「わたしに縁談……!?」
 大きな声を出し澄んだ瞳を瞬かせ驚いているのは時守雪花《ときもりせつか》。
 とある日、バイト先から帰宅し父から大事な話があるとリビングに呼ばれた雪花はテーブルを挟んで向かいに座っている。
 普段とは違う神妙な面持ちをしている父に自然と背筋が伸び何事かと思えば父が口にしたのは『雪花に縁談がある』の言葉。
 日常生活であまり聞くことがない『縁談』という言葉を理解するのに少し時間がかかった。
 「ちょ、ちょっと待って!急にどうしたの?」
 雪花はこの春に高校三年生になる。
 明治や大正ではない、この時代にまだ成人もしていない娘に対して縁談を持ちかける親がいるだろうか。
 映画や漫画の世界のような展開に頭が混乱してしまう。
 「天宮さんって分かるか?」
 「確かお父さんが通ってた大学の先輩……だよね?」
 以前その名前を何回か聞いたことがある。
 父の大学の先輩でとてもお世話になったらしく度々思い出話を聞かされていた。
 「雪花がバイトに行ってる間に天宮さんから電話があってあちらの息子さんの千暁《ちあき》さんとの縁談を勧められたんだ。お世話になった人だから断り切れなくて……」
 眉を下げ困ったように笑う父に雪花は何も言葉が出なかった。
 雪花には好きな人や付き合っている人はいない。
 『いつかは恋人が出来たり結婚をしたりするのかな』なんてのんびり考えていたがまさか高校生で縁談が舞い込むとは思わなかった。
 「でもわたしまだ高校生だよ?それに碧のことも……」
 碧は雪花の弟でこの春に中学二年生になる。
 母親は雪花が幼い頃に病死し、亡くなった母の代わりに面倒を見てきた。
 面倒を見るとはいっても碧は中学生とは思えないほどしっかりしていて成績優秀、困ることは特に何もなかった。
 それでも今家を出てしまうと残るのは父と碧の二人だけ。
 父は夜遅くまで仕事漬けの日々なので碧はほとんどの時間を一人で過ごすことになる。
 成績優秀な碧が自分のレベルに合った高校や大学に進学できるようにバイトをして貯金をしてきた。
 父ももちろん仕事に勤しんでいるが男で一つで子供二人を養うのは大変だろうと思い、少しでもいいから支えになりたかった。
 碧を有名な学校に進学させるには貯金がまだ全然足りない。
 高校を卒業するまでバイトを頑張ったとしても手元に残るのは微々たるものだろう。
 何とかして学費を稼がないとと思った矢先がこれだ。
 今のところ雪花にとってメリットがない。
 「祝言を挙げるのは一年後、雪花が高校を卒業してからだ。相手先がそれまでは夫婦として相性を知っておきたいから天宮家で暮らしてほしいと……」
 「でも碧のことが心配だよ。しっかりしているけどそれでもまだ中学生だし学費のことも……」
 「それが天宮さんは正式に千暁さんと夫婦になれば多額の結納金を支払うと言ってくださっているんだ」
 「多額の……結納金……」
 その惹かれる言葉をポツリと呟いたときにリビングのドアがガチャリと開いた。
 「それ怪しすぎない?」
 入口に立ち落ち着いた声で話すのは雪花の弟、碧。
 「碧……!いつ帰ってきたの?」
 「さっき」
 数時間前に図書館に行ってくると言って出掛けていった碧が本を数冊抱え帰宅した。
 淡々とした声で返事をするとドサリと荷物をソファに置く。
 「『多額の結納金を支払うから縁談を受け入れてくれ』なんて何かその家や男に問題があるんでしょ」
 碧はソファに腰掛けると表情を変えぬままこちらに視線を向ける。
 何か思い当たる節があるのか碧の問いかけに父は言いづらそうにしている。
 「確かに……。相手方から何か聞いた?」
 二人からの相次ぐ質問に父はしばらくの間、視線を彷徨わせるように考え込むと意を決したように口を開いた。
 「天宮さんの家は代々、護符や御守りを作る生業をしている。千暁さんは次期当主で二十七歳。身を固めてほしいと両親は縁談を勧めるそうだが屋敷に来る婚約者達を冷たく突き放して全て破談にさせるようで……」
 「駄目でしょ、そんな男のところに姉さんが嫁ぐなんて」
 ため息をつき手元にあった本を開き読み始める碧。
 彼の中では結論が出てもう縁談の話は終わったようだ。
 「そうだよな……。雪花、この話は断って……」
 「わたし、その縁談お受けするよ」
 「「え?」」
 父と碧の声が重なる。
 二人は目を見開いて雪花を見つめていた。
 「せ、雪花?相手は冷たい方なのだぞ?」
 「……姉さんもしかして結納金のため?」
 雪花はこくりと頷いた。
 「わたしは恋愛にも特別興味があるわけじゃないし、結納金のためだったらその人に突き放されても大丈夫だよ」
 大好きな家族のためならそれくらい耐えられるし彼と一緒に暮らしても平日は学校、土日はバイトで外出するためきっと自分が家にいるのは夜だけだろう。
 ニコニコと微笑む雪花を見て碧が開いていた本を閉じた。
 「俺は別にそこまでしてもらわなくても近くの高校でいいし大学だって……」
 「それは駄目だよ!」
 雪花は思わず大きな声を出し碧の話を遮ってしまった。
 碧が日々遅くまで勉強をしているのを知っている。
 それに以前、部屋の掃除をしていた際に名門高校や大学のパンフレットが置かれていたのを見たことがある。
 近くの高校で良いと本当は思っていない。
 きっと冷酷な男へ姉が嫁ぐのを案じているのだろう。
 優しい弟だと改めて実感し安心させるように微笑んだ。
 「碧は成績優秀なんだからちゃんと自分のレベルに合った学校に進学した方がいいよ。わたしは平気だから」
 「でも……」
 碧はまだ言いたそうにしていたが雪花が歩み寄り彼の頭を優しく撫でた。
 「碧、ありがとう。わたしは本当に大丈夫だよ」
 雪花に頭を撫でられて少しだけ恥ずかしそうに顔を赤らめさせている。
 その手を振り払うことなく、碧はそれ以上何も言わなかった。
 「雪花はそれでいいのか?学費なら父さんの貯金もあるし……」
 自分が勧めた縁談だが大事な娘がまさか了承するとは思っておらず慌てふためく父。
 「うん。あとお父さんは働き過ぎだよ。過労で倒れてもおかしくないんだから何かあったときのために貯金は取っておいた方がいいよ」
 「雪花……!」
 父は瞳を潤ませながら雪花を見つめる。
 この優しくしっかり者の性格は母親譲りだ。
 そうして雪花は天宮家に嫁ぐことが決まったのだった。

