一、同じ字を書くが、違う

 A市内にある、とある花屋のドアを開ける者がいた。その日は日曜日で、店は定休日だ。ちゃんとドアノブには『本日定休日』と書かれた木の板も掛けられている。だがその者は、一瞬ためらっただけでドアを開ける事をやめはしなかった。
 午前中はずっと雨が降り続け、正午を過ぎた今でもアスファルトの地面には空を写す小さな水たまりがいくつもあった。雲は徐々に消えて、青い空が顔を見せ始めている。せっかくの日曜日に降った雨のせいで外出をやめようか迷っていた人々は、次第に可能性を見出し、バスや車を活用して遠くに出かけるかも知れない。季節としては、八月に入ったばかりだ。家族でキャンプをしたり、海へ行ったり何だってできるだろう。
 浮かれムードの世間とは対照的に、花屋のドアを開けた人物は恐ろしく静かだった。そっと開いたドアを、そっと閉じる。その動きにはどこか、尾行している何者かを警戒しているようにも感じられた。男で、まだ若い学生のようだが、やろうと思えば犯罪だってできるし、それによって警察か、或いは犯罪に関係する危険なグループから跡をつけられる事も、可能性としてはある。ただでさえ最近は、物騒な事件が多いのだ。
 少年の入っていった花屋は、コンクリートで造られた二階建ての建物だった。形は殆ど真四角と言っていい。二階部分の一部が、たんこぶを思わせるようにして突き出ている。そのたんこぶの形も四角いし、他の部分に関しても、屋根が斜めになっていたりというような飾り気はない。随分機能性を重視したように思われる。この家の設計をした人物は、外見を重視した周りの家屋を嫌っているのかもしれない。四角く豆腐を思わせる、機能性重視の建築物にこそ価値を見出しているのかもしれない。
 そんな建物の正面入り口が、閉まる。ドアの上部に取り付けてあったベルが小さな音を立てたが、とても小さい音だ。真下に立って、耳をすまさなければまず聞こえないだろう。それほどに小さい。
 中に入った少年は、ドアの方を向いていた体を店内に向けた。明かりは点いていないからほんのわずかに薄暗いが、歩いて回る分には支障はない。窓から入る日の光が、十分なほどに中を照らしてくれている。
 店内の中央部に、誰かが立っている。少年とは別の人物だ。
「おはよう。やっぱり涼太だった。手を振ったの見えた?」
 そう言ったのは少年ではない。彼がここへ入った時既にいた人物の声だ。嬉しそうな感情が読み取れる声色で、女性の声だった。彼女は涼太と呼んだ少年のもとまで歩み寄っていく。灰色の床が靴底に叩かれて軽快な音を立てた。
「うん、外から見えた」
 涼太は言った。そして頷いた。
「雨降ってたのに、自転車で来たの?」
「ちがうよ。雨が止んでから家を出た」
「雨が止んだの、ついさっきだよね」
「急いで来たんだ。約束の時間に間に合わせるために」
「真面目だね」
「そうかもしれない。でも、こころさんだって同じだよ」
 涼太は、目の前に立っている女性をこころと呼んだ。こころは嬉しそうに笑い、そして手招きをして店の奥へと歩いていった。少し遅れて、涼太がその後ろを歩いた。
 この二人の関係は、少し変わっている。少なくとも、街で偶然会って知り合ったという間柄ではない。
 沖縄には、宇宙航空研究開発機構、つまりJAXAの施設が一箇所、存在している。沖縄宇宙通信所という施設で、通常は空高く飛んで地球の周りを周回している人工衛星の位置を正確に特定し、コースから逸れていたり何らかの機材トラブルがあった際、必要に応じて人工衛星に指示を与えるという役割を持っている。
 そこでは、広報活動の一環として建物内に資料展示室を設けている。個人での見学は予約が要らず、料金も請求されない。団体での見学となると予約が必要という事だが、こちらも料金が発生するわけでもない。誰が、いつでも(勿論閉館までに間に合えばという事だが)気軽に見学を行えるのだ。
 そこで、涼太とこころは出会った。初めはただの偶然だった。涼太もこころも、宇宙分野に強く関心を抱く人物であり、何度も施設を訪れる熱心な人間だ。週に一回、とまではいかなくとも、月に平均三回は見学に行っていた。
 そこで、たまたま居合わせたのだ。初めて二人がすれ違ったのは、展示室の出入り口だった。涼太が中に入ろうと扉を開けると、同じように中から手を伸ばしていたこころと顔をあわせる。二人は驚いて、「すいません」などと小声で言い合いながらすれ違った。
 それからしばらくして、二度目に会ったのも出入り口だ。今度は状況が違っていて、涼太が見学者用の簡単なアンケートに記入をしている最中に、扉を開けてこころが現れた。二人して「あ……」と声を漏らした。そこから見学に入るわけだが、涼太がロケットの模型を眺めているところにこころが話しかけた。涼太にすれば予想だにしない出来事だった。
「宇宙、お好きなんですか?」
 緊張のために震える声で背後から言われて、彼は魂が抜け落ちてしまうくらいに驚いた。声こそ発しなかったが、その場で飛び上がりそうになった。すぐにこころが謝り、涼太も驚いてしまっただけですと返した。そこから、二人の交流は始まった。
