「紀穂、これ見て！」
自分の席で読書をしていると友達の輪湖がスマホを突きつけてきた。
「なに？」
私は読んでいた三百ページほどの本を閉じて、輪湖のスマホに視線を向けた。
そこには、SNSの広告画面が開かれている。
私は輪湖のスマホに目を凝らした。
恋人を作りたいけどいい人がいない、とお困りの方
現実理想恋愛を試してみませんか。
詳しいことは、アプリをインストールしてから！
さっそく「現実理想恋愛」をインストールする
なんとまあ、詐欺っぽい広告だろうか。
「これが、どうしたの？」
「ええっ！知ってるでしょ、私が恋人を作りたいこと。このアプリ、インストールしようかなと思って。紀穂はどう思う？」
「めっちゃあほらしいけど、好きにすれば？」
「めっちゃあほらしい⁉」
「うん。めっちゃくちゃあほらしいよ」
「どうしよう……。辞めよっかな。うん、やっぱ辞める！」
「決断するの速すぎじゃない？」
「えー、でも、あほらしいのは嫌だからさあ」
「ふーん」
「あ、そうだ！」
「ええ、次はなに？」
私は呆れ顔で言う。
どうせ、またこの「現実理想恋愛」と同じでくだらないことだろう。
「紀穂が、この「現実理想恋愛」インストールしてみてよ。それでどんなだったか教えてくれない？」
「え、無理」
「お願い！」
「無理」
「おねがーー」
「無理」
私は輪湖の言葉を遮って言うと、輪湖は寂しそうな顔をしてから「まあ、いいや」とすぐに吹っ切れた。
輪湖は昔から切り替えが早い。
けれども、その代わりに悲しかったことなどは解決するまでずるずると引きずってしまうというのが難点なのだけれど。
キーンコーンカーンコーン。
ちょうど輪湖との会話が終わったところで、帰りの支度を促すチャイムが鳴った。
日直の人は早く帰りたい態度を隠しもせず、だるそうに帰りの挨拶をしてからすぐに自身の席にそそくさと戻っていった。
私はぱぱっと荷物をまとめてさっさと騒々しい教室を後にした。
帰り道を歩きながら、私はさっきの輪湖が見せてきた広告のことを考える。
私も恋人がほしくないわけじゃない。
さっきのはきっと普通のマッチングアプリなんだろうけれど、なんだかただのマッチングアプリではない気がするのは、私の願望から生まれた勘違いだろうか。
帰ったらインストールするだけしてみてみよう。
確認するだけ、確認するだけ……
確認だけしたらすぐに消せばいい。
私は自分に暗示をかけるようにそう思った。
「ただいまー」
私がいつものようにそう言うと、聞こえてくるはずの返事はなく、きぃんと耳が痛くなるほどに静まり返ったままだった。
お母さんは買い物に行ったのか。
私は洗面所で手洗いうがいをしてから、二階にある自分の部屋に入った。
鞄をそこら辺に置いて、布団の上に寝転がってスマホを取り出す。
ええと、げ、ん、じ、つ、り、そ、う、れ、ん、あ、い、っと……
「本当に、で、出てきたーー」
私はインストールするボタンを押してから数秒だけ待つと『「現実理想恋愛」がインストールされました』と画面に表示された。
私はアプリを立ち上げてみる。
まずは「利用規約」が出てきたけれど読まずに同意するを押すと、次に進んだ。
ピンクのハートが浮いている背景の画面が現れたと思うとすぐに黒い文字で『このアプリは、現実で本当に自分の理想の恋人がつくれます。自分の理想の恋人について情報を入力するだけで次の日には設定した通りの恋人が自分の前に現れることになります。』とあった。
ていうことは、現実に恋人ができるってこと⁉
私は何度も迷ったけれど、アプリの誘惑に負けてしまい、やってみることにした。
現実に恋人が出来るだなんて嘘だろうとは思うけど……
『プレイする』というボタンを押すとすぐに次の画面へ移った。