 ***

 雪花が生家を出て天宮家に嫁ぐことが決まったのはあれから五日後のことだった。
 生活に必要な物は向こうですでに揃えているらしく荷物は鞄一つに収まった。
 春休み最終日の朝、家に迎えの車が来るらしく父と碧も見送りのため外に出ている。
 天宮家の屋敷はここからそう遠くない場所にあるそうで転校もせずに済んだ。
 ただ新しい生活に慣れるまでの間はバイトを休むことになった。
 雪花は平気だったが父は慣れない環境だと体調を崩すからと強く念を押され渋々頷いた。
 父の心配性は相変わらずだと思わず苦笑してしまう。
 しかしその性格は自分にも受け継がれていると自覚していた。
 そのわけはこの家に二人だけになる父と弟の食事のことである。
 いつも料理は雪花が作っていたがこれからは二人で何とかしてもらわないといけない。
 「作り置きは多めに作っておいたからしばらくは大丈夫だと思うよ」
 天宮家の屋敷はここから車で三十分。
 距離的にはすぐ帰れるが嫁ぐとなると頻繁に帰ってもこられないだろう。
 いくつものタッパーにレンジで温めるだけですぐに食べられる料理を詰めてきた。
 多忙な父と育ち盛りの碧の栄養面も心配だ。
 「ありがとう。今まで雪花に頼りすぎてたな……。父さんも頑張って料理を覚えるよ」
 「俺も家庭科の調理実習とかやってるし簡単なものだったら作れると思う」
 眉を下げ不安混じりの笑顔を見せる父と言葉通りこなしてしまうだろうと思わせるような自信を含ませた表情の碧。
 「料理のこと以外でも何か困ったことがあったら連絡してね」
 「雪花も嫌な思いをしたらすぐ帰ってくるんだぞ」
 その言葉に同意するように隣で何度も頷く碧。
 (結納金のためだしそうはすぐに帰らないと思うけど……)
 心配してくれている父と碧を安心させるように微笑んだ。
 「分かったよ。ありがとう」
 少しだけ嘘をついて二人の顔を交互に見た。
 すると一台の黒塗りの車が向こうから走ってくるのが見えた。
 おそらく迎えの車だろう。
 車が家の前に止まり運転席から一人出てくる。
 眼鏡のかけたスーツ姿の男性が雪花達の前に立つ。
 「おはようございます。私、千暁様の秘書の藤堂と申します。雪花様のお迎えにあがりました」
 洗練された美しい所在で丁寧にお辞儀をする藤堂に雪花と父は慌てて深く頭を下げた。
 碧はまだ天宮家に警戒心があるのか軽く頭を下げただけだった。
 「ご準備はよろしいですか?」
 「はい、大丈夫です」
 「ではお荷物をお預かりします」
 そこそこ重い鞄を軽々と持ち車内に入れる藤堂。
 荷物をしまうと雪花が乗れるようドアを開けてくれる。
 まるでお嬢様になったようで少し感動してしまった。
 乗り込む前、一度振り返り父と碧に顔を向ける。
 「じゃあ行ってくるね」
 「か、体に気をつけるんだぞ」
 「我慢とか無理しないでね」
 嫁入りをする娘の姿に今にも泣きそうな父とまだ相手の男が気にかかるのかすぐ帰ってきても良いといわんばかりの目をしている碧。
 相反する二人に苦笑しながら頷き、車に乗り込むのだった。

