アドルフは私の肩を抱き、廊下を歩いて行く。
 すれ違う者達は、壁際に避けて深々と頭を下げた。それは使用人だけでなく、親族の人達も同様に。
 彼が未来のロンリンギア公爵であるのだと、まざまざと見せつけられる。
 アドルフに舞台を観たくないと駄々を捏ねたり、下町に連れて行って遊んだり、今まで呼び捨てにしたりと、恐ろしいことをしていたのだな、と戦々恐々となる。

 アドルフの部屋に辿り着くと、あとを続いていた従僕には下がるようにと命じていた。

「あの、アドルフ様、お茶はいかがなさいますか?」
「俺が用意するからいい。とにかく、リオニー嬢とふたりきりにさせてくれ」

 アドルフが紅茶を淹れると聞いた従僕は、目が飛び出そうなくらい驚いていた。

「では、茶菓子は?」
「昨日、菓子店(パティスリー)〝リスリス・メル〟で、森林檎のパイを買ってきている」
「〝リスリス・メル〟の森林檎のパイって、三時間並ばないと入手できない、アレですか?」
「そうだが?」

 事情を把握した従僕は、一礼して下がっていった。
 扉が閉ざされると、アドルフは私を長椅子のほうへ誘ってくれる。
 アドルフの私室は赤銅色(カッパーレッド)を基調にした、品のある落ちついた雰囲気だ。壁に埋め込まれた形の本棚には魔法書がぎっしり収められていて、くすんだ金細工で縁取られた暖炉装飾(マントルピース)はとても豪奢(ごうしゃ)である。大理石の床には、繊細な模様の絨毯が敷かれていた。
 部屋の中心にローテーブルと長椅子が置かれ、寛げるようにクッションがいくつも置かれている。

「リオニー嬢、楽にしてくれ」
「ありがとうございます」

 アドルフの部屋で寛ぐ前に、彼にあることを懇願する。

「あの、アドルフ、ひとつだけお願いがあるのですが」
「なんだ?」
「わたくしのことは、リオニーと呼び捨てにしてくださいませ」

 これまでは、アドルフへの対抗心からリオニー嬢と呼ばせておこう、と考えていた。
 しかし今は、リオルのときのように、呼び捨てにしてほしいと思ってしまう。
 それに私だけアドルフと呼び捨てにしているのをロンリンギア公爵家の人々が知ったら、よく思わないだろう。

「リオニー嬢、と呼ばなくてもいいのか?」
「ええ。家族になるんですもの。ずっと、わたくしをリオニー嬢と呼ぶわけにもいかないでしょう?」 
「言われてみればそうだな」
「では、決定ですね」
「う、うむ」

 一度呼んでみてください、とお願いしてみたものの、アドルフは顎に手を添えたまま銅像のように固まってしまった。

「アドルフ、どうかしたのですか?」
「な、なんでもない。その……リオニー」

 初めてアドルフからリオニーと呼ばれ、なんともくすぐったい気持ちになる。アドルフも慣れていないからか、少し照れているように思えた。

「それはそうと、俺が淹れた紅茶を飲んでくれ」
「ええ、ありがとうございます」

 あれからどれだけ上達したのだろうか。訓練に付き合った身からしても、非常に気になるところである。
 最後にやった練習のときはおぼつかない様子だったが。
 アドルフは用意していた茶器で、紅茶を淹れる。その手つきは、熟達した執事や侍女のようにスムーズだ。あっという間に、紅茶を淹れてくれた。

「さあ、飲んでみてくれ」
「いただきます」

 黄金色に輝く紅茶を、一口飲んでみた。
 ほどよい渋みと春風のような爽やかな風味が、口いっぱいに広がっていく。ほんのりと甘みも感じて、口当たりはまろやかだった。

「とてもおいしいです。驚きました」

 紅茶を淹れる才能があると絶賛すると、アドルフは嬉しそうに微笑む。
 ここまで上達するには、かなり努力したのだろう。それも含めての賞賛であった。

「リオルが淹れ方を教えてくれたんだ。彼は俺よりも上手い」
「そうでしたのね」

 |リオル(わたし)のほうが上手いだなんて、とんでもない謙遜である。紅茶を淹れる腕は、確実にアドルフのほうが上だろう。

「カップも、とても洗練されていて、すてきです」

 手書きの可憐なリンドウ模様に、金の七宝(ジュール)が大変美しい。カップの|持ち手(ハンドル)は弓のように優美なラインを描いていて、持ち上げやすい。

「そうか。選んだかいがあった」

 てっきり執事が選んだ物かと思っていたが、アドルフのチョイスだったようだ。        

「これから先、紅茶が飲みたくなったら、俺が淹れてやる。だが、淹れるのはリオニーだけだ」
「わたくし、だけ?」
「ああ」
「他に親しい御方は?」
「あー、リオルにはもしかしたら、淹れるかもしれない。それ以外は、絶対に淹れてやらない」

