*

 その日、僕は彼女との約束を半分破り、学校の屋上で寝転がっていた。
 彼女は朝早く、僕に鍵を託して家を出た。せわしなさそうに支度をしていたので、おそらく遅れ気味だったのだろう。

 夏の日差しは相変わらずそこら中に陽炎を振り撒いている。しかし、僕にはアスファルトの焼ける熱さどころか、日差しの暑さすら感じない。
 本当に不思議な身体だ。
 暑さや冷たさなんてわからないのに、ふとした時に確かな温度を感じる時がある。最後に温度を感じたのは昨日。彼女と食卓を囲んでいる時に流し込んだ味噌汁だ。一口目、二口目は何も温度を感じない味噌の味が口に広がり、なんとも言えない違和感だったが、三口目を運んだ瞬間、口の中から胃の中までじわっと熱が広がった。
 温度を感じる時の条件とかあるんだろうか。
 しばらく、群青色のキャンパスに流れる入道雲を眺めながら考えた。

「いや、分からん」

 きっと、考えても答えなど出ない。そもそも、今の僕の現象は単純な人間脳では何ら解明のできないことなのだ。その現象のさらに奥に存在する温度の感知に関する問題など、ただの高校生に分かるわけがない。

 それにしても、退屈すぎる。
 自分のふとした感情に驚いた。
 一人で過ごす時間を退屈だ、と感じたのだ。それは、僕にとって長らく忘れられていた感情で、きっともう取り戻すことのないものだと思っていた。
 僕は彼女によって人としての感情を取り戻し始めているのかもしれない。まるで、死んだ感情に命を吹き込まれているような、そんなイメージだ。死んでる僕が言うと冗談に聞こえないけれど。

 夜の一人は随分と早く時間が過ぎるのに、昼の一人は想像以上に長い。視界に入ってくる情報量で、時間の流れが意識されてしまうからだ。夜ならば暗闇に目を閉じていれば、耳に伝わる音も微かなもので、いつの間にか目を開けた時には朝が訪れているのだ。

「あっ、名前……」

 彼羽に僕の真名を聞くのを忘れていたことに気が付いた。彼女は僕のことを()()()()と呼んでいた。少なくとも名前の最初に「よ」が付くのだろう。
 しかし、その情報だけではどうにも名前など分かるわけもない。
 そもそも、名前を知る方法などいくらでもあるのだ。例えば、もう一度家に帰り、僕の私物から名前を探り当てればいい。もしくは、今この学校の職員室か資料室に潜入し、過去の学生名簿でも探せばいい。
 しかし、そこまでして僕も名前を知りたいというわけではない。もちろん、あの日彼羽に名前を訪ねていれば、この若干のもやもやもなかったのだけれど。
 では、彼羽にもう一度会って名前を聞くかと言われれば、答えはノーだ。
 僕は何となく分かっていた。もう二度と彼女に会うことはない。少なくとも自発的に彼羽を求めることは絶対にない。そして、それは彼女も同じ考えだろう。

 僕と彼羽は過去の清算を済ませた。
 前に進むには、過去を振り返ってはいけないのだ。僕はこの十年後の世界では過去の人間であり、異質な存在だ。
 彼羽は前に進むために、僕の十年越しの告白を断った。引きずってはいけない。そう自分に言い聞かせて取った行動だ。
 それなら、僕も前に進まなければいけない。でも、僕はこれからどこに進めばいいのだろう。
 タイムリミットは相変わらず毎晩0時にきっちりと刻まれる。残り十九日。
 僕は十九日で、何をするのが正解なのだろうか。
 これが映画とかならば、主人公である僕が何か目標や、なさねばならない目的を見つけて、達成のために奮闘するのだろうが、今の僕には何をすれば良いのかまるで分からない。

