燕尾服をどぶまみれにしてしまったアドルフは、急いで身なりを整えるらしい。
 降誕祭パーティーが開始されるまで残り二時間である。頑張れアドルフ、と心の中で応援した。
 私はアドルフの部屋に案内され、ゆっくり過ごすようにと言われる。部屋にある本は好きに読んでいいと言ってくれたものの、すべて魔法関連の書籍である。
 私が普通のお嬢様だったら、退屈しているに違いない。
 アドルフの部屋にある魔法書は、どれも絶版された貴重なものばかりだ。
 題名や著者名を見るだけでも楽しい。
 喉から手が出るほど欲しかった本があるものの、読みふけっていたら不審がられるだろう。
 文字を目で追っている中で、叔母が書いた輝跡の魔法についての本を発見する。貴重な本の中で、少し浮いていた。
 私も二冊持っていて、魔法学校と実家の私室に置いている。
 手に取ると、本自体が少しくたびれている印象を受けた。何度も読み返していたのだろうか。
 表紙を捲ると、大叔母のサインが書かれてある。
 アドルフと大叔母は会ったことがあるのだろうか?
 サイン以外にも、メッセージが書かれていた。

「〝あなたの人生を輝かせる人に、出会えますように〟」

 大叔母らしい、前向きなメッセージである。その言葉は、私の胸にも響いた。
 この先、アドルフにはさまざまな試練が立ちふさがるだろう。そういうときに、彼を支えられるような存在になりたい。

 大叔母の本を読んでいたら、アドルフが戻ってくる。先ほどまでどぶまみれでいたとは思えない、完璧な貴公子然とした姿であった。

「早かったですね。もっとお時間がかかるかと思っていました」
「手早く風呂に入るのは、魔法学校で慣れているからな」

 魔法学校ではお風呂のお湯が出る時間は決まっている。消灯後は水すら出ないのだ。そのため、うっかり忘れていたら、大急ぎで入らないといけない。
 アドルフは何度も、勉強していて入浴時間の終了が迫っていた、なんてことがあったらしい。

「最短記録は十分だな」
「まあ、すばらしい」

 アドルフは私の隣に座り、何を読んでいるのかと覗き込んでくる。
 ぐっと接近された瞬間、石鹸みたいないい匂いがしてドキッとした。

「リオニー、輝跡の魔法の本を読んでいたのだな」
「ええ」
「そういえば、リオルも輝跡の魔法を使いたい、なんて話していたな」
「著者は大叔母ですの。彼女はわたくしの憧れですわ」
「ああ! そういえば、家名がそうだな。なるほど、そういうわけだったのか」

 アドルフはしばし考え込むような素振りを見せたあと、私に真剣な眼差しを向ける。

「いつか、リオニーに話そうと思っていたのだが」
「なんですの?」

 どくん! と胸が高鳴る。ついに、薔薇の花束と恋文を贈っていた相手について打ち明ける気になったのか――と思いきや、アドルフの話は別件だった。

「俺は社交界に初めて出た日に、輝跡の魔法を作った彼女に出会った」

 なんでも、偶然の出会いだったらしい。

「会う人会う人、俺をロンリンギア公爵家の嫡男としてしか見ていなくて、息苦しかった――」

 人々はアドルフを祝いながらも、誰もがその向こうにいるロンリンギア公爵に目を向けていたという。
 ひとりとして、アドルフを見ていなかったのだ。
 アドルフは将来に悲観した。きっとこの先何をしても、認められるのは爵位を継いだ瞬間なのだろうと。
 ならば、この先努力をする意味なんてあるのか。
 当時、十五歳だったアドルフにはわからなかったという。
 アドルフは人に酔ったと言って会場を抜けだし、ふらりと歩いていた先にいたのが大叔母だったようだ。

