「あの、その、申し訳――」
「リオニー嬢の傍を離れなければよかった」
それは独り言のような言葉だった。
苛ついているようだが、怒りの矛先は私ではないような気がする。
たぶん、彼は自分自身に腹を立てているのだろう。
表情や視線、発する空気から察してしまった。
なんて言葉をかけていいものか、わからなかった。今は彼の発言を待つ。
「魔法学校の生徒がたくさん行きそうな場所は避けていたのに」
「わたくしと一緒にいるのを目撃されたら、恥ずかしいから?」
聞くのを我慢していたのに、ついつい疑問を口にしてしまった。
アドルフは傷ついたような表情で私を見る。
「それは違う! 魔法学校の者たちがリオニー嬢を見たら、興味を持ってしまうと思ったからだ」
「ああ、そういうことでしたか」
ランハートもリオルとそっくりだと驚いていた。いちいち絡まれていたらキリがないので、配慮してくれたのかもしれない。
ありがたい話だが、正直、私は誰にも紹介したくない婚約者なのだと思い込み、少しだけショックを受けていたのだ。あらかじめ、説明してほしかったと思う。
「それだけではなくて」
「なんですの?」
小首を傾げつつ、アドルフに質問を投げかける。
目が合うとアドルフは頬を赤く染めつつ、視線を逸らした。
すぐに話しそうになかったので、予想を立ててみる。
「婚約者としての義務を果たしているところを、クラスメイトに見られるのが恥ずかしかった、とか?」
「それは違う! こうしてリオニー嬢と会うことを、義務だとか思っていない!」
「でしたら、監督生としての立場がなくなるとか?」
「なくならない!」
「うーーん」
いったいアドルフはなぜ、私を同級生に会わせたくなかったのか。謎が深まる。
「同級生を避けていた理由(わけ)は」
「理由は?」
アドルフは顔を赤くするだけでなく、汗も掻いていた。
彼がここまで追い詰められたような様子を見せるのは初めてである。
魔法学校に入学した当初の私が見ていたら、大笑いしていただろう。
今は、どうしたのかと心配になるばかりだ。
ハンカチを取り出し、アドルフの額の汗を拭いてあげる。
一学年のときは私よりも背が低かったのに、この二年でずいぶん伸びた。
今では見上げるくらい、背が高くなっている。
アドルフは私の行動に驚いたからか、体を仰け反らせる。
「あの、アドルフ。そのように体を傾けられては、汗が拭けません」
「あ、汗?」
「ええ。びっしょりと汗を掻いております」
アドルフは額に手をやり、ハッとなる。汗を掻いている意識もないほど、余裕がなかったようだ。
アドルフにハンカチを手渡してから、再びベンチに腰かける。
「それで、理由をお聞かせいただけますか?」
「理由、理由は――」
意を決したのか、アドルフは力強い瞳で私を見つめる。
そして、驚きの理由を口にした。
「同級生がリオニー嬢に出会ってしまったら、好きになると思ったから」
「はい?」
彼はいったい何をいっているのか、という追及を「はい?」の一言に込める。
アドルフは耳まで真っ赤にさせていた。
「あの、おっしゃっている意味が、よくわからないのですが?」
「そうだと思っていた。リオニー嬢は、自分の魅力に気づいていない。だから、ランハート・フォン・レイダーにあのような行動を――!!」
何やらぶつくさ言っていたようだが、早口かつ低い声だったので聞き取れなかった。
同級生に会わせたくない理由はよくわからないものだったが、これ以上追及しても、納得する答えなんぞ聞けないだろう。
この問題については、頭の隅に追いやることにした。
「リオニー嬢、すまない。飲み物を落としてしまった」
「よろしくってよ」
ガラス製のコップを落としたのは芝生の上だったので、割れていなかった。
拾おうと立ち上がったが、アドルフが素早く回収した。
「新しいものを買わないと」
「いいえ、大丈夫。もう帰りましょう」
「具合は?」
そう聞かれ、思い出す。
先ほど、私はアドルフへの恋心に気づき、青くなったり、赤くなったり異変を露呈していたのだ。
いろいろあったせいで、すっかり忘れていた。
意識してしまい、まともに顔も見られないような状況だったが、リオルやランハートの出現で緊張が解れた。
かと言って、ふたりに感謝なんてしたくないのだが。
「では、別荘まで送ろう」
「……」
リオルとアドルフが鉢合わせしてしまったら大問題である。
けれどまあ、先ほど睨みを利かせていたので大丈夫だろう。たぶん。
「よろしくお願いします」
そう言葉を返すと、アドルフは明らかに安堵した表情を見せる。
差し出された手に、指先を重ねる。
具合が悪かった私を慮り、ゆっくりゆっくり歩いてくれた。
婚約したばかりの頃は、足早に進むときもあった。最初は憤っていたものの、それがアドルフのごくごく普通の歩く速度だと知ったのはずっとあとだった。
彼はこの二年間で変わった。三学年となり、大人の男性のようになりつつあった。
魔法学校を卒業したら私たちは結婚をして、そのあとは――。
胸がちくりと痛む。
アドルフが毎週のように薔薇と恋文を贈っていたなんて、聞かなかったらよかった。
けれども、知らなかったらアドルフに深く干渉し、彼の本質を垣間見ることはなかっただろう。
「あの、アドルフ」
「なんだ?」
「子どもは何人欲しいのですか?」
そう問いかけると、アドルフは歩みを止める。
顔を真っ赤にさせた上に、信じがたいという表情で私を見つめていた。
「わたくし、何かおかしなことを申しましたか?」
「い、いや、その、なんていうか、そういう話は、結婚してからするものだと思っていたから」
「別に、結婚することは決まっているのですから、いつ聞いてもおかしくはないのでは?」
「そ、そうだな」
私の指摘を受け、アドルフは真剣に考え始める。
「俺は弟妹(きょうだい)がいなかったから、いたら楽しいだろうな、と思っていた」
「おふたり、もしくはそれ以上、欲しいのですか?」
そう問いかけた瞬間、眉間にギュッと皺が寄る。
「いや、出産は女性の体への負担が大きい。魔法で痛みを軽減できても、目に見えないダメージは残ると、医学書に書いてあった」
「ええ」
出産は命がけだ。母を亡くした私は、特にそう思っている。
今、健康で生きていられることに、心底感謝していた。
「子どもはひとりでいい。男でも女でも、養子であっても、爵位が継げるように国王陛下へ陳情するつもりだ」
彼ははっきり、養子と口にした。
暗に、子どもが産める体でなくても大丈夫、と示しているのだろう。
それはきっと、将来結婚するであろう、彼の想い人に対する配慮なのかもしれない。
ずっとここで療養していると聞いた。きっと、子どもを産める体力はないのだろう。
「これは大事な話題だったな。結婚する前に話せて、よかったと思っている」
「わたくしも」
アドルフと肩を並べ、別荘に戻る。
リオルと遭遇することもなく、無事、送り届けてもらった。
◇◇◇
「リオルーーーーー!!」
部屋で本を読んでいると執事から聞いたが、訪ねるとソファの上でぐっすり眠っていた。
「リオル、起きなさい! リオル!」
「うーーん、何?」
「何、ではありません。あなた、どうして出歩いていましたの? あれほど、家で大人しくしているように言ったのに」
「うるさ。耳にキーンと響く」
「あなたが悪いのですよ!」
リオルはのろのろと起き上がり、のんきに背伸びをする。
そして、外出の理由を語った。
「いや、澄まし顔の姉上を見にいっただけなんだけれど」
「あなたという子は……」
彼に関しては、何を言っても無駄なのだろう。
がっくりと肩を落としてしまう。
「一緒にいたのがアドルフ・フォン・ロンリンギア?」
「違います。彼はクラスメイトです」
「なんでクラスメイトを、熱烈に抱きしめていたの? 意味がわからないんだけれど」
「そ、それは! あなたがいたから、隠すためです!!」
もう、これ以上話すことはない。回れ右をしようとした瞬間、リオルが待ってと引き留めてきた。
「姉上、僕は今日、王都に戻るよ。なんていうか、実家じゃない場所は落ち着かないから」
「落ち着かないってあなた、今までぐっすり眠っていたではありませんか」
「さっきのは仮眠」
ひとまず王都に戻るというので、ホッと胸をなで下ろした。
「姉上たちは竜車で来たんでしょう?」
「ええ」
「訓練生の竜車に乗るとか、怖いもの知らずだよね。信じられない」
「補助する教官はきちんといましたから」
「それでも、落下の危険はゼロではないのに」
「まあ、そうですけれど」
私はアドルフのおかげで、教官の竜車に乗っていたなんて言えなかった。
◇◇◇
その後、アドルフへのお詫びとして、クッキーを焼いた。
ここ最近バタバタと忙しかったので、こうしてクッキーを作るのは久しぶりである。
今日は時間があるので、少しだけ手が込んだクッキーを作ろう。
小麦粉とコンスターチを合わせて作る、絞り出しクッキーだ。
このタイプのクッキー生地は他のものと比べてやわらかく、型抜きができない。そのため、袋に入れて絞り出すのだ。
まず、バターをクリーム状にホイップし、粉砂糖を入れて混ぜる。あまり混ぜすぎると、焼いたあとに崩壊しやすくなるという。そのため、撹拌はほどほどに。
これに卵白を少しずつ加え、小麦粉とコンスターチをふるいにかけながら投入。これも混ぜすぎたら食感が悪くなるので、ほどよい感じに。
生地は紅茶味とベリー味、プレーンの三種類にしてみた。
星口金を入れた袋に生地を入れ、油を薄く塗った鉄板に絞っていく。
十五分ほど焼いたら、絞り出しクッキーの完成だ。
よく冷ましてから、缶に詰めていく。
ランハートにもお詫びとして渡したいが、前回のようにアドルフに見つかったら面倒な事態になる。
彼には別荘の菓子職人が作ったベリー・マフィンを持っていこう。
リオルが王都に帰っていく様子を見送ったあと、身なりを整える。
お風呂に入って香水などの匂いを落としておく。
魔法学校の制服に着替え、お詫びのクッキーとマフィンを持って別荘を出る。
太陽が傾きつつあった。あっという間に一日が過ぎていく。
小住宅に戻ると、アドルフが小難しい表情で本を読んでいた。
「リオル、戻ったか」
「うん」
何を読んでいるのかと覗き込むと、〝小熊騎士の大冒険〟という子ども向けの児童書だった。
「それ、どうしたの?」
「寝台の下に落ちていた。誰かが忘れたのだろう」
「そのシリーズ〝熊騎士の大冒険〟のほうが面白いよ」
「小熊から読むのではないのか?」
「それは、熊騎士の大冒険の子ども世代の話だから」
「そうだったのか!」
思いのほか、面白かったという。その昔、リオルが読んで「子ども騙しだ」なんて言っているのを思いだし、笑いそうになった。
「あ、そうそう。これ、姉上から預かってきた。手作りクッキーらしい」
クッキー缶を差し出すと、アドルフの表情がパッと明るくなる。
さすが、クッキー暴君といったところか。
「今日のお詫――いや、お礼だって」
「そうか」
もうひとつの箱に視線が向く。ジロリと睨んでいるようにも見えた。
「これはランハートのだけれど、うちの菓子職人が作ったマフィンだから」
缶の蓋を開き、中身を見せる。手作りクッキーでないとわかったので、アドルフはうんうんと頷いていた。
本当に、彼はクッキーが大好きなのだろう。
「リオル、明日はどうするんだ?」
「ランハートと遊ぶ約束をしている。アドルフは?」
「人に会いに行く」
胸がドクンと脈打つ。明日、アドルフは想い人に会いにいくのだ。
ランハートとの予定は、薔薇と恋文を贈っていた想い人の調査であった。
彼を尾行したら、相手が誰なのかわかるわけだ。
「リオル、あまりはしゃぎすぎるなよ。発見したら、教師に報告するからな」
「わかっている。アドルフも――」
「なんだ?」
楽しんできて、というシンプルな一言が出てこない。
きっと彼への恋心が妨害しているのだろう。
「なんでもない。夕食は?」
「まだ」
「だったら、一緒に食べにいこう」
二日目の夕食は、教師陣特製の鶏の丸焼きとスープ、パンだった。
どれもおいしくて、楽しい夕食の時間となった。
夕食を食べたあと、アドルフが焚き火をしたいと言い出す。
仕方がないので、付き合ってあげることにした。
帰り道に落ちてあった枝を拾い集めながら、小住宅に戻った。
アドルフが火を起こし、私は紅茶の用意をする。朝、紅茶を飲みたいので、別荘からお茶セットを持ってきていたのだ。
ポケットの中で爆睡していたチキンは、枕の下に突っ込んでおく。たぶん、朝まで目覚めないだろう。
チキンは枕の下で眠るのが大好きで、私が頭を置こうが関係なしに爆睡するのだ。
バルコニーに出ると、すでに焚き火台に火が灯っていた。
「ひとりでできたんだ。偉いじゃん」
「まあな。これくらい、たやすいことだ」
焚き火台に網を置き、その上にヤカンを設置する。
しばし、ぼんやりと燃える火を眺めていた。
「リオル、リオニー嬢は何か言っていたか?」
「別に……」
スワンボートに乗って、恋を自覚して、ランハートと出会ってしまって、それから支離滅裂な言動をするアドルフとかみ合わない会話をして――。
「いや、楽しかったって言っていたよ」
「そうか、よかった」
胸に手を当てて安堵するアドルフの様子を見ていると、どうしてか泣きたくなる。
彼の心には、私以外の大切な女性(ひと)がいるのだ。
「湯が沸いたな」
「そうだね」
紅茶に蜂蜜とミルクをたっぷり入れて、あつあつのうちに飲んだ。
寒空の下だったからか、アドルフが隣にいたからか、いつもよりおいしく感じてしまった。
アドルフはこのあとお風呂に入ってくるという。
私は先に眠ることにした。
寝間着に着替え、寝台に横たわる。
アドルフが戻ってくる前に眠ってしまいたかったが、今日に限って眠れない。
就寝前の紅茶がよくなかったのか。
茶葉には神経を興奮させる成分が入っているので、夜に飲むのはオススメしない。
わかっていたが、猛烈に紅茶が飲みたい気分だったのだ。
枕の下で眠るチキンを覗き込むと、羨ましいくらい爆睡していた。
右に、左にと寝返りを打つ。しかしながら、眠れない。
もしかしたら、枕や布団がいつもと違うので、眠れない可能性がある。
別荘の寝具は、実家にあるものと同じ職人が作ったものだったので、ぐっすり眠れたのだろう。
ため息をひとつ零したのと同時に、アドルフが戻ってきた。
「リオル、もう寝たか?」
その問いかけはどうなのか。眠っていたら、返事なんてあるわけがないだろう。
アドルフと話したらさらに眠れなくなりそうなので、申し訳ないが寝ているということにしておいた。
アドルフはそのまま灯りを消す。もう眠るようだ。
ぎし、と寝台が軋む音が聞こえる。それから、布団やブランケットがこすれて鳴る音も妙に耳につく。
アドルフがこの下で眠っている。それだけなのに、妙に緊張してしまった。
寝返りを打たずに、じっと息をひそめる。二時間はそうしていただろうか。
そうこうしているうちに、私は寝入ってしまった。
「リオル、リオル、起きろ! 遅刻だ!」
「ん……んん!?」
アドルフの声――それから自分の声を聞いて、ギョッとする。声変わりの飴の効果が切れているのだろう。
枕の下を探って、飴を入れた袋を掴む。
『ちゅり~?』
握ったのはチキンだった。大きさが同じくらいなので、紛らわしい。
枕をひっくり返し、飴が入った袋を手に取る。飴を口に含んでから返事をした。
「すぐに行く!」
「外で待っているぞ」
三日目の朝は、レポートの成績を発表する日だ。あと五分で、朝礼が始まるらしい。
急いで着替え、顔は濡れたタオルで拭うだけにしておく。口も濯ぐだけにしておいた。