 二人は今後の宇宙開発の流れを予想しあったり、近年問題になっているスペースデブリについてを話しあった。簡単なクイズを出し合ってみたりもした。そうしているうちに、お互い相手がかなりの宇宙好きである事を知った。
 共通の話題を持った、友人と呼べる域にまで達しているのかも知れない。涼太が一方的にそう思い始めていた時だ。四回目の会偶の際、こころは言った。
「今度、私の家に来ませんか」
 涼太はまず、自分の耳を疑う事をしなくてはならなかった。自分は高校二年で、対するこころは(彼女の言葉を信じるとするならだが)大学一年生なのだ。一体、どういう心境で家に招こうなどと思い至ったのだろうか。
 JAXAの資料展示室の中で出し抜けに行われた提案には、『はい』か『いいえ』をすぐに選べなかった。困った様子の涼太を見て、こころは謝った。それから、提案をした理由を説明した。
 随分しどろもどろになって話してくれたから、涼太は言葉と言葉を繋げてわかりやすく要約した。
「つまり、最近家で不思議な事が起こっているから、原因を突き止めるのを手伝ってほしいっていう話で合ってる?」 
 こころは頷いた。涼太は彼女に対して敬語は使わない。それは彼女が望んだ事だった。
「最近、といっても一ヶ月くらい前に絵画を買ったんだけど、それから不思議な事が起こり始めて……。誰もいないはずなのに、家の中で音が鳴るの。足音みたいなのが、聞こえるの。一人で調べるのは怖いから、手伝ってほしいくて……」
 お腹の辺りで組んだ指を見つめながら、言いにくそうにこころは言った。そのはずだ。こんな事、本来なら親しい友人や専門家の人にしか話せないはずだ。
 何故自分に話したのか。彼には何となく予想できていた。
 涼太は宇宙開発や天文学以外にも、興味を示しているものがある。それは所謂オカルト的なものだった。
 本来なら、科学とは相反する所に位置する事柄だが、だからこそ彼は心惹かれていた。
 日本が宇宙開発を始めてから六〇年以上になるにも関わらず、その科学力を持ってしても解明できない謎。そこに強く魅力を感じた。
 涼太はインターネットでは飽き足らず、本屋で数冊のオカルト本を買った。そしてページを捲り、正体が判明していない謎たちと邂逅した。飽きる事はなかった。手元にある本を読み尽くすと、今度は別の本屋で数冊の本を購入した。
 そこで手に取ったのは、地元である沖縄の噂話を集めたものだった。ここにある事を、ひょっとしたら自分で確かめたり検証したりできるかも知れないと思った。
 試しに幾つかの話を読んで、該当する場所へと向かった。
 本では実際の地名は伏せられていたが、話の特徴的な部分からおおよその場所は特定できた。
 そのうちの一つに、A市のとある岬にある灯台の話を見つけたのだ。本によれば、灯台を眺めていると何かしら幻が見えるようになるという事らしかった。
 理解し難い話だった。だが試してみる価値はあった。A市の灯台といえば、涼太の家から自転車でも行ける距離だったからだ。
 そしてよく晴れた日に、涼太は自転車のペダルを漕いで灯台まで向かい、崖を眺め、写真を撮った。すると本当に、その場で幻のようなものが見えた。
 ただの立ちくらみとか、そういうものではない。実際に何かが見えたのだ。
 言葉表現するのは難しいが、あえてそうするのならあれは青い紐状の何かだった。何かの生き物の触手のようでもあった。周りにいた人達には何も変化が無かったから、見えていたのは涼太一人だけという事になる。あれはただの立ちくらみなどではない。確実に視界に移った幻のはずなのだ。
 涼太はこの出来事を、こころに話していた。だからこそ、こころも思い切って家の事を話せたのかも知れない。
「涼太ってきっと、霊感あるんだよ。私に気づけなかった事にも、きっと気づける。だから、ちょっと力を貸してくれないかな」
 藁にもすがる思い、という表現が似合う様を、涼太はこれまでに目撃した事はなかった。だからこの話を信じ、彼女を手伝う決心をした。
 その一週間後に、涼太はこころの家を訪ねたのだった。連絡先は交換していて、お互いに予定を空けておいた。
「お邪魔します」
 そう言って涼太は、会計のためにあるカウンターの奥へと入った。こころの家は花屋を営んでいて、家族の住む場所は店の上、建物の二階にあった。
「ど、どうぞ。汚い所ですけど……」
 緊張のためか、こころが年下相手に敬語を使っていた。その事がますます、涼太にある事実を突き出していた。年上の女性の家に入るという事実だ。
 二人は一階の玄関から階段を上がり、二階まで来た。居間のソファに座るようにここころに言われて、涼太はその通りにソファに腰を下ろした。それを確認して、こころはどこかへと行ってしまった。「ちょっとだけ待ってて」とだけ言い残して。
