Vtuber――近年において、もはやこの概念はそう珍しいものではない。
以前まではその稀有にして奇抜なジャンルということもあり、風当たりが強かったが、先人らの活躍によって今や、10000人以上をも上回るVtuberが世に排出された。
V――Virtualの利点は、己の姿を人前に晒す必要がないということ。
配信してみたい、が自分の姿を晒すのはちょっと……、とこう思う輩はごまんといよう。
特に容姿に対し強いコンプレックスを持っているものならば特に、この心情は強い。
しかし、Vtuberだとコンプレックスは一切関係なくなる。
自分が思い描く理想の姿で活動できる、これが最大の利点と言って他ならないだろう。
巨乳でも人外娘、イケメンでも……などなど。すべてが己の思い描くがまま。
理想とする姿で活動できるのだから、これほど画期的なジャンルはまず他にはあるまい。
つい最近では、男性もかわいい女性のアバターを用いて活動することも多々見られるようになった。
かつてならば安いボイスチェンジャーで、明らかに中身が男だと容易にわかってしまうが――それが逆に面白いとして、捉える輩もむろんいる――近年ではそちらの技術も向上して今や、性別がどちらかが区別するのが極めて難しくなった。
とにもかくにも、Vtuberというジャンルは現代社会において欠かすことができない一種のエンターテイメントなのはもはや言うまでもなく、かく言う彼もまたそのエンターテイメントを楽しむ一人のリスナーだった。
『みんなーおはようでござるぅぅぅ……うぅ、眠たい』
「朝早くからご苦労だなぁ、この人」
画面越しの彼女――赤備えの甲冑を纏う姿は正しく侍そのもの。
もっとも、草摺はスカートのような形状になっていて、二の足を晒すというなんとも現代日本人向けな出で立ちであるが。濡羽色のポニーテールに黄と緑というオッドアイが特徴的なVtuberを彼――和泉雷志が知ったのは、本当に偶然によるものだった。
たまたま、metubueを起動させたらオススメに彼女があがっていた。
ライブ配信をしていたから、少し顔を出してみた。以上。
なんとなく、という実に曖昧すぎる理由で入っただけにすぎない。
『みんなはこれからお仕事でござるかぁ? 某も今からお仕事……あふぅ』
「めちゃくちゃ眠そうだな……こいつ、夜きちんと寝てないのか?」
何気なく、コメント欄の方を見やった。
彼女は――どうやらかなり人気のVtuberであるらしい。
チャンネル登録者数も、後少しで80万人を迎えつつある。
平日の朝ともあって、これから学校や仕事とあるだろうに視聴者数も7000人を突破していることから、このVtuberがどれだけ人気かは一目瞭然だ。
それだけ人気とあれば、コメントの流れが緩やかははずもなし。
《これから仕事だよ!》
《学校……行きたくない( ;∀;)》
《今日は休みー(^O^)》
《ニートですが何か?》
いや速すぎるだろう、と雷志は思った。
辛うじて読めたのはそれだけで、認識したころにはもう遥か上部へと流れていってしまう。
(本当に人気があるVtuberなんだな、この娘……)
最初は、単なる好奇心でしかなく、彼自身もどうせすぐにブラウザバックするだろうと自覚していた。
というのも、満足にこれまで特定の人物を応援したことがこの男には一度としてない。
飽き性だから、というわけでもなければ他人に興味がまるでない――多少は、そうかもしれないが――と、いうわけでもない。
強いて理由をあげるとすれば、入室した時と同様、なんとなくにすぎなかった。
そう言う意味では今回、雷志の中ではかなり長居している方だと言っても過言ではない。
加えてだんだんとこの少女侍Vtuberについて、興味を持ちつつあった。