 そもそも、タイムリミットがあるからといって、特段いつもと違う行動を取る必要があるのだろうか。
 時間は皆、平等なのだ。一日二十四時間。人の人生など、一瞬で狂うものだ。そんなこと、僕が一番良く分かっている。
 健康な人やどんなに屈強な人だって、ふとした時に大事故に巻き込まれれば、あっけなく命が散ってしまう。
 人間、未来のことは誰にも分からないのだ。
 僕のともしびが短いと知って、哀れむ人がいたとして、その人が僕のタイムリミットよりも長く生きられる保証はどこにもない。もしかしたら、明日にでも何らかの出来事で死んでしまうかもしれない。
 そう考えると、逆に一日をこのようにゴロゴロ過ごすのもすごく勿体無いことのように思えてきた。でも、これもきっと僕が今したいことなのだ。たとえ退屈だと感じても、本能的に寝転がって、色々なことに思いを馳せている。
 少なくとも、十年前のタイムリミットの迫った病室の僕よりは、同じ寝転がるという行為でも、今の僕の方が明らかに充実していると言えるだろう。

 視界に収まる群青のキャンパスから、入道雲が消え去り、正真正銘青一色となった。
 ふいに言葉が浮かんだ。

「まるで、海みたいだ」

 あの人ならば、きっと言うはずだ。もう、海に身を投げてしまっただろうか。側から見ればただの自殺志願者であるあのヒーローは、僕に宣言したことをきっちり完遂するのだろう。
 でも、止めない。僕は、止めない。止めたら、僕もあの人も後悔する。

 群青の海の下でぼんやり漂うように過ごしている僕は、さながら海月だ。
 ズボンから海月のストラップを取り出す。てっぺんを若干すぎた西寄りの日差しを受け、青い硝子製の海月が生き生きと煌めいた。

「少し、楽しいかも……?」

 一人で微笑んでいることに気がつき、誰も見ていないと言うのに慌てて表情を取り繕った。
 少し、楽しい。その言葉の裏に、終わらせたくないという意味が無意識に込められていることを、僕は気が付いていなかった。

        *

 暗くなる前に僕は希との約束を守るため、帰宅した。彼女のいないアパートの一室は不気味なほど静かで、いつも以上に小さい声でただいまを口にする。
 電気もつけずにリビングの窓際に腰をかける。いつも、僕が夜を過ごす場所だ。眠くならないこの身体で夜を過ごすには、窓際で夜空を眺めるに限るのだ。空を見ると、夏の夜にはまだ少し早く、うっすら青みが残っている。
 家に帰ってきても、残りの十九日でやりたいことなど浮かぶはずもなく、ただひたすらに暗みを増す空を眺めた。
 どうしてだろうか。今日はやけに時間が進むのが遅く感じる。単純にやることがないだけなのは事実だが、それを除いたとしても遅いのだ。

「寂しいなぁ」

 不意に飛び出した言葉に嘘偽りはない。いつの間にか、一人が寂しいと感じるようになってしまった。
 これも、全て彼女のせいだ。
 彼女がやたらと構い、話しかけ、世話をして、笑い、受け入れるから、僕は彼女に依存し始めている。

「幽霊に依存されるって、憑かれてるな。はは……」

 視覚、聴覚の他に唯一持ち合わせている食欲さえも、彼女がいなければ一ミリも湧かない。これに関しては依存する前からそうであったのだけれども。
 残りの期間、きっと僕は彼女と一緒にいたいのだろう。彼女だけが僕のエゴを受け入れ、理解してくれる。
 それでも、感情は持ちすぎてはいけない。人間らしい感情を取り戻せば取り戻すだけ、別れが辛くなるのは目に見えているのだ。彼女はきっと、別れを惜しむだろう。それでも、空気を読んであっけなく事を済ませるはずだ。
 でも、僕にこれ以上の感情が戻れば、彼女のように取り繕って別れることなどできない。
 
 十九日が過ぎ去り、二十日目に何が待っているのかわからない。そのまま僕は幽霊としての身体を維持できず、消滅するのか、はたまた十年前のあの薄寒い病室にとんぼ返りするのか。
 できる事なら、綺麗な思い出のまま消え去りたい。今ですら、あの病室には戻りたくないと感じてしまっているのだ。これ以上の感情を持つのは、辛いだけだ。
 ポケットの中の海月を力強く握りしめた。