「廊下の隅で蹲り、見るからに具合が悪そうにしていた。すぐさま介抱し、彼女のために用意されていたという部屋に連れて行ったんだ」

 水を一杯飲んだら、顔色はよくなったという。
 アドルフは逆に、大叔母から心配されてしまったらしい。

「居場所がない、迷子のようだと言われてしまった。そのとおりだったから、たいそう驚いたのを覚えている」

 アドルフがロンリンギア公爵家の者であると名乗っても、大叔母は態度を変えなかった。それで、アドルフは少しだけ心を許してしまったのだと話す。

「俺の中にあるくだらない自尊心をすべて優しく包み込んでくれるような、不思議な人だった。気付いたら、誰かに打ち明けるつもりはなかった胸の内を、すべて彼女に話していた」

 大叔母は部屋に置いていた自らの著書を手に取り、アドルフへ言葉を残した。

「それが、その本に書かれた〝あなたの人生を輝かせる人に、出会えますように〟、というものだった」

 それは、アドルフを理解し、支えてくれる人が世界のどこかにいるはず。そんな人と人生が交わるようにと願いを込めた言葉だったという。

 最後に、大叔母はアドルフにあることを伝授した。

「俺が魔法使いであることを言ったら、簡単な輝跡の魔法を教えてくれた。それは――〝星降り〟」

 輝跡の魔法の中でも基礎的なものだが、簡単な魔法ではない。
 叔母はアドルフの魔法の才能を見抜いて教えてくれたのだろう。

「その後、彼女と別れて会場に戻ったのだが、話しかける者はすべて、父に媚びを売りたい者ばかりだった」

 うんざりしたアドルフは、露台(バルコニー)に避難したらしい。

「ムシャクシャしていた俺は、先ほど習った星降りの魔法を、魔力をありったけ注いで放った。すると、思いがけないほうから声が聞こえて――」
「あ!!」

 思わず、声をあげてしまう。
 私は王宮のパーティーで見た、美しい星降りに覚えがあった。

「一階にはドレスをまとったご令嬢がいて、星降りに感激する声が聞こえた。そのご令嬢は友達といたようで、こう言っていた」

 ――今日は最悪の日だったけれど、今、この瞬間にすてきな日になりましたわ。どなたか存じませんが、ありがとうございます!

「その一言を聞いて、とても清々しい気持ちになった。人を喜ばせることが、こんなにも心地よい気分になるのかと、初めて知った。あのときの俺を救ったのは、リオニーだった」

 アドルフは私の手を握り、深々と頭を下げる。

「リオニーに出会った瞬間、人生が輝いたんだ」
「そんな……わたくしは……」

 婚約したばかりの私はとんでもなく卑屈で、アドルフからの誠意にまったく応えていなかった。それなのに、彼はずっと特別な思いを抱いていたという。

「わたくしは、アドルフに何を返せるのでしょうか?」
「何もしなくていい。傍にいるだけでいいんだ。絶対に、幸せにするから」

 アドルフの言葉に、こくりと頷く。
 彼と一緒ならば、どんな困難も乗り越えることができそうな気がした――。

「ああ、そうだ。降誕祭パーティーが始まる前に、リオニーを父に紹介しないといけない」

 アドルフは苦虫を噛み潰したような顔で言う。

「父は偏屈な人間で、優しさというものを祖母のお腹に忘れてきたような男だ。できるならば、リオニーに会わせたくない」

 けれども、この先結婚するまで、ロンリンギア公爵に会う機会はないという。今日が最後のチャンスというわけだった。

「父については先に謝っておく。不快な気持ちにさせるかもしれないから」

 アドルフは深々と頭を下げ、謝罪した。
 まだロンリンギア公爵は何もしていないのに、先に謝るとは斬新すぎるだろう。

「母上については、おそらくこの先も会えないだろう」
「そう、ですのね」

 母君について口にした瞬間、アドルフの表情が暗くなる。何やらワケアリのようだ。
 執事がやってきて、ロンリンギア公爵の準備ができたという。
 
「リオニー、父上のところに行こう」
「ええ」

 アドルフが差し出してくれた手に、指先をそっと重ねる。
 決戦に挑むような心持ちで、私は立ち上がった。

 降誕祭当日だというのに、ロンリンギア公爵は執務室にいた。まったく歓迎していないという表情で私達を見る。
 白髪が交ざった金の髪に、琥珀色の瞳を持つ、強面の男性がロンリンギア公爵らしい。アドルフとはまったく似ていなかった。きっと、彼は母親似なのだろう。
 ロンリンギア公爵は眉間の皺は基準装備、と言わんばかりの険しい表情を浮かべ、盛大なため息を吐いていた。

