レインは必死に思い返す。
自分はただの使用人で、たまたま風で吹き飛ばされた女公爵様の帽子を拾っただけなのだと。
バランスを崩して噴水に落ちてびしょ濡れになった帽子を濡らさず持ち主の元へ返しただけの筈。
感謝の言葉を得るだけだろうとレインは思っていた。
だが、助けた相手から告げられた言葉は全てを一変させた。それはレインも想像していなかった宣言だった。
まずは、秘密にしていたはずのギフトの所有。レインにとっても、そして、カイリにとっても良い話。
レインは必死に頭をフルに回転させて何を言われるか予想するがピンとくるものが見当たらない。
焦っているレインをよそに、カイリは話を進めてゆく。
「貴方が見えないところで調べさせてもらったの。ここに来るまでに貴方の身に起きたことを全部ね」
「(そんな事いつの間に…!!)で、でも、なんで俺のことなんか調べるんですか?俺のことなんか調べたって何もなりませんよ?寧ろ、時間の無駄なんじゃ…」
「何言っているの。全然時間の無駄ではないわ。とても必要なことだったもの。いろいろ知れたし、これで心置きなく貴方に言える」
「言える?一体何を」
カイリは再びレインに向けて意地悪そうな笑顔を向ける。レインは変に身構えた。
「言ったでしょ?私と同じギフトを持つ貴方にとって打ってつけの話だって……貴方も聞こえているんでしょう?この男の声が」
カイリは首から下げていたネックレスを外し机の上に置く。いつも肌身離さず身に付けていた月夜の宝石だ。
レインは困惑しながら月夜の宝石を見つめる。
「声…?」
「ギフトを持つものは宝石の声を聞くことができる。神様が与えてくれた共通の異能と言ってもいいかしら。さっきもずっと聞こえてたはずよ。あんま口には出したくない言葉ばかりだったけれど」
(つまり、これ以上誤魔化したって無駄ってことかよ。腹括るか…)
レインは、全てを諦めはぁっと自分を落ち着かせる様に短くため息を吐き、開き直った気持ちでカイリを見た。
自分の情報を得たと言うことは、きっとガイアが突然いなくなったのも彼女が関わっているのだと悟った。
もう逃げられないなら、徹底的に利用してやろうとさえ思えた。カイリが言う打ってつけの話がレインにとって有利なものになる場合ならだが。
「お嬢様の言う通り、ずっとその黒い宝石の声聞きながらあの場にいましたし、相当あの御曹司のことを軽蔑してて引きました」
「ああいう融通がきかない人間にはいつもこうなのよ。まぁ、ずっとそういう家族たちを見てきたから仕方がないのだけれど」
(ずっと見てきたってことは先代から受け継いできたってことか)
「ガイアから聞いたと思うけど、コレが私が月夜の宝石と呼ばれる由縁にもなった宝石。マリアネル家の家宝でとても特別な宝石なの」
「…そうなんですか。でも、それと俺に何の関係があるんですか?声が聞こえるぐらいしか共通点がない気がするんですけど?」
訝しげなレインはカイリに目の前の月夜の宝石を自分の前に出した意味を探ろうとする。
「すぐに分かるわよ。その宝石に貴方が触れればね」
「え?俺が触れればって…」
「その答えが知りたいなら月夜の宝石に触れて。貴方の人生を変えたいなら」
傷ひとつない月夜の宝石が天井のシャンデリアの光で反射している。まるで早く触れろと訴えてきている様に見えて仕方がなかった。
こんな神秘な光を放つ宝石に、レインは身分が低い自分が触れてしまっていいのかと躊躇してしまった。
(どうしよう。幾ら触れって言われても汚したりしたら…)
さっきまで治っていたはずの緊張が再び全身に湧き上がる。
レインは本当にいいのかと目で訴える。カイリは微笑みながらこくりと頷いた。
(こ、こんなに高価なやつを、しかもマリアネルの家宝を手袋無しに触るなんて。どうしよう弁償しろとか言われたら…でも…)
だからと言っていつまでも躊躇していられない。
レインは、覚悟を決めてゆっくりと月夜の宝石に手を伸ばした。
晴れるか触れないかのところで一瞬だけ手を止めてしまったが、目をギュッと瞑り今度こそ宝石に触れた。宝石の感触が手に伝わると同時にそっと目を開ける。その時だった。
「え、何?!うわぁ!!!」
黒曜石の様な宝石がレインが触れた途端、眩い白い光が放たれる。とても神々しい美しい光。
まるでレインに触れられるのを待っていたかの様なその光はカイリに希望を与えた。
(ナイトの言う通りだった。そして、私の想いも間違っていなかった。やっぱり彼だったのね。彼が私の運命の番。私の夫になる人)
カイリの想いとは対照的に、レインは突然の宝石の異変に驚愕していた。
(何?!何何何?!!なんで急に光ったの?!!俺なにしちゃったの?!!!)
何故、漆黒の色だった月夜の宝石が満月の様に白く輝いたのかレインはまだ知らない。驚愕して慌てふためくのも無理もないだろう。
触れていた宝石から慌てて手を離した。光は止んだが、宝石の色は白いままだ。
レインはある程度自分を落ち着かせてからカイリに問い詰めた。
「今のは何なんですか?!!きゅ、急に宝石が光って…」
取り乱すレインに近づいたカイリは、あの噴水の時の様に再び彼を抱きしめた。彼を落ち着かせる為でもあったが、それよりも愛おしい気持ちが勝り、絶対に離さない、誰にも彼を渡さないという独占欲が彼女を動かしていた。
カイリに抱きしめられたことによりレインは更に混乱してしまった。
(ひぇ〜〜!!!なんでぇ〜〜?!!!)
カイリを突き飛ばすわけにもいかず、どうしようか困惑したレインだったが僅かに残った平常心を使って一旦落ち着こうと試みる。
(だ、ダメだ。ここは一旦落ち着かなきゃ…!!正直、今すぐにでも叫んで逃げたいぐらいだけどココは落ち着いて冷静になるんだ…!!!)
「レイン」
「へ?はい!?な、何でしょう?」
カイリの声でレインはようやく我に帰れた。一瞬情けない声が出たが気にしない様にした。
「驚かせてしまって申し訳ないわ。貴方に教えておけばよかったわね。月夜の宝石の特別な秘密を」
「秘密?あの宝石の?」
「ええ。月夜の宝石はある一種の探知機。所有者にとって大事なモノを見つけ出してくれる特別な宝石なの」
「その大事なモノって一体…」
カイリはそっとレインから離れ、そっと彼の頰に触れる。まるで大事なモノを壊さない様に大事に触れ、愛おしむ目で彼の瞳を見つめる。
レインは恥ずかしさ思わず顔を赤らめてしまう。自分の頬を触れているカイリの手を払い除ける気にはならなかった。彼女の愛おしげな目から逸らすこともできなかった。
「お嬢…さ…ま…?」
「月夜の宝石を新月の夜から満月の白色に変えられる者。それができるのは所有者の"運命の番"となる者のみ」
「運命の番…?」
「私の伴侶になる者にしか反応しないのよ。つまり貴方のことよ。レイン。貴方は私の夫になるのよ」
「……へ?」
あまりに突然のことでレインの思考が止まる。
ようやく月夜の宝石が呟いた運命の番の意味を知ることができたが、それと同時にすぐには受け入れられない事態が起きてしまった。
カイリは呆気に取られているレインの両方の手を優しく握った。
そして、決意した目付きで彼を見て告げた。
「レイン・バスラ。私の運命の人、私の希望の光となる人。そして、私と同じギフトを与えられた人。私は貴方という人を心の底から好きになりました。きっと宝石の導きがなくても私は貴方を是が非でも探し出していたわ」
(待って)
「ようやく人生を共にしたいと思える人が貴方だった。ずっと暗闇だった世界に光を差してくれたの。そんな貴方を手放したくない。だから…」
(これって)
「私と結婚していただけませんか?」
一世一代の人生を賭けたプロポーズ。
男性から告げられるのが主流になっているがレインが受けたのは逆のもの。
身分の低いレインを騙して悲しませたいという気持ちなど一切ない真剣なプロポーズだった。
両手に伝わるカイリの手の温かさと少し潤んだ目が応えを引き出そうとする。
突然の求婚にレインは、当然だがすぐには応えを出すことができなかった。
「そんな、そんな急に結婚してくれって言われても困ります!幾らその宝石が俺を運命の番に選んだとしても!!」
「どうして?」
「だって、俺はここの使用人で平民。身分が違い過ぎる!!それに…」
「それに?」
「……きっと後悔するから。マグア人である俺と結婚なんかしたら絶対に貴女は後悔する。だから…」
レインのビジョンにはカイリが差別と好奇の目に晒されて傷つけられる未来しか見えず、とても幸福な未来になるとは到底思えなかった。
運命の番に選ばれた自分よりもっと彼女には相応しい人がいる。
彼女がレインに告げたプロポーズに偽りはなかった。そんな彼女を悲しませたくない一心だった。
このまま身を引いた方が彼女の幸せになるのだとレインは考えていた。
「ごめんなさい。貴女の期待には応えることはできない。きっとすぐに良い人が現れて…」
「もう現れてるわよ。目の前にいるじゃない」
(ん?)
だが、それだけで諦める女ではないことをレインは知る由もなかった。
レインが想定していた応えはまるっきり否定される。
心の底から好きになったモノは死んでも離そうとしない。それがカイリ・マリアネルという女。
(え…?ん?んんん?ちょっと、いや待って。ホント待って。諦めてくれる筈じゃ…)
「私がそう簡単に諦めると思った?言ったでしょ?打ってつけの話があるって。逃がさないから。あとでもう一度聞くわね?」
逃がさないというパワーワードと鬼の様な圧がレインを顔面蒼白にさせる。カイリはそんな彼対してニヤリと不敵に笑っていた。
「愛しているわ。"私の可愛いアガパンサス"」
「そんな諦めないって……俺なんかが貴女の旦那になるなんて絶対に無理ですよ!いろいろと無理があり過ぎる!!!」
レインは諦めるという文字が存在しないカイリに必死に抵抗していた。
幾ら運命の番に選ばれたとはいえ、やはり身分の違いと種族の違いが今後カイリの足を引っ張ることになるのだと悟っていたからだ。
だが、レインのその考えはこの女公爵には通用しない。寧ろ、彼女にやる気を与えてしまったと言っても過言ではなかった。
やる気に満ちたその目にレインは恐怖を感じていた。
「何故そう言い切れるの?」
「いや、考えれば分かるでしょ!?身分も低いし、人種も違うし!!」
「…でも、ギフトを持ってるじゃない」
「それだけでしょ?!ギフトを持ってるからって貴女と結婚していい理由なんて…」
「あるわよ。私と結婚すれば貴方を守ることができる」
「その…一体誰から守ると?」
「知っている筈よ。貴方と私達のギフトを付け狙う輩共のことを」
レインはカイリのその言葉に思い当たる節があった。
マグアにいた頃もその危機は何度もあった。ギフトを持っているだけで彼を襲った正体。
神々から授かったギフトを本来の持ち主に返すべきだと主張する異端者達。
一番最初にギフトを授かった使者のひとりが行動、それは身分が低い者にもギフトを教え、そして、後継させ繁栄させたこと。
だが、ギフトは神の物だと認識し信仰している異端者達。
少しでもギフト所有者だと疑いがある者には容赦なく危害を加えている。
ギフト所有者と判明するとすぐさま捕らえ、拷問し、最終的には生贄として神に異能を返すという名目で殺す。それが一種のカルト教団と化した奴らのやり方だ。
その被害は貴族であるカイリにも及んでいて、爵位を受け継ぎ公爵となった今は鳴りを潜めているもののいつまた彼女を襲うか分からない。マリアネル邸に使用人としてやってきたレインも例外ではないだろう。
「まさか、結婚すれば俺を守ってくれるとでも?」
「ご名答。このマリアネルの名と、私の公爵の爵位の地位があれば貴方を守れる。奴らも身分の高い貴族にはそう簡単には手は出さない筈」
「仮にそうだとしてもそれが結婚していい理由には…」
「なる。それに私は貴方に初めて会った時から好きになってしまったの。所謂、一目惚れってやつね」
(まさかあのカフェで会った時の?え…?パンケーキに夢中になってた奴のどこに惚れたんだ…?)
