マリアネル邸の周りに広がる美しい庭園には噴水とガゼボがある。
特にガゼボの周りは薄紫色と白色のアガパンサスが咲き誇っており、初夏にお茶会をする時は大体この場所で開かれている。
いつもは信頼できる人物としか行われない筈のお茶会がカイリが望まない見合いという名目で急遽行われる事となった。
アポイント無しに現れたターンの押し入りが原因だ。
カイリに会わせてくれるまで帰らないと使用人達の仕事に支障を与えかねない程喚き散らした。その使用人の1人にレインが居たことがカイリは許せなかった。

(こんな無意味な見合いなんてとっとと終わらせて今日かそレインと話さなきゃ)

ベラベラと喋るターンの話なんて右から左に受け流し、ただ相槌を打って時折微笑を浮かべる。今にも感情が爆発しそうなのを紅茶を飲んで無理矢理落ち着かせようとする。
レインはフットマンとして給仕をやらなければならない為その空気を嫌でも感じなければならなかった。正直、別の人に代わってほしいと思うがこれも仕事なのだからと割り切った。

(き、貴族ってろくな奴いないの…?アポ無しって何?)

ため息を吐きたい気持ちをなんとか抑えながらレインは指示が出るまでその場で待機する。
カイリはそんな彼を見てそっと微笑んだ。

(だって私の運命の番は貴方なのよ。レイン・バスラ。今後、ターンがいる席には貴方が座ることになるのだから)
「新婚旅行はどこか常夏の島でバカンスなんてどうです?」
「どうでしょう?私はあまり……日焼けしてしまいますわ。それに私には仕事がありますからそんな時間はございませんわ」
「そんな!!カイリお嬢様なら日焼けしたって美しいに決まってる。仕事だって他の人にやらせればいいだけ!!」

皮肉に気付かないターンにカイリは頭を抱える。

(……貴方とは行きたくないって言ってるの。気付きなさいよ)

カイリはティーカップの取手を折りそうな勢いでぐっと掴む。自分勝手に話を続けるターンが無意識に彼女の怒りを煽るせいだ。
カイリは被っていた帽子を整えるふりをしてそっと弄る。本来、野外でお茶会を開く時でも帽子は取らなければならないが、今回はカイリのマージルとターンへの抵抗が込められていた為に帽子を被ったまま見合いに挑んでいた。
もう一つ理由がある。カイリ自身が月夜の宝石と呼ばれる由縁となった黒髪を触れられない為の防御策でもあった。

(初めて会った時平気で触ってきたの今でも怖いし気持ち悪い。さっきも触ろうとしてきたし…)

マージルの手引きで初めてターンと会った時、カイリの了解なくターンは彼女の髪をベタベタと触ってきたことがあった。

「どうせ僕らは夫婦になるんだからこれくらい普通でしょ?」

その一言でカイリの中でターンが自分の夫になることはないと結論付けた。月夜の宝石であるナイトも反応するどころか、ターンを酷く嫌い彼に会う度に罵倒する様になった。

(どうしよう。レインがもしギフト持ちだったらナイトの声が聞こえてしまうわ)

カイリはレインにナイトの罵倒が聞こえてしまうのではないかと心配していた。
だが、その心配は取り越し苦労となる。ナイトの罵倒は見事にレインの耳に届いていた。

(なんかすんごい汚い言葉が聞こえてくるのだが何?まさかあのお嬢様の黒い宝石から…?怖。相当あのお坊ちゃんのこと嫌ってるじゃん)

レインはナイトの罵倒に顔面蒼白になってしまった。気にしちゃダメだと軽く首を横に振り、また仕事に戻る。
カイリはその様子を見ようとしたが、目の前の見合い相手がそれを許さなかった。

「お嬢様。そろそろ返事がほしい。貴女の本当の気持ちを教えてほしい!!!」
「前にも言いましたけど」
「いいえ!!アレは貴女の本心じゃない!!」

ターンはカイリの返事を否定する。前回の見合いと同じ応えなのは明白。
けれど、カイリを是が非でも手に入れたいターンはその応えは彼女の嘘だと、彼女の照れ隠しなのだと勝手に解釈していた。
なかなか納得してくれないターンにカイリは業を煮やしているのに彼は理解しようとしない。結局、自分の思い通りにならない現実を無理にでも変えようとしているのだ。

「……どうしてそう思えるのですか?」
「だって僕とお嬢様は運命だと思うのです!!全てマージル様のおかげ!!!僕の一族はずっと彼に助けられてた。だから恩を…」
「返したいとでも言いたいわけ?まさか、貴方、あの男が助けてくれてたとでも思ってるの?あの男が何をしてきたか何も知らないくせに」
「か、カイリお嬢様…?」
「全てお父様がしてきた事を自分の手柄にしてきたあの男の為に私は…!!!!」

