先ほどまで晴れていたのに、空模様は瞬く間に曇天となった。まるで、私の心の内を映し出したかのように思えてならない。
 外を眺めているうちに、窓ガラスに雨粒が打ち付ける。最悪だ、雨が降ってきた。

「雨、ですわね」
「ああ、そうだな」

 まるで、倦怠期(けんたいき)の夫婦のような会話だ。
 アドルフと結婚してしまったら、こんな未来が待っているのだ。
 まだ結婚もしていないというのに、うんざりしてしまう。

 いつ、宿泊訓練についての話題を出そうか。会ってすぐに聞くのは不審がられるだろう。まずは、アドルフの近況について探る。

「学業がお忙しい時期に、こうしてわたくしのために時間を割いていただき、嬉しく存じます」

 遠回しにご迷惑なのでは? と聞いたつもりだ。まだまだ鈍感なところがある同級生ならまだしも、すでに完成された紳士であるアドルフには通じるだろう。

「言うほど忙しくはない。他のクラスメイトのように、職業訓練があるわけではないからな」

 次期ロンリンギア公爵であるアドルフには、すでに王の側近としての輝かしい未来が待っている。そのため、愛人の盾になってくれる結婚相手に時間を割くことができるのだろう。

 アドルフが案外暇だということがわかった。監督生としての活動も問題なくできるというわけである。

 そんな話をしているうちに、馬車が停まった。御者が扉を開き、傘を差して雨を避けてくれる。
 先にアドルフが降り、傘を握ったあと手を差し伸べた。私はしぶしぶと指先を重ねる。
 馬車の|踏み段(ステップ)に降りた瞬間、雨に濡れていたからか足を滑らせてしまう。
 体が傾き、落ちる――そう思った瞬間、アドルフは私の手をぎゅっと握り、もう片方の手にあった傘を放り出して、腰を強く支えてくれた。
 間一髪で、転ばずに済んだようだ。
 その後、何を思ったのか。アドルフは私を抱き上げ、地上へと降ろしてくれた。
 切迫した表情で私を覗き込み、質問を投げかけてくる。

「リオニー嬢、大丈夫か?」
「え、ええ、まあ……おかげさまで平気です。ありがとうございました」

 そう言葉を返すと、明らかに安堵した表情を浮かべる。このように慌てた表情を見るのは初めてである。

 傘を拾い、一緒に入るようにと肩を抱き寄せる。
 思っていた以上に密着するので、少しどぎまぎしてしまった。雨に濡れないためなので、仕方がない話なのだが。
 それにしても驚いた。
 アドルフ・フォン・ロンリンギアという男は、怒り以外の感情をほとんど表に出さないから。

 アドルフは御者を振り返り、踏み段を指差しつつ耳打ちする。きっと、濡れている状態では危ないと注意しているのだろう。
 いつもの彼だったら、その場で怒鳴り散らしそうだが。人混みの中で感情を剥き出しにするのはスマートではない。紳士的な態度で、御者に物申したのだろう。
 御者は眉尻を下げ、何度もペコペコと頭を下げていた。気にするなと伝わるよう、淡い微笑みを向ける。

「リオニー嬢、行こう」

 御者の反応を見てから去ろうとしたのに、腕を強く引かれてしまった。
 足取りは以前より速く、普通のご令嬢であればついて行けないだろう。
 横目でアドルフを見上げると、眉がキリリとつり上がっていた。私がどんくさかったので、心の中では腹を立てているのか。念のため、謝罪しておく。