レインはカイリを惚れさせるような仕草をした覚えは全くなかった。紳士の様にエスコートした覚えも、誰かに絡まれているところを助けたという様なヒーローじみたこともしていない。
ただ、ガイアの隣でバターの匂いと蜂蜜がたっぷりかかったふっくらパンケーキを夢中で頬張っていたことしか覚えていない。レインは更に困惑した。
「あと、貴方と結婚すればいろいろと解決することもあるのよ」
(解決?俺と結婚すれば解決するってどんな問題だよ)
「ターン令息の隣にいた男のこと覚えてる?」
「えっと…ああ…なんか胡散臭そうな奴がいましたけど、それが?」
カイリは困った様にはぁっとため息をついた。目の前の愛する人に紹介したくない人物を話すのは気が滅入るからだ。カイリは決意を固め重い口を開いた。
「マージル・マリアネル。あの男は父の弟で私の叔父なのよ。私の面倒を見てくれた人でもあるわね」
(え"?あの人叔父だったの?全然見えなかった。ヤバそうな詐欺師かな?って思っちゃったよ)
「あの男は自分より身分が低い者にはあんな態度をとるのよ。ほら…変に横暴だったでしょ?いつもああなの」
(確かに。変に俺ら使用人にキツく当たってからな。やっぱりそういうことか)
カイリの言う通り、マージルもターンと同じで自分より身分が低い者には遠慮がなかった。
紅茶の味が気に入らないもしくは冷めていただけで突然紅茶を浴びせてきたり、来るのが遅いからと怒鳴りつけ最悪の場合はビンタをかましてくる等目に余る行為を平気でしてくる男だった。
マグアにいた頃に見た貴族達も同じだった。レインを優しくしてくれたのはごく一部の人間だったのだと改めて思い知らされた。
けれど、それが自分との結婚とどう影響するのかレインにはまだ分からなかった。
「マージルの目的はマリアネルの正式な後継者になって全ての権限を自分のものにすること。そして、公爵の名を私から奪い取ること」
「でも、マリアネル家の後継者は貴女であることも爵位だって貴女のお父様も意思もあって受け継いだって知ってる筈じゃ…」
「私が女だから気に入らないの。まぁ、それ以外もあるけれど。血の繋がった兄弟で、忙しい父の代わりに私の面倒をずっと見てくれていた。だけど、父は彼を見限った。家の地位も爵位も財産も全て私に残したくれた。逆にマージルには何も残してくれなかった」
(つまり、全然信用されてなかったってことか。納得)
「いろいろやらかしてたから当たり前なんだけど」
カイラのその一言にもレインは変に納得してしまった。
「面倒見てくれたけどいい気はしなかったわね。父の目が見えないところで叩いてもきたし、それ以外もいろいろされたから。今もだけどね」
「とんだ最低野郎ですね」
「そこにあの見合いよ。自分に有利な人間と無理矢理結婚させて、私を形だけの存在にさせてすべてを牛耳ろうとしてる。さっきの見合いも同じ。私の意思も愛もない道具にさせるための結婚。逃げたくて仕方がなかった。でもね」
「え?」
「そんな時に貴方が現れた。月夜の宝石を光を灯し、私の心を一目で奪った貴方が私の前に現れてくれたの。これは運命なのよ。レイン・バスラ」
「う、運命なんてそんな…」
目を輝かせながらレインを両手を掴むカイリにレインは圧倒される。
彼女の言葉に嘘は見えなかった。確かにマージルという叔父とギフト所有者を付け狙う異端者に命を狙われているということは分かった。
特に、後者はカイリと同じギフト所有者であるレインも他人事ではなかったからだろう。
それでもレインを決断させるにはあと一つ足りないものがあった。
「とりあえず話は分かりました。けど、使用人の俺を夫にしたらもっと泥沼化しそうなんですけど…」
「一旦、マージル達にギャフンと言わせたいから気にしなくていいわ。いろいろ手は打ってあるし」
「それに…絶対俺なんかをマリアネル家に迎えたら他の貴族から何か言われるんじゃ…好奇の目で貴女を見る様になるかも…」
「そんな愚か者に負ける様な私ではないわ。それだけで貴方を守りきれなかったらマリアネルの名に泥を塗るようなものだもの」
「でも…っ!!!」
「私と結婚したくない理由がまだあるの?」
悲しげな目に切り替わるカイリにレインは何も言えなくなった。
このままこの結婚を受け入れれば一気に貴族の仲間入りとなる。今までの生活が全て一変するだろう。
けれど、平民から成り上がった自分のせいで後ろ指を刺され、見た目で差別する者の目も彼女にも降りかかってしまうのが嫌だった。
そして、レインに向けられている好意も一時的なモノだったとしたらと思うと安易に首を縦に振らなかった。
まだ、カイリの様な想いには至っていない。けれど、彼女が歩んできた人生を聞いてからレインは少しでも力になりたいと思っていた。
帽子を拾っただけの自分をここまで愛そうとしてくれる彼女に見放されたらという恐怖はまだ拭えない。
「本当に俺のことが好きなんですか?」
「大好きよ。初めて会った時からね」
「月夜の宝石を光らせた……運命の番として宝石に選ばれたからってだけじゃないってことですよね…?」
「当たり前じゃない!彼が選んだだけじゃない!私が心の底から好きになったからこうして結婚を申し込んでるのよ!!」
嘘偽りのないカイリの一言一言にレインの疑念は少しずつ薄れてゆく。
レインは決意を固め一番不安になっていた思いを彼女にぶつけた。
「……本当に俺を…、奴隷の地で生まれた俺を本当に一生かけて愛してくれるんですか?」
「……」
レインの声が恐怖で震える。
今までレインという一人の人間として愛してくれる人なんていなかった。ギフトを持っていたから愛してくれた人は大勢いたが、レイン自身を愛してくれる人は初めて友人となったケヴィンぐらいだった。
レインに対して愛を説いていたカイリに実は冗談だった、全て嘘だったと言われてしまうのではないかとずっと疑心暗鬼になっていた。
彼女の沈黙が恐怖にしか感じない。今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。
カイリの優しい声が凍てついた沈黙を破る。
「レイン・バスラ」
「……はい…」
「私は月夜の宝石が選んだから貴方に求婚したんじゃない。本当に貴方を愛してしまったから申し込んでいるの」
「嘘だ」
「嘘なんかじゃない。私はそこらの貴族共と一緒にしないで頂戴。私は身分なんていうものなんか必要ないって思ってる。確かに利用できるけど、ただの枷にしか思えない」
あまりにも眩しくも凛々しい目にレインは釘付けになっま。
あの帽子を拾った時、ターン令息を圧倒させていた彼女こそまさにマリアネル家当主、そして、女公爵に相応しい。そう思える程、カイリ・マリアネルの嘘偽りなき告白は少しずつ疑念に満ちていたレインの心を解いてゆく。
求婚を断ろうとした気持ちがどんどん揺らいでゆくがもう止められなかった。
「私は一生をかけて貴方を幸せにする。絶対に悲しませたりしない。どんな脅威からも守り切ってみせる。だから改めて言わせて」
レインはある一言を思い出す。
『私の可愛いレイン。私の可愛いアガパンサス。誰よりも幸せになってね』
いつも夢の中で母が囁く言葉。
その言葉通りの人生がもう目の前にある。その手を払いのける理由なんてもう彼にはなかった。
「レイン。私の愛しい人。どうか私と結婚してくれませんか?」
改めて告げられたカイリからのプロポーズ。
レインは本当は自分から言わなきゃいけないのにと感じていた。けれど、その目にもう恐怖と不安はもうなかった。
「……これからすんごい迷惑かけると思うし、公爵である貴女の立派な夫になれるかまだ分からない。でも、こんな俺をそこまで想ってくれる貴女となら楽しい一生になれるかも」
「ってことは…」
緊張気味な表情のカイリにレインは微笑んだ。
「カイリ・マリアネル様。俺も貴女を幸せにしてあげたい。その言葉に嘘がないなら受けます。結婚しましょう」
カイリはレインの応えに一瞬だけ驚きを見せたがすぐに我に返り、嬉しさが爆発し、小さく嬉しい悲鳴を上げながらガバッと彼を抱きしめた。
(く、苦しい…!!!)
「ありがとう!!本当に嬉しいわ!!!私、断られたら絶対立ち直れなかった。大好きよ!!!」
「あ、あはは。そ、そりゃよかったです。あの、俺達、まだお互いのことよく分かってないんでゆっくり…」
「そうよね!たっぷり時間はあるもの!!もっとレインのこと知りたい」
(愛がすごい。俺の何がこの人をこうさせたんや…)
ぱぁっと太陽の様な笑顔のカイリに少しドキッとしてしまったが今は知らないふりをする。きっとそれがバレてしまったらややこしい事になるとレインは悟っていたからだ。
(初めての感覚にいろいろ追いつかない…)
「これからもっと忙しくなるわね。貴方との婚約をいろんな人に広めなきゃだし、結婚式もとても素敵なものにしなきゃだし…」
「…そんなに焦らなくても俺は逃げませんから、ゆっくり考えましょう?ほら、さっき言ったでしょう?時間はまだあるって」
「そうだけど、嬉しくて気持ちばかりが先走っちゃって。でも、本当に、本当にありがとうレイン。私を選んでくれてありがとう…!!!」
「あ、あはは…」
「そうと決まれば、みんなに報告しなきゃね」
(ん?報告?)
すると、レインの腕を掴みそのまま引っ張られる様に部屋から出る。
「え?!ちょっとカイリお嬢様ぁ?!!」
「ほら!!早くマリアネル邸にいる皆に教えなきゃ!!」
「一旦秘密にしません?!つか、俺自身全然心の準備が…!!」
「大丈夫。私がいるもの」
(そうゆう問題じゃね〜〜!!!!)
その後、ロビーにてマリアネル邸で働く者全員に婚約をした事を告げられた。
皆、婿になる人が自分達の同僚だとは予想していなかったせいで大変驚いていた。レインはその様子を見て"穴があったら入りたい"という気持ちに駆られた。
レインの耳に月夜の宝石ことナイトの声が聞こえる。
『貴様がちゃんとカイリを幸せにするまで逃さぬ。その逆も然りだが』
レインは改めて自分はもうこの女公爵から逃れることができないだろうと諦めのため息をついた。
カイリとの婚約が決まったレインの生活は一変していた。
突然貴族の仲間入りを確約されたことを未だ信じられずにいるレインを置き去りにして事は進んでゆく。
「俺はこれからこんな広い部屋で住むってこと…だよな…」
「すげー…まさか俺の親友が大出世して、しかもカイリお嬢様と逆玉婚なんて…やべ、なんか嬉しくて泣けてきた」
「泣くな泣くな(寧ろ泣きたいのはこっちだよ)」
マリアネル家の当主の婿になる人をいつまでも狭い使用人用の部屋に住まわす訳にはいかないと、あらかじめ用意された自室にいた。
カイリの部屋と同じぐらい広く、いろんな作家で高価な家具や装飾品に囲まれた部屋にレインはこれから住むことになる。とても現実味が感じられないレインは呆気に取られるばかりだった。
そんなレインにケヴィンはどういう訳か感動していた。
まさか、自分の初めての友人が逆玉の輿に乗ることができ幸せの階段を駆け上がり始めるのを自分の目で見守れるのがとても嬉しかったのだ。嫉妬という言葉は最初からなく、本心からレインを祝福していた。
「でもさ…レインはこれからはカイリお嬢様の旦那様になるから僕とはあまり話とかできなくなっちゃうね。そこはちょっと寂しいかな」
同じ使用人として友人としてずっと側に居たレインが手の届かない所に行ってしまったら、前みたいに冗談を言い合ったりできない寂しさだけは拭えなかった。
大切な親友が成り上がって幸せになるのはとても喜ばしいことだが、ケヴィンはその寂しさを酷く感じ取っていた。
けれど、レインは諦めていなかった。寧ろ、ケヴィンの絆を更に深める方法をすでに見出していたのだ。
「あのさ、ケヴィン。一つだけ我儘聞いて欲しいんだけど。いい?」
「え?何?」
「これはカイリ様とエドワードさんに聞かなきゃいけないからどうなるか分からんけど、もし、俺の従者になって欲しいって言われたらどう?」
「……え?ええ?!!」
「それなら離れ離れにならんだろ?」
レインから思わぬ申し出にケヴィンは驚いて言葉を失ってしまったが、大好きな親友の側にいられるならこのチャンスを逃す訳にはいかないとすぐに我に帰った。答えはもうとっくに決まっていた。
「もちろんイエスだわ!!!でも、本当に僕でいいの?まだ見習いなのに。絶対いろいろ迷惑かけちゃうよ?」
「ケヴィンだからお願いしてるんだ。見習いでも別に構わない。俺もそうだから」
近しく親しい人が側に居てくれればお互い助けになる。レインがラクサに来て一番実感した一つ。
突然全てが一変しても大事な仲間がいれば乗り越えられる。レインがケヴィンを自分の従者に決めた一手だった。
(それにまだあのお嬢様のこと何も知らないし、一人で不安になるよりかはまし…)
幾ら夫婦になるとはいえ、まだお互いのことをよく知らない。
その不安を一人で抱えるより親しい誰かに相談できるツテが欲しかったのもあった。
何度もカイリのプロポーズを思い出してはその不安を拭うべきだと考えるがそうはいかないだろう。
(俺の我儘をなんでも聞いてくれそうな気がするの何だろうな。ちょっと怖い)
「それじゃあ、早速エドワードさんに聞いてみよう!!あと、お嬢様にも!!」
「お、おう」
お互い学んでゆき成長してゆくしかない。
自分が女公爵の夫に相応しい男なのか、何故月夜の宝石が自分を選んだのかまだ分からず手探りの状態だ。けれど、ここで悩んで立ち止まっていても何も始まらない。
目の前にいる親友の様な前向きさに憧れながらレインはエドワードの元に急いだのだった。
