自分は自分が分からない。
「ただいま、お母さん。」
「おかえりなさい。どうだった、テストは?」
「全部95点超えました。」
いわゆる教育ママのもと医者になるように育てられた神楽透桜子はトロッコである。妖という「人ならざる者」がいるこの世の中で、学歴は大切だ。そんな仏はトロッコに言った。
「いい子でいてね。」と。透桜子は頷くことしか出来なかった。
「なんで100点取れないのかしら。学校のテストでしょう?」
「っ……100点もあります。古典とか歴史とか!」
「いいから、早く勉強しなさい?」
透桜子はとうの昔に諦めていた。
「はい。」
今日は友達から「遊びに行かないか」と誘われていた。ただ5時半という馬鹿げた門限のおかげで断っていた。
夕飯時、大好きなアラビアータと大嫌いなバターソテーが出た。仏は透桜子の好みを知らない。意図的に避けると「せっかく作ったのに」と嫌味を言われ、美味しいと無理にでも口にすると「また作ってあげるわ」とリピートされる。
透桜子はどうすればいいか分からない。どちらから食べるべきかと。特に決まりはないのに、独裁的ルールに縛られていた。
迷った末にアラビアータに手を伸ばした。
「あら?バターソテー好きよね?食べないのかしら?」
「好きなものは後に食べる派なんです。」
いい具合に誤魔化せた。
「でも、食べてちょうだい?お母さん頑張ったのよ?」
伸ばした手をソテーに向けた。口に運んで咀嚼する。絡みつくようなバターの濃厚さが透桜子は好きじゃなかった。
「うん。美味しいです、お母さん。」
いつか仏は言った。「未熟者は我慢してこそ礼儀である」と。子供はまだまだ未熟者なのだ。我慢して、我慢して……失礼の……ないように……
透桜子は疲れていた。身体的ではない、根本的に、心的に疲れていた。同じような毎日に飽きていた。
ただ起きて食べて勉強して食べて勉強して寝る。それだけで一日が説明できてしまう今を退屈に思っていた。
「透桜子さん、これ。」
「あ、ありがとう。」
いつの間にかペンを落としていたようだ。それに気づいてなかった。
「…………」
「透桜子さん、疲れてる。」
「え、?」
断定的だ。知っているような口ぶりである。。だが、話している彼とはそう接点があった訳でもない。ただのクラスメイトである。確か名前は荒木羅刹。
「なんで……」
「……そう見えたからだ。透桜子さんから生気が感じない。」
今透桜子は親不孝である。もしかしたら、羅刹は自分をどうにかしてくれると、透桜子は思っている。無論、羅刹もその気でいる。
「私……」
「死にたい、なんて言うな。……分かった。今夜、必ず迎えにいく。」
何を言っているのかさっぱりだった。迎えの意味も、羅刹が透桜子に関わる意味も。でも透桜子からしたら、あの仏から抜け出せればそれでいいのだ。透桜子は少し頷いた。
夜、風呂も済ませ寝る前に本を読んでいた。毎日の日課である。何気にこれを楽しみに生きていたのかもしれない。
「透桜子さん、」
急に名前を呼ばれて驚いた。ベランダの方からである。透桜子は本を閉じ、小さく距離を縮めた。
ベランダの塀に知らない男。いや、知っているようで知らない男がいた。背は3m、額には1本の角、長い宵闇色の髪を揺らした、筋骨隆々とした男だ。
「鬼……」
後退りした。怖い、死ぬかもしれないと思うと、逃げ出したかった。死にたいのに……死にたくない……と思ってしまった。
でも、知っているのだ。この黄金の瞳も、宵闇の髪も、北極海のような冷たい声も。
「透桜子さん、迎えに来た。」
「……荒木…くん?」
鬼はひとつ頷いた。そして透桜子を呼ぶのだ。「来い。」と。
足音が聞こえる。仏が起きてしまったようだ。時間が無い。でも透桜子は自己決定力が欠けている。
手を伸ばす鬼に透桜子は惹かれる。逃げ出したい、彼と一緒に。一歩二歩三歩と近づいて、手を掴んだ。その時。
「透桜子!どこに行くの、透桜子?!」
呪いの声である。が、透桜子にはもうその呪いも効かない。手を引かれ羅刹に身を委ねる。羅刹はほんと少しだけ笑っていた。
「今宵、娘を攫わせてもらおうか。」
透桜子はこの時少しでも羅刹を格好いいと思ってしまった。
トロッコはレールを進み続けたがために、崖から落ちてしまった。
