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 ふわっと身体が軽くなったような気がする。目を閉じた暗闇の中で、色々なものが取り払われた感覚を覚える。
 僕はとっさに、死に際かな? と思った。
 口を覆うマスクも、腕に差し込まれたいくつもの針も、何も感じなくなっている。
 不意に鼓膜を激しく揺らす雑音が聞こえていることに気が付いた。蝉の鳴き声だ。
 おかしいな、今は冬のはずだけど。もしかしたら、死の間に四季の概念などないのかもしれない。ただそれでも蝉の声だけは、はっきりと鮮明に耳を轟かしている。
 暗闇を光が突き抜けて双眸を強く刺激した。顔が火照るのを感じ、うっすらと目を開ける。そして、差し込む強烈な日差しにすぐさま、再度目を閉じた。先ほどまでの暗闇に、チカチカと光の球体が浮かび上がる。

 不思議だ。身体の自由が効く。指一本としてうごかせなかった身体が、まるで健康体そのものといった様子で、自在に動かせる。
 そして、僕は確信した。――死んだな、と。

「よっこいせ」

 身を起こし、周囲を見渡す。
 コンクリートの地面、吹き抜ける生ぬるい風、雲ひとつない群青の空。そして、汗を滲ませて息を切らしながら僕を見下ろす一人の少女がいた。

「ここは……」

 少女のことなど、気にもせずに口を開いていた。どうやら、どこかの建物の屋上のようだが、見覚えがあるような、ないような。

「学校!」

 眼前の少女が一歩、歩み寄ってくる。
 僕は彼女を呆け面で見つめた。白いワイシャツにベージュチェックのスカート、それと黒いローファー。ぱっと見で中学生ではないことは明白であったので、おそらく女子高生。たぶん、同年齢か、少し下というくらいだろう。透き通るような黒髪ロングで、若干幼さを残しつつも整った顔立ちをしている。身長は目算ではあるが、おそらく百五十ちょいだろう。どこにでもいるような、普通の女子高生だ。

「東第二高校の屋上!」

 彼女は再び、付け加えるように言った。

「東第二高校……」

 復唱するように呟く。間違いない、僕が一年前まで通っていた高校だ。
 いきなり病気じゃないみたいに身体が軽くなり、夏を表すような炎天下の元に晒されて、挙句そこが母校の屋上。
 思わず苦笑してしまった。
 意味がわからなすぎる。

「やっぱり、死んだのかなぁ」

 視界の端で少女が首を傾げる。

「何を言ってるの? 君、生きてるじゃん」
「僕、生きてるの?」
「生きてるよ」
「ふーん」
「ふーんって。変な人」

 彼女は嫣然とした笑みをこぼした。

「私、水上希(みずかみのぞみ)。ここの三年」

 そう言って、彼女は僕に手を差し伸べた。その手を、僕は握らない。

「聞いたことない名前だな。僕も、一応まだ? ここの三年なんだけど」

「本当に? 私も君を見たことはないよ。名前は?」

「僕? 僕は……あれ? 名前、思いだせないや」

 希は手を引っ込め、腕を組んで唸った。

「君、私をからかってるの? でも、同学年って百人ちょいしかいないから、流石にお互いに知らないって、なんだかおかしいね」

「まぁ、今さら学校なんてどうでもいいや」

「……? 夏休みだから?」

「今って、夏休みなの? 何月何日?」

「七月三一日だけど。君、記憶でも飛ばしてるの?」

 やっぱり、おかしい。確か今は2020年、十一月の半ばのはずだ。病室にはカレンダーなどないので、正確な日付はわからないが、確かに外は雪が降っていたのは覚えているし、先日病室を訪れた母親は厚手のコートに身を包んでいた。
 しかし、彼女は確かに七月の三十一日だといった。気でも失って、半年以上寝込んでいたとでも言うのだろうか。だとしても、屋上にほっぽり出されているこの状況は全く理解できない。
 よく見ると、服装はなぜか彼女と同じ種類であろうワイシャツに黒の学生ズボンの姿であった。

「なるほど。夢、だな」

 死んでいるか、それとも夢か。もはやその二択しか考えられないのだが、夢であるならば日差しや、コンクリートの感触が妙にリアルすぎる。
 少し気になって、彼女に質問を投げかけた。

「ちなみに、今って西暦何年?」

「本当に変な人だね。今は2030年だよ」

「えっ?」

「ん?」

 彼女の言葉を理解するのに相当の時間を有した。記憶と十年以上のタイムラグが存在している。だとすると、もし万が一にこれが死後の世界でも、夢の世界でもないのであれば、僕は十年後の未来の世界に来ていることになる。とても現実に起こったことだとは思えない。

 彼女が訝しげに覗き込んでくる。夏の暑い風に長い黒髪がなびく。その吸い込まれるような大きな瞳に、不覚にも少しだけ見とれてしまった。

「綺麗だな」
 
 思えば、目をさましてから初めて浮かんだ感情かもしれない。
 正直な話、未来に行こうが、ここが夢の世界であろうが、どうでもいいのだ。どうせ、一ヶ月後に僕は死ぬのだから。

「何? 口説いてるの?」

「まさか」

 彼女はクスッと笑った。

「君、やっぱり面白いよ」

 再び、目の前に白く艶めいた手が差し伸べられる。
 躊躇した。この手に触れた瞬間、もしかしたら夢から覚めてしまうかもしれない。思えば、人とこんなに話したのはいつぶりだろうか。そもそも、声が出ると言う現状に驚きを隠せないのは事実だ。

「ほら、立たないの……?」

 希は手をクイクイっと上下に軽く揺さぶる。
 数拍置いて、僕は彼女の手を取った。
 温もりが、そこにはあった。