花火の梯子。君と出会ったあの日の花火は人生で一番輝いていた。あの日……君と出会えたのは、あの夜空に輝く花火があったから。

「僕と………」
 真壁信二の真剣なまなざしを浴び私は俯き何も答えられなかった。
「僕は今まで君に答えを求めなかった。それは君の気持ちが落ち着いていなかったのもある。そして君が今想い、君の心の中にいる彼の事の存在を思い時間をおいた。実際、僕の気持ちも本当に君に対すものが本当のものかどうかである事をもう一度冷静に考え直す時間も必要だと思った。
 それでも僕の気持ちは変わらなかった。いやむしろ歩実香さん、君に対する想いは強くなっていった。

 歩実香さんの気持ちが今、どう変化しているかは僕にはわからない。それでも僕は君に僕の想いを伝えた」
 静かにピアノの曲が流れ曲が終わる。空白の時間の様な空間が広がる。
 彼、真壁信二の気持ちにはなんの偽りも、そして陰りも感じなかった。ただ………私の事だけ、その一点を見つめ想うその姿があった。

 ゆっくりとピアノの鍵盤がたたかれた。
 この曲………「ノクターン」静かな旋律が空気を変え始める。

「先生はあの時『フェアじゃない』と言いました。フェアじゃないその言葉は先生ご自身に向けて言われたんだと思います。でも本当にフェアじゃないのは………私の方。
 私はあの時、あなたを……手に届く温もりを、近くに寄り添う支えがほしかった」
 彼はにっこりと微笑んで
「解っているよ」とだけ答えた。
「それでも………」
「そう、それでも僕は君の事を愛してしまったんだよ。フェアじゃないのはお互い様さ」
 ハッキリとさせないといけない
「先生……す、済みません。私、先生の気持ちお受けできません。先生には今まで本当にいろんなことでお世話になりました。本当なら、私は断ることは出来ない。いいえ、お断りする理由も無いのかもしれません。

 でも、私の中には彼がいます。

 決して消える事のない彼への想いが私にはあるんです。

 本当に申し訳ありません。

 深く頭を下げ、真壁信二の申し出を断った。

「そうか……」一言つぶやくような小さな声で言い
 手元のワイングラスを持ち上げ一気に飲み干した。

「これで2敗だな、まいったなこりゃ」
 少しはにかみ照れ臭そうに言う。
「でもさぁ、解っていたんだ。僕のプロポーズは断られるってね。君がこんなにも元気になれたのは彼への気持ちと君自身の気持ちがまた寄り添うことが出来たからじゃないかって思っていたからね。歩実香さんと確か杉村将哉君て言ったけ、君の彼氏。本当に入り込むことが出来ないくらい想いあっているのも知っていた。それでも………僕に1パーセントでも望みがあるのなら、僕はそれにかけたかったんだ。

 ごめん、君を惑わす、いやまた苦しめるようなことをしてしまって」

「いいえ、そんな事。本当は真壁先生に感謝しているんです。私が自分を見失った時にいつも寄り添ってくれて、いつも私を励ましてくれていた。そして私がこうして自分にもう一度向き合えるようになれるきっかけをくれたんですもの」

「自分で自分の首を絞めてしまったか」
「そ、そんな……」
「解った。でも、一つだけ僕の願いを訊いてくれるかな?」
「ね、願いですか?」
「うん、これからも君をモデルに写真を撮りたいんだ。もちろんモデル料はちゃんと払うよ。それにいらぬ想いも無しにね」
「モデルですか……先生は本当に写真が好きなんですね」
「ああ、本当は僕は医者にはなりたくなかった。出来れば写真家としてこの世界をファインダーを通して見てみたかった。まだ夢を捨てた訳じゃないんだ。今度、個展も開くんだ。ぜひ君にも来てもらいたい。

 そして……恋人なんかじゃなくていい。今度は僕を支えてくれる最も親しい友人として僕と繋がっていてほしい」


 そして僕は……君の幸せな姿を撮り続けたい


 彼はそう言ってくれた。
 涙がこぼれた。私のこの荒れ果てた心にようやく芽出た新芽。その新芽を守ってくれる人がもう一人いる事に……

 私はまた歩みだせるんだ。

 また……将哉と一緒に……私は歩みだす。



 12月の中旬が過ぎ、もうじきクリスマス……
 今年は始めに雪が多かったせいだろうか、例年クリスマス寒波がやってくるこの時期、秋田の空は穏やかだった。

 道路の雪も解け、まるで春が来ているかのような錯覚さえ感じさせる陽気
 街にはクリスマスのイルミネーション、そして秋田駅前広場には飾りつけされたクリスマスツリーがやわらかな陽の光を浴びていた。
 夜になればイルミネーションが輝きだし幻想的な雰囲気を味わえるんだろう。
 東京にいた頃を思い出していた。
 将哉と一緒にこの季節この時期に、あの街の光の中に包まれ二人で一緒に歩いたことを。
 この陽の光に誘われるように平日でも行きかう人はいつもより多い。
 懐かしさが込み上げてくる。
 多分すぐに戻ってこないだろう。
 将哉にメッセージを送った。

「クリスマスプレゼントなにがいい?」

 一言、たった一言のメッセージ。返事はすぐには来ない。解っている、将哉が今必死に頑張っている事、すぐに返事帰ってきたら

「何さぼってんの……笹山先生に連絡するわよ」て送ってやるつもりだった。

 今日は仕事は休み、そして明日も休み。
 朝、急いで仕事に出かけたお母さんを見送った。
 お父さんが亡くなり、数年間気丈に振る舞うお母さんのその姿を見て来た。
 仕事に向かうお母さんの後ろ姿

 母は強い人だと思えた。いいえ、親は強くなければいけないんだと、あの年々年老いていく母の後姿をいつまでもこの目で追っていた。
 いずれ私も、母の様に、私を育ててくれた両親の様に……なりたい。

 ぶらりと歩く街の中。
 至る所に雪が残る千秋公園の桜並木。桜の枝には花は咲いていない。でも……いくつもの小さなつぼみが、北の国の遅い春の日差しを待っている。厳しい冬を乗り越えるために、硬い殻をまとい、その花を春に咲かせようと頑張っている。

 まるで私自身を見ているようだった……


 裏路地の交差点
 歩行者用の信号は、青に変わった。

 そんなに道幅が広くない道路
 向こう側には小さな女の子がいた。ピンクのスノージャンパーに赤いマフラー、そして白いボアの手袋。
 日差しが注いでいても小さな子供にとっては冬の最中
 赤いマフラーが私の目につく
 将哉をあの塾の玄関前で待っていた時、私も真っ赤なマフラーをしていたことを懐かしむように思い出した。

 一瞬とは、どういう時間の流れをしているのだろうか
 私にはまるで何枚もの写真がめくられて見えるように感じた。

 横断歩道を渡る小さな女の子
 私の顔を見てにこっと微笑んだ。

 そして、その子の右側から来る冷たい黒い影の塊。
 あの時、事故を起こした時の光景が一枚、一枚写真を見ているかの様に浮かんでくる。

 躰は動いていた。

 歩行者信号はまだ青のままだった。

 泣き叫ぶ小さな女の子の声
 かん高い鳴き声が聞こえてくる。無事だったんだ……
 あの鳴き声、私の小さい時の泣き方と同じ……
 幼い子の泣き方は声を張り上げ、躰からその泣く力を出す。泣いている、泣いているかん高い声で……
 泣けている、あの子は大丈夫……

 赤いマフラーが次第にかすんでいく。
 赤い血が冷たいアスファルトに流れ出し私の体にまとい始める。
 女の子の鳴き声が遠くに感じ始めた。

 何だろう、写真を……アルバムをめくっているような残像が次第に薄れていく。
 人の声、街のざわめきが静かになっていく。

 私はどうしたんだろう。
 躰は……私は………

 将哉の姿が瞼の奥に浮かび上がる。
 私を呼んでいた
 何度も何度も将哉が私を呼んでいた。

 将哉、将哉………

 将哉と一緒に歩いた昭和記念公園
 人ごみの中、はぐれない様にしっかりと手を繋いで観に行った東京の夏花火。

 花火………

 初めて二人で見た。

 あの大曲の花火

 二人で歩んできた。二人で進んできた。

 将哉、綺麗だったね。
 あの大曲の花火………

「大きな夜空に咲く………はなび………」

 ごめんね、もう一緒に……私、一緒に


 ごめんね…………将哉
 白く立ち上がる煙
 その日秋田は冬にも関わらず雨が降っていた。
 斎場には大勢の人が最後の別れを惜しみ訪れていた。

 僕は今、秋田に居る


 救急車で運ばれ病院に搬送される。

 心拍は……
「戻りません」
 救急隊は懸命に心臓マッサージを施し病院まで搬送した
 救命の医師達も懸命に心臓マッサージを施した。
 されど……
 心電図のハートラインは戻る事は無かった。

 15時21分……死亡確認
 重く冷たい言葉が処置室の中に響く。
 処置を懸命に施した医師が、連絡を受け駆け付けた母親に告げられる。
「最善の処置を施しました。ですが……まことに残念です」

 僕が連絡を受けたのはそれから2時間ぐらいが過ぎた後だっただろうか。
 医局に戻った僕に笹山医師が
「杉村さっきからお前のスマホ鳴りっぱなしだぞ。うるさくてかなわん何とかしろ」
「す、済みません」
 急いでロッカーのスマホを取り出し見た。
 知らない電話番号からの着信が何度もあった。
「どこからだろう……身の憶えのない電話」
 そしてメッセージが一件SNS に着信されていた
 歩実香からだった