カイリは侍女のリンを連れて街に繰り出していた。その理由はある大事な物を作りにジュエリーショップに行くからだ。
その大事な物とは、彼女の婚約者となったレインへのプレゼント。一言で言えば、婚約指輪をまだ使っていなかったからだと言った方が正確だろう。
けれど、カイリは少し引っ掛かりを感じていた。それは。
「……う〜〜ん…」
「どうしたんですかお嬢様?」
「うん…ちょっとね…なんか違う気がして…」
「違う?何がですか?」
「指輪のこと。指輪じゃなくて他のアクセサリーの方が似合う気がして。あと、あるモノをモチーフにしたアクセサリーの方がいい気がして。でも、考えが纏まらないのよ」
悩むカイリにリンはそのあるモノが何か問う。
「庭に咲いてるアガパンサス。今、見頃の薄紫の花。彼の出身地のマグアが原産地みたいなの。だからアガパンサスをモチーフにした物にしようかなって…」
「まぁ!!それは良いアイデアですね!!とても素敵ですよ!!」
「指輪で作ろうかと思ったけど、何か違う気がして。リン、何か良い案ない?」
カイリから提案されてリンはうーんっと目を閉じてじっくり考える。
ふと、リンの脳裏にあるアクセサリーが頭を過ぎる。それは、よく貴族の男性が身に付けている宝石のブローチだった。
これならお嬢様も納得してくれるとすぐにその答えを彼女に伝えた。
「ブローチなんてどうですか?薄紫のアガパンサスをモチーフにしたブローチとかとても素敵だと思います」
「ブローチね…」
「ほら、胸の辺り付ければ結構目立ちますし、お嬢様の婚約者だという証にもなる気がするのですが」
(私の婚約者だという証…)
その言葉が繰り返し頭に響く。引っかかっていたものが一気に削ぎと落とされ悩みが吹き飛んだ。
レインを他の者に奪われない為の独占欲の具現化を見せつけるのには最適だとカイリはほくそ笑んだ。
「ありがとうリン。貴女のお陰で全て解決したわ。これでジュエリーショップで悩み込まなくてすむわ」
「いえいえ。悩める主人を救うのも仕事のうちの一つですから♪」
「フフ。本当にありがとね。助かったわ」
マリアネル邸にて。外は暑いというのにレインは一瞬だけだが鋭い悪寒を感じ身震いした。
「ひぇ。なんだ?」
「どうしたん?」
「あ、いや、なんか今悪寒が…(なんだろ…?)」
レインは腕を摩りながら胸騒ぎを覚えた。
もう一つの宝石と出会うまであと少し。
レインがカイリにプロポーズされてから少し経った頃。
女公爵の夫に相応しい人間になる為に花婿修行を半強制的に始められていた。
その理由は、レインが自分の婚約者になったことを他の貴族に披露するからだ。それも手紙などではなく人目がつくパーティーの場で。
たった2週間の間にできるだけ多くの事を覚えて欲しいと怒涛のスケジュールを組まれることになりレインは気が滅入っていた。
(幾らギフトがあるからって、これはヤバいって)
正直、使用人の時よりもハードではと思えるほどの修行にレインは逃げ出したいという考えがいつも過るようになった。
まずは、基本的な礼儀作法は難なくこなせたが、貴族の名前を覚える事と、ダンスに関してはレインの悩みの種となっていた。
記憶のギフトを使っても覚える事が多過ぎるせいか、その日の修行が終わると夕食も食べずにそのままベッドに寝てしまう事が多くなってしまっていた。
ケヴィンも従者として見習いなりにレインを支えていた。
(このお披露目会が終わったらしばらく花婿修行は休ませてもらおう…この怒涛さは死ぬ…頭がパンクしそうや…)
女公爵の自室兼仕事場。
婚約者となったカイリにもここ数日はあまり会えていない。彼女も仕事が立て込んでいるせいか、なかなかレインに会えずじまいで苛立っていた。
「レインに会いたい…エドワード、レインを呼んでちょうだい」
「ダメですよ、お嬢様。彼にはこの短い期間でいろいろ覚えてもらわないとならない事があるのですから。邪魔してはなりません」
「うぐ〜〜!!なんでよぉ〜少しぐらい良いじゃない〜」
「いけません。ギフトを酷使しながら必死に花婿修行に励んでいるのです。今は優しく見守ってやってください。それに、その仕事の量を終えなきゃ彼に会えませんよ?」
「分かってるわよ…。他の人に任せられないものばかりだし仕方ないわ…。はぁ〜それでも会いたい」
「もう少しの辛抱です。あ、そうそう」
エドワードはある事を思い出すと、先ほどリンから受け取ったある箱をカイリの机の上に置いた。
「もしかしたらコレって…」
「はい。先程、リンがお嬢様の代わりに受け取って来てくれたので。やっとですね」
カイリは一旦仕事の手を止めて、ある物が入った箱をそっと開ける。
その中身はカイリを納得させる作りになっていて満足の出来となってやってきた。
「完璧よ。後はレインに渡すだけね。絶対に気に入ってくれるわ」
月夜の宝石ことナイトも箱の中身の物に関心を持った。
『まだおぼっこい声だが、まぁあの男にはぴったりだな』
ギフトを待つ者にしか聞こえない宝石の声。その声は所有者の守護となってどんな危機からも守ってくれる。そして、幸福へ導く声にもなる。
亡くなった母から教わったギフトと宝石のお話。
皆は、それはただの迷信だと言っていたが、レインを見つけてくれたことで迷信なんかではなく事実だったと思い知らされた。
宝石はゆっくりと結びを深めてゆく奇跡の鉱物なのだとカイリは思った。
「そのブローチ。披露会の時に渡すのですか?」
「ええ。そのつもりよ。皆に認められる夜に渡そうと思ってるの。絶対に似合うわ。彼の花をモチーフにしたもの」
彼女の中でアガパンサスはレインを連想させる物となっていた。
マグアが原産地であることもあるが、あの出来事があった日も庭園のアガパンサスが綺麗に咲き誇っていたのが印象的だった。
「さて、早く仕事を終わらせなきゃね」
「そうですよお嬢様。彼も頑張ってますから」
カイリは再びペンを持ち目の前の仕事をこなしてゆくのだった。
「マージル様!!!どういうことですか?!!カイリお嬢様があんな奴隷と婚約なんて!!!!」
マージルの邸にやって来たターン令息は取り乱しながら彼に問い詰めた。
まだ他の貴族に伝えていない筈の情報をどこからか得たのだろう。ターンはレインがカイリの婚約者になった事に憤怒した。
本来ならそのポジションは自分の筈なのに何故奴隷の地と言われるマグアの男に取られるのだと憤慨したのた。
マージルも必死に怒りを抑えながら紅茶を飲む。
「私も今知ったのだ。デマの可能性もあるだろう?」
「っ!!!デマなんかじゃありません!!忍び込ませたメイドが教えてくれたのですから!!!クッソ!!なんで……」
(……この男の話が本当なら…。あの子娘。マリアネル家の恥晒しが)
ターンがカイリの動向を知る為にメイドを装って送った密偵が掴んだ情報だ。ターンに忠を尽くしている者の情報に偽りはないだろう。
密偵が掴んだ情報が書かれた紙をマージルに渡す。
マージルは少しずつ怒りを滲ませ、持っていた紙にシワを作らせた。
「本当…なのだな……」
マージルの怒りの雰囲気にターンは恐怖で一瞬だけ言葉を失う。恐怖に襲われながら辿々しく、なんとか言葉を続けようとする。
「ほ、本当です!!カイリお嬢様はあんな下級の者を婚約者にすると使用人達の前で宣言したと…」
「そうか…」
「このままではマリアネルの名も、神聖なギフトも卑しい血で汚れてしまう…!!何か策を…」
マージルは持っていたティーカップを怒りに任せておもいっきり床に叩きつけた。パリンと傷一つなかったティーカップは呆気なく砕け散った。
ターンはその様子を呆然と見ているしかなかった。
「すまない。見苦しいところを見せてしまった」
「あ、そんなこと…仕方ありませんよ。あんな事されたら僕ら以外の貴族達も怒りますよ」
「そうか。でも…あんな小娘にここまで手こずらせられるなんてな。私のした事が。あそこまで大切に育てて来たのに失敗してしまった」
「マージル様は何も悪くありません!!カイリお嬢様の婚約もきっとあの奴隷が唆したに決まってます!!」
「そうだといいがな。……そう言えば、さっき見せてもらった資料の中に書いてあったのだが」
「え?」
「私達にとって有利となる事が一つ書いてあった。ターン令息の密偵は本当に有能だな」
マージルはくしゃくしゃになってしまった資料をテーブルの上に置きある文章に指をさす。
そこに書かれていた文にターンは目を通す。彼はその一行に驚愕し目を大きく見開いた。
「う、嘘だ!!どうしてあんな奴隷がギフトを?!しかも神々に選ばれた使者の子孫しか持たない筈の《記憶》のギフトをなんで?!!!」
「それは私にも分からん。だが、一つだけ分かっていることがある」
「あの奴隷からギフトを取り上げる…否、取り戻すこと…」
「あんな卑しい血が通う者が持っていい異能ではない。高貴な血を持つ者にしか許されない。神々もそれを望んでいるだろう」
「でも、取り戻すって言ってもどうしたら…」
マージルは不安なターンに対して、ニヤリと何か企んでいる様な笑みを浮かべた。
すると、マージルは左手に嵌められていた黒革の手袋を外し始めた。
「この紋章に見覚えがあるだろう?」
マージルは手の甲に彫られた黒色の何かの紋章の刺青をターンに見せた。
「っ!!!これは…!!!」
刺青を見たターンから一気に不安が払拭された瞬間だった。彼もニヤリと不敵に笑う。
「ギフトを神に返し、ギフト所有者が最も恐れる存在で救済者である教団《オルロフ》の力があれば両方共取り戻すことができる」
マージルが所属しているオルロフこそ、カイリが言っていた異端者だった。
神々にギフトを返すと名目で所有者を捕らえ、拷問をしたのち最終的に生贄として殺す。特に身分が低いギフト所有者には容赦がなく、遺体が残らないもしくは原型を留めないほど酷い状態で見つかることが多い。
ここまで残酷な行為を行っているというのに、高位な貴族ばかりが集まるその教団を断罪することはできない。権力と金を使い証拠は全て改竄され、大勢の無実の人間を何度も断頭台に送ってきた。
その魔の手を身勝手な野望に満ちていたマージル達はレインとカイリへと伸ばそうとしていた。
「あの奴隷の血をマリアネルに混じらせる前に手を打たねば。やはり、彼女をここ呼んで正解だった」
すると、マージルは部屋の端で控えていた従者を呼び寄せ耳打ちをする。命令を受けた従者は早歩きで部屋を出て行った。
「誰か僕以外に来客でも?」
「ああ。もしもの事もあってと思って。安心しろ。彼女も私達のオルロフの仲間だ」
少し経って、コンコンっとノック音が扉からした。
音が止んだと同時に扉が開き、マージルの従者と共に入って来たのは赤いドレスに美しい金髪の一本の三つ編みを肩から垂らした女性だった。ターンはそのあまりの美しさに姿にドキッとしてしまった。
「(なんて美しいんだ…!!)ま、マージル様!この方は…!!」
「彼女は、オルロフの幹部の一人アンダース伯爵のご令嬢ミネア様だ。彼女もオルロフを信仰している仲間だよ」
「初めましてターン・ブリク令息様。私名は、ミネア・アンダース。以後お見知り置きを」
「彼女の力があればあの奴隷を捕らえることなど容易い事。そして、神々にいち早くギフトを返すことができる」
「話は聞かせてもらいましたわ。確かに、由緒正しいマリアネルの血から一刻も早く卑しく汚い血を排除せねばなりませんね。カイリ様にも貴族として再教育しないと。彼女は身を弁えてもらわないと」
どこか怒りを込めた静かな口調のミネアにターンは賛同する。
「ほ、本当にその通りです。カイリ様は一番爵位が高い公爵というだけで好き勝手やってきた。僕との結婚も台無しにして…!!」
「その悔しさ、とてもよく伝わります。それはそれは辛かったでしょう。でも、もう大丈夫ですわ。後は私とマージル様、そして、素晴らしいオルロフの力で全てやり直しますから」
(ミネア様…!!)
「だから私を信じてください。ターン様。必ず貴方の望む未来にしますわ。私達貴族が未来永劫明るい未来を歩む為に」
ウフフっとミネアは笑う。その笑顔はまさに可憐と言えた。
だが、その笑顔の裏では黒く悍ましい思想が蠢いていた。
(あの女、やってくれるじゃない。本当にマリアネルの当主としても女公爵としても似合わない女ね。いつも私を逆撫でさせる事ばかりやって。私が欲しい物を全て手に入れて…。でも、それももう終わる。今度は私があの女から全てを奪ってやるのよ。カイリ・マリアネルを私の足元にひれ伏させてやるの)
ミネアの脳裏に凛々しい顔付きで彼女を見つめるカイリが過ぎる。だが、すぐにミネアの妄想が侵食し泣きながら土下座をし彼女に許しを得るカイリの姿に切り替わる。
ミネアは思わず笑い上げそうになったが、すぐに持っていた扇子で口元で隠し笑いを抑えた。
もう少しでその妄想が現実になると思うと笑いが止まらなかった。
(あの女が選んだマグア人もギフト持ちなんて。神様はとんでもない間違いをしてくれたわ。でも、私達オルロフが修正する。そして、あの女が入れ込んでるそのマグア人を目の前で殺してあげなきゃ)
「あの、早速話を進めましょう!!!ミネア様!!早くカイリお嬢様の目を覚まさせないと」
「……落ち着きなさってターン様。この賭けは私達の勝利であることはもう確定しているのですから」
「ミネア殿の言う通りだ。ここで焦れば裏目に出る。ここはじっくりと練ろう」
ミネアは黒いレースの手袋を外し、左手の甲のマージルと同じ紋章の刺青を見せ教団に忠誠を誓う。
「全ては神々とオルロフの為」
「我ら貴族の未来とマリアネル家の栄光の為に」
(ぼ、僕とカイリお嬢様様の未来の為に…!!!)
