
彼は教師や指導師がよく出入りする自習室(コンモン・ルーム)に足を運んで下級生に勉強を教えたり、調子に乗って遊ぶ生徒を注意したりしていたのだとか。
満場一致でアドルフが監督生にと選ばれるわけである。
「監督生にまでならなくてもいい。あまり目立つ行動はするな」
「わかっております」
話はこれで終わりだというので、一礼して部屋を出る。
チキンと共に魔法学校に戻ったのだった。
◇◇◇
三学年になると、寮は一階になる。それぞれの階でよさがあるのだ。
一学年のときに使っていた三階は魔法学校の敷地内を一望できる。二学年のときに使っていた二階は窓を開けると|桑の実(マルベリー)の木があって、実が付く初夏は食べ放題だった。一階は中庭に咲く四季の花々を堪能できる。
学期始めとなる秋は、薔薇の花が満開となっていた。春に比べたら開花しているものは少ないものの、濃い芳香を放つ薔薇の花々が咲き誇っている。
朝から焼いたクッキーが余ったので缶に詰め、小脇に抱えて持ってきた。足早に廊下を歩いていると、会いたくない相手と鉢合わせしてしまう。
大鴉みたいな漆黒の髪に、青い瞳の青年――アドルフだ。
監督生となった彼は、金のカフスが輝く灰色のウエストコートにジャケットを羽織り、赤い腕章を合わせた姿でいる。あれは監督生にのみ許された、特別な恰好であった。
私も二年間特待生だった証として、銀のボタンが与えられたものの、金のカフスに比べたら劣っているように思えて複雑だった。
アドルフのその姿を見た瞬間、悔しくなってしまう。無視して通り過ぎようと思っていたのに、アドルフのほうからズンズンとこちらへ接近してきた。
「おい」
そう声をかけたあと、何を思ったのかぐっと接近する。ジャケットに顔を近づけ、くんくんと匂いをかぎ始めた。
「ちょっ、何をするんだ!」
拳を突き出し、肩を押して彼を遠ざける。
「お前、女の匂いがする」
指摘され、カーッと顔が熱くなっていくのを感じた。女の匂いがするのは、女装していたからだろう。化粧品や香油がまざった匂いがしたに違いない。
別に外出はしていないので、風呂はいいかと思ってそのままやってきたわけである。
「女の匂いとかどうとか、どうでもいいだろうが」
「お前の姉さんといたから、匂いが移ったのか?」
「へ!?」
リオルの姉というのは、つまり私である。
面倒なので、匂いが移ったということにしておいた。
「まあ、そうかもしれないね」
「やはり、そうだったか」
「そうだったか、じゃなくて。勝手に他人の匂いをかぐな。気持ち悪い」
「女の匂いを男子寮でぷんぷんまき散らしているやつが悪いんだろうが」
アドルフと話していて、改めて確信する。こんな奴と結婚したら、絶対に不幸になると。
お見合いのときに愛想よくしていたのは、せっかく見つけた都合がいい結婚相手を逃したくないからだろう。
その面の皮を、リオニーとして会ったときに早く引き剥がしたい。
「お前、姉さんとは仲がいいのか?」
「別に普通」
「何か喋ったりしているのか?」
「別に、特別な会話はしないよ」
こんな質問を投げかけてくるのは、私と婚約したからか。これまで姉弟仲なんて気にしたことなんてなかったのに。
アドルフの反応が見たくて、顔を見上げる。ちょうど髪をかき上げた瞬間だったので、表情はよくわからなかった。
それにしても、アドルフの背はずいぶんと高くなった。
二年前、入学したときは身長が同じくらいだったが、今はアドルフのほうがはるかに伸びている。六フィート(百八十五)くらいはあるだろう。私は二年前からまったく変わらないので、アドルフと会話するときは視線は上向きとなる。それがなんだか腹立たしい。
「それはそうと、その缶はなんだ?」
アドルフは尊大な態度で、手にしていたクッキー缶を指差す。
ルミに食べさせるために焼いたクッキーだが、余ったので夜食にしようと持ってきたのだ。
「これは、姉さんが焼いたクッキーだよ」
