アドルフから借りた薬草魔法の魔法書は大変素晴らしいものであった。三回ほど繰り返して読み、その後、時間が許す限りノートに写して保管する。
 この貴重な本を長く借りておくわけにはいかないので、一週間ほどでアドルフに返した。

「もういいのか?」
「全部ノートに写したし」
「写しただと? 魔法陣もすべてか?」
「まあ、うん」

 呪文や魔法陣の中には、魔法式を理解しないと記録できないものが多い。借りた本に書かれてあった内容は、それがほとんどだった。だからアドルフは驚いているのだろう。

「リオル、お前は魔法学院に進むのか?」
「だとしたら、どうするの?」
「魔法学院には、高名な魔法薬学の教授がいる。ただ高齢で、誰かの紹介がないと授業をしてくれないらしい。お前が望むのならば、紹介状を父に書かせるが」
「いや、大丈夫。魔法学院には行かないから」

 魔法学院というのは、魔法をさらに専門的に学ぶ場所である。主に魔法師になる者が進む道だ。

「行かない……? お前、まさか魔法騎士にでもなるつもりなのか?」

 文武両道の魔法騎士は、魔法学院に進学せずに魔法学校を卒業したあとに進む道である。ここに通う生徒の三分の一は、魔法騎士になるのだ。

「魔法騎士にはならない。僕は実家で家業を手伝いながら、ひとりで研究をする」
「は!? お前、才能を無駄にするつもりか!?」

 アドルフは私の肩をガシッと掴み、血走った目で訴えてくる。

「お前ほど熱心に魔法を学び、真面目で、周囲の人間からも好かれる奴なんて他にいない。家に引きこもって孤独に研究をする将来なんて、ありえないだろうが!」

 なぜ、私はアドルフに褒めちぎられ、将来の心配をされているのか。
 そういうふうに思われていたなんて、知らなかった。

「なんだか知らないけれど、褒め言葉だけ受け取っておくよ」
「ほめ――!? ほ、褒めてない!!」

 私が本当のリオルだったら、魔法学院に通いたかった。魔法薬学の権威とも会ってみたかったし、将来の選択についていろいろ考えてみたかった。
 けれども私はリオルではない。貴族の家に生まれた女――結婚以外に役に立つ術なんてないのだ。
 父との約束は魔法学校を卒業するまでだったし、これ以上、自由気ままに過ごせないだろう。

「お前、いったい何を考えているんだ!」
「いろいろ考えているよ。でもそれは、君には言えない」

 そんな言葉を返すと、アドルフは傷ついた表情で私を見つめる。
 なぜ、そういう反応をするのか。
 まったくわからなかった。

 ◇◇◇

 三学年になってから、ようやく大叔母が発明した〝輝跡の魔法〟について学ぶ時間が取れるようになった。
 輝跡の魔法というのは、流れ星や花火など、見るものを魅了する魔法のイルミネーションだ。
 これの基盤となっているのは、光魔法である。
 光魔法というのは厄介なもので、火属性、風属性、土属性、水属性の四元素(エレメント)をきちんと理解しないと使えない。
 一学年と二学年で四元素についての授業が終わったため、やっと輝跡の魔法に取りかかれるというわけだ。
 大叔母は魔法学校に通わず、独自で魔法を編み出した。本物の天才なのだろう。
 そんな輝跡の魔法の中で、私は植物を使った魔法を実現させたいと考えていた。
 たとえば光る蔓だったり、魔石灯代わりに使える花だったり、輝く花飾りだったり。
 大叔母が考えた輝跡の魔法を応用できるように、薬草学の授業を特に真剣に聞いていたのだ。
 もしかしたら、これで商売ができる可能性だってある。大叔母に頼んで特許を取り、貴族相手に販売する。
 それを資金として、養育院の子どもたちに魔法を教えられたら――どれも夢みたいな話だ。まったくもって現実的ではない。