それぞれの漆黒で歪んだ誓いが立てられる。
マージルとミネアの左手に刻まれた紋章は血塗られた歴史を物語せている。
ゆっくりと幸せな道を踏み入れようとしていたレインとカイリに魔の手が忍び寄っていたのだった。
カイリとレインの婚約披露会が開かれる前日。
会場となる邸宅の広間もパーティー仕様に様変わりし、後は本番を迎えるだけとなっていた。
準備は会場だけではなく、主役である2人も着々と進んでいた。
カイリはリンや他のメイド達と共にドレスとアクセサリーを選んだ。初めてレインと出会った時に着ていたドレスと同じ色である薄紫のドレスを選んだ。
アガパンサスと同じ色がいいというカイリの要望もあってのことだった。
首に付けるネックレスは当然だが月夜の宝石にし、それ以外のアクセサリーも薄紫色のドレスに似合う色の宝石を選んだ。
リンとメイド達は「当日のメイクはお任せください!!」ととても意気込んでいた。カイリはその様子を見て微笑んだ。
「ありがとう、皆。期待しているわ」
カイリの笑みを見てリン達の士気が更に高まる。
きっと、結婚式の時も彼女達は最高な働きを見せてくれるだろうと期待を寄せる。
ドレッサーに置かれていた白い箱を手に取る。その箱をそっと開けて中身を見る。
その箱に入っているのは、レインと婚約を交わしたという証となるアガパンサスをモチーフにしたブローチ。薄紫色の花弁の部分はタンザナイトでできたとても素晴らしいブローチだった。
タンザナイトは、ある土地で発見され、空がまるで夕暮れのように紫や青色に変化することからその名付けられた。多色性の宝石で、見る角度や環境によって紫や青色に見える空の様な石。
カイリがいつも身に付けている月夜の宝石とはまた違う魅力を持つ宝石だった。
ブローチを作りに行った際に、職人からこの鉱石を勧められ一目惚れした石。全部イメージ通りの出来だった。
(後はレインに渡すだけ。どうしよう。披露会の時に渡すべき?それとも今……)
仕事や披露会の準備もあってあまり顔を合わせられない時間が多かった。
少し落ち着いた今なら渡せるかもと思ったが、翌日に渡すべきなのかカイリは迷っていた。
それ以前に早くレインに会いたいという気持ちの方が勝ってきていた。ブローチが入った白い箱をパチンと閉めた。
(よし。今日渡そう。それに時間があるから少し街に出てプチデートに洒落込ませれば…)
「どうしました?お嬢様?」
「あ、リン。少し考え事をね。突然で申し訳ないのだけれど、これから少し出かけてくるわ。準備を手伝ってもらっていいかしら?」
「分かりました。まさか、今日渡すつもりですか?」
「ええ。このブローチを早く彼に渡したくって」
「絶対喜びますよ!!とても素敵なブローチですもの!!」
他のメイド達の手を借りながら出かける準備を進める。メイドの1人はレインの部屋に向かう。
その頃のレインは、披露会で着るスーツ選びをすでに終えていていた。後は女公爵の夫になる人間として明日を迎えられるかベッドの上で不安に駆られていた。
「こえ〜。緊張する」
「大丈夫だって。レインなら乗り越えられるよ」
「いや、絶対無理。絶対あの人に迷惑かけまくる。どうしよう、ダンス失敗して大恥かいたら。マリアネルの名前に泥を塗るような真似だけはなんとか避けたい…」
(か、可哀想に。いっぱいいっぱいなんやな…)
緊張と不安に駆られるレインに従者見習いのケヴィンは必死に寄り添う。レイン自身も彼の気持ちに応えたいが全てが初めてのことばかりで全く余裕がない状態だった。
使用人の頃とは違う忙しさにレインは疲労困憊していた。
それと、あまり婚約者であるカイリと会話できていないストレスも追い打ちをかけていた。
まだお互いのことを知らないまま進む結婚にまだ不安しか感じていない。
カイリの必死のプロポーズのお陰で少し不安は和らいでいたが、いろんなことを覚える為の忙しさと少しずつ結婚へと近づいてゆく日々が不安をまた増幅させていたのだ。
本当にただの平民である自分が高貴な人の夫になっていいのかという気持ちも日に日に増していった。
(ネガティブモードになってる。何か…何かレインの癒しになるもの…)
ケヴィンがそう考えていると、扉の方からノック音が聞こえてきた。ケヴィンは「はい」と応え、扉を開けに向かう。
扉を開けると目の前にカイリから伝達を受けたメイドが立っていた。
「レインさんはいる?」
「いるけど、レイン…じゃなかった、レイン様は今ベッドで横になってる。何か用事?」
「ええ。カイリ様からの伝言。これから街に一緒にお出かけしたいから支度して欲しいだそうよ。お嬢様はもう支度を始めたからレインさんも早く支度するように伝えて」
「(デートや…!!)わかった。伝言ありがとう。すぐに行くからって伝えといて」
ケヴィンはメイドと少しだけ話を終えると、急いでベッドで寝転がるレインを起こし出かける準備を進めさせる。
「出かけるってどこに?急過ぎて頭がよく回らん」
「一応街に行こうとは言ってたかな。もうお嬢様は支度してるみたいだから俺達も急がなきゃ」
(あのお嬢様の考えてることがよく分からん)
レインは急いで出掛ける用の黒寄りの紺色のスーツに袖を通す。急いで準備を進めていたせいか、ブローチ等の装飾を身に付けるのを忘れてしまっていた。
スーツと同じ色の帽子を被り、姿見に映る自分を見て変なところがないか確認する。
(急に貴族になりそうな奴がこんな高価なスーツ着るとなんか変)
貴族達が着るような高価な洋服に慣れないレインは姿見の中の自分に違和感を覚えていた。けれど、この部屋を与えられてから毎日のように着るようになってから少しずつだが慣れ始めていたが、まだどこか納得ができずにいた。
(今はそんな事を考えるのはやめよう。早くカイリお嬢様の元に向かわなきゃ)
急いで支度を終えて、カイリが待つロビーにケヴィンと共に向かう。
ロビーに行くと、そこには身なりを整えたカイリがすでに待っていた。レインは慌てて階段を降り、彼女の元へ急ぐ。
ケヴィンも付いて行こうとしたが、リンに腕を掴まれ阻止されてしまったが「見ればわかるでしょ!!」と小声で耳打ちされた事で全てを察した。
「すみませんお嬢様。急だったので」
「いえ、私が悪かったの。突然で申し訳なかったわ。それじゃいきましょうか?」
「それはいいですけど…これからどこに行くんですか?」
「少し街で買い物と言った方がいいかしら。2人だけでいろいろ回りたいの」
(ん…?ふたりきり…?)
「それじゃリン、エドワード、留守をお願いね」
「いってらっしゃいませ」
侍女も従者も付けず2人きりのお出かけ。疲労困憊で頭の中がふわふわしていたレインでもその意味がすぐに分かった。
「で、デート」
「やっと分かったわね。さあ、早く行きましょう?私、好きな人と行きたい場所があるの」
カイリはレイン腕に自分の腕を組ませる。側から見ると恋人か新婚夫婦そのものだった。
2人は用意した馬車に乗り街へと向かって行った。
黄昏時の街は夕陽に染まってオレンジ色に染まっている。人々は買い物をしたり、呼び込んだりとどこか騒がしい。
馬車を止め、ゆっくり馬車から降りる。
マリアネル邸に来てから街に赴くことはあまりなかったレインは少し新鮮味を感じていた。
初めてこの地に足を踏み入れた時のラクサとはまた違う光景をゆっくりを見渡す。
レインは海の方に目を向ける。海面は夕暮れ時のオレンジ色の太陽の反射でキラキラしていた。
(また朝の時とは違って綺麗なんだな)
「ねぇ、レイン。実はね、今日は夜市が行われる日で、どうしても貴方と巡りたかったの。ごめんなさい。私の我儘で無理矢理連れてきてしまって」
「いえ、丁度気分転換もしたかったところでしたから。貴女からのプロポーズを受けてからデートらしい事なんてしたことなかったし。で、これからどうします?」
カイリはうーんと少し考えるがすぐに応えが浮かぶ。とりあえず今は恋人の様に腕を組みながら街を巡りたいと応えた。
「後は、何か2人で買い物とかしたいわ。何か食べ歩いたりしてもいいかも」
「……」
「どうしたの?」
「いや、あの、本当にデートらしいなって思っただけで……へへ(変な声出た)」
レインのその言葉にカイリは少し笑った。彼女のその笑みにレインは少しだけ緊張が和らいだ。それと同時に何処か安心できる様な感覚を覚えた。
従者や侍女もいない2人だけのデート。あまり貴族らしくないデートに2人の心は満たされてゆく。
夜市の屋台で甘い綿飴を買ったり、ダンスホールで見る様なモノとまた違う陽気で元気が出る様なダンスを鑑賞したり、日が暮れて夜へと変わるとライトが点灯されて夕暮れの時と違う街の様子に胸を躍らせていた。
夜市を楽しんでいると、レインはある店に目を向ける。とても気になるその店に入ってみたいが恥ずかしさが邪魔してカイリに言えなかった。
「レイン?どうしたの?」
「ふぇ?あ、いや、あの、ショーウィンドウのぬいぐるみがふわふわが気持ち良さそうだななんて…」
カイリはレインが隠している事をすぐに見透かした。
「もしかしてここに入りたい?」
「(え"。なんで分かったの?!)いや、そういうわけじゃ…ハハ…」
(やだ。なんて可愛い人なの)
レインが気になっていたその店とは、ぬいぐるみやドールが売られている小洒落た店だった。
ショーウィンドウの中のあるぬいぐるみとクッションがとても気になったレインだが自分自身への偏見が邪魔して素直になれずにいた。
そんなレインに可愛げを感じ胸が張り裂けそうだったがなんとか抑えて落ち着いて話を続けた。
「実は私も気になる物があるの。一緒に見てくれないかしら?」
「え、でも」
「ね?いいでしょう?」
「わ、分かりました(やったって…これ喜んでいいのか?)」
カイリはレインの為に嘘を付き店の中に入る口実を作ってあげた。レインはカイリに言われるがまま店の中に入ることができたのだった。
店内はいろんな動物のぬいぐるみが並んでいて、中にいた客と子連れの家族やカップルが数組いた。
なんとなく場違いさを感じていたが、とりあえずショーウィンドウに飾られていたある動物のクッションとぬいぐるみを探そうと頭を切り替えた。
カイリと店内を歩きながら目的の物を探す。
どれも魅力的なぬいぐるみばかりで目移りしながら必死に探す。
(あっ)
レインはようやく立ち止まる。
探し求めていた物はしろくまのぬいぐるみのコーナーの近くに置かれていた。レインがショーウィンドウを見て一目惚れしたモノ。それはペタペタと2本足で歩くあの動物だった。
(あった。ペンギンクッション。あの部屋に置くには不釣り合い過ぎるけど)
レインが手に取ったそれは、可愛くデフォルメ化されたフンボルトペンギンのフェイスクッションだった。ショーウィンドウにしろくまのフェイスクッションと一緒に展示されていたのを見て気になった商品だった。
さっきまでの恥ずかしさを忘れて目を輝かせながらクッションを眺めるレインにカイリは胸を抑える。
(本当に可愛過ぎる。本当に私の夫になっていい人なの?!私にはもったいない気がしてきた…!!!)