「クリスマスプレゼントなにがいい?」
 クリスマスかァ、プレゼントは僕が歩実香に送らないと。もうこれは僕に対する歩実香のおねだりなんだろう。
 思わず フッと微笑む。

 そして……着信音が再びなる。

 この電話は取ってはいけない電話だった。
 その声は小さく震え濡れているかのような女性の声だった。
「もしもし、杉村将哉さんですか?」
「はいそうですが」
「ようやく、ようやく……」その声には聞き覚えがある
「私、奥村秋穂(おくむらあきほ)です。花火の時の……」
 蘇る記憶。大曲の花火の時歩実香の車を彼女の自宅の庭に止めさせてもらった事を……歩実香の親友で同じ職場に勤める看護師」
「ご無沙汰しています。いろいろとお世話になりまして」

「……将哉さん……歩実香が、歩実香が……」

 一瞬目の前に映るすべてのものが揺らぎゆがんだ

 その後彼女の泣き叫ぶような声が耳にこだまする。
 呆然としながら手を降ろし耳からスマホを離した。
「杉村、どうした? 顔色悪いぞ」
 笹山医師がその異変に気付いたかのように訊く
「歩実香が……歩実香が事故で……死んだ」
 うわごとの様に口にした
 ガタン、物凄い勢いで笹山医師が座っていた椅子を跳ね除け立ち上がる。
 ただその言葉を受け入れらず、ただ茫然と立ちすくみ、体をこわばらせている僕に
「何ぼさっと立ってんだよ。しっかりしろ杉村将哉」
 笹山医師は時計を見て
「まだ秋田に行く手段はある。行け! 杉村……早く」
 その言葉にハット我に返り僕は
「済みません……」一言そのことばを残し取るものも取らずに病院を後にした。
 タクシーに乗り東京駅に向かおうとした。車は渋滞に巻き込まれ動かない。
 スマホがまた鳴った。
 笹山医師からだった。
「羽田に迎え、秋田行きの最終便まだ席に余裕がある。新幹線よりも早く着くだろう」
「あ、ありがとうございます……笹山先生」
「ああ、しっかりな、杉村。落ち着いたら連絡よこせ……それじゃ」
 電話は切れた。

 その場でタクシーを降り僕は駅へと走った。
 羽田空港に着き秋田行きのチケットを手にして僕は秋田に向かった。
 その時、時間の感覚はまるで氷に閉ざされた様に何も流れていない、そして僕はどうして今この飛行機に乗っているんだろう。すべての感覚が麻痺したように、自分を拒絶し始めた。
 この現実から逃れるために……
 すでに10時近くになっていた。
 歩実香の家の前に着き、その家の雰囲気ががらりと変わっている事に目を背けた。
 玄関に立ち「ごめんください」と言う。
 前にいたあの歩実香の家とは違う……違う感じが重くのしかかる。
「はい」とかそぼい声のおばさんの声が聞こえた。
「将哉です」玄関戸を開けずに僕はこたえる。
「将哉さん?」その声と同時に玄関が開かれた。
 消衰し切ったおばさんの姿が目に映る。
「忙しいのにこんなにも早くに来てくれたの。ありがとう……さ、上がって」
 次第に強くなる線香の香り。
 その姿を見るまでは僕は信じたくはなかった。
 通された一室に顔に白い布をかぶされ横たわる姿。
 長い髪が広がるように白いシーツに広がっていた。顔は見えないまだ歩実香だと言う事を僕は拒絶していた。
 その横たわる躰の傍にそっと座り、おばさんがそっと顔にかかる白い布を上げる。
 ゆっくりと、その、まるでいつもの様に寝息を立て寝ているかのように……
「まるで寝ているみたいでしょ。私、この子の寝顔が一番好きなの。本当に生まれて来た時から。最近はこうしてこの子の寝顔見る事なくなっちゃんだけど、またこうしてみられるのが……最後になるなんて」
「おばさん」
 静かに眠る歩実香を目の前にしているのに、なぜだろう涙は出なかった。それよりも悲しみさえ込みあげも来なかった。
「この子ね、小さな女の子を助けたのよ。居眠り運転で信号無視してきた車から。前に自分が事故を起こした時の事を思い出してとっさに動いたのね」
「前に事故?」僕は呟きおばさんに訊いた。
「この子あなたに何も話していなかったんでしょ。私も将哉さんには話さない様に言われていたから」
 傍に置いてあった歩実香の持っていたバック。そこから一通の手紙を取り出し僕に差し出した。
「たぶん、あの時、東京にあなたに会いに行った時、渡すつもりだったんだと思うの。私は中は読んでいないわ。あなた将哉さんあての手紙だもの」
 その手紙を受け取り、恐る恐る封を開け目に歩実香の文字を入れる。


 親愛なる将哉へ

 将哉、私壊れちゃった。
 私、意地っ張りでそれでいて自分で自分の心にふたを閉めてなんでも自分で決めつけちゃうわがままなところあるでしょ。
 それが私に隙を作っちゃってたのね。
 将哉に連絡を取る回数も自分で減らした。将哉に私が、私の想いだけで連絡したり電話するのは今、本当に頑張っている将哉のためにならないからって自分で決めつけちゃっていた。
 でも実際はすれ違う事多くなったよね。
 お互い学生時代とは違うんだって事今になってわかったよ。
 私が幼過ぎていたんだね。
 でも苦しくて、将哉の事を想うと本当に苦しくて、私は少しづつ壊れていったみたい。
 悪いことは立て続けに続いて、交通事故まで起こす始末。
 そして……私は、私の体は侵されてしまった。強盗に無理やり……
 もう私の心はその時何も無くなった。すべてが何かに流された後の様に何もなくなってしまった。
 その何も無くなってしまった私の心を同じ病院の真壁先生が手を差し伸べてくれた。
 そして私は将哉を裏切った。
 遠く離れている想いより近くにある温もりを私は求めてしまった。

 真壁先生はいつも私を優しく見守ってくれた。
 私は彼を利用した。私のこの心の中に何か支えがほしかった。
 でも私は気が付いた。
 こんなにも荒れ果てて何もなくなった私の心の中に、あなた……将哉の姿がある事に。
 その時から私は意地を張るのを止めようと思った。
 ほんとに求めているもの、本当に求めている人を私ははっきりとさせないといけないと思った。
 だから……今日あなたのもとに来ました。
 今の私の本当の気持ちはどこにあるのかを確かめるために。

 本当はこの事は私のがあなたに話さなければいけない事。でも、もし、話す事が出来ないとき、私はこの手紙を将哉、あなた渡して伝えたいと思い書いています。
 こんな事を今の将哉に知らせればどれだけあなたが傷つきそして……

 将哉……もう少し待って。
 私はっきりさせるから……将哉いつも私に寄り添ってくれて
 ありがとう

 歩実香

 おばさんが僕にゆっくりと話した
「前に私子宮を取る手術を受けたけど、その時物凄く悲しかったの。この子が宿し育った。私と一緒に過し成長したその子宮を失くすこと……この子も一緒にいなくなってしまうようで物凄く悲しかった。そ……それが本当になるなんて……」
 歩実香の手紙を持つ手が震える。
 一粒、二粒と涙が歩実香の手紙の上にこぼれだす。
「歩実香、ごめん……ごめん歩実香」
 静かに横たわる歩実香の躰にしがみつき僕は……声を上げて泣き叫んだ
 その冷たくなった……あの歩実香の暖かさを感じる事が出来なくなった

 その躰にしがみつき僕は、僕の涙で歩実香を濡らした。


 荼毘(だび)に付され歩実香は白い煙となりこの空に舞い上がった。
 後日、歩実香の手紙にあった真壁信二が訪れた。
 歩実香の遺影を提供してくれたのは彼だった
 線香をたて、遺影に手を合わせ、その姿を今も存在し得ているかのように見つめていた。
「初めまして、正式に挨拶をするのは今日が始めてだね杉村将哉君」
「こちらこそ……」
「僕の事は、歩実香さんから」
「いいえ、彼女が残してくれた手紙で知りました」
「そうか……なんて書いてあったかは分からないが、君は僕を憎んでいるだろう。少なからずも僕は歩実香さんを自分のものにしようとした男だからね」
「憎むも何も……ただ、僕がいたらなっただけです。僕がもっと歩実香の事を、一番よく彼女の事を理解している……いや、一番彼女の事を解ってやれていなかった」
「そんなに自分を責めるな杉村君。彼女を解ってやれていなかったのは僕も一緒さ。それに僕は彼女から僕のプロポーズを断られた。彼女の中にはずっと君がいたからね。歩実香さんは最後の最後までどんなに苦しくても君、将哉君をずっと想っていたんだよ」
 その言葉がまた僕の心に突き刺す様に響く。
 どんなに今悔やんでも、もう歩実香はいない。
 真壁信二は小さな箱を僕に差し出した。
「これは……」
「僕が歩実香さんにプロポーズした時に渡そうとした指輪だよ。これは君に持っていてもらいたい」
「どうして僕に」
「嫌かい? 歩実香さんが僕から受け取ってもらえなかった指輪。そして君から歩実香さんを奪おうとした男。そんな奴からこんなものを渡されても君は嫌悪するだけだろう。でも……これは君に持っていてもらいたい。

 この指輪には僕の、歩実香さんに対する気持ちが込められている。そしてそれを断った歩実香さんの気持ちも込められているんだ。

 僕の気持ちは君にとっては不要なものだろう、だが歩実香さんが断ったその気持ちは君のものだ。僕は勝ち目のない勝負に負けたんだよ。もっとも初めから勝負にはなっていなかったのかもしれない。
 だからこそ彼女の気持ちがこの指輪には込められているんだ。