瞬く間に桜が吹雪き、目を開ければ知らぬ屋敷の前だった。
「ここ、は、?」
「我の家だ。」
ここで初めて羅刹の一人称が「我」だということを知った。屋敷は実に静かで、和やかな雰囲気だった。木の匂いが不安な心を宥める。
透桜子は聞きたいことが沢山あったが、その日は寝ることにした。安堵か、はたまた疲労か、布団に入るなり睡魔に飲み込まれた。
朝、起きると驚くほどに体が軽かった。目覚めもよく清々しい。そこで、羅刹の家にいるのだと思い出した。
戸を叩く音、3回。恐る恐る部屋から出てみれば、着流し姿の羅刹がいた。
「おはよう……ございます……」
「おはよう。今日は花見日和だな。」
縁側の向こうを見れば、庭の桜が見事に咲いていた。
「今日は学校もない。桜でも見ながら話さないか?」
羅刹は無口な反面、誘い上手で博識だ。
透桜子と着流しのまま、髪を梳かして縁側へ向かった。縁側には緑茶と餅が置いてあった。
「我は朝餉は取ったから、好きに食べてくれ。」
昨日の夜は不安と緊張からあまり食べていない。それもあるのか今はとてもお腹が空いている。
「いただきます……」
餅を頬張る透桜子を羅刹は見つめている。傍から見れば恋人のようだ。考えてしまうと透桜子はとても気恥ずかしくなった。一方、羅刹は柔らかく笑っていた。
「な、なんで……私をここに……?」
透桜子は餅を飲み込むと、1番気になってたことを聞いた。羅刹は少し目を大きくして、一拍置いて言った。
「気になっていたからだ、透桜子さんのことが。」
意外な返事に餅が喉に詰まりそうになる。
「気になる……?」
「いつも空を見ていて、自由になりたそうな。そんな感じだ。違かったらすまない。」
よく見てる、という感想だ。透桜子は羅刹のことは知らない。あまり見ない名前の上背のある静かな男子、といった印象だ。
「見てるね、驚いた。」
「どうも目を引かれてな……うっ……」
羅刹は珍しく目を逸らした。肩を叩いてもこちらを向こうともしない。そういえば、昨日のような体格も角もない。
「荒木くん……?角は?」
「閉まった。怖がるかと思って、背も縮めた。」
逸らした視線が帰ってくる。羅刹の頬は薄く紅色に染まっていた。
「照れてるの……?」
「な、!……迷惑か?」
それはどう取るべきか透桜子は悩んだ。悩んだが、感性に従うことにした。
「案外……迷惑じゃないかもしれない。」
「なら、一つだけ。実家に帰りたいか?」
羅刹は不器用だが、確信犯である。透桜子は少しだけ羅刹に身を寄せてみた。
「帰りたくないって言ったら……迷惑?」
「いや、全く。」
羅刹の言葉を信じた。透桜子は彼の家に身を寄せることにした。
その日から透桜子と羅刹の不思議な関係が始まる。友達以上恋人未満な2人だけの関係だ。
「人ならざる者」が住む世界、妖は魔法が当たり前の世界だ。多種多様な種族と生活。透桜子にとって毎日が新鮮だった。
透桜子にとって母親は仏であり、レールであった。それがなくなってしまえば、何をすればいいか分からない。透桜子は選択できないのだ。それは彼女の精神にも支障をきたし、適応障害を発症していた。
羅刹は地球の高校に留学に来ている形だった。透桜子は羅刹が妖の学校に戻ると同時に高校を辞めた。代わりに家庭教師を雇ってくれた。お金がかかるからと断ったが、大丈夫と聞かなかった。どうやら羅刹は鬼一族の本家らしく、裕福な育ちだった。学ぶことは嫌いじゃない。羅刹の言葉に甘えた。
「透桜子さん、」
「おかえりなさい、荒鬼くん。」
羅刹の苗字は荒木でなく荒鬼だ。人間に紛れるための策だったらしい。羅刹の学校は寄宿制だが、今日から連休により帰省していた。
「ここは荒鬼の家だから、荒鬼くんと呼ぶと……混じる。」
「じゃぁ……羅刹くん?」
透桜子は無感情で言った。だが羅刹は驚いたっていったらありゃしない。荒鬼のままでいい、と言い捨て自室に戻ってしまった。
「あんな兄貴初めて見たわぁ!」
「そうだね、俺を初めて見た。」
後ろから男女二人の声。驚いて振り返った。
「おぉ!驚かせてすんません。弟の茨です!」
「初めまして、妹の伊吹です。透桜子さんですよね?」
「え、……あ、……」
上手く声が出せなかった。ただ首を激しく縦に振った。