悶絶するカイリにレインはそっと彼女に話しかけた。
「あの…」
「え?!ど、どうしたの?」
「その、さっきはありがとうございました。どうしてもコレが気になってしまって。変ですよね、男なのにこんな可愛いモノが好きなんて」
申し訳なさそうに話すレインにカイリは諭す。
「何を言っているの?別に気にすることなんてないわ。男性が可愛いモノが好きでも別にいいじゃないの。それに文句言う奴なんかほっておけばいいわ。私は、素直な貴方のままでいて欲しい。だから否定なんかしないで」
「(お嬢様…)ありがとうございます」
「それじゃあそのクッションを買ったらそろそろ邸に戻りましょうか?」
「…はい」
カイリの言葉に救われたレインはずっと感じていた不安が和らぎ始めたのを感じた。
マグアにいた頃は、男らしくない、奴隷の血がそんなモノ持つな等と言われながら生きてきた。そんな自分を救ってくれる様な光がレインの心を満たしてゆく。
それはカイリも同じだった。悪意に満ちた日々に光を与えてくれたのが彼だったからだ。
互いの灰色の世界にようやく光が満たされ色づき始めたのだった。
夜市を楽しみ尽くした2人は邸宅に戻ってきたが、すぐには中に入らず、馬車を降りそのまま庭園の方へ足を進めた。
「レイン。貴方に渡したい物があるの」
「渡したい物?」
噴水の前で立ち止まり、カイリはレインと向かい合うと持っていた小さなバックから白い箱を取り出しそっとレインに渡した。
「これは…」
「開けてみて?」
カイリに促されながら白い箱を開ける。中にはタンザナイトでできたアガパンサスがモチーフのブローチ。婚約指輪の代わりとなるブローチが入っていた。
「あの、これ、このブローチ」
「本当はプロポーズの時に渡したかったけど、受けてくれるか分からなかったから」
(アガパンサス…母さんのおまじないの花の名前…)
箱の中で月夜に照らされてキラキラ光るタンザナイトにレインは目を奪われる。あまり宝石に興味がなかったはずの彼を魅了させた。
「こんな高価なブローチ俺なんかが付けたら…!!」
「貴方だから似合うのよ」
カイリは箱の中のブローチを手に取り、レインの紺色のスーツのジャケットに付けてあげた。
まるで、ようやく望んでいた持ち主に会えたと喜んでいる様にタンザナイトの輝きが増した気がした。
とても美しいが、レインにはとても重く感じるブローチ。物理的なではなく、ブローチに込められたカイリの想いと、これから自分が歩むであろう女公爵の夫としての役割、マリアネルの名を守る指名等、いろんな思考が込められた重みだった。
「明日の披露会でも付けてほしいの。婚約の証でもあるから」
「ありがとうございます。カイリお嬢様。でも…」
「大丈夫。貴方ならやり遂げてくれる。信じてるわ」
「……分かりました」
「私はそろそろ屋敷に戻るけど」
「俺はもう少しここに居ます。あの…今日はありがとうございました。とても楽しかった」
初めてのデートは疲れ切っていた2人の心を救ってくれた。お互いの事を少しだけ知ることができた有意義なお出かけとなった。
そして、極め付けのアガパンサスのブローチ。レインの胸で輝くブローチにカイリは満たされていた。
「こちらこそありがとう。急な誘いだったのは許してね。そうだ、あと…」
「へ?」
カイリはずっと願っていた事をようやくレインにぶつけた。
「もう貴女は私の婚約者なのだからお嬢様ではなく"カイリ"と呼んでくれないかしら?」
「え、呼び捨てにしろってことですか?」
「敬語もダメ。夫婦になるんだから。それじゃお先に」
「え、ちょっとぉ…!!」
困惑するレインを置いてカイリは逃げる様に屋敷に戻って行った。庭園に一人残ったレインは呆然としながら噴水に腰掛ける。
そっとジャケットに着けられたブローチを外し、落とさない様に両手で包みながらそれを見つめる。
「本当に俺なんかでいいのかよ。お嬢様。記憶の異能しか持ってない俺なんかで本当に…」
思い出の花をモチーフにしたブローチを見てその思いが掻き立てられる。
自分を優しく諭して寄り添ってくれた彼女を悲しませたくない思いがため息に変わる。けれど、もう逃げるなんて許されなかった。
今まで使用人として彼女の側にいた立場だったのに、突然呼び捨てで尚且つためで話せと言われてもすぐには無理だとレインは頭を抱えた。
(なんかまだ部屋に戻りたくない。もう少し外の空気を吸ってからにしよう)
また深くため息をついた時だった。
『同じギフト所有者っていう理由ならいいんじゃないの?いつまで身分にこだわる気?』
「ん?んんん?」
『貴方の手の中の物を見て!!!ギフト所有者ならきこえてるでしょ!!!』
(まさか)
明るい少女の声はあのアガパンサスのブローチから聞こえてくる。あの、月夜の宝石と同じ様に声が聞こえてきたのだ。
ギフト所有者にしか聞こえない聖なる声。未来を見据える光の声。
『初めましてレイン・バスラ。あら!言い忘れてたわ!!アタシの名前はリーナ。今日からあんたはアタシの所有者になるの!!』
(ひぇ、まさかの陽キャ…)
青にも紫にもなる宝石は月夜に照らされて更に輝きを増す。その見た目とは反して声は太陽の様な光を持っていたのだった。
遂に迎えた披露会の日。空はあの夜市の時の様に夕暮れと化し空をオレンジ色に染めていた。
けれど、その空にゆっくりと分厚い雨雲が立ち込め始める。遠くの方で鈍く雷の音が響く。
とても不吉な空色と雷音。幸せに満ちるはずのその場所に不穏が忍び寄る。
「あの女の悲痛な顔が早く見たいわね」
ミネアはマリアネル邸に向かう馬車の中で不敵に笑いながらカイリの転落を妄想していた。
馬車にはミネアとターン、そして、マージルが乗っていた。誰も祝福の念がない腹黒さが渦巻く。
「マージル様。本当にあの奴隷からカイリお嬢様を取り戻してくれるんですよね?」
「そう言ってるではないか。それにミネア様のお力があればすぐに取り戻せる。今は焦るのではない」
「そうですが…あの男が平気でお嬢様に触っていると思うと…!!!」
(この男、相当あの女に入れ込んでいるようね。まぁその方がいろいろ操りやすいけど。全く想われていないのに一方的に好意を寄せて自爆する人を見るの好きだから)
変に必死になっているターンに扇子で口元を隠しながら思わず失笑してしまう。
決して実ることのない一方的な恋。盲目で周りが見えないまま突っ走るターンにミネアは少しちょっかいを出してやろうと考えた。
「ターン令息のその想いは必ず成就しますわ。だってこんなにもカイリお嬢様の事を想っているのに実らないなんてあんまりです」
「ミネア様…」
ミネアはそっとターンの両手に触れる。
「大丈夫。神様は我々をちゃんと見ています。悪しき者を裁いた者には必ず褒美を下さる。カイリお嬢様も今はあのマグア人に惑わされているだけ。マグア人からギフトを取り戻せばカイリお嬢様の洗脳も解けて令息の元に…」
「そ、そうですよね!!ありがとうございます!!ミネア様」
「その為には貴方の助けが必要です。期待していますよ?」
「はい!!ミネア様の為にも、マージル様の為にも、そして、僕とカイリお嬢様の明るい未来の為にも頑張ります!!」
「フフ…その意気よ。ターン令息。私とマージル様の期待にそぐわない働きをしたらどうなるか分かっていますね」
さっきまでの優しげな口調からとても冷たく低い声で脅しに近い言葉をターンに投げかける。
期待にそぐわない働き。それは、レインの始末の失敗のことだろう。
もし、それが現実となったら幾ら御曹司の彼もタダでは済まないだろう。ターンは恐怖でごくりと唾を飲んだ。
「わ、分かってます。絶対に…絶対に失敗なんかしません…必ずあの奴隷の血を捕らえてギフトを神々に捧げます…」
「お願いしますよ?」
「ミネア様。あの小娘のギフトはどうしますか?」
「カイリお嬢様の《治癒》のギフトですよね?あれはもう少し様子を見てから……そう、命を奪うことなくギフトを彼女から取り戻せる方法を見つけるまで泳がせておくつもりです。ターン令息を側に置けば下手な真似もできないでしょう。全ては今日の計画成功次第ですが」
ミネアはチラリとターンを方を睨みつける。ターンはビクッと驚き少しだけ肩を上下させた。
(ミネア様とマージル様は僕に期待してる。僕が失敗したら全てが台無しになる。失敗は許されない…!!!)
不安がるターンにミネアはそっと彼の心に入り込む。ゆっくりと彼を自分の操り人形に仕立て上げようとする。
「貴方ならできるわ。こんなに大切な人を想う人は貴方が初めて。その気持ち応えようとしないなんてカイリお嬢様も酷い人だわ」
(ミネア様にこんなに思われているなんて、絶対にこの計画を成功させて、あの奴隷を亡き者にして、僕はカイリお嬢様と結婚するんだ…!!!)
ミネアとターンの会話を見ていたマージルは彼女の思想を見抜いていて、変に意気込むターンがとても哀れに見えてしまった。
(哀れな男だ。この計画を成功させてもカイリはお前に振り向きはせんのに。だが、あの小娘をただの肩書きだけの人形にすることはできる。ギフトも我々オルロフに返還される…)
3人の思惑が渦巻く馬車はゆっくりとマリアネル邸に近づきつつある。
何も知らないカイリとレインを引き裂こうとする魔の手はほんの束の間の幸せさえも奪おうとしている。
彼等が思い描く未来は、少しでも反抗する者がいたら儚く崩れ去る脆い栄光。歪んだ思想を信じ、弱き心を蝕み信仰に走らせ破滅させる。
オルロフの信者ではないターンは少しだけ違和感を抱いていたが、もう後戻りできないところまで来ていた。
逃げたら自分自身の命はない。ミネアとマージルに全てを握られている。逃げることは愛するカイリを諦めることにも繋がっている。
(大丈夫。父さんの力とオルロフの力を使えば全部揉み消せる。今までだってそうしてきたじゃないか。何をそんなに怯えているんだ。しっかりしないと…!!!)
「あら、そろそろ着きますわね。それでは楽しみましょう。馬鹿みたいに幸せに浸る愚か者が裁かれる姿を」
異端者達の血に染まった計画が始まろうとしている。夫婦になると宣言するはずの幸せの場に不釣り合いの黒い思惑はジワリと侵食してゆくのだった。
『今日があんたとあの綺麗な女の人の婚約披露会なのね!そんで私はあんたの胸元でキラキラ光って存在を放てばいいってこと!!!』
昨夜、カイリから送られたタンザナイトでできたアガパンサスのブローチの声の主であるリーナは、所有者となったレインに質問攻めしていた。
「いやーあんまり目立ち過ぎなくても…」
『何言ってるの?!貴方あの女の人の旦那様になるんでしょ!!確か公爵だったわよね!!それだったらもっと目立たないと!!』
「そうかもしれないけど…」
貴族出身ではないレインは、ギフト所有者があるが故にあまり目立つ事は好きではなかった。変に目立ってしまえば、侮蔑を向けられ自分が損するということが多かったのもあった。
それがマグアを追放された理由だったのもあり、あまり目立つ無事に披露会を終えられればいいと考えていた。
けれど、カイラからアガパンサスをモチーフにしたブローチが思った以上に存在感を発揮していて、女公爵の婚約者であるという主張が強いなと感じていた。
(まだあの人の旦那になる心構えが中途半端過ぎるのにみんなに発表していいのかな?なんかもう不安しかない…)
2階の階段近くからロビーの方を見下ろすと、ぞくぞくと招待された客人が集まってきている。イメージトレーニングした数よりも多くさらに緊張感が増してしまった。
いつもは給仕する側だった自分が、カイリの一目惚れと月夜の宝石に運命の番に選ばれたことでされる側になるとはラクサにやって来るまで想像もしていなかった。
(まだここに来て一年も経ってないのに、まさか使用人から貴族の夫になるかもなんて…)
『運命なんだから受け入れなさいよ』
「え。まさか、お前心が読めるの?」
『宝石は未来を見えるだけじゃなくて、人の心も読めるのよ。私の場合は後者の方が強いわね。あんまり未来を見るのが得意じゃないの』
(カイリお嬢様のあの宝石はその逆ってことか。宝石もいろいろなんだな)
「あ!!レイン様!!ここにいた!!早く支度をなさってください!!そろそろ始まってしまいますよ!!」
(うっ)
ケヴィンに任されたのだろう、メイドの一人がようやくレインを見つけたとあった様子で彼の元に駆け寄ってきた。レインは少しばつが悪そうな顔をする。
『ほらほら!観念して披露会の準備を進めなさい!そして、アタシに似合う洋服にするのよ!!』
(分かってるよ。リーナ)
レインは迎えに来たメイドに引っ張られる様に自室に戻っていった。
その時、リーナはある気配を背後から感じ取った。
(ん…?何?)
この邸宅では感じたことがない悪意に満ちた感情にリーナは警戒する。披露会に招待された客人でも使用人でもない者の思想が嫌でもリーナの中に入ってくる。
(なんて気持ちが悪い野望なの。しかも狙いはレイン…?!)
リーナは慌ててレインに声をかけようとするが、ある約束を思い出しすぐに口をつぐんだ。
その約束とは、2人の時以外は話しかけない。
ギフトを持つ者にしか聞こえない宝石の声。
普通の人には変に思われてしまうからと周りに人目がある時は何があっても話しかけないという約束。
(この悪意は普通じゃない。何か企んでる…!!何なの?!何が目的なの?!!)
どんどん流れ込んでくる部外者の企みを暴こうと集中しようとするが、突然プツリと思想が途切れてしまった。感じていた気配も同時に消えていた。
(そんな!!もう少しで何か掴めそうだったのに。でも、これだけは分かる。レインとあのお嬢様に危険が迫っている事!!早くレインに伝えたいのに…伝えなきゃなのに…!!!)