性別、名前、年齢、生年月日、血液型、性別……などなど本当に理想の恋人のプロフィールを入力するだけでいいらしい。
プロフィールなんか思いつかないし、まあ一応好きだしお兄ちゃんのでいっか。
と思い、私はお兄ちゃんのプロフィールを上から順番に入力した。
流石に名前までは一緒にできないから、昔に飼っていた愛犬から「しゃく」という名前にした。
キャラクターは、五分ほどですぐに完成した。
『完成！』と表示されているところをタップすると、『♡明日の朝には出来上がっています♡』と文字が一瞬出てきて、その後は元のピンクのハートが浮いている背景が広がるだけだった。
ぴこん、ぴこん。
メールの送られてくる音がした。
誰からかと思い、私はスマホを確認してみる。
メールの送信元は現実理想恋愛のアプリ内チャットからだった。
名前は、しゃく、となっている。
今私がつくった恋人だよね、しゃくって。
メールまでくるの？
私はアプリを開いて吹き出しのマークが出ているところを押した。
すると、しゃくからのメールが二件、きていた。
しゃく『はじめまして』
しゃく『僕のことは、これからしゃくって呼んでね』
きほ『初めまして。これからよろしくお願いします。しゃく、これでいいですか。』
しゃく『ありがとう、嬉しいな！』
きほ『そうですか。私のことも、きほって呼んでください。（漢字だと、紀穂です）』
しゃく『よしっ、これで恋人っぽいね。あとは、敬語じゃない方がいいかな』
きほ『わかった。タメ語でいいんだね？』
しゃく『うん。恋人っぽくいたいから』
しゃく『ひとつ、やりたいことがあるんだけど、いい？』
きほ『可能なことならいいよ。で、なに？』
しゃく『明日から、一日に一回だけ電話しない？僕、紀穂ちゃんの声が聞いてみたい』
きほ『いいけど』
しゃく『やったー！ありがとう』
きほ『どういたしまして』
しゃく『それじゃあ、明日の電話楽しみにしてるね。おやすみ』
きほ『うん、おやすみ』
なんかお兄ちゃんにすごく似てる。
まあ、お兄ちゃんのプロフィールを入力したから、そこは似るよね。
「はあー、ただいま。ほんとに山田さんの話って長くて疲れるわあ、だからって山田さんにはお世話になってるし言うわけにはいかないわよねえ……」
玄関ドアを開ける音がした後に、せっかちなお母さんの早口で喋る声が聞こえてきた。
お母さんも帰ってきたし、スマホを充電して下に降りようかな。
そう思い、私がスマホを充電に挿してから、下に降りるとお母さんは冷蔵庫に食材を詰め込んでいた手を止めて振り向いた。
「紀穂、帰ってたのね。今日はお兄ちゃん帰りが遅いらしいから、紀穂がご飯作るの手伝ってくれない？」
お兄ちゃんの帰りが遅いなんて、一ヶ月前くらいから遅くなりがちなんだよね。
なんかAIの研究みたいなのをしてるってこの間言ってたな。
私は袖捲りをしながらお母さんに「いいよ」と返す。
「今日のご飯は肉じゃがと豆腐の味噌汁なんだけど、紀穂は豆腐の味噌汁やってくれる？」
「豆腐を切るところから？」
「そうよ。じゃ、よろしくね。お母さんは肉じゃがやってるから」
「はーい」
私はまな板の上にそのままで置いてある豆腐を等しい大きさに四角く切って、小鍋に放り込む。
火を中火でつけて、そのまましばらく待つ。
お湯が沸いたら味噌をおたま一杯分掬ってちゃぷちゃぷと溶かす。
そして器に注げば、完成だ。
「お母さん、味噌汁できたよ」
「ありがとう、もう休んでていいわよ。肉じゃがもできたら呼ぶわね」
「わかったー」
私は食事の時のテーブルに座って、テレビをつけた。
番組表を見てみたが、特に面白そうなのがやっていないから、適当にグルメ番組にチャンネルを合わせた。
「いやあ、美味しいですね。こちらのお漬物は、自家製なんですか？」