 今は辛いだろう。だがいつか君もこの辛さを乗り越えられる時が来ると思う。その時この指輪が君は必要になると思う。
 これでも僕は精神科医だ、最も今は心療内科だが、専門は生理心理学だ。だからこそ歩実香さんのためにも君は立ち直ってもらいたい。そしてそれが今、彼女が願っている一番の事だと信じている」

 歩実香が今願っている事……
 彼女はいつも僕の事を想い見つめそして支えてくれていた。
 歩実香はもう僕の前にはその姿は現してはくれないだろう。でも、これからも僕を支えてくれる人としてこの僕の中で生きていていく……生きていてほしい。
「解りました。真壁先生のお気持ち僕は素直にお受けしたいと思います。僕だけのためにではなく。僕と歩実香二人の想いとして」
「そうか、ありがとう。これで僕もようやく整理がついたよ。これで僕は医者を辞められる。これから医師を目指そうとしている君には悪いが、医者と言う仕事に見切りをつけたかったんだ。僕は医師には向かない人間だ。

 でも君は……いい医者になれると思うよ。人の心をしっかりと診る事が出来る人の様だから」

 真壁信二はそう言い残し去って行った。
 その小箱を僕はそっと開けてみた。
 小さなダイヤが光る指輪。その指輪をそっと歩実香の傍に置いた。
「真壁先生が僕らに送ってくれた指輪だ。訊いたよプロポーズされたんだって、びっくりしたよ。やっぱり歩実香はモテるんだって確信したよ。そうだよな、あれだけ美人で明るくて、気が強くて……そして、ぼ僕をずっと愛してくれていた。歩実香……歩実香」
 堪えようにももう堪える力さえ僕にはなかった。涙はまた溢れる。溢れ落ちる。流した涙が僕の心をまた苦しめるように歩実香への想いを、何もしてあげられなかった悔しさが湧き上がる。
「この指輪は僕が預かっておくよ」
 そっと蓋を閉じ歩実香の元から僕のカバンに移した。

 出来ればこのままこの秋田にとどまりたかった。
 歩実香と共にいつも一緒にいられるように。
 だが、今はそれは願い叶うものではない。
 もう東京に戻らなければいけない時が一刻と迫っていた。
 例え姿がなくともまたあの歩実香のぬくもりを二度と感じ合えなくとも僕はここにとどまっていたかった。

 だがその心の奥深くに思う、呼びかけるように感じる
「なんのために私が苦しんでいたの。将哉、私の希望をあなたの光をもう一度取り戻して」
 歩実香が僕に呼びかけるように聞こえる。悲しみと悔しさのその奥の深い底から

 一人おばさんを残すのは忍び難かったが、近所の人たちがおばさんを暖かく支えてくれている姿を見て僕はまた東京に戻る。

 また来るよ……歩実香。きっとまた一緒に暮らせる日が来る。その時までもう少し待っていてくれ。

 秋田を離れ、東京に降り立った時
 僕の心の中に大きな穴が開いているのを感じた。
 例え、離れていても僕らはずっと繋がっていたんだと言う事を、この東京と言う街の景色を眺め悲しみから逃れようと必死に耐えた。
 そう僕は「……その日常に感謝することを怠っていた」んだと改めて感じさせられた

 外科医局に戻り医局部長、指導医の笹山先生に挨拶をし、業務に研修に戻った。
 気を使ってくれているのだろう
 あれだけ僕を怒る笹山先生の姿はみられなかった。
「杉村、無理はするな」
 最近は先にその言葉が笹山先生から出るようになる。
 やはり今の僕は抜け殻の様になってしまったんだろうか。
 実際、研修とはいえ業務なのにまるで身が入らない。
 近親者の死とはこれほどまで心と体を変えてしまうんだろうか。
 業務もICU管理から外され、外来の診察も外された。
 外科の研修も後残すところあと4週間を切っていた。
 当直、と言っても上級医と一緒に努める時間も無くなり、週48時間の休暇と1日8時間だけの勤務になった。
 実際今僕のやることは何もなくなったと言ってもいいだろう。
 そう、僕自体が無気力さを感じ始めていた。

 ある日、笹山先生から呼び出され屋上に行った。
 屋上には白いシーツやタオルが干され風に静かに揺れていた。
「笹山先生」
 屋上から煙草を吸いながら遠くに広がるこの街並みを静かに眺めていた。
「おう、来たか杉村」
 吸っていた煙草を携帯灰皿でもみ消しポケットに忍ばす。
「煙草の事は内緒だぞ」少し笑いながら言う。
 そしてまた街並みをのぞみ
「杉村これからどうする?」
 一言そう言われた。
「戦力外通知ですか?」後ろで呟いた。
「誰もそんなことは言っていないだろ。勘違いするな」
「それなら……」
 言葉を遮るように笹山先生は話し出した
「歩実香君の事がまだ癒えていないのは医局の人間全員が理解している。逆にそんな状態でがむしゃらに業務をされたら逆に皆が困る」
「それはどういうことですか?」
「今のお前がこの悲しみを忘れるために仕事にのめり込めば必ず事故が起きると言う事さ。今、お前が大人しくしてくれている事が周りの医師からしてみれば安心なんだよ」
「それなら、今のままでいいんじゃないんですか」
「でもなぁ、それじゃ駄目なんだよ。周りが良くてもこの私が駄目なんだ。杉村、お前の専攻診療科は今どこにある?」
 僕は迷わず
「外科です」
「そうか」彼女は呟く様に言う
「ならば次の研修診療科は何科だ」
「次は内科・精神科です」
「そうか、ならば今この外科で残された時間を有効に使え。そして次の研修を2か月で終わらせろ。そしてまた外科に来い」
「そ、そんな事出来るんですか?」
「出来るも何もお前次第だ。初期研修医は一応名目上カリキュラムが組まれている。だがそれは指定診療科の研修を最低限行うというルールさえ守ればいい。その期間はその施設、言わばその病院が勝手に決めた研修内容だからな。初期研修は一つの診療科に拘らず幅広い医療と言う現場を体験する期間だ。だから各診療科を廻る。そして残りの1年近くは自分と地域との医療の研修に入るはずだ。一つの事にこだわらず幅広い経験をさせる事で医師としての道を見出すんだ」
「そ、それはそうですが……」
「今はいい、今この外科にいる時間はお前のために使えばいい。歩実香君も多分そう言うだろう。ただ、前に進もうと言う歩みを止めてはいけない。今のお前はその歩みを止めようとしている。それは彼女も望んでいる事なのか? 私は違うと思う。彼女は、歩実香君は君の姿を夢見てそして、それが彼女の希望の光でもあったんじゃないのか」
 何も言えなかった。笹山先生の言う通り、僕は歩むのを止めようとしていた。
「今の時間は自分ととことん向き合え。そして歩むことを止めるな。自分の為じゃなく彼女のために」

 そう僕は進まなければいけない。
 僕のためだけじゃなく歩実香の願いをかなえるためにも

 歩まなければいけない……この世界で
歩実香がこの世を去り、僕の前からその姿が消えてからの1年間は、僕にとって人生の大きな岐路となった。

「今は自分の為にこの時間を有効に使え」
外科研修時、指導医だった笹山医師が僕に言った言葉。
僕が脱落……自分の夢に向かい歩むのを止めようとしていた時、その歩みを止めさせなかった言葉。
自分に向き合え、自分の声をちゃんと聞け
そう僕は心に念じるかのようにあの外科の研修期間を終えた。
「2ケ月で次の研修終わらせて外科に戻って来い」
笹山医師はそう言ったが現実はそう甘いものではなかった。
内科の研修は外科とは違いその症状と感覚から今の状態を検査データと共に読み取り治療計画を立てる。
急変する患者、検査結果では何の異常数値も見られないが苦痛を訴える患者。様々なケースが僕の目の前に立ちはだかる。
この病院では内科と精神科は切り離すことなくいわば一つのチームの様な感じで連携している。
内科と一言に言ってもその分野は様々な分野に細分化される。
まずは消化器系、そして循環器系。またその分類からさらに細かく分類がされている。
外科の研修の時の様に指導医が一人就くと言った感じではなく、その分野の上級医すべてが指導医として僕に指導を行う。
治療の方針も様々で、がんの様に初期であればその患部を切除いわば外科的処置を行いその後緩和ケアとその病理に対するアプローチを時間をかけ対応する。
内科における患者の多くは長い時間の治療を必要とする患者が多い。
そのため心身共に疲れはて、心を患う患者も多い。
精神科、その科の科目は本当に広かった。
僕は始め精神科はアルツハイマー、いわば認知症や鬱《うつ》とされる患者の治療を行う科目の様な感覚でいたが、実際は違っていた。
その治療方針や方法は一言で言い表せるほど簡単なものではなく、より奥の深い研究が日夜必要な分野であった。

何故かはわからい。
僕はこの精神学を学ぶ時、心が物凄く穏やかになる。
自分の心が病んでいるせいだろうか……その症状を埋め込むように自分自身に問いかける日々が続いた。

少しづつもとに戻るこの姿を笹山医師は静かに見守ってくれていた。
後ろからドンと肩を叩き
「杉村、頑張っているか」
僕の指導医を離れてからも彼女は僕に気を使ってくれていた。
気性は荒く気位も高い。そして向かう患者には己の全霊を注ぎ込み立ち向かう女戦士の様な外科医師。
それが彼女だ。
「また外科に戻って来い」
笹山医師のあの言葉がいつも彼女と会うたびに蘇る。
またともに彼女と外科で業務をする事を目標に