 座ったソファは、高級感のあるものだった。他に座るためのものは無く、ソファの前には足の短いテーブルがある。さらに向こうには、大きな画面のテレビが置いてあった。何も映していない画面は、反射で涼太のあるがままを見せていた。「これが今のあなたの姿だよ」と無表情に言われているような気がして、思わず視線を逸らした。
 逸らした先にあるのもまた、無表情な灰色の壁だった。見渡せば、そんな灰色だけが居間の空間を覆っていた。唯一、彼の背後の壁にはひまわりを描いた絵が飾られていた。教科書ほどの大きさしかないが、しっかり額装されて飾られている。
 本来なら、無機質な空間の中その絵に温かみを覚えるはずなのだが、周囲があまりに無表情なためだろうか。絵を見ても、ちっとも気が休まる感じがない。寧ろ、ひまわりすら無表情に自分を監視しているような感覚があって、気味が悪い。
 人様の家に上がっておいて失礼だろうが、よくこんな部屋で暮らせるものだと涼太は思った。
 そこで、こころがやってきた。盆に載せた二つのグラスには、お茶が入っていた。こころは震える手でその二つをテーブルの上においた。そしてテーブルを挟んで涼太の向かい側に座った。そこには勿論、椅子もソファもない。絨毯すらない。盆を横に置いて、彼女は言った。
「今日は、晴れてくれて助かったよね」
「そうですね」
 涼太はそう返した。こころは、目に見えて緊張している様子だった。本人が隠しているつもりなのかはわからないが、少なくとも側から見ればその事実は明白だ。敬語でなくなっている分、少しは和らいでいるのかも知れない。
「まさか、知り合った人と同じ苗字だとは思っても見なかったな。何だか不思議だよね」
「うん、僕もそう思うよ」
 涼太は同調した。確かにその通りだった。
 涼太の苗字は、キンジョウという。沖縄ではありふれた苗字であり、クラスに二人か三人は見かけるくらいのものだ。本土で言う所の加藤や田中のようなものだ。沖縄県民からしてみれば、そうした苗字の方が珍しく感じる。
 そしてこころの苗字は、カネシロといった。
 この二つは、発音こそ違うものである。沖縄には『兼城』と書いてカネシロと読む場合も存在する。だが二人の苗字というのは『金城』と書く。読み方は二人して違う。同じ字を書くが、違うのだ。
 この事実は、四回目に会って、連絡先を交換する時に発見された。この時初めて二人とも名を名乗り、二人ともが同じ反応を示した。涼太が一瞬動きを止めた後、目を丸くして「へー」と声を漏らし、こころも殆ど同じタイミングで同様のリアクションをとった。こころの方は、何故だか嬉しそうだった。きっと、苗字の一致というのが家へ招く決定的な原動力になったに違いない。
 そうして実際に、涼太はこころの家に、『金城家』に訪問している。
「それでね、早速本題に移りたいんだけど」
 こころが突然、立ちあがった。合わせるように涼太も立ち上がり、後ろを振り返った。
「もしかして、話にあった絵画ってこれの事?」
 そこには、先ほど視界に入ったあのひまわりの絵があった。自分には何の罪もないのだと言いたげに、壁に掛かったまま身動き一つしていない。
 当然だ、動き出したら困る。
「そうなの。最近、これを買ったんだけど。あの、元々ある絵のコピーで、指で触っても絵の具がついたりはしないよ。でも、これがおうちにやって来てから、その、誰かの足音みたいなのが聞こえてくるようになって。ちょっと、怖いなって」
「こころさんってその、ご家族とかは……?」
「うん、私が小さい時に両親が離婚して、今はお母さんと二人で暮らしてる。お父さんの事は覚えてるけど、どこにいるのかわからない。ずっと会ってないから、正直生きているのかも……」
 そこでこころは言葉を詰まらせた。涼太としては、家族の立てる足音という可能性の有無について尋ねたかっただけなのだが、随分と複雑な家庭事情を耳にしてしまった。絵画とは別件で、少しだけ気になる事が増えてしまった。
「お父さんの事はいいんだ。例えばお母さんが、夜に喉が渇いたり、お手洗いに行ったりする時の足音なんじゃないかって思っただけなんだ」
 こころは首を振った。
「ううん、お母さんじゃない。足音は明るい時間にも聞こえる。夕方までお母さんは、下のお店で働くから」
 涼太は手を額に当てた。購入した絵画がきっかけで物音がするというのだから、てっきり時間帯は夜を想像していた。こういう現象の相場は夜と決まっているのだ。その先入観というか、想像力不足は改めなくてはならない。
 だから涼太が次にしたのは、幾つかの可能性を探り当てる事だった。
「お母さんが、家の方に忘れ物をして、仕事中だけど取りに戻ったとか」
「ないと思う。お母さん、私と違って結構しっかり者だし。今まで忘れ物なんてしたの見た事がない。時間にも正確で、私が中学校の時寝坊した事があったんだけど、その時だって」
「ああうん、わかった。それだけで十分だから。じゃあお母さんの可能性は、ないんだ」
 こころは頷いた。
「こころさんって、普段昼間になっても家にいる事が多いの?」
「授業のある時間は、ちゃんと学校に行ってる。でも授業の前と後は、基本家にいる。毎週木曜日は授業がないから、ずっと家に、篭ってます……」
