渡り廊下を抜けて、部室の並ぶ旧校舎三階を歩む。
目的は、文芸部の部室だった。
入部したものの、一度しかまだ部活には行けていない。でも一応部員だから、部室を使う権利はある。
閑散としている廊下を歩み、相変わらず倉庫然とした文芸部のドアの前に立つ。ノックすると思った通り返事はなくて、私は迷わずドアノブを掴んだ。
鍵がかかってるかもと不安になったけど、ドアノブは容易に捻ることができた。
ホッとしつつ、ドアを開く。
「……っ」
次の瞬間、私は声にならない声をあげていた。
窓辺のパイプ椅子に小瀬川くんが腰かけ、開け放たれた窓から外を眺めていたからだ。
「小瀬川くん……?」
よく見ると、小瀬川くんの手には、コンビニのおにぎりが握られていた。長テーブルにはお茶の入ったペットボトルも置かれている。どうやら、お昼ご飯を食べていたみたい。
予想外の先客に、唖然としてしまう。
「……どうして、ここにいるの?」
聞くと、小瀬川くんは、見れば分かるだろ?とでも言いたげな顔をした。
「飯、食ってるから」
「え? でも、ここ文芸部……」
「とりあえず入ったら? 水田さんも、飯食べに来たんだろ?」
小瀬川くんが、また見透かすような色を瞳に浮かべた。
それ以上は何も言わず、じっとこちらに顔を向けているだけの小瀬川くん。窓から入り込んだ風が、彼のモカ色の髪を揺らす。
彼の視線で、なんとなく理解した。
話したこともなかったのに、私の心を暴いた小瀬川くんは、多分分かってる。
私が美織と杏から離れて、ひとりでお弁当を食べにここに来たことを。
私は後ろ手にドアを閉めると、部室に足を踏み入れた。
入ってすぐのところに置かれていたパイプ椅子に座り、長テーブルの上にお弁当の入った袋を置く。
小瀬川くんは、私に興味が失せたかのように、おにぎりを食べながら再び窓の外に目を向けていた。
なんでわざわざ文芸部の部室で食べてるの?とか、いつもここで食べてたの?とか、小瀬川くんに聞くべきことはいっぱいあった。だけど、腰を落ち着かせた途端に先ほど聞いた美織と杏の声を思い出し、他のことはなにも考えられなくなる。
『え。なにあれ、感じ悪い』
『他に食べる人いないだろうから、わざわざ一緒に食べてあげてたのにね』
――もう、完全に終わりだ。
ひとりの私は、学校でも“普通”の存在じゃなくなってしまった。
「小瀬川くん……」
「なに?」
「……私、明日からも、ここに食べに来ていいかな」
声、震えていなかっただろうか。
ドキドキしながら顔を上げると、こちらを見る小瀬川くんの顔が目に飛び込んできた。
勇気をたたえるわけでもなく、憐れむわけでもなく。小瀬川くんは、実に淡々と言った。
「そうしたいんならそうしなよ。ていうか、俺の許可なんて必要ないし」
「……うん」
「水田さんは、水田さんの好きなように生きなよ。誰にも、水田さんの行動を制約する権利なんてないんだ」
「――うん」
どうしてだろう。
小瀬川くんの言葉に返事をした途端、瞳に涙が溢れた。
好きなように生きたらいい。
誰にも、私の行動を制約する権利なんてない。
そんなふうに思ったことは、今までなかった。
お母さんのために、光のために、頑張らないといけないと思っていた。無理して、自分を偽って、女子グループからはみ出さないようにしがみついて。そうやって、“普通”を演じないといけないと思っていた。
だけど、そうじゃないんだと教えられた気がして。
普通じゃなくてもいいんだと言われた気がして。
突き放されているようにも聞こえる言葉だったけど、心がホッとしたんだ。
涙を見られるのが恥ずかしくて、顔を伏せ、さりげなく指先で拭う。だけど次に顔を上げたとき、思い切り小瀬川くんを目が合って、泣いてるのがバレバレだったことに気づいた。
小瀬川くんは、また不機嫌そうな顔をしていた。
それから、私の涙に対しては何も触れず、窓の外を向いてしまう。
ひとりが平気な気丈な彼には、めそめそ泣くような女子はきっとうっとうしいだけだろう。
だけど、泣き止まなきゃと思えば思うほど、涙は止まってくれなかった。
「ううっ……」
できるだけ声を押し殺そうとはしたけど、どうしても無様な泣き声が漏れてしまう。
「うっ、ううっ……」
涙で顔はボロボロ。鼻水だって出ている。
お母さんの前でも、お父さんが亡くなった日以降一切泣いていなかったのに……。
どうして昨日初めて話したばかりの小瀬川くんの前で泣いてるんだろうって、情けない気持ちになったけど、涙は止まる気配がなかった。
小瀬川くんは、私のむせび泣きなど聞こえないかのように、ずっと窓の向こうを見てていた。
聞こえてるけど、うっとうしいからあえて無視しているのか。
それとも、気を利かせて聞こえないフリをしてくれているのか。
分からないけど、何も言わないでいてくれることが、今はひたすらありがたかった。
美織と杏との縁は、その昼休みを機に、完全に切れてしまった。
目が合うことすらない。露骨に避けられているのがよく分かった。クラスメイトなのに、赤の他人より遠い存在になってしまったみたい。
周りも、私たちの異変には気づいていた。
ひとりでいる私の耳に、どこからともなく囁きが聞こえてくるのもしょっちゅうだった。
『やっぱり、水田さんぼっちになっちゃったね。前から、ひとり浮いてたもんね』
『美織も杏も友達多いし、目立つし、やっぱり合わなかったんだね。だって水田さん、あまり喋らなくて、一緒にいても盛り上がらないし』
女子グループから転落した哀れな存在は、常にクラスメイトの視線を集めていた。
教室は、以前にも増して、私にとっては居心地の悪い場所になってしまう。
とくに、休憩時間や移動教室は、地獄のようだった。
昼休憩のたびに、逃げるように訪れる文芸部の部室だけが、私が心を休めることができる場所になる。