「あれはクッキーが焼けるのか?」
アドルフのあれ呼ばわりにカチンときたが、これ以上会話を長引かせたくない。そのため、怒りはぐっと堪えた。
「従姉と食べるために焼いたらしい。これは余り」
そう答えると、アドルフは何を思ったのか手を差し伸べてくる。
「何?」
「俺は貰っていない。だから寄越せ」
「は?」
「リオニー・フォン・ヴァイグブルグの婚約者である俺にも、手作りクッキーを食べる権利があるはずだ」
「お前……どういう理屈だよ」
アドルフはクッキー好きなのだろうか。そうでないと、他人の作ったクッキーなんか欲しがらないだろう。
「クッキーを食べたかったら、購買部に行けよ。あそこには王宮御用達の高級クッキーがあるだろうが」
「俺はそのクッキーが食べたいんだ」
寮から購買部に移動するのが面倒に思っているのか。監督生の権力を使ったら、厨房の料理人からクッキーを焼いてもらえる。きっとこの暴君は、今、私が持っているクッキーを食べたいのだろう。
「余っていて、しぶしぶ持って帰ってきたんだろうが? それだったら、俺が食べてやるから」
「素人が作ったありあわせのクッキーを、天下の監督生さまが引き取るってこと?」
「そうだ」
ちらりとアドルフを見上げると、目がギラギラしていた。あれは、肉食獣が獲物を捕らえるときに見せるものだろう。
どうしても、このクッキーが食べたいようだ。よほど飢えているのだろう。
若干可哀想になったが、無償でくれてやるわけにはいかない。
「だったら、温室の薬草の水やり当番を代わって。やり方は管理人が教えてくれるから」
「わかった」
了承するとは思わなかったので、驚いてしまう。
薬草の水やりは、私のささやかな活動の一環である。
一年と二年のときはこういった活動をしていなかったのだが、進級前に薬草学の先生から薬草の世話を手伝ってくれと泣きつかれたのだ。
ちなみにクラブではなく、人数が少ないので同好会(ソサエティ)だ。
ただ手伝うよりも、同好会の活動にしたほうが評価される。そう思って、急遽作ってもらったのだ。
部員がひとりだけの、薬草クラブである。顧問の先生と交代で薬草に水やりをしているのだ。
「じゃあ、これ」
クッキー缶を差し出すと、アドルフは奪い取るように掴む。
やはり彼は暴君だ。これからはクッキー暴君とでも呼ぼうかと思ってしまった。
缶の中にあるクッキーを目の前で馬鹿にされたくないので、すぐに踵を返す。
「――やった!」
我が耳を疑う声が聞こえ、振り返った。
すでにアドルフは背中を向け、歩き始めている。
きっと聞き違いだろう。そう、自分に言い聞かせた。
その日の晩、談話室に借りていた本を返しに行く。去年まで賑わっていた談話室も、三学年ともなれば誰もいない。皆、寮におらず、就職するための活動をしに学校を離れているのだろう。
新しい本が入ってきていたので、手に取ってソファに腰かける。すると、偶然通りかかったランハートが声をかけてきた。
「よう、リオル。久しぶり」
ランハートは魔法騎士隊の遠征に参加していたようで、一週間ぶりに寮に戻ってきたという。
「クッキーは?」
出会ってすぐにこれである。ランハートは私が実家から持ち帰る手作りクッキーを気に入っており、売ってくれとまで言うのだ。夜、自習室で勉強するときに分けてあげようと思っていたのだが、あいにく手元にない。
「今日はない」
「えー、そんな! 俺、楽しみにしていたのに」
「明日、購買部のクッキーを買ってあげるから」
「リオルの実家のクッキーが食べたいんだよ」
今度遊びに行ってもいいかと聞かれるが断った。リオルと会ったら大変だ。彼は来客時は姿を隠すという繊細な行動ができないのだ。
「お前、絶対に実家に誰も呼ばないよなー」
「行くほどの場所じゃないし」
「またまたー、ご謙遜を」
ちなみにランハートには、私が作ったクッキーとは言っていない。目の前で絶賛されたので、言いにくくなっているのだ。