「へぇ……可愛いですね、透桜子さん。兄さんもそう思うよね?!!」
伊吹が声を張り上げて羅刹に聞いた。着流しに着替えた羅刹はなんの疑問も抱かずに言った。
「透桜子さんは可愛いに決まってるだろう。」
透桜子はきょとんとした。彼女を目にした羅刹もまたきょとんとした。可愛い……?可愛い?!透桜子は何度も反芻した。一方、事態を把握した羅刹は照れ隠しできてない。やっと飲み込めた透桜子も頬を熱くした。
「あははは!引っかかったね、兄さん。ちょろいなぁ。はぁ……面白い。」
「伊吹……貴様……」
「睨まないでよ。俺は恋のキューピットなんだから。末永くお幸せに。」
茨は笑う他なかった。玄関には2人しか残らず、どうも気まずくなってしまった。
「わ、私……ほうき片付けてくる。」
「っ!待て。」
手を掴まれた。そのまま羅刹の中に包まれた。透桜子より一回りも二回りも、いやそれ以上に大きい体に抱きしめられている。
「心臓がうるさいな。」
「どっちのかも分からないのに。」
「どっちのじゃない。どっちも、だ。」
茨と伊吹は影からそっと二人を見ていた。
その日の夜、宴が開かれるという。鬼一族の当主である羅刹の父を始め、分家当主一族、老鬼院の長老方が集まる。
「無理して出なくて良い。……怖いだろう?」
透桜子は悩んだ。未だに決断することは苦手だった。が、
「……行く。」
「そうか。」
そっけない反応が気になって見上げると、三日月は微笑んでいた。
そうと決まれば早く、透桜子は美しい着物に着替えさせられた。金と紅の映える簪に、紅梅色の綺麗な着物だった。
「透桜子は紅も蒼も似合うだろうな。」
そういう羅刹もいつもと違う。背丈は3m、一角の生やし、鋭い瞳孔が見える。月が輝く宵闇には鮮やかな蒼の袴がよく合っている。
宴は既に始まっている。大勢いるようで、掠れた老人の声から年頃もしくはそれ以下の娘の声まで聞こえた。
「失礼する。」
羅刹の一言で会場が静まり返る。戸を開けた途端、視線は透桜子に集まった。
本当に鬼の宴のようだ。
「人間……!」
「こら!やめなさい、瑪珠。」
瑪珠と呼ばれた娘は赤茶色の長い髪を高くひとつに縛っている。
「だって、人間よ?!羅刹様の隣に人間がいるなんて、いけないわ!」
「瑪珠!!」
瑪珠は止まらない。隣にはよく似た、色違いのような娘がいた。
「琥珠もそう思うでしょう!?」
「羅刹様のお勝手でしょうに。」
琥珠は至って冷静だった。そんなこと関係ないかのように羅刹は透桜子と席に着く。透桜子は上座、羅刹よりも上に座らされた。
「ちょっと、人間!なんであんたみたい愚民が羅刹様より上に座るのよ!分を弁えなさい!」
吠えたのは瑪珠だ。透桜子は怖くなって勢いよく立ち上がった。月が流れる。
「瑪珠、いい加減にしろ。これは我の意向であり、透桜子さんは関係ない。それ以上の物言いなら退出してもらう。」
「っ……!」
流石に瑪珠とて羅刹に言い返せる力はなかった。透桜子は改めて羅刹が本家の子息なのだと認識した。
「透桜子さん、何か食べるか?我が取るから。」
鬼の背丈に合わせているからか、座卓だが少し高い。幼女が座って顔しかでない、そんな状態だ。いや、それよりも食べにくいだろう。透桜子は膝立ちして料理を見渡した。並んでいるのは和食。家庭的のものから料亭的なものまである。比較的和食は好きだ。
「筍……」
「土佐煮だな。他は?」
「角煮食べたい。」
「分かった。」
筍と角煮を小皿に分けてくれた。
「食べづらいだろう。下で食べていい。」
言葉足らずな羅刹だが、やはり優しい。老人も、もちろん瑪珠も何か言いた気だが、言える雰囲気ではなかった。そんなことお構いなしに透桜子は料理も頬張る。
「美味しいか?」
「うん、角煮美味しい。」
透桜子は幸せそうに笑った。こればかりは羅刹の仏頂面も緩む。
「あはは!羅刹が宴を楽しそうにしてるの、初めて見たよ。」
羅刹の父、百夜が言った。百夜は羅刹と違って柔らかい印象がある。その隣の温羅ー羅刹の母ーは厳しいがよく気遣ってくれて家事終わりには菓子を出してくれる。
「はぁ……そんな調子だから、いつまで経っても娶らない後を作らない。次代の自覚はあるのか?全く……」
