魔法学校に通うワケアリ男装令嬢、ライバルから求婚される「あなたとの結婚なんてお断りです!」

 アドルフから借りた薬草魔法の魔法書は大変素晴らしいものであった。三回ほど繰り返して読み、その後、時間が許す限りノートに写して保管する。
 この貴重な本を長く借りておくわけにはいかないので、一週間ほどでアドルフに返した。

「もういいのか?」
「全部ノートに写したし」
「写しただと? 魔法陣もすべてか?」
「まあ、うん」

 呪文や魔法陣の中には、魔法式を理解しないと記録できないものが多い。借りた本に書かれてあった内容は、それがほとんどだった。だからアドルフは驚いているのだろう。

「リオル、お前は魔法学院に進むのか?」
「だとしたら、どうするの?」
「魔法学院には、高名な魔法薬学の教授がいる。ただ高齢で、誰かの紹介がないと授業をしてくれないらしい。お前が望むのならば、紹介状を父に書かせるが」
「いや、大丈夫。魔法学院には行かないから」

 魔法学院というのは、魔法をさらに専門的に学ぶ場所である。主に魔法師になる者が進む道だ。

「行かない……? お前、まさか魔法騎士にでもなるつもりなのか?」

 文武両道の魔法騎士は、魔法学院に進学せずに魔法学校を卒業したあとに進む道である。ここに通う生徒の三分の一は、魔法騎士になるのだ。

「魔法騎士にはならない。僕は実家で家業を手伝いながら、ひとりで研究をする」
「は!? お前、才能を無駄にするつもりか!?」

 アドルフは私の肩をガシッと掴み、血走った目で訴えてくる。

「お前ほど熱心に魔法を学び、真面目で、周囲の人間からも好かれる奴なんて他にいない。家に引きこもって孤独に研究をする将来なんて、ありえないだろうが!」

 なぜ、私はアドルフに褒めちぎられ、将来の心配をされているのか。
 そういうふうに思われていたなんて、知らなかった。

「なんだか知らないけれど、褒め言葉だけ受け取っておくよ」
「ほめ――!? ほ、褒めてない!!」

 私が本当のリオルだったら、魔法学院に通いたかった。魔法薬学の権威とも会ってみたかったし、将来の選択についていろいろ考えてみたかった。
 けれども私はリオルではない。貴族の家に生まれた女――結婚以外に役に立つ術なんてないのだ。
 父との約束は魔法学校を卒業するまでだったし、これ以上、自由気ままに過ごせないだろう。

「お前、いったい何を考えているんだ!」
「いろいろ考えているよ。でもそれは、君には言えない」

 そんな言葉を返すと、アドルフは傷ついた表情で私を見つめる。
 なぜ、そういう反応をするのか。
 まったくわからなかった。

 ◇◇◇

 三学年になってから、ようやく大叔母が発明した〝輝跡の魔法〟について学ぶ時間が取れるようになった。
 輝跡の魔法というのは、流れ星や花火など、見るものを魅了する魔法のイルミネーションだ。
 これの基盤となっているのは、光魔法である。
 光魔法というのは厄介なもので、火属性、風属性、土属性、水属性の四元素(エレメント)をきちんと理解しないと使えない。
 一学年と二学年で四元素についての授業が終わったため、やっと輝跡の魔法に取りかかれるというわけだ。
 大叔母は魔法学校に通わず、独自で魔法を編み出した。本物の天才なのだろう。
 そんな輝跡の魔法の中で、私は植物を使った魔法を実現させたいと考えていた。
 たとえば光る蔓だったり、魔石灯代わりに使える花だったり、輝く花飾りだったり。
 大叔母が考えた輝跡の魔法を応用できるように、薬草学の授業を特に真剣に聞いていたのだ。
 もしかしたら、これで商売ができる可能性だってある。大叔母に頼んで特許を取り、貴族相手に販売する。
 それを資金として、養育院の子どもたちに魔法を教えられたら――どれも夢みたいな話だ。まったくもって現実的ではない。

 貴族に生まれた女性は、籠の中の鳥だ。自由に空をはばたくことさえ許されていない。
 これからどうなるのか。自分のことなのに、まったく想像できないでいた。

 バタバタと忙しく過ごしているうちに、宿泊訓練に行く前日となっていた。
 一人二役をし、アドルフの心に秘める女性を捜索する。
 それを知ってどうするのか。計画を打ち明けたルミに聞かれてしまった。
 それをネタに婚約破棄をする予定だが、あまり派手な騒ぎにはしたくない。
 父からも「余計なことをしたら勘当する!」と言われているのだ。
 さすがの私も、今の状態で路頭に迷うことになったら、生きていけないだろう。
 理想は、アドルフのほうから婚約を辞退することである。
 ロンリンギア公爵家からの申し出があれば、父は何も言えまい。
 婚約破棄の鍵を握るのは、薔薇と恋文を受け取り続けていた女性の存在なのだ。
 ドレスは先に別荘に送っている。侍女も現地まで足を運んでくれるらしい。
 一人二役は早着替えが重要となるので、非常に助かる。
 服を詰め終えると、盛大なため息がでてきた。
 グリンゼルでの宿泊訓練は、二泊四日。その期間に、上手くアドルフの想い人を発見できるのか。正直に言って自信はない。けれどもやるしかないのだ。

 目指せ、婚約破棄という目標に迷いはない。
 アドルフ、見てろよ! という意気込みでグリンゼルへと向かったのだった。

 湖水地方グリンゼルまで、王都から馬車で一日半かかる。
 一日目の夜は宿に宿泊し、翌日の昼頃に到着するという予定だった。
 それが突然覆る。
 魔法学校の校庭に、ワイバーンが並んでいた。どうしてこうなってしまったのかと、呆然としてしまう。

 チキンはワイバーンを前に、闘争心を剥き出しにしていた。

『あんな小竜、ひとひねりにできまちゅり』
「はいはい」

 小鳥ほどのサイズしかないチキンが、ワイバーンにどうやって勝つというのか。
 竜種の中でいったら、ワイバーンは小型に分類されるようだが。
 ワイバーンの気を逆立たせたら大変なので、チキンはポケットの中に突っ込んでおいた。

 ランハートは瞳をキラキラ輝かせながら、ワイバーンを眺めている。

「おお、リオル、あっちに白いワイバーンがいるぜ! きれいだなー!」
「ああ、そうだね」
「お前、なんでそんなに落ち着いているんだよ」
「びっくりしすぎて、言葉がでないだけ」
「本当か~?」

 他の生徒も、ランハート同様に興奮していた。
 魔法学校の紳士教育とはいったい……。三学年になって落ち着いたと思いきや、すぐこれである。

 ただ、それだけワイバーンという存在が珍しいのだ。
 現に、噂話を聞いた新聞社の記者が、ワイバーンについて取材させてくれとやってきたくらいである。
 今回のワイバーンの運用はイレギュラーな事態であったため、取材は断ったようだ。

 ここにいるワイバーンは、竜車用に集まったものである。竜車というのは、空飛ぶ馬車と言えばわかりやすいのか。
 馬車で一日かかるグリンゼルまでの距離も、竜車だと三時間で済むらしい。
 竜車は国内の貴賓を運ぶために運用されているが、それがどうしてか魔法学校に集結していた。
 その理由は、ひとりの生徒に所以(ゆえん)する。
 アドルフ・フォン・ロンリンギア――彼が父親の縁故(コネクション)を使い、三学年の生徒全員が竜車で移動できるよう手配してくれたのだ。

「どうだ、リオル? 竜車は素晴らしいだろう?」

 そんなことを言いつつ、背後より突然登場したのは、アドルフであった。
 なぜか、自費生が着用する外出用の外套をまとい、頭巾を深く被っていた。

「アドルフ、監督生の外套はどうしたの?」
「鞄の中だ。今回は抜き打ちで生徒のふるまいを監督するため、このような恰好でいる」

 きちんと教師の許可を得ているのだという。そういうところは抜かりない。

「あとは、他の生徒に見つからないようにな」

 竜車を前に瞳を輝かせるクラスメイトは皆、口々にアドルフはすごい、と絶賛していた。きっと見つかったら、もみくちゃにされるだろう。

「俺とリオルは、ふたり乗りの竜車を用意した。こっちだ」

 一方的に宣言し、アドルフは回れ右をして歩き始める。
 それを見ていたランハートは、訝しげな様子で話しかけてきた。

「なんだよ、お前たち、いつの間に仲良くなったんだ?」
「さあ?」
「当事者なのにわからないのかよ」

 仲良くなったわけではないが、一回目の貸し借りをきっかけに、少しだけアドルフを理解できたような気がする。

 あの日以降、私たちは苦手な教科のノートを貸し借りするような仲となった。
 実技魔法のコツも教えてもらい、以前よりは苦手意識がなくなったような気がする。
 かといって、友達というわけではない。少し話せるクラスメイト、みたいな認識である。

「たぶん、自分だけ別の竜車に乗ったら、あとで非難されると思ったのかも」
「なるほどなー。アドルフ、賢い奴め」

 ここでアドルフが振り返り、「ついてこいと言っただろうが!」と叫ぶ。
 彼の取り巻きになったつもりはないのだが。

「じゃあランハート、またあとで」
「おう!」

 小走りでアドルフのもとを目差し、一緒に小型の竜車に乗りこんだのだった。
 車内は案外広かった。上質な革張りのシートで、腰かけるとしっかり体を支えてくれる。

 この車体を引くのは、先ほどランハートが発見した白いワイバーンである。

「メスのワイバーンだ。オスよりも従順で、飛行も丁寧だ」
「へえ、そう」
「以前、馬車が苦手だと話していただろう? 竜車は馬車ほど揺れない」
「あ――うん」

 少し前に、馬車酔いするという話を彼にしていたのだ。まさか、それを覚えていたとは。

「そういえば、リオニー嬢も馬車が苦手なのか? 思い返してみたら、顔色が悪かったような気がする」

 女性は化粧をしているので、顔色で判断できなかったのだという。

「ああ、姉上も馬車が得意ではない」
「だったら、次回の外出は竜車にするか」
「絶対に止めて!」
「ん?」
「あ、いや、うちの庭はワイバーンが降りられるほど広くないから」
「そうか」

 どでかい竜車なんかが貴族街にやってきたら、目立ってしまうだろう。
 同時に、私がアドルフから竜車の迎えがあった、などという噂話が出回るに違いない。
 その話が記者に伝わり、ゴシップ誌に〝成金伯爵令嬢、公爵子息との仲は良好〟などと掲載されたら、恥ずかしくて二度と社交の場に顔を出せなくなる。
 それだけは絶対に阻止しないといけないだろう。

「もう少し手配が早くできたら、リオニー嬢も竜車で一緒に行けたのだがな」
「あー、そうだねー」

 思わず、棒読みになってしまう。
 リオニーは三日前から出発し、すでにグリンゼルにいる、という設定である。
 正確に言うと、三日前に出発したのは侍女たちだ。念のため、侍女のひとりに私に変装してもらっている。
 その辺の工作はしっかり計画済みだった。

 そんな話をしているうちに、ワイバーンがもぞもぞ動き始め、翼を大きく広げた。
 竜車を操縦するのは、国家魔法師である。
 魔装線路と呼ばれる魔法の線路を作り出し、その上をワイバーンが飛んでいくのだ。
 魔法師が杖を振りつつ、呪文を唱える。すると、線路が地上から空へ伸びていった。

「わ、すごい……!」

 アドルフも竜車に乗るのは初めてのようで、車内にある御者席を覗き込める小窓から、魔法師の様子を興味津々とばかりに眺めていた。

 ついに竜車が動き始める。上昇中はさすがに揺れるだろうと思っていたが、車内に影響はない。

「これは、どうして?」
「魔法師が車内の重力制御を行っているからだ。この辺は操縦する者の腕の見せ所だな」
「そうなんだ。すごい技術だ……!」

 どんどん竜車は上昇していき、魔法学校が小さくなっていく。

「あ――魔法学校って、大きな魔法陣なんだ」  
「知らなかったのか? 入学式のときに、校長が話していたが」
「話が長かったから、聞き流していた」

 魔法学校の校舎は魔法の要となっており、水晶でできた温室が魔石代わりとなっている。

「信じられない。魔法学校自体が、巨大な結界なんだ」

 生徒の安全を守るために、初代校長が作ったものらしい。
 当時は生徒を集めるために、王族も通っていた。そのため、守りが必要以上に強固にしていたのだろう。

「アドルフが竜車に乗せてくれなかったら、一生知らなかった」
「そうだろう?」

 いつになく優しい声で、アドルフは返す。
 思わず顔を見たら、淡く微笑んでいた。
 それはリオニーと一緒にいるときにのみ見せていた、優しい笑みだった。
「おい、リオル、下を見てみろ」

 別部隊の竜車が飛んでいるらしい。覗いてみると、黒いワイバーンが左右に揺れつつ飛んでいる。

「うわ、あれって大丈夫なの?」
「中は大揺れだろうな」

 ワイバーンが悪いわけではなく、操縦する魔法師の魔法が上手くいっていないので、あのように大きく揺れているらしい。

「あの様子じゃ、重力制御もできていないな」
「じゃあ、中にいる人たちは?」
「右に、左にと大揺れだろう」
「うわあ……」
「しかしまあ、あれは訓練用の車体で、体を固定する装備が座席にあるだろうから、三半規管が弱くなければ平気だろう」
「そ、そっか」

 私があれに乗っていたら、胃の中のものをすべて出していたかもしれない。
 アドルフがこの竜車に誘ってくれて、心から感謝した。

「それはそうと、訓練用って?」
「これは竜車を操縦する魔法師の訓練の一環だ」
「そうだったんだ!」

 ちなみに、私たちが乗っているのは教官の竜車らしい。普段は貴賓相手の飛行もしているようで、安定しているわけである。

「教官だから、わかりやすいように白いワイバーンなの?」
「そうなんだろうな」

 なんというか、いろいろ腑に落ちた。

「おかしいと思っていたよ。魔法学校の生徒の移動に、貴賓用の竜車を出すなんて」
「一応、校長に許可は取っている」

 生徒にも乗車前に伝えているらしい。拒否した生徒は魔法生物学の先生の使い魔である翼のある白馬、ペガサスに乗って行くようになっているのだとか。

「ペガサスは飛んでいないな。拒否した生徒は見当たらないようだ」
「みんな、怖いもの知らずだ」
「嬉々として乗っていたと思うがな」

 そういえばと思いだす。数年前にガーデンパーティの見世物として、馬術ショーが行われた。そのさい、馬が暴れて大騒ぎになったのだ。
 女性陣の多くは眉を顰めていたが、男性の大半はいいぞ、もっとやれと盛り上がっていた。きっと予想外のトラブルを前にしたら、逆にワクワクしてしまうのだろう。
 この辺の感覚は、人それぞれなのだろうが。