今までマージルが引き起こしてきた不祥事の尻拭いは全て亡くなったカイリの父親が行なっていた。幾ら血の繋がった弟の為とはいえその気苦労は計り知れないだろう。カイリはそんな父親の姿をずっと見てきた。
余計にマージルを崇めるターンの言葉に我慢ができなくなった。怒りに任せてカイリは勢いよく立ち上がる。その衝撃でティーカップの中の紅茶が溢れ白いテーブルクロスに鮮やかな赤茶色のシミができてしまった。
カイリは構う事なくターンに反論しようとした瞬間だった。彼女に向かって強い風が吹く。

「きゃ!!」

抑えていたカイリの帽子が風で飛ばされてしまった。帽子は風と共に遠くへ飛ばされてゆく。
飛ばされた帽子が目に入ったレインは自然と身体が動き遠くへ行こうとする帽子を追う。
帽子はガゼボを離れ、大きな噴水がある方に向かってゆく。
足の速さに少しだけ自身があったレインは諦めようとせず必死に追いかけた。

「あともうちょい風の勢いが弱まれば届きそう…ってやば…!!」

帽子は立派な噴水に着地しそうだった。このままではカイリの帽子は水に濡れてしまう。
もし、お気に入りのものだったら大変なことになってしまうのではとふとレインの頭を過ぎる。

(ど、ど、どうしよう。弁償どころの話じゃなくなる!!解雇待った無し!!!流石にそれだけは勘弁だぁ!!!)

ようやく慣れてきたこの生活を手放したくない一心でレインは勢いよくジャンプをする。
彼のジャンプと、丁度風が弱まって帽子が降下したおかげで無事に帽子を取り戻すことができたが。

「あ、やば」

レインは噴水の水の中にドボンと背中から飛び込んでしまった。帽子は濡れる前に地面の方へと手が離れた為回避できた。
レインを追ってきたカイリは噴水に落ちた彼の元へ急ぐ。

「レイン!!!!」

ぷはっと浅い水中から出てきたレインは声がする方に顔を向ける。

(ぐあ〜!!すんごい恥ずい…。せめてかっこよく帽子をキャッチすれば…)

びしょ濡れになった顔の水を拭っているとカイリが今にも泣きそうな顔でレインに駆け寄ってきた。

「レイン?!!大丈夫?!怪我は?!!」
「あ、カイリお嬢様。俺は平気っすけど、その、あの、帽子…」
「そんなのどうでもいい!!貴方の体の方が心配よ!!本当に平気なの?!!」
「へ?はい、だ、大丈夫です…多分…」
「…っ!!」

カイリはレインがびしょ濡れでも構うことなくギュッと抱きしめた。レインは突然のことに呆気に取られ頭が真っ白になってしまった。

「ふぇ…?」
「良かった…貴方が無事で本当に良かった…!!」
(え?え?何?この状況…?何何何?!!!なんで俺、カイリ・マリアネルに抱きしめられてるのぉ?!!!!)

レインはハッと我に返り、このままではドレスが濡れてしまうからと慌てて自分からカイリを引き剥がそうとする。しかし、カイリは離れるつもりはまだないせいか抱きしめる力を少しだけ強めた。

「(この人見た目によらず力強っ)あ、あの、お嬢様。ドレスが…」
「ドレスなんかどうでもいい。貴方が無事なら私は…」
(ど、どういうことや…!!!頼む!!早く誰か来てくれぇ〜!!!)

抱きしめ返す訳にもいかず、行き場をなくした両手はパシャっと再び水中の中に戻る。
レインの胸部にカイリの温度が伝わる。緊張で心臓がいつも以上に激しく動いているから彼女の耳にはうるさく聞こえてしまっているとレインは恥ずかしくなった。

(早く来てくれとは思ったけどあの坊ちゃんだったらマズいのでは?いろいろと)

レインはこの光景を見たターンのリアクションが嫌でも目に浮かぶ。最初に対応した時のように怒り狂うのがもう目に見えていた。

「お嬢様!レイン!!」

エドワードの2人を呼ぶ声が遠くの方から聞こえてきた。レインはそちらの方に目を向ける。

「大丈夫か……ん?」
「あ…エドワードさん助けて…」
(お、お嬢様…!!)

この光景を見て誤解をしなかったのは長年培ってきた目利きのお陰だった。レインに非が無いのは一目で分かった。寧ろ、どうやってギュッとレインを抱きしめて離す気配が全くないカイリを機嫌を損なわせることなく引き離すかと頭をフル回転させる。
エドワードもレインがカイリの心を奪い、尚且つ月夜の宝石を輝かせた男だということは聞いていたが、まだ何も知らないレインにカイリが考えているような愛をぶつけるのはまだ早いのではと忠告はしていた。だがしかし、いざ2人きりになるとカイリのタガが外れて今に当たっていたのだ。

「お嬢様。一旦離れましょう?レインも困ってます。それにドレスがもっと濡れてしまいますよ?」
「嫌。ドレスなんて別に濡れても平気よ」
「マージル様とターン令息もいらっしゃってますし…」
「どうでもいい。レイン?本当に怪我はないのね?」
「へ?あ、ハイ。全然大丈夫です。寧ろ風邪ひきそうでヤバいなというか…」
「まぁ!!それはいけないわ!!