 ***

 車が走り出してから三十分。
 天宮家の屋敷があるのは都心から離れた郊外。
 辺りは自然に囲まれていて住宅はポツリポツリと何軒かある程度。
 ふと前を見ると少し先に壮観な屋敷が見えてきた。
 「も、もしかしてあちらのお屋敷が……?」
 「ええ。天宮家の屋敷です」
 藤堂の返事に雪花は開いた口が塞がらなかった。
 ポカンとしているうちに車は敷地内に入っていき玄関の近くで止まった。
 ドアが開けられ降りると純和風の屋敷が視界いっぱいに飛び込んできた。
 多額の結納金を支払えるほど天宮家は名家なのだとある程度予想はしていたがこれほどまでに広い土地と屋敷を所有しているとは思わなかった。
 呆気にとられていると藤堂が鞄を持ちながら玄関の戸を開けて振り返る。
 「こちらです」
 「は、はい!」
 慌てて駆け寄り藤堂のあとに続いて中へ入ると着物を着た一人の老女が立っていた。
 「ようこそおいでくださいました。私、使用人の清江と申します」
 「は、初めまして。時守雪花です」
 秘書に使用人がいる家。
 自分が凄い家に嫁いでしまったと感じながらお互いに自己紹介を交わしていると廊下の奥から誰かが歩いてきた。
 「千暁様、婚約者様が到着なされましたよ」
 清江がこちらへ歩いてくる男性に雪花を紹介する。
 肩まで伸びた絹のような白髪に透き通るような肌、金色の瞳に目を奪われる。
 男性の凛々しさもありながら繊細で美しさもある。
 色香漂う姿に息をするのも忘れてしまうほどだった。
 しかし彼は雪花の前で足を止めると鋭い視線を向けた。
 その殺気を含むような眼差しに体が硬直するのが分かった。
 「私はお前を愛するつもりなど一切ない」
 父が言っていたことが脳裏に浮かんだ。
 『婚約者を突き放す冷酷な方』
 確かに縁談を申し込まれたのに屋敷まで来て恐ろしいほどの視線を向けられ冷たい言葉をかけられたら逃げた出したくなる気持ちも分かる。
 父と碧に忠告されて自分は大丈夫だと言っていた雪花でも一瞬怯んでしまう。
 しかしその感覚はすぐ消えた。
 大好きな家族のために天宮家に嫁ぐ覚悟をすでに決めているから。
 小さく息を吐き千暁に負けないよう真っ直ぐ彼を見つめる。
 「分かりました。ご迷惑をおかけしないよう気をつけます」
 「は?」
 穏やかな微笑みを浮かべながら返事をする雪花を見て千暁は目を見開いている。
 やり取りを見ていた藤堂と清江も驚愕の表情をしており戸惑いを感じさせるような空気に雪花は首を傾げる。
 「えっと……?」
 何か失礼な物言いをしてしまっただろうかと困惑している雪花に呆気にとられていた千暁はハッと我に返る。
 「……私は部屋に戻る」
 そう言い残すと千暁はその場をあとにした。
 玄関には雪花・藤堂・清江の三人だけになり静かな時間が流れる。
 「あの千暁様の視線と言葉で逃げ出さなかったのは雪花様が初めてですわ」
 清江が頬に手を添えながら感心したように呟く。
 しかし雪花は逆にもっと蔑まされたり罵られたりするのかと思っていたので少し拍子抜けをしていた。
 事前からある程度冷酷な人だと聞いていたしハッキリと家を出て行けと言われるまではここにいると決めていた。
 (結納金のためですとは言えないけど……)
 何と言ったら良いのか分からず苦笑いをする。
 隠しごとをするのはあまり得意ではない。
 「さ、お入りくださいな」
 清江にうながされ、雪花は靴を脱ぎ長い板張りの廊下を歩き出した。

 ***

 「こちらが雪花様のお部屋でございます」
 清江が襖を開けると中には鏡台や箪笥など見るからに高級であろう調度品が置かれていた。
 実家の自室と比べてシンプルだが一人で使うには十分広くまるで旅館のような室内に雪花はとても気に入った。
 「素敵なお部屋……。ありがとうございます」
 「気に入っていただけたようで私も嬉しいですわ」
 婚約者のために用意しておいた部屋をやっと使ってもらえるのが嬉しいのか清江も安堵したようだった。
 「お荷物はこちらに置いておきます。私はこれで失礼します」
 「ありがとうございます。藤堂さん」
 藤堂が部屋の隅に雪花の荷物を置いてその場をあとにした。
 彼も出会った当初から表情を一切変えず淡々としていたが千暁ほどの怖さはなかった。
 冷酷な相手と聞いていたので屋敷で働く使用人達も同じような性格だったらどうしようかと少しだけ不安だったが杞憂だったようだ。
 「今お茶をお持ちしますね」
 そう言うと続けて清江も部屋から出て行った。
 一人になった雪花はさっそく鞄から荷物を取り出し用意されている箪笥に服などを詰めていく。
 貯金をするためあまり洋服は買ってこなかったのですぐに収納は終わった。
 次に、学校に提出するプリントを整理しながらぼんやりと明日のことを考える。
 明日は高校の始業式。
 雪花は毎日お弁当を作るために早朝に起きている。
 いつもは父の分も作っていたが明日からは自分の分だけ。
 天宮家に来た今、そこまでの早起きの必要はないのだがふとあることが頭に思い浮かんだ。
 それが良い展開になるのか少しだけ不安を感じるが自分は世話になる身、何もしないわけにはいかない。
 もしかしたら余計なお世話だと怒られてしまうかもしれない。
 咎められたときの言い訳を考えていると襖の外から声がかかる。
 「雪花様、お茶をお持ちしました」
 お茶と菓子を運んできた清江の声に一旦考えるのをやめ部屋に招き入れたのだった。