『みなもお仕事に学校、大変でござるなぁ。だけどみんな、無茶はしてもいいけど無理をしたら駄目でござるよ? これは某とのお約束でござ――え? “この前朝の4時までゲーム配信してたじゃん”? それは……アレでござるよ。そう、アレ。負けられない戦がそこにあったがため、某は逃げることなく戦ったまでにすぎんでござる。敵前逃亡は某の配信じゃ打ち首獄門にござるよ、みなのもの』
《ありがたきお言葉じゃあ……( ノД`)シクシク…》
《大将も無理はしないでね!》
《これで今日も頑張って乗り切れますありがとう!》
《これからも足軽として応援していくから! 足軽サイコー!\(^o^)/》
『ふふふ、足軽のみなありがとうでござるぅ……ふわぁぁ』
「本当に眠そうだな……でも、いかに人気なのかがよくわかった」
Vtuberは、今やちょっとしたアイドルのようなものと言っても過言ではあるまい。
日々多忙な毎日よって心身共に多大なストレスを抱える現代日本人を癒す。
少なくとも雷志の中にはこのイメージ像が強くあったし、それは誇張表現だとも断言するのもやや早計だろう。
事実、大手Vtuber事務所が幕張メッセなどでライブをした、という事例がきちんとある。その際の入場数は国内問わず、遠路はるばるわざわざ海外から来訪したファンまでいるぐらいだと、雷志は小耳にはさんでいた。
個人勢か企業勢か、彼女がどちらに組するかは、路傍の石に等しき疑問である。
どちらにせよ、数多くの支持者がいる。雷志には、その事実さえあれば十分に事足りた。
『それじゃあ、某そろそろお仕事だから朝の配信はこの辺りで終わるでござるね~。みなのもの、また夜に配信すると思うからまた……いや、必ず招集に応じてほしいでござるよ。それじゃあ、おつかね~』
「――、っと。もうこんな時間か。俺もそろそろいくか……その前に」
雷志はチャンネル登録のボタンをトンッ、と軽くタップをして配信から退室した。
(そう言えば、名前ちゃんと見てなかったな……。まぁ、後で見りゃいいか)
彼女のことはこれからもっとたくさん知っていけばよかろう。
なかなか有意義な一時だったな、と雷志は思った。
事実は小説よりも奇なり――実際におきる出来事の方が、フィクションよりもずっとはるかに複雑で波乱に満ちていること。
確かにそうだな、とつい最近になって思う出来事があった。
より厳密にいうならば、ついさっき……10分ほど前のこと。
住み慣れた町をのんびりと歩く。別段何も不可解な点はない。
予定こそなかったものの、自宅にジッと引きこもる道理もないし何せ今日の天候は大変よい。
雲一つない快晴、さんさんと輝く太陽はとても眩しくて温かく、その下で優雅に小鳥達がすいすいと泳いでいる。
時折頬をそっと、優しく撫でていく微風はほんのりと暖かい。
ふわりと乗せる春の香りが鼻腔をくすぐって、心地良い眠気をももたらす。
今日は正に、絶好のピクニック日和といっても過言じゃない。
だから彼――和泉雷志は散歩に出ることにした。
平日とだけあって、朝早くから学生やサラリーマンの姿でごった返す中を、一人ラフな姿な上にあくせくと行き交う人混みをのんびりとした足取りで進む。
事情を知らない第三者が今の彼を見やれば、さぞ怠惰な男として映ったことに違いあるまい。
朝から働きもせず、自堕落な生活でのうのうとその日を生きる愚か者、と。
実際は、雷志もきちんと職にはついていて、たまたま本日は休みというだけであった。
平日に休みというのは、なにかと融通が利きやすい。
数多くが平日出勤だから、飲食店などが混む心配は差ほどしなくても済む。
朝早くからご苦労なことだ。