「リオル、下の竜車、安定してきたぞ」
「あ、本当だ」

 アドルフと顔を見合わせ、笑ってしまった。
 ひととおり竜車を堪能したあとは、各々持参していたノートの交換を行う。
 今回は独自に行った試験対策ノートの貸し借りをしたのだ。
 アドルフは私と目の付け所がまったく異なる。ここをこう勉強するのか、という新しい発見があった。
 悔しい気持ちになったものの、アドルフも同じことを思っていたらしい。

「今回の試験対策は自信があったのだが、たくさん抜けがあったようだ」
「僕も、同じく」

 真剣にノートを読んでいる間に、グリンゼルに到着した。

 ◇◇◇

 国内有数の美しい景色があるという観光地、湖水地方グリンゼル。
 教師が冬用の外套を用意しておくように、と注意したわけを身をもって実感する。
 王都よりも北寄りにあるからか、風が冷たく肌寒い。
 ただ、湖は見にくるだけの価値がある。
 水面には美しい紅葉が映し出されていた。けれども少し風が吹いただけで波紋が生まれ、その景色は消えてしまうのだ。なんて儚く、美しいものなのか。
 隣に立つアドルフも、同じことを思っていたようだ。

「驚いた。湖というのは、このように美しいのだな」
「そうだね」

 しばし見とれていたようだが、他の竜車が到着すると踵を返す。

「引率の教師陣が到着したようだ。次の指示を待とう」
「わかった」

 三時間ぶりの再会を果たしたクラスメイトたちは、出発前よりも興奮していた。
 空を飛ぶ竜車の旅は、彼らにとって大きな刺激だったらしい。
 中でも、ランハートが乗っていた竜車は特に揺れていたようだ。

「なんかもう、すごかったんだよ。このまま空に放り出されるかと思った!」
「よく、訓練生の竜車に乗ったよね」
「だって、竜車なんて、二度と乗れないかもしれないだろう?」
「たしかに、それはそうかもしれないけれど」

 教師陣が生徒に指示を出す。グリンゼルにいる間は、常に使い魔を使役していなければならないらしい。
 ランハートは一学年のときに召喚したカエルを胸に抱いていた。前に見たときは普通サイズのカエルだったが、今は小型犬くらいの大きさになっている。

「うわ、そのカエル、そんなに大きくなったんだ」
「可愛いだろう?」
「すごいけれど、可愛くはない」

 カエルにとって湖水地方の気候は過ごしやすいようで、ゲロゲロと元気よく鳴いていた。

「大きいと言えば、アドルフのもすごいな」
「ああ、あれね」

 アドルフが召喚したフェンリルは一回り以上成長していた。あの使い魔を連れていると、いつも以上に威圧感がある。

「リオル、お前のところのカツレツはちっこいままだな」
「カツレツじゃなくてチキンね」

 三年間で成長を見せる使い魔たちだが、チキンはそのままだった。大きくなってポケットに詰め込めなくなったら困るので、この先ずっとこのままでいてほしい。

 生徒が集まると、宿泊訓練についての説明が始まった。
 事前に現地で何をするのか、というのは知らされていない。内容によって、出席する、しないを決める生徒がいるからだという。
 参加は自由だが、個人個人の自主性を高める訓練でもあるため、スケジュールは現地で話すようだ。
 まず、一日目はレクリエーションを行う。
 なんでも、内容は毎年異なるらしい。去年の先輩は森に隠された魔法巻物(スクロール)を探し、発見したものは入手できる、というものだった。
 魔法巻物の中には貴重な転移魔法もあったようで、大いに盛り上がったらしい。
 今年はいったい何をするのか。ドキドキしながら教師の話に耳を傾ける。

「レクリエーションについて発表する。これから全員くじを引いて、ペアを作ってもらう。そのペアで森に行き、食材探しをしたあと調理。完成した料理を一口提出し、教師が食べて採点する。点数によって、特別な魔石を与える、というものだ」

 別の教師が盆に載った魔石を見せてくれた。
 炎の魔石に雷の魔石、光の魔石に闇の魔石――学生の身分では手に入らないであろう、稀少な魔石の数々であった。

 中でも、光の魔石は特に珍しい。めったに市場にも出ない、という話を耳にしていた。
 光の魔石は輝跡の魔法を使うさいの素材にもなる。
 ぜひとも欲しい。

「森には木の実、キノコ、ウサギやアナグマ、魚など、豊富な食材がある。持ち帰った食材は、一度提出するように。毒が含まれたものがないか、こちらで選別する。まあ、これまでの授業を真面目に聞いていたら、食べられるか、食べられないかくらいはわかるだろう。ちなみに、森はほどよく整備されていて、魔物は出現しない。けれども絶対とは言えない。気を抜かないように」

 森の中には毒を持つ植物や生き物がいるらしい。
 なんでも口にせず、動物とも触れ合わないようにと、教師は口を酸っぱくするように注意していた。
 それだけでは物足りないと思ったのか、生徒全員に解毒薬や血止めなどの薬が入ったパックが配られた。
 信用がないものである。

 そんなことはさておいて。食材探しと調理が課題らしいが、食材探しはさておき、調理は得意だ。
 養育院で子どもたちに出す料理を作っていたし、魔法学校では寮母の軽食作りを手伝ったこともある。
 他の生徒よりも、上手く作れる自信があった。
 問題は、ペアとなる生徒だ。
 なんでも三学年ごちゃまぜにくじを引くのではなく、クラスごとになっているらしい。
 ここで、教師から驚愕の事実を知らされる。

「今日、皆が宿泊するのは南の方向に見える小住宅(バンガロー)だが、組んだペアの者と泊まってもらう。夜、レポートもまとめやすいだろう」

 ひとり部屋でないだろうとは思っていたが、まさかふたりっきりで宿泊しないといけないなんて。
 なんとかペアになった生徒に話を付けて、別荘に行けたらいいのだが……。
 そんなことを考えているうちに、くじ引きが始まった。
 隣にいたランハートがぼやく。

「くじかー。自由にふたり組になれって言われたら、リオルを選ぶんだけどなー」

 私も、未来の魔法騎士さまと一緒だったら心強かったのだが。
 ランハートと共に、とぼとぼ歩きながらくじを引きにいった。
 ほとんどの生徒が引いたらしい。すでにペアになっている者たちもいる。
 先にランハートが引いた。ふたつ折りになった紙を開く。

「お、犬の絵が描いてあるな」
「だったら俺だ」

 クラスメイトのひとりが、犬が描かれた紙を掲げながら挙手する。
 奇跡が起きて、ランハートとペアになるという望みが潰えてしまった。
 続いて私の番だ。
 ランハート以外のクラスメイトで打ち解けている者なんていない。広く浅い付き合いをするばかりである。だから、誰であろうと一緒――なんて思考を一次停止させる。視界の端に、フェンリルと佇むアドルフが映った。まだペアが決まっていないようだった。
 アドルフは気まずい、アドルフとペアは嫌だ。
 なんて思いながらくじを引く。ハラハラしつつ、くじを開いた。

「猫の絵のひと、いる?」

 クラスメイトにそう問いかけたら、ひとりの男が手を挙げた。

「俺だ」

 アドルフだった。
 そうなるんじゃないかって、ほんの僅かだが思っていたのだ。
 なんてくじ運が悪い……。

 アドルフは私のもとへつかつか歩いてくると、肩をポンと叩きながら言った。

「リオル、よろしく頼む」
「まあ、うん、よろしく」

 意外や意外。アドルフは私とペアを組むことに、嫌悪感は抱いてそうにない。
 上手く利用できると思っているのかもしれないけれど。

 果たして、レクリエーションは彼と上手くいくのか。まったく想像できない。
 そもそも、彼は家で大人しくしているタイプにしか思えなかった。外で活発に活動する姿なんて、想像すらできない。
 大型の使い魔であるフェンリルがいるのは心強いが。
 チキンはフェンリルを前にしても、堂々たる態度でいた。

『ちゅり! 図体だけが大きい獣なんかに、負けないでちゅり!』

 その自信はどこからやってくるものなのか……。
 フェンリルはまったく相手にしていなかった。

 そんなことはさておいて。夜、アドルフと同室で過ごさなければならないというのが憂鬱だ。
 監督生である彼の目を盗んで別荘に行くことなど、不可能に近いだろう。
 今晩は眠れそうにない。

 ペアが組めた者には、森の地図が配布された。
 貴族の行楽のために作られた森のようで、食材がある場所がわかりやすく書かれていた。
 ウサギやアナグマなどは、狩猟区で獲れるらしい。内部には猟場管理人(ゲームキーパー)がいて、猟犬や猟銃なども貸してくれるという。
 森の中にいくつかチェックポイントが用意されていて、その場に教師がいるらしい。エリアごとにある食材を入手し、地図にスタンプを押して回って全部集めると、翌日の自由時間に使えるボート券が貰えるようだ。

「リオル、君はどういう作戦を考えている?」
「うーん、今のシーズンだったら、アナグマが絶品かな」

 秋に実る木の実やキノコをたっぷり食べたアナグマは、脂が乗っていておいしい。
 貴族は秋はウサギこそが絶品というが、個人的にはアナグマのほうが味がいいと思っている。

「アナグマか……」

 アドルフの顔が若干引きつっている。食べたことがないようで、どんな味か想像できないのだろう。

「そのアナグマはどう調理するんだ? そのまま焼くのか?」
「いや、けっこう脂っぽいから、教師陣の受けは悪いかも」

 若い教師であれば、焼いたものに香辛料をかけたものだけでも満足するだろう。
 しかしながら、教師陣の平均年齢は四十代後半くらいか。脂の多い肉は胃もたれするに違いない。

「キノコと煮込んで、スープにしたらさっぱり食べられるかも」
「なるほど。目当てはアナグマとキノコだな。その料理の作り方はわかるのか?」
「アナグマを解体してもらえたら、まあ、なんとか」
「わかった」

 アドルフは地図を目で追い、動線を考えているようだ。食材探しのリーダーを務めてくれるらしい。

「リオル、行くぞ!」
「はいはい」

 そんなわけで、アドルフと一緒にレクリエーションに挑む。 
 森に行く前に、小住宅の鍵が手渡される。荷物を運ぶ、動きやすい恰好に着替えるようにと指示を受けた。

 木造、平屋建ての一軒家を前に、アドルフはボソリと呟く。

「これは、エルガーの小屋みたいだ」

 エルガーというのは彼の使い魔であるフェンリルの名前だ。こんな立派な家を与えられているとは。
 というかこれから二泊する家を、犬小屋みたいだと言わないでほしい。

「アドルフ、これは一般的な小住宅の規模だよ」
「そう、なのか。初めて知った」

 お坊ちゃん育ちであるアドルフは、当然小住宅なんて知るわけもない。
 私も初めてだが、知識としてそういうものがあると把握していた。
 
「リオル、入ってみよう」
「そうだね」

 フェンリルは体が大きくて入れなかったので、バルコニーで待機だ。
 鍵を開き、中へと入る。内部は二段に重なった寝台が置かれただけの、シンプルな室内だった。

「な、何もないではないか!」
「ここ、小住宅だから」
「最低限の設備はあると思っていたのだが」
「それは|貸し別荘(コテージ)だよ」

 宿泊訓練はあくまでの授業の一環だ。旅行のように快適な空間で寝泊まりできるわけがないのだ。

「本当に、ここで二泊もするのか?」
「するよ」
「暖炉や風呂、洗面所もないような場所で?」
「もちろん」

 お風呂は温泉施設がある。そこで、身なりを整えるのだろう。
 私は実家の別荘で済ませる予定だ。
 普段、私やアドルフは部屋に備え付けられているお風呂に入っている。アドルフなんかは集団で入浴するのは初めてではないのだろうか。
 明らかに戸惑っている様子を見せていた。
 寝台にはカーテンが付けられていて、着替えはなんとかなりそうだ。
 雑魚寝の可能性も考えていたが、想像よりはいい環境なのかもしれない。

「アドルフは寝台の一段目と二段目、どちらがいい?」
「別に、どちらでもいいが」

 二段目を選んだら、「馬鹿と煙は高いところが好きだよね」なんて言おうとしたのだが……。さすが、学年次席といったところか。

 まあなんにせよ、二段目だったら突然アドルフが降りてきて驚く、ということもないだろう。ありがたく使わせてもらう。
 
「じゃあアドルフ、十分で着替えて集合でいい?」
「五分でもいい」
「じゃあ五分で」

 お坊ちゃんはお着替えに時間がかかると思っていたのだが、そうではなかったようだ。心の中で謝っておく。

 魔法学校の野外活動着は、普段、貴族がまとっている狩猟服に似たものである。
 タイを巻いたシルクブラウスに緋色(スカーレット)のジャケットを合わせ、白いズボン、黒いブーツを履くのがお約束だ。
 急いで着替え、二段重ねの寝台から降りる。私から遅れること一分後に、アドルフが出てきた。
 
「リオル、出発前に互いの使い魔の能力について把握しておこう」
「うん、いいよ」

 まずはアドルフの使い魔、フェンリルのエルガーについて教えてくれた。

「エルガーは氷属性で、魔法がいくつか使える。牙や爪は鋭く、物理攻撃も可能だ。力持ちだから、荷物も運べる」

 フェンリルはかなり有能な使い魔のようだ。
 続いて、チキンについて説明する。
 どこから自信が湧き出てくるのか、チキンは私の肩の上で胸を張っていた。

「この子、チキンは怖いもの知らずで、気性が荒くて、落ち着きがない。以上」

 チキンは満足げな表情で、こくこくと頷いていた。

「リオル、その使い魔の能力は?」
「右ストレート?」
「鳥が物理攻撃をするのか?」
「するよ。けっこう痛い」

 チキンは毎晩私の寝台に潜り込んで眠るのだが、これがまあ、寝相が悪い。
 何かと戦っている夢をみていたときは、私のみぞおちにパンチしていたのだ。
 一撃食らったあと、古代文字の課題で使う石版(タブレット)があったので、チキンと私の間に差し込んでいた。
 一晩中パンチを受けていたら、内出血していたに違いない。

 それにしても、フェンリルと比べたときのチキンの能力といったら……。正直、使い魔の能力としては下の下だ。
 雨魔法が使えるランハートのカエルのほうが、能力は上だろう。
 一応、チキンの名誉のため、付け加えておく。

