市立病院を飛び出した私は、タクシーを使いなんとか白川が入院する大学病院まで辿り着いた。転びそうになりながらも足を動かし、一直線にICUを目指す。
途中何度も人にぶつかり、その度に怪訝な視線を投げられた。「何処見て歩いてるんだ」と暴言を吐く人もいれば、謝罪の出来ない私に「育ちの悪い娘だ」と嘆く人もいる。それでも、入院患者にはぶつからない様に注意をしたし、実際にぶつかってもいない筈だ。――多分。
ICUに辿り着いた頃には、息も絶え絶えで身体中に汗が滲み、眩暈で真っ直ぐ歩けない程だった。壁に手を突き、なんとか呼吸を整える。これでは、名前なんて呼べない。声なんて出せない。
――落ち着け。大丈夫だから、とにかく落ち着いて。
心の内で何度もそう繰り返し、ゆっくりと息を吸い、深く吐く。
そこで、タブレットを診察室に置いてきてしまった事と、受付も会計も全部放り出してきてしまった事を思い出した。此処まで来てしまったものは仕方が無い。後日、ちゃんと謝りに行かなければ。
こんな状況だというのに、妙な所で冷静に思考が働く。
漸く呼吸が整い、息を吐きながら顔を上げる。服の袖で額の汗を拭い、ICUの方へ顔を向けた。
「――随分と早かったね」
ガラス張りの前、じっと佇みベッドで眠る白川を見つめていたのは、私に例のテキストファイルを送って来た人物。此方を見て、彼が今にも泣き出しそうな顔で笑う。
「待ってたよ」
彼がベッドの方へ顔を戻す。
「白雪姫はずっと、人魚姫が来るのを待ってた」
ここで待っていて、彼はそう言って、何処かへ行ってしまった。
ICUの前で、独り立ち尽くす。ベッドに目を向ければ、白川はとても安らかに眠っていた。あの、白雪姫の様に。
――貴方の心の内に、植物は育っていますか?
それは、彼が事故に遭った日の夜、カフェで彼――北条涼太に問い掛けた言葉だ。その場で目を伏せ、当時の事をゆっくりと反芻する。
〈北条先生、貴方の心の内に、植物は育っていますか?〉
私の言葉に、彼は一瞬虚を衝かれた様な顔をした。しかしすぐさま優しく笑って、「『植物』を読んでくれたのかな」と言った。
「――人間の心はプランターである。この世に生を受けたと同時にプランターに土を敷かれ種が埋め込まれる。褒め言葉や好意、会話が肥料になり、人間は己の人生をかけて心の内に美しい植物を育てる」
そしてゆっくりと滑らかに告げたのは、『植物』の冒頭。
彼は、また笑った。しかし、それは自嘲の様なものだった。
「先生の心に植物は育っていますか? その問いは、もう何度もされた。でも、初めて本当の意味でそれを問われた気がする」
彼は小さく息を吐いて、目を伏せた。
「記者は皆同じ事を問う。先生の心にはどんな花が咲いていますか、どんな植物ですか、と。テンプレートの様な質問に辟易としていた」
彼の言葉を聞きながら、それでもどの記者も気になるのはそこだろうな、なんて冷静に考えながらその顔を見つめる。しかし、同じ事を何度も何度も問われればうんざりしてしまう、その気持ちはわかる。
私も、同じ事を問うてしまった。その事を謝罪しようと思うも、彼が言葉を続けようとした為ペンを止めた。
「『植物』を執筆していたのは、離婚した直後の事だったんだ。直後――という程直近でも無いのだけど、僕としては長く離婚を引き摺っていた。その離婚が原因で、僕の心の中の植物は完全に枯れきってしまったんだよ。その時気付いた、人間の心には植物が育っているのだと。その事実に、枯れてから気付いた。だからあの冒頭は、一種の皮肉であり願望だね。枯れきった僕の心にもう一度植物が育つ様にと願って」
こんな話記者には出来なかったけどね、と言って彼が再び自嘲を漏らした。
――彼のあの時の言葉が、今はよく分かる。初めて『植物』を読んだ時、私の傍には母がいた。故に、自身の心に植物が育っている事に気付かなかった。