髪を櫛で梳り、紐で纏める。寝ぼけ眼のチキンをポケットに詰め、タイを結んだ。
起床から三分で、身なりを整えた。人生最短記録である。
「アドルフ、ごめん」
「走るぞ」
アドルフは私の手を握り、走り始める。フェンリルもあとに続いていた。
一分前に集合場所に辿り着く。他にも時間ギリギリの生徒は数名いたので、悪目立ちすることはなかった。
教師が前に立ち、レポートについての所感を話し始める。
「皆、採りやすい食材に、釣りやすい魚、獲りやすい獲物を集めた結果、似たり寄ったりなレポートになっていた。そんな中で、リオル・フォン・ヴェイグブルグとアドルフ・フォン・ロンリンギアのペアは、独自の食材を集めただけでなく、食材の情報を絡めた読み応えのあるレポートを提出してくれた。よって、ふたりを一位とする。高位魔石は彼らにのみ進呈しよう」
アドルフと顔を見合わせ、ハイタッチする。まさかここまで評価されるなんて、想定していなかった。
景品である魔石を選んでいいという。教師のひとりが魔石を盆に載せ、持ってきてくれた。
「リオル、どの魔石がいい?」
「アドルフは?」
「お前が選んでくれ」
「だったら――」
光の魔石を指差すと、革袋に入れた状態で進呈された。
アドルフに渡そうとしたら、首を横に振る。
「それはリオルが受け取ってくれ」
「どうして?」
「昨日のスワンボート券のお返しだ」
「あ――!」
あれは結局私も乗っていたのだが……。返そうとしても受け取ってくれない。
「あとで欲しいって言っても、返さないからね」
「ああ、そうしてくれ」
本当の本当に、受け取ってもいいみたいだ。
ありがたくいただいておく。
「アドルフ、ありがとう。嬉しい」
「そうか。よかった」
これがあれば、輝跡の魔法を使える。胸がドキドキと高鳴った。
「それはなんに使うんだ?」
「輝跡の魔法を試してみたくて」
「ああ、なるほど」
レポートの結果発表は終了し、お昼までの時間は自由行動となる。
ここでアドルフと別れ、ランハートと合流した。
「おーい、リオル」
「ランハート」
ちらりと横目でアドルフのほうを見る。懐から手帳のようなものを取り出し、険しい顔で見詰めていた。まだ、動き始めそうにない。
その様子をランハートと確認する。アドルフが行動を開始するまで、適当な雑談をするしかないようだ。
「お前たち来るの遅かったから、ヒヤヒヤしたぜ。首席コンビが遅刻とか、ありえないからな」
「まあね」
「どうしたんだ?」
「僕が寝坊したんだ。なんだか眠れなくて」
「大丈夫なのか?」
「平気。たぶん五時間くらいは眠っているから」
アドルフから光の魔石を貰ったからか、興奮している。今は眠気なんて欠片もなかった。
「あ、そうそう。これ、姉上から預かってきたんだ」
「お姉さん?」
マフィンが入った缶を差し出すと、キョトンとした表情で受け取る。
「昨日、姉上に会ったんでしょう?」
「あー、そう。あったね、そんなことが」
「それで、迷惑をかけたみたいで、このお菓子はお詫び」
「お詫びだなんて。これ、もしかしてお姉さんの手作り?」
「違う」
「そっか。律儀なお方だな。昨日の出来事なんて、俺にとってはご褒美みたいなものだったし」
「どこが?」
「リオルのお姉さん、とんでもなく美人でさ、いい匂いで、体もふわふわだった」
ランハートはいつもの調子だったが、脳内でそんなことを考えていたとは。
「あとなんか、面白い人だったなー。ドマイナーな毒ヘビの名前をスラスラ言ったところなんか、最高だった」
「そう」
「ああいう人と結婚したら、毎日楽しいんだろうなー。もしも、アドルフとの婚約が破談されたら、俺が結婚してほしいくらい」
「は!?」
「なんでそんなに驚くんだよ」
それは私が当事者だからだ、なんて言えるわけがない。
私と結婚したいだなんて、ランハートはいったい何を考えているのか。
「ねえ、ねえ、弟の立場からして、俺がお義兄(にい)さんになるの、どう思う?」
「ランハートが身内になるの?」
「そう!」
彼はきっと一途で、愛人なんか迎えないだろうし、妻となった女性を大切にしてくれそうだ。変なしがらみもなく、平和に暮らせるに違いない。
もしも、アドルフとの婚約が決まる前に、どちらがいいか聞かれたら、確実にランハートを選んでいるだろう。
「ランハートがいたら、なんか、楽しく暮らせそう」
「だろう?」
でも今は――……。
アドルフの姿が思い浮かび、打ち消すようにぶんぶんと首を横にする。
「リオル、どうしたんだ?」
「どうもしない」
虫でもいたのかと、ランハートは私の周囲を手で払ってくれる。本当にいい奴だと思った。
「そういえば昨日、うちの別荘を訪ねてきたって話を聞いたんだけれど、何の用事だったの?」
「ああ、そう。毎週、薔薇と恋文が届く家についての噂話を耳にしたんだ」
それは、ランハートが友人らと居酒屋(パブ)の前を通りかかったときに、客引きの女性から引き留められたのだという。
「ひとりの女性へ、熱心に薔薇と恋文を届ける魔法学校の生徒がいるって、一部の界隈で話題になっているらしくて、誰か知らないかって聞かれたんだ。もちろん、答えなかったけれどね」
「そう、だったんだ」
客引きの女性は、薔薇と恋文が届く先も教えてくれたという。
「この辺りの観光街から北に進んでいくと、霧ヶ丘って呼ばれる場所があるらしい。そこに赤い屋根の屋敷がある。その屋敷に、薔薇と恋文が届けられているんだ」
「そうだったんだ……。あ、アドルフが動き始めた」
私とランハートは追跡を開始する。フェンリルを連れているため、あまり接近はできない。もしも見失ったときは、霧ヶ丘の赤い屋根の家を目指せばいいのだろう。
つかず離れずの距離で、進んで行った。アドルフはいつもより急ぎ足で進んでいる。
愛しい女性に一秒でも早く会いたいのかもしれない。
途中、アドルフは花屋さんに寄り、薔薇の花束を購入する。
いつもは真っ赤な薔薇を選んでいるようだが、今日は紫色の薔薇である。
薔薇の花束を購入し、街を抜けると、アドルフはフェンリルに跨がって颯爽と駆けて行ってしまった。
「ああ、クソ! フェンリルを使ったかー」
アドルフが薔薇の花束を買っている間に、街の人から話を聞いたのだが、霧ヶ丘まで徒歩ならば二時間はかかるらしい。
話を聞いたとき、きっとフェンリルに乗って行くのだろうな、と想定していた。
「往復で二時間か」
「リオル、今から馬車を借りてこようか?」
「ううん、いい」
走っていきそうだったランハートの服の袖を摘まみ、彼の行動を制止する。
「いいって、アドルフの想い人について、気になっていたんじゃないのか?」
「こういうふうに尾行するのは、アドルフに対して申し訳ない。彼は姉上に言ったんだ。時期がくれば、秘密について話すって」
「でも、そういうのって、婚約前に打ち明けるものじゃないのか?」
「そうかもしれないけれど、彼にも事情が、あるんだと思う」
仕方がない――そう告げたのと同時に、涙が溢れ、零れてしまった。
「ランハート、帰ろ」
「それでいいのか?」
「いい」
きっと、アドルフは想い人について話してくれる。それまで待とう。
そして――素直に打ち明けてくれたら、私は彼と結婚する。
「婚約破棄はどうするんだ?」
「しない。姉上は、アドルフと結婚する」
ロンリンギア公爵家と縁を繋ぎ、私はアドルフの子どもを産む。
そのあとは、まだどうなるかわからない。
けれども、アドルフには幸せになってほしいと思っている。
「なんで泣くんだよ。悔しいのか?」
「違う」
自分でも信じられないくらい、私はアドルフのことが好きで、アドルフも私を好きであってほしいと望んでいるのだ。
アドルフには愛すべき女性がいる。
彼の気持ちがこちらに向くことは絶対にない。
それがどうしようもなく悲しくって、涙が零れてしまったのだろう。
ランハートは私を抱きしめ、背中をトントン叩いてくれる。
「リオル、泣き止めー! 泣き止めー! いい子だから」
まるで、赤子をあやすように慰めてくれる。
それが功を奏したようで、涙は比較的早く引っ込んでしまった。
ランハートと肩を並べ、来た道をトボトボ帰る。
「なあ、リオル。やっぱり、アドルフと婚約破棄しない?」
「どうして?」
「アドルフにお姉さんはもったいないから。俺と結婚しなよって、助言してくれないかな~?」
「できるわけないじゃん。家庭内の発言力はゼロに等しいのに」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
アドルフとの婚約破棄を目論見、父に反抗した結果、絶縁されそうになった。
私の訴えなんて、父は聞く耳なんて持たないだろう。
「ランハート、大丈夫だよ。姉上は強(したた)かだから」
「そうかもしれないけれどさー」
この先、結婚したことで新しい幸せの形を発見できるかもしれない。
一度しかない人生だ。
なるべく悲観しないようにしなければならないだろう。
「リオル、俺はいつでもお前の味方だからな」
「ランハート、ありがとう」
彼という存在も、私が見つけた幸せの形だろう。
けれども、私が女だと知ったらどうなるのか。
いくら寛大なランハートでも、騙していたのかと怒るかもしれない。
少しだけ、胸がちくりと痛んだ。
◇◇◇
宿泊訓練はあっという間に終わった。
後日、アドルフから私宛てに手紙が届く。
グリンゼルで話していた、彼の事情を打ち明けるのを、もう少し待ってほしい、というものだった。
なんでも、少し事情が変わったらしい。最後に必ず話すから、と書いてあった。
何があったのかはわからないが、私はこのまま知らないほうがいいのではないか、と思っている。
彼の長きにわたる愛なんて聞きたくないから。
ひとまず、この件については忘れることにした。
宿泊訓練が終わり、いつもの日常が戻ってくると思っていた。しかしながら、私を取り巻く状況は、がらりと変わる。
朝――教室で予習をしていたら、私の顔を覗き込み、挨拶をしてくる者が現れる。
ランハートだと思っていたが、違った。
「おはよう、リオル」
「おはようって、え!?」
「何をそんなに驚いている?」
「だって」
私に笑顔で挨拶してきたのは、アドルフだから。
まるで普通の友達のように接してきたので、びっくりしてしまった。
「朝の挨拶をするのはおかしいのか?」
「おかしくない」
「だろう?」
アドルフの変化に、私だけでなくクラスメイトも驚いているようだった。
それからというもの、アドルフはいつもの取り巻きを遠ざけ、私とばかり行動するようになった。
「ねえ、アドルフ。いつものお友達はいいの?」
「あいつらは友達でもなんでもない。俺が次期公爵だから、媚びへつらっている奴らばかりだ。もしも俺が次男か三男だったら、見向きもしないだろう」
「そんなことは――」
「ある」
言い切ったアドルフの瞳は、少し悲しげだった。私まで、なんだか切なくなってしまう。
「僕は、アドルフが次期公爵じゃなくっても、すごい人だって思っているよ」
「お前はそうだろうと思ったから、今、一緒にいる」
私を見つめるアドルフの瞳には、信頼が滲んでいるように思えた。
それに気付いた瞬間、胸がじくりと痛む。
私はリオル・フォン・ヴァイグブルグではない。彼に嘘を吐いているのだ。
いつか本当のことを話したとき、アドルフはどう思うか。
考えただけでも辛くなる。早く話したほうが、気は楽になるが――。
「リオル、次は実験室での授業だ。行くぞ」
「うん」
残り少ない学校生活だ。それを無駄にしたくない。
だから今は、リオルのままでアドルフと一緒に過ごそう。
あと少しだけ、そう自分に言い聞かせながら、アドルフの隣に並んだのだった。
没落しかけた伯爵令嬢として育った私、リオニー・フォン・ヴァイグブルグは、魔法学校に男装して通うという、一風変わった人生を歩んでいる。
というのも、理由があった。
我が家は賭博で莫大な借金を作った祖父のせいで、困窮した暮らしをしていた。
その生活を変えたのは、弟リオルが作った独自魔法の特許である。彼は借金をたった一ヶ月で返済してくれたのだ。
リオルは天才魔法使いだったわけである。
そんな彼にも、魔法学校の入学案内が届く。魔法学校は男子校で、生まれてすぐに申し込むようになっているようだ。十五年の時を経て、入学が許可されたわけである。
しかしながら、リオルは魔法学校なんて子ども騙しだから行きたくないと言ってのけた。
それに頭を抱えたのは父である。
なんでも、魔法学校は父親が魔法学校の卒業生でないと入学が許可されない。
つまり、リオルが卒業していなければ、子ども世代は魔法学校へ通えなくなってしまうのだ。
魔法学校に行きたくないなんて、贅沢な話である。私は頼み込んででも行きたいくらいなのに。
誰にも話したことはないのだが、私は魔法を使う叔母に憧れていた。
彼女が考えた世界一美しい〝輝跡の魔法〟を、一度でいいから使ってみたいと思っていたのだ。
リオルが行きたくないのならば、私が行きたい――なんて言葉に、父は驚愕していた。
一方で、リオルは「行けばいいじゃん」なんて返す。
幸い、私は婚約者はおらず、都合は悪くない。
魔法学校へ通ったという実績が欲しい父は、しぶしぶと認めたのだった。
首席で入学し、順風満帆な日々を送るものだと思っていた私に、最大の障害が立ちはだかる。
それは、公爵家の嫡男、アドルフ・フォン・ロンリンギアの存在であった。
彼は次席で入学したことを恨みに思ったのか、私に突っかかってくる、なんともいけ好かない男だった。
二年もの間、私達は抜きつ抜かれつの成績で、嫌でも意識してしまうライバル関係であった。
この男さえいなければ……という思いは、アドルフも抱いていたに違いない。
あと一年我慢したら、彼に関わることなどないだろう。
なんて言い聞かせていたのだが、とんでもない知らせが届く。
それは、ロンリンギア公爵家からの、アドルフと結婚してほしいという打診であった。
一介の貴族令嬢に、結婚の決定権なんて与えられていない。父は私の意思なんて確認せずに結婚の申し出を受けたようだ。
そんなわけで、私のもとには「アドルフ・フォン・ロンリンギアとの婚約が決まった。結婚は卒業後だ」という父からの一方的な通達があるばかりだったのだ。
アドルフとの結婚なんてありえない。リオルが気に食わないから、嫌がらせで思いついたのではないか? などと思ってしまったくらいである。
そもそも、ロンリンギア公爵家とヴァイグブルグ伯爵家では、家格が違い過ぎる。
貴賤(きせん)結婚と言われても、反論なんてできないだろう。それくらい、アドルフと我がヴァイグブルグ伯爵家の家柄には隔たりがあった。
魔法学校でしているように、私をネチネチと攻撃し、恥を掻かせるに違いない。
なんて考えていたのに、面会の場にやってきたアドルフは、魔法学校では一度も見せなかった紳士然とした様子でやってくる。
手にはフリージアの花束を持っており、私へ贈ってきたのだ。
その後も、丁重な態度を崩さない。想定外の展開に、私は彼に「なぜ、わたくしを婚約者に選んだのでしょうか?」という質問を投げかける。
すると、アドルフは顔を逸らし、みるみるうちに頬を赤らめるではないか。
その瞬間、私はハッと思い出す。友人であるランハートより、アドルフに関する噂話を聞いていたのだ。
なんでも彼は、グリンゼル地方に向けて薔薇の花束と恋文を贈っているのだという。つまり、想いを寄せる相手がすでにいるのだ。
私との結婚は偽装的なもので、本命との愛を貫くためのものだったのだろう。
腑に落ちたが、納得できない。ライバルである彼に利用されるというのも癪だった。
絶対に婚約破棄に導いてやる――!