 最後の方は、小さくてよく聞き取れなかった。だが知りたい事は把握した。
「なるほどな……」
 正直、涼太は霊能力者でも幽霊研究家でもないし、探偵でも警察官でもない。他人の家で起きている謎の足音について、解決するための手立ては何も持ち合わせていない。客観的に状況を見て、当事者の見えていない角度から観察してアドバイスをするのが精一杯だ。
「で、でもね、時々下のお店でお母さんの手伝いはしてるよ? お母さんもちゃんとお駄賃くれるし、けっこういっぱいくれるの。だからアルバイトって無理にする必要もないっていうか……」
 首を傾げる涼太の背後で、延々とこころは何かを話し続けていた。
二、そういえば最近、絵画を買った
 
 結局その日は、何もなかった。文字通り何もなかった。
 怪奇現象の解決に役立つ発見は何もないし、こころの部屋にも入っていない。そうする必要がないのだ。全ては、居間だけで済む話だ。だから今日の出来事で、何の変化もありはしない。ただ涼太がこころの家を訪れただけだ。
 アパートまで帰り着いた涼太はシャワーを浴び、両親不在の家の中をあちこちを漁って食料を見つけ出し、それを食べてベッドに寝転んだ。今日の晩御飯はカップ焼きそばとインスタントのコーンスープだった。美味しいし、手軽にできるので満足のいく食事だと涼太は思った。そしてスマートフォンを充電しながら、アプリの中の一つを起動した。
 それは最近の涼太の楽しみだった。
 広告にも出されない、殆ど誰も知らないような動画配信アプリだった。画面の中の人々は、自分が選んだ画像を顔の辺りに固定してゲームをしたり、アニメやドラマの感想を話す。
 顔を隠すのは各自の判断に委ねられているが、殆どの配信者が素顔を暴かれるのを嫌った。芸能人や、政治家やアニメキャラクターなど、理由もなく選ばれたような顔たちが本来の彼ら、或いは彼女らの表情を隠した。配信者本人について得られる情報は、声と本人の話した内容だけだった。
 アプリを利用して配信をしている人間は無数に存在しているが、その中の一人に涼太は注目していた。
 兼城スズ、それが名前だった。当然配信のための偽名だろう。性別は、声を聞く限りでは女性だった。
 彼女は一週間に二度、ゲームをプレイする画面を視聴者にも表示して見せ、そして何かしらを話した。初めて涼太が兼城スズの画面を開いた時、視聴者は全くのゼロだった。スズは誰も見ていない環境で、懸命におしゃべりをしていたのだ。
 サポーターと呼ばれる者は存在していた。涼太を除いて二六人が、本来なら彼女の動向を逐一把握して、配信開始の合図を今か今かと待ち侘びているはずだった。しかし現実としてあるのは、視聴者数ゼロという虚しい結果だけだった。
 居た堪れなくなり、涼太は視聴を続行して『何時までですか』とコメントも投げた。勿論スズは反応した。その後しばらく、スズははしゃいで逆に涼太に質問をして来た。それが出会いだった。
 あの灯台横の崖を見に行った翌日だったので、丁度一ヶ月くらいになるだろうか。それから火曜日と木曜日の夜は、涼太は時間を空けるようにしていた。
 今日も何ら変わりのない、ゲーム配信の画面が流されていた。スズはゲームの際には、自分の顔を画面には映さずにゲームの画面だけを映した。視聴者からは邪魔だろうと判断したのだろう。
 兼城スズのプレイするゲームはお世辞にも上手という訳ではない。だがその分、画面内で起こった事に対してのリアクションは大きい。
 いや、大きすぎるくらいだ。声を聞いて謎の悪寒を覚えたのも一度や二度ではない。涼太はたまに、視聴を断念したい想いに駆られた。しかし懸命に自分へと話しかける兼城スズの姿を見ると、どうしても応援したい気持ちが勝ってしまうのだ。
『リョウはこれ、どうした方が良い思う?』
 スズがその日していたゲームは、所謂バトルロワイヤル形式のもの。ここ最近世間で流行していて、彼女もそれに乗っかりたいようだった。
 だがゲーム内の人口は多いので、当然兼城スズのような人間が簡単には勝ち残れない。何度挑戦しても、優勝を逃している。今日もいつものように追い詰められ、恐らく画面の向こうにいるであろう涼太に話しかけて来た。というより、助けを求めた。
 コメント機能で答えてほしいという事だろう。早く回答を出さなくてはいけない。入力から反映までには、多少のタイムラグがある。
『リョウ:そこで待機して、他の人が突っ込んでいくのに乗っかった方が良い』
 涼太がコメントを残した。スズはすぐに反応した。
『成程ね、了解!』
 まるで東京のような大きな都市型のマップだった。兼城スズの操作するキャラクターはビルの影に身を潜めた。しかし背後にいたもう一人のプレイヤーに気付けず、あっさりと撃たれてゲームオーバーとなってしまう。
 スズの悔しそうな唸り声が、画面を通して涼太の耳に届いた。
『リョウ:どんまい』
 短く、素早く入力した。
『ありがとー、リョウさん』