だが、それは……ある過酷な時間を共にすることで消えうせてしまった。

3月、東京の桜の花は蕾を膨らませ、もうじきその可憐な淡い色の花を咲かせようとしていた。
月に一回、日帰りだったが僕は歩実香のもとに訪れた。
2月に訪れた時、僕の中にいた歩実香の姿が次第に変わってきているのを感じた。
線香をあげ、真壁信二が映してくれた歩実香の遺影を眺め
「歩実香が苦しんだ想い、僕にもようやくわかって来たよ」
そう一言つぶやく自分がいた。
悲しみは沸いてこないされど、不思議と心の中が歩実香の傍にいると暖かくなるのを感じる。
「将哉さん、忙しいのに毎月来てくれてありがとう。また今日もすぐに東京に……」
「ええ、帰ります」
「そう、でもあんまり無理はしないでね」
「はい、ありがとうございます」
「あの子は、歩実香は幸せな子よ。あなたにこんなにも愛されていたんですもの」
「それは僕が言う言葉です。僕は歩実香に本当に愛されていたんだ。だから苦しんだ。でもこの苦しみは僕と歩実香にとってお互いの本当の気持ちの表れだったんじゃないかって思っています。

歩実香を苦しめたのは僕です。そしてその代償に僕は歩実香の苦しみすべてをこれからも彼女の気持ちの本当の姿として受け入れていきます。……僕の一生をかけて」
「将哉さん、そこまであなたは自分を責めなくてもいいのよ。あなたのその想いがあるだけで私も歩実香も十分に幸せだと思っている。だから、これからはあなた自身の事ももっと大切にして」

「僕は歩実香と共に生きます」
そう言い残し一路東京へと戻った。

ずっと僕の中では歩実香は生き続けているんだ。姿はないけど……ずっと僕の中に歩実香はいる。

3月僕は秋田に向かう事は無かった。

2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒
東北で起きた日本を震撼させた未曾有の災害。

東日本大震災

東京にも多大な被害が発生していた。

その揺れは突如に襲い掛かった。

病院内の器具は散乱し一部の窓ガラスが割れ、入院中の患者の中にも怪我をした人がいた。
その時僕は内科担当のオペに見学実習として立ち会っていた。
執刀医は笹山先生、第一助手は内科の担当医
患者はステージ3aの胃がん。
腹腔鏡でのオペも検討されたが、がん層部の侵食が思いのほか深かった。
検査上では他臓器への転移はまだ診《み》受けることはなかったが、開腹術を行う事に合意し今そのオペが行われている。

麻酔科の医師が
「バイタル安定、心拍76でサイナス」
執刀医の笹山医師がいつもよりもやわらかな声で「それでは前庭部胃壁における癌摘出術を行う。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします」
患者を取り囲むすべての医師と看護師が声をそろえ返す」
不思議と緊張感は感じられない。
実際オペの開始時からみんなががちがち状態ではどうにもならない。
まして先頭に立つ執刀医が緊張感丸出しではスタッフが不安になる。数多くのオペをし、その緊急の対処についても冷静に対応できる心構え。それがオペには一番必要であると僕は彼女から教わった。

「メス」執刀が始まる。
「モノポーラ」かすかな白い煙が患者の開胸部から立ち上がる。
笹山医師が僕に向け言う
「杉村、奥に引っ込んでないでちゃんとその目で見ろ」
「はい」
僕を術式エリアの中に引き込む。
「よし到達した。開胸器」
切開した部位を広げ術野を広げる。
胃部を少し表に引っ張りだし患部の状態をまずは探った。
胃の裏側から手を入れ患部を触診する。
「ん、」一瞬笹山先生の顔が険しくなる。
第一助手の内科医師に
「先生、ここ」と触診をさせた。
「開いてみないと解らないけど多分肝臓に転移しているんじゃないですか?」
「うむ、否定は出来ないな。だが初期段階であるのなら胃部の摘出を優先しその後の状況判断で対応するしかないだろう」
「解りました。それでは予定通りに」
「お願いします」
「サテンスキー、サンゼロポリプロ、クーパー……」
笹山医師の体に沁みついたような手技、器具出しの看護師が的確に指定された器具を手渡すたびに、まるで絵を見ているかのように綺麗にしかもはっきりとした病巣部が露わになるさまを僕は目にしていた。
胃、前庭部が摘出された。
「病理へ」その患部を病理部で癌の進行状態と癌病巣部が的確に摘出されている事を検査し確認する。
そして、疑いを持つ肝臓部へ目線を落とす。
「やはり侵食していましたね」
「そうだな。だがまだそれほど広がってはいない様だ」
「どうされます?まだ今なら適応範囲だと見ますが」
「肝臓だこれからだと長引くぞ。まずは造影でどの程度のものかを精査した方がいいだろう」
「解りました。造影剤を患部に投与CTにて病巣部を確認後の判断と言う事で」
「ああ、そうしよう」
ハイブリットオペ室に装備されているCTを通し肝臓の病変部を確認する。
その判断と迅速な動きを僕はただ目にしている事だけしか出来ない。
いや、その場に立ち会いその状況をこの目で見て、この状況の対応を学ばなければいけない。それが今の僕の仕事だから……
「杉村、よく見て置け、どんな時でもどうすればいいかをその場で判断と行動を同時に行う。そして決して自分だけが先行してはいけない事を学べ」
「はい」
「笹山先生は杉村にぞっこんですな」
「ええ、杉村は昔の私を見ているようで、目が離せないんですよ」
「厄介な先生に惚れられたな杉村」内科の上級医が僕に言う。
「まずは頑張れ」そう励ましてくれた。
肝臓部のCT画像を眺め、
「病巣部は小さい、続けましょう。笹山先生宜しいですか?」
「大丈夫です。それではまいりましょう」
麻酔医師に目を配りその医師はその意図を踏んだように頷き器具と輸液量を調整する。
「それでは引き続き、肝臓への病巣部の摘出をおこないます。ペアン、サンゼロ」
ペアンの先端の曲部をうまく使い血管を挟み込みラチェットをかける。血管を結紮し、ようやく病巣部の切除の下準備とでも言うのだろうか? アプローチする準備が整った。

その時……病院は戦場と変わり果てた。
戦場の様に荒れ果てた院内。
東北沿岸を震源に発生した地震。その規模は、はかりえない災害をもたらせた。

耐震構造にも関わらず僕等がいたオペ室も激しい揺れを感じた。
即座に患者にドレープをかけしがみつけるところに必死にしがみついた。
数分間の揺れ、一時的に収まった時
「みんな大丈夫か」その声と共にオペ室の電源が全て切れた。
光源が非常灯に即座に変わりオレンジ色の淡い光の中、各々が返事を返す。
再びまた激しい揺れが僕らを襲った。
内科医の第一助手の医師が
「この状況ではオペ続行は無理です。インオペしましょう」
患者の状態を確かめながら笹山医師に言う。
「もう少しすれば自家発電に切り替わる。もう結紮もしている今からインオペをすればこの患者は助からない」
「しかし……」
「杉村、近場でいい院内の状況を確認して来い」
「はい」返事と共にオペ室を出、いつもと変わらない院内の状況と比べ物にならない惨事に息をのんだ。
拡声器で叫ぶ声が聞こえる
多分向こうも大変な事になっているんだろう。深追いはせずオペ室に戻ろうとした時「杉村」と呼ぶ声がした。
外科の医局部長の声だった。
「第1オペ室の状況は……」
「全スタッフ及び患者共に怪我等は在りません」
「そうか」
オペ室に戻ると、一部散乱した跡が残る中いつもと変わらない光が戻っていた。
「杉村状況は……」
僕が口を開く前に医局部長が告げる。
「現在院内の被害状況は確認できていない。ただ、非常事態であることは間違いない。コード10が発令された。笹山先生そちらの状況は」
「肝臓の一部に転移がありました。その部位をこれから切除します」
「出来るのか?この状況で」
「やります。やらなければこの患者は命を落とします」
笹山医師のその言葉には迷いも恐怖も感じさせなかった。ただ今ある命を繋ぐ、その事に集中していた。
もうすでに彼女の手は動いている。
僕は散乱した器具をかたずけ、二人の医師の指示を受けこの身を動かした。
カチッと最後のステープラーの音がして
「終了だ。バイタルは?」
「安定しています」
「そうか、解った。状況が確認できない、患者は一時ここにとどめておいた方がいいだろう。済まないが管理を頼む」
麻酔科の医師と看護師にそう告げ
「杉村行くぞ、どれだけの怪我人が押し寄せているかわからない」
グローブを脱ぎ捨てオペ室を出た。


どれだけの惨事が僕らを待ち受けているのだろう
湧き上がる不安が恐怖を呼んだ。
実際病院の施設自体の被害はさほど深刻なものではなかった。電源も自家発電と消防の発電車との連携で停電が回復するまでの間、機器管理を必要とする患者への影響は少なかった。
だが、押し寄せるように来る怪我人の数に僕は圧倒された。
ロビーに押し寄せる人。
トリアージ、重症患者と軽症患者を色分けした札でより分ける。もう外科だろうが内科だろうが関係はなかった。動ける医師と看護師が休む暇もなく動き続けた。
むろんまともに寝る時間などこの3日間僕らにはなかった。
ようやく落ち着きを感じたのは地震発生から5日目の頃だった。
その間余震は続いた。その度に患者、そして僕ら職員も恐怖を感じた。
みんなが、この病院だけではないだろう。すべての人たちが疲れ果てていた。
でも看護師たちはそんな疲れを表に出すことなく患者へ向かい、その姿を見せる事で安心感を培わせた。