「まあ、空が飛べるのだから、上空から偵察くらいできるかもしれないね」
「期待しておこう」

 準備が整ったので、森を目指す。
 小住宅街から森まで、徒歩三十分といったところらしい。

「エルガーの背中に乗ったら、三分で到着する」

 一緒に乗ろう、と誘ってくれた。フェンリルは私も背中に乗せてくれるらしい。
 乗馬の授業がそこまでよくなかったので、若干不安になる。

「毛の束を強く握っておけば落ちない。馬より安定しているから、安心しろ」

 フェンリルは伏せの姿勢を取る。先にアドルフが跨がり、私に早く来いと手招きする。
 アドルフよりも前に座るらしい。
 恐る恐るといった感じで、背中に跨がった。

「わ、ふかふか!」

 フェンリルの毛並みは信じがたいほどフワフワしていて、触り心地は極上だ。
 毛を掴んでも痛がらないので、しっかり持っても問題ないという。
 走行中、チキンを落としたら大変なので、ジャケットの胸ポケットに突っ込んでおいた。
 
「リオル、握ったか?」
「ああ」

 アドルフがフェンリルの腹を踵で軽く叩くと、立ち上がった。

「わっ!」

 目線は馬よりも高い。本当に馬より安定しているのか。

「行くぞ」
「わかった」

 そう返事したのと同時に、フェンリルはバルコニーから地上へ降りるために大跳躍をしてみせた。
 悲鳴はなんとか呑み込み、奥歯を噛みしめる。

「舌を噛むなよ」

 その言葉が合図となり、フェンリルは走り始めた。
 軽やかに駆け、景色はめくるめく変わっていく。
 楽しむ余裕なんてない。振り落とされないように、しがみついておくので必死だった。
 フェンリルは風のように走る。あっという間に森に到着した。
 途中、生徒たち数名とすれ違った。背中に乗って移動できる使い魔はアドルフのフェンリルだけだったので、森への到着は一番乗りだったわけだ。
 グリンゼルの森は全域柵に覆われていて、内部はきちんと管理されているらしい。
 そのため、魔物が出現しないと言われているようだ。

「リオル、どこから行こうか?」
「獲物は持ち歩いていたら傷みそうだから、最後かな」
「そうだな」

 アドルフはチェックポイントも制覇するつもりらしい。さすがに、森の中はフェンリルに乗れない。徒歩ですべて回るつもりのようだ。
 きちんと方位磁針を持参し、地図を険しい表情で眺めている。
 チェックポイントは全部で六カ所。
 木の実エリア、キノコエリア、魚エリア、狩猟エリア、森菜(しんさい)エリアに天然水エリア。

「ここから一番近いのが、木の実エリアだな。そこから回っていくか」
「了解」

 なるべく食材集めに時間をかけたくない、という方針は私とアドルフの中で固まっていた。こういうとき、他のクラスメイトだったら「気楽にやろうぜ!」とか言って、釣りを楽しんでいたに違いない。

 急ぎ足で木の実エリアを目指す。すると、真っ赤な実を生らしたイチゴを発見する。
 甘い匂いが辺り一面に漂っていた。

「これは――」
「ヘビドクイチゴ、食べられない」
「ああ、これがそうなのか」

 毒と名が付いているものの、食べても死ぬわけではない。軽く腹を下す程度だ。
 いい匂いがするので、食べてしまう人があとをたたないため、毒の名が付けられたのだという。さらに、毒ヘビが好んで食べるから、というのも由来のひとつだ。

 アドルフはヘビドクイチゴというものがあるのは暗記していたものの、どれがそれに該当するかまでは知らなかったという。

「教科書ってさ、情報のみ書いてあって、参考図がないものも多いよね」

 見た目の絵などがないときは、図書館に行って調べていたのだ。

「そういえばリオルの参考書には、参考図がないものの絵が差し込まれていたな。ずいぶんと上手かったが、あれは自分で書いたのか?」
「見よう見まねだよ」
「なるほどな。お前は本当に勤勉な奴だ」
「アドルフには敵わないけれどね」

 奥までいくと、低い木に実ったベリーを発見した。

「あっちはグースベリー、そっちはクランベリー、あれはブラックベリーにラズベリー」

 ベリーの旬は夏や秋とそれぞれ異なるものの、ここにあるものは魔法で生育管理がされているようだ。そのため、ベリーの楽園のようになっている。
 食後のデザートとして食べるため、生食に向いているベリーを摘んでおく。
 さらに先に進むと、教師が待ち構えていた。

「おお、お前たちが一番だ。さすが、首席と次席のコンビだな」

 フェンリルのおかげで、木の実エリアの一番を取れたのである。
 地図を広げると、スタンプを押してくれた。

 教師はカゴを覗き込み、ヘビドクイチゴがないか確認する。

「よしよし。妙なもんは入れていないな。何がダメだったかわかったか?」
「ヘビドクイチゴ」
「そうだ」

 毎年、レクリエーションをするさいに、生徒は必ずヘビドクイチゴを食べてしまうらしい。

「授業のたびに、自生している植物は専門家の確認なしに口に入れてはいけないと言っているのに、あいつらは聞く耳を持たん」

 身をもって学んでもらうために、ヘビドクイチゴについては注意しないという。
 そういう目論見があるので、薬を全生徒に渡していたのだな、と納得してしまった。
 教師と別れ、次なる目的地を目指す。

「次はキノコエリアだ」

 そこは木の実エリアとは比較にもならないくらいの、毒キノコが生えていることだろう。

「キノコも正直自信がないな。リオルはどうだ?」
「僕は選択授業で魔法キノコの学科を選んだからね」
「あれを選んだ奴っていたんだな」
「いたよ。僕ひとりだったけれど」

 その知識が、今役立つとはまったく想定していなかった。
 キノコエリアでは、食材の臭い消しに最適な香り茸と肉料理と相性がいいコショウ茸を入手する。それ以外にも、旬のキノコを手に入れた。
 ここでも、チェックポイントで教師からスタンプをもらった。

「次! 魚エリア」

 ここには、生徒が数名いた。入り口からまっすぐ進むと、比較的早くここに辿り着くのだ。
 大きな池のほとりには、小屋があった。そこで釣り竿を借りられるらしい。
 皆、楽しそうに釣りをしていた。

「アドルフ、どうする?」

 私たちは釣りに関しては未経験である。他の生徒も、そこまで釣れているようには見えない。
 食材を入手しないとスタンプが貰えない。何か仕掛けを作って帰りがけに回収しようか。なんて考えていたら、アドルフがぬかるみのほうを指差す。

「何かあるの?」
「おそらく、あるはずだ」

 フェンリルはぬかるみに足を取られたら大変なので、池のほとりで待機を命じていた。
 慎重な足取りで近づき、ナイフで泥を掘り起こす。
 途中でカツン、と硬いものに当たる音がした。
 アドルフは手袋を装着し、泥を掘り返す。

「あった!」

 出てきたのは、大きな貝だった。

「それは、もしかして大黒貝?」

 アドルフは深々と頷く。以前、生物図鑑で読んだ大黒貝の生息地を記憶していたらしい。泥臭いが、味はおいしいと聞いたことがある。

「これ、私の腕ではおいしく調理する自信はないんだけれど」
「安心しろ」

 アドルフは魔法で水球を作りだし、そこに獲れた大黒貝を入れる。水に風魔法を加えると、くるくる回り出した。すると、瞬く間に水が真っ黒になる。

「あ、泥抜きしたんだ」

 こればかりは、さすがだと思ってしまう。魔法と魔法を掛け合わせるのは、高い技術と集中力を必要とするのだ。まさかそれを、アドルフが軽々とやってのけるとは。
 魚エリアでは、大黒貝をいくつか入手した。
 アドルフが採取用の瓶を持ってきていたので、そこに大黒貝を入れる。
 塩水に浸けておくと、さらなる泥抜きの効果があるらしい。池の番人から塩を分けてもらい、瓶にさらさらと入れておく。
 魚エリアにいた教師が大黒貝を見て「それが大正解だ」と言っていた。

「実を言えば、ここの池で一番おいしいのは大黒貝だ。池の魚は泥臭くて食べられるもんじゃない。塩水でしっかり泥抜きしておけば、極上の味わいになる」

 これから池の魚料理を食べさせられる教師を思うと、なんとも切なくなる。
 生徒たちは良家の子息ばかりで、調理なんて知っているわけがない。きっとシンプルに焼いただけの魚を出してくるのだろう。
 泥抜きしていない魚を食べさせられるなんて、想像しただけでもゾッとしてしまった。 心の中で教師にエールを送りつつ、魚エリアを離れる。

 木の実エリア、キノコエリア、魚エリアと順調に素材とスタンプを集めていく。
 近くにある狩猟エリアを飛ばし、森菜エリアにやってきた。
 森菜というのは、森に自生する野菜のような植物である。
 ここでは野草人参(やそうにんじん)に小玉葱(こたまねぎ)、キャベツ草を発見。スープの材料にするために取っておく。
 教師のスタンプを貰い、森菜エリアは制覇した。
 天然水エリアは狩猟エリアの帰り道にある。そのため、最後に回した。
 狩猟エリアに到着する。ここは囲いの中にあった。
 猟場管理人から猟銃と獲物を入れる麻袋を借り、猟犬はフェンリルがいるという理由で断っていた。
 狩猟小屋で待機していたスタンプ係の教師から、このエリアについての説明を受ける。


「ここは熊や大角鹿といった大型の獲物はいない。けれども、絶対に安全とは言い難い。決して油断はしないように」

 教師の話が終わったら、狩猟エリアへ足を踏み入れる。
 猟に使う散弾銃を使うのは一年ぶりくらいか。二学年のときに狩猟の講習があり、校外授業として狩りをしたのだ。
 小型の獲物を狙うときは、この散弾銃を使う。
 散弾銃は一発で多数の弾を飛ばす銃で、素早い小型の獲物を仕留めるのに適している。
 散弾銃で大型の獲物を仕留めるのは至難の業と言えるものの、弾が散らない一発弾(スラッグ)というものがあり、これを散弾銃で使えば大型の獲物を仕留められるのだ。
 大型を専門に狙うときは、威力が強いライフル銃を使う。これは熟達した猟師向けの装備である。
 他にも、空気銃とよばれる物もある。これは制止している小型動物を狙うのに適している銃だ。
 空気銃の使い方も習ったが、数撃ちゃ当たる戦法で、散弾銃を選んだ。
 アドルフと共に散弾銃を手に、狩猟エリアを進んでいく。
 ひとまず、獣の臭いをフェンリルに探ってもらっていた。
 フェンリルはアナグマの臭いを知らないので、ピンポイントで探すのは難しいだろうが。
 フェンリルにはウサギやイノシシでない、小型動物の臭いを探るようにとアドルフが命じている。知能が高いので、アドルフの言うことは理解しているらしい。
 大きなフェンリルは威圧感があるものの、姿勢を低くし、くんくんと地面の臭いをかぐ姿は完全に犬だった。

「リオル、アナグマはどういうところにいるのだ?」
「名前のとおり、穴を掘って暮らしているんだけれど」

 巣穴は草木に紛れて発見しにくい。目視で発見するのは無理だろう。

「エルガーがアナグマの臭いを知っていたら、すぐに発見できたんだけどな」
「アナグマは諦めて、ウサギにする?」
「いいや、まだ諦めたくない」

 一時間ほど探し回っただろうか。アナグマは発見できないまま、時間だけが過ぎていく。
 あと一時間半ほどで、森の外に出ないといけない。天然水エリアに立ち寄ることと入り口まで戻る余裕を考えたら、ここで使えるのはあと三十分くらいだろう。

「ねえ、アドルフ。やっぱり――」
『ふわーー、よく寝たちゅり!』

 私のポケットの中で眠っていたチキンが、もぞもぞと出てくる。

『ん? 今、何をしているんでちゅり?』
「アナグマの巣を探しているの。でも、なかなか見つからなくて」
『だったら、ちゅりが探してくるちゅり!』
「え?」

 どうやるのかと聞いたら、上空から探すという。なんでもチキンは視力がとてつもなくいいらしい。初耳である。
 寝起きのチキンだが、力強い飛翔で天高く昇っていく。
 しばし飛び回っていたが、戻ってきた。

『アナグマの巣、あったちゅり!』
「発見できたんだ」

 木々が入り組んでいる場所にあるようで、フェンリルは入れないという。

「では、エルガーはここで待機させておこう」

 フェンリルは耳をぺたんと伏せ、しょんぼりした様子を見せていた。
 こんな反応を見たら、可愛いかも、と思ってしまう。

「リオル、行こうか」
「うん」

 歩くこと五分、アナグマの巣らしき穴を発見した。

『あっちが入り口、そっちが出口でちゅり』
「チキン、巣穴に入って、アナグマを出口に誘導できる?」
『任せるちゅり!』


 チキンが入り口からアナグマの巣に入り、追いやってくれるという。私とアドルフは出てきたアナグマを散弾銃で仕留めるのだ。

『では、いくちゅりよ!』

 これまで寝ていた使い魔とは思えない頼もしさであった。
 チキンが巣穴に入るのと同時に、私とアドルフは銃を巣穴の出口に向けた。
 待つこと三分ほど。地中で大騒ぎとなっているのか、わずかな震動を感じた。
 ここで、チキンの声が聞こえる。

『今でちゅり!!』

 次の瞬間には、アナグマが巣から飛び出してきた。
 私とアドルフは同時に|引き金(トリガー)を引く。パシュという銃声と共に、弾が撃ち出される。
 見事、弾がアナグマに命中した。

「アドルフの弾が当たった?」
「いや、リオルのやつだった」

 ただでさえ散るタイプの弾だったのに、自分のと私のを見分けるなんて。どんな動体視力の持ち主だと聞きたくなってしまう。

 アドルフは獲物を回収し、袋の中に入れる。

「若いメスみたいだ」
「だったらおいしいかも」

 チキンが土だらけになって戻ってくる。

『どうだったちゅりか?』
「いい獲物を仕留めたよ」
『よかったちゅり!』

 ひとまずチキンの土を払い、ハンカチで拭ってあげる。バンガローに戻ったら、水浴びさせてあげたい。

「よし、リオル、戻ろうか」
「そうだね」

 ちょうど三十分で戻ってこられた。教師はアナグマを仕留めた私たちを評価してくれた。

「夜行性のアナグマを、よく捕まえられたな」
「使い魔の活躍があって」
「そうか、そうか」

 狩猟エリアのスタンプを貰うと、急いで天然水エリアに向かう。革袋の水筒に水を確保し、スタンプを得た。これで、すべてのスタンプが集まったわけである。
 私とアドルフは時間内に森を脱出した。
 森の出入り口にいた教師に、スタンプを押した地図を提出した。