なんて意志を固めていたのだが、事態は思うように転がらない。
嫌がらせで派手な格好をしてみたり、ガラス玉をアドルフの瞳に似ていると言ったり、下町を連れ回したりしても、彼はいっこうに愛想を尽かさない。
それどころか、優しく接してくれる。
彼を知れば知るほど、胸がぎゅっと苦しくなる。
それが恋だと気付いた瞬間、逃げ出してしまいそうになった。
私は、アドルフに恋し、愛しつつある。
ならば、彼の愛する存在を黙認し、お飾りの妻として徹するべきではないのか。
それが、正しい貴族令嬢としての姿だ。
これまで内心反発していた、アドルフとの結婚を初めて受け入れる。
自分の幸せと相手の幸せが一致するなんて、奇跡のようなものなのだろう。
私はこれまで十分、思うがままに、充実した学校生活を送ってきた。だから、その恩恵を結婚という形で返すべきなのだろう。
魔法学校での日々も残り数ヶ月だ。後悔のないように頑張りたい。
◇◇◇
魔法学校の学期は〝ターム〟と呼ばれており、一年は三つのタームに別れている。
学期始めは秋、学期終わりは年末で、降誕祭学期(ノエル・ターム)と呼ばれている。
降誕祭学期が終わると、二週間の休暇期間(ホリデー・ターム)に突入する。
二学期目は残りの冬から春にかけて、四旬節学期(レント・ターム)と呼ばれている。
それが終わると一週間の休暇期間を挟んで、春から夏にかけて夏学期(エテ・ターム)を過ごす。
一週間の休暇期間を経て、再び新たな降誕祭学期を迎えるという仕組みだ。
三学年目の降誕祭学期は瞬く間に過ぎていき、残り一ヶ月となる。
このシーズンになると、生徒達は皆、ソワソワし始めるのだ。
その理由は、降誕祭があるからだろう。
神の生誕を祝し、家族でごちそうと贈り物を囲んで楽しむ、という催しであった。
貧乏だった我が家は、まともに降誕祭をしていた記憶がない。父が毎年、国王陛下の警備の仕事を入れていたため、不在だったというのもある。弟リオルはそういう催しに興味がなかったし、幼少期の私も別になかったらなかったでいい、と考えていたのだろう。
そのため、わくわくしながら実家に帰る同級生達を理解できずにいた。
談話室にはアドヴェントカレンダーと呼ばれる、立体的な暦が用意されていた。中にお菓子が入っていて、一日ごとに開けていき、降誕祭までの日々を数えるのだ。
寮では何個かアドヴェントカレンダーが置かれ、当番制で開封するようにしていた。
一学年のとき、うっかり忘れていたら、皆から非難ごうごうだったのを覚えている。降誕祭のお祝いは特にしないから忘れていたのだと言い訳をすると「それはおかしい!」と一斉に責められてしまったのだ。
そのとき、珍しくアドルフが「自分の楽しみが他人の楽しみだと押しつけるな」と注意したのを思い出す。彼が唯一、私を庇った瞬間だったのかもしれない。
そのあと、「降誕祭の楽しみを知らない、哀れな男なのだ」と言ったので、台無しになっていたのだが。
今年は忘れないように、アドヴェントカレンダーのお菓子を取りに行かなければ、と心に誓ったのだった。
各家庭で楽しむ降誕祭以外にも、学校の行事である〝降誕祭正餐(ノエル・サパー)〟も開催される。
燕尾服をまとって礼拝堂で聖歌隊(クワイアー)の歌を聴き、各寮で前菜(スターター)、主食(メインディッシュ)、|食後の甘味(デザート)をいただくというもの。
最後に贈り物として祝福の蝋燭とシュトレンと呼ばれるケーキを貰えるのだ。
食事はいつもより豪華で、シュトレンは校外でも噂になるほどおいしい。そのため、毎年楽しみにしている生徒は多いようだ。
私はこの二年間、実家からリオルの燕尾服を送ってもらうよう侍女に頼まなければならないな、と思う催しであった。
リオルの燕尾服は毎年作っているようだが、引きこもりなので一度も袖を通していない。それなのに、父はリオルを社交場に連れ出すための口実として、毎年仕立てるように命じるようだ。まったくのお金の無駄遣いである。おそらくだが、リオルが稼いだもので買っているのだろう。たぶん。
今年になって、リオルは背がぐんぐん伸びている。きっとそれを送ってもらっても、寸法違いが生じるだろう。侍女には去年仕立てた燕尾服を送ってもらうよう、頼んでおいた。
一週間後、侍女が送った燕尾服と共にアドルフからの手紙が届いた。当然、リオル宛てでなく、リオニー宛てである。
今の時季は学期末試験がある上に、アドルフは降誕祭正餐の実行委員長の仕事もあるため、多忙を極めていた。しばらく音信不通になると思っていたので、驚いてしまう。
いったいなんの用事なのか。なんて思いつつ、ペーパーナイフを探していたが、どこにも見当たらない。
肩に乗っていた使い魔のチキンが机に下り立ち、提案してくれる。
『チキンが切ってあげまちゅり!』
「ありがとう。中に入っている手紙は切らないでね」
『任せるちゅり!』
チキンは器用に、封筒だけを嘴(くちばし)で切っていく。見事、封を切ってくれた。
「チキン、上手。ありがとう」
『朝飯前ちゅり!』
指先でチキンの嘴の下を掻きつつ、取り出した便箋を広げた。
手紙には驚くべきことが書かれてある。なんと、ロンリンギア公爵家の降誕祭のパーティーに来ないか、というものだった。
なんでも毎年、ロンリンギア公爵家では盛大なパーティーが開催されているらしい。それは一般客は招待されず、地方から親戚一同が集まるホームパーティーのようだ。
それに、私も参加しろと?
さらに、リオルもどうか、と書かれてあった。
引きこもりで協調性がない弟に、魔法学校に通うリオル役なんて頼めるわけがない。
リオルの姿で参加するほうが楽だが、弟がいるのに、婚約者である私がいないのは大問題だろう。
そもそもなぜ、ホームパーティーに招待してくれたのか。まったく理解できない。
リオルとリオニー、どちらも不参加、という手もあるが――。
頭を抱えるのと同時に、扉が叩かれる。跳び上がるほど驚いてしまった。
「だ、誰?」
「俺だ」
その声は、アドルフであった。いったい何用なのか。
彼が部屋を訪問してくるのは、久しぶりである。ドキドキしながら、扉を開いた。
扉を開くと、アドルフが遠慮がちな表情で立っていた。
「突然すまない、今、時間はいいか? 話したいことがあるんだ」
「うん、いいよ」
部屋に招き入れ、窓際にある椅子を勧める。
いったい何用なのか。本を貸し借りしたり、勉強したいわけではないらしい。
少しソワソワした様子で、部屋の中へと入ってくる。
「アドルフ、お茶飲む?」
「いや、長居するつもりはない。それに、今から頼んでも、届くのは早くて十五分後くらいだろうが」
「いや、これ、実家から持ってきたんだ」
茶器セットを見せると、アドルフは目を見張る。
「お前、紅茶を淹れることができるのか?」
「できるよ。簡単だし」
最近、実家から持ち込んだ魔石ポットを使い、湯を沸かして紅茶を淹れた。
寮母に頼んだらいつでも淹れてくれるのだが、誰とも会いたくないときにこっそり淹れて飲んでいたのだ。
「アドルフ、砂糖とミルクは――」
いらないんだっけ? と言いかけたあと、口をきゅっと噤む。彼は紅茶に何も入れないで飲んでいたのだが、それは婚約者である私だけが知る情報である。同級生であるリオルが把握している情報ではない。
ちなみに私はストレート派だ。たまに、疲れているときは砂糖とミルクを入れることもあるが。
「砂糖は三杯、ミルクは少々入れてくれ」
「え?」
外で会ったとき、アドルフが砂糖を入れているところなんて見た覚えはない。
そういえば、彼はクッキーが大好物である。甘党なのは明らかであった。
「砂糖、そんなに入れるんだ。いつも?」
「そうだ。悪いか?」
ではなぜ、いつもはストレートで飲んでいるのか。
なんて考えつつ、紅茶を飲む。
「リオルも、紅茶はストレートなんだな」
「え? まあ、そうだね」
なんて言葉を返してからハッとなる。別人を装うならば、好みは別にしておくべきだった。
「リオニー嬢もストレートで飲むから、一緒に会うときは俺もストレートで飲むようにしている」
あえて砂糖とミルクを入れずに飲んでいたという。別に、相手の好みに合わせなくてもいいのに。それも、紳士的行動なのだろうか?
「別に、好きなように飲めばいいじゃない」
「俺だけ砂糖をドバドバ入れていたら、格好悪いだろうが」
まさかの理由に、思わず噴き出してしまう。
「笑うな!」
「いや、だって、恰好つけてストレートの紅茶を飲んでいたなんて、笑っちゃう」
婚約者である私の前では、絶対に見せないであろうアドルフの様子に、笑いが止まらなくなってしまう。
今、初めてアドルフの友達をするのも悪くないな、と思ってしまった。
「それにしても、リオル、お前はすごいな」
「何が?」
「紅茶をこうしてひとりで淹れられるではないか」
「ああ、これね。魔法を使うより簡単だよ」
「魔法を使うより……そうだな」
アドルフは紅茶の淹れ方を覚えてみたい、なんて言ったので、軽く教えてあげた。
記念すべき一杯目は、少しだけ渋かった。
「そういうときは、ミルクで薄めたらいいんだ」
「嫌だよ、風味が台無しになる」
なんでもアドルフが生まれる前から働いているロンリンギア公爵家の老執事はたいそう渋い紅茶を淹れてくれるらしい。そのたびに、アドルフはミルクを追加して味わいを調節していたようだ。
「上手く淹れられるようになったら、リオニー嬢に飲んでもらうか。リオル、練習に付き合ってくれ」
「僕は実験台か」
「そうだ」
堂々と言い放ってくれる。思わず、同時に噴き出し笑いをしてしまった。
「実は、お前に相談をしようとしていた」
「していた? 話さないってこと?」
「ああ、そうだ。今さっき、解決したからな」
曰く、私が言った「魔法を使うより簡単だよ」という言葉と、紅茶の淹れ方を習っているうちに、自分の気持ちに決着が付いたらしい。
「誰かに相談すべきか、ずっと迷っていた。慎重を要する問題だから、言わないほうがいいのでは、と考えていたのだが」
アドルフの言う〝問題〟というのは、グリンゼル地方で療養している彼女についてだろうか?