「父上、彼女がリオニー・フォン・ヴァイグブルグです」
「例の格下の家の小娘か」

 嫌味たっぷりに返してくれる。事前にアドルフから話を聞いていたので、内心こんなものか、と考えていた。

「ロンリンギア公爵、お初にお目にかかります、リオニーと申します」
「小娘、紹介はいい。どうせ覚えないから」
「父上、あんまりです!」
「うるさい」

 ロンリンギア公爵は乱暴に手を振り、出て行けと行動で示した。
 私は深々と頭を下げ、部屋から出て行く。
 扉が閉まると、アドルフは盛大な溜め息を吐いていた。
 そろそろ降誕祭パーティーが始まる時間帯だが、主催であるロンリンギア公爵の挨拶が終わってから行くらしい。

 アドルフの部屋は会場から遠いため、休憩のために用意された小部屋で待機する。

「開始三十分くらいは、父へのおべっかの時間だ。馬鹿馬鹿しくて、とてもではないが付き合ってられない」
「まあ、そうですのね」
「それよりも、先ほどは父がすまなかった。重ねて謝罪させていただく」
「いえ、ロンリンギア公爵がどういう人物か事前に耳にしていましたので、こういうものか、と思ったくらいです」

 アドルフは目を見張り、驚いた表情で私を見つめる。

「父を前にした年若い女性や子どもは、泣いて回れ右をすることが多い。リオニーは肝が据わっているな」
「そうなのでしょうか?」

 魔法学園の教師の中にも、怖くて厳しい教師は大勢いる。教師が権力と恐怖をもって力を振りかざす理由は、ひとりで大勢の生徒を監督しないといけないからだろう。
 一方で、絶大な権力を持つだけのロンリンギア公爵は、彼らより怖くないように思えた。その背景には、教師よりも精神的な余裕があるからに違いない。
 なんて見解を、アドルフに説明できるわけがなかった。

「ロンリンギア公爵は、よくわたくしとの結婚を許してくださいましたね」
「まあ、すぐに、というわけではなかったのだが」

 アドルフが十五歳で社交界に出た晩、すぐにロンリンギア公爵に対し、ヴァイグブルグ伯爵家の娘に婚約の打診をかけるよう懇願したらしい。

「けれども父は、つり合わないと言って却下した」

 それで簡単に引き下がるアドルフではなかった。

「習得が難しい官僚試験に合格し、魔法学校でトップレベルの成績で入学したら、許してくれないかと条件を出した」

 なんでも、未来のロンリンギア公爵であるアドルフは、十三歳の頃から父親の仕事を手伝っていたらしい。
 実際に王宮へ出仕する日もあったようだ。
 官僚試験というのは、年間で三名も合格しない非常に難しいものだ。それを、アドルフはたった三ヶ月で達成した。

「あとは、魔法学校に首席合格するだけだと思っていたが――」
「リオルに阻まれてしまったのですね」
「そうだ」

 これまで、アドルフが掲げた目標は何事も達成してきた。生まれて初めての敗北が、魔法学校の入学試験だったらしい。

「あそこで首位を取っていたら、すぐにでもリオニーと婚約できていたんだ」

 当時、私が首席を取っていたおかげで、二年もの間、アドルフを婚約者として意識しなくてもよかったというわけである。
 
「リオニーを見かけた日から、一年は経っていた。もしかしたら、すでに結婚する相手が決まっているのかもしれない。リオルから聞きだそうとしたが、首位を取れなかった悔しさがこみ上げてきて、酷い発言をしてしまった」