「よしよし。時間内に戻ってきたな。スタンプも――全部ある」

 私たちで最後だったらしい。他の生徒たちはすでに戻ってきたという。

「皆、首席と次席コンビに勝ったなんて言っていたがな。これは速さを競うものではないのに」

 たしかに。食材の状態や品質を見て評価するという話だったので、速さで私たちに勝ったつもりになるのは間違いだろう。

「これが報酬だ」

 スタンプをすべて集めた者のみ手に入れられるのは、湖で使えるボート券だった。
 手渡されたものには、〝スワンボート券〟と書いてある。

「え、スワンボートって何?」
「リオル、お前、スワンボートを知らないのか?」

 アドルフは驚愕の表情で私を見つめる。

「知らない。初めて聞いたんだけれど」
「スワンボートは、去年、湖水地方に取り入れられた、白鳥型のボートだ。愛らしいと評判で、女性陣に人気が高いらしい」
「へー、そうなんだ。詳しいね」
「まあな。明日、リオニー嬢を誘うつもりだったから」

 その話を盗み聞きしていた教師が、一言物申す。

「おい、明日はスワンボート券は販売されないぞ。生徒に配布したからな」
「な、なんだと!?」

 教師相手に目をくわっと見開き、凄み顔で睨みつける。その迫力に、教師すらたじろいでいた。

「そうか。追加購入はできないのか……」

 アドルフはしょんぼりしていた。よほど、スワンボートに乗りたかったのか。
 
「だったらこれ、僕の分をアドルフにあげる。これで、姉上とスワンボートに乗ってくればいいよ」
「リオル、いいのか?」
「いいよ」

 リオルとリオニーはどちらも私なので、まったくもって問題ない。
 アドルフは何を思ったのか、スワンボート券ごと私の手を握る。

「リオル、この恩はかならず返す!」
「わかった。わかったから、手を離して」

 思いのほか、アドルフの手は大きくてごつごつしている。
 以前、リオニーとして会っているときに、手と手を触れ合ったことはあった。けれどもこうして素手に触れたのは初めてだったのだ。
 彼も十八歳。世間的には成人男性なのである。入学時の少年のようなイメージが強いため、びっくりしてしまったのかもしれない。
 突然の行動に戸惑ってしまったが、アドルフに恩を売れたので、まあよしとしよう。

 魔法学校の教師陣たちが集まる用地(サイト)に行き、食材のチェックをしてもらう。

「うん、うん……生食可能なベリー類に、キノコ、大黒貝、森菜に獲物はアナグマ! 食べられない食材はひとつもない。合格だ」

 全生徒の中で、アナグマを仕留めたのは私たちだけだったようだ。

「本当に素晴らしい! 集めた食材だけであれば、君たちがトップだ!」

 アドルフと顔を見合わせ、ハイタッチする。ただ、このあとに調理とレポートの提出がある。まだまだ油断できない。

「アナグマは魔法生物学の先生に解体してもらうように」

 指さされたテントに向かうと、中から魔法生物学の教師が顔を覗かせる。
 続けて、使い魔であるアライグマ妖精が出てきた。彼らにも血が付着していた。
 ひとりではなく、使い魔の手を借りて解体をしていたようだ。

「あ、アナグマですね!! 今日、初めてです!!」

 白衣をまとっていたのだが、全身血まみれだった。三学年、全生徒分の獲物を解体していたら、そうなるのも無理はないのかもしれない。

 魔法生物学の教師は精霊や妖精が好きなのかと思えば、生き物全般を愛しているらしい。

「ああ、そうそう。秋に獲れるアナグマの皮下脂肪は分厚くて。ああ、きれいだな。この脂肪で冬を越すんだ」

 解体しながらボソボソ呟いているが、真面目に聞かなくてもいい内容だろう。ナイフを握って解体しつつ話す様子は、かなり不気味だった。魔法学校の教師は、変わり者が多い。改めて思ってしまう。
 魔法生物学の教師は使い魔の手を借りつつ、部位ごとに切り分けてくれた。
 比較的大きな個体だったので、可食部位は思っていたよりもあった。
 骨はスープに使うので、肉とは別に取り分けてもらう。

「あ、あの、毛皮や眼球、脳みそ、内臓はいりますか?」

 私とアドルフは、同時に首を横に振ったのだった。
 あとは、これを調理するだけである。

 バンガロー利用者専用の野外調理場では、すでに多くの生徒が調理を開始していた。
 あるところでは大きな火が立ち上り、あるところでは焦げた臭いが漂う。
 ぎゃー! という悲鳴も聞こえ、この場は混沌と化していた。
 異様な空気に、アドルフは信じがたいと言わんばかりの表情を浮かべていた。

「リオル、料理は悲鳴をあげながらするものなのか?」
「違うと思う」

 手順と火加減さえ守っていたら、あのように悲鳴を上げることもない。そう伝えると、アドルフは安堵の表情を浮かべていた。
 そろそろ太陽が傾きかける時間帯である。急いで調理しなければならないだろう。
 使っていない調理場に食材を広げていく。

「俺は何をすればいい?」
「アドルフは窯に火を作っていて」

 もちろん、魔法で火を点す。魔力を制御し、一定の力で火魔法を常時展開させるのは至難の業だ。けれども、実用魔法の成績が常に一位だったアドルフにとっては簡単なことだろう。
 私は調理道具を借りに行く。さまざまな種類の鍋が用意されていたが、その中にあった魔石圧力鍋を手に取った。
 これは時間がかかる煮込み料理を短時間で作る、すぐれた魔技巧品だ。他に、ボウルやまな板、包丁などをかき集める。必要最小限の調味料も置いてあり、ありがたく使わせてもらう。
 両手に調理道具を抱えた状態で、アドルフのもとへ戻った。

「リオル、火加減はこれでどうだ?」

 窯の中で、炎がゴウゴウと巻き上がっている。

「えっと、それの三分の一以下の火力でお願い」
「わかった」

 皆、こんな感じのテンションで調理していたのだろう。悲鳴が上がるのも無理はなかった。
 調理場には水が引かれていて、蛇口を捻ったら水が出てくる。浄化魔法がかけられている水のようで、そのままでも飲めるらしい。

「アドルフ、森菜の土を落として、きれいに洗って」
「わかった」

 なんでこの俺が! と言われるかもしれない、と思ったものの、アドルフは素直に応じてくれた。
 その間に、私は別の調理に取りかかる。アナグマの骨と肉の一部を煮込まなければならない。
 魔石圧力鍋に骨と筋張った肉の部位を入れ、天然水を注ぐ。ここにアドルフが丁寧に洗ってくれた野草人参と小玉葱を皮ごと入れる。他に、道行く中で摘んだ薬草や香草を入れ、しばし煮込む。
 通常であれば十時間以上煮込むのだが、魔石圧力鍋だと三十分で済む。本当に便利な品だ。

 続いて、アナグマの串打ちを始める。

「僕は肉を切るから、アドルフはボウルにミルクを注いでおいて」
「承知した」

 これは、私たちが食べるための串焼き肉だ。
 取っておいた柔らかい部位を切り分け、臭み消しのためにミルクにしばし浸ける。
 肉をミルクが入ったボウルに放り込んだので、アドルフは驚いた表情で私を見つめる。

「リオル、これはミルク味の肉なのか?」
「違うよ。こうしてミルクに浸けておくと、肉の臭みが消えるんだ。それだけじゃなくて、肉自体も柔らかくなる」
「そのような知識、よく知っていたな」
「まあね」

 これは慈善活動で養育院にいったときに、教わったものである。
 やわらかくていい肉は買えないので、安くて硬い肉をやわらかくして食べようという暮らしの知恵だった。

 ミルクに浸けた肉を水で洗い、ひとつひとつ串打ちする。 
 アドルフが真剣な眼差しで、鉄串に肉を刺していた。
 味付けは塩コショウ、それから乾燥薬草をぱらぱらと振りかける。
 アナグマの串焼きの下ごしらえはこんなものでいいだろう。布をかけ、食品保存用の氷の傍に置いておいた。
 そろそろスープがいい頃合いだろう。
 魔石圧力鍋の蓋を開けると、白濁としたスープが完成していた。
 骨やくたくたになった野菜、肉を取り除く。肉はカットして、鍋に戻した。
 新しく野草人参、小玉葱やキャベツ草を加え、キノコ類もカットして入れる。
 ぐつぐつと煮立ち、食材すべてに火が通ったら、塩コショウ、香辛料などで味を調える。 
「アドルフ、味見をしてみよう」
「そうだな」

 アドルフにとって、アナグマは未知なる食材である。
 小皿に注いだスープを前に、緊張の面持ちでいた。スプーンでスープを掬って食べる。

「――っ!!」

 アドルフの瞳がカッと見開いた。その反応だけでは、おいしいのかそうでないのかよくわからない。

「アドルフ、どうかな?」
「これは、信じられないくらいおいしい。さっぱりしているのにコクと深みがあって、品すら感じる。極上のスープだ」

 お口に合ったようで、ホッと胸をなで下ろす。
 思っていた以上にたくさんできたので、中くらいの鍋に移して教師たちのもとへ運んだ。

 拠点に待機していた教師陣は、総じて顔色が悪かった。
 その理由は、生徒たちが作った料理にあるのだろう。
 私たちの前にも、料理を運んできた生徒がいた。

「題して、〝池の魚を油にどーん〟です」

 見た目は焦げている上に、泥抜きされていない魚である。
 すでに同じような料理を食べてきた教師が、涙で訴えた。

「お前たち、私に嫌がらせをするために、こんなものを作ってきたんだろう?」
「違うって」
「一生懸命作ったんだ」

 見た目は焦げているが、中の身は大丈夫なはず。そう言って、料理を勧めていた。
 教師がナイフで焦げをそぎ落とし、器用に身を切り分ける。

「半生(はんなま)……」

 隣に座っていた別の教師が、「食べないほうがいいです!」と叫んだ。
 けれども、制止を無視して教師は食べる。

「ウゲロロロロロロロロ!!」

 あらかじめ用意していた袋に、口の中に入れたばかりの魚を吐き出した。

「先生のほうが酷いじゃん!!」
「すぐに吐くなんて!!」
「酷いのはお前らだ!! こんなもん食ったら死ぬ!!」

 こういうのを繰り返していたため、教師陣はすっかり憔悴しきっているというわけだった。

 料理を持ってくるのは、私たちで最後らしい。
 教師のひとりが蚊が飛ぶようなか細い声で、「次」と言う。

「第三学年、一組、出席番号一番、リオル・フォン・ヴェイグブルグ」
「同じく、出席番号二番、アドルフ・フォン・ロンリンギア」
「お、おお、首席と次席コンビか!」

 いい食材を持ち帰っていたという話が届いていたらしい。
 教師たちは救世主を見るような視線を送ってくる。

「料理は、アナグマのスープ、です」

 アドルフはナプキンを広げ、皿とスプーンを置く。そこに、アナグマのスープを注いだ。

「こ、これは――!」

 ゾンビのように顔色を悪くしていた教師陣が、わらわらと集まってくる。
 そして、アナグマのスープを覗き込むと、口々に感想を述べた。

「ああ、ちゃんとしたスープだ」
「これまでの生徒が作ってもってきた、泥スープではない」
「なんておいしそうなんだ」

 泥スープとはいったい……? 聞いただけで不味そうだ。
 
「では、いただこう」

 固唾を呑みながら、試食を見守る。教師はスープを掬い、ごくりと飲んだ。
 眦から、つーと涙が伝っていった。
 泣いている。大の大人が、料理を食べて涙を流していた。

「う、うまい!! うますぎる!!」

 そこから一言も発さずに、ごくごくとスープを飲み続けた。
 他の教師たちも我慢できなかったようで、アナグマのスープを飲みたいと訴えてくる。
 鍋ごと持ってきていたので、全員にスープは行き渡った。

 アナグマのスープを完食した教師は、ぼんやりしつつ呟く。

「俺は、夢をみているのだろうか。生徒のクソ不味い料理を食べ過ぎたせいで、気を失った?」

 夢だと錯覚するくらい、アナグマのスープはおいしかったという。
 教師は大粒の涙を流しつつ、頭を下げる。

「もう、来年からは生徒に料理なんてさせない。この身をもって、学習した」

 教師一同、頷く。ただひとり、魔法生物学の教師だけは来年もやっていいと言っていた。解体のおかげで、研究資料がたっぷり集まったらしい。

「やりたいときは、ご自身の授業でやってください」

 実行は自己責任で。自分以外の教師全員から責められた魔法生物学の教師は、ひとりきょとんとしていた。

 料理部門でも、私たちは学年一位と評価される。
 あとは、レポートにまとめるだけ。

「レポートの提出は明日の朝だ。結果は三日目の朝に出る。楽しみにしておくように」

 教師の話に深々と頷く。
 このあとは、お楽しみの夕食の時間である。

 夕食はペアになった生徒とバンガローの前で野外炉料理(バーベキュー)と決まっていた。
 初めて聞く言葉だが、グリンゼルで人気を博しているらしい。
 先ほどの野外料理とは異なり、肉や野菜、パン、チーズなどの食材は学校側が用意している。
 男子生徒が集団になれば、盛り上がって騒いでしまうので、ペアでやることになっているらしい。
 ペア以外の生徒とは接触厳禁。つまり私はアドルフと共に食事をすることとなる。

「リオル、食材を貰いに行こう」
「うん、わかった」

 アドルフはごくごく自然に私に微笑みかけ、提案してくれた。
 取り巻きに囲まれているときには絶対に見せなかった表情である。
 私たちは本当に、以前の関係ではなくなってしまったのだろうか?
 わからない。
 けれども、一緒にいるときに居心地がよくなったのは確かであった。

 教師が宿泊する小住宅の前に、野外炉料理の食材と焚き火台、網、薪、火起こしセット、火鋏、トングなどが用意されていた。監督する教師が注意事項を呼びかけている。

「ステーキ肉はひとり一枚まで。野菜はきちんと持って行くように。パンは三つまで、チーズはふた欠片までだ」

 食材が山盛りにおいてあり、自分で取り分けて行くようだ。

「リオル、俺は焚き火台と道具を持つ。お前は食材を頼む」
「了解」

 生徒が食材にわらわらと群がっているが、間をすり抜けて自分たちの分を確保していった。

 焚き火台などを持ったアドルフと共に小住宅へと戻る。
 いろいろしているうちに、太陽は沈んでいた。外は真っ暗だが、アドルフは光魔法で灯りを作ってくれたので、視界はしっかり確保されている。
 バルコニーに焚き火台を設置したアドルフは、薪を山盛りにする。