歩実香がもし生きていて、看護師の仕事を続けていれば、きっと彼女たちの様に患者に安心感とそして処置を怠らず行っていたに違いない。

歩実香、お前はやっぱりすごいよ。

僕の中で生き続ける歩実香にそっと語った。

だが、僕を襲う過酷な現状はこの後始まった。

5日後僕と外科の笹山先生は震災の被害がひどかった宮城へと向かった。

この病院の医師にも現地への応援要請があったからだ。
真っ先に名乗りを上げたのは笹山先生だったらしい。そして僕を指名した。
実際、研修医の身で災害地への派遣などありえないが、誰も名乗りを上げる医師はいなかった。それに乗じ笹山医師がごり押しの様に僕を推薦したらしい。
この病院からは常駐する医師の確保を踏まえ……単なる理由付けだろうが。
僕ら二人だけが派遣医師として現地へ向かった。

隣県の福島では原子力発電所が崩壊し放射能汚染が広く拡散した。
もしかしたら、その放射能も僕らの派遣される地域に押し寄せるかもしれない。見えない恐怖が襲い掛かる。
しかしその恐怖はまったく違うものに変わる。

災害現地の状況は……言葉では表現が出来ない

悲惨な状況?
悲惨なと言う言葉ではあまりにも甘すぎる状態だった。
3月、宮城の地では今年はまだ雪がちらついていた。
夜は極寒の中暖を取る事が専決されていた。ライフラインは寸断されたまま。すでに発生から1週間が過ぎようとしていたが、医療物資及び食糧の調達も拡散しすぎてどうなっているのかすら把握できない。
病院に押し寄せる人の波ではなかった。
その場から動くことが出来ない人が大半だったからだ。
救護施設や救護場所に集められた怪我をした人々。その人達すべてに手を差し伸べることは不可能な状態だった。
そして……毎日の様にある区画に搬送され、検死される遺体。

僕らが移動し向かう先々には現実にまだ、その瓦礫に埋まり留まる人がいる事を、その情景を目にする、そして、その事を口に出す事は出来ない。

最も過酷でその現状を身をもって感じたのは、ある検死医の言葉だった。
「検死確認が追い付かない。出来ればもっと、詳しく亡くなった方を調べてあげたい」
だがそれは僕らも同じ状態だった。
一人に対するその症状を観察する時間などないのだ。
今は安定しているが実際はもう危険な状態にある患者は大勢いたと思う。
そんな中、笹山先生は丹念に患者一人一人を見て回った。一人でも多くの患者を診て助けたかったと彼女は言う。
人の死を目の前にしてその死の数を図りえない人の死と言う現実をその身で受け止めななければいけなかった。

心が麻痺をする。
精神が崩壊し、今自分が何をすべきかさえも解らなくなる状態に陥る。

歩実香が亡くなった時、僕は悲しみと言う感情に救われた。
今、僕はその感情に救われる事は無い。
そしてそれは笹山先生も同じであり、この災害を受けた人々にも言えるのかもしれない。

底知れぬ悔しさと、襲い掛かる恐怖。
今、ここから逃げ出すことは出来ない。
1週間の予定の派遣はおよそ1か月に及んだ。

東京に戻ったころ、桜はすでに散っていた。

2年間の臨床研修は定められた基準がある。
その基準をクリアしなければ臨床研修、いわゆる初期研修の終了は認めてもらえない。
この病院では前期の中盤からその指定医療科目の研修に入る。
そして残りの期間は指導医の元自分が進むべく診療科への道へ進めるよう設定されている。
僕はあと一つの研修を残すだけになっていた。
だがそれは、特例的な事でもあった。災害による地方への医師不足。その当時災害地での医療活動を支援することが優先項目とされた。
臨床研修医であれその対象は例外ではない。
たとえその場が変わろうともその定める臨床研修を修了すれば後期研修へ向かう事が出来る。
その年の夏をまじかにした季節。
僕は……長年暮らし、想い出が詰まったこの大きな街を出た。

歩実香と出会い、そして共に過ごしたこの東京から離れた。

それには笹山先生も関係していた。
災害地から戻った僕ら二人は、平常を取り戻したこの病院の中で日常を取り戻し何事もなく業務に研修に向かい始めていた。
だが笹山先生は、彼女はこの病院から姿を消した。
ある日、笹山先生から呼び出されあの屋上へ向かった。
「お、早いな。やっぱり私の呼び出しは相変わらずダッシュなんだな杉村」
「そうですよ、笹山先生ですからね。呼び出されたらすぐに行かないと怒られますからね」
「ははは。相変わらずだな杉村は……」
「で、どうしたんですか?」
「ん、何ちょっとお前に報告と助言をな」
報告と助言……
「まずは報告からだ。私は今月でこの病院を辞める」
「……え、本当ですか」
「ああ、本当だ」
「どうして、どうしてこの病院を辞めるんですか。また外科に戻って来いって言ってたじゃないですか」
「すまんな杉村。もうこの病院では私の居場所がなくなった。それにやりたいことがあってな」
「笹山先生やりたい事って何ですか?」
「私のやりたいことか……お前とあの災害地へ行って私は思ったんだよ。

籠の中の鳥だった事をな」
「籠の中の鳥って……」
 彼女はポケットから煙草を取り出し火を点け軽い白い煙を吐きだした。
「昔、付き合っていた彼がいてな、そいつがよく言うんだ

 普通に施設の中にいれば普通に過ごせる。そして普通にオペをしていれば普通に助かる患者は助かる

 だが、それは全て籠の中で起きている事。

 すべてが守られ、全てが決められている。

 そいつも外科医でな、私の同期だった。付き合いも長くて、お前達みたいにお互いを信じそして希望をもって歩んでいた。
 でも彼奴はそんな普通の中にいるのが苦痛だったみたいでな。ある日籠の中から空に飛んで行ってしまったんだ」

「……空に飛んだ」

「ああ、外科医としての自分の限界に追い詰められ、籠に餌も与えられなくなって……自殺した。屋上からその身を空に投げ出したんだ」

「似てんだよ……杉村、お前に」
「だから言うんじゃない。お前は外科医には向いていない。このまま漠然とした思いでその世界に身を投じれば……お前もあいつと同じように行き詰まるだろう。

 災害地へ一緒にお前と向かった時のお前は、処置も、対応も、判断もすべてが的確だった。研修医とは思えんほどな。
 もう立派な医者として見えたよ。でもそのお前を見るたびにお前の本当の姿も見え始めた。
 歩実香君が言っていたよ。
 杉村は、人の心の痛みや苦しみが解る人だってな。だから自分を隠してしまう。自分では逃げているなんて言っているけど、本当はその人の苦しみが解るから、でも自分は何も出来ないと思い込んでいるから、何もしなくなるんだってな」

 自分の技量の限界を知ってるんだよ……お前は

「それでも僕は……そう、かもしれません。僕はそんな自分が今は本当に嫌いです。歩実香を苦しめ、その気持ちを解ろう、いや逃げていた自分に」
 彼女は吸っていた煙草をもみ消し
「杉村、災害地派遣のレポート読ませてもらった。病院長もえらく感心していたよ。何より内科、最も精神科部の先生がえらくお前に興味を持っていたよ。『災害地における患者の心理状態の変化について』まったく外科よりもこれじゃ本当に精神科医のレポートだよ」
 それは、僕が本当に感じた事をまとめたレポートだった。
「あと残っているのは精神科だけなんだろ」
「ええ、内科の方も今合わせて精神科の研修をしています」
「なぁ、杉村。お前はこの初期研修が終わった後どうするのか先の事は考えているのか? 私は外科に戻って来いとは言ったが、お前の本当の気持ちは今どこにあるんだ」
 僕の本当の気持ち
 僕の本当の居場所は……僕は歩実香の傍にいたい。
「解りきったことを聞いてしまったようだな。今ならお前が本当に進むべく道に向かえることが出来る。手続きはちょっとめんどいが、今の時期ならこれからお前が望む場所で、そして進べく道を掴むことが出来る。これ以上の事は私の口からは言えない。後は……杉村、お前次第だ」

「僕次第ですか。それで笹山先生はこの後どうされるんですか」
「私か? 実は北部医科大の高度救命センターから誘いがあってな、もう一度救命と言う場所で自分を鍛えなおそうと思っている」
「高度救命センターですか。僕には務まりそうにもありませんね」
「だろうな」
 笹山先生は微笑み僕の方に手を添え
「頑張れ杉村、歩実香君のためにも」
 その1週間後、笹山医師はこの病院からその姿を消した。

 僕が今、そしてこれからの僕の居場所として望んだのは……秋田
 僕の中に宿う歩実香がいる地へ
 手続きは確かに大変だった。在籍していた病院からの推薦状も特例ではあるが、僕の意をくみだしてくれた。
 そのおかげもあり、本当に異例ではあるが、僕は大学医学部の精神科へと移籍した。残りの初期研修と共に後期研修を精神科で行う事を条件に採用された。
 そう、僕は精神科への道を選んだのだ。
 大学付属病院精神科では、初期臨床研修2年の終了見込み及び終了後、3年間の精神科医としての研修がある。
 実際は3年間では収まる事は無いだろう。だが、僕の進むべく道は決まった。そして僕自身が望み、僕がいるべき場所、それが秋田、また歩実香と共に暮らせる日々がやって来たんだ。