だが母を喪って、世界が色褪せた。その時は〝心の植物が枯れた〟なんて思わなかったが、恐らくはあの瞬間枯れてしまったのだろう。そして、白川と出会い、もう一度植物が育った。
「――待たせてごめんね。先生が中々捕まらなくて」
ふと右横から声が聞こえ、伏せていた瞳を開いた。其方に目を向けると、先程と同じく泣き出しそうな顔をした彼と、白川の主治医が立っていた。瀬那先生に何処か重なる、あの優しい医者だ。
「こっちおいで」
医者が柔らかい口調でそう言って、ICUの入り口に繋がる方――一般人は立ち入れない場所だ――に入っていく。医者の言葉の意味が分からず、助けを求める様に北条の方へ目を向けるが、彼は「大丈夫だよ」と言うだけだった。
痛む足を引き摺りながら恐る恐る医者の後に続くと、そこは映画の中で見た手術準備室の様な場所になっていた。手を洗うシンクがあり、消毒液やペーパータオル、電源の入っていない色々な機械が並べられている。
「本当は、外部の人間は入れないんだけどね」
医者がシンクで手を洗いながら軽い口調で告げる。
「でも、ご家族にあんな風に頭下げられたらね、こっちも強く拒絶は出来ないんだよ」
手を洗った後、医者は慣れた手つきでペーパータオルで手の水分を拭き取り、不織布の青いエプロンを身に着けた。促されるままに私も手を洗い、用意されたエプロン、ヘアキャップ、マスク、手袋と、所謂防護具と呼ばれる物を身に着ける。
私はこれから、白川が眠るICUに入れて貰える様だ。だが、家族以外の人間は面会出来ないと、手術後に看護師から言われたのを良く覚えている。
――ご家族にあんな風に頭下げられたらね、こっちも強く拒絶は出来ないんだよ。
状況に理解が追い付かず、更には軽い口調で言われた為に聞き流してしまっていたが、医者の先程の言葉がふと蘇る。
私が白川と面会が出来るように、北条は頭を下げてまで医者を説得してくれたのだ。
何故そこまで、と思うも、白川は彼にとってそれ程に大事なのだろう。白川の意識を引き戻せるのなら、それをするのは当然なのかもしれないとも思えた。同時に、声が出せなければ全てが無意味になってしまう、北条からも失望されてしまう、というプレッシャーが伸し掛かる。
「長くても、二十分ね。それ以上は許可出来ない」
私と同じ様に防護具を着た医者に言われ、小さく頷く。そして医者の後に続き、ICUの入り口である全面ガラスの自動ドアを通った。
ICUの中は、妙に緊張感が漂っている。
消毒液の匂いと、規則正しく鳴る心電図の独特な機械音。異様に白い壁と蛍光灯。
白雪姫を連想する程に白い肌を持つ男だったが、今の白川は色白、という寄りも血色が悪い。点滴の管が繋がった手を握ると、青い静脈が透けて見えているのが分かった。白粉をはたいた様に白い肌に、怖気が全身を襲う。
口に付けられた酸素マスクが白く濁ってはクリアになって――を繰り返している為、彼が生きている事は分かる。だが、あまりに悪いその顔色に、彼の命は本当に続いているのだろうかと不安を抱いてしまう。
まるで肉体だけを此処に置いて、何処か遠くへ行ってしまった様な。もう、彼は此処にはいないのだと思わせる様な。
彼の手を握ったまま、ベッドの横に置かれていた木の丸椅子にそっと腰掛ける。繋がった手からは、体温は感じられない。
最後に、白川の手に触れたのは四日前だ。神社を後にして、路面凍結に気付いた彼が私に手を差し出した。その時の彼の手は、冷え性の私と違ってとても温かかった。だが今は、私の手の方がきっと温かい。
すう、と小さく息を吸い込む。白川の顔を見つめ、口を開いた。
「 」
ゆっくりと口を動かすも、喉奥は塞がったまま声は出ない。
駄目だ、これでは名前が呼べない。手が震え、彼の父――北条の願いも叶えられないのだと恐慌状態に陥りそうになる。