 彼が私扮するリオルに言った言葉は、一語一句覚えている。
 ――首席になったからといって、調子に乗るんじゃないぞ。そのうち、足を掬ってやるからな。
 結婚を目標に頑張った結果、出鼻をくじかれたのだ。悔しかっただろう。
 私も魔法学校で結果を残そうと必死だったのだ。首席を取れたのは、運がよかったとしか言えない。おそらく、アドルフとの得点にそこまで差はなかったのだろう。

「二回目こそは聞いてやる。そんな意気込みでリオルに話しかけたのだが」

 これも、彼の発言はよーく覚えていた。
 私が結婚しているか確認した挙げ句、とんでもないことを言ったのだ。
 ――なんだ、嫁き遅れか。
 さらに、嘲り笑うような顔も見せていた。

「リオニーが結婚していないと聞いた瞬間、喜びがこみ上げてきた。嬉しくてにやけそうになるのを必死になって抑えていたのだが……」

 嘲り笑いだと思っていたものは、喜びの感情を抑えつけたものだったらしい。二年越しに、勘違いが正される。なんというか、脱力してしまった。

「最終的に、父から認められたのは、二学年になった年の夏学期だった。ヴァイグブルグ伯爵家に打診を出し、了承するという返事があった日は、どれだけ嬉しかったか」

 父は私に聞かずに、勝手に結婚話を進めていた。初めこそ怒ってしまったものの、今となっては感謝している。
 事前に聞かれていたら、絶対に拒否していたから。

「最終的に、婚約が認められた判断材料はどういったものでしたの?」
「それは、リオルの成績らしい。優秀な弟がいるのならば、その姉も極めて優れているだろうと言っていた」
「そ、そうでしたの」

 私の頑張りが婚約成立の手助けをしていたとは、夢にも思わなかった。

「ロンリンギア公爵家が望む結婚相手は、公爵家以上の高貴な血を持つ者だ。しかしながら、大公家生まれの母は――」

 アドルフは視線を宙に浮かせ、苦しそうに眉間に皺を寄せる。
 きっと、これまでに何か母子(おやこ)の間で何かあったのだろう。

「すまない。母については、聞いていて気持ちのいい話ではないから――今度、打ち明ける」
「はい、承知いたしました」
 
 会場から音楽が聞こえてくる。降誕祭パーティーが始まったようだ。

「ああ、そうだ。これを渡そうと思っていた」

 アドルフが胸ポケットから取り出したのは、ベルベットの小袋であった。
 紐を解き、中身を手のひらに出す。それは、白金(プラチナ)の美しい指輪であった。
 表面には小粒のダイヤモンドがいくつも埋め込まれており、キラキラと輝いている。指輪の内側には、呪文が彫られていた。

「婚約指輪だ。その、気に入ってくれると嬉しいのだが」
「ありがとうございます」

 アドルフは私の指に、婚約指輪を嵌めてくれる。驚くほどぴったりだった。

「指輪には、守護の魔法が刻まれている。何かあったとき、リオニーを守ってくれるだろう。肌身離さず、持っていてほしい」

 なんの呪文だったのかと気になっていたが、守護の魔法だったらしい。
 物に魔法を付与するというのは、とてつもなく難しい技術だ。きっと高価だったに違いない。

「アドルフ、嬉しいです」
「そう言ってくれると、頑張って用意した甲斐がある」

 なんでも魔法はアドルフ自身が刻んだものらしい。付与魔法(エンチャント)が使えるとは、驚いた。

「寮で一生懸命刻んだ。それで勉強がいつもよりおろそかになっていたのか、試験は次席になってしまったのだが、後悔はしていない」

 アドルフが私と三十点も差を付けて次席だったのは、婚約指輪に魔法を付与していたからだったわけだ。
 私達は揃って、降誕祭に贈る物を必死になって作っていたというわけである。