先日、事態が変わり、今すぐに状況を打ち明けることができない、なんて言っていたのだが。
私との些細な会話の中で、解決したのならばそれでいい。そもそも聞きたくなかったし。
しかしながら、言葉を聞く限り、アドルフはひとりで問題を抱えていたように思える。
婚約者であり、アドルフに恋心を寄せる立場から言えば聞きたくないが、同級生であり、ライバル、また友達である立場からしたら放っておけない。
「アドルフ、問題はひとりで抱え込まないで。話を聞くだけだったら、いつでもできるから」
「リオル……ありがとう。少し、気が軽くなった」
話はこれで終わりかと思いきや、まだあるらしい。
「そうそう。リオル、あとでリオニー嬢から話があるだろうが、ロンリンギア公爵家の降誕祭に行うパーティーに参加しないか?」
「ああ、それね」
「もしや、すでに話は聞いていたのか?」
「まあね」
アドルフの手紙がヴァイグブルグ伯爵家に届き、転送されてから三日は経っている。話を聞いていてもおかしくない期間だろう。アドルフの言葉に頷いておく。
「お前、前に降誕祭は家で何もしない、なんて言っていただろう? だから、ロンリンギア公爵家のパーティーに参加したらどうかと思って」
驚くべきことに、アドルフは一学年のときに私が話した降誕祭についての会話を覚えていたようだ。
「少し堅苦しいパーティーだが、華やかで、楽しめる……と思う」
「アドルフ、ありがとう」
私が本物のリオルであれば、喜んで参加していただろう。けれどもパーティーに行くならば、リオルではなく、リオニーとして挑んだほうがいい。
「僕は遠慮しておく。休暇期間に実家でやりたいこともあるし」
「降誕祭は、ひとりで過ごすと言うのか?」
「うちでは毎年そうだったから」
アドルフのほうを見ると、雨の日に捨てられた子犬のような表情でいた。そんなにリオルである私に参加してほしかったのか。
「もしかしたら、リオニー嬢も参加しないのかもな」
アドルフはさらに悲しげな表情を浮かべたため、慌てて弁解する。
「いや、姉上は参加するから。手紙に書いてあったし」
「そうか! それはよかった」
今度は晴れ渡った空のような笑みを浮かべる。その様子を見て、ホッと胸をなで下ろした。
「公爵家のパーティーともなれば、姉上は新しくドレスを用意しないといけないな」
果たして、既製品で公爵家のパーティーの服装規定(ドレスコード)を通り抜けるドレスなど残っているのか。嫌な感じに、胸がばくばくと脈打つ。
現在、貴族達は領地から街屋敷(タウンハウス)にやってきて、社交を行い始めている。大勢の貴族令嬢がパーティーに参加するため、仕立屋にドレスを買いに訪れるのだ。貸衣装屋でさえ忙しい、という期間である。
売れ残りの安っぽいドレスで参加したら、アドルフにも迷惑をかけてしまう。だから絶対に、身なりだけはしっかりしていないといけないのだ。
「リオニー嬢のドレスについては心配いらない。すでに用意している」
「え!?」
「実を言えば、婚約が決まったのと同時に、頼んでいたのだ」
なんでも予約は五年待ちという噂の仕立屋に、降誕祭用のドレスを注文していたようだ。
「え、でも、ドレスの寸法とか、わかるの?」
「仕立屋同士情報交換を行って、リオニー嬢のドレスの寸法を入手したらしい」
「そ、そうなんだ」
婚約が決まったときからドレスを用意していたなんて、用意周到にもほどがある。
しかしながら、助かったというのも本音であった。
「リオル、リオニー嬢には内緒にしておけよ?」
「もちろん」
すでに婚約者である私には筒抜けなわけだが、とにかく今は感謝の気持ちしかなかった。
◇◇◇
三学年ともなれば、専門的な授業を選べる授業が開始する。
その中で、もっとも難しいとされる錬金術の授業を受けることに決めた。
錬金術を習得していたら、輝跡の魔法を実現しやすくなるのだ。
先日、アドルフから何を選ぶのかと聞かれて答えていたのだが、授業当日、彼が錬金術の授業がある教室にいたので驚く。一番前の席に、どっかりと鎮座していたのだ。
「アドルフも錬金術を選んだんだ」
「ああ、まあ、そうだな」
「錬金術に興味があったの?」
「いや、お前がこの授業を選ぶと聞いていたから」
友達が選んだからと言って、自分も希望するようなタイプには見えないのだが。
私が変わったように、彼もいろいろと考えが変わっている可能性もある。
正直に言えば、アドルフと一緒に授業を受けられるので嬉しかった。
隣に座り、他の生徒を待つ――が、誰もやってこない。
「これ、もしかして希望したの僕らだけ?」
「その可能性は大いにある」
なんでもここ三年ほど、錬金術の授業を希望する生徒はいなかったらしい。
難易度が高いというのもあるが、授業で少し囓った程度では使いこなせないのだという。
私は輝跡の魔法を調べるさいに、錬金術についても少々であるが学んでいる。下地がある状態で挑んでいるのだ。
アドルフは――どうだかわからない。
彼が苦手な薬草学の応用も多いが、得意な実技も多い。アドルフがいて心強かった。
教師はいったい誰なのか、なんて話していると、授業開始を知らせる鐘が鳴り響く。
やはり、参加するのは私達だけのようだ。
教室の扉が開き、教師がやってくる。
「いやはや、お待たせしました」
白い髭が特徴の、お爺ちゃん先生――魔法生物学も担当するザシャ・ローターである。
どうやら彼が錬金術の授業をするらしい。
「首席と次席を常に争っていたふたりが、錬金術の授業を選んでくれるなんて、とても嬉しく思います」
やはり、錬金術を選んだのは私とアドルフだけだったようだ。
久しぶりの錬金術の授業で嬉しいらしい。わくわくした様子で、教科書を開いていた。
「錬金術は魔法の中でも奥深いものです。金属の特性を知るのも、なかなか楽しいですよ。たとえば、液体の金属が存在したり、金属が突然病気になったり」
錬金術と言えば、金を作れる夢のような技術だが、現代で成し遂げられる者はいない。かなり高等な技術らしい。
錬金術で金がほいほい作ることができたら、その希少性は失われていただろう。
第一回目の授業では作成可能な金属の作成を伝授してくれるという。
「では今日は、銅作りの授業をしますね」
内心、拳を握る。
錬金術の授業でしたいことは、輝跡の魔法で使える金属作りだ。まさか最初からできるなんて、想定していなかったのだが。
錬金術で金属を作れるようになったら、安価で輝跡の魔法を実現できる。
魔法が美しければ美しいほど、予算がかかるというのはネックだったのだ。
「銅の錬成は錬金術の中でも比較的わかりやすく、完成しやすいものです。ですので、そこまで心配することはありません」
教師のほとんどは座学から入るが、ローター先生は実技から入って学ぶことの楽しさを教えてくれる。知識愛があるあまり暴走してしまう面があるものの、いい先生なのだ。
「まず、錬金術について軽く触れておきましょう。アドルフ・フォン・ロンリンギア君、錬金術というのは、どんなものかわかりますか?」
「触媒を用いて、卑金属から貴金属を作りだす奇跡です」
「けっこう」
錬金術の触媒としてもっとも有名なのは、〝賢者の石〟である。それはただの石だったり、液体だったり、杖だったりと、魔法書によって姿は異なる。
ただそれは、この世に存在しない物質だという。物語の世界にのみ、登場するのだ。
「リオル・フォン・ヴァイグブルグ君、賢者の石は存在すると思いますか?」
「あると思います。数多くの天才達が存在していた古(いにしえ)の時代に作り出されていたのではないか、と考えていました」
「なるほど。君は賢者の石は、〝人工遺物(アーティファクト)〟だと考えているのですね」
「ええ。金銀財宝を作り出す触媒なんて、欲望を抱く人類が生み出したとしか思えません」
「〝自然遺物(リメイン)〟ではない、ということですか?」
「はい、そう思っていました」
アドルフにも意見を聞いていたが、同じだと答える。アドルフの見解も聞きたかったので、喋りすぎてしまったと内心反省した。
「では、銅の作り方について、説明しますね」
銅の材料は骸炭(コークス)と石灰石(ライムストーン)。これらを溶鉱炉で熱し、酸素を吹き込む。最後に魔石を使った電解精錬装置で純度を上げて、銅が完成となる。
これらの手間がかかる作業を、錬金術では魔法陣と触媒を使って作り出すようだ。
「魔法陣での火魔法と雷魔法を融合させる魔法式を考えてみてください。まずはひとりで考えてみましょうか」
錬金術は四大元素に、異空間に存在する物質〝エーテル〟を加えた五大元素を取り入れた術式で考えないといけない。
十五分かけて考えたが、私とアドルフの魔法式に点けられた点数は揃って五十点だった。
「次に、ふたりで協力し、魔法式を編み出してください」
アドルフが考えた魔法式を見ていると、足りない部分がすぐにわかった。アドルフもまた、同じことを考えていたらしい。
私達は話し合わずに、無言で魔法式を編み出していく。
そして、ローター先生に提出したのだった。
「はい、けっこう。さすが、首席、次席コンビですね。授業内に自力でここまで至る生徒は極めて稀です」
授業では一度考えさせたのちに、正解を教えてから実技に入るようだ。
「では、お楽しみの実技といきましょう」
魔法陣の|ひな形(テンプレート)が用意される。すでに、円式が描かれており、魔法式を書き込むだけになっているのだ。
どこにどの魔法式を置くか、というのは魔法の成功率に繋がる。同じ魔法式を使っていても、異なるものが完成するのだ。
「魔法陣が完成したようですね。では、銅を作ってみましょう。どちらからしてみますか?」
アドルフよりも先に挙手する。
「では、ヴァイグブルグ君から」
使う触媒は魔力を多く含む〝マナの樹〟の枝。ひとり一本配布される。それを杖のように持ち、呪文を唱えるのだ。
まずは枝で門の魔法文字を描き、魔法式を展開させる。呪文を口にすると、魔法陣が淡く光った。材料である骸炭と石灰石は赤く染まり、じわじわ溶けていく。
最後に強く発光し、魔法陣全体が見えなくなった。
光が収まると、ボロボロに朽ちた黒い物体が残った。これは、銅には見えない。
「残念ながら失敗ですね。しかしながら、成功へはあと一歩、というところでしょう」
アドルフも挑戦してみるものの、結果は同じだった。
「では次は、ふたりで話し合い、魔法陣を作ってみてください」
ああではない、こうでもないと意見を出し合い、二十分ほどかけて魔法陣を完成させる。
「では、実技に取りかかるのは、どちらにしますか?」
「アドルフのほうがいい」
「そうだな。魔法陣の八割はリオルの魔法式を引用したものだから」
アドルフはマナの枝を握り、呪文を口にした。すると――先ほどとは比べものにならないほど眩く発光する。
光が収まると、つるつると輝く銅ができているではないか。
「すばらしい! 魔法学校の歴史の中で、自力で銅を完成させたのは、君達が初めてです!」
ローター先生は興奮した様子で、私達が作った銅を絶賛する。
褒められて悪い気はしない。私とアドルフは目と目を合わせ、微笑み合ったのだった。
錬金術を完成させ、キャッキャと喜んでいる場合ではない。私はロンリンギア公爵家の降誕祭パーティーに参加するための用意をしなければならないのだ。
幸いにも、アドルフが最先端のドレスを用意してくれた。シルバーグレーの美しい一着だった。それに合わせて、真珠の首飾りや髪飾り、耳飾りなどの|一揃えの宝石(パリュール)を贈ってくれた。当日は母の形見を付けていこうか、などと考えていたので、非常にありがたい。宝飾品も流行があるため、一昔前の物をつけていったら、すぐにバレてしまうのだ。
これだけ高価な品を貰っておいてなんだが、同等のお返しなんてできない。
どうしようかと頭を悩ませたが、何か手作りの品を贈ろうかと閃いた。
気持ちをこれでもかと込めた物は、値段なんて付けられない。その価値を、アドルフならば感じてくれるだろう。
クッキーは定番として、他に何がいいのか。
談話室にいた寮母に、質問を投げかけてみたところ、「降誕祭は絶対にセーターよ!」なんて言っていた。
なんでも降誕祭のシーズンになると、街中で降誕祭限定のセーターが売り出されるらしい。それを着て、家族と休暇をのんびり過ごすのがお約束だと言う。
セーターだったら、手作りできる。大量に毛糸を注文し、侍女に送ってもらった。
アドルフに似合うであろう、アイヴィグリーンの毛糸はイメージ通りだった。これに、竜の意匠でも入れてみよう。
自主学習の時間の合間を縫い、編み図を描いていたのだが、アドルフの体の寸法がいまいちわからない。大きすぎても、小さすぎてもよくないだろう。
リオルの姿であれば、姉の頼みで採寸させてくれと言える。けれども可能であれば、サプライズで贈りたい。
考えた結果、似た体格のクラスメイトに頼みこむことにした。
観察した結果、ランハートとアドルフの背格好はそっくりである。さっそく、交換条件をもとに頼み込んでみた。
「ランハート、頼みがあるんだけれど」
「いいよ」
「用件聞く前に、安請け合いしないほうがいいよ」
「リオルがお願いしてくるの初めてだったから、なんでも叶えたいと思って」
実家から侍女が贈ってきた焼き菓子と引き換えに、採寸をさせてくれと頼み込む。
「姉上がアドルフに似た男子生徒から採寸をしてもらってほしいって頼まれて」
「あー、今のシーズンだとセーター作りかー。くそー、リオルのお姉さんからセーターを受け取れるアドルフが羨ましすぎる」
「はいはい」
婚約者の存在に羨望を抱いているようだが、ランハートが魔法騎士になって社交界に出たら、きっと結婚相手はすぐに見つかるだろう。
そういう気持ちを抱くのも、男子校にいる今だけだ。
「お金出すからさー、俺の分も作ってくれないかなー」
作ってあげたいのは山々だが、試験勉強もあるので一人分が精一杯だ。
結婚してしばらく落ち着いたら、贈ってあげるのもいいかもしれない。
「なあリオル、お姉さん、元気?」
「元気だよ」
むしろ、ここにいる。その目で確認できるだろう。……なんて、言えるわけもないが。
「あー、何かの間違いがあって、婚約破棄されないかなー」
「まだそんなこと言っているの?」
「だって、なかなか衝撃的な出会いだったし。異性と話していて、楽しかった経験なんてなかなかないから」
あの状況が面白くなってしまったのは、本物のリオルの登場とアドルフがやってきたからだろう。私がひとりでいても、ああはならない。
残念ながら、ランハートを常に楽しませるような女ではないのだ。
「それはそうと、リオルって、ちょっとお姉さんの匂いに似ているよね」
「は?」
「前から思っていたんだけれど、女の子の匂いみたい」
何を言っているのだ、と冷静に返したつもりだったが、心臓がバクバク鳴っている。
匂いと言えば、以前アドルフからも似ていると指摘された覚えがあった。
婚約者として会うときは多少の香水と髪や肌に使う香油で匂いが変わる。普段は、香水や香油なんて付けていない。けれども、体臭は誤魔化せないのだ。
「ランハートは香水とか使っている?」
「ちょっとだけね」
こうなったら、男性用の香水を使うしかないのか。
匂いに関連して、バレるわけにはいかない。
「僕も香水を使おうかな。どんなものを使っているの?」
「えー、止めなよ。俺、リオルの匂い、好きだよ」
「匂いが好きとか、気持ち悪いんだけれど」
「酷いなー」
ちょうどポケットに香水を入れていたようで、見せてくれた。
「これ、使いかけだけれどあげようか? 体の匂いが違うから、同じ匂いになることはないと思うんだけれど」
「いいの?」
「うん、いいよ」
「ありがとう」
早速匂いを振りかけてみた。女性用の香水の中には甘すぎてかけただけで気持ち悪くなる匂いもある。ランハートの香水は柑橘系の爽やかな香りなので気にならない。
「ランハート、お礼は何がいい?」
「お姉さんに会わせて」
「それはダメ」
「なんでだよー」
ランハートの前でうっかりぼろを出してしまったら大変だ。なるべく顔を合わせないほうがいい。
それに、婚約者がいるのに、他の男性と会うというのは体面が悪いだろう。
「じゃあ、魔法薬草学のわからないところを教えて」
「それだったらかまわないよ」
「やった」
放課後はランハートと共に、談話室で勉強した。部屋に招いてもよかったのだが、婚約者であるアドルフ以外の男性を入れないほうがいいと、先ほど思い直したのだ。
久しぶりにランハートに勉強を教えたのだが、復習になってよかった。
◇◇◇
編み物をするのは二年ぶりくらいか。以前はよく慈善活動サロンに参加し、養育院の子ども達に向けて手袋や襟巻きを作っていた。
セーターを作るのは、もちろん初めてである。お坊ちゃま育ちのアドルフが着用することを考えると、手なんか抜けない。丁寧に編み、ドラゴンの模様も大胆に入れていく。
試験も絶対に手を抜きたくないので、寝る間を惜しんで励んだ。
その結果、試験は学年首位、セーターも完成する。
私の名前の下にアドルフの名前があっても、以前のように「勝った!」と喜ぶ気持ちはなくなっていた。
毎回、アドルフとは総合点数が一点、二点差だったのだが、今回は三十点も差がある。いったいどうしたのか、と心配になった。
成績が張り出されていても、アドルフは見にきていない。
もしかしたら、降誕祭正餐の実行委員の仕事が忙しさを極め、試験勉強に時間を割けなかった可能性がある。
隣に立つランハートは私を絶賛したものの、「はいはい」と適当に返事をする。
今は成績がどうこうよりも、とにかく休みたい。寮に戻って、夕食の時間までに仮眠を取らなければ。猛烈に眠い。そろそろ限界なのだろう。
寒気と頭痛と胃の痛みが同時に襲ってくる。眠気以外にも、体が悲鳴をあげていた。
無理をしてきたツケが、いっきにやってきたのだろう。体調管理ができないなんて、なんとも情けない話である。
ランハートの話なんてほぼほぼ耳に届いていないのに、続けて話しかけてきた。
「なあ、リオル、二回連続首席じゃないか! お祝いに、売店でなんか奢ってやろうか?」
「……いい」
「なんだよ、ノリが悪い――ってお前、顔色が悪くないか?」
ランハートが顔を覗き込んでくる。熱でも測ろうと思ったのか、額に手を伸ばしてきたので、触れる寸前で振り払う。
「大丈夫だから、気にしないで」
「いやいや、気にするって」
「寮に帰って少し休むから」
「いや、寮じゃなくて、保健室にしろよ。唇とか真っ青だぞ」
誰が出入りするかわからない保健室で休むなんて、ゾッとしてしまう。寮でないと、ゆっくり休めない。
「ランハート、僕に構うな」
「いやいや、そういうわけにもいかないでしょう」
ランハートのこういうお節介なところが苦手だ。冷たくあしらう相手なんて、放っておけばいいのに。
「僕は平気だから――」
そう口にした瞬間、目の前がぐにゃりと歪んだ。
体が傾いたのと同時に、視界に階段が飛び込んできた。
ああ、終わった、なんて思いながら、意識を手放した。
◇◇◇
ゴーン、ゴーン、ゴーンという、夕食の時間が終了する鐘の音で意識がハッと覚醒する。
起き上がろうとしたが、身じろいだだけで頭がずきんと痛んだ。
部屋は真っ暗だが、ここが自分の部屋だというのはかろうじてわかった。
先ほどまで放課後で、成績が首席であることを確認し、そのあと――私はどうしていた?