 リオルというのは、私のことである。つまり、世界でただひとり、アドルフが淹れた紅茶を独占できるというわけだ。

 薔薇の花束と恋文を贈っている相手には紅茶を淹れないのか。
 もしかしたら、紅茶すら飲めないくらい容態がよくないのかもしれない。
 それを思うと、胸がツキンと痛む。
 こうしてアドルフと楽しく過ごす時間にすら、罪悪感を覚えてしまった。

「このアップルパイは、噂によるととんでもなくおいしいらしい。リオニーのために並んで買ってきた」
「もしや、三時間もかけて?」
「ああ。参考書を持って行ったから、思いのほかすぐだった」

 この寒空の下、三時間も立ったまま並ぶなんて大変だっただろう。
 アドルフはどうしてここまでよくしてくれるのか。
 その行動の数々が、他に想い人がいるという罪悪感から行っているようには思えない。
 もしや、他に愛する女性(ひと)なんておらず、私だけを大切にしてくれるのではないか、と錯覚してしまう。
 けれども、そんなわけはない。アドルフはグリンゼル地方で、想い人に会いに行っていたのだから。
 それについて考えると、胸が苦しくなる。なるべく考えないようにしたほうがいいだろう。

 私はアドルフ・フォン・ロンリンギアの婚約者だ。
 それ以上でもそれ以下でもない。彼の恥にならないよう、凜と務めないといけない。
 アドルフの愛する人の存在に心を痛めている場合ではないのだ。

 顔を上げると、アドルフが買ってきたアップルパイが目に飛び込む。

「では、アップルパイはわたくしが切り分けます」
「いや、ナイフを握るのは危ないから、俺がやる」

 過保護ではないのか、と思いつつも、彼に任せることにした。
 なんでも、パイを切り分けるのは生まれて初めてらしい。
 アドルフは慣れない手つきで、アップルパイを切り分ける。力加減をしたからか、サクサクのパイ生地が崩れ、ボロボロになっていた。

「すまない。あまり力を込めると、崩壊してしまいそうだったから」
「わかります」

 加減をしたら、逆にパイ生地が崩れてしまう。そのため、思い切ってざっくり切り分けるのがパイを切るためのポイントだろう。
 私も慈善活動で養育院に行かなければ知らなかった情報である。

「もう一度、切り分けてみよう」
「いいえ、こちらをいただきます。どんな見た目でも、味は変わりませんから」
「それもそうだな」

 アドルフと囲んだアップルパイは、とてつもなくおいしかった。


 アドルフのもてなしがある程度終わったのを見計らい、彼に贈ったセーターについて尋ねてみた。

「あの、そういえば、贈り物は届いておりますでしょうか?」

 手元に届いていたら、何かしらの反応があったはずだ。何も言わないということは、まだ届いていないのかもしれない。
 もしかしたら贈り物はロンリンギア公爵家のツリーの下に集められている可能性もあった。しかしながら、侍女にはアドルフの部屋に届けるように言っていたのだが。

「贈り物? 届いていないが、リオニーは俺に何か用意していたのか?」
「ええ、手作りのセーターを」

 期待させてはいけないので、中身について自己申告しておく。すると、アドルフはすっと立ち上がり、隣の部屋へ向かった。

「リオニー、贈り物を確認する。来てくれ」
「え、ええ」

 未来のロンリンギア公爵には、私以外の贈り物も届いているようだ。それらは寝室に運び込まれているらしい。
 彼の私的空間に足を踏み入れるのはよくないと思いつつも、量が量だ。私がこの目で確認する必要がある。

 寝室には大量の贈り物が無造作に置かれていた。それらは、寝台の上にまでどっかりと鎮座している。

「どういった包みだった?」
「銀の包み紙に、赤いリボンが結ばれた箱です」
「似たような物ばかりだな」
「見たらわかります」

 同じような包みはいくつかあったものの、どれも私が贈った包みではなかった。

「どの侍女へ託した? 特徴を覚えているか?」
「背はわたくしよりも低くて、銀縁の眼鏡をかけた侍女です」
「わかった。執事に報告しよう」

 すぐに執事が呼ばれ、私を貴賓室まで案内した侍女がやってくる。

「わ、私はすぐに、近くにいた従僕へアドルフ様の部屋に運ぶよう、頼んでおきました」

 なんでも、アドルフの私室には男性使用人以外近づけないようになっているらしい。そのため、侍女は従僕に頼んだようだ。

「その従僕を呼んできなさい、今すぐに」
「は、はい!!」

 執事に命じられ、侍女は回れ右をして駆けて行く。
 
「アドルフ様、リオニー様、この度は使用人の不手際があり、大変失礼いたしました」
「もしも見つからなかったら、侍女は速攻で解雇する! 従僕は解雇だ!」

 そこまでしなくても、と思ったものの、ロンリンギア公爵家の屋敷内は厳しい環境にあるのかもしれない。
 部外者である私が口出しする権利なんてないのだ。

 問題の従僕は、屈強な使用人二名に左右の腕を取られる形でやってきた。おそらく、逃げようとしていたのだろう。
 足をじたばたと動かしている。逃亡を諦めていないのか。
 アドルフが彼の前に立つと、明らかに顔色を青くさせていた。