もっとも、おれも頑張っているんだけどな、と雷志は思った。
たまたま働く時間帯が他とズレているだけで、なんなら己の仕事は高収入とは裏腹に危険がいっぱいでいつ命を落とすかも予測できない。それこそあらゆるどの職よりも遥かずっと、危険だとも雷志は自負していた。
せっかくの休みなのだから、のんびりとさせてもらうまで。
明日になれば、また……労働という地獄の日々が待ち受けているのだから。
嫌なことには、現実逃避するのが一番の最良といってもよかろう。
それはさておき。
「――、あ、す、すいません!」
「おっと。あぁいや、気にしないでくれ。俺は別に気にしてないから」
「すいませんでしたー!」
道中ぶつかったその少女は、よほど慌てていたらしい。
制止しようとした時には、彼女の小さな背中はすでに人混みの中へと消えてしまった。
(これは、さすがに届けないとまずいか)
足元にちょこん、と落ちている社員証をひょいっ、と雷志は拾い上げる。
“赤城かえで”……なかなか古風でよい名前だな、と雷志は思った。
雰囲気からして恐らく、由緒ある名家に違いあるまい。
一瞬だったとはいえ、どことなく気品ある雰囲気もあった。
とにもかくにも、社員証がなくともあの娘も困るだろう。
幸い社員証に記載された会社と思わしき住所は、現在地からしてそう遠くはない。
行き先さえわかれば焦る必要もなく、たったったっ、と小走りで少女の後を追った。
そうしてついた先は――。
「……めちゃくちゃすげー場所に勤めてたんだな、あの子」
天へと向かって伸びる巨大な高層ビルの前に、雷志は苦笑いを小さく浮かべた。
大小新旧、様々な建造物が群集するこの都心の町並みにおいて恐らくだが、一番の規模を誇るのではなかろうか。
出入口を警護する警備員も、これだけの大企業に勤めるのだ。
スーパーや小企業のそれと比較しても、明らかに面構えからしてまるで違う。
およそ六尺の鉄棍は、陽光をたっぷりと浴びて鈍く重く、それでいてぎらりと不気味に黒鉄に輝く。ボディーアーマーにヘルメットと、装備についてはもはや万全と言う他ない。
見るからにして明らかに常軌を逸脱している彼らの存在が、いかに目前の企業が有名であるかを代弁していた。
であれば、無関係な人間が会社の周辺をうろつけば彼らに不信感を与えるのは至極当然で――。
「失礼ですが、何かここに御用でしょうか?」
ずかずかと近寄られて、改めて警備員の図体のでかさを雷志は理解した。
身長はざっと2mと近くはあろう、体格もがっしりとしてよく鍛えられている。
ボディーアーマーが逆に帰って窮屈そうで、雷志の目にはそれが拘束具のように見えて仕方がなかった。
羆という愛称がこの男にはぴったりだろう。そんなことを脳の片隅で思いつつ、用件をさっさと済ませる。
ここへの来訪はあくまでも、社員であろう少女の落とし物を届けにきただけにすぎないのだから。
「あ~失礼ですけど。この社員証の方って、こちらの企業に勤められていますかね? 実はさっき彼女とぶつかっちゃったんですけど、どうやらその時にこれを落としたみたいで。それで近くだったものですから届けにきたんです」
「どれどれ……確かに、これはこの企業に勤めておられる方のものですね。わざわざありがとうございます、後はこちらの方でしっかりと本人に渡しておきますので」
「えぇ、それじゃあよろしくお願いします」
素直に社員証を渡した途端、羆の顔がわずかに柔らかくなった。
これを脅しに何か要求してくる、とでも思われていたのか……。
だとしたら、それはすこぶる失礼であると雷志は彼らに対し猛抗議せねばならない。
善意として届けただけなのに、あたかも最初から犯罪者と決めつけられていたようで、気分的には決して心地良いものではない。