「夢、だったの?」
「夢なわけあるか!」
すぐ傍で聞こえたランハートの声に、驚いてしまった。部屋にある魔石灯を呪文で発動させる。すると、寝台の傍に椅子を置き、座っているランハートの姿が確認できた。
「ランハート、どうしてここに!?」
「倒れたお前を運んで来たんだよ!」
「あ――そうだったんだ。その、ありがとう」
ゆっくり起き上がろうとしたら、ランハートが背中を支えてくれた。
水差しから水を注ぎ、飲ませてくれる。
ここで、襟が寛がされているのに気付く。矯正用の下着が見えて、ギョッとした。
胸を平らにするものだが、前身頃にあるボタンがすべて外されている。
いったい誰がしたのか。胃の辺りがスーッと冷え込むような、心地悪い感覚に襲われる。
「リオルは保健室に行きたくないみたいだったから、ここに運んで、寮母さんを呼んだ」
寮母は寮生の健康も管理していて、医療資格も持っている。私の様子を見て、睡眠不足が伴った過労だろうと判断したらしい。
「寮母さんが回復魔法をかけたら、顔色はよくなって。あとは目覚めたら水を飲ませるようにって言ってた」
「そう、だったんだ」
「まだ具合が酷く悪いようだったら、医者を呼ぶこともできるけれど」
寮母の言葉は、それだけだったらしい。
「具合はどうだ?」
「だいぶよくなった」
「そう」
再度、ランハートに「ありがとう」と感謝の気持ちを伝える。
「それで、聞きたいことがあるんだけれど」
「な、何?」
心臓がばくんと脈打つ。ランハートはこれまでにないくらい、真剣な眼差しで私を見つめていた。
思わず、寛がされた襟をぎゅっと握りしめてしまう。
「リオル、お前、女だったのか?」
核心を突くような質問に、言葉を失ってしまった。
二年もの間、私が女であるというのは隠し通していたのに。無理が原因でバレてしまうなんて。
ランハートは普段、ちゃらちゃらしていて何も考えていないような素振りを見せる。けれども、瞳の奥は冷静に人を見定めているように思える瞬間があった。
ランハート自身、なんでもかんでも楽しければいい、という印象があるものの、付き合う人間は厳選しているように感じた。
そんな彼の友達でいるのは、私にとって喜ばしいことだったのだ。
けれども今のランハートは、私に冷え切った視線を向けている。
「言っておくけれど、リオルに触れたのは寮母だ。俺じゃないよ」
「そ、そう」
ということは、寮母にも気付かれてしまった、というわけだ。
もう、どうしようもない。
一刻も早く、退学届を提出して、ここを去らなければならないだろう。
私は絞り出すように、ランハートへ謝罪した。
「ランハート、騙していて、ごめん」
「否定しないの?」
「だって、女であるというのは、本当だから」
ランハートは少し傷ついたような表情で見つめていた。私はずっと、彼を騙していたのだ。酷い行為を働いていたのである。
「アドルフは知っているのか?」
「知らない。家族以外、誰も」
空気が重苦しいような、気まずい時間が流れる。
息苦しくて、今にもここから逃げ出してしまいたい。いっそのこと、怒鳴り散らしてくれたほうが楽だった。
こんなときでも、ランハートは冷静だったのだ。
「リオルはどうして、女性の身でありながら、魔法学校に通っていたんだ?」
「それは――」
きっかけは、リオルが魔法学校に行きたくない、という一言だった。
リオルが入学しなければ、次代の子どもは通えない。ヴァイグブルグ伯爵家としても、それは困った事態である。
そこで、私が通うと名乗り出たのだ。ただそれは、大きな理由ではない。
魔法学校に男装までして通っていたのは、結局のところ私の我が儘だったのだ。
「……どうしても、魔法を習いたかったから」
そう。魔法学校に通っていた理由は、結局のところこれに尽きる。
ヴァイグブルグ伯爵家のためだとか、リオルが行きたくないと言ったから、ではなかったのだ。
自分の欲望を叶えるため、私は周囲の人達を騙して暮らしてきた。
ランハートは軽蔑するだろう。
「リオルは、魔法学校に通って、どう思った?」
なぜ、そんな質問をするのかわからない。けれども、正直な気持ちを伝える。
「とても、楽しかった」
貴族女性の集まりのようにふるまいや身なりを気にすることなく、自由気ままな毎日はどうしようもなく楽しかった。
同級生との付き合いは飾りけはないが、整然としていて、居心地はよかったように思える。
何よりも魔法を好きなだけ学べる環境というのは、夢みたいだった。頑張れば頑張るだけ教師に認められ、試験の結果として目に見える成果を得られる。
魔法学校はさまざまな欲求を叶えてくれる場所だったのだ。
「異性の中でやっていくのは、大変だっただろう?」
「それはそうだけれど、子どものときから負けず嫌いな性格だったから」
「負けん気で乗り切っちゃったのか」
「そう」
始めから女である私が魔法学校に通うなんて、無理があったのかもしれない。
今、この瞬間がこの生活を終える潮時なのだろう。
「明日にでも、退学届を提出するから」
「いやいや待って! なんで辞めるの?」
「だって、私は女だし」
「二年間バレずに頑張ったんだから、ここで辞めるのは惜しいって」
私はきっと、ポカンとした表情でランハートを見つめているのだろう。
彼は魔法学校を辞めなくてもいいと言ったのだから。
「どうして? 女である私が、魔法学校に通うなんて、道理に反しているでしょう?」
「それは……確かに、としか言いようはないけど」
ランハートは複雑そうな表情を浮かべつつ、後頭部を掻く。
「そりゃ、異性であることを隠して、友達していましたってわかって、モヤモヤした気持ちはあったけれどさ。俺はずっと、リオルの傍で努力を見続けてきたから」
「努力?」
「そう。毎日毎日勉強して、授業は誰よりも熱心に受けて、下級生の面倒はしっかり見て。さらに、あのアドルフ・フォン・ロンリンギアには毅然とした態度でいて――尊敬でしかなかったよ。そんな毎日なんて、死ぬほど大変だろうなって思っていたのに、楽しかったなんて言われたら、退学すべきだ、なんて言えない」
「ランハート……」
彼は私のことを、ずっと見ていてくれたのだ。胸がじんと震える。
「でも、寮母にもバレてしまったし、ランハートが黙ってくれていても、無理な気がする」
「あー、でも、あの寮母さんなら大丈夫なんじゃないかな。知らないけれど」
寮母は生徒の違反を発見したら魔法学校に報告する義務がある。今頃、校長に報告しているかもしれない。
「気になるんだったら、今から聞きに行く?」
「うん」
「辛かったら、おんぶするけれど」
「いい、もう大丈夫」
「リオルの大丈夫は怪しいんだけれどな」
「本当に大丈夫だから」
「はいはい」
水を飲み、ランハートが剥いてくれたオレンジを二切れ食べた。そのおかげか、頭痛はなくなった。
制服のボタンを閉じ、ガウンをまとって部屋を出る。
寮母はいつも、ジャムやお菓子を作る専用の部屋にいるのだ。
部屋から灯りが漏れていたので、扉を叩く。すぐに扉が開かれ、私の顔を見るなり「あら」と声を上げた。
寮母はランハートを廊下に待たせ、私だけ部屋に招き入れる。
何も言わず、ホットミルクを作ってくれた。
彼女は二十年も寮母を務めていて、さまざまなトラブルを見てきたのだろう。
私が女であるとわかっているのに、どっしりと構えていた。
「お腹は空いていない?」
「はい。でも、ランハートは空いているかもしれません」
「そう。お友達思いなのね」
おそらく、ランハートは夕食を食べずに私のもとにいたに違いない。そう訴えると、軽食を用意してくれるという。それを聞いてホッとした。
寮母は口元に布を当て、三角巾で頭を覆う。
手際よくサンドイッチを作りつつ、話しかけてきた。
「具合はもう平気なの?」
「はい。その、回復魔法をかけてくれたとのことで」
「ええ、お安い御用よ」
目の前にホットミルクが差し出される。
「蜂蜜をたっぷり入れておいたから」
「ありがとう、ございます」
一口飲むと、優しい味わいが広がっていく。ざわざわと落ち着かなかった心が、少しだけ落ち着いたように感じた。
「それで、その――」
「私、何も見ていないわ」
「え!?」
いったいどういう意味なのか。
彼女は私が装着していた矯正用の下着を寛がせてくれていた。胸を見ただろうし、触れたら男でないことは明らかだったはず。
「ここから先は内緒話なんだけれど、実は私も、ここの学校の卒業生なの」
「!?」
それが意味するのは、寮母も男装し、魔法学校に通っていたということである。
「男子生徒の中での共同生活は本当に辛くて辛くて。女だってことがバレたのは、一学年の四旬節期間だったわ。シーツを真っ赤に染めてしまってね、うっかりしていたの」
入学から半年経った二学期に、同室の男子に正体が露見したようだ。
「たくさん血を流していたから、私が死ぬって思ったみたい。泣きだしたから、なだめるのに私は女だから大丈夫って言っちゃったのよね」
女性が毎月血を流すのは、生理現象である。それをざっくり把握しているものの、詳しく知っている男性は案外少ないという。
「その人は、三年間黙っていてくれたわ。まあ、今の夫なんだけれど」
驚いた。私より前に、男装して魔法学校に通っていた女性がいたなんて。
「だからね、私はなーんにも見ていないの。わかった?」
こくりと頷くと、寮母はサンドイッチの入ったバスケットを手渡してくれた。
「あなたも少しでいいから食べなさい」
「ありがとうございます」
寮母は笑顔で、私を送り出してくれた。
ランハートは私の表情を見て、いろいろ察してくれたらしい。
「なあ、大丈夫だっただろう?」
その言葉に、私は呆然としつつも頷いたのだった。
それから部屋に戻り、ランハートと一緒にサンドイッチを食べた。
安心したからか、一切れ食べきることができたのだ。
ランハートはびっくりするくらいいつも通りで、それでいいのかと問い詰めたくなる。
「あの、ランハート。その、この先黙っておくことに関しての、その、対価とか、何か必要?」
「え、なんで?」
「なんでって、秘密を守ってもらうには、見返りがいるでしょう?」
「そんなのいらないって。俺達、友達でしょー?」
それを聞いた途端、涙がポロリと零れてしまった。
「うわ、リオル、なんで泣くの?」
「だって、ランハートが、友達でいてくれるって言うから」
「俺が泣かしたのか! いや、女だろうと男だろうと、リオルはリオルじゃんか」
「うん」
「だから俺達は友達! 変わるわけがないじゃないか」
泣いたらランハートが困るとわかっているのに、涙が止まらなかった。
「っていうか、改めて確認するんだけれど、リオルって、リオルのお姉さん?」
「そうだよ」
「うわー! 俺、リオルのお姉さんに直接結婚したいって言っていたことになるじゃん!」
「そうだよ。もう言わないで」
「絶対に言わない! ごめん!」
恥ずかしくなって顔が熱くなったのか、手のひらであおいでいる。
「そういえば、このこと、アドルフにはずっと内緒にしておくの?」
「無理だと思う。結婚したら、そのうち勘づかれてしまいそうだし」
「そっか」
「卒業したら、打ち明けるつもり」
それでアドルフが婚約破棄すると言っても、私は引き下がらずに受け入れるつもりだ。
これまではこの秘密は墓場まで持って行くつもりだった。けれどもアドルフへの恋心に気付いた今、隠し通すことなんてとてもできない。すでに覚悟は決めていた。
「リオル、一個だけ約束して」
「何?」
「俺がリオルが女性だって知っていたこと、絶対にアドルフに言わないで」
「どうして?」
「嫉妬するに決まっているから!」
「嫉妬? 誰が?」
「アドルフがだよ!」
なぜ、ランハートが私の秘密を知っていたら嫉妬に繋がるのか。よくわからなかったものの、ランハートが必死の形相で訴えるので、頷いておいた。
「リオルってば究極の鈍感だな。アドルフの溺愛に気付いていないなんて……」
「なんか言った?」
「いいや、なんでもない」
十切れ以上あったサンドイッチをぺろりと平らげたランハートは、入っていたバスケットを抱えて立ち上がる。
「よし、もう寝ようかな。リオル、おやすみ」
「おやすみなさい、ランハート」
ランハートは踵を返し、部屋から去っていく。
扉が閉ざされた瞬間、ホッと安堵の息が零れた。
女であることがバレてしまったものの、大丈夫だった。ランハートだったから秘密を守ってくれたのだろう。
それがアドルフだったら――速攻で校長に報告していたに違いない。
せっかく手にした機会だ。無駄にしたくない。
なんとしてでも、魔法学校を卒業するまで女であることを隠し通さなければならない。
体調不良で倒れるなどもってのほかだ。
よく寝てよく食べ、よく学ぶ。そんな目標を掲げ、私は眠りについたのだった。
それからというもの、ランハートは信じがたいほどいつもどおりである。
異性であることがわかったので、距離を取られるかもしれないと考えていたのだが。
ただ、少しだけ変わったことがあった。
「リオル、今日は冷えるから、これでもかけておけよ」
そう言って、どこに持っていたのかわからない肩かけをかけてくれた。
「ランハート、これ、お婆さんとかがよくかけているやつじゃない?」
「そうそう。うちの乳母が趣味が合わないって、突き返されたやつ、実家から持ってきたんだ」
……ランハートは私を、お婆さん扱いするようになった。
お年寄りと同じくらい、気にかけなければならない存在だと認識されてしまったのか。
「リオル、食べ物はよく噛んで、睡眠はしっかり取って、適度な運動をするんだ」
「お年寄り扱いはしないでくれる?」
「廊下で倒れたから、心配しているのに」
それを指摘されると、何も言えなくなる。
私が倒れそうになったのは、階段を下りる前。転がり落ちる寸前で、ランハートが助けてくれたらしい。それに関しては、深く感謝している。