「アドルフ、それはちょっと」
「違うのか?」
「全然違う」

 火は空気を含ませたほうが燃えやすい。そのため、ぎっちり重ね合わせたら、火が燃えにくくなってしまうのだ。

「なるほど、そういうわけか。火魔法の原理はわかるのに、物理的に発生させる火についての知識はからっきしだった」

 ちなみに、野外炉料理は火魔法での調理は禁じられていた。野外料理の大炎上を見て、薪を使うように変わったのかもしれない。

 火起こしは養育院で何度か行った私が担当する。
 アドルフが「俺は役立たずだ」としょんぼりするので、ある仕事を頼んだ。 

「ねえアドルフ、その辺に針葉樹の枝が落ちていたら拾ってきて」
「枝なんかなんに使う?」
「着火剤として使うんだ」

 針葉樹には着火を助ける樹脂が多く含まれている。薪だけでは火を点けることは難しいのだ。

「わかった。針葉樹だな? すぐに集めてこよう」

 アドルフがバルコニーから飛び出すと、フェンリルも大跳躍を見せて続く。
 この辺りは針葉樹だらけなので、すぐに集まるだろう。

 火鋏とトングを縛っていた麻紐を手に取り、裂いて解していく。これも、着火の際に使うのだ。
 アドルフが針葉樹の枝の束を持って戻ってきた。

「リオル、まだ必要か?」
「十分だよ。ありがとう」

 フェンリルが手伝ってくれたので、短時間でたくさん集められたらしい。枝拾いまでできるとは、かなり賢い。

 フェンリルを偉いと褒めていると、これまでポケットの中で眠っていたチキンが顔を覗かせる。

『ちゅりも、針葉樹の枝くらい集められるちゅり』
「だったら、チキンは広葉樹の枝を集めてきてくれる?」
『了解ちゅり!』

 広葉樹はここから少し離れた場所にある。薪があるので必要ないが、何かしたいお年頃なのだろうと察知したので、仕事を頼んでみた。

「おい、リオル。広葉樹の枝はなんに使うのだ?」
「広葉樹はじっくりゆっくり燃えるの。だから、火が安定してきたときに入れる用かな」
「なるほどな。木の種類によって、用途が異なるというわけだ」
「そうそう」

 焚き火台に薪を積み、上にアドルフが持ってきてくれた針葉樹の枝を並べていく。

 さっそく、火を点けよう。革袋に入れられた火起こしセットの中身は、|火打ち石(ストライカー)と金属棒(ロッド)である。
 金属棒で火打ち石を擦り、火花を起こす。このときに発生した火花から、大きな火を作るのだ。

「アドルフ、やってみる?」
「ああ」
「この解した麻紐に向かって、火を落として」

 金属棒を素早く火打ち石に擦りつけるだけだと説明したが、アドルフは苦戦していた。

「くっ……! 魔法であれば、一瞬で火が点くのに!」
「本当に、そうだよね」

 五分ほど奮闘した結果、火花が散った。運良く麻紐に落ち、小さな火が灯る。
 ふーふーと息を吹き込むと、火が大きくなっていった。

「リオル、火を置け! 火傷するぞ!」

 アドルフに急かされながら、火を置いた。針葉樹の枝のおかげで、火はすぐに大きくなる。
 強い風が吹いたが、火は消えない。
 暗闇の中に火の粉が舞って美しかった。思わず見とれてしまう。
 アドルフも同じことを考えているのか、しばしふたりで火を眺めてしまった。
 ぼんやりしている間に火が安定してきた。チキンが持ってきてくれた広葉樹の枝を追加しつつ、焚き火台に網を置く。

「まずはアナグマを焼いて食べてみよう」
「ああ、そうだな」

 食事は野菜から食べるようにと習ったが、今日ばかりはマナーに目くじらを立てる教師はいない。監督生であるアドルフも、同意してくれた。そんなわけで、先ほど串打ちしていたアナグマの肉を網の上に置く。
 ジュウジュウと音がするのと同時に、肉の焼けるいい匂いが漂ってきた。
 脂がたっぷりあるからか、網から滴り落ちていく。そのたびに、薪がボッと音を立てて火が燃え上がった。
 両面よく焼いていく。あまり食べ慣れない獣の肉なので、しっかり火を入れておきたい。
 焼けていそうな串を手に取り、ナイフで切ってみる。

「うん、いいかな」

 アナグマの串焼きが完成した。
 初めて自分で仕留めたアナグマである。ドキドキしながら頬張った。
 脂がジュワッと溢れ、肉の旨みを感じる。よく噛むと、ほんのり甘さも感じた。
 やわらかくて、とてもおいしい肉だ。
 アドルフはどうだろうか? ちらりと横目で様子を見る。

「なんだ、この肉は……!」

 それだけ零し、もう一口頬張った。目を閉じ、アナグマの串焼きを堪能しているように見える。感想を聞かずとも、おいしいというのがわかった。
 それから私たちは、無言でアナグマの串焼きを食べる。
 あっという間に完食してしまった。

「アナグマがこんなにもおいしいとは思わなかった」
「本当に」
「正直、ゲテモノ食いと思っていたのだが……」

 私も昔、父が狩ってきたアナグマを食べる前は、そういうふうに思っていた。

「貴族の間でおいしさが伝わらないのは、アナグマが夜行性だからだろうな」
「たぶん、そうなんだろうね」

 ちなみに父は、知人からアナグマ猟を教えてもらったらしい。

「今日、チキンがしていたみたいに、アナグマ猟は巣穴にフェレットを入れて、地上に追い出すんだって」
「なるほどな」

 猟犬ならぬ、猟フェレットがいないと、アナグマにありつけないようだ。

 続けて、アナグマのスープの残りを温めつつ、次なる調理に取りかかる。
 選んだ食材は、泥抜きしていた大黒貝である。
 四つ獲れたので、ひとりにつきふたつずつ。拳ほどの大きさがあるので、食べ応えがありそうだ。
 アドルフが魔法で洗浄したあとも、泥を少し吐き出していた。再度よく洗って網の上に置く。
 少し火が通ると、殻が開いてきた。さらに時間が経つと、パカッと開く。身の上にバターを置いて焼いていく。
 バターが溶け、殻の中でぐつぐつ音を立て始める。そろそろいい頃合いだろう。
 身の下にナイフを差し込み、殻と分離させたものをアドルフへ渡した。

「熱いから気を付けてね」
「わかっている」

 念のため注意したにもかかわらず、アドルフはあまり冷まさないで頬張ったようだ。
 顔を真っ赤にさせつつ食べている。

「熱い!! しかしおいしい!!」
「うん。一口噛んだ瞬間、スープかってくらいの旨みがじゅわっと溢れてきたね」

 泥まみれだった貝がこんなにおいしいなんて。丁寧な泥抜きの効果か、まったく泥臭くなかった。
 身はプリプリしていて、味わい深く、ほんのり効いた塩っけがいい。
 ぺろりと完食してしまう。
 続けてアナグマのスープを飲み、少しだけ胃を休める。
 その後も、肉や野菜を焼いて食べ、お腹がはち切れそうだった。
 こんなにお腹いっぱい食べたのは初めてである。
 バルコニーにはデッキチェアが置かれていて、寝転がれるようになっていた。
 先にアドルフのほうが横になっており、ぼんやりと夜空を眺めている。私も隣に腰を下ろした。

「君、こういうのしない人かと思っていた」
「食事のあとに寝たら、教育係に注意されるからな。でも、今日は目くじらを立てる者はいないから」

 そうだったと思い、私も寝転がる。

「あ――!」

 空には満天の星が広がっている。こんなにたくさんの星をみるのは初めてだ。

「嘘みたいにきれい」
「だろう? 王都は灯りが多い上に、工業が盛んだから、このようにたくさんの星は見えないのだろう」  

 しばし眺めていたら、星の粒が夜空を流れていく。

「あ、流れ星だ!」
「今日はよく流れているみたいだ。もう、十個も見た」
「そんなに――あ! アドルフ、願い星って知ってる?」
「なんだ、それは?」
「流れ星に願いを込めると、叶えてくれるっていうやつ」
「知らない」

 そんな話をしているうちに、また星が流れていった。

「アドルフ、願い星をしてみない?」
「そうだな」

 じっと夜空を眺め、流れ星が見えると願いを込める。
 一瞬にして、流れ星は消えてなくなった。

「リオル、お前はなんと願った」
「魔法学校を無事、卒業できますように」
「堅実だな」

 私の人生でもっとも楽しく、輝かしい時間だ。途中で断念するなんてしたくない。
 私のささやかな願いだった。

「アドルフは何をお願いしたの?」
「幸せな家族を築きたい」

 その願いは、いったいどういう意味なのか?
 たぶん、私と結婚して――という願いではないのだろう。
 世継ぎを私に産ませ離縁してから、想いを寄せる相手と結婚する。それが、アドルフの願いなのか。

 頭の上から冷や水をかけられたような気持ちになる。
 今の今まで、アドルフの想い人について調査することを失念していたのだ。
 私はごくごく普通に、宿泊訓練を楽しんでいた。
 こんなつもりではなかったのに。
 同時に、これまで不確かだった感情に気づく。もうすでに、アドルフに対して気を許していたのだ。
 だから、手放しに楽しんでいたのだろう。
 どうしてこうなってしまったのだろうか? これまでのいがみ合う関係でいるほうがよかったのに。
 希望に満ちた表情でいるアドルフに、言葉を返す。

「……叶うといいね」
「ああ」

 その言葉を最後に、アドルフと私は黙って夜空を見上げる。
 希望と絶望。
 それぞれ別のことを考えているのは明白だった。

 その後、協力して後片付けをし、一時間でレポートをまとめる。
 それぞれ役割を決めて分担したからか、想定よりも早く終わった。
 あとは、風呂である。

「アドルフ、僕は別荘にあるお風呂に入ってくる」
「そうか、わかった。そのまま、別荘で休むといい。教師の点呼には応じておくから」
「いいの?」
「もちろんだ」

 小住宅から別荘まで徒歩十五分ほどで、そう遠くもない。けれども、夜は冷えるので湯冷めしてしまう可能性がある。アドルフの申し出はありがたかった。

「代わりに、リオニー嬢に明日の予定を伝えておいてくれ」 
「わかった」
「お前は明日、どうするんだ?」
「別荘でゆっくりしておく。読みたかった本を、いくつか持ってきているんだ」

 用意していた言い訳を、よどみなく答えられた。アドルフは疑っている様子はないので、ホッと胸をなで下ろす。

「だったら、レポートは俺が提出しておこう」
「ああ、頼むよ」
「次に会うのは明日の夕方だな」
「そうだね」

 アドルフとはここで別れる。
 明日からはリオニーとして彼に会わなければならない。今日のところはゆっくり休もう。
 別荘に戻ると、侍女たちが優しく出迎えてくれた。
 彼女らが用意してくれたお風呂に浸かり、一日の疲れを落とす。
 ただ、思っていたほど体は疲れていなかった。
 力仕事はアドルフが担っていたし、フェンリルがいた安心感からか気を張っていなかったのかもしれない。

 お風呂から上がると、侍女が包装された丸い箱を運んできた。

「それは何?」
「アドルフ・フォン・ロンリンギア様からの贈り物が届いておりました」

 リボンを解いて中身を見ると、美しい帽子が収められていた。
 添えてあったカードには、〝グリンゼルの昼間は日差しが強いので、よろしかったら〟と書かれてある。
 
「すてきな贈り物ですわね」
「ええ」

 相手がアドルフでなければ、そう思っていただろう。
 どうせ、この贈り物も私の機嫌を損ねないために用意したに違いない。
 
「ねえ、手が空いている従僕はいる?」
「はい、おりますが」

 アドルフに感謝の気持ちを記したカードと、焼き菓子、そしてホットミルクでも運んでほしいと頼んでおく。

「ミルクにはたっぷり蜂蜜を溶かして作るようにお願いして」
「承知しました」

 きっと、硬いベッドで眠れないと思っている頃だろう。ホットミルクの力で、じっくり眠ってほしい。

 私も眠ろう。たくさん動き回ったので、深く眠れそうな気がした。

 ◇◇◇

 翌日――私は別荘で驚きの人物と出会うことになる。

「姉上、暇だから来た」
「なっ――!?」

 引きこもりのリオルが、突然グリンゼルにやってきたのだ。

「リオル、どうしてここにいらっしゃったの!?」
「姉上が一人二役をするって聞いて、面白そうだから見に来た」
「あ、あなたという子は……!」

 しかしまあ、これでリオルが別荘にいるという証拠はできたというか、なんというか。

「同級生が訪ねてきても、出てはいけません。わかりましたか?」
「どうして?」
「名前もわからないような相手と会って、不審がられたら困るからです!」
「ふうん」

 一日中、家で大人しく本を読んでほしい。そう言い聞かせ、玄関に向かう。
 心配でしかなかった。

 チキンが当然のごとく、私の肩に乗って同行しようとした。

「ごめんなさい。あなたは連れて行けないの」
『どうしてちゅりかー!』
「今日はリオルではなく、リオニーとしてアドルフと会わないといけないから」
『ちゅりー! ちゅりとアドルフ、どっちが大事ちゅり』
「それは、時と場合によるから」

 侍女が持っていたベルベットの小袋に、チキンを突っ込む。これの中に入れると、数秒でぐっすり眠るのだ。

「リオニーお嬢様、チキン様はお眠りになりました」
「そう。たぶん目覚めないと思うけれど、うるさくしたら口を閉じていいから」
「承知しました」

 なんとかチキンを侍女に託し、外に出た。

 本日は晴天。昨日よりも日差しが強い。アドルフが贈ってくれた帽子は、美しいだけではなく軽い。
 道行く人たちが振り返り、お喋り好きのご婦人はどこで買ったのかと声をかけてきた。

「こちらは贈り物ですの」
「まあ! すてき」

 この会話を再度することになろうとは……。
 待ち合わせに指定されたのは、喫茶店だった。五分前に到着したのだが、アドルフはすでに待っていた。
 魔法学校の制服ではなく、フロックコートを着ている。眼鏡をかけているので、いつもと違った雰囲気に見えた。