白川の手を強く握り、その場で目を伏せた。
瀬那先生にも言われたじゃないか、喉の病気では無いと。私は声が出せるのだと。出せる筈なんだ。病気じゃないのだから。声帯に問題は無いのだから。魔女に声を奪われた訳では無いのだから。
だから、だからどうか、今この瞬間だけでも――
『――真姫』
やけに懐かしい、それでいて鮮明に思い出せる優しい声が、ふと何処からか聞こえた気がした。一瞬本当に、大切な人――母に呼びかけられたのかと錯覚するが、此処は病院のICUの中だ。耳に届くのは、心電図の音のみ。すぐさま、私の記憶が呼び起こした声なのだと理解する。
もう一度その声が聞けないかと、目を伏せたまま記憶を探る様に大きく深呼吸を繰り返した。
『――夕闇迫る 一人きりで 怖い 怖い 夜がくる』
徐々に脳内で鮮明になっていくのは、母の歌声。小さな頃、帰り路や眠る前などによく母が歌ってくれた歌だ。どれだけ調べてみても、曲名が分からなかった歌。母が作ったものだったのだろうか。
『――何も見えない 暗い 暗い 夜の中』
子供ながらに、何故そんな怖い歌を歌うのかと疑問で仕方なかった。母にそう問うてみても、母は笑うばかりで答えてくれなかった。だが、何故だか不思議とその歌を聴くと心が安らぐ様な気がしていた。
『――誰もいない 怖い さみしい 夜の中』
『――でも大丈夫 見上げれば そこで』
『――月が君を 視ているから』
決して長い歌では無く、〝月が君を視てる〟で終わるとまた冒頭に戻る。何度も何度も繰り返し、母は同じ歌詞を歌う。
それに合わせて、良く私も歌っていた。怖い歌だと思いながらも、それでもその歌が何故か印象に残って――
『――夕闇迫る 一人きりで』
「……こ、わい、こわ、い、……よる、がく、る」
『――何も見えない 暗い』
「……くら、い、よる、のなか」
繋がった手が、重ね合わせた掌が、僅かに動く。
『――誰もいない 怖い』
「……さみ、しい、よ、るのなか」
『――でも大丈夫 見上げれば そこで』
「……つきがきみを、みている、から」
何年ぶりだろうか、この歌を口にするのは。私が大きくなるにつれて母はこの歌を歌わなくなり、私も自然と忘れていった。
「……ゆうやみせまる ひとりきりで」
ICUの中に、自身のたどたどしい歌声が静かに響く。
「……こわい こわい よるがくる」
音程も外れていて、とても歌とは呼べない聞くに堪えないものだ。
「……なにもみえない くらい 暗い よるの中」
それでも、何故だか先程出なかった筈の声がするりと喉から出てくるのが不思議で、その歌を辞める事はしなかった。
「だれもいない 怖い さみしい 夜の中」
「でもだいじょうぶ 見上げれば そこで」
「月が君を 視ているから」
握った手が、私の手を握り返す。
きっと今、この歌を思い出したのは。
母が私を、白川を、救ってくれたのだろうな。
「――雪斗、起きて」
久しぶりに聞いた自身の声に、笑ってしまいそうになる。
少し低くて、可愛げのないややハスキーな声。人魚姫に例えられていたのが、申し訳なくなる位だ。
瞳を開き、ベッドで眠る――いや、眠っていた筈の彼に視線を向ける。
その長い睫毛が私と同じ様に動いて、色素の薄い茶色の目が私を捉えた。
「――真姫」
酸素マスクに遮られ、その声はやけにくぐもっている。更には、元の声が思い出せなくなってしまう程、酷く掠れていた。
「――下手くそ」
「……うるさい、な」
瞳から零れた生暖かい雫が、着用していたマスクを濡らす。それが何だか気持ち悪くて、乱暴に目元を拭った。
*
*
「腹減った」
「がまん、しろ」
「真姫の手料理食べたい」
「だから、がまん」
あれから、更に四日が経った。
白川――いや、〝雪斗〟が目を覚まし、精密検査の結果無事一般病棟へ移された。医者からの監視も逸れ、今や普通の入院生活を送っている。