「実家と言えば、リオルのお姉さん、アドルフと婚約したんだって」
「ああ、まあね」
「びっくりしたな。アドルフは結婚相手をえり好みしているって話だったから、隣国の王女さまとでも結婚するのかと思っていた」
「僕もだよ」
なんでも、ランハートは本人から直接話を聞いたらしい。勇気がある男だ。
「あいつ、意外と純情だったんだなー」
「は? どうしてそうなる?」
「なんでもアドルフの奴、三年前に参加した夜会で、リオルのお姉さんを見初めたらしいぜ」
「いや、ありえない!!」
三年前といえば、私が社交界デビューした年である。たしかに夜会に参加していたが、私を見初めた男なんてひとりもいなかった。
きっと見初めたのは私ではなくて、アドルフの本命なのだろう。
どうして婚約したのかと聞かれて困った結果、私ではなく本当に愛している相手との思い出を語ったに違いない。
「頭が痛くなってきた」
「そりゃ、アドルフが親戚になるんだから、そうなるよなあ」
親戚どころではなく、夫である。
一刻も早く、婚約破棄して心の安寧を取り戻したい。
そのためには、次の面会で失望される必要があるだろう。
「リオル、早めに部屋で休んだほうがいいぞ」
「そうだね」
新刊を読む余裕はなさそうなので、本棚に押し込んだ。
ランハートに支えられながら、トボトボと部屋に戻ったのだった。
リオルに理解できる魔法をできなかったり、私が読めない魔法書がリオルには読めたりと、自尊心が傷つくときもあった。けれどもそれはリオルが飛び抜けた天才だったというだけで、魔法学校で丁寧に習うと、どれもできるようになる。
魔法学校に通ってよかったと思うのはそれだけではない。
親元を離れて暮らす寮生活は思いのほか楽しく、卒業後は家を出て家庭教師でもしながら暮らすのもいいなと思ったくらいである。
男同士の付き合いも、どこかカラッとしていて面白い。
入学式で出会ったランハートは、今や大親友である。
魔法について勉強する量も、実家にいた頃よりずっと増えた。
というのも、アドルフというライバルがいたからだ。
私とアドルフの成績は五分五分だった。入学式のときに首位が取れたのは、本当に運がよかったのかもしれない。
二回目の試験で二位となってしまった私は、アドルフからこう言われたのだ。
「お前、勉強してなかったのか?」
そんなわけない。試験前は部屋に引きこもり、夜遅くまで勉強していた。
精一杯の実力を出したのにもかかわらず、二位だったのだ。
アドルフが私を見つつ、嘲り笑いながら「次は頑張れ」と声をかけてきた瞬間、私の闘争心に火が点いた。
それからというもの、私はクラブ活動に参加せず、勉強に励んだのだった。
と、勉強漬けだった一学年目の思い出をルミに語って聞かせる。
「リオニーからのお手紙には、いつも楽しそうに過ごしているとあったので、まさかロンリンギア公爵家のご子息と、そんなことがあっていたとはまったく思いもしませんでした」
「本当に、いい迷惑でした」
「もしかして、ロンリンギア公爵家のご子息に、いじめられていたのですか?」
「いいえ、あのお方は自分で手を下しませんでした」
アドルフの取り巻きには、本人がいない場面で絡まれた。無視していたら、手を出してくる日もあったのだ。
それに関しては、使い魔のチキンが活躍してくれた。
私の手の甲に止まっていたチキンの嘴の下を、指先でそっと撫でる。すると、気持ちいいのか目を細めていた。
「このチキンが、取り巻きを追い返してくれましたの」
「まあ! そうだったのですね」
チキンは一見して小さな鳥だが、その体には大きな力を秘めている。
私に手を差し伸べてきたアドルフの取り巻きには、翼で叩(はた)いてくれた。腕を掴んできた奴にいたっては、顔を嘴で攻撃するのである。
返り討ちにあった取り巻きたちは教師に報告したが、先に被害を報告していたので、私が咎められることはなかった。
「それにしても、ロンリンギア公爵家のご子息は本当にリオニーさんと結婚なさるおつもりでしょうか?」