リーナの焦りとは裏腹に披露会開幕まで刻一刻と近づいてゆく。マリアネル家の長女で主、そして、女公爵であるカイリと平民のレインの婚約が披露され祝福される筈のパーティー。
2人の婚約を喜ばない人間もいるのは仕方がないだろう。だが、そこに歪な思想と信仰があるとしたら話は別だ。
窓硝子からピカっと雷の激しい光が溢れる。そのすぐ後に近くに落ちたであろう怒号が邸宅に響き渡った。
レインの顔を知ったミネアは扇子越しにため息を吐く。あんな奴隷の肌を持つ男をマリアネルの一員に入れようとするカイリに怒りを覚えていた。
「あんなのを由緒正しいマリアネルの血に入れてはいけませんわ」
「重々承知しておりますとも。その為に数人私達ターン令息の部下を送ったのですから」
「失敗は許されませんからね。必ずあの卑しい者から《記憶》のギフトを神に返すのです。ああ、そうそう、カイリ・マリアネルは最終的には私が殺しますから邪魔だけはしないでくださいね?マージル殿?え?ターン令息はどうするって?利用できなきゃ毒を持って殺せばいいですわ。そんな奴どうでもいいわ!それよりも、あの女とマグア人は徹底的に痛め付けて、惨めな思いを抱いたまま殺してあげなきゃ気が済みませんから。アハハハハ…!!!!」
ミネアの血に染まる計画を込めた暗黒に染まる笑みて目論みがレイン達に近付くまでそう時間がかからなかった。
美しく輝くシャンデリアと、素敵な音楽と、美味しそうな料理と、披露会に招待された紳士淑女達の煌びやかなドレスとスーツ。全てが完璧とも言える広間の様子を入り口の扉を少し開けた間から見たレインは緊張で完全に固まってしまっていた。首を横に振りながらそっと扉を閉じた。
「や、やっぱ、無理…部屋にこもる…!!!」
「大丈夫だから!!安心しろって!!」
「あんな素敵過ぎる空間に俺な様な平民を投げ込んだら絶対浮くし、お嬢様に迷惑かけるに決まってる!!絶対無理…!!」
「気持ちは分からんでもないけど、この披露会はお嬢様とレインの婚約発表の為に開かれたパーティーなんだから!!頑張ろ!!!」
「頑張ろってそんな…」
自分が主役となったパーティーの雰囲気に慣れていないレインは今すぐにでも自室にこもってしまいたかったがそんな事体調がすぐれない限り許されないだろう。
ケヴィンに励まされるも今の不安MAXのレインには通用しなかった。更に不安を煽るだけだった。
「け、仮病を…」
「レ〜イ〜ン〜?」
「分かってる、分かってますとも。それだけは駄目なのは分かってるけどそう考えちゃうって…!!」
「大丈夫だって!!貴族の皆さんに"俺はカイリお嬢様と婚約します!!"って宣言するだけなんだから」
「そんな簡単じゃねーっての。それに、そんなメンタル俺にはない…」
「俺もすぐ側でスタンバってるし、エドワードさんやリンさんもいるから大丈夫だって」
(そうかもしれんけど……はぁ〜いつまでも弱音ばっか言ってらんないよなぁ〜)
レインはカイリのプロポーズを受けてから何度も葛藤していた。やはり断った方がいいのか、このままマリアネルの一員となって安定した生活を得るのかとぐるぐるとずっと披露会当日直前までずっと思い悩んでいた。
今夜、大勢の貴族達の前でカイリとの婚約を発表する。彼らに告げたら今度こそここから逃げられないだろうと暗示していた。
(本当に俺なんかいいのかな?不安しかない)
不安に染まりきっているレインの心に夢の中の優しい言葉と、カイリの真剣な告白の言葉が響き渡る。
《私の可愛いレイン。私のアガパンサス。誰よりも幸せになってね。神様から授かった贈り物はきっと貴方を導いてくれるからね。愛しているわ。私の愛しい可愛い子》
《私は一生をかけて貴方を幸せにする。絶対に悲しませたりしない。どんな脅威からも守り切ってみせる。だから改めて言わせてレイン。私の愛しい人。どうか私と結婚してくれませんか?》
この二人の声を裏切る程精神は強くない。寧ろ、本当にこのまま幸せになっていいのか疑問に思ってしまっている自分が嫌で仕方がなかった。
神々から授かった異能を持っている事以外なんの取り柄のない自分にそんな資格はない。使用人の仕事を続けてきたのも、ギフトとという異能おかげ。
もし、自分からギフトを取り上げられたらただの無能なだけだと。
ターンも言っていたマグア人への偏見の象徴となっている血と肌の色もカイリの足枷になると何度も考えた。
(本当に俺なんかでいいのかな?あの人が悲しむ未来しか見えないよ)
『勝手に悲劇的未来を描かないで!!!貴方は選ばれし者なんだから胸を張りなさいよ!!これ以上うじうじしてるならアタシ騒ぐから!!!』
(えっ)
弱っていたレインの心を見ていた胸元で輝くリーナが喝を入れてきた。そして、これ以上自分を否定する様な事を言ったら、ある日のナイトの様に罵倒の嵐を再現させるぞと思わせる様な脅迫も兼ねて。
(……リーナ、約束)
『アンタがいつまでもうじうじしてるから悪いんでしょ!!!しっかりしなさい!!!貴方はこの立派な名家の一員になっていい人なの!!文句言う奴らなんてほっとけばいい!!そーゆー奴らわねいつかバチ当たるから!!』
「…ありがとな。リーナ」
「ん?どうしたレイン?」
「(あ、やば)ううん、なんでもないなんでもない」
思わず口に出てしまったリーナへの感謝の言葉。ケヴィンに少し聞こえてしまったかと思ったが、よく聞こえていないようでレインは安堵した。
リーナの明るく力強い言葉にほんの少しだけ気持ちが和らいだのは確かだった。
「そろそろカイリお嬢様が来る。頑張って」
「なんとかやりきってみせるよ…はぁ〜…こえ〜…」
心臓の鼓動がいつもより激しいの緊張のせいだろう。ソワソワするレインは深呼吸して気持ちを落ち着かせようとした時だった。
アガパンサスの薄紫色と同じ色のドレスに身を包んだカイリが身支度を終えてレインの元にやってきた。
髪も宝石でできた髪飾りでしっかり整えられ、ドレスの色によく似合う白い真珠の耳飾りを付け、首にはいつも身に付けているネックレスである月夜の宝石が満月の白色で誇らしげに輝いていた。
初めてカフェで会った時も薄紫色のドレスだったが、それとは全く違うとても上品で気品を感じられる。
リン達が自信を持って施したメイクもカイリの美しさと魅力を更に高めさせていた。
レインは、カイリのあまりの美しさに思わず息を呑んだ。
「ごめんなさい。少し遅くなってしまったわ」
「ひぇ、あ、いえ、全然、待ってないです…」
「それならよかったけど……あの…付けてくれたかしら?ブローチ…」
「あの、はい、ここに」
緊張で辿々しい言葉でジャケットの胸元に飾られたブローチにそっと触れる。
レインの胸元で夕暮れの様に光り輝くブローチを見て安堵した様子を見せたカイリは、前日の束の間のデートの時の様に彼の腕に自分の腕を組ませた。
「なんか緊張で倒れそうです」
「大丈夫よ。私がいるから。それより…昨日言った筈なんだけれど。敬語はやめてって」
「そんな急には無理ですって…!!だって、ほら、まだ披露会もまだ終わってないのに…」
「じゃあ、この披露会が終わったら敬語禁止ね。後、私の事はカイリって呼びなさい。いいわね」
「ど…努力します」
「フフ。約束よ。レイン」
遂に広間の扉が開かれる。
談笑を楽しんでいたり食事をしていた客人達は開かれた扉の方に視線を向ける。ようやく主役がお目にかかれるとなると手を止めてこちらに集中する。
好奇の視線は2人に降り注がれた。
2人はゆっくりと客人に挨拶をしながら広間を練り歩いてゆく。カイリを慕い信頼しあう貴族からは「カイリ様。御婚約おめでとうございます」「末永くお幸せに」等、祝福の言葉を頂いていた。
だが、やはり貴族と平民の結婚を望まないマージル側の貴族はヒソヒソと陰口を叩いていた。
そのうちの一人であるミネアは初めて見るレインを一眼で軽蔑の対象にしていた。
(本当…卑しい国の肌ね。あんな人種の血をマリアネルにも貴族の高貴な血にも混じり合わせたくないわ。ギフトはねお前の様な卑しい血が持っていい者ではないのよ?さっさと始末しないと)
レインの隣にいるカイリにも軽蔑の念を向ける。
いつも以上に凛とした美しさを見せる彼女への憎悪は更に増幅する。
(早くボロボロにしてあげなきゃ。私に泣きながら命乞いをする姿を早く見たいのよ。あの自信に満ちたお前の顔を早くぐちゃぐちゃにしてやりたい)
じっと楽しそうに客人に話しているカイリとレインに嫌悪と殺意を込めた目線を向ける。その視線はマージルとターンも同じだった。
すると、いても立っていられなくなったターンがズカズカとカイリ達の元に近づく。
「カイリお嬢様!!!」
「……あら、ターン令息。来ていらしたの?欠席するものかと思いましたけど」
「そ、それはマージル様も出席するからで…それよりいいんですか?!このままこんな奴と…」
「それ以上、私の夫になる人の事を悪く言うなら退場していただくしか…」
カイリとターンの周りだけ空気が凍りつく。レインはあの帽子の出来事を思い出した事と、何故この男にも披露会の招待状を送ったのか非常に困惑した。
(はあ?!!なんでよりにもよって元見合い相手に招待状送っちゃったの?!!何?見せつけ?見せつけるため?!)
『"カイリちゃん"すごい。さすがナイトの持ち主ね』
『当たり前だ。この愚か者を徹底的に打ちのめすって決めてたからな。まだ足りぬがな』
(リーナのカイリちゃん発言もすげーけど、ターン令息に対しての態度もいろいろやべーなオイ)
緊張で出てくる汗以外に恐怖からくる冷や汗がレインに伝う。
ずっと自分に対して好意を向けていた相手に、敢えて別の人間と幸せになろうとしている姿を見せつけようとするという鬼畜の所業を見事にやってのけるカイリに改めて恐怖を覚えた。
不穏な空気を醸し出している2人にレインが何か声をかけようとした時だった。
可憐な笑みを浮かべながらミネアが近づいてきた。は
「ターン令息。いけませんわ。今日はお二人をお祝いにやってきたと言うのに」
「ミネア様、でも…!!」
「カイリ様と旦那様になるお方がお困りになっているわ。落ち着きましょう?そうでしょう?カイリお嬢様?」
「っ…!!」
ターンは納得のいかない様子でその場を去っていった。
「…ありがとうございます。助かりましたわ。ミネア様」
「いえいえ。だって折角の祝いの場ですもの。あまり空気を悪くしたくないわ。あ、そうそう。お二人共、御婚約おめでとうございます。貴女方の幸せを願っていますわ」
ミネアの助け舟により、この場を凌ぐことができたことに周りの客人は関心の念を送る。
「流石ミネア様」「聖女とはまさに彼女のこと」「主役の2人よりも輝いている」等とヒソヒソとつぶやいている。
「あ、あのありがとうございます。ミネア様」
「ウフフ。当然のことをしたまでよ。貴方がカイリお嬢様の婚約者のレイン様ね?確か初めて会うわよね?私はミネア・アンダース。よろしく」
「あ、はい、あの、よろしくお願いします…」
「お見苦しいところをお見せさて申し訳ないです。本当に助かりましたわミネア様」
「気になさらないで。貴女達の幸せを願ってのことよ。それよりもそろそろ宣言の時間が迫ってるでなくて?」
エドワードがそっとカイリに近づき、ボソッとそろそろ宣言の時間がミネアの言う通り近づいていると知らせてきた。
「ありがとうございます。御礼はまた…」
「そんなのいいわ。新婚旅行の足しになさい」
ニコっとカイリとレインに笑みを送る。
レインはミネアの印象がとても優しくカイリとはまた違う美しさを持つ人だと思っていたが、宝石達だけは違った。
『偽善者。血の臭いと無実の者達の悲鳴が聞こえる』
『レイン。あんな女に騙されないで。もう会っちゃダメだから!!』
予想外の宝石達の反応に驚き思わずカイリに視線を向ける。だが、今は披露会の真っ最中。それ以上は聞かなかった。
2人は挨拶をそこそこに広間の中央に立ち婚約した事を証明する為の宣言をし始めた。
カイリのその高らかで幸せに満ちた美しい声が広間に響き渡る。
「今夜はこのマリアネル邸にお越しくださってとても感謝しております。招待状に記してありましたが、この度、マリアネル家当主で女公爵である私はある方と婚約することになりました」
グッとレインの腕を組む力が込められる。
「その方は私達と同じ貴族の身分ではございません。元はこのマリアネル邸で使用人として働いていました。ですが、彼の誠実さと優しさに触れた事、そして、マリアネル家の家宝であり至宝の月夜の宝石に選ばれたことによって私は彼を人生の伴侶にしたいと願う様になりました」
(なんか恥ずい…)
レインは顔が恥ずかしさでどんどん熱くなるのを感じる。また、穴があったら入りたいと願ってしまった。
「私の婚約者、レイン・バスラは私には勿体無いぐらい素敵な人です。彼はマグア人があるが故に差別をされ今まで苦しい道を歩んできました。私は、そんな彼を私の命をかけて幸せにしたいと願っております。まだ私達は未熟なことが多いですが、もし、お力を貸していただけるなら幸いです」
(…カイリお嬢様は完璧じゃねーか。未熟なのは俺だけだよ)
カイリが宣言を終えると、沢山の拍手が会場を埋め尽くす。
立派すぎるカイリの宣言にレインは心が折れそうだった。やはり自分に女公爵の夫が務まらないという考えが頭をよぎって苦しかった。
「レイン。何か一言だけでも」
カイリにレインを何か宣言して欲しいと促す。レインは頭が混乱してあんな立派な宣言の後に何を言ったらいいのか彼女に小さく問い詰めるが答えが返ってくる前に客人の目線がレインに突き刺さった。
(言えって何言えばいいんだよ!!!なんで俺も何か言う感じになってるの?!)
『アンタが思ったことを言えばいいのよ』
『カイリに恥をかかせるな』
(こ、コイツら…あーもー!!!儘よ!!!)