謝罪の一つでも要求してやろうかとも思わないでもなかったが、そんな彼の思考をクリアにする人物がひょっこりとこの場に姿を見せる。――さっきの娘だ。
クリーム色のポニーテールに、翡翠色という非常に稀有な瞳が印象的で、どこかあどけなさが残る端正な顔立ちと、それらを総合すると誰しもがかわいいと口をそろえるような女性だ。
自動ドアをパタパタと潜るその様子は、どこか落ち着きがない。
何かに対して慌てふためいている、と察するのはその言動を見やれば一目瞭然である。
「あ、あれ? あなたはさっき私がぶつかっちゃった人……!」
彼女の一言に雷志は感嘆の息を静かに吐かせる。
確かについさっき顔合わせをしたばかりだが、時間に換算すればあまりにも短い。
およそ5秒――彼女の場合は特に出社するのに急いていただけあって、満足にこちらの顔は見ていなかったはず。
なかなか記憶力の方が、この娘は優秀であるらしい。
「よく俺のこと憶えていたな。あの一瞬の間で」
「え、えぇ。だって、その……あなたってなんだか、その……すごく目立つから」
「……あー。やっぱり目立つのか、俺は」
少女からの言葉に、雷志はがくりと項垂れた。
しかし、これについては彼女の言い分が正しい。
正しいと彼自身も素直に認知しているので、さして言及したりはしなかった。
身長は177cmとやや高く、朱殷色という非常に稀有にしてどこかおどろおどろしい髪色は時に、相対する者に恐怖を与える。
同様に、血を連想させる瞳は彼の知らぬところでいつしか、鬼眼などという大変不本意な異名までもつく始末であった。
以上から和泉雷志は、近寄りがたい雰囲気こそ放つがいい漢としてそこそこ評判が高い。
「――、まぁいいや。とりあえず、さっきぶりだな。そこにいる警備員さんにもう渡してあるけど、アンタ社員証落としていったぞ」
「えっ!?」
「ん? どうかしたのか?」
「あ、いや、その……」
突然、視線を右往左往してひどく狼狽する様子に雷志ははて、と小首をひねった。
見るからに彼女の言動は怪しいの一言に尽きて、しかし何故そうなったかを雷志は知る術がない。
それ以前として、別段彼女が何者であろうか。彼にすれば微塵も興味もなかった。
今後付き合いがあるのならばともかくとして、彼女との出会いは恐らく一期一会で終わるだろう。
ならばわざわざ互いに素性を知ることも、詮索するのも無粋極まりないと言うもの。
雷志は、落とし物を届けにきた。そして無事本人の手に戻った。これだけで十分事足りる。
長居する道理も、謝礼をせびる気も彼には毛頭なかった。
「――、それじゃあ俺はこれで。あぁ、そうそう。アンタ“赤城かえで”って言うんだな」
「えっ!? いいい、いやいや。だ、誰のことだかさっぱり……」
「いや、思いっきりその社員証に書いてあったし。まぁ、今時にしては珍しい古風で良い名前だと俺は思うぞ」
「あ、ありがとう……ございます?」
「あぁ、それだけだから。そんじゃーな」
今度こそ用件は済んだ。
ひらひらと手を振りながら、くるりと踵を返した雷志はその場を後にする。
(……なんだか、めっちゃ警戒されてるな俺)
背中越しからでも、ひしひしと彼らの鋭い視線が突き刺さるのを雷志は否が応でも感じていた。
いくら部外者だからと、こうも警戒される覚えはこちらとしては微塵もない。
いずれにせよ、今後ここに近寄るのだけはやめておいた方がよかろう。
「――、それにしても……」
ようやく視線から解放されて、人気のない公園のベンチに一角にて。
清々しいぐらい青々とした空をぼんやりと眺める傍らで、雷志は沈思した。
――なかなか、かわいい娘だった。
多分、過去出会ってきた中でダントツかわいいんじゃないか?