一老鬼が言った。羅刹の顔が曇る。これだから宴は好きじゃないのだ。この世の中、10から結婚でき、後継ぎを考え始める。一方、羅刹はもう17になろうとしている。本家の嫡男からしたらだいぶ遅い。
「まさか、その人間と結婚するだなんて言わないでしょう?!」
間髪入れず瑪珠が吠えた。ビクッと透桜子の肩が跳ねる。角煮の汁が着物に零れてしまった。
「あ、……」
「あらまぁ、綺麗なお着物が台無しですね?衣1つ綺麗に保てないなんて、なんて下品な。まぁ今の着物の方がお似合いですけどね。」
透桜子を非難する瑪珠。どうにも会場にいたくなかった。泣くのを我慢して、でも流れてくるのだ。
静まる会場に声1つ。
「ねぇ、瑪珠。とりあえず出てってくれない?」
琥珠の声だった。瑪珠含め一家が動揺していた。その時、琥珠は初めて瑪珠を「瑪珠」と呼んだのだ。
「こ、琥珠……?」
「ちゃんと言わなきゃダメかな?宴の邪魔なんだって。『人間』だの『愚民』だの。人間だから何が悪いのよ!愚民?あんたが1番愚民だよ!」
そんなんだから羅刹様も縁談を切るんだ、と琥珠は言った。瑪珠はたまらずに会場を後にした。
「姉の無礼をお許しくださいませ、透桜子様。」
「え、……あ、」
透桜子は「様」と付けられて、動揺した。琥珠は深々と頭を下げている。
「わ、私に『様』なんて……やめて下さい。顔を上げて下さい。大丈夫ですから。」
「透桜子さん……なんてお広い御心を……!」
琥珠は憧れの眼差しを向けた。
「この琥珠、透桜子さんを婚約者様に推薦します!羅刹様、このお方を絶対離してはいけませんよ!」
先程までさっぱりしていた琥珠だったが、急に熱が入ったようだ。百夜は思わず笑ってしまった。
「琥珠らしくないね。でも、良いじゃないか。羅刹は元々その気でしょ?透桜子ちゃんはどう思う?」
羅刹はその気でいる。もう母親のもとには帰りたくない。もっと、羅刹と……
「居たい……もっと、ここに居たい。」
ふと、羅刹の顔を見上げた。羅刹の頬は今までに見たことないほどに赤く染まっていた。少しばかり可愛いと思ってしまった。
荒れていた宴の席も温かい空気に包まれた。
時間は風のように過ぎ、月は西に傾いている。それでもなお透桜子は寝れそうになかった。独り布団の中で目を瞑っては、眠れずに目を開ける。耳を澄ませば、風、それに揺れる草木の音、混じって笛の音がした。リコーダーやフルートのような西洋の笛じゃない。心落ち着くような、温かい柔らかい音だ。
気になってしまってはしょうがない。音を頼りに辿ってみることにした。廊下を抜けて、縁側に出て、その向こうの屋根の上。月の背後に横笛を吹く鬼、一人。髪が風に靡きながら、美しい旋律を奏でていた。
「羅刹くん……」
「ん?あぁ、透桜子さん。起こしたか?」
「ううん。元々寝れなかった。」
颯爽と降りてきては、縁側に座った。手招いて透桜子を呼ぶ。少し離れたところに透桜子も座った。
「遠くないか?」
「意識してしまって、仕方ないので……」
この距離でさえ緊張しているのに、これ以上はパンクしてしまう。羅刹は立ち上がって移動した。呆れられたか、と怖くなる。
「これでいいだろう。」
「ち、近い……」
羅刹は全くといって呆れてない。むしろ毎日毎日愛おしくなる一方だった。羅刹は透桜子も囲うように座った。軽く抱きしめ、お互いの体温が伝わる。春の冷たい風が体を冷やすのに、顔だけ熱くなった。
あの唐突なきっかけから、こんなに身近な人になるとは、透桜子は思っていなかった。
「なんで私を、助けてくれたの?」
前聞いた質問をもう一度聞いてみた。
「……我はずっと、透桜子さんに惹かれていた。確か、転校初日歴史の授業の後だったはず。」
歴史の授業……それは転校来たばかりで何も分からなかった羅刹に透桜子が休み時間に教えたのだ。歴史は透桜子の得意科目でもあった。
「あれだけ?」
「きっかけは。誰も我に声はかけてくれなかったから、特に印象に残っている。」
ただそれだけ、あの少しの時間がこの関係に繋がったという。ほんと人生何があるか分からないなと、つくづく思った。
羅刹は先程より少し強く抱きしめた。
「温かい……」
「……うん。」
鼓動が鳴り合う真夜中の恋。
それは囚われた人間の娘と孤高な鬼の青年の運命の出会いである。