「彼は有言実行のお方です。きっと、わたくしと結婚するつもりでしょう」
それを阻止するために、私はいろいろ考えている。大人しく結婚するつもりなんて、毛頭なかった。
「彼は公爵家に生まれた貴族として、礼儀や教養を重んじている男性(ひと)ですの。度が過ぎた我が儘を申したり、一緒にいて恥ずかしい振る舞いをしたりしていたら、婚約破棄するはずです」
拳を握り、ルミに作戦を訴える。
ルミは心配そうに、「上手くいくでしょうか」と零していた。
「今度、アドルフに舞台を観に行かないかと誘われましたの。そこでわたくし、直前になって行きたくないと申してみようかと」
アドルフはきっと「なんだこいつは、失礼だな!!」と激昂し、その流れで婚約破棄するに違いない。
「絶対に上手くいきますわ!」
ルミは眉尻を下げ、困ったように微笑んでいた。きっと上手くいかないと思っているのだろう。
私は二年間、アドルフという男を見続けていたのだ。彼がどんなに短気で心が狭いのか、よく知っている。
魔法学校に入学して、あっという間に二年経った。
今は三年目で、授業も少ない。そのため、長期休暇以外にも実家に帰る許可が貰えるのだ。
明日からは学校である。しっかり気を引き締めないといけない。
ルミと別れ、魔法学校に戻る準備を行う。
家を出ようとしていたら、父に呼び出された。
「お父様、何用ですの?」
「男装姿でいると、リオルと話しているみたいだな」
「いい加減、慣れてくださいませ」
いつまで経っても、父は私の男装姿に慣れないのだ。
「それで、お話とは?」
「ああ、そう。お前が魔法学校の進級前試験で首席だったと聞いてね。よく頑張っている」
そうなのだ。ただひたすら勉強ばかりしていた結果、私は首位となった。
二年目の進級前試験ではアドルフが首席だったので、これまで以上に躍起になっていたのかもしれない。
「けれども、監督生にはなれませんでした」
寮にひとり選ばれる監督生には、アドルフが任命された。私も実は監督生の役割を狙っていたので、ショックを受けたのだ。
監督生は成績がいいというだけで選ばれるわけではない。
校長(ヘッド・マスター)や副校長(セカンド・マスター)、教師(アッシャー)の評価に加え、寮監督教師(ハウス・マスター)や個人指導師(チューター)の推薦も必要とする。学校と寮、両方のふるまいが判断材料となるのだ。
学校での私は模範生だと言われていたものの、寮に戻ると勉強漬け。
部屋にやってきた下級生に勉強を教えたことはあったものの、アドルフはさらに目立った行動に出ていた。
彼は教師や指導師がよく出入りする自習室(コンモン・ルーム)に足を運んで下級生に勉強を教えたり、調子に乗って遊ぶ生徒を注意したりしていたのだとか。
満場一致でアドルフが監督生にと選ばれるわけである。
「監督生にまでならなくてもいい。あまり目立つ行動はするな」
「わかっております」
話はこれで終わりだというので、一礼して部屋を出る。
チキンと共に魔法学校に戻ったのだった。
◇◇◇
三学年になると、寮は一階になる。それぞれの階でよさがあるのだ。
一学年のときに使っていた三階は魔法学校の敷地内を一望できる。二学年のときに使っていた二階は窓を開けると|桑の実(マルベリー)の木があって、実が付く初夏は食べ放題だった。一階は中庭に咲く四季の花々を堪能できる。
学期始めとなる秋は、薔薇の花が満開となっていた。春に比べたら開花しているものは少ないものの、濃い芳香を放つ薔薇の花々が咲き誇っている。
朝から焼いたクッキーが余ったので缶に詰め、小脇に抱えて持ってきた。足早に廊下を歩いていると、会いたくない相手と鉢合わせしてしまう。
大鴉みたいな漆黒の髪に、青い瞳の青年――アドルフだ。
監督生となった彼は、金のカフスが輝く灰色のウエストコートにジャケットを羽織り、赤い腕章を合わせた姿でいる。あれは監督生にのみ許された、特別な恰好であった。