ドアを開けたら、小瀬川くんはたいていいつも先にいて、窓側のパイプ椅子で、コンビニおにぎりとか総菜パンを食べていた。
私たちが会話を交わすことは、ほとんどない。
たまに、「次の授業なに?」とか、最低限の必要事項を確認したり、どうでもいい話をしたりする程度だ。
だけど、彼とふたりきりでいる空間は、不思議とホッとできた。
『かわいそう』
『ああはなりたくない』
『自分じゃなくてよかった』
クラスメイトから感じるそんな視線を、彼からは一切感じなかった。
小瀬川くんはいつも淡々としていて、自分を保っていた。
私のことなど、どうでもいいといった雰囲気。
だからきっと、安心できたんだろう。
それに、呼吸困難に陥った無様な姿や、情けない泣き顔をすでに見られているせいで、小瀬川くんの前では自分を偽らなくてよかったというのもあると思う。
「ねえ、小瀬川くんって、どうしてバイトしてるの?」
あるとき、聞いてみたことがある。
すると、小瀬川くんはカレーパンを頬張りながら、いつものようにそっけなく答えた。
「金がいるから」
「ふうん……」
生活が、苦しいのだろうか。だけどそこまで踏み込むのはおかしい気がして、私はそれ以上は聞くのをやめた。
小瀬川くんが本当はいい人だということはもう分かってるけど、どことなく入り込めない雰囲気があった。
考えすぎかもしれないけど、まるで見えない境界線を張って、私を近づけないようにしてるみたい。それは私も一緒だから、彼のことは言えないのだけど……。
だから、いつも同じ空間でお昼ご飯を食べていても、小瀬川くんのことを友達と呼んでいいのかよく分からない。私たちの関係は、ただのクラスメイトの域を超えていない。
「バイトって、大変?」
「慣れればそれほどでも」
「そっか。私も、バイトしてみようかな……」
私が働けば、お母さんも少しは楽になるだろうか。でも、お母さんは私がバイトをするのを嫌がる。ただでさえ家事や光の面倒で大変なんだから、他の時間は勉強に集中しなさいって言ってくる。
そんなことを思い出していると、ふと視線を感じた。
澄んだ青空を背景にこちらを見つめる小瀬川くんの顔が、なぜが悲しげに見えて、一瞬息を呑む。
だけど、すぐに小瀬川くんは、いつもの不愛想な顔に戻った。
というより、そもそも、ずっとそんな顔をしていたような気もする。
きっと、光の加減で、儚げな雰囲気に見えただけだろう。
そんな日々が一週間ほど続いた、五月の終わりのことだった。
昼休みに入ってすぐ、斜め後ろを振り返れば、小瀬川くんの姿はもうなかった。
すでに、部室に向かったのだろう。
私も行かなくちゃと思って、お弁当箱を手に取り、立ち上がる。
すると「水田さん」と背後から呼びかけられた。
振り返れば、黒髪ショートで、背の高い女の子がいる。
「谷澤さん……?」
今年になって同じクラスになった谷澤さんは、成績優秀で、クラスでも目立つ存在だ。
昼休憩の度に教室の隅で笑い声を響かせている、賑やかな女子グループにいる。そのグループは目立つ子が多くて、美織や杏と仲がいい子もたくさんいた。
「あのさ、今日から一緒にお昼食べない?」
「え……?」
驚いて、思わず周りをきょろきょろと見渡してしまった。案の定、クラスメイトたちは異変をすぐに察知したようで、ヒソヒソと囁き合いながらこちらを見ている。特に、谷澤さんがいつも一緒にお昼を食べていた女子グループからの視線が痛い。
「でも、」
どうして?と聞く前に、私はやや強引に谷澤さんに手を取られ、廊下を歩んでいた。彼女が私の手を持ったままぐんぐん向かったのは、渡り廊下に面した庭園だ。芝生の生い茂るそこは、色とりどりのパンジーが咲き誇る花壇を囲むように、ベンチが置かれている。
「ここでいっか」
谷澤さんはベンチのひとつに座ると、明るい声で言い、さっそく自分のお弁当を広げた。
それから、戸惑いのあまり立ち尽くしている私を見上げ、にこっと笑う。
「ごめんね、急に連れ出して。教室、なんか居心地悪かったから。私、前から水田さんと話してみたかったんだ。気が合うんじゃないかって、ずっと思ってたの」
「………!」
前から話してみたかった、なんてことを誰かから言われたのは初めてで、自分にそんな存在価値があったのかとうれしくなる。思わず顔を赤らめてると「ふふ、赤くなってる。かわいい」と谷澤さんは笑った。
「水田さん、美織と杏と一緒にいることがなくなったでしょ? あれ見て、私も勇気をもらえたの。今一緒にいる子たち、ずっと合わないなって思ってたから」
「そうなの? そんなふうには見えなかったけど……」
私とは違って、谷澤さんは、あの目立つグループにしっくり馴染んでいるように見えたのに。
「クラス替えがあって、なんとなく一年のとき同じクラスだった子たちと一緒にいるようになっただけ。でも男の話題ばっかりで、ついていけないの。誰がかっこいいとか、誰と誰が付き合ったとか。そういうの、私全然興味なくって」
谷澤さんが、うんざりしたように肩を竦める。
「本当はね、竜王戦の話とか、巨人戦の話とかしたくてうずうずしてるのに、あのグループの中で言えないじゃん」
「竜王戦……? 巨人戦……?」
首を傾げると「私、将棋と野球が好きなの! あのグループでそんな話しても、え?って顔されるから、こんなこと言えなくて」と谷澤さんは笑った。
裏表の感じられない、子供みたいな笑い方だった。
――ああ、この人好きだな。
無邪気な彼女の笑顔を見て、直感的に思う。
なんとなくの親近感を覚えて、気づけば谷澤さんの隣にすとんと腰を降ろしていた。
「……でも、私、将棋にも野球にも興味ないよ?」
「あははっ、いいの。私も別に、ずっとその話してるわけじゃないから。だけど水田さんなら、私が本当の姿をさらしても、受け入れてくれるような気がしたんだ。そうでしょ?」
「……うん。受け入れるっていうより、夢中になれるものがあって、素敵だなって思った」