可愛くもない女性がきゅうりと茄子のお漬物を食べながら、店主の人に聞いている。
「はい。こちらの漬物は自家製なんです。」
店主の人もにこやかな愛想笑いで返している。
最近はこんな番組ばかりだな。
「ただいま！」
お兄ちゃんが帰ってきた。
私とお母さんは「おかえりー」と視線を玄関のある方に向けて言う。
「紀穂ー！」
お兄ちゃんはもう真夏で暑いというのに、いつものようにくっついてきた。
「ちょっと、は、な、れって！」
「うちの妹、本当に癒し！」
大袈裟だなあ。
妹ぐらいで。
あれだけ、大真面目なくせに家族のことは大好きなんだよね。
「ほらほら、二人ともお箸とお皿並べてちょうだい。もう少しで肉じゃがもできるわよ」
お母さんは嬉しそうだけれど呆れているような不思議な表情で言った。
「もう、母さん羨ましいんでしょー、紀穂と僕が一緒にくっついてるのが。」
「違うわよ」
なんかお兄ちゃんって勉強とか成績は優秀なんだけどちょっと馬鹿なところがあるよね。
「ただいま」
お兄ちゃんに続いて次はお父さんが帰ってきた。
リビングに入ってくると同時にお父さんは「おっ、今日は肉じゃがか？」と言った。
「ええっ！匂いだけでわかったの？すごっ」
お兄ちゃんと私は同時に同じことを言った。
やっぱり兄妹だから、考えていることが似てるのか。
「あ、先輩から電話だからちょっと出てくるー」
お兄ちゃんはなにも音がしていないはずなのに、スマホを確認して外に出て行ってしまった。
プルルルル、プルルルル。
私の部屋の方から電話の音が聞こえてきた。
お兄ちゃんも電話だし、私も電話だし、なんか偶然にしては凄いことだな。
私は2階に上がって、自分の部屋に入る。
スマホから充電コードを抜くと、急いで画面を確認した。
え、しゃく？
なんでこんな時間に？
しかも、なんで電話？
疑問を持ちつつも「もしもし」と出てみる。
『もしもし。聞こえてる？声が聞きたくて、明日まで待ちきれなくて、掛けちゃった。急にごめんね』
「いや、大丈夫だけど。」
『声が一瞬でも聞けて良かったよ。じゃあね！』
「うん、おやすみ」
そう言って私は通話終了ボタンを押して通話を切った。
私はリビングに戻ると、お兄ちゃんはまだ帰ってきていなかった。
「凄い偶然ね。真斗と紀穂にちょうど電話が掛かってくるなんて」
真斗とは、私のお兄ちゃんの名前だ。
「ああ、凄い偶然だな。いくら兄妹だからといっても」
お父さんとお母さんは感心したような表情で頷きながら言う。
「はあ、先輩から重要な話なのかと思って気を引き締めて出たらさあ、ただの飲み会の誘いで、がっかりしちゃったよ」
お兄ちゃんが1分ほどしてから、帰ってきた。
「お兄ちゃんって飲み会とかいっぱい行きそうな感じなのに、そこは意外だよね」
私が言うとお兄ちゃんは「だって、お酒って苦いしまずいし飲んで得することなんかひとつもないじゃん？そういうのは嫌なんだよ」とやれやれとでも言うように首を横に振って見せた。
ひとつひとつの動作が面白いんだよなあ、お兄ちゃんは。
「ご飯、冷めちゃうわよ」
お母さんが椅子に座りながら突然そう言った。
「ああ、そうだった」
私たちは思い出して椅子に座った。
「いただきまーす！」
まずはお母さんもお父さんもお兄ちゃんも一番に肉じゃがに齧り付いた。
ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ。
今日もうるさいアラームが部屋に鳴り響く。
私は飛び起きてすぐにアラームをピッっと音を立てて消した。
はー、鼓膜が破れるかと思った。
ピコン。
まだ6時だというのに、メールの音がした。
多分、しゃくだと思う。
確認してみると、やっぱりしゃくだった。
現実理想恋愛のアプリを開いてメールを見る。