 スズは言った。コントローラーをテーブルか何かに置いたような音がした。
『はい、と言う訳で一〇時を回りましたので、ここからは雑談タイムに移りたいと思います!』
 配信時間は既に、三時間に達しそうだった。まだ何かしら続けると言うのか。
 涼太はスズがどうしてこんな事を長時間行うのか、理由が気になった。考えた所で『好きには人それぞれある』という結論に達して終わるのだが。
 涼太の疑問を抱える視線を浴び続けながら、画面の中央に出て来たスズは話す。顔には、浴槽に浮かんでいるような黄色いアヒルが被さっていた。そこから下は上半身のみが映し出されており、彼女は白いワンピースを着ていた。背景はアプリの機能でモザイクが入っていた。
『まだリョウさんは居るんだよね……?』
『リョウ;今日はもう予定がないから、終わるまで見ている』
『やった、 スズはとっても嬉しいです!』
 そう言う所だ、と涼太は心の中で突っ込んだ。変なキャラを作っているから人が寄り付かないのだと。
 しかし考えてもみれば、そう感じるのは涼太だけなのかもしれない。スズに人が寄り付かないのも、何かの加減で世間から見落とされているだけなのかもしれない。
 抱える疑問の数を勝手に増やし続けている涼太の事など気にせずに、スズは雑談タイムなるものを進行させていた。
『そういえば最近、絵画を買ったの。とっても綺麗な、お花の絵』
 涼太は心臓の止まる思いがした。
『リョウ:それって、どんな花? チューリップとか?』
 すぐさま打ち込んだ。
『ひまわりの絵だよ。元の絵をコピーしたものだから、三五〇〇円で買えたの。でも初めて買った絵だし、しっかり額に入れて飾ってるんだ。リョウさんは絵とか興味ある?』
 涼太は適当に『ちょっとだけね』と返した。スズはそうなんだ、とか何かを喋っていたが、もはや涼太には聞こえない。
 ひまわりの絵。それは確かに、今日涼太が目にした物だ。何処でだっただろう、なんて思い出すまでもない。あの家だ、金城こころの家だ。
 急遽持ち上がった謎の繋がりのおかげで、その日の配信に涼太は集中できなかった。兼城スズと金城こころは、同一人物ではないだろうか。
三、まるで神話の雄牛のように

 翌日の朝、目を覚ましても体がだるく感じられた。スマートフォンで時間を確認した所、一一時四五分だった。今が夏休みでなければ、涼太は学校に遅刻していた。
 昨夜、スズの配信が終了したのは一一時三〇分だった。彼女は恐ろしく時間に正確な人物だ。
 その配信が終わっても、涼太は眠らずに過去の兼城スズの配信アーカイブを閲覧した。涼太が最初の発見をする前から、スズは動画配信を行なっていた。できる限り、それらに目を通した。
 目的は、彼女の言動だった。もし兼城スズと金城こころが同一人物であった場合、内容の一致する発言があると思ったのだ。
 しかし試みは無駄に終わった。夜明け近くまでゲームのデバック作業のような事をしていたのだが、発言の一致は見られなかった。
 あのひまわりの絵以外には、何一つとして一緒の部分がない。或いは、涼太の思い過ごしなのかもしれない。
  涼太は眠気覚ましのために、スマートフォンから昨夜とは違うアプリを起動した。巷でSNSと呼ばれているアプリだ。彼は好きな歌手や芸能人をフォローしては、逐一彼ら、彼女らの動向をチェックしている。
 だが、中にはそれに当てはまらないアカウントもあった。それは、インターネットから噂話を集めては概要をまとめ、見やすくして自ら公開するというアカウントだった。
 涼太の中でそれは、最近のマイブームであるオカルト話を集める自動収集装置のようなものだ。勿論、収集作業は生の人間が行なっているはずだ。涼太は目に見えないその人物に、「僕の欲を満たしてくれてありがとう」と礼を言わなくてはいけない。
 毎日一〇分、多くて三〇分は、そのアカウントのまとめたものを見る。新しい情報は、端から端まで。
 新しい情報の中に、沖縄県と記されたものがあった。当然内容の気になった涼太は、それを読んだ。
『沖縄県にある、ある灯台の話。そこ行って、近くの崖を見るとその人間は幻を見るようになると言う。よくインターネットに出回る凶行に走る人間というのは、ひょっとするとこういったものの影響を受けているのかもしれない。
 見えるようになった合図は、青い色をした紐状の何かが見えた時らしい。具体的な場所や、見えるようになると言う幻については、後日記載する』
 涼太の目は一気に覚めた。確かに一ヶ月前、彼はあの灯台に行き、崖を眺めて青い紐状の何かを目撃した。だがそれは、幻が見えるようになった合図でしかない。
 触手のように動いていたモノは、ただのお知らせにすぎない。本番はまだ、訪れてはいない。
 当然の事だが、インターネット上に掲載されている情報の全てが正しい訳はない。寧ろフェイクの方が圧倒的に多いはずだ。
 しかし涼太には、ここに載っている内容を嘘と切り捨てる事ができなかった。彼は確実に、青い触手を目撃したはずだ。あれは本人にしか感じ取れない類のものだ。そんなものを簡単に他人が感知できるとは思えない。