「ただいま、お母さん。」
「おかえりなさい。どうだった、テストは?」
「全部95点超えました。」
いわゆる教育ママのもと医者になるように育てられた神楽透桜子はトロッコである。妖という「人ならざる者」がいるこの世の中で、学歴は大切だ。そんな仏はトロッコに言った。
「いい子でいてね。」と。透桜子は頷くことしか出来なかった。
「なんで100点取れないのかしら。学校のテストでしょう?」
「っ……100点もあります。古典とか歴史とか!」
「いいから、早く勉強しなさい?」
透桜子はとうの昔に諦めていた。
「はい。」
今日は友達から「遊びに行かないか」と誘われていた。ただ5時半という馬鹿げた門限のおかげで断っていた。
夕飯時、大好きなアラビアータと大嫌いなバターソテーが出た。仏は透桜子の好みを知らない。意図的に避けると「せっかく作ったのに」と嫌味を言われ、美味しいと無理にでも口にすると「また作ってあげるわ」とリピートされる。
透桜子はどうすればいいか分からない。どちらから食べるべきかと。特に決まりはないのに、独裁的ルールに縛られていた。
迷った末にアラビアータに手を伸ばした。
「あら?バターソテー好きよね?食べないのかしら?」
「好きなものは後に食べる派なんです。」
いい具合に誤魔化せた。
「でも、食べてちょうだい?お母さん頑張ったのよ?」
伸ばした手をソテーに向けた。口に運んで咀嚼する。絡みつくようなバターの濃厚さが透桜子は好きじゃなかった。
「うん。美味しいです、お母さん。」
いつか仏は言った。「未熟者は我慢してこそ礼儀である」と。子供はまだまだ未熟者なのだ。我慢して、我慢して……失礼の……ないように……
透桜子は疲れていた。身体的ではない、根本的に、心的に疲れていた。同じような毎日に飽きていた。
ただ起きて食べて勉強して食べて勉強して寝る。それだけで一日が説明できてしまう今を退屈に思っていた。
「透桜子さん、これ。」
「あ、ありがとう。」
いつの間にかペンを落としていたようだ。それに気づいてなかった。
「…………」
「透桜子さん、疲れてる。」
「え、?」
断定的だ。知っているような口ぶりである。。だが、話している彼とはそう接点があった訳でもない。ただのクラスメイトである。確か名前は荒木羅刹。
「なんで……」
「……そう見えたからだ。透桜子さんから生気が感じない。」
今透桜子は親不孝である。もしかしたら、羅刹は自分をどうにかしてくれると、透桜子は思っている。無論、羅刹もその気でいる。
「私……」
「死にたい、なんて言うな。……分かった。今夜、必ず迎えにいく。」
何を言っているのかさっぱりだった。迎えの意味も、羅刹が透桜子に関わる意味も。でも透桜子からしたら、あの仏から抜け出せればそれでいいのだ。透桜子は少し頷いた。
夜、風呂も済ませ寝る前に本を読んでいた。毎日の日課である。何気にこれを楽しみに生きていたのかもしれない。
「透桜子さん、」
急に名前を呼ばれて驚いた。ベランダの方からである。透桜子は本を閉じ、小さく距離を縮めた。
ベランダの塀に知らない男。いや、知っているようで知らない男がいた。背は3m、額には1本の角、長い宵闇色の髪を揺らした、筋骨隆々とした男だ。
「鬼……」
後退りした。怖い、死ぬかもしれないと思うと、逃げ出したかった。死にたいのに……死にたくない……と思ってしまった。
でも、知っているのだ。この黄金の瞳も、宵闇の髪も、北極海のような冷たい声も。
「透桜子さん、迎えに来た。」
「……荒木…くん?」
鬼はひとつ頷いた。そして透桜子を呼ぶのだ。「来い。」と。
足音が聞こえる。仏が起きてしまったようだ。時間が無い。でも透桜子は自己決定力が欠けている。
手を伸ばす鬼に透桜子は惹かれる。逃げ出したい、彼と一緒に。一歩二歩三歩と近づいて、手を掴んだ。その時。
「透桜子!どこに行くの、透桜子?!」
呪いの声である。が、透桜子にはもうその呪いも効かない。手を引かれ羅刹に身を委ねる。羅刹はほんと少しだけ笑っていた。
「今宵、娘を攫わせてもらおうか。」
透桜子はこの時少しでも羅刹を格好いいと思ってしまった。
トロッコはレールを進み続けたがために、崖から落ちてしまった。
