「さてと、そろそろ始めようか!」

 不敵な笑みを浮かべた瞬間、不意に視界からアラングレンの姿が消えた。
 仲間の中で最もレベルの高いノルンだけが、辛うじてその姿を目で追う。

「リムさん、危ない!」
「なっ――」

 目にも止まらぬ速度で迫ったアラングレンが、クリムヒルデの腹部を強烈に蹴り付けた。咄嗟に両腕でガードするも勢いを殺せず、クリムヒルデの体は大きく吹き飛ばされてしまう。
 クリムヒルデはレベル42の強者だが、それでも勇者級との間には圧倒的な壁が存在する。咄嗟にガードしたのもほとんど直感的。動きそのものはまるで追えていなかった。

「速すぎる……」
「リムさん、今治療を」

 痛みに表情を歪めながら上体を起こしたクリムヒルデが、血の混じった唾を吐き出した。慌てて駆け寄ったレンカが、すぐさま魔導スキルによる治療を開始する。

「アラングレン! あなたの狙いは私のはずです。あの子達には手を出さないでください!」
「もちろんだよ。だからこそ今の一撃は加減した。僕が殺すのは氷魔軍のスパイだけ。勇者としてミルドアースの民は絶対に殺さない」

 アラングレンの言う通り、クリムヒルデ達を殺す気などないのだろう。ただ、邪魔だから荒っぽい方法で退いてもらっただけのこと。事実、アラングレンはまだ武器すら抜いてはいない。危険人物だが、それ故にミルドアースの民は絶対に殺さないという言葉は信用出来る。行き過ぎた行為で懲罰を受けた経験が多々あるが、少なくとも味方と認識している者や民間人を傷つけたことは一度もない。標的はあくまでもノルンだけのはずだ。

「リムさん、負傷中のところ申し訳ないのですが、流れ弾でシグリちゃんとレンカさんが怪我をしないように守ってあげてください。アラングレンは私が何とかします」
「……心得た。加勢出来ずに済まぬ」

 力不足を歯がゆく思いながらも、今の自分に出来ることを精一杯果たそうと、クリムヒルデは口元の血を手で拭い、非戦闘員であるシグリとレンカを背中に庇った。

「正義の味方みたいな物言い、気に入らないな。まるで僕が悪者みたいじゃないか」
「この場で善悪について議論するつもりはありませんが、あなたが私達の平穏な日常に、無粋に踏み入って来た侵入者であることは紛れもない事実です」
「スパイが平穏な日常などと、笑わせてくれる!」

 アラングレンの抜剣と同時に、戦闘が開始された。

「その首、刎ね飛ばしてやるよ!」

 一瞬で視界から消えたアラングレンがノルンの背後に現れ、ハルペーで首を狙う。高速移動の秘密は一瞬で相手の背後を取る強化スキル「バックボーン」だ。
 しかし、実戦から離れていたとはいえ、ノルンは現在でもレベル61を誇る勇者級。背後を取られたくらいでアドバンテージを与えたりしない。ノルンの首にハルペーの刃が接触した瞬間、衝撃で全身が一気にひび割れ崩壊した。

「氷の人形?」
「正解です」

 ノルンは一瞬にしてアラングレンから背後を取り返した。アラングレンが攻撃したのはノルンが作り出した精巧(せいこう)な氷像。ノルンの得意技の一つ、生み出した氷像と自身の位置を一瞬で入れ替えるスキル「氷像置換(ひょうぞうちかん)」による緊急回避だ。これは至近距離限定ながらも一種のワープスキルでもあり、氷結戦争終盤にノルンが新たなに取得したものだ。このスキルのおかげで危機的状況を切り抜けられた場面も少なくない。

「殺しは好みません。お縄について頂きます」

 命は奪わぬ程度に、アラングレンを戦闘不能状態とする。先ずは危険な二本のハルペーを封じようと、ノルンが氷の武器を生み出す「氷武創造(ひょうぶそうぞう)」のスキルによって、凍てつく氷の(むち)を二本生成、背後から即座にアラングレンの両手首へと鞭を巻き付け、鞭と凍結効果とで二重に両手を拘束したが、

「この程度でお縄など、僕も甘く見られたものだな!」
「そんなっ!」

 一瞬にして氷の鞭が粉々に砕け散る。あろうことかアラングレンは、腕力だけで氷の鞭の拘束を破壊したのだ。
 同じ勇者級同士。ノルンとていつまでもアラングレンを拘束しておけるとは思っていなかったが、時間稼ぎにすらならないというのは想定外だ。

 動揺に付け入ったアラングレンが一瞬にして肉薄。瞬時に右のハルペーを水平に振るった。動揺しているとはいえノルンとて勇者級。咄嗟にバックステップを踏み、体はハルペーの刀身の軌道上から外れたが、

「かっ――」

 刀身が通過した瞬間、回避に成功していたはずのノルンの腹部に真一文字の赤い線が引かれ、血液が派手に飛び散った。激痛に表情を歪め、ノルンはその場に膝をついてしまう。刀身の回避に成功したことは、決して見間違いではない。事実、ハルペーに血液は一滴も付着していない。

「……リーチを見誤りました。あなた、スキルで刃を延長しましたね?」
「ご名答。正義のためなら僕は騙し討ちも厭わない」

 刃を回避したはずのノルンに傷を負わせたカラクリ、それは剣術系スキル「幻刀(げんとう)」だ。「幻刀」は見えない刃で攻撃のリーチを延長させるトリッキーな効果を持つ。武器のリーチを見誤らせる性質から、不意打ちや暗殺に適した危険なスキルだ。取得条件が難しいスキルでもあり、勇者級でも所有者は限られている。

「……以前よりもかなり強い。今のあなたのレベルは御幾つですか?」
「82だよ。氷魔軍のスパイ共を根絶やしにすべく、血反吐(ちへど)を吐きながら己を鍛え上げて来た」
「……妄執(もうしゅう)の域ですね」

 アラングレンがいとも容易くノルンの拘束から逃れた理由も実に単純であった。いかに勇者級同士といえども、レベルが20も違えば戦闘能力の差は歴然。レベル82相当の腕力に加え、アラングレンは魔導耐性にもステータスが振られている。執念深く、妥協を知らないアラングレンは加えて、魔導士の多い元氷魔軍関係者を万全の状態で殺害すべく、スキル面でも魔導耐性を万全に整えていた。レベル差に加えて相性も最悪。再会してしまった時点で、ノルンにとってあまりにも分の悪い状況であった。

「お別れだ、氷魔軍のスパイ!」
「ノルンさん!」
「止めてください!」
「ノルン殿! 逃げろ!」

 膝をついたノルンの脳天目掛けて、アラングレンは容赦なく凶刃《きょうじん》を振り下ろす。
 シグリ、レンカ、クリムヒルデが叫ぶも、祈りも物理的な距離もあまりに遠い。

 誰もがノルンが脳天を割られる凄惨(せいさん)な光景を想像したが。

「……何だと」
「前にも言ったよな。不満があるのなら、力づくで俺を黙らせろって」

 金属同士が接触する音が響くと同時に、アラングレンの表情が歓喜から驚愕へと変貌した。振り下ろされた凶刃は、ノルンを庇うようにして突如として出現した、グラムロックの丸盾によって防がれていた。

 ノルンの窮地を救ってほしいというシグリ、レンカ、クリムヒルデの願い。ユニークスキル「ワープスキル・救世主(セイバー)」が、グラムをこの場へと導くに条件は十分に満たしていた。