しゃく『おはよう！』
きほ『おはよう』
しゃく『今日の放課後とか、会えない？』
しゃく『できたら、でいいんだよ！嫌だったらいいからね』
きほ『別に、嫌じゃないよ。ちょっと会ってみたい気持ちもあったし。』
しゃく『ふううーん。つ・ま・り！それは、僕のことが好きってことだよね！』
きほ『まだ会ったこともないし好きかはわからないよ。でも、少しだけ気になってはいるよ』
しゃく『嬉しい！』
きほ『放課後はどこで会うの？』
しゃく『どこでもいいよ』
きほ『じゃあ、KOME珈琲は？』
しゃく『いいよ！僕、あそこのメロンソーダが好き！』
きほ『へえ。じゃあ、KOME珈琲で決定だね。時間はどうする？』
しゃく『四時半でどう？』
きほ『四時半ね、いいよ』
しゃく『それじゃあ、また放課後にKOME珈琲で！』
一日しかやり取りをしたことがないのに、もう会うのか……
見たことのない人と初めて会う、となると緊張してくるな。
私は着替えをしながらそんなことを思った。
気づけば、あっという間に放課後になっていた。
いつも通りに授業を受けていつも通りに過ごしていたけれど、頭の中はしゃくのことばかり考えている。
頭から全然離れてくれない。
気になりすぎてついついしゃくの見た目を想像してしまう。
さっきからずっとKOME珈琲で待っているのだけれど、約束の四時半をすぎても中々こない。
授業が長引いてるとか？
もしかして、忘れちゃったのかな。
などと不安になりながら待っていると5時になったところでやっとしゃくらしき人がやってきた。
一瞬でしゃくだってわかるように大きく「しゃく」と書かれたTシャツを着て現れた。
大胆すぎじゃない？
いくら会ったことないからってわざわざTシャツに自分の名前を大きく書く人がいる？
いないよ。
「ごめんね、遅くなっちゃって。電車で人身事故が起きて電車が遅れちゃって」
とふわふわとした染めていなそうな茶色っぽい髪に犬のように可愛らしい見た目のしゃくは、申し訳なさそうに両手を合わせてそう言った。
「事故なら仕方ないよ」
「そうだよね。じゃあ、なに食べる？」
「ええ、早速、食べ物？食いしん坊なんだね」
「へへ、まあね」
「私はアイスコーヒー。しゃくは？メロンソーダ？」
「ええと、うん！メロンソーダ」
「じゃあもう頼んじゃうよ？いい？」
「うん、いいよ」
私は席についているボタンをピンッポーンと押した。
「はい、お客様、ご注文でしょうかぁ」
ささっと若いお姉さんが注文を取りに来てくれた。
「このメロンソーダとアイスコーヒーでお願いします」
「かしこまりました。アイスコーヒーにはミルクをお入れしますか？」
「あ、大丈夫です。」
「では、ご注文繰り返します。メロンソーダが一点と、アイスコーヒーのミルクなしが一点でよろしかったでしょうか」
「はい」
「それでは、ごゆっくりどうぞぉ」
そう言って若いお姉さんはぺこりと頭を下げてレジの方へ戻って行った。
その後は、同じバンドが好きだったり、趣味が一緒だったり、としゃくとは気が合うことが多くて、すぐに意気投合した。
そして、気づけばアイスコーヒーもしゃくのメロンソーダも中身は空になり、時間も6時過ぎになっていた。
「そろそろ帰ろっか」
と私が言い出すとしゃくは悲しそうな顔を一瞬したものの「そうだね、もう少しで暗くなっちゃうし」と同意してくれた。
帰りは方面が違うらしいから一緒には帰れなかった。
私は今までの楽しい会話を何度も何度も頭の中で反芻した。
そして気づけばいつの間にかもう家に着いてしまっていた。
「ただいまー」
靴を脱いでリビングのドアを開けて言うと、お母さんがテレビでニュース番組を見ていた。
「あら、おかえり。真斗と会ったりした？」
「え、なんで？会ってないけど」