瞬く間に桜が吹雪き、目を開ければ知らぬ屋敷の前だった。
「ここ、は、?」
「我の家だ。」
ここで初めて羅刹の一人称が「我」だということを知った。屋敷は実に静かで、和やかな雰囲気だった。木の匂いが不安な心を宥める。
透桜子は聞きたいことが沢山あったが、その日は寝ることにした。安堵か、はたまた疲労か、布団に入るなり睡魔に飲み込まれた。
朝、起きると驚くほどに体が軽かった。目覚めもよく清々しい。そこで、羅刹の家にいるのだと思い出した。
戸を叩く音、3回。恐る恐る部屋から出てみれば、着流し姿の羅刹がいた。
「おはよう……ございます……」
「おはよう。今日は花見日和だな。」
縁側の向こうを見れば、庭の桜が見事に咲いていた。
「今日は学校もない。桜でも見ながら話さないか?」
羅刹は無口な反面、誘い上手で博識だ。
透桜子と着流しのまま、髪を梳かして縁側へ向かった。縁側には緑茶と餅が置いてあった。
「我は朝餉は取ったから、好きに食べてくれ。」
昨日の夜は不安と緊張からあまり食べていない。それもあるのか今はとてもお腹が空いている。
「いただきます……」
餅を頬張る透桜子を羅刹は見つめている。傍から見れば恋人のようだ。考えてしまうと透桜子はとても気恥ずかしくなった。一方、羅刹は柔らかく笑っていた。
「な、なんで……私をここに……?」
透桜子は餅を飲み込むと、1番気になってたことを聞いた。羅刹は少し目を大きくして、一拍置いて言った。
「気になっていたからだ、透桜子さんのことが。」
意外な返事に餅が喉に詰まりそうになる。
「気になる……?」
「いつも空を見ていて、自由になりたそうな。そんな感じだ。違かったらすまない。」
よく見てる、という感想だ。透桜子は羅刹のことは知らない。あまり見ない名前の上背のある静かな男子、といった印象だ。
「見てるね、驚いた。」
「どうも目を引かれてな……うっ……」
羅刹は珍しく目を逸らした。肩を叩いてもこちらを向こうともしない。そういえば、昨日のような体格も角もない。
「荒木くん……?角は?」
「閉まった。怖がるかと思って、背も縮めた。」
逸らした視線が帰ってくる。羅刹の頬は薄く紅色に染まっていた。
「照れてるの……?」
「な、!……迷惑か?」
それはどう取るべきか透桜子は悩んだ。悩んだが、感性に従うことにした。
「案外……迷惑じゃないかもしれない。」
「なら、一つだけ。実家に帰りたいか?」
羅刹は不器用だが、確信犯である。透桜子は少しだけ羅刹に身を寄せてみた。
「帰りたくないって言ったら……迷惑?」
「いや、全く。」
羅刹の言葉を信じた。透桜子は彼の家に身を寄せることにした。
その日から透桜子と羅刹の不思議な関係が始まる。友達以上恋人未満な2人だけの関係だ。
「人ならざる者」が住む世界、妖は魔法が当たり前の世界だ。多種多様な種族と生活。透桜子にとって毎日が新鮮だった。
透桜子にとって母親は仏であり、レールであった。それがなくなってしまえば、何をすればいいか分からない。透桜子は選択できないのだ。それは彼女の精神にも支障をきたし、適応障害を発症していた。
羅刹は地球の高校に留学に来ている形だった。透桜子は羅刹が妖の学校に戻ると同時に高校を辞めた。代わりに家庭教師を雇ってくれた。お金がかかるからと断ったが、大丈夫と聞かなかった。どうやら羅刹は鬼一族の本家らしく、裕福な育ちだった。学ぶことは嫌いじゃない。羅刹の言葉に甘えた。
「透桜子さん、」
「おかえりなさい、荒鬼くん。」
羅刹の苗字は荒木でなく荒鬼だ。人間に紛れるための策だったらしい。羅刹の学校は寄宿制だが、今日から連休により帰省していた。
「ここは荒鬼の家だから、荒鬼くんと呼ぶと……混じる。」
「じゃぁ……羅刹くん?」
透桜子は無感情で言った。だが羅刹は驚いたっていったらありゃしない。荒鬼のままでいい、と言い捨て自室に戻ってしまった。
「あんな兄貴初めて見たわぁ!」
「そうだね、俺を初めて見た。」
後ろから男女二人の声。驚いて振り返った。
「おぉ!驚かせてすんません。弟の茨です!」
「初めまして、妹の伊吹です。透桜子さんですよね?」
「え、……あ、……」
上手く声が出せなかった。ただ首を激しく縦に振った。