 初夏を迎えた秋田の気候はさわやかだった。
 大曲の花火を見に来た時、あの時はもう秋田の夏も終わりを迎える寸前の頃だったんだろう。
 新しい環境になじむことが出来るか不安はあったが思いのほかすんなりと僕はとけ込んでいたように思える。自分の時間も以前よりもかなり取れ、車の免許を取る事も出来た。やはりここで暮らすには車は必需品だ。若葉マークを付けながらも僕は購入した車で職場へ通いそしてこの秋田での生活を営んでいる。
 震災の被害はこの秋田ではさほど大きな被害はなかったようだ。だが災害時は流通形態の乱れからガソリンや生活物資が不足していたらしい。
 今はいつもの平常な生活が営まれている。
 毎日の様に報道される災害現地の情景。確かにここ秋田のこの病院にも災害地からの転院されてきた患者は何名かいる。そして、秋田に避難して来た人たちの中にも心身を冒され、この精神科を受診し治療を受ける患者も増えつつあった。
 指導医の元、外来の診察に入院患者の管理や状態管理など、今まで行ってきた業務とさほど変わらない業務をそつなくこなしている。
 休日は歩実香のところに行って話をした。
 返ってくることのない声に僕は話しかけている。
 いつも、僕の中にいる歩実香に僕は話しかけている。
 秋田市は海辺にある市だ。初めて日本海側の海を僕は見る事が出来た。
 太平洋側の海とは違う。この季節のこの海は穏やかだ。
 潮風が僕の体をさするようにする抜ける。

 歩実香、一緒に来たかったな。
 日本海側の海も広いな。

 もう歩実香とは来ることは出来ない、いや、一度も来た事のない日本海側の海を眺め、沈む夕日を目にし、溢れる涙を抑えながら僕の心をゆっくりと沈みゆく太陽の様にその海に沈ませていく。
 逢いたい。出来る事ならその姿をもう一度……
 願う事のない想いを抱いた時、彼女は応えてくれた。

「また……逢えるよ将哉」

 その歩実香の声に僕の涙は流れた。また本当に歩実香と逢える日が来るのなら、そんな日が来るのなら。

 だが、まだその時の僕には運命と言う言葉は、その姿を明かしてはくれていない。

 そう、その年の大曲の花火に行くまでは

 8月の第4土曜日に毎年行われる《《大曲の花火》》に行くまでは……

 あの花火の日、出会った少女は僕の心に新たな光を差し伸べてくれた。
 あの時ここで歩実香と一緒に観た花火。
 今僕の座る隣には彼女はいない。
 いるはずのないその姿を僕は感じながら、夜空に打ちあがる花火をこの目に焼き付ける。
 夜空に広がる大きな花火、そしてその後に伝わり響き渡る音。
「ようやく見る事が出来たよ」
「そうだね。ようやくだよ将哉。また見る事が出来て嬉しい」

 すうと心が和やかになる。まるで歩実香が隣にいるかのように……
 一つの花火が打ちあがりそして消えゆく。静寂な夜の世界が僕を包み込む。
 その暗闇の中には歩実香は現れてくれない
 誰もいない僕らの秘密のこの場所。ただ偶然にこの場所で花火を見ただけだった。
 暗がりの土手の道を歩く音が近づく。
 誰も来るはずはないと思っていた。でも確かに近づく足音、弱くそして疲れ切ったような足音が僕の後ろで止まった。
 打ちあがる花火の光に照らされた後ろに立つその少女の姿を見た時

 僕の心臓の鼓動は高鳴った。

「歩実香……」

「きっとまた逢えるよ」
 歩実香が僕に囁いた。

 また出逢う事が出来た。

 そう、僕と蒔野巳美との出会いはこの大曲の花火があったから出逢えた。
 歩実香によく似た少女

 だが、彼女の心はすでに崩壊していた。

「ねぇ、君。そこに突っ立てないで、ここあいているから座りなよ」
 病院を退院して1か月がたった。
 桜の花は満開に咲き誇り、あの固い蕾の姿はもうどこにも見る事は無い。
 そして私は休学していた高校を退学した。
 もう一年留年をして通う事も出来たが、私には高校に通う気はなかった。
 新しい生活……何だろう。今まで親戚と呼べるかどうかも分からない所をたらい回しされたせいかもしれないが、新しい生活が始まったんだと言う新鮮さは不思議と生まれてこなかった。
 おばさんは私の事に詮索はしない。
 かと言って今までの様に腫物に障る様な感じでもない。
 ただ、お互いにまだ遠慮しているのだ。
 親子ではない。そして今まで知らなかった人の家。
「あなたの家なんだから遠慮しないで」と言われたが、実際どうおばさんと接していったらいいのかがわからい。
 将哉さんは「それでいいよ。あせる必要もそして、自分を責める必要もないんだ」
 そう自分にも言い聞かせるように私に言う。
 後で知った事だけど将哉さん、杉村先生は本当はまだ研修中の先生だった事。そしてこの春その研修が終わり精神科への本格的な研修が始まる。
 新たな世界へ将哉さんも向かっている。
 おばさんが休みの日、裏にある小さな畑に種を一緒に蒔いた。
「ちゃんと芽が出るといいね」
「そ、そうですね」
 何となく会話もまだぎこちない。実際私はそのぎこちなさが歯がゆい感じがしてたまらない。
 そんな私をおばさんはただ暖かく見守ってくれている。
 2週間ごとに外来へ診察を受けに病院に行く。診察してくれる先生は杉村先生、将哉さんじゃない。だけど、診察が終わると将哉さんを病院の中で探し出し、小さく手をふる。いつも彼はそれに気づき彼もまた小さく手を上げる。
 見ていると本当に忙しそうにも見える。でも、彼の動きは穏やかだ。あせりつまずきそうになる様なそんな姿は感じられない。
 一つ一つを確実に何かに向かい動いているようにも見えた。

 5月の連休を前に将哉さんにある事をお願いしてみた。
 それは……

 それは、私がいたあの宮城の地へ一度行ってみたいと。

 将哉さんはすぐには返事を返さなかった。
 そして一言
「まだ、巳美ちゃんには辛すぎないか」
 それでも一度、あの海に私は行きたかった。いいえ、今の私を変えなければと芽生えた気持ちが、またあの海に私のこの弱い気持ちを捨てに行きたかった。
 海は私の気持ちを捨てる場所……
 いろんなことを私はまだ引きずっている。
 あの海に、私は捨てる。
 私のこの弱さを。例えまたあの恐怖がよみがえようとも私はあの海に行きたかった。私のすべてを捨て、私のすべてを奪った海に。
 震災からすでに1年以上が過ぎた。
 未だに福島の原子力発電所からの放射能汚染については対応に迫られた報道がなされている。
 現地の状況はすっかり変わり果てている事も流れるテレビの映像から知っている。
 実際、あの海……あの防波堤の所まで行けるかどうかさえも解らない。
 それでも私はあの海に向かいったかった。
 数日後、将哉さんから連絡があった。
「担当の先生からも僕が一緒に行く事で了解をもらったよ。連休中は僕も仕事が入っているから連休が終わったころでもいいかな」
「うん、ありがとう将哉さん」

 本当に行けるとは思ってもいなかった。
 恐怖がないと言えば嘘になる。
 まだあの恐怖と悔しさはこの体の中に潜んでいる。
 だけど私は向かわなければいけないあの海に……

 将哉さんの運転する車で私はあの想い出の地、そして私の心の中に大きな苦しみを植え込んだあの地へと向かった。

 高速道路はある程度復旧はなされていたが、将哉さんもいろいろと情報を集めてくれて高速道路は一部のみの区間を利用し後は一般道を走った。
 途中
「本当に大丈夫か? 今ならまだ引き返す時間は十分にある」と私に尋ねて来た。
 それでも私は「行く」と一言応えた。
 海に近づくにつれ外の景色は今までとは違う景色が目に入りだした。
 崩れた家、誰もいない建物。いたるところのある進入禁止の看板の姿。
 もうあの頃の面影は見ることは出来ない景色が続いた。
 将哉さんは私のいた地域の近くから出来るだけ海辺に行ける所を探しながら車を走らせる。
 ほんの1年前まで居た所なのに立ち並ぶ家も無くなり更地となったところをいつまでも車は走り抜ける。
 建物は何もなくなっていたが何となく見覚えのある所。
 車を止めてもらった。
 そして降りてその場所を歩き出す。
 流れ倒されたガレキはすでにきれいに片付けられていた。
 見覚えのある雰囲気がする。その光景は全く変わってしまったけど、確かに私はここに懐かしを感じる。
 ある家があっただろうと思われるところで私の足は止まった。
 何もなくなったところ、でも私の目にはちゃんと家があり玄関があってお母さんが玄関口から出てくるのが見える。

 そう、ここは私が住んでいた家があった場所だった。

 ただ、その場所を眺め涙を流す。
 将哉さんがそっと肩に手を添えて
「ここ、巳美ちゃんの家があった場所何だろ」
 こくりとうなずいた。
「そうか、これてよかったね」
 またうなずいた。
 何もなくなっていた。本当に何もなくなっていた。
 湧き上がるお母さんとの暮らしたあの日々が浮かび上がりそして消えていく。
 そして海の方に顔を上げた。
 いつもの防波堤はすぐそこにある。
 車で行くほどではないがここに車を置いていくわけにはいかない。また車はゆっくりと動きだしそして、いけるギリギリの所で止まった。
 進入禁止の立て札があったが車を降りて私は防波堤へ歩き出した。
 一部崩れ壊れてしまったところもあった、でも私がいつも、
 いつも私と和也と一緒にいた所は無事だった。

 その防波堤にあがり、私は海を眺める。
 変わり果てた景色、でも海の姿は変わらない。
 潮風が私の髪を静かにたなびかせる。

 ようやく来ることが出来た。そして、ようやく戻ることが出来た。
 私を、私達を襲った海。
 その姿は今どこにもない。

 海面は陽の光に照らされ、テトラポットの下を静かに波がよせていた。

 広くどこまでも広がるその海を眺め私は、この海に自分の心の中にある弱さを投げ捨てようとした。
 いつも私がここで自分をこの海に投げ捨てていたように……
 でも海は、私が久しぶりに来たこの海は、その弱い私の心を捨てさせてはくれなかった。
 海が語る。
 その弱さは捨ててはいけないと。
 初めて海が私に応えてくれた。