しかしまだ固形物は食べられないらしく、朝昼晩とおかゆが出されている様で雪斗は会う度に不満を漏らしていた。
私はというと、すんなりと声が出たのは四日前のあの時だけで、会話はとてもたどたどしく今まで通り、とは中々ならなかった。更には吃音に似た症状も出ていて、時々どもってしまうのが嫌であまり自ら会話をしようとは思えない。それでも、もう筆談はしていなかった。
「――そういえばさ」
花瓶に花を活け終え、漸く椅子に腰を下ろした時。雪斗がぼんやりと天井を見つめながら口を開く。
「夢に、大人になった真姫が出てきた」
「おとな、に?」
「そう。髪長くて、こう、巻き髪みたいにふわふわしてて、顔も大人っぽくなってて、それに、背も少し高かった様な。今と違って穏やかな表情してて、優しそうな美人だったな。あ、でも、目元にほくろあったかも。よく覚えてないけど。でも、そう考えると真姫ではないのかもな」
「……」
髪が長くて、巻き髪の様にふわふわとしていて、大人っぽい顔つきに、穏やかな表情。そして、目元にほくろ。思い浮かぶのは一人しかいない。
「それ、私、の、母親」
「え」
「だと、おもう」
もしかすると、母は私の事だけでなく雪斗の所にまで行ってくれたのかもしれない。
昏睡状態の患者を、死者が連れ戻す、なんてのはたまに聞く話だ。それこそ、スピリチュアル的な話ではあるのだが。
「夢、の、なかの、母は、なに、言ってた?」
「あー、えっと、何だったかな。『此処にいたら駄目』とか『あの子が、貴方を呼んでる』とか」
「しゃべ、ってる、時点で、わたしじゃ、ないだろ」
「……言われてみれば確かに」
ふう、と溜息をつき、窓の外に目を遣る。
一月十二日。冬休みは終わり、二日前から三学期が始まっている。声が出せる様になった日の翌日に学校の存在を思い出し、なんとか来栖先生に連絡をしたのだが、彼女は声が出る様になった事を大層喜び、一人で勝手に話を進め病院やリハビリもあるだろうからなんて言って三日間の休みをくれた。出席日数や単位はどうなるのだろう、なんて思っていたが、その後来栖先生からの連絡で学校側が特別に三日間のみ出席扱いにする事を認めてくれたのだと知った。そして始業式の日にクラスメイトにも私の事を説明してくれたらしく、安心して学校に来ていいからね、なんて言葉もくれた。至れり尽くせりである。
「そんな事よりさぁ」
雪斗がふふふ、と不気味な笑みを浮かべながら徐にスマホを手に取った。
「折角声出る様になったんだから、これ真姫の口から聞きたいんだけど」
「は?」
見せられた、スマホのディプレイ。表示されているのは、メッセージアプリのトーク画面だ。そこにあるのは、〈好きだよ、白川。早く、お前に会いたい〉の文字。紛れもなく、自身が打ち込んだ文字だ。
しまった、勢いに任せてこんなものを送ってしまったのだった。何故送信取り消しをしておかなかったのだろうと後悔が押し寄せる。そして、湯気が出そうな程一気に顔に熱が上った。
「下らない事、言って、ないで、寝ろ」
雪斗の頭の下から枕を引っこ抜き、その顔に思い切り投げつける。
「痛い」
「自業、自得、だ」
椅子から腰を上げ、病室の窓を開いた。病室内の暖かい風が逃げ出すのと同時に、ふわりと冬の冷気が入り込む。
今日の最高気温は八度。雪が降る事は無いが、まだまだ寒さは続く。しかし今の私にとっては、火照った頬を冷ますのに丁度良い寒さだった。
「――真姫」
雪斗に呼ばれ、振り返る。彼は、先程とは違う優しい表情を浮べていて。
「――好きだよ」
そう言って、ふわりと柔らかく笑った。
その顔を見て、心から思う。彼が、目を覚ましてくれて良かったと。
今でも、目を伏せればあの事故の光景が蘇り、夢に見る事すらある。苦しくないと言えば、嘘になるだろう。一刻も早く忘れたい光景だ。