素直に答えると、谷澤さんは、また屈託なく笑う。
「よかった! ねえ、これから下の名前で呼んでいい? 私のことも夏葉って呼んでくれていいから」
人生、沈むときもあれば浮き上がるときもある。
クラスでひとりぼっちの私に、突然親友ができた。
夏葉とは、驚くぐらい気が合った。気を遣わなくても、気を張らなくても、自然体で一緒にいれる存在。
私は、いつも夏葉と一緒にいるようになった。移動教室のとき、体育の時間、そして昼休み。女子グループから離脱した者同士、クラスにいると冷たい視線を感じることもあったけれど、夏葉がいれば怖くなかった。
夏葉と仲良くなった日から、私は昼休みに文芸部の部室に行くことがめっきりなくなった。だから、小瀬川くんとの接点もなくなった。
光が退院したから、病院近くのカフェの前を通ることもなくて、バイト中の彼を見かけることもなくなる。
でも、斜めうしろの窓際にいる彼の存在は、教室でいつも意識していた。
相変わらず、小瀬川くんは誰ともつるまず、ひとり気だるげに授業を受けている。
登校はギリギリだし、休み時間はどこかに行ってしまうし、バイトがあるせいか下校は誰よりも早い。意識しているのは私だけで、彼の方は、私のことなんてどうでもよさそう。
きっと毎日忙しい彼は、私と過ごした些細な日々のことなんて、忘れてしまっているのだろう。
そう思うと、ほんの少しだけ、寂しさが芽生えた。
六月に入り、シャツネクタイから、夏服に切り替わった。
水色の半そでシャツが溢れている教室は、澄んだ青空を連想させた。まるで、ひと足先に夏が来たかのよう。窓の外を見れば、緑葉の揺らぐ木々の上空には、灰色の雲が立ち込めていた。梅雨入りも、あともう少しなのかもしれない。
ある日の、ホームルーム。
「えー、じゃあ、十月にある文化祭の委員を決めるから。男女ひとりずつな」
そう言って、今日もジャージ姿の増村先生が、黒板に“文化祭実行委員”とチョークで書き連ねた。
「主な仕事内容は、文化祭の出し物の総括だ。出し物決めから、人の割り振り、物品の調達、予算の管理など、仕事はいくらでもある。やりがいのある委員だぞ。ザ・青春の一ページだ。やりたい人は手を上げて」
お得意の決めゼリフ、“青春の一ページ”を、どうだと言わんばかりに声高に言い切った、増村先生。クラス中が、シーンと、若干引き気味に静まり返る。
このクラスは、あまりそういうことに乗り気なクラスじゃないみたい。こういう委員みたいなのは、“率先してやる人”と、“誰かがやってくれるだろうと思っている人”に二分される。どうやらこのクラスには、後者が集まってしまったみたい。正真正銘そういう私も『誰かやってくれないかな』のスタンスで、小・中とすり抜けてきた、やる気のないタイプだけど。
「あれ? やりたい人、いないのか? 青春のいい思い出になるぞー」
あいにく先生がいうところの“青春”まっただ中にいるらしい私たちは、思い出目線では現状を見ることができない。目の前の面倒ごとが、ただ増えるだけだ。
「どうしたー? 立候補が無理なら、推薦でもいいからな」
先生が、焦れたように黒板をチョークでコツコツと叩いたそのとき。
「先生」
教卓の前の席の美織が、勢いよく手を上げた。
「水田さんがいいと思います。向いてると思います」
うつむいていた私は、驚いてガバッと顔を上げた。
姿勢よく黒板に顔を向けている美織の顔は、私からは見えない。推薦しておきながら、美織も私を振り返ろうともしない。だけど、まるで申し合わせたみたいに、女子たちから次々「賛成~」の声が上がっている。
続けて、どこからともなくクスクスと小馬鹿にしたような女子たちの笑いが漏れた。恐る恐る顔を上げれば、杏や、夏葉と同じグループだった子たちが、こちらに含んだような視線を注いでいる。
その瞬間、私は気づいた。これは私に対する嫌がらせだ。
美織と杏は、私のことをよく思っていない。夏葉と同じグループだった子たちも、そうみたいだった。もしかしたら、夏葉を奪われたと思っているのかもしれない。
「あー、水田かー……」
私の家庭の事情を知っている増村先生は、困ったように頭を掻いた。家事をしたり、光の面倒をみたりしないといけない私は、放課後長くは残れない。それに、光がまた入院にでもなったら、たとえ文化祭直前であろうと、クラスのことに没頭できなくなる。
だけど、私が委員をできない理由を話せば、必然的にうちの家庭事情についても話さないといけなくなる。私がそれをクラスメイトに知られたくないことに、多分増村先生は気づいている。だから、困ったようにずっと唸っていた。
そんな先生を見ていたら、心底申し訳なくなる。
それに、このままの状態が続くのは、耐えられなかった。
だってこの雰囲気、まるでいじめられてるみたいじゃないか。
私はいじめられているわけじゃない。そんなみじめな人間じゃない。
普通の、ただの目立たない、人付き合いの悪い女子なだけ――。
「――先生、私やります」
意を決してそう言うと、先生が困惑の表情を私に向けた。
「でも、大丈夫か?」
「大丈夫です、できます」
もう一度念を押すように言うと、先生はようやく納得したように「そうか。困ったときはなんでも相談しろ」と言ってくれた。
「じゃあ、女子は決まりだな。男子は推薦ないか?」
クラス中の男子が、一斉に下を向いた。
そりゃそうだ。面倒な仕事なうえに、相方は女子たちからハブにされてる女子だなんて、誰だって嫌だろう。
だけどそんな中、突如「お?」と増村先生が声をあげ、教室の後方を見た。
「小瀬川。やるのか?」
「――はい」
驚いて、斜め後ろを振り返る。
小瀬川くんが、スッと片手を上げていた。
クラス中の空気が、震撼した。