「もうランハートを心配させるようなことは、二度としないから」
「頼むよー」
そんな会話をする私達を、アドルフが見つめていたなど、このときは気付いてもいなかったのだ。
あっという間に降誕祭学期の期末を迎えた。すべての授業が終了し、あとは降誕祭正餐をするばかりである。それが終わったら、二週間の休暇期間だ。
夕方になると燕尾服に着替え、礼拝堂に向かう。ここで、聖歌隊の讃美歌を聴くのだ。毎年、ランハートは眠ってしまうので、注意しておかなければならないだろう。
その前に、中庭にある降誕祭のツリーに、クーゲルと呼ばれる玉飾りを付けにいかなければならない。これは全生徒、毎年降誕祭正餐の前に各自で製作するものだ。
これは降誕祭の賑やかな様子に誘われてやってくる悪魔を祓う意味があるらしい。さらに、ツリーの周辺には蝋燭を灯す。これは幸せを呼ぶ意味がある。
つまり、降誕祭のツリーは悪魔をはね除け、幸せを呼ぶものなのだという。
魔法学校にやってきてから、降誕祭のツリーに関する意味を知った。やたら、シーズンになると街中にあるな、とは思っていたが。
親から子へ、語り継がれるものなのだろう。
父よ、その辺の一般的な知識だけは教えてくれ、と心の中で訴えてしまった。
今年はクーゲルの製作期とチキンの換羽シーズンと重なったので、抜けた羽根を玉飾りに付けてみた。
チキンは『かっこよくなったちゅりね!』と大絶賛だったものの、どこか禍々しい呪いの道具のような仕上がりに思えてならない。
まあ、これを見て悪魔がびっくりするかもしれない。魔除けとしてはありな見た目なのだろう。
中庭へはランハートと一緒に行こうか。約束しているわけではないが、たぶんまだ付けに行っていないだろう。
などと考えているところに、扉が叩かれる。
「誰?」
「俺だ」
アドルフだった。以前、紅茶を振る舞ったとき以来の訪問である。
扉を開くと、燕尾服姿のアドルフが立っていた。
去年と違い、きっちり前髪を上げ、大人の紳士然とした様子でいる。
少年期から彼を見ているが、ここ最近、ぐっと大人っぽくなった。
身長も伸びているようで、今では見上げるくらい差が出ていた。
「アドルフ、どうかしたの?」
「一緒にクーゲルを付けに行こうと思って」
「実行委員の仕事はいいの?」
「もう終わった。あとは下級生がなんとかする」
「そうだったんだ」
アドルフが燕尾服を着ているからだろうか。なんだか落ち着かない気持ちにさせてくれる。
「ランハートも誘っていい?」
「ダメだ」
「え?」
「ふたりで行こう」
そう言って、アドルフは私の手を掴む。ちょうど、蝋燭とクーゲルは手にしていたので、そのまま出ても問題ない。けれども、私の手を握る力が少し強いような気がして、少し戸惑ってしまう。
急ぎ足で廊下を歩いて行く。突然部屋を出たからか、チキンが慌てた様子で部屋から飛んで来た。私の肩に着地すると、羽根で胸を押さえ、ホッとひと息吐いている。
「アドルフ、自分で歩けるから、手を放して」
「こうしていないと、お前はランハート・フォン・レイダーのもとへふらふら行くだろうが」
「ふらふらって、浮気みたいに言わないでよ」
アドルフは立ち止まり、ゆっくり振り返る。眉間に皺を寄せ、目をつり上がらせた世にも恐ろしい表情で私を見下ろす。
「ここ最近、俺が忙しいから、ランハート・フォン・レイダーとの仲を、深めていただろうが!」
「ランハートは元から友達だったし」
ランハートと仲良くしているように見えたのは、例のお婆さん扱いをし始めたからだろう。最近は抗うのを止めて彼の好意を静かに受け入れていたので、余計にそう見えていたのかもしれない。
なんだか、ランハートと私の仲に嫉妬しているように思えるのは気のせいだろうか?
いや、気のせいではないだろう。
「アドルフは休憩時間のたびにいなくなっていたし」
「降誕祭正餐の実行委員の仕事を、隙間時間を利用し、やっていただけだ」
「それで、予習とか復習ができなくて、成績が下がったんだ」
「まあ、それもある」
他の理由は何かと問いかけると、ボソボソと小さな声で話し始めた。
「リオニー嬢が、俺が忙しいだろうからって、手紙を控えるって送ってきたんだ。彼女からの手紙がないと、頑張れない」
まさか、私の手紙がアドルフを奮い立たせる材料になっていたなんて。大した話はしていなかったのだが、アドルフにとって気分転換になっていたのかもしれない。
ここでふと気付く。アドルフは熱心な様子で、グリンゼル地方へ恋文を送っていた。その返信は届かないのだろうか。
「アドルフ、その、グリンゼルの知り合いとは、文通はしていないの?」
「ああ、あの人とは――しない。いや、できない」
どこか吐き捨てるような物言いに、違和感を覚える。
それは愛しい相手に向ける言葉とはとても思えなかったのだ。
ずっとずっと、アドルフが薔薇の花束と恋文を送っているのは、愛しい女性だと決めつけていた。けれども、もしかしたら違ったのだろうか? なんて考えていたらアドルフから鋭い指摘が入る。
「リオル、グリンゼルにいる知り合いについて、リオニー嬢から話を聞いていたのか?」
「あ! そう。姉上は、その、お喋りで。ごめん」
しまった。この情報は婚約者でいるときに聞いた話だった。
リオルのときでも以前より打ち解け、話すようになったため、どちらの状態で話を聞いたのか、すっかり失念していた。気を付けなければならない。
ひとまず、アドルフの荒ぶった感情を鎮めるのが先だろう。
おそらく、アドルフは私とランハートの親密な関係に、嫉妬している。
ここで、ハッと気付いた。以前、アドルフは好敵手だった私と親友になりたいと話していたのだ。
さっそく、打ち明けてみる。
「なんていうかさ、ランハートは友達なんだけれど、アドルフは親友って感じなんだよね」
「親友? ランハート・フォン・レイダーはただの友達で、俺は親友なのか?」
「そう!」
すると、みるみるうちに眉間の皺が伸びていく。つり上がった目も、僅かに下がった。
頬を淡く染め、口元を手で覆っていた。おそらく、嬉しくて微笑んでいるのだろう。
どうやら、不機嫌は治ったらしい。作戦は大成功だった。
「アドルフ、クーゲルを飾りに行こうか」
「ランハート・フォン・レイダーを誘わなくてもいいのか?」
「アドルフがいればいいよ」
そう答えると、アドルフは満面の笑みを浮かべる。
見た目は大人っぽくなった彼だが、中身は以前のままだ。そのおかげで、緊張が解けたように思える。
アドルフと共に、降誕祭のツリーにクーゲルを飾りに行ったのだった。
中庭にはすでに、多くの生徒達が行き交い、クーゲルをもみの木に飾り、蝋燭に火を点けて立てていた。私達も手早く行う。
「リオル、知っているか? この降誕祭のツリーに願いをかけると、いつか叶うと言われているんだ」
「へえ、そうなんだ」
そういう話はまったく把握していなかった。そういえば、よくよく周囲を見てみると、手と手を合わせて何やらお祈りしている生徒が数名いた。
「アドルフ、僕達も何かお願いをしてみようよ」
「ああ、そうだな」
それから、しばし祈りの時間となる。私は〝これからもアドルフが笑顔で楽しく暮らせますように〟と願った。目を開けると、アドルフは何やら熱心に祈っている。私の倍以上、願い事をしているのではないか。
その様子を眺めていたら、瞼を開いたアドルフと目が合ってしまった。
「な、なんで俺を見ていたんだ!?」
「願い事が長いと思って」
「長くない!」
頬を真っ赤に染め、必死の形相で言葉を返す。
もしかしたら、想い人について何か願っていたのかもしれない。そういうふうに考えると、胸が苦しくなる。油が切れたゼンマイ仕掛けの玩具みたいに、心がキーキーと悲鳴をあげているような気がした。
「お前とリオニー嬢が健やかに暮らせますように、と願っていた。ふたり分だから、時間がかかっただけだ!」
「僕と……姉上について願ってくれたの?」
「そうだと言っているだろうが」
「アドルフ、ありがとう」
「素直に感謝するな。恥ずかしくなるだろうが」
アドルフは耳まで真っ赤にさせつつ、そっぽを向く。
奇しくも、私達は互いを思って願っていたようだ。
アドルフの願いはどうせ想い人についてだろう、と勝手に決めつけていた自分が恥ずかしい。
「リオル、お前は何を願ったんだ?」
「秘密」
「は!? 俺だけ言うのは公平ではない気がするのだが」
「願いは僕が聞き出したわけじゃないのに、アドルフが言い出したんじゃないか」
「それはそうだが……わかった。どうせ、卒業するまで、試験で俺に勝てますように、とか願ったんだろう?」
「それは自分で叶えるつもりだから」
「お前は、なんて自信家なんだ!」
アドルフの追及から逃れるため、走って礼拝堂を目指す。アドルフよりも背が低くて体が小さいので、小回りを活かして生徒を避けつつ、彼との距離を稼いだ。
結果、私は逃げ切り、静かにしていないといけない礼拝堂まで辿り着いたのだった。
アドルフは私の隣に座り、そのまま讃美歌に耳を傾ける。どうやら、私を逃がすつもりはないらしい。
終演後、祝福の蝋燭とシュトレンが配布される。
その後、願い事について追及を受けるのかと思いきや、アドルフは「寮に戻るぞ」と言うばかり。
礼拝堂を出てきた瞬間、アドルフは取り巻き達に囲まれる。
「あの、アドルフ、正餐会は一緒だよな?」
「いや、お前達は好き好きに参加するといい。俺はリオルと一緒にいるから」
毎年、彼は取り巻きに囲まれて正餐会に参加していたが、今年は誘いを断るようだ。というか、勝手に私と参加することに決定していた。
何か言いたげな取り巻き達を無視し、アドルフは踵を返す。
その瞬間、私は取り巻き達にジロリと睨まれていた。
アドルフと行動を共にする私が憎たらしいのだろう。
「リオル、来い!」
そう声がかかるや否や、取り巻き達は憎しみがこもった視線を泳がせる。なんともわかりやすい奴らだ。
長いものに巻かれるタイプである私は、アドルフのあとに続いた。
食堂には降誕祭のごちそうがすでに用意されていた。
定番である七面鳥の丸焼きに、ジャガイモや芽キャベツのオーブン焼き、鮭や海老のカナッペ、キノコのミルクスープなど、このシーズンにしか食べられない料理が並んでいた。
アドルフがどこに座ろうかと悩んでいる間に、ランハートがやってくる。
「リオル! お前、どこにいたんだよ。俺、讃美歌の途中で眠っちゃって、先生に注意されたんだぞ」
その言葉を聞いたアドルフはランハートを振り返り、一言物申す。
「讃美歌の最中に眠る奴が悪い」
「あ、アドルフ。そこにいたんだ」
「悪いか?」
「いや、悪くないけれど」
なんというか、タイミングが完全に悪かったようだ。取り巻き達に絡まれたアドルフは、少しご機嫌斜めなのかもしれない。
「リオル、あっちで食べようぜ。みんな待っているから」
「ランハート・フォン・レイダー、残念ながら、リオルは俺と先約済みだ」
「へ、そうなの!?」
ランハートは驚いた表情で私を見つめる。約束した記憶はないが、いつの間にかそういう流れになっていたのだ。
降誕祭の正餐会は毎年ランハートと一緒だった。最後の最後で、アドルフと過ごすことになるとは、夢にも思っていなかったのである。
「えーっと、ランハート、そういうことだから」
「今年もリオルに芽キャベツを食べてもらおうと思っていたのに」
ランハートは芽キャベツが苦手で、私は大好物だった。そのため、毎年分けてもらっていたのだが。今年は頑張ってランハート自身が食べるしかないようだ。
アドルフは「好き嫌いをするな。食材のすべてに感謝しろ」とまっとうな一言でランハートを黙らせ、私を席に誘う。
そんな感じで、正餐会が始まったのだった。
今年も、魔法学校の正餐会の料理は絶品だった。前菜を食べている間に、料理人が丁寧に七面鳥を切り分けてくれるのだが、ナイフを入れただけで脂がジュワッと滴ってくる。
肉には特製のグレイビーソースがたっぷりかけられ、付け合わせのジャガイモと芽キャベツが添えられる。
芽キャベツにグレイビーソースをかけたものが最高においしいのだ。
食後のデザートはプティングである。
ドライフルーツとオートミールが入った濃厚なケーキで、非常に食べ応えがあるひと品だ。お腹いっぱいなのに、プティングは不思議と平らげてしまうのである。
正餐会が終わると、談話室にケーキやクッキー、ジュースなどが用意され、皆で盛り上がることが許されていた。消灯時間も、普段より二時間遅くなっている。
「リオル、今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかった」
「こちらこそ」
まさか、殊勝な態度でお礼を言われるとは、夢にも思っていなかった。
「ランハートの誘いを断ってしまって、悪かったな」
「いや、いいよ。二年間、ランハートとは一緒だったし」
アドルフはこれから実家に帰るという。
正餐会が終わった瞬間から、帰宅が許可されているのだ。
「お前は友達と談話室で楽しんでくるといい」
「うん、ありがとう」
アドルフと別れ、私は談話室にいたランハートと落ち合う。
「リオル、よかった! アドルフから解放してもらったんだ」
「まあね」
ランハートはぐっと接近し、私にしか聞こえないような声で問いかけてくる。
「あいつ、お前の正体がわかっていて、あんなふうに牽制してきたわけじゃないよな?」
「たぶん」
アドルフは婚約者である私には勝手に触れないし、乱暴な物言いはしない。あれはリオルだと思っている私にのみ見せる態度だ。
「俺にリオルを取られたくないから、あんなことをしてきたんだな」
「ランハート、ごめん」
「いや、いいよ。俺もリオルに甘えすぎていたところがあったし」
ランハートは急に真顔になって、問いかけてくる。
「ああいうふうに、アドルフから付きまとわれるの、嫌じゃない?」