 きっとこの情報は、実際に誰かが体験した話がそのまま持ち込まれている。これを語った人物は、涼太と同じようにアレを目にしたのだ。
 自らの感覚に異常がなかったと伝えられた一方で、涼太には疑問に思う事があった。
 それは一つしかない。彼が幻を見る下準備を整えたと言うのなら、肝心の『本番』はいつ、見えるのだろうか。
 幻の内容が何なのか、想像がつかない。幽霊的な存在が目視できるのか、巨大な生物でも見えるのか。人によって形が変わるのか、それすら明確ではない。
 情報が足りていない。
 一つ言えるのは、崖を見た後で涼太に『本番』が来たと感じさせるものは一つとしてなかった。つまり肝心の幻は、彼の感覚が確かなら未だ姿を見せていないはずなのだ。
 灯台へと向かった後の出来事。この一ヶ月の間で、何か変わった出来事はないだろうか。涼太は思考した。
 思い当たる物事はいくつかある。金城こころとの出会いもそうだし、スズとの出会いだって灯台に行った翌日の事だ。
 そうでなければ、ひょっとすると、こころの家で問題となっている謎の物音が幻の正体なのでないか。涼太はその可能性についても考えた。
 あり得る話かもしれない。けれど確証はないし、大体どうして、涼太だけに感知できるはずの存在が最初に発見されるのがこころの家なのだろう。
 謎の足音ではないとするならば、こころかスズのどちらかになるだろう。彼女達との出会い以外で、この一ヶ月何も変わった事はない。順当に考えるのなら、あの二人のどちらか以外にないはずなのだ。
 しかし、赤の他人をいきなり幻覚の類だと決めつけるのはあまりに早計だ。涼太としては、幻が見えるまでにはいくらか時間をおいての事になるというのが一番納得できる仮説だった。
 ならば、今はまだ幻は自分の前には現れておらず、こころもスズも実在する人物と見た方が懸命だ。涼太はそう思う事にした。
 それはそれとして、一つ気になる事があった。こころとスズが同一人物なのではと言う可能性だ。
 涼太は夏休みで大量に確保された時間を使い、昨夜に引き続き兼城スズの配信アーカイブを閲覧し続けた。動画は倍速にはしない。等速にして、発言の全てを聞き逃すまいと集中した。
 作業自体は、あまり時間がかからなかった。
 何しろスズが活動を開始したのは、一ヶ月前の七月一日。丁度、涼太が灯台へ向かったあの日なのだ。彼の中の嫌な予感は、少しずつ膨れ上がっていった。
 その日の夕方、涼太はずっと部屋にこもっていた。作業を終了させた後、頭の中をクリアにさせるために、ベランダに出た。
 クーラーの効いた部屋の中からは聞こえてこなかった、蝉達の鳴き声が容赦なく耳に突き刺さった。涼太の住んでいるアパートの目の前にはたくさんの木が植えてあるため、そこに立ち寄った蝉の数は非常に多い。すっかり傾き橙色に変わる陽の光を、綺麗だと感じる余裕も与えてはくれない。
 どこまでも続いているように感じられる住宅街の屋根を彼は眺めた。視線は動かなかったが、脳内は全力で稼働させていた。今にも機械から出るモーター音に似たものが聞き取れそうなほどだ。
 情報を整理すると、兼城スズは配信の中で少しではあるが自分の身の上話をした。時には、今の生活についても話した。基本的には配信で行うゲームの話がメインなので、得られた情報というのは掌サイズのメモ帳、一ページに収まる程度の数だった。涼太はスズの話した内容で気になる箇所を全てメモしていた。
 それによると、スズは大学生であり、配信は授業の合間を縫って行なっている。母親と二人暮らしであり、彼女の母は恐ろしく時間に正確である。配信を始める条件として母が提示した条件は、決めた時間内に確実に終わる事だった。
 これだけでもこころとの共通点は存在している。他にも挙げられる部分があるにはあるのだが、多くの人間に当てはまるような事柄だったためあまり参考にはならなかった。
 オレンジに染まる町を眺めつつ情報を整理していた涼太は、ふとある話を思い出した。
 牡牛座の神話だ。神であるゼウスは、地上に気になっている女性がいた。彼女を自らの伴侶にするべく、ゼウスは雄牛に姿を変え、その女性に近づいた。背中に彼女を乗せて連れ去り、目論見通り女性と結婚を果たすというものだ。
 己の目的のために姿を変容させ、出現する。この神話はどこか今の涼太の状況に似通った部分があった。
 まるで神話の雄牛のように姿を化かし、こちらに近づいてきた存在というのは、こころかもしれない。もしかするとスズなのかもしれない。そして二人は、同一人物かもしれない。
 涼太は自分の頭をガシガシと掻いた。考えるほど、混乱してくる。状況は複雑であり、打破するためには慎重になる必要があった。
「だめだ、寝よ」
 それがその日、涼太の口にした言葉だった。ベッドに潜り込み、そのまま深く夢の世界に沈んでいった。


 二週間ほどが経って、事態は急速に動いた。そして呆気なく、この件に関して終了の告知がされた。