だって一匹狼の小瀬川くんは、役員に立候補なんていう柄じゃない。クラスメイトと積極的に関わるところを見たことがないし、教室内にいることすら少ない、そんな存在だからだ。
だけど先生は、「そっか、やっとやる気になってくれたか。お前、やればできるやつなんだよな、知ってたぞ!」とやる気のなかった小瀬川くんがやる気を出してくれたことに、心底喜んでいる。
美織に杏、それから私のことを笑っていた女子たちが、静ヒソヒソとざわついていた。
「え、なんで急に?」「うそ、小瀬川くんが立候補?」「私、手挙げればよかったー」
どうやら、小瀬川くんは、密かに女子たちに人気があるみたい。
「小瀬川、急にどうした? 水田のこと好きなの?」
すると、小瀬川くんの後ろの席の男子が、茶化すようにそんなことを言った。斉木君という、クラスで一番お調子者の男子だ。黒髪に短髪で、たしかサッカー部だったはず。
とたんにクラス中がザワザワし始め、私は顔に火が着いたような羞恥心に苛まれる。
クラスメイトが全員見ている中でのそういった発言は、拷問に等しい。
すると小瀬川くんは、露骨に眉間に皺を寄せた。
「そんなんじゃない。水田さんを推薦しといて、陰で笑ってる雰囲気が、すげえ嫌だから」
小瀬川くんがそう言った途端、ひやかしモードに変わりつつあった教室の空気が、ピリリと張り詰めた。私も、背筋にしびれが走ったみたいになって、手元が微かに震えた。
小瀬川くんのその言い方だと、私がクラスの女子からいじめられてるみたいで。
これ以上私をみじめな存在にしないでって、うつむいた私の胸に、怒りが沸々と込み上げる。
だけど同時に、私は気づいてしまったんだ。
――これは、嫌がらせなんかじゃなくて、正真正銘の、いじめなんだって。
不穏な空気が漂い、静まり返るなか、先生だけが「そうか」と深く頷いている。
「頼んだぞ、小瀬川」
「はい」
また、小瀬川くんに思い知らされた。
つまらない見栄で、美織や杏から離れられなかったことを指摘されたときと同じように、いじめに気づかないフリをして見栄を張ろうとしたことを、暴かれた。
唇を食み、ようやくもとのざわめきを取り戻しつつある教室で、ひとり項垂れる。
――小瀬川くんには、敵わない。
「ごめんね、真菜。役員決めのとき、何も言えなくて」
その日の昼休み、お弁当を持って廊下に出るなり、夏葉が謝ってきた。
「そんな、気にしないで。夏葉は何も悪くないから」
「でも私、代わりにやるっていうこともできたのに、言い出せなかった。真菜、忙しいのに……」
廊下を歩みながら、遠慮がちに言う夏葉。
その声色が優しくて、私は思わず泣きそうになった。
母子家庭で、お母さんに代わって家のことをしないといけないとか、病気がちな弟がいるとか、夏葉にはまだ言ってない。だけど夏葉は、きっと勘づいてくれている。
そのうえで、あえて聞かないでいてくれる。
自然と、笑みが零れていた。こんなふうに優しく笑えたのは、いつぶりだろう。
「……本当に、大丈夫だよ。ひとりじゃないし。ありがとう、夏葉」
夏葉は、うん、と頷いて、「小瀬川くんがいるもんね」と言った。
「小瀬川くん、ああ見えてしっかりしてるから大丈夫だよ。同中だったから、それは知ってる」
「そうだったんだ」
初めて知る事実に、少し驚く。
「小瀬川くん、中学のときはね、生徒会長やってたの。だから文化祭実行委員くらい、お手のものだよ」
「小瀬川くんが、生徒会長?」
あの誰ともつるまない、一匹狼の小瀬川くんが生徒会長? 想像もつかない。
「うん。彼、中学のときは明るくて、クラスのムードメーカーで、人気者だったんだよ。勉強もできて、かなりモテてたし。高校になってから、ガラッとイメージ変わっちゃったけどね」
どうしてだろ?と夏葉が首を傾げる。
「そうなんだ……」
明るくてムードメーカーの小瀬川くんなんて、今の彼からは想像もつかない。
性格が変わってしまうほどのなにかが、彼の身に起こったのだろうか……。
なんともいえないモヤモヤが、胸の奥に渦巻いていた。
その日の放課後。
久しぶりに、文芸部に行ってみることにした。参加するのは、これで三回目だ。
入部早々幽霊部員になりはててしまって、普通なら気まずいところだ。だけど増村先生の許しがあったし、部員たちもそれを咎めたりするタイプではなさそうだから、それほど気にならなかった。
部室棟の一番端にある文芸部は、ひっそりとしていて、まるであることすら忘れられているみたい。コツコツとドアノックすれば、「どうぞ」といつもの淡白な川島部長の声が帰ってきた。
「水田です。入ります」
ガチャリとドアを開ける。
途端に、開け放しの窓から、サアッと風が吹いてきた。狭い部室に、ほんのり雨の香りが立ち込める。朝から曇りだったし、夕方から雨が降るのかもしれない。湿気を孕んだ風を肌に感じると、なぜか心が洗われるような、清涼な気持ちになった。
長テーブルの上座、いつもの位置で、川島部長はいつものように本を読んでいた。
壁際の書架の前では、くるくる頭の田辺くんが本を物色していた。
「久しぶり、水田さん。今日は増村先生来ないから、ゆっくりして」
「はい」
川島部長の声に答えてから、部室に足を踏み入れる。
だけど次の瞬間、驚きのあまり体の動きを止めていた。
川島部長の背後、窓辺に置かれたパイプ椅子に、小瀬川くんが腰かけて本に目を落としていたからだ。
「どうして……」
委員決めのことや、夏葉の話もあり、ずっと胸の奥で小瀬川くんのことを考えていただけに、驚きもひとしおだった。
呆然としていると、ちらりと目だけをこちらに向けた小瀬川くんの代わりに、川島部長が答えた。
「会うのは初めてだったかしら? 彼、二年の小瀬川くん。ほとんど来ないけど、うちの部員よ」
「部員……?」
思ってもみなかった川島部長の返事に、動揺してしまう。
だけど考えてみたら、小瀬川くんがこの部室でお昼ご飯を食べているのは、部員だったからなんだと合点がいった。