あんな娘が務める企業とは、いったいどんな仕事をしているんだろう。
今になって無性に気になってきやがった。
……まるでストーカーのような心境になってきたな――。
危うく犯罪者になりかけた己を、雷志は叱責した。
「――、これはダンナ。こんなところで出会うとは奇遇ですね」
「……せっかくの公園で、しかもここは一応デートスポットの一つでもあるんだぜ? なんで朝っぱらからお前とすごさなきゃいけないんだよ」
「けっへっへ。相変わらず辛辣ですねぇダンナ」
ダンナ、と彼のことをそう呼称する男の第一印象は優男が相応しかろう。
すらりと伸びた高身長に紺色のスーツ、さらさらと流れる金色の髪がよく似合う彼は満場一致でイケメンだった。
ただし、独特すぎる口調のせいで未だモテた試しがないという愚痴を以前、雷志は直接本人の口より耳にしたことがあった。
残念なイケメン――それが彼の総評にして、仕事仲間だから世の中がなにが起きるかわからない。
「――、んで? お前がここにいるってことは仕事の類か?」
「いやいや、今日はあっしも非番でしてね。特に何もやることがないので、こうしてのんびりと散歩でもしているところなんですよ」
「お前もかよ。いい歳した大人が、そろいもそろってやることもなく公園でのんびりとすごす。外見だけみたら完全にニートのそれだな」
「へっへっへ。違いありやせん。ですがこれでもあっしらはきちんと仕事をしていますからね。そこんとこは、胸を張っていいと思いますぜ、ダンナ」
「違いない」
このまま続くかと思われた談笑は、不意に終わりを告げることとなる。
(なんだ、あいつ……?)
朝から男二人して、仕事もせずに公園にいる。
理由がどうであれ、同じように公園ですごす輩がいたとしてもそれはなんら不思議ではない。
雷志があえて疑問視したのは、視線の先にいる男の挙動不審さが酷く目立ったからに他ならない。
トレンチコートを着込み、周囲を嫌に警戒する様は、例え己でなくとも怪しいと思おう。
しかし、自分には差して関係のない話だ。例え今から、仮にあの不審者がとんでもない事件を起こそうとしていても、そこに介入するのは警察であって自分の役目ではない。
未然に防げばもちろん、英雄としてその功績を称えられるやもしれぬし、SNSで広まれば一気に有名人になることも夢ではない。
雷志は、そう言った名声に一寸の興味もない男であった。
よって彼の性格上、不審者の言動をあえて見過ごすことにした。
いつもであれば、そうしていたが……。
(あいつが向かったのって、もしかして……)
嫌な予感が脳裏をよぎる。
誰かが、殺人とは宝くじに当たるようなものだ。と言ったのをなんとなく雷志は思い出す。
それはありえないことだ。たまたま行き先がそうであるだけで、現実となる可能性は天文学的確率に近しい。
だから杞憂だ。
気にする必要は――。
「……仕方ないな。俺、ちょっと用事思い出したから行ってくるわ」
「おや、それじゃああっしもそろそろ」
「因みに、今から何をしに行くんだ?」
「へぇ、久しぶりにスロットでも打ちにいこうかと」
「またギャンブルかよ。それですっからかんになったばっかりだろうによ」
「へっへっへ。こいつだけはどうも切れそうにない縁でございまして。それじゃあ、あっしはこれで」
独特な笑みと共に去っていく後姿を見送りもせず、昭光はさっき来た道を急いで戻る。
一度生じた不安は、ごくわずかなものであったが時間と共にどんどん肥大化し留まることを知らない。
(少しばかり、急ぐか……!)