「いや、別に。平気だよ」
「だったらよかった」
私が嫌だと言ったら、今後は助ける決意を固めていたらしい。ロンリンギア公爵家の嫡男に刃向かえる覚悟があるなんて勇敢だ。
「ランハート、ありがとう。僕は大丈夫だから」
「お前の大丈夫は信用できないんだよなー」
「信じてよ」
ランハートはにかっと微笑み、お菓子が並べられたテーブルのほうへ行ってしまった。
「リオルも来いよ。菓子、すぐになくなるから」
テーブルには降誕祭の日に食べられるお菓子が山のように盛り付けられていた。これが二時間でなくなってしまうので、男子生徒の食欲は侮れない。
ドライフルーツがたっぷり詰まったミンスパイに、生姜を利かせたジンジャークッキー、バターケーキにキャラメルパイなどなど、胃もたれしそうなほど甘いお菓子の数々である。カップケーキには赤や緑、黄色などの派手な色合いのクリームが絞られていた。
炭酸入りのジュースも、普段は売店に売っていないので、皆嬉しそうに飲んでいる。
私はランハートが持ってきてくれたミンスパイを囓った。魔法学校の寮母特製のミンスパイは、ナッツが入っていて、食感がザクザクでおいしい。
魔法学校の最後の降誕祭を、私はしっかり堪能したのだった。
今年も勉強道具を抱えて実家に戻る。
降誕祭のシーズンだというのに、我が家にはツリーすらない。
ツリーの下に蝋燭を立てるのは礼拝堂にある物のみで、一般的な家庭では贈り物を並べるらしい。それは降誕祭の当日に開封するのだとか。
侍女に家族の近況を聞くと、父は泊まり込みで仕事、リオルは十日間ほど地下に引きこもり、お風呂にも入らずに研究に打ち込んでいるらしい。
「リオニーお嬢様、ご様子を見に行かれますか?」
「十日間もお風呂に入っていないリオルになんて、ぜったいに会いたくありませんわ!」
侍女は苦笑いを返す。
リオルは幼少期から、お風呂が大嫌いだった。何度入れと訴えても、聞く耳は持たないのである。三日に一度入ればいいほうで、今はもう諦めている。
一年前に浄化魔法という、体中の汚れを除去する魔法を編み出し、リオルは毎日、自分にかけるようになった。そのため、見た目はかなりマシになっているものの、魔法を頼らずにお風呂にゆっくり入ってほしいというのが本音であった。
魔法学校にも、リオル同様にお風呂嫌いの生徒はいた。しかも、ひとりやふたりではないのだ。
さすがに集団生活をするなかで、三日、四日とお風呂に入らない生活は許されない。そういう生徒は寮母に捕まり、強制的に入浴させられるのである。さらに、厳しい罰則(ペナルティー)が言い渡されるのだ。
お風呂に入らないというのは、魔法学校では大罪なのである。
うちの寮では、アドルフが特に厳しかった。少し汗臭いだけで、身なりをきちんと整えるように、と注意を受けるのだ。香水で誤魔化してもバレるようで、皆、毎日お風呂に入らざるをえなかった、というわけである。
アドルフは几帳面過ぎるところがあるものの、入浴に関する考えだけは同意でしかなかった。
「リオニーお嬢様、婚約者であるロンリンギア公爵家のアドルフ様から、お手紙が届いております」
「ええ、そう」
先に実家に戻っていたアドルフは、その日の晩に私へ手紙を書いてくれたようだ。降誕祭パーティーに参加するという手紙を送っていたので、それの返信だろう。
部屋で開封し、手紙を読む。内容はもっとも忙しいシーズンが終わったという報告と、降誕祭パーティーを楽しみにしている、というものだった。
手紙と一緒に降誕祭パーティーの招待状が入っていた。二つ折りになっていたカードを開くと、魔法陣が浮かび上がる。その後、小さな流れ星が現れ、星の絵がキラキラと瞬いた。
一瞬であったが、これは叔母が作った輝跡の魔法だろう。こういうふうに招待状に使うなんて、斬新すぎるアイデアだ。これはロンリンギア公爵家が送る招待状の仕様なのだろうか。すばらしいとしか言いようがない。
なんだか降誕祭パーティーが楽しみになってしまった。
◇◇◇
ロンリンギア公爵家で行われる、降誕祭パーティー当日を迎えた。
相変わらず、家族は私に興味がないようで、帰宅してから一度も会っていない。これが通常のヴァイグブルグ伯爵家の様子である。慣れっこだった。
アドルフが用意してくれたドレスはすばらしいもので、最先端の流行を取り入れた一着だと侍女が絶賛していた。
真珠を使った宝飾品の数々もすばらしい品で、私の肌の色と相性がいいように思える。
「リオニーお嬢様、大変お美しいです」
「そう? ありがとう」
このところずっとズボンを穿いていたので、ドレスは落ち着かない気分にさせてくれる。これが本来の私なのだ、と何度も自らに言い聞かせた。
チキンは当然留守番である。いつも置いていくと言うと不満を訴えるので、今日は違う手段にでてみた。
「チキン、今日はわたくしの部屋の警備隊長に任命します」
『任せるちゅり!』
少し出かけると言うと、チキンは翼で敬礼しつつ見送ってくれた。
なんと言うか、素直な使い魔である。
時間になると、ロンリンギア公爵家から馬車の迎えがやってきた。実家の馬車とは異なる、六頭の馬が引く贅沢な車体に気後れしてしまう。
魔法学校を卒業後、私はアドルフと結婚するのだ。馬車程度で心を怯ませている場合ではない。
片手に手作りのセーターが入った包みを抱き、もう片方の手はドレスの裾を摘まんで、馬車へ乗りこんだ。
馬車は石畳をスムーズに走っていく。実家の馬車のように車体がきしんだり、ガタゴトとうるさく音を鳴らしたりすることはない。内装もベルベット仕立てで品がよく、座席に座ってもお尻が痛くならなかった。本当に素晴らしい馬車である。
この馬車ならば、乗り物酔いなんてしないだろう。
十五分ほどで、ロンリンギア公爵家に辿り着いた。街屋敷であるというのに、立派な佇まいである。
改めて、アドルフはやんごとない一族の嫡男なのだな、と思ってしまった。
こちらが名乗らずとも丁重なもてなしを受け、侍女のひとりが貴賓室(ステイト・ルーム)に案内してくれた。
手にしていた贈り物は、アドルフの部屋へ届けてくれるらしい。先に預けておく。
一歩、一歩と廊下を進むにつれて、この場にふさわしくないのでは、とヒシヒシ感じる。慣れたらそうでもないのだろうか?
否、実家とは規模がまるで違う屋敷に、慣れるわけがない。
貴賓室にはすでに、複数のご令嬢やご婦人が待機していた。
全員、アドルフの親戚だろう。顔見知りのご令嬢がいるわけがない。
注目を浴び、針のむしろに座るような居心地の悪さを覚えてしまった。
こういう場では堂々としていなければ、周囲の者達から軽んじられる。それが、アドルフの立場を危うくすることにも繋がるのだ。
おじけづいてはいけない。そう言い聞かせ、キッと前を見る。
こういう注目を浴びる場は、これまで何度か経験した。一年に一度ある、学習の成果を発表する会に比べたら、なんてことはない。あちらは、全校生徒と教師陣から見られるのだ。
女性陣は十人いるくらいだろう。ぜんぜん怖くない。
ドレスの裾を摘まんで会釈し、挨拶をした。
「みなさま、ごきげんよう。わたくしはアドルフ・フォン・ロンリンギアの婚約者である、リオニー・フォン・ヴァイグブルグですわ」
にっこりと微笑みかけると、こちらを睨むように見つめていたご令嬢が、少したじろいでいるのがわかった。
なんとか先制攻撃をできたのか? しかしながら、この場に私の居場所はないように思える。それでも、なんとか馴染んでいくしかない。
これが、私が選んだ道なのだから。
色とりどりのドレスをまとった女性陣が私の一挙手一投足を、固唾を呑んで見ていた。
敵対心を含んだ視線が、これでもかと全身に突き刺さっている。
次期当主であるアドルフの妻となる者が、どんな女性か探っているのだろう。
女性陣からの態度は、最悪の事態を想定していた。喧嘩をふっかけられ、頬を叩かれるかもしれない――なんて展開までも想像していた。
今のところ、直接攻撃にやってくる様子は感じられない。
ロンリンギア公爵家の女性陣は、攻撃的というよりも保守的なのだろう。
ただ、弱みなんて絶対に見せてはいけない。強くいる必要がある。
私から目をそらしているご令嬢を発見し、隣まで移動する。なるべく優しい声で話しかけた。
「あの、ここに座ってもよろしいかしら?」
ご令嬢は私のほうを見上げ、世にも恐ろしいものを見た、という視線を向けている。
自分が話しかけられるとは、思ってもいなかったのだろう。
微かに震えている様子を見せているので、若干可哀想になってしまった。
斜め前に腰かける、年配の女性が物申す。
「ヴァイグブルグ嬢、申し訳ありません。そこに座る者は、すでに決まっておりまして」
「まあ、そうでしたの」
年配の女性は「格下の家の娘が、調子に乗るな」と言わんばかりの視線を向けていた。
アドルフの取り巻き達の妬みがこもった視線に比べたら、可愛いものだと思うようにする。
「どこか、空いている席はありませんの?」
シーンと静まり返る。なんとも気まずい雰囲気が流れていた。
ここで貴賓室を去り、アドルフに泣きついたら、私は永遠に彼女達から軽んじられるのだろう。
結果はありありとわかっていた。負けるわけにはいかない、と気合いを入れる。
私はひとりひとり女性陣を確認し、もっとも敵対するような目で見つめていたご令嬢のところへやってきた。
赤毛に青い瞳の、十七歳か十八歳くらいのご令嬢である。ルビーレッドの美しいドレスを纏っていて、年若い女性陣のリーダー格、といった空気を放っていた。
「こちら、空いているようですので、失礼いたします」
勝手に座るとは思っていなかったのか、ギョッとした表情で私を見つめていた。
「あなた、お名前を聞かせていただける?」
会話の主導権なんて渡さない。すぐさま話しかけた。
私はアドルフの婚約者である。立場上、私を恐れていなければ、彼女は無視なんかできないはずだ。
「私は、カーリン・フォン・グライナー」
グライナー侯爵家のご令嬢のようだ。たしか、現公爵であるアドルフの父親の妹が、嫁いだという記録が貴族名鑑に書いてあった。カーリンはアドルフの従妹なのだろう。
「カーリン様のドレス、とってもすてきですわ」
「ええ、ありがとう」
キラリ、と瞳が意地悪な感じに輝いたのを見逃さない。きっとこれから何か物申すのだろう、と覚悟を決める。
「リオニー様のドレスは、埃色みたいで、いろいろ斬新ですわね」
くすくす、と周囲から控えめな笑い声が聞こえた。年若いご令嬢だけでなく、壮年の女性陣も嘲り笑っている。
困った人達だ、と思いながら言葉を返した。
「まあ、こちらは埃色、と表すのですね。実は、このドレスはアドルフ様から頂いた物なのですが、カーリン様が埃色と申していたと、お伝えしておきます」
「なっ!?」
カーリンの顔色が、みるみるうちに青ざめていく。彼女だけでない。周囲の女性陣も、咳払いをしたり、顔を逸らしたりと、様子がおかしくなっていった。
ここでアドルフの名前は出したくなかったのだが、彼が贈った品をけなしたのだから仕方がない。
ついでに、言い伝えておく。
「わたくしは世間知らずで、取るに足らない部分があるかもしれません。しかしながら、わたくしは未来の公爵夫人となる者。その名誉を傷付けようとすることすなわち、夫である者を軽んじるということになります。そのことを、ゆめゆめ忘れないでいただくよう、お願いいたします」
カーリンは涙目になりながら、何度もこくこくと頷いた。
彼女のように、真正面から嫌味を言う人間は、まだマシなのだ。
中には、自分の手を汚さずに、害する者だっている。常に警戒するに越したことはない。
しかしながら、お嬢様育ちの彼女らにできる嫌がらせなんてたかが知れている。
何かやらかしたとしたら、悪事を企む黒幕が絡んでいるときだろう。
ふう、と溜め息をついた瞬間、貴賓室の扉が勢いよく開かれる。やってきたのはアドルフだった。
「リオニー嬢!!」
私を発見するや否や、アドルフは急いで駆けてきた。私の前に片膝を突くと、小さな声で「よかった」と呟く。
「リオニー嬢がやってきたら、俺の部屋に呼ぶように従僕に頼んでいたのに、すでに侍女が案内したあとだって言うものだから」
「まあ、そうでしたのね」
従僕の不手際のおかげで、鮮烈なロンリンギア公爵家の親戚デビューを飾ることができた。これだけ力を示しておいたら、彼女らもこれ以上の悪さはしないだろう。
「酷いことを言われていないか?」
その一言に、場の空気が一気に凍り付く。
ここで私が告げ口したら、彼女達は一巻の終わりだろう。
しかしながら、ここで女性陣の過失を暴露するのは惜しい。
「いいえ、みなさん、とても親切でしたわ。特にこのカーリン様は、アドルフ様が贈ってくださったドレスを、褒めてくださいました」
「ああ、そうだったか。ドレス、似合っていてよかった」
「ありがとうございます」
アドルフは貴賓室の冷え切った空気には気付いていない。ホッと胸をなで下ろす。
「俺の部屋でゆっくり過ごそう。ここ最近、紅茶を淹れる方法を学んだんだ。ぜひとも飲んでほしい」
あの、私がさんざん実験台として飲まされた紅茶である。どうやらおいしく淹れることに成功したらしい。
アドルフが格下の家の小娘に紅茶を淹れるという話を聞いて、女性陣は信じがたい、という視線を向けていた。
アドルフは周囲の目なんて、気にしていないようだった。
「さあ、行こうか」
「はい」
アドルフにエスコートされ、貴賓室を去る。これは勝ち逃げ、ということでいいのだろうか。
絶妙なタイミングでやってきたアドルフに、心の中で感謝した。
アドルフは私の肩を抱き、廊下を歩いて行く。
すれ違う者達は、壁際に避けて深々と頭を下げた。それは使用人だけでなく、親族の人達も同様に。
彼が未来のロンリンギア公爵であるのだと、まざまざと見せつけられる。