 いつしか夜は明け、彼女のいない二日目が来た。
 一歩も動かなかった。正確には動く動機がなかったからだ。今は、ひたすらに彼女に会いたい。それだけが僕の中をぐるぐると渦巻いていた。
 別に恋してるとか、そういうのじゃないと思う。単純に彼女と会話をしたい。同じ卓を囲んで食事がしたい。ただ、それだけのこと。

 確か、彼女は今日の夜には帰ってくるはずだ。
 陽はてっぺんをすでに四時間ほど前に通り過ぎている。
 時間が経つほど、胸が少しずつ高鳴っていく。どうして、こんなにも彼女が帰ってくるのが待ち遠しいのだろうか。いつから僕はこんなに彼女に依存してしまっているのだろうか。
 居ても立っても居られず、部屋の中をぐるぐると歩き回った。もう、自分の感情がよくわからない。
 不意に寝室からドサっという音が聞こえて来た。何かが落ちたのだろうか。見ると、寝室の壁側にある本棚から一冊のアルバムが床に落ちていた。
 本棚には彼女の父親の仕事の資料などもあるらしく、普段から触らないようにしていた場所だ。
 アルバムを拾い、少しだけ背徳を感じながらも中を見る。最初のページには赤ん坊の写真が数枚貼り付けられていた。日数を見るに、どうやら希の赤ん坊の時の写真のようだ。おそらく、このアルバムは彼女の記録なのだろう。
 赤ん坊から、幼稚園、小学校低学年と数多の写真が貼られていた。

「なんか、見たことある顔だなぁ」

 正真正銘、水上希の児童期なのだから、見たことある顔でも不思議は無いのだが。
 不意にページを捲る手が止まる。

「これ、病院? しかも……」

 そのページには写真は二枚しか貼られておらず、一枚は彼女が病院のベッドで目を閉じて寝ている写真。そして、もう一枚は彼女が病室のベッド横に花の入った花瓶を置いて手を合わせている写真だ。
 僕の勘違いでなければ、この写真の病院は僕が十年前にいた病院だ。日付を確認すると2021年3月15日と記載されている。僕は2020年11月半ばの時点で、余命一ヶ月と宣告されていたので、どうやらこの写真は、僕が亡くなった後の写真ということになる。
 だから、何か関係があるのかと言われれば、特に無い。この辺りで大きな病院といえば、この病院しかないのだから。

 次のページをめくると、また日常を描いたような何気ない写真だったので、一度ページを戻して病室の写真を見る。
 花瓶に向けて合掌するその写真は、明らかにこのアルバムにおいては異質だ。それでも、しっかりと貼られて、記録として残されている。
 明るいアルバムの内容としてはそぐわないが、それでもこの写真を残さなければいけないだけの理由があるのだろう。
 そういえば、彼女は以前、死にかけたことがあり、余命宣告もされたと言っていた。憶測でしかないが、おそらく関係性はあるはずだ。
 しかし、これ以上は踏み込んではいけない気がした。誰も、自分が死にかけた時の話など、むやみやたらと掘り返して語りたくはないだろう。少なくとも、今の僕は死にかけていたあの頃は思い出したくない。

 気を取り直して、アルバムを捲った。異質なページはその一ページだけで、あとは彼女の成長記録のようなものだ。小学校から、中学校、高校と彼女はアルバムの中でぐんぐんと成長し、最終の写真は今年の春の写真だ。
 どうやら、スマホで取られた写真のようで、彼女が父親と思しき男性を枠に捉えて一緒に映っている。そして、残りのページは今後埋まるであろう白紙のページだ。
 アルバムを閉じた僕は、どうしてもあの病室の写真が引っかかっていた。もう一度見ようとアルバムを開きかけて、やっぱり止めた。なんとなく、罪悪感が大きかった。

 玄関がガチャと開く音が聞こえてくる。
 僕はそっと、アルバムを棚に戻して寝室を後にしたのであった。