 あなたが想っている弱さは、本当は強さなんだと。

 海が私に教えてくれた。

 もろく、そして儚い人の心。
 その心を支え、支えられるのは、その弱い心があるからこそ出来る。
 そしてその心があるからこそ人は強く生きる事が出来るんだと

 そのなびく潮風は私の中に語り掛けてくる。

 そしていま私の傍にいてくれるのは将哉さん。もう和也は私の傍に寄り添う事は無いでも心の中でいつも彼は生きている。
 それは将哉さんも同じだろう。
 彼の心の中には今も歩実香さんが生きている。

「ねぇ、将哉さん」
「なんだい。巳美ちゃん」
 将哉さんも真っすぐ私が望む海を見つめている。

「……私、将哉さんが好き」

 一言この海に向けて言い放った。
「将哉さんの心の中に歩実香さんが生きていても私は……あなたが好きです」

 僕は……
 僕は一生歩実香の事はこの僕の中から消し去ることは出来ないだろう。
 だけど、僕も新たな自分を迎え入れなければいけない。
 歩実香によく似た彼女。
 始めは歩実香の面影を追い僕は彼女に想いを重ねた。
 その想いは日ごとに変わりその姿が今はっきりと見えた。
 彼女は歩実香じゃない。でも……僕の今一番支えになっているのは彼女の存在だ。

「もう意地張るんじゃないの。将哉」
 歩実香の声……いや、これは自分の声だ
 僕は
 僕は彼女にキスをした。
「これが答え」と静かに離れ彼女に言った。
「もう、いきなりだったからびっくりしたじゃない」
 私の心臓はドクンドクンと音をたて、顔が熱くなるのを感じていた。
「ごめん、でも僕のホントの気持ちだ」
「馬鹿、本当に馬鹿なんだから、いきなりキスで答える? 将哉っていつも……ごめんなさい」
 ふと歩実香の姿が彼女にかぶる。

「将哉、幸せになってね」
 潮風がその言葉を僕の耳に運んでくれた。
 そして、この広い海に彼女、歩実香の姿と声は消えていった。

 一つの想いが、新たな想いを呼んでくれた。

 まだ心臓はドキドキしている。でも嬉しかった。
 そっと彼の肩に寄り添った。
「私ここに来たかった理由もう一つあるの」
「それは?」
「それはねぇ、私の目標。その目標を現実のものにしたいからこの海に誓いに来たかったの」
「巳美ちゃんの目標って?」
 少し防波堤にあたる波が強くなり、潮風が私達二人の体にまといつく様に流れ始めた。

「私も医者になる事」

 彼女、蒔野巳美も一つの大きな目標を持ち、そして一歩を歩みだし始めた。
 宮城から戻り、私達はある約束をした。

 共にお互いの夢をかなえようと

 私は高卒認定試験を受け大学、医学部に進学する。
 将哉さんは物凄く大変だと言う。でも私はその目標に向かいたい。
 どうしても私は自分の目標を現実のものにしたい。
 今までとは違う想い。
 あの時、あの海は私の弱さを捨てる事を拒んだ。

 その弱さが私の強さだと教えてくれた。

 私はいつも逃げていたんだ。現実の自分から
 だから私はあの海に自分を捨てていた。でも、もう今は海に捨てる自分なんかいない。
 不思議だった。日ごとに私の心は軽くなる。
 あんなに重くのしかかっていた何かが溶け出す様に軽くなっていく。

 今、私はものすごく充実している。

 通院もひと月に1回に減った。
 将哉さんと逢う回数が減る……そんなことを考えていたら嬉しい事に、前より将哉さんと過ごす時間が増えた。
 将哉さんが休みの時、私に勉強を教えに来てくれる様になった。
 本当に心強い家庭教師だ。
 遅れていた分相当頑張らないといけない。
 将哉さんの教え方はとても分かりやすかった。学校の授業を聞いているより何倍もの速さで後れを取り戻している様に感じる。
「元々巳美ちゃんは理解力がいいからだよ」
 そう頬めてくれる言葉が嬉しい
 日ごとに元気が出てくるこの感じ、今まで感じた事のなかった心の中に湧き上がるかのように、自分の未来を勝ち取りたいと言う願い。
 今の私は本当に充実していると思う。

 秋田は次第に初夏の色を見せ始めた。
 木々の緑は少しづつ濃くなり、吹き抜ける風は気持ちを軽くさせてくれる。
 その頃からだろうか。私は将哉さんの住むマンションに行くようになった。
 初めて彼のマンションに行ったのは、ちょっとしたきっかけがあった。
 ある日私の携帯に
「ごめん、巳美ちゃん今日はそっちいけないや」
「どうして? 仕事なの」
「いや、ちょっと……大したことないんだけど、体調悪くて」
「調子悪いって大丈夫なの?」
「うん、まぁ休んでいれば大丈夫だよ」
 そ言い彼は電話を切った。
 その時私はまだ将哉さんのマンションの場所を知らなかった。
「おばさん、将哉さんのマンションの場所教えてもらえますか?」
「どうしたの?」ちょっと不思議そうにおばさんは応えた。
「さっき電話で調子悪いって……」
「まぁ、そうなの。私が送ってあげるわ」
 おばさんのその言葉に一瞬間をおいて
「おばさん、私……一人で行きたい」
「わかったわよ」にっこりと笑みを浮かべ、冷蔵庫から何品かの食材を袋にいれて
「今地図いてあげるから、それとこれで何か作ってあげなさい巳美さん」
 まだぎこちない私たちの会話、でも少しずつ私とおばさんの距離は近づいているような感じもしている。
 おばさんが持たせてくれた地図を頼りに、バスを乗り継いで将哉さんが住んでいるマンションの前までやって来た。
 初めて、私は一人でこの秋田の街の中を歩いた。
 途中、コンビニの前を通り、店員が接客している姿をガラス越しに眺めていた。
 色んなお店が並んでいる。
 ずっと病院の中だけにいて、通院もおばさんの車で病院に真っすぐ向かう。
 そんな生活しか送っていなかった。
 今、自分がいるこの街の事、何も知らないなって思う自分がいた。

 将哉さんの部屋の前のドア。呼び鈴を押そうとする手が少し震えていた。
 チャイムが鳴って少ししてから、鍵が開けられる音がする。
 なんだか心臓がドキドキしている。
 ドアがゆっくりと開けられ、その奥からスエット姿の将哉さんが私の姿を見て驚いていた。
「巳美ちゃん」
「ごめん、来ちゃった」
 ゴホゴホ、せき込み、その顔色も悪かった。
「あ、上がってもいい?」
「あ、ごめん。散らかっているけど」
 初めて入る将哉さんの部屋……
 きちんと片付いている……とは言えなかったけど、やっぱり将哉さんの性格通り、まぁまぁかなぁと言うのが第一印象の部屋の散らかり様。
「具合どうなの?」
「熱があるんだ、それと喉の痛みと咳とね」
「風邪? 熱どれくらいあるの」
「んーさっき測ったら39度位」
「え、そんなに。お薬は?」
「帰りがけに処方してもらってきた」
「ンもう、そんなに具合悪いんだったら何でもっと早く連絡よしてくれなかったの」
 少し言葉に刺を差し込んだ。
「早く横になって寝ていて。それと何か食べれる? おばさんがおうどん持たせてくれたから」
「うん、ありがとう。ごめんね」
「馬鹿、具合の悪い時はお互い様でしょ。それに……私に意地張らないで……」
 なんでイラついているんだろう。
 将哉さんに向ける言葉になぜか刺が入る。
 また小さな声で「ごめん」と返す将哉さん。
 即席だったけど、暖かいうどんを将哉さんの前のテーブルにそっと置いた。
「美味しい」
 ゆっくりとそのうどんを食べてくれた。食慾はあったから少し安心した。
 そんな将哉さんの姿を見ていると何だろう。物凄く愛おしく感じる。
 ずっと前から知っているような、この人のいいところも弱い所も知っているような。そんな気がする。
 ずっと前から……知っている人。私の想いすべてをささげていた人。
 多分、歩実香さんの影響かもしれない。
 毎日目にする歩実香さんの遺影。
 始め、彼女のその姿を見る事が私は正直嫌だった。
 将哉さんが愛した人。
 その人の家に、そして歩実香さんが染みついた空間にいる事が辛かった。
 私があの宮城の海に行きたいと言ったのはその想い……感情を捨てたかったからかもしれない。
 そう、私はわがままだった。
 私の中にはまだ和也の存在が生きている。それなのに、私が好きになった人の想いを何も考えていなかった。
 将哉さんの中にも歩実香さんの存在はずっと生きているんだと言う事に。
 その将哉さんを私は受け入れる。そう歩実香さんの想いと一緒に受け入れる。それが彼を愛することだと言う事を解っていたはずなのに。

 静かに寝入る彼の姿を気にしながら少し散らかった部屋の片づけをして、そっとその顔をずっと眺めていた。

 偶然出会ったあの大曲の花火の日
 あの時私の意識は多分どこかに飛んで行ってしまっていたんだろう。
 どうしてあの場所に行ったかもわからない。
 あの時の悲しみと恐怖、そして絶望感。
 今もないと言えばそれは嘘になる。
 時々耐えられないほどの孤独感を感じる時がある。
 でも私はあの家に住む様になってから誰かに守られているような気する。
 私を襲う孤独感を優しく包み込んでくれる。
 多分、私を優しく包み込んでくれているのは和也ではない気がしている。
 歩実香さんが私をいつも見てくれているのかもしれない。
 そんな彼女に私は嫉妬心を抱いていたんだ。
 将哉さんを好きになればなるほどその気持ちは大きくなる。それが嫌だったのかもしれない。