「へぇ……可愛いですね、透桜子さん。兄さんもそう思うよね?!!」
伊吹が声を張り上げて羅刹に聞いた。着流しに着替えた羅刹はなんの疑問も抱かずに言った。
「透桜子さんは可愛いに決まってるだろう。」
透桜子はきょとんとした。彼女を目にした羅刹もまたきょとんとした。可愛い……?可愛い?!透桜子は何度も反芻した。一方、事態を把握した羅刹は照れ隠しできてない。やっと飲み込めた透桜子も頬を熱くした。
「あははは!引っかかったね、兄さん。ちょろいなぁ。はぁ……面白い。」
「伊吹……貴様……」
「睨まないでよ。俺は恋のキューピットなんだから。末永くお幸せに。」
茨は笑う他なかった。玄関には2人しか残らず、どうも気まずくなってしまった。
「わ、私……ほうき片付けてくる。」
「っ!待て。」
手を掴まれた。そのまま羅刹の中に包まれた。透桜子より一回りも二回りも、いやそれ以上に大きい体に抱きしめられている。
「心臓がうるさいな。」
「どっちのかも分からないのに。」
「どっちのじゃない。どっちも、だ。」
茨と伊吹は影からそっと二人を見ていた。
その日の夜、宴が開かれるという。鬼一族の当主である羅刹の父を始め、分家当主一族、老鬼院の長老方が集まる。
「無理して出なくて良い。……怖いだろう?」
透桜子は悩んだ。未だに決断することは苦手だった。が、
「……行く。」
「そうか。」
そっけない反応が気になって見上げると、三日月は微笑んでいた。
そうと決まれば早く、透桜子は美しい着物に着替えさせられた。金と紅の映える簪に、紅梅色の綺麗な着物だった。
「透桜子は紅も蒼も似合うだろうな。」
そういう羅刹もいつもと違う。背丈は3m、一角の生やし、鋭い瞳孔が見える。月が輝く宵闇には鮮やかな蒼の袴がよく合っている。
宴は既に始まっている。大勢いるようで、掠れた老人の声から年頃もしくはそれ以下の娘の声まで聞こえた。
「失礼する。」
羅刹の一言で会場が静まり返る。戸を開けた途端、視線は透桜子に集まった。
本当に鬼の宴のようだ。
「人間……!」
「こら!やめなさい、瑪珠。」
瑪珠と呼ばれた娘は赤茶色の長い髪を高くひとつに縛っている。
「だって、人間よ?!羅刹様の隣に人間がいるなんて、いけないわ!」
「瑪珠!!」
瑪珠は止まらない。隣にはよく似た、色違いのような娘がいた。
「琥珠もそう思うでしょう!?」
「羅刹様のお勝手でしょうに。」
琥珠は至って冷静だった。そんなこと関係ないかのように羅刹は透桜子と席に着く。透桜子は上座、羅刹よりも上に座らされた。
「ちょっと、人間!なんであんたみたい愚民が羅刹様より上に座るのよ!分を弁えなさい!」
吠えたのは瑪珠だ。透桜子は怖くなって勢いよく立ち上がった。月が流れる。
「瑪珠、いい加減にしろ。これは我の意向であり、透桜子さんは関係ない。それ以上の物言いなら退出してもらう。」
「っ……!」
流石に瑪珠とて羅刹に言い返せる力はなかった。透桜子は改めて羅刹が本家の子息なのだと認識した。
「透桜子さん、何か食べるか?我が取るから。」
鬼の背丈に合わせているからか、座卓だが少し高い。幼女が座って顔しかでない、そんな状態だ。いや、それよりも食べにくいだろう。透桜子は膝立ちして料理を見渡した。並んでいるのは和食。家庭的のものから料亭的なものまである。比較的和食は好きだ。
「筍……」
「土佐煮だな。他は?」
「角煮食べたい。」
「分かった。」
筍と角煮を小皿に分けてくれた。
「食べづらいだろう。下で食べていい。」
言葉足らずな羅刹だが、やはり優しい。老人も、もちろん瑪珠も何か言いた気だが、言える雰囲気ではなかった。そんなことお構いなしに透桜子は料理も頬張る。
「美味しいか?」
「うん、角煮美味しい。」
透桜子は幸せそうに笑った。こればかりは羅刹の仏頂面も緩む。
「あはは!羅刹が宴を楽しそうにしてるの、初めて見たよ。」
羅刹の父、百夜が言った。百夜は羅刹と違って柔らかい印象がある。その隣の温羅ー羅刹の母ーは厳しいがよく気遣ってくれて家事終わりには菓子を出してくれる。
「はぁ……そんな調子だから、いつまで経っても娶らない後を作らない。次代の自覚はあるのか?全く……」