私も二年間特待生だった証として、銀のボタンが与えられたものの、金のカフスに比べたら劣っているように思えて複雑だった。
アドルフのその姿を見た瞬間、悔しくなってしまう。無視して通り過ぎようと思っていたのに、アドルフのほうからズンズンとこちらへ接近してきた。
「おい」
そう声をかけたあと、何を思ったのかぐっと接近する。ジャケットに顔を近づけ、くんくんと匂いをかぎ始めた。
「ちょっ、何をするんだ!」
拳を突き出し、肩を押して彼を遠ざける。
「お前、女の匂いがする」
指摘され、カーッと顔が熱くなっていくのを感じた。女の匂いがするのは、女装していたからだろう。化粧品や香油がまざった匂いがしたに違いない。
別に外出はしていないので、風呂はいいかと思ってそのままやってきたわけである。
「女の匂いとかどうとか、どうでもいいだろうが」
「お前の姉さんといたから、匂いが移ったのか?」
「へ!?」
リオルの姉というのは、つまり私である。
面倒なので、匂いが移ったということにしておいた。
「まあ、そうかもしれないね」
「やはり、そうだったか」
「そうだったか、じゃなくて。勝手に他人の匂いをかぐな。気持ち悪い」
「女の匂いを男子寮でぷんぷんまき散らしているやつが悪いんだろうが」
アドルフと話していて、改めて確信する。こんな奴と結婚したら、絶対に不幸になると。
お見合いのときに愛想よくしていたのは、せっかく見つけた都合がいい結婚相手を逃したくないからだろう。
その面の皮を、リオニーとして会ったときに早く引き剥がしたい。
「お前、姉さんとは仲がいいのか?」
「別に普通」
「何か喋ったりしているのか?」
「別に、特別な会話はしないよ」
こんな質問を投げかけてくるのは、私と婚約したからか。これまで姉弟仲なんて気にしたことなんてなかったのに。
アドルフの反応が見たくて、顔を見上げる。ちょうど髪をかき上げた瞬間だったので、表情はよくわからなかった。
それにしても、アドルフの背はずいぶんと高くなった。
二年前、入学したときは身長が同じくらいだったが、今はアドルフのほうがはるかに伸びている。六フィート(百八十五)くらいはあるだろう。私は二年前からまったく変わらないので、アドルフと会話するときは視線は上向きとなる。それがなんだか腹立たしい。
「それはそうと、その缶はなんだ?」
アドルフは尊大な態度で、手にしていたクッキー缶を指差す。
ルミに食べさせるために焼いたクッキーだが、余ったので夜食にしようと持ってきたのだ。
「これは、姉さんが焼いたクッキーだよ」
「あれはクッキーが焼けるのか?」
アドルフのあれ呼ばわりにカチンときたが、これ以上会話を長引かせたくない。そのため、怒りはぐっと堪えた。
「従姉と食べるために焼いたらしい。これは余り」
そう答えると、アドルフは何を思ったのか手を差し伸べてくる。
「何?」
「俺は貰っていない。だから寄越せ」
「は?」
「リオニー・フォン・ヴァイグブルグの婚約者である俺にも、手作りクッキーを食べる権利があるはずだ」
「お前……どういう理屈だよ」
アドルフはクッキー好きなのだろうか。そうでないと、他人の作ったクッキーなんか欲しがらないだろう。
「クッキーを食べたかったら、購買部に行けよ。あそこには王宮御用達の高級クッキーがあるだろうが」
「俺はそのクッキーが食べたいんだ」
寮から購買部に移動するのが面倒に思っているのか。監督生の権力を使ったら、厨房の料理人からクッキーを焼いてもらえる。きっとこの暴君は、今、私が持っているクッキーを食べたいのだろう。
「余っていて、しぶしぶ持って帰ってきたんだろうが? それだったら、俺が食べてやるから」
「素人が作ったありあわせのクッキーを、天下の監督生さまが引き取るってこと?」
「そうだ」
ちらりとアドルフを見上げると、目がギラギラしていた。あれは、肉食獣が獲物を捕らえるときに見せるものだろう。