「アドルフ、お待たせしました」
「リオニー嬢――!」

 アドルフは胸に手を当てて、紳士の挨拶を返してくれた。

「帽子、ありがとうございました」
「よく似合っている」

 淡く微笑みかけられ、なんだか恥ずかしくなってしまう。
 こんなの私らしくない。話題を変えよう。

「今日は、魔法学校の制服を見られるのかと思っていましたのに」
「同級生に見つかったらからかわれるから、私服にした」
「もしかして、眼鏡も変装ですの?」
「まあ、そうだな」

 私が自慢の婚約者であれば同級生にからかわれるのも、やぶさかではないのだろう。入念に変装しているということは、きっと私を見られたくないから。
 ショックを受けている自分に、驚いてしまった。
 別に、婚約破棄したい相手がどう思おうかなんて、関係ないはずなのに。

「中に入ろう。個室を予約している」

 ここでも同級生に私を見られたくないからか、しっかり個室を確保していたようだ。
 田舎風に作られた内装はどこか素朴で、ホッとするような空間である。窓から見えるグリンゼルの湖畔は、絵画のように美しい。出された紅茶がとてもおいしく、焼き菓子は持ち帰りたいくらいだった。

「わたくし、ここのお店を気に入りました」
「それはよかった。以前、ここに住む――知り合いが、紅茶や茶菓子が最高だった、と話していたから」

 ドクン! と胸が大きく脈打つ。
 ここに住む知り合いというのは、アドルフの想い人ではないのか。
 説明する前に、少しだけ言いよどんだのも彼らしくなかった。
 このチャンスは逃さない。詳しい話を聞き出す。

「そのお方は、きっとたくさんの素晴らしいお店をご存じなのでしょうね?」

 アドルフは困惑が滲んでいるような、なんとも言えない表情を浮かべている。
 私に突かれたくない話なのだろう。

「とても、すてきなお方なのでしょうね」
「それは、どうだろう?」

 話を逸らしたいのか、アドルフは感情がこもっていない声で返す。

「社交場に出入りしているお方なのですか? お会いしたら、挨拶をしたいと思っておりまして」
「いや、彼女は――」

 知り合いは女性だ。粘ってみるものだと、内心思う。

「彼女はここで療養していて、人に会える状態ではないと、思う」
「ご病気、なのですか?」
「似たようなものだ。長い間ずっとここにいて、誰とも会っていない」

 これまでアドルフを責めるつもりで質問攻めをしていたのに、もう何も聞けなくなってしまう。
 アドルフの想い人は、グリンゼルの地で誰とも会わずに、療養しているという。
 きっと、アドルフから贈られる薔薇と恋文を楽しみに、過ごしていたに違いない。
 胸がズキズキと痛む。
 なぜ? どうして? 意味がわからない。

「あの、ごめんなさい。込み入った話を聞いてしまって」
「いいや、気にしないでくれ。いずれリオニー嬢にも、話すつもりだったから」

 けれども、話すタイミングは今ではないらしい。
 
「明日、ゆっくり話してくる。そのあと、打ち明けるから」

 アドルフは最初から、隠すつもりはなく、頃合いを見て私に話してくれるつもりだったらしい。
 それなのに、裏切られたと思い込んで、婚約破棄を目論んでしまった。
 自分で自分が恥ずかしい。
 心の中で深く反省した。
 それからなんとなく気まずい空気になったので、店を出ることにした。
 今日は一日自由行動というだけあって、至る場所に魔法学校の生徒たちがいる。
 クラスメイトとすれ違うのではと思ったが、今のところ誰とも会っていない。
 次はスワンボートに乗りに行くらしい。
 喫茶店から徒歩五分ほどの場所に、スワンボート専用の湖があった。
 湖には四隻の白鳥型のボートが優雅に泳いでいる。なんとも可愛らしい。
 スタンプラリーの景品になっていたので、魔法学校の生徒がうじゃうじゃいるはず。そう思っていたのに、閑散としていた。

「意外と、人がいらっしゃらないのですね」
「スワンボートは予約制で、朝いちに乗りたい時間を確保しておくから、待機列などがないのだろう」
「まあ、そうでしたのね。朝から予約してくださったの? お辛かったのでは?」
「いいや、辛くはなかった。昨晩ぐっすり眠れたからか、早く目覚めたからな」
「そうだったのですね。ありがとうございます」
「リオニー嬢が寄越してくれたホットミルクのおかげだ。焼き菓子もおいしかった。ありがとう」
「お役に立てたのならば、幸いです」

 ホットミルクを飲むアドルフというのが想像できなかったが、きちんと飲んでくれたらしい。

「ボートが用意できたようだ。乗ろう」
「ええ」

 スワンボートは湖を優雅に泳いでいるかのように移動している。乗りこんだあと確認したが、ボートを漕ぐ櫂(オール)やボート内に足こぎ装置などはない。

「アドルフ、このボートはどのようにして操縦しますの?」
「ここに魔石を填め込む場所があるのだが、これが動力源となっているらしい」

 アドルフ側に操縦するハンドルがあり、足元に加速装置(アクセル)と減速させる制動機(ブレーキ)があるようだ。

「動かすが、いいか?」
「はい」

 スワンボートは私に配慮してか、ゆっくり、ゆっくりと進み始めた。
 魔石に込められた魔力がなくなりそうになると、自動的に戻っていくという仕組みらしい。魔力が許す限り、自由に操縦していいという。

「もっとたくさんのスワンボートが入り乱れているのかと思っていました」
「衝突したら危険だからな。ここは第一スワンボート場で、ゆっくり楽しみたい人向けらしい」

 グリンゼルには何カ所かスワンボート専用の湖があるらしい。

「第四スワンボート場は速さが競えるようだ。魔法学校の生徒たちは、そっちに行っているだろうな」

 たしかに、周囲を見渡してみると、魔法学校の生徒たちの姿はない。ほとんどが老夫婦だった。

「年若いカップルは、薄紅色のスワンボートがある、第二スワンボート場に行っているのだろう」

 薄紅色のスワンボートは恥ずかしいので、アドルフがここを選んでくれてよかったと思う。

 スワンボートは紅葉した木々が取り囲む湖を泳いでいく。
 この美しい景色は、先ほどまでのザワザワした心を癒やしてくれた。

 
「今日は、リオニー嬢に感謝の気持ちを伝えようと思って」
「あら、なんですの?」
「この前、相談したことを覚えているだろうか?」
「相談、というと、素直になれないお相手のことでしょうか?」
「そうだ」

 アドルフが仲良くなりたかった相手とは、いったい誰だったのか。私を実験台にした結果を知りたい。

「その、貸し借りとやらをした結果、信じられないくらい打ち解け、仲良くなれた」
「それはよかったです。それにしても、アドルフほどのお方が、これまで仲良くなれなかった人がいらっしゃるなんて。いったいどこのどなただったのですか?」
「それは――リオニー嬢の弟君だ」
「え、リオル、ですか?」
「ああ」

 アドルフが素直になりたい相手は、他にいると思っていた。それが私だったなんて。信じがたい気持ちになる。
 突然の告白に、胸がバクバクと音を鳴らしていた。

「魔法学校に入学してからの二年間、俺はリオルがいたから、辛酸を嘗めるような事態に追い込まれていると思っていた」

 アドルフのなかでのかつての私は、どこかすかしていて、愛想がなく、天才肌。どこか他人を小馬鹿にしているような態度が鼻についていたという。

「けれども違った。すべては、俺がうがった目で見ていたからだった」

 それは、本の貸し借りをしたときに初めて知ったことだという。

「彼は天才ではなかった。努力を重ねた秀才だった。そういう姿は誰にも見せていなかったので、特に勉強せずとも、リオルはなんでもできてしまうと勘違いしていた」

 まさか、そういうふうに思われていたなんて。たしかに、人前でバリバリ勉強する姿は見せていなかったような気がする。

「それから、いかに俺が恵まれた環境にあったか、というのも知らなかった」

 図書館にある魔法書のほとんどは、アドルフの実家にもある。手紙を送ったら、翌日には転送してもらえたらしい。
 けれども何を思ったのか、貸し借りをするようになってから、図書館に借りに行ったこともあったようだ。
 なんでも私が借りた本と同じ物を、借りたかったらしい。

「驚いたのは、人気の魔法書は数ヶ月待ちで、すぐに借りられないということ。もうひとつは、思っていた以上に品揃えが悪いこと」

 魔法学校の図書館よりも、ロンリンギア公爵家の書庫のほうが取りそろえがよかったらしい。

「リオルは図書館にないものは国立図書館から取り寄せてまで、読んでいたらしい。もちろん、すぐに手元に届くわけもなく、半年待ちが普通の本もあった」

 それらの本を、アドルフはたった一日で手元に取り寄せることができる。それを知って初めて、他の生徒よりも恵まれた環境にいたのだと気づいたという。

「魔法書や参考書を思うように借りられない状況の中で、リオルが首席をキープするというのは、本人の絶え間ない努力の成果だろう。俺は彼を、世界一尊敬している」

 そして、いつか親友になりたいのだと、瞳を輝かせながら話していた。
 アドルフはリオルの姉だと思って話しているのだろうが、すべて私のことだ。
 どうしようもなく、照れてしまった。

「俺とリオルは同等で、高め合える存在だ。彼がいなければ、俺は途中でくすぶっていたかもしれない。だから、心から感謝している」

 素直に接するようになれてよかったと、笑みを浮かべながら語っていた。
 それは太陽の光を反射し、キラキラ光る水面よりも美しい笑顔であった。

 ああ、と顔を手で覆ってしまう。

「リオニー嬢、どうかしたのか?」

 ああ、そうだ。私はどうかしている。猛烈に顔が熱い。
 それよりも今、この瞬間に気づいてしまった。

 私はきっと、この男アドルフ・フォン・ロンリンギアに好意を抱いているのだ。

 よりにもよって、どうして彼なのか。
 できることならば、気づきたくなかった。
 アドルフへの恋心に気づいてしまった私は、顔すらまともに見られないという、大ピンチに陥っていた。
 様子がおかしいとアドルフが心配し、もう帰ろうかと提案する。
 それがいいのかもしれない。そう思って彼の言葉に頷いた。

 アドルフはスワンボートを桟橋に近づける。先に自らが下り、私に手を差し伸べてくれた。
 恥ずかしくて手なんか握れるわけがない。そんなふうに思っている間に、アドルフのほうから握ってくる。力強く引き寄せられることとなった。

「先ほどから顔が青白くなったり、赤くなったり……大丈夫か?」

 大丈夫ではない。私はきっとおかしいのだ。
 なんて言えるわけもなく、消え入りそうな声で頷くばかりだ。
 湖のほとりにベンチがあったので、アドルフに誘われて腰を下ろす。

「あっちの屋台で飲み物が売っているから、何か買ってくる。飲みたいものはあるか?」
「でしたら、アイスティーをお願いします」
「わかった」

 きんきんに冷えたアイスティーを頭から被ったら、この酔いも醒めるのだろうか?
 なんてことを考えてしまうくらい、今の私は冷静さを失っていた。
 ひとまずひとりになりたい。アドルフが去っていく後ろ姿を眺めながら、はーーーーと深く長いため息をつく。

「あれ、リオル――の、お姉さん?」

 聞き覚えがある声に、顔をあげる。そこにいたのは、ランハートだった。
 リオニーとして彼に会うのは初めてだった。全身が強ばってしまう。
 他のクラスメイトもいて、興味津々とばかりに視線を向けてくる。
 しかしながら、彼らはランハートが「ジロジロ見るな。失礼だろうが」と言って追い払ってくれた。

「俺、リオルの友達で、ランハート・フォン・レイダーっていいます。はじめまして」
「はじめまして。リオニー・フォン・ヴァイグブルグ、です」

 ランハートは帽子を取り、ぱちんと片目を瞑りながら会釈する。きっちりと紳士の挨拶をするアドルフとは真逆の男だと思った。

「隣、座ってもいいですか?」
「ええ、まあ、どうぞ」

 遠すぎず、近すぎずという位置にランハートは腰を落とす。

「びっくりしました。お姉さん、リオルとそっくりですね」
「よく言われます」

 魔法学校入学時は本当にそっくりだった。けれども今はあまり似ていないような気がする。卒業後、リオルが外でクラスメイトに会ったら、違和感を覚えるかもしれない。 
 弟が引きこもりで本当によかったと思う。

「雰囲気とかも、一緒なんじゃないかなー」
「一歳違いですので。幼少時は双子かと勘違いされることもありました」
「へー、そうなんだー」

 ランハートとはごくごく普通に喋ることができる。私がおかしくなってしまうのは、アドルフ相手のときだけだったようだ。
 本当に恋心というのは厄介である。

「あ、そうそう。さっき、ヴァイグブルグ伯爵家の別荘に行ったんですけれど、リオルはまだ寝ているって言われて」
「そ、そうでしたか。昨晩、遅くまで魔法書を読んでいたようで」
「やっぱり! リオルらしいなあ」

 侍女たちは言いつけを守ってくれたようだ。リオルも大人しくしていたようで、ホッと胸をなで下ろす。

 家に帰ったら、リオルを女装させて私の振りをさせておこうか。
 なんて考えていたら、信じられない事態になる。
 湖のほとりを、リオルが歩いているではないか。
 あれほど、家で大人しくしているようにと言っておいたのに。

「ん、あれ、あそこにいるのはリオル?」
「きゃーーーー!!」

 叫び声を上げ、ランハートを傍に引き寄せる。胸に彼の顔を押しつけ、視界を遮った。

「え!? え!? え!? な、何、ど、どうしたんですか!?」
「へ、あ、えっと、ヘビ!! ヘビがおりましたの!!」
「ヘビ!? お、お姉さん、落ち着いて!」
「クロシマ・オナガ・オオクロヘビですわ~~!!」
「お姉さん、ヘビの種類、詳しいですね!」

 ごちゃごちゃ騒いでいると、リオルは私に気づいたようだ。目線で早くどこかに行けと促す。
 リオルは「ああ」という表情を浮かべ、この場から去っていった。
 ホッと胸をなで下ろす。

「あ、あの、申し訳ありません。見間違えでした」
「そ、そうだよね。クロシマ・オナガ・オオクロヘビって、南国に生息するヘビだし」
「お詳しいのですね」
「まあ、授業で習ったから」

 完全にリオルが見えなくなったのを確認する。そろそろランハートを解放しよう。
 そう思った瞬間、目の前にいた人物と目が合う。次の瞬間、その人物が手にしていたアイスティーを地面に落としてしまった。
 見覚えがありすぎるその人物は、アドルフだった。親の敵にでも出会ったかのような表情でこちらを見ている。
 あまりの恐怖に、叫び声を上げてしまった。