一老鬼が言った。羅刹の顔が曇る。これだから宴は好きじゃないのだ。この世の中、10から結婚でき、後継ぎを考え始める。一方、羅刹はもう17になろうとしている。本家の嫡男からしたらだいぶ遅い。
「まさか、その人間と結婚するだなんて言わないでしょう?!」
間髪入れず瑪珠が吠えた。ビクッと透桜子の肩が跳ねる。角煮の汁が着物に零れてしまった。
「あ、……」
「あらまぁ、綺麗なお着物が台無しですね?衣1つ綺麗に保てないなんて、なんて下品な。まぁ今の着物の方がお似合いですけどね。」
透桜子を非難する瑪珠。どうにも会場にいたくなかった。泣くのを我慢して、でも流れてくるのだ。
静まる会場に声1つ。
「ねぇ、瑪珠。とりあえず出てってくれない?」
琥珠の声だった。瑪珠含め一家が動揺していた。その時、琥珠は初めて瑪珠を「瑪珠」と呼んだのだ。
「こ、琥珠……?」
「ちゃんと言わなきゃダメかな?宴の邪魔なんだって。『人間』だの『愚民』だの。人間だから何が悪いのよ!愚民?あんたが1番愚民だよ!」
そんなんだから羅刹様も縁談を切るんだ、と琥珠は言った。瑪珠はたまらずに会場を後にした。
「姉の無礼をお許しくださいませ、透桜子様。」
「え、……あ、」
透桜子は「様」と付けられて、動揺した。琥珠は深々と頭を下げている。
「わ、私に『様』なんて……やめて下さい。顔を上げて下さい。大丈夫ですから。」
「透桜子さん……なんてお広い御心を……!」
琥珠は憧れの眼差しを向けた。
「この琥珠、透桜子さんを婚約者様に推薦します!羅刹様、このお方を絶対離してはいけませんよ!」
先程までさっぱりしていた琥珠だったが、急に熱が入ったようだ。百夜は思わず笑ってしまった。
「琥珠らしくないね。でも、良いじゃないか。羅刹は元々その気でしょ?透桜子ちゃんはどう思う?」
羅刹はその気でいる。もう母親のもとには帰りたくない。もっと、羅刹と……
「居たい……もっと、ここに居たい。」
ふと、羅刹の顔を見上げた。羅刹の頬は今までに見たことないほどに赤く染まっていた。少しばかり可愛いと思ってしまった。
荒れていた宴の席も温かい空気に包まれた。
時間は風のように過ぎ、月は西に傾いている。それでもなお透桜子は寝れそうになかった。独り布団の中で目を瞑っては、眠れずに目を開ける。耳を澄ませば、風、それに揺れる草木の音、混じって笛の音がした。リコーダーやフルートのような西洋の笛じゃない。心落ち着くような、温かい柔らかい音だ。
気になってしまってはしょうがない。音を頼りに辿ってみることにした。廊下を抜けて、縁側に出て、その向こうの屋根の上。月の背後に横笛を吹く鬼、一人。髪が風に靡きながら、美しい旋律を奏でていた。
「羅刹くん……」
「ん?あぁ、透桜子さん。起こしたか?」
「ううん。元々寝れなかった。」
颯爽と降りてきては、縁側に座った。手招いて透桜子を呼ぶ。少し離れたところに透桜子も座った。
「遠くないか?」
「意識してしまって、仕方ないので……」
この距離でさえ緊張しているのに、これ以上はパンクしてしまう。羅刹は立ち上がって移動した。呆れられたか、と怖くなる。
「これでいいだろう。」
「ち、近い……」
羅刹は全くといって呆れてない。むしろ毎日毎日愛おしくなる一方だった。羅刹は透桜子も囲うように座った。軽く抱きしめ、お互いの体温が伝わる。春の冷たい風が体を冷やすのに、顔だけ熱くなった。
あの唐突なきっかけから、こんなに身近な人になるとは、透桜子は思っていなかった。
「なんで私を、助けてくれたの?」
前聞いた質問をもう一度聞いてみた。
「……我はずっと、透桜子さんに惹かれていた。確か、転校初日歴史の授業の後だったはず。」
歴史の授業……それは転校来たばかりで何も分からなかった羅刹に透桜子が休み時間に教えたのだ。歴史は透桜子の得意科目でもあった。
「あれだけ?」
「きっかけは。誰も我に声はかけてくれなかったから、特に印象に残っている。」
ただそれだけ、あの少しの時間がこの関係に繋がったという。ほんと人生何があるか分からないなと、つくづく思った。
羅刹は先程より少し強く抱きしめた。
「温かい……」
「……うん。」
鼓動が鳴り合う真夜中の恋。
それは囚われた人間の娘と孤高な鬼の青年の運命の出会いである。