縁もゆかりもない部室でも、彼なら『人が来ないから』という理由で無断で使用しそうだと、勝手に思い込んでしまったのがいけなかった。
それに、大人っぽくてあか抜けた外見からして、小瀬川くんは文芸部という雰囲気ではない。文芸部って、地味な人が在籍しているイメージだから。そんな勝手な先入観も、邪魔していたように思う。
「小瀬川くんにも、紹介するわ。新しい部員の、水田さん」
川島部長が、小瀬川くんに顔を向ける。
「知ってます。同じクラスなんで」
「あら、そうだったの? なら話が早いわね」
川島部長は納得すると、再び本の世界に戻っていった。
窓辺で本に目を落としている小瀬川くんを、ちらりと盗み見る。
寡黙で、文芸部在籍の彼。中学のときは明るくてムードメーカーだったという夏葉の言葉が、やっぱり信じられない。
どうにか動揺を胸でおさえ、私は小瀬川くんから視線を逸らすと、書架に近寄った。
適当に選んだ一冊を手に取る。
有名なロシアの純文学みたい。しっかり読むわけではなく、心に響く言葉を探るように、まばらに読んでいく。
いつもと同じ、静かな空間に、ゆったりと時が流れていく。
窓から入り込む湿気まじりの風、夏の初めの匂い。
各々が本のページを捲る、パラリという音。
なんとなく読み進めてはいるものの、文体が難しいせいか、私はなかなか本の世界に入れないでいた。そもそも、読書はそこまで好きな方ではない。恋すらしたことがないのに初恋ものの小説を選んだのも間違いだったのだろう。
どうにも集中できなくて、本をパタリと閉じると、もとの棚に戻した。続いて選んだのは、アメリカの古典文学。
だけどこの本にもまったく集中できなくて、すぐにもとに戻した。
そのとき、書架の一番下に、薄い冊子がズラリと並んでいるのを見つける。
この間見た、毎年文化祭に合わせて製作してるという、文芸部の冊子だ。
無意識のうちに、手が紫色の去年の冊子に伸びていた。パラパラと捲り、一番最後のページに辿り着く。
それだけ制作者の名前もタイトルもない、不思議な詩。
ロシアの純文学やアメリカの古典文学みたいに有名じゃない。だけど名もない生徒が書いたその一編の詩は、今まで読んだ何よりも、私の心を捉えて離さなかった。
僕が涙を流すのは、君のためだけ
僕のすべては、君のためだけ
閉ざされたこの世界で、僕は今日も君だけを想う
なんて真っすぐで、ひたむきで、美しい詩だろう。
何が、この人にこれを書かせたのだろう。
ほんの数行のその詩に改めて熱中していると、「あ」と隣から声がした。見ると、田辺くんが、私が手にしている冊子を覗き込んでうれしそうな顔をしている。
「どうかした?」
すると田辺くんが、詩を指差し、からかい口調で言った。
「それ、小瀬川先輩が書いたんですよ。イメージに合わないですよね」
――え?
驚いて窓辺にいる小瀬川くんに目をやると、凄んだ顔の彼と目が合う。彼の方でも、私たちの会話を耳にしていたようだ。
ガタッとパイプ椅子を引いて立ち上がると、小瀬川くんはものすごい勢いでこちらへと歩んでくる。そして私の手から、奪うように冊子を取り上げた。
「ちょっ……!」
何するの、と言いかけて、思わず固まってしまう。
冊子を持った手を隠すように背中にやっている小瀬川くんの顔が、見たこともないほど赤くなっていたからだ。
普段はあんなクールな小瀬川くんでも、こんな顔をするんだと驚いた。
「ごめん……」
きっと、ものすごく知られたくないことだったのだろう。小瀬川くんの態度からそれを察知した私は、小さく謝る。
隣にいた田辺くんも、目を剥いていた。彼にしろ、小瀬川くんがこんな行動をとるとは、予想できなかったみたい。
すると小瀬川くんが、ハッとしたように私に視線を戻した。
「俺こそ、ごめん……」
後ろ手に持った冊子を、前に持って来る小瀬川くん。それから彼はしゃがみ込むと、冊子をもとあった場所に戻そうとした。
水色のワイシャツの、小瀬川くんのその背中は、全力で私を拒絶している気がした。
いつも以上に、境界線を引かれている雰囲気だ。
私にあの詩の作者が小瀬川くんだと教えてくれた田辺くんも、怯えた顔で彼を見ているほどに。
だけど、初めて読んだときからあの詩がずっと頭に残っていたことや、ツルゲーネフよりもゴールズワージーよりもよほど心を
打たれたことを、どうしても小瀬川くんに伝えないといけない気がした。
病院の前で、呼吸困難になったとき。
文化祭の実行委員を決めたとき。
同じクラスになって二ヶ月ほどで、そんなに話したこともないのに、嫌になるくらい私の気持ちに気づいてくれた彼に。さりげなく、他の誰よりも寄り添ってくれる彼に。素直な気持ちを、伝えなくちゃと思った。
「――その詩、すごく好きだよ」
ポツンと言葉を吐き出し、視線を上げる。
間近で、驚いたような顔をしている小瀬川くんと目が合った。
「初めて読んだときから、すごく好きだと思った。よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちになれるの」
悲しくて幸せ。
言葉にするのは難しかったけど、それがぴったりな表現だと思った。
こんな気持ちになったのは久しぶりだった。
お父さんが亡くなってから、ずっとそう。ドラマを見ても映画を見ても、面白いとは思っても、何も響かない。心をすり抜け、
あとには空虚な気持ちが残りだけ。
だけどこの詩は、私の心をぶわっと震わせてくれる。
悲しくて――そして幸せな気持ちにさせてくれる。
ありがとう、って伝えたかったけど、さすがに大袈裟な気がして、代わりに笑ってみた。
ものすごく久しぶりに、笑った気がする。
凍ったように私の顔をまじまじと見ていた小瀬川くんだけど、私が笑った途端にフッと下を向いた。
不快な気持ちにさせたかなって、胸がチクリと痛んだ。