人気がまだまばらな中を、雷志は一陣の疾風と化した。
一秒でも早く、あの不審者に追い付かねば取り返しのつかないことになりかねない。
その不安は最悪な形で、彼の目前で現実と化してしまった。
「おいおい……派手にやりすぎだろ」
入り口付近は火の海だった。
散らばったガラス片とむせ返るほどのガソリンの臭いから察するに、火炎瓶の類だろう。
大量に用意されていたらしく、緑豊かな景観も今や赤々とした炎に包まれている。
出入口では、先の警備兵が横たわっていた。
ボディーアーマーのおかげか、袈裟掛けに鋭利な刀傷こそあれど、命に別状はない。
「――、おいおい。アンタ、いくらなんでもこれはやりすぎってもんじゃないか?」
「……」
「おーい、聞こえてるかー? 聞こえてるんだから返事ぐらいしたらどうなんだー?」
「……」
「おい無視かよ。ったく、人の話を満足に聞こうとしない奴は嫌いだぞ、俺」
「……」
「よし決定。とりあえず警察が来る前に俺、お前のこと一発殴るわ」
依然として黙したままの不審者であるが、不意に身体をぐるりと反転させる。
およそ、正気のある人間とは言い難かった。
目は血走り、涎をだらだらと垂らす口からは獣のごとく荒々しい呼気が繰り返される。
その在りようは目にも耳にも、大変けがらわしいことこの上なし。
そして、だらりと下がった右手にある一振りのナイフより滴る赤い汁は、もはや何か確認するまでもない。
距離があるにも関わらず、鼻腔をつんと刺激する濃厚な鉄のような臭いがよい証拠だ。
なるほど、と雷志は納得した。
もはや男に他者の声はおろか、まともに思考する能力さえも残っておるまい。
理性なき今、男を突き動かす原動力は凄まじい本能のみ。
であれば雷志がするべきことは決まっていて、地面に転がっていた鉄棒をひょいと拾った。
(この手の得物は、使ったことがないんだが……)
かと言って、白昼堂々光物を用いるわけにもいくまい。
一応、一見すると救いようのない不審者であるが助かる道はある。
そのためには彼を徹底して叩く必要があった。
「まぁ、あれだ。起きたらめちゃくちゃ激痛でのた打ち回るだろうけど、そこは犬に嚙まれたとでも思って諦めてくれ」
その言葉が開戦を告げる合図となった。
いったいどこからかような声が出るのか。奇声に近しい絶叫は人というよりかは獣の咆哮と言ってもよかろう。
どかどかと地を蹴って襲いくる姿は、正しく猛獣そのもの。
雷志はそれを静かに、眉一つ微動だにすることなく見据える。
敵手との距離はおよそ5m前後。不審者の得物はナイフ――刃渡りは、一尺と長め。
明らかに銃刀法違反者で、だからこそ正当防衛として十分に成り立つので雷志に加減という配慮は一切消失した。
ナイフという武器を前にすれば、確かに大抵の人間は恐怖を憶えよう。
包丁でさえも十二分に凶器と化すのに、ましてやコンバットナイフとなると明確な武器として勝手に認識してしまうがために、余計思考は混濁し冷静な判断力を失う。
雷志が恐れを抱かないのは、そこには才も技も不審者にはなかったから。
つまり、ドがつくほどの素人相手に恐れ屈するほど、軟な生き方を彼はしてきていない。
それ故に、鉄棒をぶんと豪快に振るい不審者の手からナイフを弾き落すと、くるりと返した凄烈な一打を顎に叩き込んだ。
ぐしゃり、という不快感極まりないその音には、さしもの雷志も思わず眉間にシワをくっと寄せてしまう。
肉を弾き、骨をも砕いた感触が嫌でも手中に伝わる。
自分がしたことが、否が応でも理解させられる。――それについては、さして特になんの感慨もないが。
大の字の形でどしゃり、と崩れた男に雷志は傍らに寄り添った。
そして――。
程なくして、けたたましいサイレンの音が遠くより反響するのを雷志ははたと見やった。
ようやく警察とかがきたらしく、ならば後はそちらの本業なのでもう己がすべきことはない。
餅は餅屋、せっかくの休日をこれ以上無駄に費やしたくはなかった。
この後も予定は……大してないのは相変わらずだが、とにもかくにも自由を奪われてなるものか。
時は金なり。過ぎ去った時間はどう足掻こうと二度と戻らないのだから。
踵を返してその場から早々に立ち去ろうとした、直前。雷志は何気なく振り返った。
そこには誰もいない。いるのは重傷者二名と容疑者のみ。
視線は自然と上へと延び、そして――あの娘だ。ガラス窓突き破らんとする勢いでべったりと顔を寄せ、こちらを見やるその表情には、驚愕と困惑の感情が色濃く滲んでいる。