「きゃーーーー!!」
「え、今度は何? また毒ヘビ?」

 アドルフはランハートの頭を片手で掴み、私から引き離す。

「ランハート・フォン・レイダー!! お前はリオニー嬢に抱きついて、何をしている!?」
「いやいやいや、誤解、誤解、誤解ーー!!」
「そ、そうです。先ほどわたくしが紐を毒ヘビと見間違えて、ランハート様を抱きしめてしまったのです!」

 そう訴えると、ランハートは解放される。けれども腕を引いて強制的に起立させられ、「いなくなれ!!」と脅されていた。

「あ、リオルのお姉さん、どうも、お騒がせしました」

 ランハートはそう言って、そそくさと去っていった。
 残された私は、険しい表情のアドルフとふたりきりになってしまう。 
「あの、その、申し訳――」
「リオニー嬢の傍を離れなければよかった」

 それは独り言のような言葉だった。
 苛ついているようだが、怒りの矛先は私ではないような気がする。
 たぶん、彼は自分自身に腹を立てているのだろう。
 表情や視線、発する空気から察してしまった。
 なんて言葉をかけていいものか、わからなかった。今は彼の発言を待つ。

「魔法学校の生徒がたくさん行きそうな場所は避けていたのに」
「わたくしと一緒にいるのを目撃されたら、恥ずかしいから?」

 聞くのを我慢していたのに、ついつい疑問を口にしてしまった。
 アドルフは傷ついたような表情で私を見る。

「それは違う! 魔法学校の者たちがリオニー嬢を見たら、興味を持ってしまうと思ったからだ」
「ああ、そういうことでしたか」

 ランハートもリオルとそっくりだと驚いていた。いちいち絡まれていたらキリがないので、配慮してくれたのかもしれない。
 ありがたい話だが、正直、私は誰にも紹介したくない婚約者なのだと思い込み、少しだけショックを受けていたのだ。あらかじめ、説明してほしかったと思う。

「それだけではなくて」
「なんですの?」

 小首を傾げつつ、アドルフに質問を投げかける。
 目が合うとアドルフは頬を赤く染めつつ、視線を逸らした。
 すぐに話しそうになかったので、予想を立ててみる。

「婚約者としての義務を果たしているところを、クラスメイトに見られるのが恥ずかしかった、とか?」
「それは違う! こうしてリオニー嬢と会うことを、義務だとか思っていない!」
「でしたら、監督生としての立場がなくなるとか?」
「なくならない!」
「うーーん」

 いったいアドルフはなぜ、私を同級生に会わせたくなかったのか。謎が深まる。

「同級生を避けていた理由(わけ)は」
「理由は?」

 アドルフは顔を赤くするだけでなく、汗も掻いていた。
 彼がここまで追い詰められたような様子を見せるのは初めてである。
 魔法学校に入学した当初の私が見ていたら、大笑いしていただろう。
 今は、どうしたのかと心配になるばかりだ。

 ハンカチを取り出し、アドルフの額の汗を拭いてあげる。
 一学年のときは私よりも背が低かったのに、この二年でずいぶん伸びた。
 今では見上げるくらい、背が高くなっている。
 アドルフは私の行動に驚いたからか、体を仰け反らせる。

「あの、アドルフ。そのように体を傾けられては、汗が拭けません」
「あ、汗?」
「ええ。びっしょりと汗を掻いております」

 アドルフは額に手をやり、ハッとなる。汗を掻いている意識もないほど、余裕がなかったようだ。

 アドルフにハンカチを手渡してから、再びベンチに腰かける。

「それで、理由をお聞かせいただけますか?」
「理由、理由は――」

 意を決したのか、アドルフは力強い瞳で私を見つめる。
 そして、驚きの理由を口にした。

「同級生がリオニー嬢に出会ってしまったら、好きになると思ったから」
「はい?」

 彼はいったい何をいっているのか、という追及を「はい?」の一言に込める。
 アドルフは耳まで真っ赤にさせていた。

「あの、おっしゃっている意味が、よくわからないのですが?」
「そうだと思っていた。リオニー嬢は、自分の魅力に気づいていない。だから、ランハート・フォン・レイダーにあのような行動を――!!」

 何やらぶつくさ言っていたようだが、早口かつ低い声だったので聞き取れなかった。
 同級生に会わせたくない理由はよくわからないものだったが、これ以上追及しても、納得する答えなんぞ聞けないだろう。
 この問題については、頭の隅に追いやることにした。

「リオニー嬢、すまない。飲み物を落としてしまった」
「よろしくってよ」

 ガラス製のコップを落としたのは芝生の上だったので、割れていなかった。
 拾おうと立ち上がったが、アドルフが素早く回収した。

「新しいものを買わないと」
「いいえ、大丈夫。もう帰りましょう」
「具合は?」

 そう聞かれ、思い出す。
 先ほど、私はアドルフへの恋心に気づき、青くなったり、赤くなったり異変を露呈していたのだ。
 いろいろあったせいで、すっかり忘れていた。
 意識してしまい、まともに顔も見られないような状況だったが、リオルやランハートの出現で緊張が解れた。
 かと言って、ふたりに感謝なんてしたくないのだが。

「では、別荘まで送ろう」
「……」

 リオルとアドルフが鉢合わせしてしまったら大問題である。
 けれどまあ、先ほど睨みを利かせていたので大丈夫だろう。たぶん。

「よろしくお願いします」

 そう言葉を返すと、アドルフは明らかに安堵した表情を見せる。
 差し出された手に、指先を重ねる。
 具合が悪かった私を慮り、ゆっくりゆっくり歩いてくれた。
 婚約したばかりの頃は、足早に進むときもあった。最初は憤っていたものの、それがアドルフのごくごく普通の歩く速度だと知ったのはずっとあとだった。
 彼はこの二年間で変わった。三学年となり、大人の男性のようになりつつあった。
 魔法学校を卒業したら私たちは結婚をして、そのあとは――。
 胸がちくりと痛む。
 アドルフが毎週のように薔薇と恋文を贈っていたなんて、聞かなかったらよかった。
 けれども、知らなかったらアドルフに深く干渉し、彼の本質を垣間見ることはなかっただろう。

「あの、アドルフ」
「なんだ?」
「子どもは何人欲しいのですか?」

 そう問いかけると、アドルフは歩みを止める。
 顔を真っ赤にさせた上に、信じがたいという表情で私を見つめていた。

「わたくし、何かおかしなことを申しましたか?」
「い、いや、その、なんていうか、そういう話は、結婚してからするものだと思っていたから」
「別に、結婚することは決まっているのですから、いつ聞いてもおかしくはないのでは?」
「そ、そうだな」

 私の指摘を受け、アドルフは真剣に考え始める。

「俺は弟妹(きょうだい)がいなかったから、いたら楽しいだろうな、と思っていた」
「おふたり、もしくはそれ以上、欲しいのですか?」

 そう問いかけた瞬間、眉間にギュッと皺が寄る。

「いや、出産は女性の体への負担が大きい。魔法で痛みを軽減できても、目に見えないダメージは残ると、医学書に書いてあった」
「ええ」

 出産は命がけだ。母を亡くした私は、特にそう思っている。
 今、健康で生きていられることに、心底感謝していた。

「子どもはひとりでいい。男でも女でも、養子であっても、爵位が継げるように国王陛下へ陳情するつもりだ」

 彼ははっきり、養子と口にした。
 暗に、子どもが産める体でなくても大丈夫、と示しているのだろう。
 それはきっと、将来結婚するであろう、彼の想い人に対する配慮なのかもしれない。
 ずっとここで療養していると聞いた。きっと、子どもを産める体力はないのだろう。

「これは大事な話題だったな。結婚する前に話せて、よかったと思っている」
「わたくしも」

 アドルフと肩を並べ、別荘に戻る。
 リオルと遭遇することもなく、無事、送り届けてもらった。 

 ◇◇◇

「リオルーーーーー!!」

 部屋で本を読んでいると執事から聞いたが、訪ねるとソファの上でぐっすり眠っていた。

「リオル、起きなさい! リオル!」
「うーーん、何?」
「何、ではありません。あなた、どうして出歩いていましたの? あれほど、家で大人しくしているように言ったのに」
「うるさ。耳にキーンと響く」
「あなたが悪いのですよ!」

 リオルはのろのろと起き上がり、のんきに背伸びをする。
 そして、外出の理由を語った。

「いや、澄まし顔の姉上を見にいっただけなんだけれど」
「あなたという子は……」

 彼に関しては、何を言っても無駄なのだろう。
 がっくりと肩を落としてしまう。

「一緒にいたのがアドルフ・フォン・ロンリンギア?」
「違います。彼はクラスメイトです」
「なんでクラスメイトを、熱烈に抱きしめていたの? 意味がわからないんだけれど」
「そ、それは! あなたがいたから、隠すためです!!」
 
 もう、これ以上話すことはない。回れ右をしようとした瞬間、リオルが待ってと引き留めてきた。

「姉上、僕は今日、王都に戻るよ。なんていうか、実家じゃない場所は落ち着かないから」
「落ち着かないってあなた、今までぐっすり眠っていたではありませんか」 
「さっきのは仮眠」

 ひとまず王都に戻るというので、ホッと胸をなで下ろした。

「姉上たちは竜車で来たんでしょう?」
「ええ」
「訓練生の竜車に乗るとか、怖いもの知らずだよね。信じられない」
「補助する教官はきちんといましたから」
「それでも、落下の危険はゼロではないのに」
「まあ、そうですけれど」

 私はアドルフのおかげで、教官の竜車に乗っていたなんて言えなかった。

 ◇◇◇

 その後、アドルフへのお詫びとして、クッキーを焼いた。
 ここ最近バタバタと忙しかったので、こうしてクッキーを作るのは久しぶりである。
 今日は時間があるので、少しだけ手が込んだクッキーを作ろう。
 小麦粉とコンスターチを合わせて作る、絞り出しクッキーだ。
 このタイプのクッキー生地は他のものと比べてやわらかく、型抜きができない。そのため、袋に入れて絞り出すのだ。
 まず、バターをクリーム状にホイップし、粉砂糖を入れて混ぜる。あまり混ぜすぎると、焼いたあとに崩壊しやすくなるという。そのため、撹拌はほどほどに。
 これに卵白を少しずつ加え、小麦粉とコンスターチをふるいにかけながら投入。これも混ぜすぎたら食感が悪くなるので、ほどよい感じに。
 生地は紅茶味とベリー味、プレーンの三種類にしてみた。
 星口金を入れた袋に生地を入れ、油を薄く塗った鉄板に絞っていく。
 十五分ほど焼いたら、絞り出しクッキーの完成だ。
 よく冷ましてから、缶に詰めていく。
 ランハートにもお詫びとして渡したいが、前回のようにアドルフに見つかったら面倒な事態になる。
 彼には別荘の菓子職人が作ったベリー・マフィンを持っていこう。

 リオルが王都に帰っていく様子を見送ったあと、身なりを整える。
 お風呂に入って香水などの匂いを落としておく。
 魔法学校の制服に着替え、お詫びのクッキーとマフィンを持って別荘を出る。
 太陽が傾きつつあった。あっという間に一日が過ぎていく。
 小住宅に戻ると、アドルフが小難しい表情で本を読んでいた。

「リオル、戻ったか」
「うん」

 何を読んでいるのかと覗き込むと、〝小熊騎士の大冒険〟という子ども向けの児童書だった。

「それ、どうしたの?」
「寝台の下に落ちていた。誰かが忘れたのだろう」
「そのシリーズ〝熊騎士の大冒険〟のほうが面白いよ」
「小熊から読むのではないのか?」
「それは、熊騎士の大冒険の子ども世代の話だから」
「そうだったのか!」

 思いのほか、面白かったという。その昔、リオルが読んで「子ども騙しだ」なんて言っているのを思いだし、笑いそうになった。

「あ、そうそう。これ、姉上から預かってきた。手作りクッキーらしい」

 クッキー缶を差し出すと、アドルフの表情がパッと明るくなる。
 さすが、クッキー暴君といったところか。

「今日のお詫――いや、お礼だって」
「そうか」

 もうひとつの箱に視線が向く。ジロリと睨んでいるようにも見えた。

「これはランハートのだけれど、うちの菓子職人が作ったマフィンだから」

 缶の蓋を開き、中身を見せる。手作りクッキーでないとわかったので、アドルフはうんうんと頷いていた。
 本当に、彼はクッキーが大好きなのだろう。

「リオル、明日はどうするんだ?」
「ランハートと遊ぶ約束をしている。アドルフは?」
「人に会いに行く」

 胸がドクンと脈打つ。明日、アドルフは想い人に会いにいくのだ。
 ランハートとの予定は、薔薇と恋文を贈っていた想い人の調査であった。
 彼を尾行したら、相手が誰なのかわかるわけだ。

「リオル、あまりはしゃぎすぎるなよ。発見したら、教師に報告するからな」
「わかっている。アドルフも――」
「なんだ?」

 楽しんできて、というシンプルな一言が出てこない。
 きっと彼への恋心が妨害しているのだろう。

「なんでもない。夕食は?」
「まだ」
「だったら、一緒に食べにいこう」

 二日目の夕食は、教師陣特製の鶏の丸焼きとスープ、パンだった。
 どれもおいしくて、楽しい夕食の時間となった。
 夕食を食べたあと、アドルフが焚き火をしたいと言い出す。
 仕方がないので、付き合ってあげることにした。
 帰り道に落ちてあった枝を拾い集めながら、小住宅に戻った。
 アドルフが火を起こし、私は紅茶の用意をする。朝、紅茶を飲みたいので、別荘からお茶セットを持ってきていたのだ。

 ポケットの中で爆睡していたチキンは、枕の下に突っ込んでおく。たぶん、朝まで目覚めないだろう。
 チキンは枕の下で眠るのが大好きで、私が頭を置こうが関係なしに爆睡するのだ。