 涼太は二週間ほど、あちこちを回って一連の出来事の解決に向け行動していた。まず最初に動いたのは、こころとスズの同一人物説からだった。
 答えは、あっけないものだった。結論から言って彼女らは同じ人間ではない。
 涼太が初配信と銘打つ一番古い配信のアーカイブまでを全て確認しても、結局同一人物であるという証拠も、そうでないと言える証拠も出てこなかった。仕方なく彼はその日の配信をいつものように眺め、必要に応じてコメントを投げかけていたのだが、ゲーム配信の中でスズがこころではないという決定的な発言を耳にしたのだ。
 以前も配信でしていたゲームを、スズはその日も楽しんでいた。そしてゲームの中で操作しているキャラクターが車に乗る場面があったのだ。
『私免許持ってないから、事故を起こしたらごめんね』
 茶化すような口調でスズがそう言った。この瞬間に、涼太の疑問は一つ消えた。
 こころは車の免許を持っている。いつもJAXAで会う際には、青い軽自動車が駐車場に停まっていたのだ。涼太はそれが彼女の車である事を知っていた。
 当然、スズが何かしらの理由で嘘を言っている可能性もあったのだが、続く発言も殆ど全てがこころとは大きく乖離した内容のものだった。免許の事もそうだが、こころがそこまで嘘をつかなくてもいいのではないかというものが多くあった。二人は別人なのだと捉えるのが自然だった。
 二つ目の疑問が、こころの家に時折聞こえたあの物音の事だが、これもある日こころから電話で解決したのだと伝えられた。
 足音の正体はあまりに単純なもので、家に住み着いた野良猫の立てる音だった。彼女曰く、風通しを良くするために開けていた窓から時々入り込んでいたらしい。外に回って窓の下を確認すると、エアコンの室外機があった。そこから一階の居間に侵入しているのを目にしたとの事だ。
 恐ろしいほどの呆気なさで、涼太はスマートフォンを握りしめたまましばらくそこから動けなくなった。
 最後の幻の件だが、これに関しては涼太のただの勘違いであるという事実が判明しただけだった。
 沖縄には何ヶ所も灯台がある。今となっては使われていない所も多いが、そういう場所も含めると一〇箇所は優に超えている。
 ある日、いつものようにオカルト本を読んでいると、涼太があの日行ったのとは別の場所、B市の話が載っていた。内容は同じだ。見たらそれ以降、幻を目にするという言い伝えがある。場所が違うだけで、全く同じものだった。
 本では、スマートフォンで見た以上に詳しく、具体的な事が書かれていた。昔からの言い伝えで、灯台近くに住み着いている魔物の仕業だと言うのだ。
 念のために涼太は、自分の訪れたあのA市の灯台についても調べてみた。しかしA市の灯台には、これと言って言い伝えや伝承があるわけでもないというのがわかった。したがって、涼太の持っていた情報は嘘という結論になった。
 厳密に言えば内容そのものは一致しているのだが、致命的とも呼べる場所の相違が発生していたのだ。
 こころとスズの二人について疑問を抱いてから二週間、全てが判明するのにそこから一週間。一ヶ月と満たない期間に、涼太の身の回りに存在していた疑問は払拭されていた。
 この三件の解決を、涼太は素直には喜べなかった。
 青い触手状の何かを、涼太は目にしたはずだ。それは幻が見える合図だという。
 例のSNSでの書き込みは信用ならないが、触手のようなものに関しては実際に目撃している。あの感覚的なものは、涼太と同じように目撃した人間にしか言い表せないはずだ。
 青い触手を視認したならば、どこかで幻を見る。この情報に偽りはないはずだ。
 或いは気のせいだったのだろうか。涼太はA市の灯台に行った日の事をできるだけ克明に思い出そうと何度も試みたが、何せ二ヶ月近く前の出来事だ。詳しく思い出せるわけはない。
 あの日見たものは、当時の涼太の体調や、陽の光が上手い事当たったりなどして目撃できた偶然の産物なのかもしれない。もはや彼は深く考えるのを諦め、そのように結論づけた。
 何もかもが偶然で、自分の勘違いのせいでここまでややこしくなったのだ。これからは気をつけなくてはならない。
 よく晴れた日の午後。九月に入って学校が再開されるその時期に、涼太は自転車のペダルを漕ぎまっすぐこころの家へと向かった。
 授業が終わってすぐなので、彼は制服に身を包んでいる。リュックサックを背負っているせいで肩は痛くなってくるし、背中も汗をかいてくる。だが彼はペースを落とさずに進んだ。
 あの件以降、こころとはスケジュールを調整して会うようになっていた。今では知り合いではなく友人の一人だ。こころもきっとそう思ってくれているに違いない。だからこうして家に招いている。
 自身に起こったこの出来事を改めて確認してみると、不思議と涼太は口角を上げたのだった。

一二年前の事だ。ある男が、自身の車に息子を乗せてドライブに出かけた。
 彼は平日には仕事に勤しみ、妻に代わって育児を担っていた。男にとってそれは普段はあまりない息子を独占できる絶好の機会であったため、自ら子供の面倒を見ようと妻に打診したのだ。