「……う、ん。私も――」
それでも、あの事故の事は忘れてはいけない。あの事故を教訓として、私はこれからも同じ悲劇が起こらぬ様に一日一日を生きてゆく。
彼がこうしてまた目を覚まし、笑ってくれた事を奇跡だと信じて。
「――好き」
「いやぁ、良かった良かった。一時はどうなるかと思ったよ」
高そうなシャンパンを片手に、へらへらと笑うのは私の憧れであり、雪斗の父親である――北条涼太だ。
此処は、北条が借りているマンションの一室――つまりは彼の家だ。リビングにはデスクトップパソコンやプリンターが並び、印刷済みの紙の束や新品のコピー紙が至る所に積まれている。見れば見る程、彼が〝小説家〟なのだと実感させる部屋だった。
「酒弱いんだから、あんまり飲みすぎるなよ」
自身の隣に座っていた雪斗が、呆れ顔で北条を窘める。そんな雪斗に向かって、彼が透かさず「退院祝いなんだから良いじゃないか」と反駁した。
今日は、雪斗の退院祝いとして彼の家に招待されている。しかし退院祝いと言っても、テーブルの上にはスーパーの惣菜コーナーで買ったであろうオードブルがトレーのまま置かれているだけで、とても退院祝いとは言えない見た目だ。せめて、皿に位盛り付けて欲しいものである。こうなる事が事前に分かっていれば、私が幾らか手伝ったのにな、とすら思う位だった。
だが今の私は、北条の服装にどうしても意識が向いてしまい中々会話に集中ができなかった。
彼は病院で会った時と同様、随分と堅苦しい恰好をしている。カッターシャツにネクタイを締め、黒のウェストコート。室内故かジャケットは流石に羽織っていないが、立派な正装だ。その服装はどうもこの部屋の内装と、雑なテーブルの上の料理に合わず、強烈な違和感を生み出している。――シャンパングラスを持つ姿は、様になっているのだが。
「お仕事、だったん、ですか?」
そう問うと、北条が「ん?」と首を傾げた。
「僕は一応小説家だからね、仕事は毎日しているよ。家で」
「では、スーツ、は、私服、ですか?」
「あぁ、これ?」
北条が自身の身体を見下ろし、苦笑する。
「そうだね、今は私服みたいなものかな」
「親父、破滅的にファッションセンスが無いんだよ」
苦笑する北条を尻目に、雪斗が吐き捨てる様に言った。ファッションに拘りの無い雪斗がそういうという事は、余程のものなのだろう。
しかし雪斗とよく似た、端正な顔立ちをした北条の私服、というのは想像がつかない。死ぬ程ダサい服装をしている姿も、お洒落な服装をしている姿も、だ。一人首を傾げていると、北条が「この前の天才Tシャツは中々良いと思ったんだけどなぁ」と呟いた。天才Tシャツ?
「あれはねぇよ、そういう所がファッションセンス無えって言ってんだよ」
しかし雪斗は北条の言葉を一蹴するだけでは留まらず、北条が哀れに思えてくる程容赦なく貶す。彼等の会話に『家族って良いな』と思う反面、どうしてもその天才Tシャツとやらが気になってしまって仕方が無かった。
「ほら、これ」
そんな私の心を見透かした様に、雪斗が慣れた手つきでスマホを操作し一枚の画像を表示させた。
「これが天才Tシャツ」
スマートフォンに表示されたのは、北条の口元から腰までが写った自撮り写真だ。彼が身に纏っているのは、シンプルな黒生地のTシャツである。そこまでは良かった。しかし圧倒的に目を引く、胸元にゴシック体ででかでかと書かれた「天才」の文字。
「これ、は……」
想像の遥か上をゆくダサさに、言葉を失う。天才Tシャツは比喩表現では無く、そのままの意味だったのか。
私の中で彼は、人を上手く諭し人の心を動かす天才的な小説を書く人物だと思っていたのだが、そんな人物にも欠点はあった様だ。同じ人間である事に安堵感を抱くと同時に、憧れがガラガラと音を立てて崩れていく感覚に陥る。