「預かった銀色の包みを、どこにやった?」
「し、知りません!」
「知らないわけがないだろうが!」

 アドルフが凄み顔で言ったので、従僕は涙目になる。

「つべこべ言わずに、正直に打ち明けろ!」

 あまりの迫力に耐えきれなくなったからか、従僕は真実を口にした。

「あの、朝から似たような贈り物が大量に届くので、ひとつくらいなくなってもバレないと思い――通いのメイドに渡しました」
「なんだと!?」

 なんでも横恋慕していたメイドに、私が作ったセーターを贈ったのだという。

「そのメイドの名前は?」
「メータ・クルトンです」
「今、そのメータ・クルトンとやらはどこにいる!?」
「階下の、厨房です」
「――っ!」

 アドルフは部屋を飛び出していく。そんな彼を、私は追いかけていった。
 普通の貴族令嬢であれば、ここで距離を離されてしまうだろう。私は魔法学校で男子生徒として過ごしてきた。移動の速さには自信がある。
 アドルフは初めこそ急ぎ足だったが、途中から走り始めた。私もドレスの裾を掴んであとに続く。
 あっという間に一階にある厨房へと辿り着いた。
 きっと厨房内はこれから行われる降誕祭のパーティーの準備で大忙しだろう。

 アドルフはずんずんと厨房内へ入り、よく通る声で叫ぶ。

「メータ・クルトンはどこにいる!?」

 厨房で働く料理人やキッチンメイド達は、キョトンとしていた。おそらくアドルフの顔を知らないのだろう。
 しかしながら、料理長の叫びによって状況は一転する。

「アドルフお坊ちゃん!?」

 それを聞いた者達は皆、恐れおののき、壁際へと移動して頭を下げる。

「もう一度言う。メータ・クルトンはどこの誰だ?」
「あ、あたしです!!」

 十六歳くらいの、栗毛に黒い瞳を持つキッチンメイドが挙手する。
 アドルフは険しい表情で接近し、低い声で問いかけた。

「従僕から、銀色の包みに赤いリボンが結ばれた贈り物を受け取ったか?」
「は、はい。貰いました」
「それは今、どこにある?」
「な、なぜですか?」

 メータが問いかけた瞬間、料理長の「いいから答えるんだ!!」という怒号が響き渡る。

「あの、その、あまりにも野暮ったくてあか抜けないセーターだったので、捨てました」
「なんだと!?」

 アドルフの迫力が恐ろしかったからか、メータは涙目になっていた。すぐさまアドルフのもとへと駆け寄り、腕を掴む。落ち着くようにと、耳元で囁いた。

「捨てた場所へ案内しろ」
「は、はい」

 メイドの休憩室へと急ぐ。突然アドルフがやってきたので、使用人達が作業する空間である階下は大騒動だった。

 メイドの休憩室に行き、ゴミ箱を覗き込む。中は空っぽだった。
 部屋にいたランドリーメイドが、想定外の事実を報告してくれた。

「その中のゴミは、先ほど捨てに行ってましたよ」

 今度はロンリンギア公爵家の屋敷裏にある焼却炉まで急ぐ。十分ほど前だったというので、もしかしたら間に合うかもしれない。
 アドルフはフェンリルを召喚し、私を乗せて焼却炉まで急ぐ。
 どうか間に合ってくれ、と心の中で祈った。

 途中、ゴミ捨て用の荷車を引く使用人を発見した。アドルフが凄みが込められた声で叫んだ。

「そこの者、止まれ!!」
「ひ、ひいいいい!!」

 目の前にフェンリルが下り立ったら、誰でも驚くだろう。使用人は腰を抜かしていた。

「メイドの休憩室のゴミはあるか?」
「ご、ございますが……」

 さまざまな場所の中のゴミが回収され、最終的に庭の水路で掬ったドブが入っていた。
 つまり、私のセーターは現在、どぶまみれだというわけだ。

 アドルフはゴミを見つめ、呆然としていた。

「アドルフ、セーターはまた作りますので」
「いや、大丈夫だ」

 そう言うと、アドルフはどぶの中に腕を入れた。

「あの、汚いです! 何が入っているかわからないので、危なくもあります。そこまでする必要はありません」
「そんなことはない! リオニーが一生懸命作ったセーターを、無駄にするわけにはいかないから」

 どぶと言っても下水ではなく、雨水が泥に混ざったものだという。それでも、何日も放置されていたものなので、汚いだろう。いくら言っても、アドルフは止まらない。
 私も手伝いたいのはやまやまだったが、アドルフから貰ったドレスを汚すわけにはいかなかった。
 五分後――アドルフはセーターを発見する。
 すでに開封され、泥まみれだったが、洗ったらきれいになるだろう。

「これが、リオニーが手作りしたセーターだな?」
「え、ええ。あの、まじまじ見るのは洗ってからにしてください」

 どぶにまみれたセーターは、ランドリーメイドの手に託された。