私の祖父だったソエギさんは、私にとって草木を支える添え木だった。

だから私は密かに祖父のことをソエギさんと呼んでいる。

花と映画と煙草が好きだったソエギさんは、声優にならなかったことを看護師さんに詰られるほど心地の良い稀有な声をしていた。

それに加えてぼそぼそと喋るから、「話していると眠くなる」と決まって娘の母は言う。

そんなソエギさんにメールを送るのが、十代の私の日課だった。

その内容の殆どは学校の愚痴で、身も心も耐えられなくなった私は入学した年の小春日和に学校へ行くことをやめた。

教科書で膨れ上がった鞄、息苦しい制服、馴染めない教室、大人とは思えない教師たち───解き放たれるのだと思った瞬間、清々しい気持ちが全身を駆け巡った。

ソエギさんと電話で会話をする母の涙声に耳を傾けながら、私は窓辺で蒼穹に目を瞠った。

その日が私のハレの日だった。

それからは家事全般を私が引き受け、その合間にギターを弾き、本を読み、映画鑑賞に明け暮れた。

同級生たちが授業に耳を傾け、人名をノートに書きとめている頃、私は見終わった映画の題名を手帳に書きとめ、生意気にもその横に黒星をつけた。

そしてソエギさんに学校の愚痴ではなく、映画の感想をメールで送った。

秋が近づくとソエギさんの家の周りには、ソエギさんが育てたコスモスが彩り豊かに咲き誇る。

秋の桜には黄や橙もあることを、ソエギさんから教わって知った。

私の花好きは多分、ソエギさんの影響なのだろうと思う。

ソエギさんは祖父というよりも、親友に近かった。

理解されず傷つくたびにソエギさんは、「気にするな。やりたいことをやればいい」と何度も傷口を塞いでくれる。

ソエギさんの「がんばれ」は誰よりも優しく、不安や恐れ全てを拭い去る魔力があった。





歩みの遅い私を追い風が急かし、散った花びらが足元を通り過ぎてゆく。

茫洋とした白い世界をただ真っ直ぐ歩いてゆくと、小さな駅舎と花壇のあるロータリーが遠目に見えた。

花壇に植えられたガーベラが、あの日の記憶をまざまざと蘇らせる。

炉に()るソエギさんを見送ったとき、大理石の床には私の涙で小さな涙溜(るいだ)まりができていた。

けれど別れ花のガーベラで染まったソエギさんの桃色の頭蓋骨を見たとき、私はそこはかとなく安堵した。

生きることから解き放たれたソエギさんは今、あの小春日和の私と同じように幸せなのだと。

私を見送るガーベラを目の端に、誰もいない駅舎の中に足を踏み入れると、乗降場には私を待つように単行列車が停まっていた。

乗り込むと背後で静かに扉は閉まり、やがて列車は私だけを乗せて緩徐に動きだした。

緑色のロングシートに腰を下ろし、景色の変わらないキャンバスのような車窓から視線を外すと、膝に置いた手の中にクリスマスカードがあることに気づく。

見覚えのあるそれは毎年ポストに届いていたソエギさんからのささやかな贈り物だった。

そっと開いたカードの余白には、「頑張ったぶんだけ幸せになれます」と月並みな言葉が癖のある字で書かれている。

世界にあふれたどんな言葉もソエギさんを通せば彗星の輝きを放つようで、どんなことが起こっても気丈でいられた。

重なっていたもうひとつのカードは、ヒツジを模した可愛いらしいカードで、それは私がソエギさんにあげた最初で最後のバースデーカードだった。

ソエギさんが亡くなる数か月前、来年は「おめでとう」 と言えない────私はそう予感し、メールではなくカードをソエギさんに送った。

それが虫の知らせだったのだと気づいたのは、ソエギさんの余命が僅かだと聞かされたときだった。

ヒツジを裏返すと、そこにはなにも知らない私の字が陽気に踊っていた。

病を隠していたソエギさんは、どんな気持ちでこのカードを受け取ったのだろうか。

涙を拭うように指で文字を撫でたそのとき、列車が大きな音を立てて急停止する。

咄嗟に手すりにつかまると、開かれた扉から甘い芳香が車内に流れ込んだ。

故郷の春を想わせるその匂いに(いざな)われるように列車から降り立つと、目の前にはライラックの並木道が果てしなく続いていた。

振り向けば降りたばかりの列車や線路は既に霧散し、私と並木道以外にはなにもなく。

風に揺れるライラックの囁きを見上げながら、私は甘い並木道を歩き始めた。

故郷のシンボルだったライラックには、見つけると幸せが運ばれるという五弁花がある。

それを教えてくれたのもソエギさんで、「やっと見つけた」と写真を見せてくれた淡い記憶に思わず笑みが零れると、目の先でひらひらと葉が舞い落ちた。

風が葉をさらうと、瞬く間にコスモスが咲き溢れる世界へと様変わりし、白一色の空から私を呼ぶ声が優しく響いた。

その声は紛れもなくソエギさんのもので────刹那に私の体が鱗粉のように風に散らされてゆく。

最後に導かれた場所は、あの小春日和と変わらない鮮やかさと煌めきに満ちた、美しい世界だった。