 ***

 この屋敷には次期当主の千暁の他に使用人の清江と秘書の藤堂しかいない。
 千暁の両親はここから離れた本宅に住んでおりその屋敷には多くの使用人が働いているらしい。
 しかし千暁は極度の人嫌い。
 そのためかここには必要最低限の人数で信頼出来る人間しか置いてないという。
 清江も藤堂も住み込みではなく通いのため夜には帰ってしまう。
 夕食とお風呂を済ませてしまえばあとは寝るだけで部屋も別々なので話すこともほとんどないだろう。
 清江に教えてもらったことを振り返りながら夕食の準備のため台所に向かう。
 準備が出来たら呼びに来ると言われたが清江の老いた体で二人分の夕食を作るのは大変だろうと思った。
 台所に着くと清江がちょうど調理に取りかかるところだった。
 「あら、雪花様?どうかされましたか?」
 「わたしも夕食の準備、手伝います」
 「ですが千暁様の奥様になられる方の手を煩わせるには……」
 申し訳なさそうに眉を下げる清江。
 「学校の準備も終わりましたしわたしでよければ手伝わせてください」
 雪花の頼みを聞いてから近くに置いてあるいくつかの食材に視線を向ける。
 まだ夕食に使う魚も野菜も調理しておらずそのままだ。
 清江は頬に手を添えながら考えを巡らせたあと口を開いた。
 「ではお願いしますね。ありがとうございます」
 朗らかに笑う清江に雪花はこくりと頷いて仕事を始めたのだった。
 手際良く準備をする雪花を見て清江はとても助かると嬉しそうにしていた。
 雪花は手を動かしながら今までの経験がこうして役に立っているのを実感する。
 二人で取りかかったからか夕食作りはすぐに終わった。
 炊きたての白米に、わかめと豆腐のお味噌汁、香ばしい香りを放つ焼き魚に出汁が染み込んだ煮物、自家製の漬け物が今夜の献立だ。
 盆に料理を載せながら我ながら良く出来たと満足感に浸る。
 「では私は千暁様を呼んできますね」
 居間のテーブルにお膳立てが終わると清江は千暁の書斎へ向かった。
 自分では良く作れたと思っても家族以外に料理を作ったのは初めてで彼の口に合うか不安だ。
 緊張しながら待っていると襖が開いて千暁が入ってきた。
 雪花に少しだけ視線を向けると小さくため息をつき食卓についた。
 まるで『お前はまだいるのか』と言われているようだった。
 雪花は心の中で気にしない、気にしないと復唱しながら席に着く。
 「では私はお風呂の準備をしてまいります」
 清江が風呂場へ向かい初めて千暁と二人きりになった。
 何ともいえない気まずい空気が部屋に漂う。
 「……いただきます」
 「い、いただきます」
 千暁が手を合わせるのを見て雪花も慌ててそれに倣う。
 まずはあるじが先に食べるべきだと思い彼が一口食べるのを待つ。
 しかし千暁は次々と料理を食べても『美味しい』などの感想は言わなかった。
 雪花も自分から食事を作ったとは言わなかった。
 嫁ぐ身として食事の準備は当たり前だと思ったから。
 何も言わないが普通に箸を進めているのを見て不味くはないのだと分かり胸を撫で下ろす。
 しかし千暁は一向にと視線を合わせようとしない。
 何も言葉を発していないのに苛立っているような雰囲気さえ感じる。
 数分で食器が空になり箸が置かれ量が足りなかっただろうかと思い慌てて口を開く。
 「あのおかわりは……?」
 「いらん」
 それだけ言うとスッと立ち上がり居間から出て行ってしまった。
 いつもは父と碧と楽しく食卓を囲んでいたのでこんなにも寂しく感じるのは久しぶりだ。
 千暁は食べるスピードも早く、雪花の食器にはまだ料理が残っている。
 さらに静かになった部屋で雪花は自分も早く食事を済ませてしまおうと箸を進めたのだった。

 ***

 (眠れない……)
 あれから雪花が夕食と入浴を済ませると通いの清江と藤堂は帰路についた。
 明日から新学期が始まるので早めに寝ようと布団に入ったのだがなかなか寝付けない。
 普段は寝付きが良い方なのだが環境が変わったからか時刻が真夜中になっても目が冴えたままだった。
 (少し夜風にあたろうかな……)
 雪花はゆっくり起き上がり襖を開けて縁側に立つ。
 屋敷の庭には手入れされた美しい花がいくつも咲いており甘い香りが混ざった風が頬を撫でる。
 深呼吸をして胸いっぱいに空気を吸う。
 慌ただしい一日でざわついていた気持ちが落ち着いていく。
 今日はとりあえず千暁にハッキリと追い出されるような言葉を言われずに済みまずは一安心をする。
 体が冷える前に布団に戻ろうと踵を返したとき『ニャー』と小さな鳴き声が耳に届く。
 ふと辺りを見渡してみると少し離れた場所に生えている木の枝に子猫が座っているのが分かった。
 降りられなくなったのか何度も鳴いておりバランスを崩せば落ちてしまう位置にいた。
 「危ない……!」
 雪花は慌てて玄関に向かい、靴を履いて子猫がいる木まで駆け寄る。
 手を伸ばしてもギリギリ届かない高さで周囲に踏み台になりそうな物もない。
 物置に行けば脚立などがあるかもしれないが離れている間に枝から子猫が落ちてしまうかもしれない。
 幸いにも木はそれほど高くはないので運動神経が良い人はすぐに登れてしまうだろう。
 雪花は決して良い方だとは言えないが。
 弱音を吐いている間に落ちたら大変だと思い覚悟を決めて幹に手をかけた。
 必死に幹を掴み、足をかけて登る。
 子猫がいるのは一番低い位置にある枝で運動神経が悪い雪花でも何とかそこまで登ることが出来た。
 「おいで……」
 そっと手を伸ばすが怯えているのか子猫は震えてこちらへ来ようとしない。
 「大丈夫だから」
 優しく声をかけた瞬間、強い風がふきつけ子猫がぐらりとバランスを崩した。
 「あ……!」
 雪花はさらに腕を伸ばし落ちかけた子猫を掴む。
 (良かっ……)
 安堵したのも束の間、今度は雪花が大きくバランスを崩す。
 どこかに掴む余裕もなく体が真っ逆さまに落ちていく。
 登れる高さとはいえ落ちると小さな怪我では済まないだろう。
 地面に叩き付けられる覚悟をしてぎゅっと強く目を閉じる。
 『ドサッ』
 しかし実際は予想していたより優しい衝撃。
 恐る恐る目を開けるとそこには雪花の婚約者、千暁の顔があった。
 精巧な顔が近くにあり胸が高鳴ったがすぐに違和感を覚える。
 何故なら千暁に昼間には無かった耳と尻尾が生えているからだ。
 ピクリと動く耳にフサリと揺れる尻尾。
 (え……!?)
 思わず雪花はその二つを交互に見てしまう。
 その視線に気がついた千暁は怪訝そうな表情をして抱き上げていた雪花の体をすぐに降ろした。
 (と、とりあえずお礼を……)
 何も怪我が無かったのは千暁が下で抱き止めてくれたからだ。
 「あの、ありが……」
 お礼を言おうと顔を上げると千暁は昼間とは比べものにならない冷酷な眼差しを向けていた。
 恐ろしいと感じるほどの目でこちらを見ており口を噤んでしまう。
 「私のこの姿を他言するな。もし約束を破ったらどうなるか分かるな?」
 氷のように冷たい声に雪花は何が何だか分からないがとにかく千暁の怖さに怯え何度も頷く。
 「は、はい。絶対言いません!」
 雪花がそう答えると千暁は小さく鼻を鳴らし屋敷の中へ戻って行った。
 『ニャー』
 今の出来事に呆然としていると助けた子猫が腕の中で身動ぐ。
 どうやら子猫も怪我はないようでのんびりと欠伸をしている。
 「これからは気をつけるんだよ」
 そっと地面に降ろすと子猫はパッと駆け出しどこかへ行ってしまった。
 雪花も部屋に戻ろうとしたが先ほどの千暁の姿を思い出し足が止まる。
 (さっきの耳と尻尾、見間違いとかじゃないよね……?旦那様は一体……?)
 冷たく吹きつける風が夢ではないと実感させる。
 雪花は動揺する胸を抑えながら足早に玄関へ向かうのだった。