 貴族に生まれた女性は、籠の中の鳥だ。自由に空をはばたくことさえ許されていない。
 これからどうなるのか。自分のことなのに、まったく想像できないでいた。

 バタバタと忙しく過ごしているうちに、宿泊訓練に行く前日となっていた。
 一人二役をし、アドルフの心に秘める女性を捜索する。
 それを知ってどうするのか。計画を打ち明けたルミに聞かれてしまった。
 それをネタに婚約破棄をする予定だが、あまり派手な騒ぎにはしたくない。
 父からも「余計なことをしたら勘当する!」と言われているのだ。
 さすがの私も、今の状態で路頭に迷うことになったら、生きていけないだろう。
 理想は、アドルフのほうから婚約を辞退することである。
 ロンリンギア公爵家からの申し出があれば、父は何も言えまい。
 婚約破棄の鍵を握るのは、薔薇と恋文を受け取り続けていた女性の存在なのだ。
 ドレスは先に別荘に送っている。侍女も現地まで足を運んでくれるらしい。
 一人二役は早着替えが重要となるので、非常に助かる。
 服を詰め終えると、盛大なため息がでてきた。
 グリンゼルでの宿泊訓練は、二泊四日。その期間に、上手くアドルフの想い人を発見できるのか。正直に言って自信はない。けれどもやるしかないのだ。

 目指せ、婚約破棄という目標に迷いはない。
 アドルフ、見てろよ! という意気込みでグリンゼルへと向かったのだった。

 湖水地方グリンゼルまで、王都から馬車で一日半かかる。
 一日目の夜は宿に宿泊し、翌日の昼頃に到着するという予定だった。
 それが突然覆る。
 魔法学校の校庭に、ワイバーンが並んでいた。どうしてこうなってしまったのかと、呆然としてしまう。

 チキンはワイバーンを前に、闘争心を剥き出しにしていた。

『あんな小竜、ひとひねりにできまちゅり』
「はいはい」

 小鳥ほどのサイズしかないチキンが、ワイバーンにどうやって勝つというのか。
 竜種の中でいったら、ワイバーンは小型に分類されるようだが。
 ワイバーンの気を逆立たせたら大変なので、チキンはポケットの中に突っ込んでおいた。

 ランハートは瞳をキラキラ輝かせながら、ワイバーンを眺めている。

「おお、リオル、あっちに白いワイバーンがいるぜ! きれいだなー!」
「ああ、そうだね」
「お前、なんでそんなに落ち着いているんだよ」
「びっくりしすぎて、言葉がでないだけ」
「本当か~?」

 他の生徒も、ランハート同様に興奮していた。
 魔法学校の紳士教育とはいったい……。三学年になって落ち着いたと思いきや、すぐこれである。

 ただ、それだけワイバーンという存在が珍しいのだ。
 現に、噂話を聞いた新聞社の記者が、ワイバーンについて取材させてくれとやってきたくらいである。
 今回のワイバーンの運用はイレギュラーな事態であったため、取材は断ったようだ。

 ここにいるワイバーンは、竜車用に集まったものである。竜車というのは、空飛ぶ馬車と言えばわかりやすいのか。
 馬車で一日かかるグリンゼルまでの距離も、竜車だと三時間で済むらしい。
 竜車は国内の貴賓を運ぶために運用されているが、それがどうしてか魔法学校に集結していた。
 その理由は、ひとりの生徒に所以(ゆえん)する。
 アドルフ・フォン・ロンリンギア――彼が父親の縁故(コネクション)を使い、三学年の生徒全員が竜車で移動できるよう手配してくれたのだ。

「どうだ、リオル? 竜車は素晴らしいだろう?」

 そんなことを言いつつ、背後より突然登場したのは、アドルフであった。
 なぜか、自費生が着用する外出用の外套をまとい、頭巾を深く被っていた。

「アドルフ、監督生の外套はどうしたの?」
「鞄の中だ。今回は抜き打ちで生徒のふるまいを監督するため、このような恰好でいる」

 きちんと教師の許可を得ているのだという。そういうところは抜かりない。

「あとは、他の生徒に見つからないようにな」

 竜車を前に瞳を輝かせるクラスメイトは皆、口々にアドルフはすごい、と絶賛していた。きっと見つかったら、もみくちゃにされるだろう。

「俺とリオルは、ふたり乗りの竜車を用意した。こっちだ」

 一方的に宣言し、アドルフは回れ右をして歩き始める。
 それを見ていたランハートは、訝しげな様子で話しかけてきた。

「なんだよ、お前たち、いつの間に仲良くなったんだ?」
「さあ?」
「当事者なのにわからないのかよ」

 仲良くなったわけではないが、一回目の貸し借りをきっかけに、少しだけアドルフを理解できたような気がする。

 あの日以降、私たちは苦手な教科のノートを貸し借りするような仲となった。
 実技魔法のコツも教えてもらい、以前よりは苦手意識がなくなったような気がする。
 かといって、友達というわけではない。少し話せるクラスメイト、みたいな認識である。