レインはギュッと目を瞑り、すぐに目を開き決意を固める。もうやぶれかぶれ状態のままレインは口を開く。
「あ、あの、初めまして、カイリ・マリアネル様と婚約させていただいたレイン・バスラと申します。
えっと、いろいろあってマリアネル邸で働く様になって、まさか見初められるなんて思わなくってとても驚いております」
震え声で宣言するレインに遠くの方で見守っていたケヴィンはレインに密かに応援のエールを送るが、余裕のない今のレインにはあまり伝わらなかった。
だが、カイリが隣にいたことでほんの少しだけ緊張が和らいだ。
「確かに自分は平民でラクサの方とは違う土地で生まれて人種も違います。ですが、そんな自分を見初めてくれたカイリお嬢様にいつか恩を返したい。この婚約もその一つですが、何か彼女が喜ぶ様なことができればと考えています、あの、はい…」
レインの宣言はカイリのそれよりも短いモノだったが、彼女と固い信頼関係がある貴族の者達を納得させるには十分だった。再び彼らに拍手が送られた。
やはり、マージル一派は拍手なんかせず、寧ろ2人の婚約宣言を蔑んでいた。
(なんて酷い宣言だ。僕だったらもっと素敵でカイリ様への愛を…)
「ターン殿」
マージルは妄想に浸るターンの肩を叩く。それに気が付いたターンはビクッとしながらマージルの方に顔を向けた。
「ターン殿。そろそろ準備を。あのマグア人を捕らえ次第"儀式"を始めるのでな」
「わ、わかってます。後は任せてください。あの奴隷の男は必ず僕が捕えるので」
「しくじるなよ。ターン殿」
「その心配には及びませんわ。マージル様。私達オルロフの信者達もありますから」
「おお。そうだったな。では、また我がマージル邸の地下で」
そう言ってマージルは披露会が行われている会場を去って行った。
カイリ達の見えないところで歪で悪意に満ちた計画が進んでゆく。
宣言を終えて少し落ち着いた頃、招待客と共に会食を楽しむ2人。
ようやく大きな仕事を終えたレインは疲労困憊であまり食欲がなかった。牛のステーキを数切れと付け合わせの野菜を少し食べただけで溜まってしまった。
「あの…カイリお嬢様。ちょっと外に行ってきてもいいですか?少し新鮮な空気を吸いたくて…」
「それは構いませんが、大丈夫ですか?私も一緒に…」
「あ、いや、俺1人で大丈夫ですから。それに主役が一気に2人もいなくなるわけにもいかないでしょ?」
「でも…」
「ケヴィン。お前がついて行きなさい」
エドワードはレインの見習い従者であるケヴィンを呼び彼に付き添ってやれと指示する。
「はい!わかりました!」
「いや、俺一人で平気なんで」
「…何があるか分からん。何かあったらすぐに呼んでほしい。頼んだぞケヴィン」
「あ、はい」
エドワードは何か胸騒ぎを覚えていた。あのマージルとミネアを目撃してから何処か違和感を感じていたのだ。それは、カイリも同じだった。
会場から主役がいなくなってもいいと思えるくらい嫌な予感を感じていた。エドワード同様、ミネア・アンダースから感じ取ったモノだった。
初めての自分が主役のパーティーで息が詰まりそうだったレインは邸宅を出て、アガパンサスが咲くガゼボの方に足を進める。
ケヴィンはあまり遠くに行かない方がいいと忠告するがすぐに戻ると聞かなかった。
「カイリお嬢様心配するよ?」
「敷地内だし大丈夫だって。それにもう少し外の空気を吸いたいし、アガパンサスも見たいし」
ゆっくりと足を進めてゆくと、目の前に薄紫色のアガパンサスが目に飛び込んできた。相変わらずの美しさに疲れたレインの心は少しずつ癒されてゆく。
「でもさ、レイン頑張ってたよ。緊張してたけどちゃんと婚約宣言できてたし」
「全然良くない。ぐっだぐだ過ぎて恥ずかしすぎる。台本って大事だなって思ったよ」
カイリと自分の宣言を空にいる母親は聞いてくれていただろうかとレインは思う。
彼女が夢の中で告げる幸せのおまじないが叶えられるかはこれからの未来にかかっている。カイリが言っていた通り、一生をかけて自分を幸せにするとプロポーズの時と同じ真剣な眼差しで言ってくれたことがレインとってはとても嬉しかった。
(嘘なんかじゃなかった。あの人は本当に…)
レインはガゼボのベンチに座り、ジャケットに付いていたブローチを外す。手の中のアガパンサスのブローチが月の光で輝きを増す。
(このブローチに相応しい人間になれるかまだ分からないけど…もし、本当にこのままあの人の夫になっていいなら…)
「っ!!!レイン!!!ぐぁ!!」
ケヴィンは何かに気付き急いでレインを呼ぶが、突如背後から頭部を殴打され衝撃でその場に倒れてしまう。レインは突然のことに唖然とし動けずにいると彼も背後から頭部を殴られてしまった。その時の衝撃で手に持っていたブローチがガゼボから転がり落ち、アガパンサスが植えられている花壇の方に消えていった。
「うぐぅ…!!った〜…!!!」
「奴隷の分際で僕からカイリお嬢様を奪おうとするからだ」
痛みで意識を手放しかけてる中で聞こえてきたターンの声。レイン達を殴り付けたのはきっと彼の召使い。もしくは、彼の考えに共感に加担する何者か。
「でも、これでミネア様にもマージル様にも認められるし、カイリお嬢様も手に入る……あは、あはは…」
「笑っている暇はありませんよ?ターン令息。早くマージル殿の邸宅に急がねば」
(この声って…)
赤くぼやけ始める視界の中で、さっき自分達を助けてくれた筈の聖女の声がした方を見る。そこに居たのはあのミネア・アンダースだった。
「ごめんなさいね。レインさん?これも全て神様の為なの。悪く思わないでね?」
(う…そだ…こんな…)
必死に繋ぎ止めていた意識が物理と途切れる。
意識を手放したレインを歪な思考を持つ異端者達は捕らえてゆく。
「こ、これで僕とカイリお嬢様の結婚を…」
「何を言っているの?まだよ。この儀式を終えるまでその話はしないで頂戴。幾ら、ブリク伯爵の御令息でもこれ以上しつこい様ならこちらも手を考えますけど…?」
「ひっ、ご、ごめ、ごめんなさい…気持ちが先走ってしまって…」
「安心なさって。ちゃんと約束は守りますから。それより貴方達、早くこの奴隷の血を馬車に運びなさい。人が来るかもしれない」
「はっ」
「そこに倒れているもう1人はどうします?」
「その頭の怪我じゃ何も覚えてないわ。放っておきなさい。さぁ、行くわよ」
気を失ったレインをミネアの召使いの人が肩に抱えて連れ去ってゆく。
その場で頭に血を流しながら倒れこむケヴィンは誰かを呼ぼうとするが痛みと途切れかかっている意識が邪魔して口を開くことができない。
(どうしよう…!!どうしようレインが…レインが…)
手を伸ばそうとするもミネア達はどんどんケヴィンの視界から遠ざかってゆく。
さっきまで美しい光を放っていた月は厚い雲に覆われる。まるで、幸せな時間は血塗られた時間に変えられてしまったと暗示しているようだった。
アガパンサスの花壇に落ちたブローチであるリーナは一部始終全てを見ていた。その光は月明かりがなくても輝きを失っていない。
それは諦めという選択肢が最初からないと光を放ち続けていた。
「レイン…?」
カイリはなかなか広間に戻ってこないレインとケヴィンが心配で仕方がなかった。それは執事のエドワードとリンも一緒だった。
(レインどうして戻ってこないの?まさか、そんなに私との結婚が嫌なの?)
不安で押し潰されそうなカイリにリンと信頼している夫人達が寄り添う。
カイリは少しでも気持ちを和らげるようと月夜の宝石を握る。
すると、メイドの1人が宝石に手を伸ばそうとした。
「……やはりターン様の言う通り。そんな物があるからあんな奴隷に夢中になるのよお嬢様」
(え…)
ネックレスのチェーンを握られ引っ張られる。カイリは必死に抵抗しメイドを押し除けようとする。
何をしているんだ!!っと、周りの使用人と男性の客人達がカイリからメイドを引き剥がす。その時、ブチっとチェーンが切れてしまい月夜の宝石が大理石の床にカシャンと音を立てながら落ちた。
「そんな石が選んだ男を婚約者にするなんて!!!!ターン・ブリクという素晴らしい人がいるのにどうして!!!どうして!!!!」
「暴れるんじゃない!!!早く別部屋に連れて行け!!!出られないように鍵をしろ!!!」
「カイリ・マリアネル!!!全部貴女のせいよ!!あの奴隷の血も貴女のせいで死ぬのよ!!!」
「待って、それどう言うこと…?どうしてレインが死ぬのよ…?!!」
使用人達に捕らえられたターンの部下であるメイドは、髪を振り乱しながら狂気に満ちた真実を話し始める。周りの客人はザワザワと驚きつつも彼女の話に耳を傾ける。
「マージル様とミネア様は誤ってギフトを手に入れたあの男をこの世から粛清してくれる。そして、ギフトは神に返させる。本来持つべき者の手に渡るの!!!高貴な貴族の血にね!!!!あははは!!!」
(まさか…オルロフ…)
カイリは床に落ちていた月夜の宝石を拾い上げ、右手に握ったまま踵を返し急いで広間を出る。背後から「お嬢様!!!」と悲鳴に近いリンの呼び止める声をわざと聞かないふりをして外に出る。
「ナイト、ナイト、レインはどこ?私のレインはどこにいるの…?!!」
『落ち着けカイリ。まだ死んではいないが急いだ方がいい。アガパンサスが植えられている花壇とガゼボの方に行け。リーナが我らを呼んでいる』
(リーナって確か私がレインに渡したブローチの宝石の名前…あの子ならもしかしたら…)
ドレスをたくし上げ、コツコツとヒールの音を立てながら庭園を走る。
整っていた髪は少し崩れ、さっきまであった余裕がもうなかった。
レインへのプロポーズと婚約の宣言で彼を守ると誓ったばかりなのに、守り切ることができなかった自分に怒りと自責の念にかられた。
息を切らしながらガゼボがある方向に急ぐ。
すると、少し遠くの方で弱々しい声がナイトの耳に入る。
『カイリ。ガゼボで誰か倒れている。血の匂いもする』
「血の匂い…?そんなレイン…!!!」
胸騒ぎを覚えながらカイリは走る。
ガゼボに着き、最初に目に飛び込んできたのは頭から血を流しながら倒れていたケヴィンだった。
「ケヴィン?!!」
「あ…おじょ…さま…」
「酷い傷…!!待ってて!!今治すから!!」
カイリはケヴィンに駆け寄り急いでギフトを発動させる。カイリの右手から放たれる優しい光がケヴィンの頭部に当てられる。
彼女のギフトである《治癒》はどんな怪我も病気を治す万能の異能。
初めてその力を目の当たりにするケヴィンはボヤける意識の中でもその力の偉大さを感じとり驚愕した。
「す、すげぇ…頭が引いてく…」
「もう少しで全て治りますから……あの…」
ギフトを発動しながら今にも泣きそうなカイリの表情にケヴィンは途切れかけていた意識を無理矢理叩き起こす。
すぐにその理由が愛するレインの為だ悟ったからだ。ケヴィンは先ほどの惨劇を興奮混じりに語り始める。
「あ!俺のことなんかより、は、早く、レインを助けてください…!!俺達をこうしたはアイツら…」
「アイツら…?誰なの?」
「あの…ターンって奴と、今日披露会に来てたあの美人さんで…殴ってきたのは2人の部下っぽい奴らだったんですけど…」
「……もしかして、この異能のことは言ってた?」
「途切れ途切れに覚えてるだけでアレなんですけど確か言ってました。マージルだかなんだとか…」
「ありがとう。もう分かったわ。後は私に任せて」
「そ、そうだ、あと、お嬢様がレインに渡したあのブローチなんですけど、さっきガゼボから転がり落ちて、下の紫色の花の花壇にあるかもです」
リーナの気配を感じていたナイトはケヴィンの話を聞き、アガパンサスの花壇に考えを集中させる。
宝石は、ギフト所有者で自らの主人の痕跡と同胞の痕跡を見ることができる。そのお陰か、リーナを探すのにあまり苦労をかけることはなさそうだ。
ケヴィン頭を治しきると同時にエドワード達がカイリ達を追ってきた。
「お嬢様。ここにいましたか」
「エドワード、ケヴィンをお願い。怪我は私が治したから。早く彼を休ませてあげて」
「一体何があったのです」
「マージル。あと、盲点だったのはミネア・アンダースよ。アイツらが全てしたこと」
「まさかオルロフ…?!いけませんお嬢様。これ以上は他の者に任せるべきです。奴らはギフト所有者を…!!」
「承知の上でやるのよ。レインは私が取り戻す。彼を幸せにするなら私はこの命を彼に捧げるわ」
カイリはケヴィンをエドワードに任せ、リーナが落ちているであろうアガパンサスの花壇に向かう。
しゃがみ込み、ブローチである彼女を探す。
『そこにいる』
カイリはナイトが教えてくれた方に目を向けるとそこにはキラキラと輝くアガパンサスも摸した紫色の宝石のブローチが落ちていた。そっとブローチを拾い、付いてしまった土を払う。
『っ!!!カイリ…お嬢様…よ、ね…?どうしよう!レインが変な奴らに捕まっちゃって!!!でも、アタシ何もできなくって…!!!どうしよう!!レインが殺されちゃうヨォ…!!!』
「安心してリーナ。もう目星はついてる。後は貴女の力をいる。レインを救い出すには貴女が必要なの」
『私の…?でも、アタシ、まだ未熟者だから未来は完璧に見えない…』
「でも、主人のレインの痕跡は追えるでしょ?それだけで十分よ。大丈夫。後は私とナイトに任せてくれる?」
どんなに彼女を止めようとしても通用なんかしない。例えそれがどんなに親しい者でも。
歪な思想と信仰、そして、差別に染められた者に大事な人を奪われた人間は制御なんかできやしない。
死が隣り合わせの危険な状況でも彼女は突き進む。
全ては愛するレインに誓った約束の為。
披露会で見せた美しい女公爵のドレスは土で薄汚れ、髪も少し乱れている。けれど、愛する人を奪われた今はそんな美しさは何の価値はない。
(マージル・マリアネル、ターン・ブリク。そして、あの偽善者ミネア・アンダース。お前達の生と死は私が握っているのよ。お前達が信仰する神は助けてくれないわよ)
カイリはブローチを強く握り、全ての元凶である3人に悪態つく。
今までもオルロフに信仰していた信者が生死を彷徨っていた際に、彼らが敬う神に助けを乞うが結局死に陥った。
それでも奴らは目に見えない神に貢ぎ信仰し続ける。
(なんて愚かな人々だろう)
その目には諦めという光はない。希望の光で満ちた目はここにはいないレインに捧げられたのであった。
「待っててレイン。すぐに行くわ」
『私の可愛いレイン。私のアガパンサス。誰よりも幸せになってね。神様から授かった贈り物はきっと貴方を導いてくれるからね。愛しているわ。私の愛しい可愛い子』
レインはまた母親の夢を見る。優しい声でいつものおまじないを話す母親にレインは今の自分を状況を話そうとする。
だが、口は動くが肝心の声が出ない。ようやく幸せになれそうなのにレインはその事を愛する母親に伝えられずもがく。
すると、次の瞬間、場面は暗転し頰に激しい痛みが走る。優しい夢はぶつりと途切れると同時にレインは現実に引き戻される。
「っ…」
「やっと起きたかレイン・バスラ」
(……?)