 ***

 カーテンの隙間から朝日が射し込み、僅かな眩しさを感じてゆっくりと瞼を開く。
 いつもと違う茶色の木目の天井が視界に入る。
 (あんまり寝られなかったな……)
 真夜中のあの出来事から雪花は動揺した気持ちが続きほとんど寝られずにいた。
 千暁に生えた耳と尻尾が脳裏に浮かぶ。
 どうして生えているのか千暁はどんな秘密を抱えているのか気になったが深く追及をすると屋敷を追い出されそうなので考えるのを辞めようと頭を横に振る。
 若干の眠気も感じるがお弁当を作らなくてはいけないため布団から体を起こす。
 今日から雪花は高校三年生、新しい生活が始まる。
 「頑張らなくちゃ……!」
 カーテンを開け温かな朝日を浴び気合いを入れるのだった。

 台所でお弁当を作り終わったタイミングで藤堂と清江が出勤してきた。
 「まあ、雪花様!お弁当でしたら私がお作りしましたのに」
 お弁当箱を包んでいる雪花を見て申し訳なさそうに眉を下げている。
 「早くに目が覚めてしまったので。それにお弁当は毎日作っていますしこれくらい大丈夫ですよ」
 「隣のお弁当は?」
 台所には二つのお弁当がある。
 桃色のお弁当箱は雪花の物でもう一つ曲げわっぱがある。
 藤堂の問いかけに雪花はその曲げわっぱに視線を向けた。
 「旦那様に作ったんです。詰めてある料理も簡単な物なのでお口に合うか分かりませんが……。あの、棚に入っていた曲げわっぱを勝手に使ってしまってすみません」
 「いえいえ。こちらにある物はご自由に使ってもらって構いませんよ。千暁様、喜んでくださると良いですわね」
 朗らかに微笑む清江に雪花はこくりと頷いて曲げわっぱも包み始めたのだった。

 包み終わったお弁当を一旦端に置き次は朝食を作る。
 分担をして調理をするが清江の手際の良さは雪花は見習わなくてはと思わせるほどだ。
 あっという間に自分の作業を終わらせ雪花の様子を見てくれる。
 少しだけ自分は邪魔なのではと思ってしまうが何もしないでいるというのも無理な話だ。
 それなら頑張って追いつけるように自分自身が努力しなくてはいけない。
 心の中でそう思いながら雪花は調理を進めていくのだった。
 今朝は炊きたての白米に、なめこと豆腐のお味噌汁、甘めに味付けた卵焼き、焼き鮭、ほうれん草のお浸しだが献立だ。
 清江から千暁は甘めの卵焼きが好みだと聞いたので塩ではなく砂糖を使った。
 卵焼きも雪花の得意料理で失敗もなく綺麗に出来上がった。
 居間に運びお膳立てが終わると千暁が入ってきた。
 昨日の夕食時には一瞬だけこちらを見たのに今朝は見向きもせず定位置に座る。
 『いただきます』と挨拶をすると黙々と食べ始める。
 千暁が卵焼きを食べるタイミングでちらりと彼を見る。
 好みの甘い卵焼きを食べたら『美味しい』と言ってくれるだろうかと淡い期待を抱く。
 しかし千暁の視線が急に交じり雪花はドキリと心臓が鳴った。
 彼を見ていたのがバレてしまったのだ。
 「なんだ」
 「い、いえ。何でも……」
 「嘘をつくな。正直に言え」
 箸を持ったまま睨まれ黙っていたら信用に関わると思い、雪花は観念して口を開いた。
 「清江さんから旦那様は甘めの卵焼きが好きだと伺ったので今日はわたしが作ったんです。どんな反応をされるのか気になって見てしまいました。すみません……」
 頭を下げていたので千暁がどんな表情をしていたのか分からない。
 きっといつものように冷たい表情は変えぬままだろう。
 「食事中だ。いつまでもそうしていないで顔を上げろ」
 千暁の声に雪花はそっと顔を上げる。
 やはり表情は想像した通りですぐに雪花から視線を逸らした。
 千暁は箸で掴んだ卵焼きを口に運ぶ。
 もうジロジロと見てはいけないと思った雪花は慌てて視線を逸らし自分の食事を食べ進めた。
 千暁は卵焼きを食べても何も感想を言うことは無かった。
 今日も食べ終わるとすぐに立ち上がり居間から出て行った。
 二人きりの食事が終わるだけで一気に体の力が抜けてしまう雪花なのだった。