「親父に服選ばせたら絶対こういう変なの持ってくるから、普段は常にスーツ着とけって言ってんの。多少堅苦しくても、スーツ姿見て不快に思う奴はいねぇだろ」
「たし、かに」
私達を見ていた北条が、居心地悪そうに身じろぎする。目を泳がせながらシャンパングラスの縁を徒に指先でなぞるその仕草は、なんとも女々しい。
「そう、いえば」
そんな彼を見ていられなくなり、無理に話題を変えようと声を上げた。
「声、ちゃんと、出て良かった、です。わざわざ、ICUに、入れて貰ったのに、声、出せなかったら、意味が無かった、ので」
今でもよく思い出せる、ICUの中の妙な緊張感。潰れてしまいそうな程のプレッシャー。瞳を閉じればあの時の感覚が直ぐに蘇る。
「確かに、君が声を出せなかったらどうしようとは僕も思っていたよ」
北条が言葉を区切り、シャンパンを口に含む。
「だけど、君が声が出せる事は分かっていたから」
「え?」
「雪斗から真姫ちゃんの話を聞いて、僕なりに心因性失声症の事を調べたんだ。心因性の場合声帯には異常が無いから、眠っている時に寝言を言う事もあるらしい」
「寝言を、言う」
自身の知らない情報にオウム返しすると、北条が「うん」と言って優しく笑った。
「真姫ちゃんがICUの前のソファで転寝をしていた時、雪斗の名前を呼んでいたんだよ」
――それは、知らなかった。
確かに、疲れてICUの前のソファで転寝をしてしまった事は何度かある。しかし、まさか自身が寝言を言っていただなんて。その事実に驚愕する。
「だから僕は、真姫ちゃんにあのテキストファイルを送ったんだ。即興で書いたものだから、今思えば稚拙で読めたものでは無いけどね」北条が空になったグラスにシャンパンを注ぎながら困った様に笑った。「頭の良い真姫ちゃんなら意味が分かると思って」
「頭は、良く、ないです」
なんだか気恥ずかしくなり、北条から目を逸らしボソボソと彼の言葉を否定する。
だが、注いだシャンパンを一気に呷った北条は既にもう酒気を帯びていて、私のこの気恥ずかしさには一ミリたりとも気付いておらず「あ、そうだそうだ」と言って足元に置いていたらしきダンボールをガサガサを漁り出した。
「今朝ね、献本が届いたんだ」
私と雪斗の間に置いたのは、一冊のハードカバー。見た事の無いデザインの表紙に、箔押しされたタイトル。どうやら、北条涼太の新刊の様だ。
「見ても、いいですか?」
そう問いながらも待ちきれず、そのハードカバーを手に取る。北条は私の問いに返事する事無くふふふ、と雪斗に似た不気味な笑いを浮かべた。
パラパラとページを捲り、ぎっしりと詰め込まれた文字に心酔する。発売はいつ頃だろうか。私が焦がれた小説家である北条涼太の新刊を、一足先に拝めるだなんて欣幸の至りだ。
「……ん?」
断片的に目に入る文章や文字。それ等には少々見覚えがある様な気がして。ぱたりと本を閉じ、改めて表紙をまじまじと見つめた。
林檎を齧るセーラー服の少女と、黒髪の青年の後ろ姿。水中を連想するデザインの帯には〝毒林檎も魔法も無い世界で、決して出会う筈の無かった二つは静かに惹かれ合う〟とキャッチコピーが美しいフォントで書かれている。
「これ、もしかして」
思わずそう呟くと、北条が柔らかい口調で「そうだよ、君達の本だ」と言った。
まさか、こんな事が現実で起こるなんて。過去の自分に教えたら、そんなの嘘だ、現実を見ろと一蹴されそうである。
「一時はボツになると思ったけどね。今では良いラストになったと思ってる」
「息子の不幸を仕事に使うな」
「雪斗だって、最初にこの話をした時は反対しなかったじゃないか」
「反対はしねぇけど、気分は悪いわ」
言い争う雪斗と北条の声を聞きながら、箔押しされたタイトルを指でなぞる。
その、本のタイトルは――
――冷淡人魚姫は、暴君白雪姫に恋をする。