と私が言うとお母さんは「そう。実は真斗がまだ帰ってこなくて。帰りが遅くなる時はいつも連絡がくるのに」と心配そうに眉を下げて言った。
「忙しいんじゃない？そのうち帰ってくるでしょ」
「そうよね」
チャンチャラチャチャチャンチャンチャン。
お母さんのスマホが鳴った。
あまり聞き慣れない音だ。
お母さんは「はいはい」と画面を確認した。
すると、目を丸めて「警察？なんの用かしら」と呟いた。
私は思わず「えっ」と声をあげてしまう。
近くで何かあったのだろうか。
「なんで警察から電話が掛かってくるの？近くで殺人事件とかがあって注意してください、とか？」
私はお母さんに聞いてみる。
けれど、「ちょっと出てくるから静かにしてて」と言ってからリビングを出て行ってしまった。
なんだか、胸騒ぎがする。
ざわざわと胸が音を立てる。
本能が何か起きていると訴えているような気がしてならない。
何かが起きようとしてるの……？
はらはらしながらリビングのソファに座って待っていると十分ほどしてからお母さんが青ざめた顔で戻ってきた。
これは、ただ事じゃなさそうだ。
「…………ま、まん、びき…」
お母さんは小さい声で反芻するように言った。
なに？
万引き？
万引きが、どうしたの？
近くのコンビニとかで万引き事件が起きたとか？
ていうか、それだけでわざわざ警察から電話が掛かってくる？
ということは……お兄ちゃんかお父さんに何かあった？
でも、なんで万引き？
じゃあ身近の人が万引きをしたとか？
「ま、真斗が、ね、ご、5時、ごろに、す、スーパーで、まん、万引きを、し、しっ、した、って……」
「お兄ちゃんが？万引き？」
お母さんは俯いて無言でこくりと頷いた。
噓でしょ？
何かの悪い冗談、だよね？
「それで、捕まった、の？」
「そう。それで、ぬ、盗んだのが、ちょっと事情があるもの、らしく、て……一日だけ家に帰れないらしい、の」
お母さんははぐらかす。
なに、事情があるものって。
ストレスが溜まってたのかな。
でもだけで犯罪を犯す？
「ただいま」
お父さんの落ち着いた声が玄関から聞こえてきた。
お父さんが帰ってきてしまった。
どうしてよりにもよって今日は早く帰ってくるの？
お兄ちゃんのことをどう説明すればいいだろうか。
いつも落ち着いているお父さんがもしかしたら、怒り狂っちゃったり、お酒に溺れるようになっちゃうかも……
けれども、黙ってるわけにはいかない。
私はお父さんがリビングに入ってくるのを待った。
きっとお母さんは話せないだろうから、私からお父さんに話すしかなさそうだ。
「なんだ、今日はやけに静かだなあ」
靴を脱いで廊下を歩く音がしてから、いつもの調子でお父さんはそう言いながら静かにリビングの扉を開けた。
「お父さん、大事な話があるの」
私はゆっくりと深呼吸をしてから、お父さんにお兄ちゃんの万引きのことについて話した。
話終わると、お父さんは目をまんまるに見開いたけれど「そうなのか。じゃあ、明日警察に迎えに行けばいいんだな」と落ち着いたまま聞いてきた。
きっとお父さんだって急に帰宅と同時にこんなことを言われて戸惑っているだろう。
でも、ここでそのことを表に出してしまうとお母さんと私が取り乱してしまうかもしれない、と気を遣ってくれているのだと思う。
「……明日の午後なら、来てくれって」
しばらくして落ち着いてきたのか、お母さんが静かにぽつりと言った。
「そうか」
お父さんはその答えに対して短く返す。
私は、どうすればいいの？
この場から立ち去る？
一瞬、そんなことも考えたが、やっぱりこの場にいることにした。
私は気まずさを隠せないまま冷蔵庫を開けて麦茶をコップに注いで、コップ一杯分を飲み干した。
「ところで、真斗は何を万引きしたんだ。うちには金の余裕だってあるだろう」