 朝食後、身支度を整えた雪花は登校する前に千暁にお弁当を渡すため彼の書斎へ向かっていた。
 清江から千暁は今日、書類仕事で一日書斎にこもると聞いている。
 (お弁当食べてくれるかな……)
 最初は追い出されないように余計なことはしないつもりだった。
 しかし出会った当初から千暁はどこか憂いをおびた瞳をしているような気がした。
 もしかしたら昨夜に見た耳と尻尾が関係しているのかもしれない。
 気になってしまうが千暁と他言はしないという約束をしているのでもう出来事自体忘れてしまおうと思った。
 助けてもらったお礼もきちんと伝えておらず感謝の気持ちを込めてお弁当を作ったというのもある。
 千暁の書斎に到着すると一度襖の前で深呼吸をしてから口を開いた。
 「あの旦那様、昼食用のお弁当を作ったのですが召し上がられますか?」
 「……」
 書斎からは何も返事がない。
 襖の僅かな隙間から明かりが漏れているので中にいることは確かなのだが。
 ただ単に自分を拒絶しているのだろう。
 誰かに無視をされるのは初めてで少しだけ悲しくなった。
 ただこれでめげていては碧に良い高校や大学に行かせてあげられない。
 精いっぱい明るい声を出し書斎にいる千暁に声をかけた。
 「ここにお弁当、置いておきますね。わたしは学校に行ってきます」
 襖の前に包んだお弁当をそっと置いて雪花は玄関に向かった。

 ***

 「あの旦那様、昼食用のお弁当を作ったのですが召し上がられますか?」
 足音が聞こえたので藤堂か清江が書斎に来ると思っていた千暁は雪花の声に走らせていたペンを止めた。
 (この屋敷に来たときから突き放しているのにめげていないのか)
 今までの婚約者は『お前を愛するつもりは一切ない』と言えばすぐに屋敷から立ち去った。
 しかし今回の婚約者は違う。
 愛するつもりはないと言っているのに『分かった』と言うのだ。
 朝食や夕食作りも手伝ってくれたのだと先ほど清江が嬉しそうに千暁に話していた。
 すでに清江は彼女と上手くやっているようだが千暁の中にはまだ警戒心がある。
 「……」
 返事をせずに握っていたペンを再び走らせる。
 ここまですれば彼女も嫌になって出て行くかもしれない。
 (誰かと関わると面倒だ)
 千暁は書類の内容にしっかりと意識を移す。
 少しの間があったあと聞こえたのは怒りや悲しみではなく明るい声だった。
 「ここにお弁当、置いておきますね。わたしは学校に行ってきます」
 そう言うと雪花がその場を立ち去った。
 予想外の行動にまたペンが止まり襖へ視線を向ける。
 しばらく考えを巡らせたあと、ため息をついて立ち上がった。
 襖を開けると紺色の布で包まれた弁当があった。
 (……食材が無駄になってしまうからだ)
 千暁は弁当を手に取り再び文机へ戻った。
 文机の隅に置くと包みから一枚の紙が入っているのが見えた。
 (これは……)
 千暁はその三つ折りになっている紙を中から抜き出し開く。
 それは雪花からの手紙だった。
 “昨夜は助けていただきありがとうございます。ご迷惑をおかけしないようにすると言ったのに早速このような形になって申し訳ありません。たいした物は作れないのですがお弁当を作ったので良かったら召し上がって下さい。あと昨夜見たものは絶対他言しません。全て忘れます。本当に申し訳ありませんでした。”
 手紙には美しい文字でそう綴られており千暁はしばらくの間、文面を見つめていた。

 雪花は藤堂が運転する車で学校へ向かう。
 藤堂は千暁の秘書だが可能な際は運転手も兼務しているらしい。
 屋敷から学校までは車での通学になった。
 今までは自転車で通っていたが嫁ぐ際に天宮家の女主人になる方が車通学をしていないと威信にも関わると言われやむを得ず承諾した。
 申し訳ないがあまり我が儘を言いたくもないのでぐっと堪える。
 車が正門近くに止まり藤堂がドアを開ける。
 他の生徒も続々と登校しており高級車から降りてくる雪花に視線が集まる。
 「あの人格好良くない!?」
 「本当だ!イケメンがいる!」
 黄色い声と共に藤堂にも熱い視線を向けられている。
 藤堂も千暁と同じく容姿端麗。
 黒のスーツ姿がより大人な雰囲気を感じさせる。
 二人ともテレビで見るアイドルよりも格好いいと雪花は思う。
 他の女子生徒も考えていることは同じで頬を染めてうっとりと藤堂を見つめている。
 そんな熱い視線を気にもせず雪花に恭しく頭を下げた。
 「行ってらっしゃいませ、雪花様」
 注目の的の藤堂が雪花に頭を下げている光景に周囲から悲鳴に似た声が挙がる。
 それはまるで漫画で見るようなお嬢様と執事のようで……。
 「い、行ってきます!」
 雪花は恥ずかしくなりぺこりとお辞儀をして逃げるようにその場から去った。
 教室に着いて自分の席に座ると小さく息をつく。
 明日もこの時間に登校したら先ほどと同じ光景になるのが分かる。
 人がまばらな早い時間帯だったら少しはマシだろうかと考えていると明るい声が耳に届いた。
「雪花、おはよう!」
「音葉ちゃん!おはよう」
 元気にこちらへ駆け寄ってくるのは友人の音葉。
 ブロンド色の髪を綺麗に結い、キリッとした美しい瞳は周囲を惹きつける。
 そんなモデルのような子が自分の友人だなんて今でも時々信じられないことがある。
 高校に入学して知り合いもいなかった雪花が一人で孤立していると優しく声をかけてくれたのが音葉だ。
 そのときから雪花は音葉が大好きになった。
 それは音葉も同じようで――。
 「嫁いだって連絡きたときはびっくりしたよー!私の雪花が……」
 駆け寄った途端、雪花をぎゅうぎゅうと抱きしめる。
 友人からの愛情表現は嬉しいのだが体が少し、いやだいぶ苦しい。
 「お、音葉ちゃん。苦しい……」
 「え?あ!ごめん!」
 音葉はすぐに体を離し距離をとる。
 雪花は春休み中に決まった天宮家への嫁入りを電話で音葉に伝えていた。
 本当は直接会って伝えたかったが手続きや準備などで忙しくゆっくり話せる時間がなかった。
 嫁ぐことを伝えると電話越しに耳が痛くなるくらいの大きな声量で驚愕していた。
 驚くのも無理はない。
 春休み中に友人の元へ縁談が舞い込んでそれを受けたというのだから。
 しかも一度も相手と会わず結婚を決めたと音葉が知ると言葉を失っていた。
 もっと詳しく聞きたいのだろう。
 隣の席に座りこちらへ身を乗り出している。
 「それで相手はどんな人!?」
 「えっと……」
 会ってすぐ『お前を愛するつもりは一切ない』と言われたと彼女に伝えたら心配させてしまう。
 自分が逆の立場だったらそうなる。
 少し間をおいて口を開いた。
 「ク、クールな人かな」
 千暁を頭に思い浮かべながらなるべく彼の性格をマイルドにして言葉にする。
 「本当?」
 音葉はジトッとした目でこちらを見ており雪花は思わずたじろいでしまう。
 やはり友人の目は誤魔化せないと観念して雪花は千暁の耳と尻尾のこと以外、全てを話した。