カイリは風邪を引いてしまうというワードで我に返りようやくレインから離れた。
レインとエドワードがほっとしたのも束の間、ぞろぞろとカイリ達の後を追ってきたターンと使用人数人がやって来た。
ターンの目に飛び込んできたのは、自分よりも身分が低く使用人であるはずのレインを自愛の目で見つめるカイリの姿だった。
その目は自分向けられる筈のものだとターンは憤慨した。

「この奴隷肌が!!!お嬢様から離れろ!!!」
「あ、ぶえっ」

ズンズンとレインとカイリの詰め寄ってきたと思うと、ターンは2人の中に割り込み、思いっきりレインの身体と押し倒し再びレインは水中にダイブする羽目になった。
その場にいたマージルも情けない声で沈んだレインをターンと共に嘲笑った。
水に沈むレインを見て気が晴れたターンはカイリに触れようとするが、一部始終を見ていた彼女は容赦なくその手を叩いた。

「っ!!な、何を…!!」
「何を?貴方、自分が何をしたのか分かっているわよね?」
「何をって、僕はただあんな奴隷肌の男に美しい貴女を触れさせたくなかっただけで…!!」
「……」
「僕の妻になる人をあんな汚い手で触れるなんて許せる訳ないだろう?!!なのに貴女はこんな暴力を」

ターンはカイリに叩かれ赤く腫れた手を摩りながら反論しようとするが、静かに怒るカイリの圧力が彼を強引に黙らせた。

「もういいわ。……ターン令息。私はこれまでずっとの貴方の我儘と自惚れ話をずっと聞いてきた。叔父のマージルの機嫌を損ねたくないからじっと我慢して聞いてきた」
「カイリ…お嬢様…?」
「勝手に私が貴方と結婚するなんて戯言も我慢さてじっと聞いてた。約束もしてないのにこうやって話し合いの場も作った。でも、これでようやく解放される」

噴水に落ちてしまったレインを泣きそうな表情で心配を案じていた声は、凍て付くような冷たく人を罰するに相応しい声に切り切り替わる。
起き上がったレインは、公爵としてその場に立つカイリに目が離せなくなっていた。

「叔父のマージルの顔を立てて、今までの見合いのことは貴方の御父上と女王陛下には告げていませんでしたがもうそれもやめにしますね」
「え、ま、待ってください!!それだけは…!!」

ラクサに君臨する王族の声は貴族のモノよりも強い。特に頂点に立つ女王陛下の声は苦しむ民の為ならと盾にも武器にもなる。それは移住してきた者にも通じること。
今までマージルと共に見下し蔑まれてきた人物はカイリだけではない。性別や身分、レインの様に肌の色と生まれた土地を知るや否や平気で軽蔑してきた。当然、物理的にも加えてきた。
彼らに鉄槌が下される時がようやく訪れた。それが今なのだろう。
ターンの父であるブリク家の長も黙ってはいられないだろう。次期当主で爵位を継がせるに相応しいと考えていた息子は見事に名に泥を塗ってしまったのだから。
勘当は免れたとしても廃嫡は確実にされるだろう。
ターンを唆し、結託していたマージルも例外ではない。
さっきまで勝ち誇っていたターンの顔から血の気が引いてゆく。
マージルが狼狽えながらカイリに詰め寄ろうとするがエドワードに阻止される。

「カイリ、待ってくれ。それは俺もなのか?俺はお前を育てた恩が…!!!」
「ターン令息をここまでさせた責任はしっかり取るべきですわ。サファイア女王は貴方が私の父にした事は知っているし、証人も大勢いるので言い逃れはできないと思ってくださいね?もう今更遅いですけど。リン」

カイリは侍女のリンを呼び付け、びしょ濡れになってしまったレインにタオルを渡して欲しいと指示する。
指示を聞いたリンは快く承知してから大事なことを伝えた。

「念の為に警備隊を呼んでおいて正解でしたね。これでやっとこの2人も近寄らなくなりますよ」
「いや、そんな、本当に待って…お嬢様…僕は…!!!」
「折角伯爵になれるレールにいたのに残念でしたわね。ターン令息。これでこの言葉を言うのも最後だわ」

カイリは淑女に相応しい柔らかくもどこか凛々しい微笑をターンに向けた。ターンの心に冷たくも重い何がか突き刺さった。


「貴方とは結婚できませんわ。貴方の理想になれない弁えない女である私には相応しくありませんもの」


項垂れるターンにカイリはトドメを刺す。容赦など最初からなかった。
レインの目に映った蝶の様に美しくも鬼の様に恐ろしい微笑は生まれて初めてだった。

(この女公爵を怒らせたら最後だ…)

逃げ出したいレインはもうすでに逃げられる道は閉ざされている。
レインはその現実をまだ知ることのないまま、ようやく噴水から脱出するのだった。