「あの、申し訳ありませんでした」
「何の謝罪だ?」
「わたくしが転びそうになったせいで、アドルフに恥をかかせてしまったと思いまして」

 そう伝えても、アドルフは意味がわからないとばかりに小首を傾げている。

「その、お顔が、怒っているように見えたものですから」
「怒ってなど――いいや、怒っていたのかもしれない」

 それはどうして? そう問いかけるようにアドルフを見つめる。

「リオニー嬢が、御者に優しく微笑みかけたのが、面白くなかった。それだけだ」
「はい?」

 私には他人へ微笑みかける権利すらないというのか。わけがわからない。
 やはり、アドルフは暴君だ。
 結婚したら、さまざまな制限を提案しそうで恐ろしい。

「こういう感情は初めてだから、酷く混乱している。不快にさせてしまい、申し訳ない」

 素直に謝ったのだから、今日は許してあげよう。そう、思うことにした。

 中央街の馬車降り場から徒歩三分の場所にあるのは、王室御用達(ロイヤルワラント)の看板が下がった喫茶店であった。
 もともとは夜会を行うような宮殿だったが、持ち主が破産して売却。翌年には喫茶店となり、王族も足しげく通う人気店となった。
 完全予約制で、一年先まで予定が埋まっているという噂話を耳にしたことがある。ロンリンギア公爵家のご子息ともなれば、ここの予約を取ることは難しくないのだろう。
 店内はすべて個室で、多くの貴族は密会の場として使っているらしい。

「よく、こちらの予約が取れましたね」
「うちはここに専用の部屋を持っているんだ」
「まあ! でしたら、好きなときに行ける、ということなのですか?」
「他の家族が使っていない時間帯は、まあ、そうだな」

 さすが、ロンリンギア公爵家である。まさか、喫茶店に専用の部屋があるとは……。
 どんなに予約希望者がいても、その部屋はロンリンギア公爵家の者以外は使わないらしい。

「入り口はこちらだ」

 アドルフは正面から入らずに、裏手に回り込む。なんでも貴賓は専用の出入り口があるのだという。

「父が頼み込んで、専用の部屋ができたのだが……」

 アドルフは立ち止まり、ため息交じりに語り始める。

「愛人との密会のために、用意したらしい」

 ドクン、と胸が激しく脈打つ。
 愛人について語るアドルフの表情は、憎しみに満ちあふれているように思えてならなかった。
 
 アドルフはその後、何も言わずに喫茶店の中へと誘(いざな)う。
 なんだろうか。今、彼の中にある深い闇を垣間見てしまったように思えてならない。

 店内に入り、まっすぐ廊下を歩くと、誰にも会わずに部屋に辿り着く。
 さすが、愛人との密会のために用意された部屋だ。
 中には窓がなく、ドーム状の天井には水晶のシャンデリアが部屋を明るく照らしていた。
 部屋の中心にはゆったり寛げる猫脚のアームチェアに、ウォールナットの三脚テーブルが鎮座していた。
 すでに、お菓子と紅茶は用意されている。
 ポットには魔石が仕込まれており、淹れ立ての紅茶が楽しめるようになっているのだろう。他にも、シャンパンやワインなどの酒類も用意されていた。我が国では十八歳から飲酒が許可されている。けれども魔法学校の生徒は卒業するまで飲酒は厳禁とされているのだ。
 お菓子は定番のスコーンに、マカロン、それからベリータルトにサブレなどもある。口直しにキュウリのサンドイッチや野菜のケーキ、キャビアが載ったカナッペなどもある。
 お菓子は広いテーブルに、品よく並べられていた。
 その様子を見ていると、ふと思い出す。
 慈善活動サロンのご令嬢を我が家に招いてお茶会を開いたとき、ケーキスタンドにスコーンやサンドイッチを載せて提供した。
 それを見たそこまで親しくないご令嬢のひとりが、こういうのは初めて見ると驚いていたのだ。「狭いスペースしか提供できない者が、場所を有効利用しかつ華やかに見える工夫なのですね」、と指摘され、なんとも言えない気持ちになったのを覚えている。
 暗に、広い家を持っていない者の知恵だと言いたかったのではないか。捻くれた思考を持つ私はそう思ってしまったのだ。

 しかしながら、王宮御用達店ではケーキスタンドは使われていない。やはりあれは、狭いスペースを有効活用するための工夫だったのだろう。

 ここで、給仕係がやってくる。カップに紅茶を注ぎ、お菓子を一通り取り分けると、「ご用がありましたら、ベルでお知らせください」とだけ言って去って行った。

 その間、アドルフは黙ったままだった。いったい何を考えているのやら。
 クッキーを摘まもうとした瞬間、彼は想定外の行動に出る。
 頭を深々と下げ、謝罪したのだ。

「こんなところに連れてきて、すまなかった!」
「こんなところ、ですか?」
「父が愛人を連れてきた場所に、リオニー嬢を連れてきてしまった」
「ああ……」

 そういう意味だったのか。あいにく、そういった考えには至っていなかった。
 ただただ、王室御用達の喫茶店ってすごい、としか思っていなかったわけである。

「前回、舞台の誘いを断られてしまってから、行き先に自信がなくなってしまって……。この喫茶店が貴族令嬢の憧れだという話を聞いたものだから、それ以外に他意はなく、案内してしまった」