アドルフに舞台を観たくないと駄々を捏ねたり、下町に連れて行って遊んだり、今まで呼び捨てにしたりと、恐ろしいことをしていたのだな、と戦々恐々となる。
アドルフの部屋に辿り着くと、あとを続いていた従僕には下がるようにと命じていた。
「あの、アドルフ様、お茶はいかがなさいますか?」
「俺が用意するからいい。とにかく、リオニー嬢とふたりきりにさせてくれ」
アドルフが紅茶を淹れると聞いた従僕は、目が飛び出そうなくらい驚いていた。
「では、茶菓子は?」
「昨日、菓子店(パティスリー)〝リスリス・メル〟で、森林檎のパイを買ってきている」
「〝リスリス・メル〟の森林檎のパイって、三時間並ばないと入手できない、アレですか?」
「そうだが?」
事情を把握した従僕は、一礼して下がっていった。
扉が閉ざされると、アドルフは私を長椅子のほうへ誘ってくれる。
アドルフの私室は赤銅色(カッパーレッド)を基調にした、品のある落ちついた雰囲気だ。壁に埋め込まれた形の本棚には魔法書がぎっしり収められていて、くすんだ金細工で縁取られた暖炉装飾(マントルピース)はとても豪奢(ごうしゃ)である。大理石の床には、繊細な模様の絨毯が敷かれていた。
部屋の中心にローテーブルと長椅子が置かれ、寛げるようにクッションがいくつも置かれている。
「リオニー嬢、楽にしてくれ」
「ありがとうございます」
アドルフの部屋で寛ぐ前に、彼にあることを懇願する。
「あの、アドルフ、ひとつだけお願いがあるのですが」
「なんだ?」
「わたくしのことは、リオニーと呼び捨てにしてくださいませ」
これまでは、アドルフへの対抗心からリオニー嬢と呼ばせておこう、と考えていた。
しかし今は、リオルのときのように、呼び捨てにしてほしいと思ってしまう。
それに私だけアドルフと呼び捨てにしているのをロンリンギア公爵家の人々が知ったら、よく思わないだろう。
「リオニー嬢、と呼ばなくてもいいのか?」
「ええ。家族になるんですもの。ずっと、わたくしをリオニー嬢と呼ぶわけにもいかないでしょう?」
「言われてみればそうだな」
「では、決定ですね」
「う、うむ」
一度呼んでみてください、とお願いしてみたものの、アドルフは顎に手を添えたまま銅像のように固まってしまった。
「アドルフ、どうかしたのですか?」
「な、なんでもない。その……リオニー」
初めてアドルフからリオニーと呼ばれ、なんともくすぐったい気持ちになる。アドルフも慣れていないからか、少し照れているように思えた。
「それはそうと、俺が淹れた紅茶を飲んでくれ」
「ええ、ありがとうございます」
あれからどれだけ上達したのだろうか。訓練に付き合った身からしても、非常に気になるところである。
最後にやった練習のときはおぼつかない様子だったが。
アドルフは用意していた茶器で、紅茶を淹れる。その手つきは、熟達した執事や侍女のようにスムーズだ。あっという間に、紅茶を淹れてくれた。
「さあ、飲んでみてくれ」
「いただきます」
黄金色に輝く紅茶を、一口飲んでみた。
ほどよい渋みと春風のような爽やかな風味が、口いっぱいに広がっていく。ほんのりと甘みも感じて、口当たりはまろやかだった。
「とてもおいしいです。驚きました」
紅茶を淹れる才能があると絶賛すると、アドルフは嬉しそうに微笑む。
ここまで上達するには、かなり努力したのだろう。それも含めての賞賛であった。
「リオルが淹れ方を教えてくれたんだ。彼は俺よりも上手い」
「そうでしたのね」
|リオル(わたし)のほうが上手いだなんて、とんでもない謙遜である。紅茶を淹れる腕は、確実にアドルフのほうが上だろう。
「カップも、とても洗練されていて、すてきです」
手書きの可憐なリンドウ模様に、金の七宝(ジュール)が大変美しい。カップの|持ち手(ハンドル)は弓のように優美なラインを描いていて、持ち上げやすい。
「そうか。選んだかいがあった」
てっきり執事が選んだ物かと思っていたが、アドルフのチョイスだったようだ。
「これから先、紅茶が飲みたくなったら、俺が淹れてやる。だが、淹れるのはリオニーだけだ」
「わたくし、だけ?」
「ああ」
「他に親しい御方は?」
「あー、リオルにはもしかしたら、淹れるかもしれない。それ以外は、絶対に淹れてやらない」
リオルというのは、私のことである。つまり、世界でただひとり、アドルフが淹れた紅茶を独占できるというわけだ。
薔薇の花束と恋文を贈っている相手には紅茶を淹れないのか。
もしかしたら、紅茶すら飲めないくらい容態がよくないのかもしれない。
それを思うと、胸がツキンと痛む。
こうしてアドルフと楽しく過ごす時間にすら、罪悪感を覚えてしまった。
「このアップルパイは、噂によるととんでもなくおいしいらしい。リオニーのために並んで買ってきた」
「もしや、三時間もかけて?」
「ああ。参考書を持って行ったから、思いのほかすぐだった」
この寒空の下、三時間も立ったまま並ぶなんて大変だっただろう。
アドルフはどうしてここまでよくしてくれるのか。
その行動の数々が、他に想い人がいるという罪悪感から行っているようには思えない。
もしや、他に愛する女性(ひと)なんておらず、私だけを大切にしてくれるのではないか、と錯覚してしまう。
けれども、そんなわけはない。アドルフはグリンゼル地方で、想い人に会いに行っていたのだから。
それについて考えると、胸が苦しくなる。なるべく考えないようにしたほうがいいだろう。
私はアドルフ・フォン・ロンリンギアの婚約者だ。
それ以上でもそれ以下でもない。彼の恥にならないよう、凜と務めないといけない。
アドルフの愛する人の存在に心を痛めている場合ではないのだ。
顔を上げると、アドルフが買ってきたアップルパイが目に飛び込む。
「では、アップルパイはわたくしが切り分けます」
「いや、ナイフを握るのは危ないから、俺がやる」
過保護ではないのか、と思いつつも、彼に任せることにした。
なんでも、パイを切り分けるのは生まれて初めてらしい。
アドルフは慣れない手つきで、アップルパイを切り分ける。力加減をしたからか、サクサクのパイ生地が崩れ、ボロボロになっていた。
「すまない。あまり力を込めると、崩壊してしまいそうだったから」
「わかります」
加減をしたら、逆にパイ生地が崩れてしまう。そのため、思い切ってざっくり切り分けるのがパイを切るためのポイントだろう。
私も慈善活動で養育院に行かなければ知らなかった情報である。
「もう一度、切り分けてみよう」
「いいえ、こちらをいただきます。どんな見た目でも、味は変わりませんから」
「それもそうだな」
アドルフと囲んだアップルパイは、とてつもなくおいしかった。
アドルフのもてなしがある程度終わったのを見計らい、彼に贈ったセーターについて尋ねてみた。
「あの、そういえば、贈り物は届いておりますでしょうか?」
手元に届いていたら、何かしらの反応があったはずだ。何も言わないということは、まだ届いていないのかもしれない。
もしかしたら贈り物はロンリンギア公爵家のツリーの下に集められている可能性もあった。しかしながら、侍女にはアドルフの部屋に届けるように言っていたのだが。
「贈り物? 届いていないが、リオニーは俺に何か用意していたのか?」
「ええ、手作りのセーターを」
期待させてはいけないので、中身について自己申告しておく。すると、アドルフはすっと立ち上がり、隣の部屋へ向かった。
「リオニー、贈り物を確認する。来てくれ」
「え、ええ」
未来のロンリンギア公爵には、私以外の贈り物も届いているようだ。それらは寝室に運び込まれているらしい。
彼の私的空間に足を踏み入れるのはよくないと思いつつも、量が量だ。私がこの目で確認する必要がある。
寝室には大量の贈り物が無造作に置かれていた。それらは、寝台の上にまでどっかりと鎮座している。
「どういった包みだった?」
「銀の包み紙に、赤いリボンが結ばれた箱です」
「似たような物ばかりだな」
「見たらわかります」
同じような包みはいくつかあったものの、どれも私が贈った包みではなかった。
「どの侍女へ託した? 特徴を覚えているか?」
「背はわたくしよりも低くて、銀縁の眼鏡をかけた侍女です」
「わかった。執事に報告しよう」
すぐに執事が呼ばれ、私を貴賓室まで案内した侍女がやってくる。
「わ、私はすぐに、近くにいた従僕へアドルフ様の部屋に運ぶよう、頼んでおきました」
なんでも、アドルフの私室には男性使用人以外近づけないようになっているらしい。そのため、侍女は従僕に頼んだようだ。
「その従僕を呼んできなさい、今すぐに」
「は、はい!!」
執事に命じられ、侍女は回れ右をして駆けて行く。
「アドルフ様、リオニー様、この度は使用人の不手際があり、大変失礼いたしました」
「もしも見つからなかったら、侍女は速攻で解雇する! 従僕は解雇だ!」
そこまでしなくても、と思ったものの、ロンリンギア公爵家の屋敷内は厳しい環境にあるのかもしれない。
部外者である私が口出しする権利なんてないのだ。
問題の従僕は、屈強な使用人二名に左右の腕を取られる形でやってきた。おそらく、逃げようとしていたのだろう。
足をじたばたと動かしている。逃亡を諦めていないのか。
アドルフが彼の前に立つと、明らかに顔色を青くさせていた。
「預かった銀色の包みを、どこにやった?」
「し、知りません!」
「知らないわけがないだろうが!」
アドルフが凄み顔で言ったので、従僕は涙目になる。
「つべこべ言わずに、正直に打ち明けろ!」
あまりの迫力に耐えきれなくなったからか、従僕は真実を口にした。
「あの、朝から似たような贈り物が大量に届くので、ひとつくらいなくなってもバレないと思い――通いのメイドに渡しました」
「なんだと!?」
なんでも横恋慕していたメイドに、私が作ったセーターを贈ったのだという。
「そのメイドの名前は?」
「メータ・クルトンです」
「今、そのメータ・クルトンとやらはどこにいる!?」
「階下の、厨房です」
「――っ!」
アドルフは部屋を飛び出していく。そんな彼を、私は追いかけていった。
普通の貴族令嬢であれば、ここで距離を離されてしまうだろう。私は魔法学校で男子生徒として過ごしてきた。移動の速さには自信がある。
アドルフは初めこそ急ぎ足だったが、途中から走り始めた。私もドレスの裾を掴んであとに続く。
あっという間に一階にある厨房へと辿り着いた。
きっと厨房内はこれから行われる降誕祭のパーティーの準備で大忙しだろう。
アドルフはずんずんと厨房内へ入り、よく通る声で叫ぶ。
「メータ・クルトンはどこにいる!?」
厨房で働く料理人やキッチンメイド達は、キョトンとしていた。おそらくアドルフの顔を知らないのだろう。
しかしながら、料理長の叫びによって状況は一転する。
「アドルフお坊ちゃん!?」
それを聞いた者達は皆、恐れおののき、壁際へと移動して頭を下げる。
「もう一度言う。メータ・クルトンはどこの誰だ?」
「あ、あたしです!!」
十六歳くらいの、栗毛に黒い瞳を持つキッチンメイドが挙手する。
アドルフは険しい表情で接近し、低い声で問いかけた。
「従僕から、銀色の包みに赤いリボンが結ばれた贈り物を受け取ったか?」
「は、はい。貰いました」
「それは今、どこにある?」
「な、なぜですか?」
メータが問いかけた瞬間、料理長の「いいから答えるんだ!!」という怒号が響き渡る。
「あの、その、あまりにも野暮ったくてあか抜けないセーターだったので、捨てました」
「なんだと!?」
アドルフの迫力が恐ろしかったからか、メータは涙目になっていた。すぐさまアドルフのもとへと駆け寄り、腕を掴む。落ち着くようにと、耳元で囁いた。
「捨てた場所へ案内しろ」
「は、はい」
メイドの休憩室へと急ぐ。突然アドルフがやってきたので、使用人達が作業する空間である階下は大騒動だった。
メイドの休憩室に行き、ゴミ箱を覗き込む。中は空っぽだった。
部屋にいたランドリーメイドが、想定外の事実を報告してくれた。
「その中のゴミは、先ほど捨てに行ってましたよ」
今度はロンリンギア公爵家の屋敷裏にある焼却炉まで急ぐ。十分ほど前だったというので、もしかしたら間に合うかもしれない。
アドルフはフェンリルを召喚し、私を乗せて焼却炉まで急ぐ。
どうか間に合ってくれ、と心の中で祈った。
途中、ゴミ捨て用の荷車を引く使用人を発見した。アドルフが凄みが込められた声で叫んだ。
「そこの者、止まれ!!」
「ひ、ひいいいい!!」
目の前にフェンリルが下り立ったら、誰でも驚くだろう。使用人は腰を抜かしていた。
「メイドの休憩室のゴミはあるか?」
「ご、ございますが……」
さまざまな場所の中のゴミが回収され、最終的に庭の水路で掬ったドブが入っていた。
つまり、私のセーターは現在、どぶまみれだというわけだ。
アドルフはゴミを見つめ、呆然としていた。
「アドルフ、セーターはまた作りますので」
「いや、大丈夫だ」
そう言うと、アドルフはどぶの中に腕を入れた。
「あの、汚いです! 何が入っているかわからないので、危なくもあります。そこまでする必要はありません」
「そんなことはない! リオニーが一生懸命作ったセーターを、無駄にするわけにはいかないから」
どぶと言っても下水ではなく、雨水が泥に混ざったものだという。それでも、何日も放置されていたものなので、汚いだろう。いくら言っても、アドルフは止まらない。
私も手伝いたいのはやまやまだったが、アドルフから貰ったドレスを汚すわけにはいかなかった。
五分後――アドルフはセーターを発見する。
すでに開封され、泥まみれだったが、洗ったらきれいになるだろう。
「これが、リオニーが手作りしたセーターだな?」
「え、ええ。あの、まじまじ見るのは洗ってからにしてください」
どぶにまみれたセーターは、ランドリーメイドの手に託された。