だけど小瀬川くんは、またすぐに顔を上げる。
私の顔の斜め下を見ている小瀬川くんの瞳は、よく見ると髪の色と同じく茶色がかっている。
とても深い目の色だと思った。
陰のある彼のイメージそのまんまに、混沌としていて、迂闊には入り込めないなにかを感じる。
「小瀬川くん……?」
返事がないから、不安になって、彼の名前を呼ぶ。
すると小瀬川くんが、「はると……」と小さな声で、呟いた。
「……え?」
あまりにもボソボソした声だったから、聴き間違いかと思って聞き返すと、小瀬川くんはひとつ瞬きをして、今度は真っすぐに私を見つめて言った。
「桜(はる)人(と)って呼んで。俺のこと」
びっくりして、喉から変な音が出そうになる。
だけど驚きは、やがて温かな熱を伴って、じわじわと胸に広がった。
同じクラスなのに、いつも私を助けてくれるのに、どういうわけか私に境界線を引こうとしている彼が、突然近くに歩み寄ってくれたような気持ちになれたんだ。
「……うん」
自然と笑みが零れていた。
「分かった。桜人って呼ぶ」
素直な気持ちを伝えたことが、功を奏したのかもしれない。
正直な言葉は、ときに人を動かすことができるんだ。
「……コホンッ!」
そこで、隣からわざとらしい咳ばらいが聞こえて、ハッと目を覚ました。
そういえば隣にいた田辺くんが、恥ずかしそうにうつむいている。
「こっちが恥ずかしくなるから、そういうの、ふたりだけのときにやってくださいよ」
「は? そんなんじゃねーし……!」
小瀬川くんも、思い出したかのように真っ赤になって、私から離れていった。
川島先輩だけは、どこ吹く風といった感じで、先ほどと変わらず読書を続けている。
「……じゃあ、俺、用事あるんでもう帰ります」
小瀬川くんは部室の隅に置いていた黒のスクールバッグを肩にかけると、逃げるようにドアに向かう。
「先輩、また来るの、楽しみしてますから」
「気を付けてね」
田辺くんと川島部長が、口々に小瀬川くんの背中に声を掛けた。
――バイトかな。
そう思いながら、小瀬川くんを見つめていると、横を向いた彼と目が合った。
だけど小瀬川くんはすぐに私から視線を逸らし、文芸部の部室から出て行った。
***
およそ一年前から、俺の世界は混沌としている。
まるで深海のように、すべてに靄がかかっていて、暗くて、何を見ても、何をしていてもすべてがどんよりとしている。その濁った空気の中を、俺はただ、息を殺して生きるだけ。
だけど。
『よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちになれるの』
ようやく今日彼女の笑顔が見れたとき、一瞬だけ、世界が淡い光をまとったかのように光り輝いて見えた。
『K大付属病院前』
いつものバス停で降りて、バイト先に向かう。
更衣室でグレーストライプのシャツに着替え、黒のロングエプロンを腰に着けた。
ロッカーの鏡に映る俺は、バイト仲間が言うように、言われなければ高校生には見えない。
どこの大学?と客からもよく聞かれる。
まあ、老けてて当然といえば当然なんだけど。
だけど、その方が好都合だった。
青臭さがあったら、高一でバイトの面接に受からなかったかもしれないから。年齢のわりに落ち着いてたから採用したって、店長も言ってたし。
アメリカ発祥の『デニスカフェ』は、コーヒーなどのドリンクの他に、サンドウィッチやパスタなどの食事メニューも充実していた。ケーキやパフェなどのスイーツメニューも豊富だ。
『デニスカフェ』のバイトは、レジと厨房に分かれる。レジは客からオーダーを取り、ドリンクを用意し、調理の必要があるメニューは厨房に声をかける。厨房は調理をしたり、備品を補充したり、できたメニューを客席まで運んだりする。
レジ横で今日の担当を確認すれば、厨房だった。
「お疲れさまです」
「お、小瀬川くん、お疲れ」
厨房に入り挨拶をすると、店長が笑顔で答えてくれた。アラサーの店長は、髭がダンディーなイケメンだ。声も渋くて、店長目当てに店に通う女性客も多いと聞く。
前のシフトのパートさんと交代し、仕事に入った。
仕事のときは、笑顔を心がけてる。同じ学校のやつが見たら、気色悪いと思われそうなほどの愛想の良さだ。学校から遠いところをバイト先に選んで、つくづく正解だと思う。
ここをバイト先に選んだ理由は、本当はもっと別のところにあるのだけど。
六時を過ぎたばかりのこの時間、学校や仕事帰りの客で、店内は混雑する。目まぐるしく働き、ようやく客足が途絶えた頃には、二十一時を過ぎていた。
今日のシフトは、二十二時まで。営業は深夜一時までだから、本当はもう少し働きたいけど、ぎりぎり十八歳になっていない俺は二十二時までしか働いてはいけない。
ひと息つきつつ、今しがた帰った客が座っていた窓辺の席を片付けに向かった。まるで嵐が去った後の静けさのように、今の店内には客ひとりいない。だけど、またすぐに新規の客が来るのも時間の問題だ。
ふと顔を上げれば、窓ガラスの向こうに、闇に染まる歩道が見えた。
アスファルトに突っ伏していた彼女を発見したときの緊張を思い出し、反射的に目を凝らして見たけど、そこに彼女はいなかった。
考えてみれば、今日は部活に来てたし、病院に行く予定はないはずだ。
こんなところにいるわけがない。
『……小瀬川くんには、わからないよ――普通でいられなくなる気持ちなんて……』
闇を見ていると、あのときの彼女の声が耳に蘇り、俺の胸を締め付ける。
彼女を“普通”に縛り付ける理由を、俺は知ってるから。
罪悪感と切なさと苦しさで、気づけば彼女に手を差し伸べていた。
関わってはいけないことは分かっているけど、つらそうな彼女を見ていたら、行動せずにはいられなかったんだ。
「いや~、小瀬川くん。ピーク超えたみたいだね」