目の前の天井の明かりが眩しく思うように目が開けられない。
さっき、レインの頬を殴ったであろう男の声は再度レインに近付き彼が着ていた白いワイシャツの胸ぐらを掴み揺さぶる。
「早く起きろ!奴隷の血を引いてるくせに逆らうな!!」
まだ意識がはっきりしていないレインを男は容赦なく揺さぶり続ける。
レインはぼーっとする頭のままローブのような白装束を着た男の顔を見る。とても見慣れた顔だった。
(ターン令息…?なんで…?)
「貴様、カイリお嬢様から貰ったブローチはどうした?アレは僕のなんだぞ!!」
(え?ブローチ?無いって…)
ブーツとスラックスとワイシャツという薄着にされていたことからブローチが付いていた筈のジャケットが奪われていると悟るが、ターンが求めているブローチは襲撃に遭う直前に外していたのを思い出し安堵する。
きっと、殴られた弾みで手から離れてしまった。きっとあの庭園のどこかにあるとは推測したがターンにそれを伝えるはずがない。
何も答えないレインに痺れを切らし、ターンはもう一度彼を殴りかかろうとした時だった。
「いい加減にせんか!!そんなのでも神への捧げ物なのだぞ!!」
「そうよ。ターン様。この儀式が終わったら全て取り戻せますわ。今は儀式に集中しましょ?」
「マージル様、ミネア様…!!ですが…!!」
納得できないターンにミネアは近づき耳元でそっと囁く。
「カイリお嬢様はね、落ち着いた人が好きらしいの。いつも冷静で落ち着いた人がね。今の貴方みたいに怒りに任せるような男は彼女は嫌うわよ?」
ターンはビクッと肩を少し上下させ、マージル達に諭されながらレインを魔法陣が描かれた床の上に再度仰向けに寝かせる。
「偉いわターン様。私、聞き分けのいい人は好きよ。もちろんカイリお嬢様も同じよ」
まるで子供を手懐けているようなミネアの振る舞いにレインは気持ち悪さを感じていた。全く心にも思っていない言葉ばかりで道具としか見ていない。
何か歪な感情。殺意から来るその感情はレインにも当然向けられた。
少しずつ意識が覚醒してきたレインは身構える。
「ごめんなさいね。レイン・バスラ。突然貴方を襲うような真似をして本当に申し訳なかったわ。どうしても貴方とカイリお嬢様を結婚させるわけにはいかないの」
「アンタ一体なんなんだよ…!!俺とケヴィンにあんなことして…!!!」
「あの従者はおまけで殴っただけ。目的は貴方が持つギフトを神に返す為に襲ってここまで連れてきたの。まさか一日も眠ってた時は流石にやり過ぎたとは思ったけど」
(ギフトを神に返す?まさかコイツら、カイリお嬢様が言ってた異端者?!!)
焦るレインにミネアはどかっと跨る。女1人分の重さが彼の腹部を圧迫し、短く低い声で唸り声を上げる。ミネアはそれに構うことなく、両手に持っていた物をレインに見せつけた。
ミネアが持っていた物。それは木製の杭とハンマー。
その二つを一目見ただけでレインは彼女が何をしようとしているのかすぐに分かり焦りが込み上げてくる。
「お、おい!!どけ!!!」
「ダメよ?貴方の中にあるギフトを神に返さなきゃいけないのだから。始祖である使者の末裔でもなければ、貴族でもなんでもない、奴隷の地で生まれた卑しい血を引く貴方が持つべき物ではないわ」
「っ…」
「カイリお嬢様はマリアネルの血にそんな血を混じらせるわけにもいきません。由緒正しいマリアネルの血に混じっていいのは同じ高貴な貴族の血のみ」
「…そんなのカイリは望まない。あの人ならきっと全力で否定するに決まってる」
カイリを羨望と嫉妬の目で見ていたミネアにはレインのその言葉の意味を痛い程分かっていた。
自分が欲しかったモノを全て手に入れ、貴族や平民に愛されて大切にされている彼女が羨ましくて仕方がなかった。
それに対して、ミネアはアンダース侯爵の長女として生まれるも、先に生まれた兄のことしか愛さない両親は彼女には全く関心がなく、ただの繁栄のためのドールとしか見ていなかった。
アンダースの元で働く使用人達からも冷たくあしらわれ、友人や愛し合っていた筈の人間には裏切られ続けた彼女に手を差し伸べたのがオルロフだった。
心が荒んだミネアの心にはオルロフから与えられた優しさと愛情は、彼女を入信させるのにはあまりにも効果が覿面だった。
オルロフに信仰し、アンダース花よ莫大な金を教団に貢ぎ続け、信者を増やし勢力を強めた。
幾ら侯爵家でも金は無限ではない。初めは怒りをぶつけていた両親と兄とその嫁だが、邸宅や実権をミネアや信者に取られてゆくとみるみるうちに弱り命乞いを始める。
「ミネア!!!今までのことは許してくれ!!嫁のお腹には子供が…!!!」
必死に命乞いをする兄にミネアは冷徹な笑みを浮かべながら指を刺し信者達に命じる。
「あの中にギフトを持った子供がいる。この嫁は元は平民。卑しい血は途絶えさせなきゃ。殺しなさい。ギフトを神に返すのです」
悲鳴を上げる元家族達にミネアは笑い続けた。血と信仰で生きてきた彼女はオルロフには欠かせない存在となっていたのだ。
ミネアは明るい道を歩み続けるカイリの大切な人がギフトを待った者だと知った時は、ようやく自分の番が回ってきたのだと喜んでいた。
もう少しでミネアが望んだカイリの堕落が始まると思うと笑いが止まらなかった。
ミネアは控えていた信者にレインの腕を頭の上に上げ、そのまま固定させろと命令した。
「マージル様。焼印の準備を」
「分かった」
「おい!!離せ!!!」
「この痛みもすぐに忘れられるわ。今だけよ」
ミネアは持っていた木の杭を合わせられたレインの両手の平にそっと鋭く尖った部分を当てられる。
「逃げられないように…っね!!!!」
ハンマーが力強く杭に振り下ろされる。杭は難なくレインの手の平に鮮血を流しながら風穴を開けてゆく。あまりにも激しく耐え難い痛みにレインは叫び声上げる。
ミネアは返り血を浴びても構うことなく、ハンマーを振り下ろし続ける。レインの両手から夥しい量の血が床を赤く染め上げる。
何度か杭を打ちつけてゆくと、ようやく杭が床に到達する。レインの両手の平が床に固定されたのを確認したのち、ミネアは立ち上がりレインから離れる。
レインはなんとか意識を保っていたがいつまた手放してしまってもおかしくなかった。
「私達オルロフが神にギフトを返す儀式には必要な紋章。ギフトを持つ証としてこれを胸に焼き付けるの。そして…」
ミネアは剣を信者から受け取る。美しく研がれたその剣は鏡のように見えた。その刃にどれだけの無実の人間が殺されたのかわからない。
ミネアとマージルの手の甲に彫られた紋章の焼印に向かってその剣は突き刺される。死によってギフトが神に返されるとオルロフでは信じられているのだ。
レインもその犠牲の一人になろうとしている。だが、逃げたくても杭が打たれていて逃げられない。
仮に逃げたとしても大勢の信者から逃げ切る気がしなかった。
「安心してその身を神に捧げろ。姪は必ずターン殿が幸せにしてくれる」
「カイリお嬢様も本当はそれを望んでいる」
「大丈夫よ。貴方の死は無駄にしない。新たに生まれる高貴な血を継ぐ者に与えられるのだから」
周りにある大勢の信者達は期待の目で儀式の様子を見守る。
マージルは信者から紋章が彫られている先端が真っ赤に熱せられた金具をわたされる。
ゆっくりとレインに近づき金具を彼の胸元に狙いを定める。
ターンは早く焼印を押して欲しいとニヤつきながら囃し立てる。ミネアもその瞬間を今か今かと待ち望んでいた。
レインは自分の死がもう目前にあるのだと受け入れるしかなかった。やり残したことはたくさんある。
けれど、せめてこれだけは成し遂げておけばよかった悔やんだ。
(ちゃんと名前で呼んであげればよかった。お嬢様じゃなくて…)
レインは目を瞑りさを受け入れようとした。
「さよなら、カイリ」
熱せられた金具がレインの胸部に落とされようとした時だった。ゴトンと重い金具が鈍い音を立てながら床に落ちた。
マージルの胸部から細い刃が背中から貫通し、白いローブに赤いシミを作らせていった。
「え?…かい…リ…?!」
「さようなら。叔父様。いえ、穀潰しの宗教野郎が」
「え…?!」
レインはそっと目を開けて、絶命したマージルが床に倒れてゆくのを目撃する。背後にいたのは、いつものドレスではなく黒色のズボンと茶色いブーツ、そして白シャツと灰色のジャケットを着たカイリがそこにいた。
髪は一つにまとめられ、手にはマージルの血に染まったレイピアを持っている。
「カイリお嬢様!!!」
ターンの恐怖と歓喜の混ざった声がカイリを呼ぶ。だが、カイリは落ちていた金具を持ち上げ、熱せられた先端をターンの顔に押し当てる。
ギャーっと煙を上げながら悲鳴を上げその場に倒れこむ。それを見ていた信者達も悲鳴を上げながら逃げ惑い始めた。辺りは騒然としている。
「カイリ…!!!カイリ・マリアネル…!!!アナタ…!!!!」
「私は愛する者の為ならどんな罪も背負ってやるわ。貴女には無理でしょうけどっ!!!」
カイリはレイピアをミネアに振り下ろす。ミネアの腕に鮮血が溢れ出る。
痛がり動けなくなったミネアの隙をつき、カイリはレインの元は駆け寄る。
ようやく愛する人と再会できた喜びにカイリは目に涙を浮かべていた。
「あのぅ…本当にカイリ…だよな…?」
「レイン!!あぁ…良かった…!!間に合って良かった!!ごめんなさい、私貴方を守れなかった…!!約束したのに…!!」
「えっと…助けに来てくれただけで十分っす。それより腕のこれ抜いてくれない?これじゃ動けない」
杭が打たれたレインの両手を見てカイリは憤怒した。あの3人には死だけでは許されない。もっと苦しんでもらわなければと。
怒りに燃えるカイリをレインは必死に宥めるがその優しさが更に怒りを増幅させた。
「と、とりあえず、一旦俺の手の杭抜いて?お願い」
「そうよね。それからいろいろ暴れてやりましょう?もう少ししたら整備隊の方々も来るからすぐに収まるわ。痛いけど我慢してね。後で治してあげるから」
「あ、はい(ぜってーこの人を怒らせてはダメだ…気をつけよう…)」
カイリは祭壇近くに置いてあった工具で杭を抜いてゆく。再び激しい痛みが全身に走るがレインは必死に耐えた。
そんな二人の背後を顔を焼かれた男が許すはずがなかった。
「どうしてそいつなんだ!!!!僕の方が貴女のことを愛しているのにぃぃーー!!!!」
発狂したターンがカイリに近付き、彼女の髪を乱暴に掴み引っ張り上げる。短い悲鳴を上げたカイリは無理矢理立ち上がらされターンの方に引き寄せられた。
「カイリ!!!」
「やめて!!離しなさい!!」
「ずっと僕は貴女を見てきた!!ずっと貴女と夫婦になるのを夢見てたのに…いい加減素直になって僕を夫にするって言ってください!!!こんな奴隷ではなく僕を…」
喚き散らすターンをカイリは蔑むまで見る。ターンが一番望まない目だった。
ターンは、レインに向けられていた愛でる目で自分を見て欲しかった。だが、その願いはもう叶うことはない。
そんな目で見るなと叫び、ターンはカイリの頬を思いっきり叩いた。バランスを崩したカイリはその場に倒れ込み赤くなった頰を抑える。
「てめ…っ!!」
レインは咄嗟に起き上がり、鮮血に染まり風穴が開いたその手でターンを殴りつけた。その一発はあまりにも強烈だったのだろう。一回殴られただけだのびてしまった。
のびきったターンの髪を鷲掴みレインは彼の耳元で警告する。
「これ以上、俺の女房に付きまとうようなら貴様を殺す。俺の事は何言っても構わない。だが、カイリ・マリアネルを陥れる様ならこっちも容赦しねーからな」
「ひぃ…!!!」
もうそこには迷いに染まっていたレイン・バスラはいなかった。そこに居たのは、女公爵の夫に相応しい強くも凛々しい青年が両手を鮮血に染めながら立っていたのだった。