 「そんな奴、絶対駄目よ!離婚しなさい!」
 話を聞いた音葉は眉をキッと吊り上げ腕を組んで激怒している。
 「音葉ちゃん落ち着いて……!離婚って言われてもそもそもまだ正式に夫婦になったわけじゃないから……」
 「落ち着いてられないわよ!私の大事な雪花にそんな酷い言葉と態度を!」
 こんなに激怒している音葉を見るのは初めてだ。
 落ち着かせようとするがなかなか怒りがおさまらない音葉に最初は困惑したがこんなにも自分を大切に思ってくれていたのだと知りだんだんと嬉しさの感情も生まれる。
 雪花は音葉の手をそっと取り両手で包み込んだ。
 「わたしの為に怒ってくれてありがとう。でも本当に大丈夫だから」
 優しく微笑むと音葉は自分が取り乱していることに気がついたのかそれ以上激怒するのを止めた。
 「雪花……。でも辛くないの?私雪花が傷つくの嫌だよ……」
 今にも泣きそうな表情をしている音葉を安心させるように言葉を続けた。
 「最初はわたしも少し驚いたけど優しいところもあるんだよ」
 本当に冷酷非情な人だったら木から落ちたところを助けないだろう。
 料理も雪花が作ったと知っても残すことなく食べてくれた。
 千暁は優しさなどではないと頑なに否定しそうだが。
 そんな彼を想像して小さく笑みがこぼれてしまう。
 「雪花がそこまで言うなら私は見守るけど……。本当に酷いことされたら相談してね?」
 「うん、約束する。ありがとう」
 こんなにも素敵な友人がいることの幸せをかみしめながら雪花は音葉に笑いかけた。

 ***

 一日の授業が終わり正門で音葉と別れる。
 近くには迎えの車が止まっており駆け寄ると運転席から藤堂が降りてくる。
 「お帰りなさいませ」
 丁寧に頭を下げドアを開ける藤堂に朝と同様、周囲から黄色い声が挙がる。
 「あ、ありがとうございます」
 これ以上目立たないように雪花はすぐに車に乗り込み帰路についた。

 屋敷に帰宅すると玄関で清江が迎えてくれる。
 もちろん期待などはしなかったがそこに千暁の姿はない。
 「お帰りなさいませ、雪花様」
 「ただいま帰りました。課題を終わらせたら夕食作り手伝いますね」
 「ありがとうございます。助かりますわ」
 会話を交わすと雪花は自室へ向かった。