お父さんがこんなことを言うのは珍しかった。
私は驚きつつも「それが、なんか事情があるらしくって……」と正直に返すと、お父さんは「じゃあ、まだ知らされてないんだな？」と言った。
「二人とも、お腹空いたんじゃ、な、ない？ご飯に、しましょう」
お母さんはなにごともないふうを装って言った。
無理しているのはバレバレだ。
「ああ。母さんと紀穂も疲れているだろうから。真斗のことは明日迎えに行けばいいんだろう」
お父さんまでなにごともなかったふうを装って無理をしてぎこちない笑みを浮かべている。
お兄ちゃんのことで頭がいっぱいだから、あまりお腹空かないな。
「私、お腹空いてないから今日はいらない」
「そう、でも食べたほうがいいんじゃない？」
「もう寝るから」
「そう……」
「おやすみなさい」
「あ、え……お、おやすみなさい」
私は自分の部屋に入って扉を閉めるばたんという音と同時にとてつもないだるさに襲われた。
きっと、お兄ちゃんのことに私も少なからずショックを受けているんだ、と今更ながらに気づいた。
「はあ」
思わずため息が洩れた。
私は着替えもせずに布団の上に寝転がった。
眠くて、瞼が閉じそうだ。
「ねえ、紀穂。」
突然扉の方から声が聞こえてきた。
私は布団から飛び降りて扉の方に目を向けた。
なんで、しゃくがここに？
「なんで？」
「なんで、僕がここにいるのかって？それはね、君とずっと一緒にいるためだよ」
「どういうこと？」
「あのね、僕は昔から君のことを見てきたの。生まれた瞬間も、全部全部。」
「え？」
「ふふ、わからなくてもいいんだよ。もうすぐずっと一緒になれるんだから。」
「ねえ」
「なに？」
なんだか、怖い。
「僕がいいよって言うまであっちを向いててくれない？」
「わかった」
「いいよ」
十数秒ほどでしゃくは言った。
恐る恐る振り向くと、なにも変わらなかった。
「ねえ、紀穂は僕のことが好き？」
「え、う、うん、好きだよ」
「そっか。じゃあ、ずっと一緒でいようね」
そう言ってしゃくは背中に隠していた片手を私の方に突き出した。
その手には、長くて立派な新品っぽい包丁が握られていた。
「ひっ」
私は怖くなって一歩後退りをする。
怖くて怖くて仕方がなかった。
今すぐにでもその立派な包丁で刺されそうで。
すぐに逃げ出したいけれど、震えすぎて尻もちをついてしまう。
「紀穂、愛してるよ」
包丁が振り下ろされる。
私の胸にぐさりと突き刺される。
けれども、痛みは感じなかった。
痛みよりも怖さの方が勝っていた。
そこで、私の意識は永遠に消えた。
紀穂。僕の紀穂。
これで、ずっと一緒にいられるね。
実はあのアプリは、真斗が作った仮想AIアプリなんだ。
そのアプリから生まれたAIが、僕。
でも、僕は真斗なんだ。
そういえば、この前、うちに彼氏を連れてきたよね。
一ヶ月で別れたようだけど真斗は許せなかった。
紀穂は真斗のことだけ見ていればいいのに。
真斗は紀穂が大好きなの。
血も繋がってる。
誰よりも紀穂を幸せにできるのは真斗だけだ。
母さんにだって父さんにだって、紀穂を幸せにはできない。
きっと真斗だけだ、紀穂を幸せにできるのは。
そうだ、これも言わなきゃ。
あの万引きではね、包丁を盗んだの。
あの立派な包丁。
あまりにも高かったから万引きをするしかなかったんだ。
ああ、こんな話をしてる場合じゃない。
真斗も早く死ななきゃ。
紀穂と一緒に天国に行くんだ。
地獄でも一緒に行く。
一人では、どこにも行かせない。
だから早くこの紀穂の血で濡れた包丁を真斗の胸に刺さなきゃ。
怖気付いている暇じゃない。
まあ、全く怖気付いてなんかないけど。
と思いながら「紀穂、今行くよ」と言ってから、僕は真っ赤な包丁を真斗の胸に突き刺した。