どうしても、このクッキーが食べたいようだ。よほど飢えているのだろう。
若干可哀想になったが、無償でくれてやるわけにはいかない。
「だったら、温室の薬草の水やり当番を代わって。やり方は管理人が教えてくれるから」
「わかった」
了承するとは思わなかったので、驚いてしまう。
薬草の水やりは、私のささやかな活動の一環である。
一年と二年のときはこういった活動をしていなかったのだが、進級前に薬草学の先生から薬草の世話を手伝ってくれと泣きつかれたのだ。
ちなみにクラブではなく、人数が少ないので同好会(ソサエティ)だ。
ただ手伝うよりも、同好会の活動にしたほうが評価される。そう思って、急遽作ってもらったのだ。
部員がひとりだけの、薬草クラブである。顧問の先生と交代で薬草に水やりをしているのだ。
「じゃあ、これ」
クッキー缶を差し出すと、アドルフは奪い取るように掴む。
やはり彼は暴君だ。これからはクッキー暴君とでも呼ぼうかと思ってしまった。
缶の中にあるクッキーを目の前で馬鹿にされたくないので、すぐに踵を返す。
「――やった!」
我が耳を疑う声が聞こえ、振り返った。
すでにアドルフは背中を向け、歩き始めている。
きっと聞き違いだろう。そう、自分に言い聞かせた。
その日の晩、談話室に借りていた本を返しに行く。去年まで賑わっていた談話室も、三学年ともなれば誰もいない。皆、寮におらず、就職するための活動をしに学校を離れているのだろう。
新しい本が入ってきていたので、手に取ってソファに腰かける。すると、偶然通りかかったランハートが声をかけてきた。
「よう、リオル。久しぶり」
ランハートは魔法騎士隊の遠征に参加していたようで、一週間ぶりに寮に戻ってきたという。
「クッキーは?」
出会ってすぐにこれである。ランハートは私が実家から持ち帰る手作りクッキーを気に入っており、売ってくれとまで言うのだ。夜、自習室で勉強するときに分けてあげようと思っていたのだが、あいにく手元にない。
「今日はない」
「えー、そんな! 俺、楽しみにしていたのに」
「明日、購買部のクッキーを買ってあげるから」
「リオルの実家のクッキーが食べたいんだよ」
今度遊びに行ってもいいかと聞かれるが断った。リオルと会ったら大変だ。彼は来客時は姿を隠すという繊細な行動ができないのだ。
「お前、絶対に実家に誰も呼ばないよなー」
「行くほどの場所じゃないし」
「またまたー、ご謙遜を」
ちなみにランハートには、私が作ったクッキーとは言っていない。目の前で絶賛されたので、言いにくくなっているのだ。
「実家と言えば、リオルのお姉さん、アドルフと婚約したんだって」
「ああ、まあね」
「びっくりしたな。アドルフは結婚相手をえり好みしているって話だったから、隣国の王女さまとでも結婚するのかと思っていた」
「僕もだよ」
なんでも、ランハートは本人から直接話を聞いたらしい。勇気がある男だ。
「あいつ、意外と純情だったんだなー」
「は? どうしてそうなる?」
「なんでもアドルフの奴、三年前に参加した夜会で、リオルのお姉さんを見初めたらしいぜ」
「いや、ありえない!!」
三年前といえば、私が社交界デビューした年である。たしかに夜会に参加していたが、私を見初めた男なんてひとりもいなかった。
きっと見初めたのは私ではなくて、アドルフの本命なのだろう。
どうして婚約したのかと聞かれて困った結果、私ではなく本当に愛している相手との思い出を語ったに違いない。
「頭が痛くなってきた」
「そりゃ、アドルフが親戚になるんだから、そうなるよなあ」
親戚どころではなく、夫である。
一刻も早く、婚約破棄して心の安寧を取り戻したい。
そのためには、次の面会で失望される必要があるだろう。
「リオル、早めに部屋で休んだほうがいいぞ」
「そうだね」
新刊を読む余裕はなさそうなので、本棚に押し込んだ。
ランハートに支えられながら、トボトボと部屋に戻ったのだった。