 あの天下の暴君アドルフ・フォン・ロンリンギアが、自信がないという言葉を口にするなんて。
 本当に申し訳ないと思っているようで、しょんぼりと肩を落としていた。

「アドルフ、わたくしは別に、有名なお店でお茶が楽しめると嬉しくなっただけで、あなたに対して非難めいた感情は抱いておりません」

 そう宣言すると、アドルフは希望を見いだしたかのような目で私を見つめてきた。
 視線が交わると、ハッと肩を震わせ、目を両手で覆う。ギリギリ聞き取れるような声で「感謝する」と言ったのだった。

 いい機会だと思い、愛人についての認識を問いただそう。
 ぼんやりするアドルフに、私は質問を投げかけた。

「アドルフは、愛人という存在について、どう思います?」

 ここで彼が正直に告げたら、まあ、許してやらないこともない。
 かと言って、結婚はしたくないのだが。

「俺は、愛人という存在は、あってはならないと、個人的には思う。伴侶への裏切りだ」

 絞り出したような、切ない声だった。
 そう思うのであれば、なぜ、毎週熱心に薔薇と恋文をグリンゼルに住む女性に贈っているというのか。

 まさか、相手は愛人ではない? 
 ふたりの関係に名前はなく、純愛を貫いているというわけ?

 私に子どもを産ませ、爵位の継承者(エア)を得たあと離縁し、後妻としてその女性を迎えるという気の長い計画の実現を狙っている可能性が浮上した。

 これまでのアドルフは、私を正式な婚約者として、丁重に扱ってきた。
 それもすべて、後妻を迎えるための手段だったのだ。

 清廉潔白なところがあるアドルフが、黙って愛人を迎えるという状況にいささか疑問を抱いていたところである。
 後妻を迎えるつもりであるならば、すべて納得がいった。

 胃の辺りに手を当てて、首を傾げる。
 なんだかモヤモヤするような、不快さを感じるのだ。
 きっと私は、腹を立てている。
 私を大切に扱う男の目的が、他の女性との幸せを掴むためであったから。
 どうしてこのような感情を抱くのか。よくわからない。
 アドルフ・フォン・ロンリンギアという男は私を勝手にライバル視し、この二年間、成績を競い続けたのだ。
 彼がいなければ、魔法学校の生活も平和だっただろう。
 そんな相手に、いいように利用されている。気に食わないのも無理はないのかもしれない。

 これ以上、アドルフに時間を割きたくない。そう思って、本題へと移る。

「それはそうと、弟が話しておりましたの。今度、グリンゼルに宿泊訓練に行く、と。アドルフはどうなさいますの?」
「ああ、あれは――子ども騙しのイベントだ。訓練と言っても、そこまで厳しい監視下のもとで行われる行事ではない」

 これから卒業に向けて教育課程が進む生徒たちに、羽目を外す場を設けようとしたのが宿泊訓練らしい。そのため、自由参加となっているようだ。

「俺は行かない。それよりも、魔法書を一冊でも多く読んだほうが、時間の有効活用と言えるだろう」

 まさかの不参加である。アドルフがいなければ、情報を得られないだろう。
 なんとしてでも、グリンゼルの地に誘わなければならない。

 ここでふと思い出す。ヴァイグブルグ伯爵家はグリンゼルに別荘を持っていたはずだ。病弱だった母が療養できるように、父が資金を集め、中古物件を購入したのだ。
 ならばと、ある提案をしてみた。

「あの、わたくしも同じくらいの時期に、グリンゼルに行きますの」
「リオニー嬢も、グリンゼルに?」
「ええ。別荘がありまして。ですので、アドルフもご一緒しません?」

 アドルフは驚いた表情を浮かべ、「リオニー嬢と、一緒にグリンゼルに」などとうわごとのように呟いていた。

「学校の行事もあるでしょうから、常にご一緒できるわけではないでしょうが」
「そう、だな。いいかもしれない。わかった。宿泊訓練に参加しよう」

 アドルフの決定に、テーブルの下で拳を握ってしまった。