 バルコニーに出ると、すでに焚き火台に火が灯っていた。

「ひとりでできたんだ。偉いじゃん」
「まあな。これくらい、たやすいことだ」

 焚き火台に網を置き、その上にヤカンを設置する。
 しばし、ぼんやりと燃える火を眺めていた。

「リオル、リオニー嬢は何か言っていたか?」
「別に……」

 スワンボートに乗って、恋を自覚して、ランハートと出会ってしまって、それから支離滅裂な言動をするアドルフとかみ合わない会話をして――。

「いや、楽しかったって言っていたよ」
「そうか、よかった」

 胸に手を当てて安堵するアドルフの様子を見ていると、どうしてか泣きたくなる。
 彼の心には、私以外の大切な女性(ひと)がいるのだ。

「湯が沸いたな」
「そうだね」

 紅茶に蜂蜜とミルクをたっぷり入れて、あつあつのうちに飲んだ。
 寒空の下だったからか、アドルフが隣にいたからか、いつもよりおいしく感じてしまった。

 アドルフはこのあとお風呂に入ってくるという。
 私は先に眠ることにした。
 寝間着に着替え、寝台に横たわる。
 アドルフが戻ってくる前に眠ってしまいたかったが、今日に限って眠れない。
 就寝前の紅茶がよくなかったのか。
 茶葉には神経を興奮させる成分が入っているので、夜に飲むのはオススメしない。
 わかっていたが、猛烈に紅茶が飲みたい気分だったのだ。
 枕の下で眠るチキンを覗き込むと、羨ましいくらい爆睡していた。
右に、左にと寝返りを打つ。しかしながら、眠れない。
 もしかしたら、枕や布団がいつもと違うので、眠れない可能性がある。
 別荘の寝具は、実家にあるものと同じ職人が作ったものだったので、ぐっすり眠れたのだろう。
 ため息をひとつ零したのと同時に、アドルフが戻ってきた。

「リオル、もう寝たか?」

 その問いかけはどうなのか。眠っていたら、返事なんてあるわけがないだろう。
 アドルフと話したらさらに眠れなくなりそうなので、申し訳ないが寝ているということにしておいた。
 アドルフはそのまま灯りを消す。もう眠るようだ。
 ぎし、と寝台が軋む音が聞こえる。それから、布団やブランケットがこすれて鳴る音も妙に耳につく。
 アドルフがこの下で眠っている。それだけなのに、妙に緊張してしまった。
 寝返りを打たずに、じっと息をひそめる。二時間はそうしていただろうか。
 そうこうしているうちに、私は寝入ってしまった。

「リオル、リオル、起きろ! 遅刻だ!」
「ん……んん!?」

 アドルフの声――それから自分の声を聞いて、ギョッとする。声変わりの飴の効果が切れているのだろう。
 枕の下を探って、飴を入れた袋を掴む。

『ちゅり~?』

 握ったのはチキンだった。大きさが同じくらいなので、紛らわしい。
 枕をひっくり返し、飴が入った袋を手に取る。飴を口に含んでから返事をした。

「すぐに行く!」
「外で待っているぞ」

 三日目の朝は、レポートの成績を発表する日だ。あと五分で、朝礼が始まるらしい。
 急いで着替え、顔は濡れたタオルで拭うだけにしておく。口も濯ぐだけにしておいた。
 髪を櫛で梳り、紐で纏める。寝ぼけ眼のチキンをポケットに詰め、タイを結んだ。
 起床から三分で、身なりを整えた。人生最短記録である。

「アドルフ、ごめん」
「走るぞ」

 アドルフは私の手を握り、走り始める。フェンリルもあとに続いていた。
 一分前に集合場所に辿り着く。他にも時間ギリギリの生徒は数名いたので、悪目立ちすることはなかった。

 教師が前に立ち、レポートについての所感を話し始める。

「皆、採りやすい食材に、釣りやすい魚、獲りやすい獲物を集めた結果、似たり寄ったりなレポートになっていた。そんな中で、リオル・フォン・ヴェイグブルグとアドルフ・フォン・ロンリンギアのペアは、独自の食材を集めただけでなく、食材の情報を絡めた読み応えのあるレポートを提出してくれた。よって、ふたりを一位とする。高位魔石は彼らにのみ進呈しよう」

 アドルフと顔を見合わせ、ハイタッチする。まさかここまで評価されるなんて、想定していなかった。
 景品である魔石を選んでいいという。教師のひとりが魔石を盆に載せ、持ってきてくれた。

「リオル、どの魔石がいい?」
「アドルフは?」
「お前が選んでくれ」
「だったら――」

 光の魔石を指差すと、革袋に入れた状態で進呈された。
 アドルフに渡そうとしたら、首を横に振る。

「それはリオルが受け取ってくれ」
「どうして?」
「昨日のスワンボート券のお返しだ」
「あ――!」

 あれは結局私も乗っていたのだが……。返そうとしても受け取ってくれない。

「あとで欲しいって言っても、返さないからね」
「ああ、そうしてくれ」

 本当の本当に、受け取ってもいいみたいだ。
 ありがたくいただいておく。

「アドルフ、ありがとう。嬉しい」
「そうか。よかった」

 これがあれば、輝跡の魔法を使える。胸がドキドキと高鳴った。

「それはなんに使うんだ?」
「輝跡の魔法を試してみたくて」
「ああ、なるほど」

 レポートの結果発表は終了し、お昼までの時間は自由行動となる。
 ここでアドルフと別れ、ランハートと合流した。

「おーい、リオル」
「ランハート」

 ちらりと横目でアドルフのほうを見る。懐から手帳のようなものを取り出し、険しい顔で見詰めていた。まだ、動き始めそうにない。
 その様子をランハートと確認する。アドルフが行動を開始するまで、適当な雑談をするしかないようだ。

「お前たち来るの遅かったから、ヒヤヒヤしたぜ。首席コンビが遅刻とか、ありえないからな」
「まあね」
「どうしたんだ?」
「僕が寝坊したんだ。なんだか眠れなくて」
「大丈夫なのか?」
「平気。たぶん五時間くらいは眠っているから」

 アドルフから光の魔石を貰ったからか、興奮している。今は眠気なんて欠片もなかった。

「あ、そうそう。これ、姉上から預かってきたんだ」
「お姉さん?」

 マフィンが入った缶を差し出すと、キョトンとした表情で受け取る。

「昨日、姉上に会ったんでしょう?」
「あー、そう。あったね、そんなことが」
「それで、迷惑をかけたみたいで、このお菓子はお詫び」
「お詫びだなんて。これ、もしかしてお姉さんの手作り?」
「違う」
「そっか。律儀なお方だな。昨日の出来事なんて、俺にとってはご褒美みたいなものだったし」
「どこが?」
「リオルのお姉さん、とんでもなく美人でさ、いい匂いで、体もふわふわだった」

 ランハートはいつもの調子だったが、脳内でそんなことを考えていたとは。

「あとなんか、面白い人だったなー。ドマイナーな毒ヘビの名前をスラスラ言ったところなんか、最高だった」
「そう」
「ああいう人と結婚したら、毎日楽しいんだろうなー。もしも、アドルフとの婚約が破談されたら、俺が結婚してほしいくらい」 
「は!?」
「なんでそんなに驚くんだよ」

 それは私が当事者だからだ、なんて言えるわけがない。
 私と結婚したいだなんて、ランハートはいったい何を考えているのか。

「ねえ、ねえ、弟の立場からして、俺がお義兄(にい)さんになるの、どう思う?」
「ランハートが身内になるの?」
「そう!」

 彼はきっと一途で、愛人なんか迎えないだろうし、妻となった女性を大切にしてくれそうだ。変なしがらみもなく、平和に暮らせるに違いない。
 もしも、アドルフとの婚約が決まる前に、どちらがいいか聞かれたら、確実にランハートを選んでいるだろう。

「ランハートがいたら、なんか、楽しく暮らせそう」
「だろう?」

 でも今は――……。
 アドルフの姿が思い浮かび、打ち消すようにぶんぶんと首を横にする。

「リオル、どうしたんだ?」
「どうもしない」

 虫でもいたのかと、ランハートは私の周囲を手で払ってくれる。本当にいい奴だと思った。

「そういえば昨日、うちの別荘を訪ねてきたって話を聞いたんだけれど、何の用事だったの?」
「ああ、そう。毎週、薔薇と恋文が届く家についての噂話を耳にしたんだ」

 それは、ランハートが友人らと居酒屋(パブ)の前を通りかかったときに、客引きの女性から引き留められたのだという。

「ひとりの女性へ、熱心に薔薇と恋文を届ける魔法学校の生徒がいるって、一部の界隈で話題になっているらしくて、誰か知らないかって聞かれたんだ。もちろん、答えなかったけれどね」
「そう、だったんだ」

 客引きの女性は、薔薇と恋文が届く先も教えてくれたという。

「この辺りの観光街から北に進んでいくと、霧ヶ丘って呼ばれる場所があるらしい。そこに赤い屋根の屋敷がある。その屋敷に、薔薇と恋文が届けられているんだ」
「そうだったんだ……。あ、アドルフが動き始めた」

 私とランハートは追跡を開始する。フェンリルを連れているため、あまり接近はできない。もしも見失ったときは、霧ヶ丘の赤い屋根の家を目指せばいいのだろう。
 つかず離れずの距離で、進んで行った。アドルフはいつもより急ぎ足で進んでいる。
 愛しい女性に一秒でも早く会いたいのかもしれない。
 途中、アドルフは花屋さんに寄り、薔薇の花束を購入する。
 いつもは真っ赤な薔薇を選んでいるようだが、今日は紫色の薔薇である。
 薔薇の花束を購入し、街を抜けると、アドルフはフェンリルに跨がって颯爽と駆けて行ってしまった。

「ああ、クソ! フェンリルを使ったかー」

 アドルフが薔薇の花束を買っている間に、街の人から話を聞いたのだが、霧ヶ丘まで徒歩ならば二時間はかかるらしい。
 話を聞いたとき、きっとフェンリルに乗って行くのだろうな、と想定していた。

「往復で二時間か」
「リオル、今から馬車を借りてこようか?」
「ううん、いい」

 走っていきそうだったランハートの服の袖を摘まみ、彼の行動を制止する。

「いいって、アドルフの想い人について、気になっていたんじゃないのか?」
「こういうふうに尾行するのは、アドルフに対して申し訳ない。彼は姉上に言ったんだ。時期がくれば、秘密について話すって」
「でも、そういうのって、婚約前に打ち明けるものじゃないのか?」
「そうかもしれないけれど、彼にも事情が、あるんだと思う」

 仕方がない――そう告げたのと同時に、涙が溢れ、零れてしまった。

「ランハート、帰ろ」
「それでいいのか?」
「いい」

 きっと、アドルフは想い人について話してくれる。それまで待とう。
 そして――素直に打ち明けてくれたら、私は彼と結婚する。

「婚約破棄はどうするんだ?」
「しない。姉上は、アドルフと結婚する」

 ロンリンギア公爵家と縁を繋ぎ、私はアドルフの子どもを産む。
 そのあとは、まだどうなるかわからない。
 けれども、アドルフには幸せになってほしいと思っている。

「なんで泣くんだよ。悔しいのか?」
「違う」

 自分でも信じられないくらい、私はアドルフのことが好きで、アドルフも私を好きであってほしいと望んでいるのだ。
 アドルフには愛すべき女性がいる。
 彼の気持ちがこちらに向くことは絶対にない。
 それがどうしようもなく悲しくって、涙が零れてしまったのだろう。

 ランハートは私を抱きしめ、背中をトントン叩いてくれる。

「リオル、泣き止めー! 泣き止めー! いい子だから」

 まるで、赤子をあやすように慰めてくれる。
 それが功を奏したようで、涙は比較的早く引っ込んでしまった。

 ランハートと肩を並べ、来た道をトボトボ帰る。

「なあ、リオル。やっぱり、アドルフと婚約破棄しない?」
「どうして?」
「アドルフにお姉さんはもったいないから。俺と結婚しなよって、助言してくれないかな~?」
「できるわけないじゃん。家庭内の発言力はゼロに等しいのに」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」

 アドルフとの婚約破棄を目論見、父に反抗した結果、絶縁されそうになった。
 私の訴えなんて、父は聞く耳なんて持たないだろう。

「ランハート、大丈夫だよ。姉上は強(したた)かだから」
「そうかもしれないけれどさー」

 この先、結婚したことで新しい幸せの形を発見できるかもしれない。
 一度しかない人生だ。
 なるべく悲観しないようにしなければならないだろう。

「リオル、俺はいつでもお前の味方だからな」
「ランハート、ありがとう」

 彼という存在も、私が見つけた幸せの形だろう。
 けれども、私が女だと知ったらどうなるのか。
 いくら寛大なランハートでも、騙していたのかと怒るかもしれない。
 少しだけ、胸がちくりと痛んだ。

  ◇◇◇

 宿泊訓練はあっという間に終わった。
 後日、アドルフから私宛てに手紙が届く。
 グリンゼルで話していた、彼の事情を打ち明けるのを、もう少し待ってほしい、というものだった。
 なんでも、少し事情が変わったらしい。最後に必ず話すから、と書いてあった。
 何があったのかはわからないが、私はこのまま知らないほうがいいのではないか、と思っている。
 彼の長きにわたる愛なんて聞きたくないから。
 ひとまず、この件については忘れることにした。

 宿泊訓練が終わり、いつもの日常が戻ってくると思っていた。しかしながら、私を取り巻く状況は、がらりと変わる。
 朝――教室で予習をしていたら、私の顔を覗き込み、挨拶をしてくる者が現れる。
 ランハートだと思っていたが、違った。

「おはよう、リオル」
「おはようって、え!?」
「何をそんなに驚いている?」
「だって」

 私に笑顔で挨拶してきたのは、アドルフだから。
 まるで普通の友達のように接してきたので、びっくりしてしまった。

「朝の挨拶をするのはおかしいのか?」
「おかしくない」
「だろう?」

 アドルフの変化に、私だけでなくクラスメイトも驚いているようだった。
 それからというもの、アドルフはいつもの取り巻きを遠ざけ、私とばかり行動するようになった。

「ねえ、アドルフ。いつものお友達はいいの?」
「あいつらは友達でもなんでもない。俺が次期公爵だから、媚びへつらっている奴らばかりだ。もしも俺が次男か三男だったら、見向きもしないだろう」
「そんなことは――」
「ある」

 言い切ったアドルフの瞳は、少し悲しげだった。私まで、なんだか切なくなってしまう。

「僕は、アドルフが次期公爵じゃなくっても、すごい人だって思っているよ」
「お前はそうだろうと思ったから、今、一緒にいる」

 私を見つめるアドルフの瞳には、信頼が滲んでいるように思えた。
 それに気付いた瞬間、胸がじくりと痛む。
 私はリオル・フォン・ヴァイグブルグではない。彼に嘘を吐いているのだ。
 いつか本当のことを話したとき、アドルフはどう思うか。
 考えただけでも辛くなる。早く話したほうが、気は楽になるが――。

「リオル、次は実験室での授業だ。行くぞ」
「うん」

 残り少ない学校生活だ。それを無駄にしたくない。
 だから今は、リオルのままでアドルフと一緒に過ごそう。
 あと少しだけ、そう自分に言い聞かせながら、アドルフの隣に並んだのだった。