 そうしてできたのが、平日は彼の妻、休日には彼自身がメインとなって面倒を見るという生活のスタイルだった。男にとって、妻の胸裏を全て読み取れるわけではないのだが、少なくとも表面上妻はこのスタイルについて納得してくれているようだった。
 だからこそ、こうして男はいつものように息子を車に乗せ、どこか遠い場所へと向かっている。
 息子は二ヶ月後に小学校の入学を控えている年齢だった。もう一人で歩き回れるし、会話もできる。男はそんな息子に向かってどこへ行きたいかを尋ねた。だが息子からの返答はと言えば、昨日テレビで見た芸能人の名前を叫ぶだけである。
 男は苦笑して、とりあえず家から遠く離れた場所へと車を走らせた。具体的な目的地は設定していない。そのうちに見えてきた場所に車を停めようとだけ考えた。
 国道五八号線を進み、やがて右折して県道一四号線へと入る。山の中を縫うようにして通っている細い道を通り抜け、B市に入った。
 そこで見つけた海沿いの公園に車を停車させ、二人仲良くあたりを散策した。
 すぐそこには青い海と白い砂浜が見えた。視界を埋め尽くしそうな二つの景色の中に入り込むようにして、遠くの方に緑の山が見える。
 男は息を呑んだ。自分でも気が付かないうちに口が半開きになっていて、手を繋いで歩いていた息子も似たようなリアクションを見せた。
 男が凄いな、綺麗だなと言うと、息子はそれに反応して可愛らしい雄叫びのような声を上げた。こんなに小さい子供であっても魅了できる景色が、眼前に広がっているのだ。
 親子二人は靴を脱いで砂浜を歩いた。まだ泳ぐには寒い季節だからなのか、付近には海水浴客の姿はない。人の姿は全く見えない。
 息子が無邪気に砂山を作り、かと思えば蹴飛ばしているのを眺めているうちに時間は過ぎていった。時間が経つほどに小さな子供の遊びに対する勢いは衰えていき、やがて飽きてしまったのかその場に座り込んでしまった。
 男は息子に声をかけた。
「涼太、遠くの方に灯台があるんだ。見に行かないか」
 灯台が何かをよくわかっていない、と言う様子の我が子に彼は、奥の方に見える大きな白い塔を指差した。
 砂浜で遊んで消費した体力は元に戻ったらしく、息子は両手をあげて「行く!」と答えた。男は微笑んで、小さな手を握って歩き出した。
 砂浜を出て靴を履き再びアスファルトの地面を歩いていくと、五分ほどで灯台の足元まで来る事ができた。
 しかし灯台の周囲はフェンスで囲まれており、何者かの侵入を拒んでいた。中に入るための扉には関係者以外立ち入り禁止と書かれた紙まで貼り付けてある。
「ごめんな涼太。灯台の中には入れないみたいだ」
 男は下を向いて謝った。
 視線の先では我が子が玩具を取り上げられた時のように泣いているのかもしれないと言う予想をした。しかしその予想に反して、息子には特に代わった様子は見受けられなかった。
 小さな子供は何故か、一点のみを見つめてその場に立ち尽くしている。
「涼太?」
 男が話しかけるが、反応はない。
 この時彼の息子には、あるものが見えていた。
 青い紐状の物体だ。それは風を受けた時の凧のように上下左右、好きなように動き回っている。半透明なのであるが、必ずそこに存在している。
 どこから伸びてきたものなのか、男の子はそれを確かめるためにあたりを見回したが、持ち主らしき存在はいない。
 視線を戻すが、変わらずそれはそこに存在し続けていた。
 試しに手で掴んでみようとするが、握った手のひらを開いても何もなかった。つかめてはいないのだ。
「どうした、何かあったか?」
 男が尋ねた。子供は首を振った。
 その後も二人は歌など歌いながら、初めて見る景色を眺めたりしながら有意義な時間を過ごした。
 そして一二年の月日が流れた。
 あの時は小さかった子も流れていく時間の中で成長を続け、人並みの幸福を噛み締め、不幸を悲しんだりした。
 高校に入学するタイミングで両親から自転車を買い与えられ、休日には最大限活用をして様々な場所へと走った。
 ある日、A市の灯台へと少年は向かった。もしかすると幻が見えるようになる、と言われている灯台だ。
 少年がスマートフォンで景色を撮影しようとすると、視界に青い紐状の何かが映し出された。
 驚いて目を擦ってみるとそれはもう消えていた。少年は噂話が本当だったのだと喜んだが、真相は違う。
 その映像は、日々絶えず積み重ねられる記憶の中から、無意識のうちに持ち上げたものだった。
 昔見た景色と共通するものを目の当たりにした事で、想起されたものだ。彼自身の記憶の断片なのだ。
 しかし本人はその事を覚えていない。話に聞いていた内容が真実であったのだと思い込んでいる。 
 少年は意気揚々とその場を後にした。これから自転車に跨りペダルを漕いで、帰路に着くのだ。
 そんな彼の背後では、青い海が陽光を受けてキラキラ輝いていた。

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