よくよく見やれば他の従業員だろう、にしては女性の比率は圧倒的すぎる気がしないでもないが――ざっと目視しただけでも優に20人以上はいよう、女性から見守られる中、今度こそ雷志はその場から立ち去った。
(なんだか、モテ期がきたみたいで悪くないな)
がやがやと野次馬らが事件現場へと向かう光景を横目に、雷志はそんなことをふと思った。
例えるなら、その空はまるで上質な天鵞絨の生地をいっぱいに敷きつめたかのような空だった。
数多の小さな星の輝きは、小さいにも関わらず存在するどの宝石よりもずっと美しい。
ぽっかりと浮かぶ白い月は、氷のように冷たくもとても神々しい。
後少しで今日という日が終わろうとする中、雷志はまだ起きていた。
元々、就寝する時間が極めて遅い。それこそ午前3時にようやく寝る、なんてことも珍しくなかった。
眠気が未だ訪れる様子はなく、それまでの間どうしようかと悩んだ先。
そう言えば、と雷志はスマホを取り出した。
(今日朝に見たあのVtuber、配信ってやってるのかな……)
何気なく、ふと思い出したVtuberのチャンネルを確認する。
ちょうど、ライブ配信をしている最中だったらしい。
時間も五分前とついさっき始まったばかりで、雷志は迷わずリスナーとして入室する。
彼女を推すか否かは今後決めるとして、純粋にどんな配信スタイルなのか興味があった。
ふと、チャンネル名を見やり雷志ははて、と小首をひねった。
(赤城……あかね? あれ、これってどっかで見たような……)
いやいやいやいや。
まさか、そんなはずがないだろう。
これは単なる偶然の一致に過ぎない。
世の中には自分と似たような人間が最低でも5人はいるとも言うぐらいだ。
ならば似たような、それこそ用いた漢字まで同じ人間がいたとしてもおかしくはない。
きっと単なる思い過ごしだろう。雷志はそう自らに強く言い聞かせた。
『――、みなのもの。こんかね~でござる! オウカレイメイプロダクション所属、四期生の“赤城あかね”でござるぅ! 今日も一日お疲れ様でござるよ~!』
「……この声、どっかで聞いたことがあるような、ないような……。まぁ、気のせいだろう。多分」
『えっと、“今日なんかすごい事件があったみたいだけど知ってた?”……あ~なんだか、どこかのビルに不審者が入ったとかいう事件らしいでござるなぁ。某はその時、本当にたまたま遠くで見てたでござるけど、本当にやばかったみたいでござるよ』
「……これ、やっぱり確定ってことか? だって、あそこにいただろこいつ……」
次々と頭の中で勝手にパズルが組み立てられるかのような心境。
もはや疑いようの余地はなかった。何故厳重な警備が敷かれていたか、社員証を返した際彼女が渋い顔をしたのか。
これまでに得た情報が一つの答えへとなるのに、そう時間は要さなかった。
あのビルこそ、かの有名なオウカレイメイプロダクションの本拠地だった。この事実を前にした雷志も、さすがに驚愕せざるを得ない。
オウカレイメイプロダクション――詳細についてはそこまで彼は知らないが、認知度と触り程度ならば一応知っている。
所属するタレント数は総勢30名。オウカ、の名を冠するとおり事務所のコンセプトとして和とファンタジーをとても重んじる。
それ故にVtuberは基本、和のコンセプトのキャラクターデザインであることが多い。
曰く、年明けに開催されたライブではあっという間にチケットが完売になった。
それだけ人気を誇る事務所を、よもやこのような形で知ってしまったとして、雷志の胸中に一抹の不安がよぎる。
意図的でなかったにせよ、互いの顔はばっちりと記憶している。
第一、厳密な住所を記載していなかった事務所の特定も結果として行ってしまった。
むろん雷志は、この事実を周囲に言いふらすつもりは毛頭ない。
それを悪用しようとする気も然り。
自分はともかくとして、一番被害を被るのはタレントの方である。
こと、“赤城あかね”についてはより一層重い処分が下る可能性が高い。
そも、社員証を落とすという失態さえなければ、かような事態にならなかったのだから。
最悪の場合、企業に著しい損害を出したとして懲戒免職なんてことも無きにしも非ず。
そう考えると、さしもの雷志も同情せざるを得ないし、どうにかしてやりたいという気持ちにもなった。
だが、自分にいったい何がしてやれる? と雷志は自らにそう問いかけた。
こちらから出向いて、漏洩しないと言えばいいのか?