 私は、彼の中に生き続ける歩実香さんを受け入れるためにどうしたらいいのだろうか。
 例え私の姿が……
 似ていたから
 だから将哉さんは私を好きになってくれたの……かもしれない。
 年も離れている。
 それでもいい。
 それでも私はこの人を愛している。
 お互いの傷ついた心が呼び合っているのかもしれない。

 だとしても私の今のこの気持ちは変わらない。私を導いてくれる人それが将哉さんだから……
 まだ小さな愛かもしれないけど、この気持ちを私は大切にしたい。

 彼のベットにうつ伏せになって私はいつの間にか寝入っていた。
 ふと目を覚ました時、彼の手が私の髪を優しくさすっていた
「ごめん、起こしちゃった」
「ううん」
 そっと頭を上げ彼の顔を見る。穏やかな優しい顔。
「熱は?」
「下がったみたいだよ」
「ほんと?」
「多分……」
 おでこを彼の頬にあてて
「みたいね……よかった」
 にっこりと微笑んだ……もう一人の私と共に

 その時感じた……私の心の中にも歩実香さんが宿っていることを。
「お母さん行ってきます」
「巳美忘れ物、お弁当」
「あ、ごめん。ありがとうお母さん」
「気を付けてね」
「うん、それじゃ、改めて行ってきます」
 あれから月日は瞬く間に過ぎ、今、私は医学部の卒業をまじかに控えていた。
 医師国家試験。この医学部に入る最終の目的でもあるこの試験も終わった。
 私としてはこの6年間やれるだけの事はやって来たつもりだ。
 でもそれは私一人だけの力ではない
 私の傍にいつもいてくれていた将哉さん。そして私を陰ながら支えてくれた『お母さん』
 私は養子縁組をして蒔野から辻岡の名字となった。
 辻岡巳美
 今の私の名だ。
 お母さんは始めからそのつもりでいたらしいが、時間を掛け時を見てこの話を私にしようと決めていたらしい。
 大学受験を受けるまでのあの1年間。私は高卒認定試験を受けその認定を得る事が出来た。そして1年間医学部への受験へ向け必死に頑張った。
 その姿を二人はずっと見守ってくれていた。
 いいえ二人だけではなかった。もう一人、その姿に触れる事は出来ないけど、しっかりと私達の中に生きている。
 お姉さん。歩実香さん。
 今思えば、昔まだ将哉さんと付き合いだした頃、心に抱いていた嫉妬は私の嫉妬じゃなかったのかもしれない。あれは歩実香姉さんの想いだったのかもしれない。
「何戸惑っているの? 私に遠慮してるの?」ってね。
 歩実香姉さんは本当に将哉さんの事を愛していた。だから私に将哉さんを幸せにしてほしかったんだと思う。そして私自身も幸せになる事が姉さんの願いだったと自分勝手かもしれないけどそう思った。
 不思議だけど信じてもらわなくてもいいんだけど、歩実香姉さんはいつも私に声をかけてくれていたから……

 あれからもう一度あの宮城のあの海に行った。
 海は穏やかに私たちを迎えてくれた。

 あの海が私に与えたもの
 それはあの投げ捨てた自分だった。ずっとあの海に投げ捨てていた私の心。
 その心を海はそっくりそのまま返して来た。

 そして、和也との想いも……そのまま
 私はその全てを受け止める。
 もうその想いに負けたくはなかった。強いんじゃない、弱いんじゃない。
 その想いに向かう事が、その願いに向かい一歩を歩むことが大切なんだと。その時海は教えてくれた。
 すべてを奪った海が私に返した物
 それは私の心だったんだと思う。
 ようやく私は自分を取り戻したんだ。
 そしてようやく出会えることが出来た。和ちゃんに……
 私の親友、冨塚 和美《とみずか かずみ》に
 震災からずっと音信不通だった和ちゃん。生きているのかどうかさえも分からなかった。
 でも彼女は生きていたしっかりと。
 和ちゃんは看護師になっていた。震災の後自分に出来る事は人を救う事じゃないかって……和也が亡くなった事を知り、私の事を必死に探した。でも私の行方は分からないままだった。和ちゃんは私も和也と一緒にもうこの世にはいないものだと思っていたらしい。
 和ちゃんも絶望の淵にいてその有様をその目で見たからこそ、この道を選んだと言う。
 私が今、医学部にいて医者を目指している事を言うと
「え、あの巳美が……うそ。信じられない」と目を丸くして驚いていた。
 そして将哉さんを見ながら
「もしかして、巳美の彼氏?」
「う、うん」ちょっと恥ずかしそうに返した。
「そっかぁ、巳美も今幸せに頑張っているんだ。良かったよ」
 そんな和ちゃんも昨年の夏に最愛の人と結婚した。
「今度は巳美の番だからね。早く医者になって彼氏と幸せになってね」
「うん」もう涙で言葉にならなかった。
 いろんな想いが一気に溢れて来て……和ちゃん、和ちゃんとは離れていてもずっと親友だよ。
 心の中で叫んでいた。

 秋田の春はゆっくりと静かに訪れる。
 3月の下旬。大学の卒業式も終わり、あとは医師国家試験の結果を待つだけだった。
 桜のつぼみは赤みを帯び始めもうじきその可憐な花を咲かせようとしている。
「ねぇ巳美、最近思うんだけど、あなたほんと歩実香に似て来たわね」
 お母さんがぼっそりと裏庭にある小さな畑で一緒に種をまいている時に言った。
「そうぉ」
「本当に頑固で、意気地なしで我慢強くて自分の事しか考えていない」
「あ、ひどーーい。それって物凄くわがままだって言う事でしょ」
「そうよ。歩実香と一緒」
「だってお母さん仕方ないでしょ。私、歩実香姉さんの妹なんだから……」
 お母さんは私を強く抱きしめた。
 泣きながら
「ありがとう」
 母親の想いが私の中に沁み込んで行く。
 その時知る母親の想いを……そして私の産みの親の想いを。
「試験合格しているといいね」二人で青い空をゆっくりと流れる白い雲を見ながら願った。

 そう、将哉さんも見ているかもしれない、どこまでも続くその空に

 合格発表の速報サイトで自分の番号をドキドキしながら探し出す。
「あった」
 見つけた時嬉しさよりも何よりも先にSNSで将哉さんに「医師国家試験、合格したよ」って送っていた。

「おめでとう。巳美が頑張った成果だよ。一緒に祝福してあげたいけど傍にいられなくてごめん」
 多分あっちは真夜中だろう。でもすぐに返信が来た。もしかしてずっと待っていたのかもしれない。
 今将哉さんはアメリカにいる。向こうの大学で3年間の研修を受けている。
 今年の夏に帰国予定。
 始め3年間と訊いた時、目の前が揺らいだ。
 一番傍にいてほしい人が遠い地へと行ってしまう。その寂しさだけが私を襲った。
「一次帰国も出来るからずっと逢えない訳じゃない。でも僕も離れるのは本当に苦しんだ」
 将哉さんは私に話してくれた。
 歩実香さんと離れ、この秋田と東京の距離だけでも、おなじ日本にいるのに離れている事の辛さを。そして歩実香さんの苦しみを。
 そして一通の手紙を私に見せてくれた。
 歩実香さんが書いた手紙

 最後に彼女が将哉さんに書いた手紙

「僕は……巳美が歩実香の様になってしまううのが怖いんだ。僕は同じ過ちを犯したくはない。もう愛する人を失いたくないんだ。今ならまだ辞退は出来る。巳美がもし不安なら僕はアメリカに行く事を辞める」

 僕はアメリカに行く事を辞める
 将哉さんはそう言った。でもそれは彼の希望を閉ざす事になる。
 私のために自分の進むべく夢を諦める。
 私達は誓ったはずだ

 共にお互いの夢をかなえようと

 将哉さんが歩んだ道を私が閉ざす事は出来ない。
「不安じゃないって言ったらそれは……違う。物凄く不安だし、歩実香さんと私も同じになるかもしれない。我慢できる保証なんてどこにもない。でも……私のせいで将哉さんの夢を閉ざす事は出来ない。私達誓ったでしょ『共にお互いの夢をかなえようと』だから行かないでとは言えない。でも行ってほしくない」
 泣きながら将哉さんにしがみついて訴えた。
 矛盾している事を言っているのは分かる。でもそれがあの時の私の本心だった。
 泣きじゃくる私に将哉さんは
「やっぱり辞退するよ。巳美を一人にしておけない」
 その言葉を訊いた時ホッとする自分がいた、そしてその自分に怒りがこみあがる。
 自分の意志とは違う言葉が口から出た
「行って……アメリカに。そして自分の夢にまた一歩近づけて」
 あの時そう言って後悔はしていない。

 机の引出しから小さな個箱を取り出し左の薬指にその中のリングをはめる。
 その手を窓の外に広がる空に向けた。
 陽の光に光輝くリング。

 始めこの指輪の話を訊いた時違和感を感じなかったと言えば嘘になるだろう。
 でもこのリングには歩実香姉さんの想いが込められている。そう将哉さんに対する想い。苦しみながら将哉さんを想うその気持ちが込められている。歩実香姉さんにプロポーズした人にはちょっと悪いけど、それもその人の願いでもあるのだから。
 将哉さんが渡してくれたこの曰く付きの指輪。
 他の指輪だったら私は今まで耐えられなかったかもしれない。
 姉さんが将哉さんに想う気持ちと私が将哉さんに想う気持ちは一緒だから。
 だから私は二人で最愛の人を待っている。

 私達のもとにまた戻ってくる日を……