ふいに、横から声がした。隣のテーブルでナプキンを補充している店長の声だった。
「そうっすね」と俺は愛想笑いを浮かべる。
「最近、客増えたと思わない? 小瀬川くん目当てかな」
「いやいや、店長目当てですよ」
ハハ、と笑って軽口を受け流すと、店長は「そんなことないって!」と謙遜した。
こういった店長とのどうでもいい会話は、正直めんどくさい。
「そういえば、小瀬川くんって彼女いないの?」
客もいないし、店長の雑談はまだ続くようだ。
「いないです」
「モテそうなのに、もったいない」
「俺、ネクラなんで。学校でも浮いてるし」
「本当に? 誰とでも仲良くなれそうなのに、想像つかない」
大袈裟に眉根を寄せる店長に、誤魔化し笑いを向ける。
ああ、もう。本当にめんどくせえ。
「彼女とか、欲しいって思ったことないんで」
「ええっ! 大丈夫? 無理してる? 思春期青年のセリフじゃないでしょ」
「本心ですよ」
ちょうどそのとき、客が来店した。
「いらっしゃいませ」
とたんに店長は仕事モードに切り替わり、俺から離れレジに向かった。
イケメンの店長の出迎えに、若い女性のふたり連れは頬を紅潮させている。
ぼんやりとその様子を目で追っているうちに、まるでフラッシュバックのように、今日の部室での出来事が脳裏に蘇った。
『桜人って呼んで』
どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと、今更ながら羞恥心が込み上げる。
彼女に、俺の書いた詩が好きだと言われた瞬間、気づけばそう口走っていたんだ。
羞恥心を押し殺していると、もう一度、今日見た彼女の笑顔が頭に浮かんだ。
無理をしている彼女の笑顔はつらい。胸がズタズタになって、見ていられなくなる。
だけど素の彼女の笑顔は、すごくキレイだ。
彼女は本来、ああいう笑い方をする子だった。
少しだけ……ほんの少しだけなら、許されるだろうか。
あの笑顔を取り戻すために、この混沌とした世界から、わずかながらも手を延ばすことを。
六月の中頃、光がまた入院になった。
学校に復帰して、それほど間もないうちの、再入院だった。
光は、よほどショックだったのだろう。
再入院してから、以前にも増して、口をきいてくれなくなった。
放課後、K大付属病院前でバスを降りる。
バスを乗る前までは、ぎりぎり曇りだったのに、その頃にはザーザーと滝のような雨が降っていた。
傘を差し、病院のエントランスに向かって歩く私の足取りは重い。
心を閉ざしている光を見るのはつらかった。
だけど私は、こうやって、定期的にお見舞いに行くことしかしてあげられない。
お母さんは相変わらず忙しくて、ろくにお見舞いにもいけない様子だから、光はまた私に八つ当たりしてくるだろう。それを考えると、どうしても気が重くなる。
小児病棟の二階、今回の光の部屋は、前回のふたつ隣だった。
入り口で“水田光”の名前を確認して、中に入る。雨のせいで、病室内は薄暗く、どんよりとした空気が漂っていた。
今回は三人部屋で、光以外のベッドは空いてるみたい。だから事実上、個室のようなものだ。それにも関わらず、光のベッドには、隅から隅まできっちりカーテンが引かれていた。
カーテンの前で息を整え、できるだけ明るい声をだす。
「光、来たよ。具合はどう?」
「……姉ちゃん」
答えにはなってないけど、意外にも返事はすぐにあった。拍子抜けした気持ちになりながらも、カーテンの隙間から中を覗けば、光はベッドの上に座り込み、スケッチブックに向かって色鉛筆を走らせていた。
「……絵、描いてるの?」
「うん、そう」
光は、幼い頃から絵を描くのが好きだった。好きこそものの上手なれの言葉通り、私なんかよりはるかに上手で、夏休みの絵画コンクールには毎年のように入選している。
だけど一年くらい前から、光は絵を描かなくなった。度重なる入院によるストレスが原因なのには、勘づいていた。
絵を描いている姿を見るのは、久しぶりのことで、急な心境の変化に驚かされる。同時に、とてもうれしくなった。だけど大袈裟に喜んだり褒めたりしたら、光はまた反抗的になるかもしれない。そう思って、あえて感情を押し殺す。
棚に入っていた洗濯物をまとめ、持参したパジャマと交換する。さりげなく光の様子を見ると、とても顔色がよかった。こんなに真剣な、生き生きとした目の光を見るのは、本当に久しぶりだ。
光が色とりどりの色鉛筆をとっかえひっかえ使い、懸命に描いているのは、燦燦と光り輝く太陽に向かってみずみずしい枝葉を広げる木の絵だった。
「この木、そこの窓から見えるんだ」
私の視線に気づいた光が、鉛筆を持つ手を止めて窓を指し示す。
あいにくの雨で視界は悪く、入院棟の中庭に植わった木らしきシルエットはぼんやり見えるものの、はっきりとはしない。
「木? でも、今は見えないけど……」
「覚えてるから、大丈夫」
構わず、光は手を動かし続ける。
「さっちゃんが来てくれたとき、一緒にじっくり見たんだ。だから、はっきり覚えてる」
「さっちゃん?」
首を傾げると、光は丸い目をこちらに向け、そして恥ずかしそうにうつむいた。
「……友達」
光の照れたような、でも子供らしいうれしそうな顔を見て、確信した。
友達ができたんだ。おそらく、同じように小児病棟に入院している子だろう。
どうやらその“さっちゃん”が、光をこんなにも前向きに変えてくれたらしい。
――好きなのかな。
直感でそう思った。
「そっか。友達できたんだ」
「うん。さっちゃんに、今度僕が描いた絵を見せてあげるって約束した」
「ふうん、そっか」
ニヤニヤをどうにか抑え込んで、あくまでも平生を装う。だけど心の中は、いつになく浮ついていた。光のお見舞いに来て、こんな幸せな気持ちになれるなんて思わなかった。
光を変えてくれたさっちゃんに、心から感謝したい。
恋の力ってすばらしい。