「たぶん、自分だけ別の竜車に乗ったら、あとで非難されると思ったのかも」
「なるほどなー。アドルフ、賢い奴め」

 ここでアドルフが振り返り、「ついてこいと言っただろうが!」と叫ぶ。
 彼の取り巻きになったつもりはないのだが。

「じゃあランハート、またあとで」
「おう!」

 小走りでアドルフのもとを目差し、一緒に小型の竜車に乗りこんだのだった。
 車内は案外広かった。上質な革張りのシートで、腰かけるとしっかり体を支えてくれる。

 この車体を引くのは、先ほどランハートが発見した白いワイバーンである。

「メスのワイバーンだ。オスよりも従順で、飛行も丁寧だ」
「へえ、そう」
「以前、馬車が苦手だと話していただろう? 竜車は馬車ほど揺れない」
「あ――うん」

 少し前に、馬車酔いするという話を彼にしていたのだ。まさか、それを覚えていたとは。

「そういえば、リオニー嬢も馬車が苦手なのか? 思い返してみたら、顔色が悪かったような気がする」

 女性は化粧をしているので、顔色で判断できなかったのだという。

「ああ、姉上も馬車が得意ではない」
「だったら、次回の外出は竜車にするか」
「絶対に止めて!」
「ん?」
「あ、いや、うちの庭はワイバーンが降りられるほど広くないから」
「そうか」

 どでかい竜車なんかが貴族街にやってきたら、目立ってしまうだろう。
 同時に、私がアドルフから竜車の迎えがあった、などという噂話が出回るに違いない。
 その話が記者に伝わり、ゴシップ誌に〝成金伯爵令嬢、公爵子息との仲は良好〟などと掲載されたら、恥ずかしくて二度と社交の場に顔を出せなくなる。
 それだけは絶対に阻止しないといけないだろう。

「もう少し手配が早くできたら、リオニー嬢も竜車で一緒に行けたのだがな」
「あー、そうだねー」

 思わず、棒読みになってしまう。
 リオニーは三日前から出発し、すでにグリンゼルにいる、という設定である。
 正確に言うと、三日前に出発したのは侍女たちだ。念のため、侍女のひとりに私に変装してもらっている。
 その辺の工作はしっかり計画済みだった。

 そんな話をしているうちに、ワイバーンがもぞもぞ動き始め、翼を大きく広げた。
 竜車を操縦するのは、国家魔法師である。
 魔装線路と呼ばれる魔法の線路を作り出し、その上をワイバーンが飛んでいくのだ。
 魔法師が杖を振りつつ、呪文を唱える。すると、線路が地上から空へ伸びていった。

「わ、すごい……!」

 アドルフも竜車に乗るのは初めてのようで、車内にある御者席を覗き込める小窓から、魔法師の様子を興味津々とばかりに眺めていた。

 ついに竜車が動き始める。上昇中はさすがに揺れるだろうと思っていたが、車内に影響はない。

「これは、どうして?」
「魔法師が車内の重力制御を行っているからだ。この辺は操縦する者の腕の見せ所だな」
「そうなんだ。すごい技術だ……!」

 どんどん竜車は上昇していき、魔法学校が小さくなっていく。

「あ――魔法学校って、大きな魔法陣なんだ」  
「知らなかったのか? 入学式のときに、校長が話していたが」
「話が長かったから、聞き流していた」

 魔法学校の校舎は魔法の要となっており、水晶でできた温室が魔石代わりとなっている。

「信じられない。魔法学校自体が、巨大な結界なんだ」

 生徒の安全を守るために、初代校長が作ったものらしい。
 当時は生徒を集めるために、王族も通っていた。そのため、守りが必要以上に強固にしていたのだろう。

「アドルフが竜車に乗せてくれなかったら、一生知らなかった」
「そうだろう?」

 いつになく優しい声で、アドルフは返す。
 思わず顔を見たら、淡く微笑んでいた。
 それはリオニーと一緒にいるときにのみ見せていた、優しい笑みだった。