ありえないだろう。あんな物々しい警備員を普通に配置するような場所だぞ。
行ったらいったで、多分ロクな目に遭いそうにない。
こればかりは勘だが、おれの勘はよく当たる。それはおれが誰よりも理解している。
だったら、やっぱりこのままほとぼりが冷めるまで黙っておいた方がいいか……。
きっと、そうした方がいい。
『不審者を、たった一人でやっつけちゃうぐらいとても強い人だったでござったなぁ。某もそこそこやる方ではござるけど、あの御仁は某よりずっと強かったでござるなぁ。さすがの某もついつい、見惚れてしまったでござるよ』
「いや、あれ見惚れてたのか? どっからどう見てもビビってるようにしか見えなかったぞ……?」
明らかに声のトーンが先と異なる様子は、リスナー達に嫉妬心を駆り立てる。
曰く、Vtuberのリスナー層は主に男性が大部分を占める。
というのも、男性Vtuberよりも女性Vtuberの方が多いことはデータとして提出されていて、事務所の大半も女性を主に応募しているぐらいだ。性別を偽ってまでVtuber活動するのは、そうした情勢もある。
《ちなみにだけど、その人ってかっこよかった?》
《男? 女? 足軽さん怒んないから言ってみんしゃい》
《探せぇぇぇぇぇぇ! その御仁の首を打ち取るのじゃぁぁぁぁぁ!(# ゚Д゚)》
《俺らのあかねちゃんを……不届き千万なり!》
「いや、お前らめっちゃ私怨たらたらじゃねーかよ!」
私怨を微塵も隠そうとしないリスナーのコメントに、さしもの雷志も顔を青くせざるを得ない。
万が一知られれば、確実に夜道は背後を常に警戒せねばなるまい。
素人に襲撃されたところでさして問題はないが、常日頃狙われるとなるとさすがに気が滅入る。
いくら強かろうと、雷志とて元を正せば一人の人間にすぎないのだから。
(絶対に今日のことは口外しないようにしよう……)
雷志はそう心に強く刻んだ。
『ん~具体的な特徴を言うとコンプライアンスとか肖像権に引っかかっちゃうでござるから、あえてぼかすけど。でも、すごくかっこよかったのは事実でござるな』
「いや本当かよ……」
初対面の時では、雷志のこの容姿に彼女は若干の怯えがあった。
彼女だけではない。初対面の相手からは、彼は最初は必ず恐怖されている。
稀有な髪色に瞳、それらを総合して全身より発する威圧感はどうしても他者を遠ざけてしまいがちになってしまう。
別に好きでこのような姿形に生まれてきたわけじゃない、と雷志は内心で愚痴を吐いた。
それはさておき。
コメントすることもなく、傍観を徹していた雷志の瞳にあるコメントが飛び込む。
《僕、その人と知り合いです》