 課題を終わらせ清江と共に夕食を作る。
 今日は白米、豆腐と油揚げのお味噌汁、こんがりと揚がった豚カツ、きゅうりと海藻の酢の物が献立だ。
 居間でお膳立てをしていると千暁が入ってくる。
 清江はお風呂の準備をしており居間には二人きりで気まずい空気が流れる。
 (そういえばお弁当食べてくれたのかな……)
 朝に書斎の前に置いたお弁当のことが頭を過る。
 追い出されないように余計なことはしないと決めていたが何もしないでいるのは性に合わないようで体が動いてしまった。
 こちらを見ようともしない姿に怒らせてしまっただろうかと若干後悔する。
 居間に入った千暁は何も言わず定位置に座る。
 雪花も料理を並べ終えると机を挟んで向かいに座る。
 「いただきます」
 「いただきます……」
 挨拶をすると千暁は黙々と食べ始めた。
 雪花も気持ちを切り替えようと料理に箸をつけた。
 清江が作った豚カツは衣がサクッとして中の肉からはジュワッとした油が溢れ絶品だった。
 自分で作ったお味噌汁も満足いく出来上がりになっており落ち込んでいた気持ちも美味しい料理で明るくなった。
 (今度清江さんに美味しい揚げ物の作り方聞いてみよう)
 そんなことを考えながらご飯を食べていると――。
 「……弁当」
 「え?」
 急に発した千暁の言葉に雪花は気の抜けた声を出してしまう。
 顔を上げると目の前の千暁は箸を持ったまま視線を落としている。
 「なかなか美味かった」
 最初は聞き間違いかと思ったがその言葉に作ったお弁当を褒めているのだと分かり顔が綻んだ。
 「あ、ありがとうございます……!」
 朝は声をかけても反応がなかったので半分諦めていたがきちんと食べてくれたことに嬉しさが胸いっぱいに広がる。
 「それと……」
 千暁は視線を雪花に移しジッと見つめる。
 ちゃんと目が合ったのは『お前を愛するつもりは一切ない』と言われたとき以来。
 しかしその時の瞳とは少し違うような気がした。
 千暁の吸い込まれるような美しい金色の瞳に息をするのも忘れてしまうほどだった。
 「昨日は強く言いすぎた。すまない」
 おそらく木から落ちた際の出来事のことだろう。
 生えている耳と尻尾を他言したらどうなるか分かるなと言ったことを謝っているのだと分かった。
 「いえ……!わたしの方こそ助けていただいてありがとうございました」
 「次にああいったことがあったら私や藤堂を呼べ」
 「……!はい!」
 『次』という言葉にまだ自分はここにいていいのだと言ってもらえているようで胸が温かくなった。
 千暁は箸を置くと再び視線を落とした。
 「少し私の話をしても良いか?」
 「……はい」
 どこか寂しそうな瞳と声をしている千暁に雪花は気にかかりながら頷いた。
 「あの時、お前を抱き止めたとき私に耳と尻尾が生えていただろう?それは私が白狐憑きだからだ」
 「白狐憑き?」
 初めて聞く名前に雪花は首を傾げる。
 千暁は頷くと丁寧に説明をしてくれた。
 「天宮家の当主やその子、孫には代々白狐という幸福をもたらすと言われている獣が取り憑く。その白狐の霊力を生かし護符や御守りを作る生業をしてきた。力を宿した人間が死ぬと白狐は次の宿り主を探し受け継がれていく。二年前に白狐憑きの祖父が亡くなり、その力は私に宿った」
 雪花は父から天宮家の家業については聞いてはいたがまさかそのような秘密があったのは知らなかった。
 千暁が嘘をついているように見えないし実際に耳と尻尾をこの目で見た。
 しかし見たのは昨夜だけで今は普通の姿に疑問を覚える。
 「何故あの時だけ耳と尻尾が生えたのですか?」
 「白狐憑きの人間は異性に抱きつくと耳と尻尾が生える体質なんだ」
 確かにあの時はしっかりと体が密着していた。
 (だから……)
 まるでおとぎ話のようだが自然と納得してしまった。
 千暁は目を伏せながら話を続けた。
 「祖父が亡くなってからしばらく経って所用で町を歩いているときに車に轢かれそうな幼い女の子がいたんだ。とっさにその子の体を引いて抱き止めたらお前が見たものと同じ耳と尻尾が生えた。女の子の母親が駆け寄ってきたとき私の姿を見てこう言った。『化け物』と」
 「化け物……?」
 確かに耳と尻尾が生えていれば誰でも驚きはするが雪花は化け物などとは少しも思わなかった。
 月光に照らされる千暁の姿はとても美しく神秘的で魅了されるほどだった。
 その女の子と同様、自分を助けてくれた優しい人。
 雪花や今まで縁談に来た婚約者達に冷たい態度をとっていたのは何か理由があるのだと思った。
 「私はそれから他の人間、特に女性が苦手になった。清江や藤堂は信頼して傍においているが……。次々に来る婚約者達を追い出したのも私が白狐だと知れば化け物だと言われると思ったからだ。でもお前だけは違った。何故だ?」
 「えっと……」
 雪花は急な質問にたじろいだわけではなく、縁談を受け入れた理由を正直に話すか迷っているのだ。
 弟の学費のためとはいえ多額の結納金が目的でなんて言っても良いのか。
 「正直に言ってほしい」
 軽く俯きながらどうするべきか考えていると千暁の声が降ってきた。
 千暁は正直に話してほしいと願っている。
 嘘をついたところですぐ見抜かれてしまうだろう。
 それは彼にとって失礼だと思い雪花は意を決して口を開いた。
 「縁談のお話をいただいたとき正式に夫婦になれば多額の結納金が貰えると聞いて……。わたしの家は父子家庭で弟はまだ中学生なのでこれから色々とお金が必要なんです。だから縁談をお受けすることを決めました」
 もしかしたらお金が目的な奴など天宮家の女主人に相応しくない、出て行けと言われるかもしれない。
 雪花の体は自然と小刻みに震え次の千暁の言葉を聞くのが怖くて瞳をぎゅっと閉じた。
 「お前は優しいのだな」
 それは想像していたよりずっと優しい声色で体の震えがゆっくり止まるのが分かった。
 顔を上げると千暁はこちらを真っ直ぐに見つめていた。
 「弟のために会ったこともない男の元へ嫁ぐのを決めたのだろう?お前は結納金が目的ということに負い目を感じているようだが私は家族想いで良いと思う」
 「旦那様……」
 自分の想像は間違っていなかった。
 千暁は冷酷ではなく優しく心温かい人物なのだと。
 『化け物』と言われたことで心を閉ざしてしまったようだが少しだけ千暁の本当の姿が垣間見られたような気がして雪花は嬉しくなった。
 「お前はこんな化け物が傍にいて嫌ではないのか?」
 「嫌じゃないです!」
 雪花の即答と大きな声に千暁は目を見開いている。
 自分が思ったことを千暁に伝えたい一心で雪花は言葉を懸命に紡いだ。
 「わたしは化け物などとは思いません。耳と尻尾が生えている姿を見たとき神秘的で美しいと思いました。ずっと見ていたくなるような……。あと旦那様は優しくて……」
 「もういい。分かった」
 千暁は慌てるように雪花の話を遮った。
 よく見ると千暁の顔がほんのり赤く染まっている。
 褒められて照れているのだとすぐに理解し初めて見る千暁の一面に雪花は胸が高鳴った。
 千暁は一呼吸置いて気持ちを落ち着かせると雪花を見た。
 「お前が嫌でなければこのままこの家にいてほしいが……。どうだ?」
 「……!はい、いたいです!」
 「そうか」
 雪花の心からの返事に千暁は小さく笑った。
 雪花も結納金が貰えるからという理由だけではなく千暁ともっと一緒にいたいと望む気持ちが生まれ彼からの問いかけに頷いていた。
 「料理が冷めてしまうな。早く食べよう」
 「はい」
 箸を持って食事の時間が再開する。
 流れる空気は最初と打って変わって穏やかなものとなっていた。
 白狐憑きの千暁とのこれからの生活に雪花の胸は期待で満ちていたのだった。