小瀬川くん――桜人が文芸部だって知ってから、短時間でも、毎日放課後に文芸部に行くようになった。
彼のことを、知りたいと思ったからだ。
光と違って、恋とか、そういうのじゃない。
いつも私の心を暴く彼。
高校に入ってから、イメージが変わったらしい彼。
人の心を揺さぶる詩が書ける彼。
そういった全てが、興味深かった。
桜人は、二日に一回ぐらい文芸部に顔を出した。
前からそれぐらいのペースで部活に来ていたのかと思ったけど、田辺くんが言うには「先輩、最近よく来ますね」とのことなので、そうでもないみたい。
ある日文芸部に行くと、珍しく川島部長も田辺くんもいなかった。
窓辺のいつものパイプ椅子で、桜人がひとり本を読んでいるだけだ。
お昼ご飯を部室で食べていたときぶりの、ふたりきり。
なんとなく緊張してしまって、長テーブルにバッグを置きながら言葉を探す。
「部長と田辺くん、来てないね」
「ああ」
「今日、バイトあるの?」
「六時から。ここで、少し時間潰してから行く予定」
「ふうん、そうなんだ」
そうだ、私も光のお見舞いにいかないといけなかった。
「じゃあ、私も桜人と一緒に帰る」
そう言うと、桜人が顔を上げ、こちらを凝視した。
ほんの少し動揺した顔をしていて、気のせいか顔が赤い。
「あ……」
言葉が足らずだったことに気づいて、私は慌てた。これじゃあ、ただただ桜人と一緒に帰りたがっているだけみたいじゃないか。
それから、本人に言われたとはいえ、初めて彼を下の名前で呼んでしまったことを、今更のように恥じらってしまう。
「K大付属病院に、弟が入院してるの。だから、お見舞いに行かないといけなくて……。ほら、同じ方向だから」
「そっか」
桜人はそう答えると、また下を向いて、黙り込んでしまった。
パラ……、と桜人が本を捲る音が室内に響く。窓からそよぐ風が、彼のモカ色の髪を揺らした。スッと通った鼻梁に、目元に陰を作る長めのまつ毛。同級生より大人っぽい桜人は、こうして見ると、今すぐにでも俳優になれそうなくらい見た目が整っている。
窓辺で本を読む桜人は、まるで映画のワンシーンのようにとてもきれいだ。
先ほどの名残のせいか、彼の首筋がほんのり赤い。
クールで何事にも動じない人だと思っていたけど、桜人は、わりと照れ屋みたい。
彼の知らなかった一面が知れて、気恥ずかしいながらも、うれしい気持ちになる。
そこで、彼が手にしている本の背表紙が目に入った。
――『後拾遺和歌集』
予想外の本のチョイスに、驚きを隠せない。
「それって、和歌の本だよね。和歌、好きなの?」
桜人は本に目を落としたまま、静かに答えた。
「うん、和歌とか俳句とか、子供の頃から好きなんだ」
「へえ……」
「子供の頃は、本ばかり読んでたから」
どことなく寂しげな目をして、桜人が言う。
桜人は、どうやら文学少年だったようだ。
だから文芸部在籍なんだと、今更のように納得してしまった。見た目は、ともすると遊んでいるようにも見えるのに、人って見かけによらないものだ。
でも、そんな彼の意外な一面を、また素敵だなと思った。
「どうして、和歌や俳句が好きなの?」
「……ありったけの想いが、詰まってるところかな。短いからこそ、胸に染みて、なんかいいなって思う。日本語って、芸術だなって思う」
「ふうん……」
かすかに微笑みながら語る桜人を見て、本当に、和歌や俳句が大好きなんだなと感じた。
「好きな和歌って、あるの?」
聞くと、桜人は顔を上げて「こっちに来て」と私を呼ぶ。
窓辺の椅子に座る彼に歩み寄れば、手にした『後拾遺和歌集』を差し出される。頭のすぐ近くに、桜人の柔らかそうな髪の毛の気配がした。
君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
指差された文字を、ゆっくりと目で追う。
「これ、知ってる。たしか、百人一首のだよね」
「……そう。百人一首は、いろいろな歌集から歌を集めて編纂されたものだから。この和歌は、もともとこの本に載っていたものなんだ」
「へえ、そうだったんだ……」
桜人の博識ぶりに感心した。
「どういう意味なの?」
「“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”って意味」
淀みなく、桜人は答えた。
その和歌に秘められた壮大な想いに、思わず唸る。
「深い恋の歌なんだね……。死んでもいいという思いを超えて、生きたいと思うようになったほど、好きになったってことでしょ?」
死生観を覆すほどの大恋愛とはどういうものだろう? まだ恋を知らない私には想像もつかない。
「うん、そうだと思う」
「……なんか、すごい」
「うん」
淡白な返事だけど、桜人の声は、いつになく弾んでいる気がした。本当に、この和歌が好きなんだろう。意外な一面が知れた気がして、うれしくなる。
「それに、言葉の響きがとてもきれい」
『日本語って、芸術だなって思う』と言った桜人の気持ちが、少し分かった気がした。
ふと顔を上げれば、思ったより近くに桜人の顔があった。
大人っぽいイメージの彼だけど、近くで見ると、思ったよりも幼く感じる。茶色い瞳が、どことなく不安な色を浮かべていたからかもしれない。きっと、私と同じように、自分について他人に話すことに慣れていないのだろう。
彼を励ますように、そっと微笑みかければ、桜人はまたすぐに下を向いてしまった。
それきり、私たちはほとんど会話を交わさなかった。
互いの気配を感じつつも、それぞれ本に没頭していただけ。
桜人がバイトに行かなければならない時間になり、一緒に部室を出て、廊下を歩み、学校を出てからも、無言のことの方が多かった。
だけど前を行く桜人が、私のペースに合わせて歩く速度を落としているのが分かって、見えにくい優しさに少し心が温かくなった。