「……あー、改めて。この店のコンセプトは『初恋は青春の落とし物』。初めての恋は特別で、なのに叶わないことが多い。叶ったとして、大人になるまで続くのは稀。望んで手放したわけじゃなく未練がある恋は、忘れられず心に残る。……だから、その頃の懐かしさと共にドキドキする時間を体感できるのが、この店の売り」

 わたしの隣に腰掛けて、店についての説明をしてくれるアラタくん。ソファーに四人並んで座ると、少し狭くて膝が当たり、何だか落ち着かない。
 そんなアラタくんの説明に被せるようにして、ホスト慣れしているリカが元気に挙手をした。

「ホストクラブって、普通初回だといろんなホストが名刺持って卓につくんだけど、そういうのもないしね。最初から初恋一択! って感じで、一途な気分を楽しめるんだぁ」
「そーそー、そもそもこの店名刺文化ないんだよね、ほら、初恋相手なんだから見知った顔じゃん? だからサユちゃんも、リカちゃんと一緒に初恋気分に浸りながらゆっくりしてってね。初回二時間は料金内飲み放題だしさ!」
「あ……うん……」

 キラくんとリカ、私とアラタくん。四人で横並びになりつつも、自然と二対二で向き合いながら、ちびちびとお酒を飲む。
 いろいろ説明されたところで、ほとんど右から左だ。未だに動揺や緊張から、つい俯きがちになる。上手くアラタくんの顔を見ることが出来ない。

「……初回からいろんな奴がつかないのもそうだし、初恋の綺麗な思い出を汚さないよう、他店みたいな被り同士を牽制し合わせるようなシステムは取らない。だから、半個室なんだけど……周りの目がないからって怖いことはないし、安心して」
「いや、うん……ごめんね。アラタくんに会えると思わなくて、その、なんか変に緊張しちゃって……」
「それは、わかる……俺も、ちょっと緊張してる」
「アラタくんも?」
「ん。でも……緊張する時間が勿体ない。この店に居る間は、俺に恋してくれてた『あの頃』だと思ってくれていいから……サユ、久しぶりに会えたんだし、顔よく見せて」
「う……ん……」

 楽しそうに過ごしているリカ達に比べ、明らかに緊張しっぱなしで無口な私に対して、優しく微笑んでくれる。
 改めて見上げた彼の顔。目の下のほくろも、垂れ気味の目尻も、記憶の中と変わらない。
 その仕草も、癖も、オーダーシートに書くために思い浮かべたかつての彼そのものだった。

 懐かしさと、中学三年で別れた頃の記憶よりも随分成長した彼の姿に、思わず涙が出そうになる。

「じゃあ……ここは私達の中学の教室……にしては、明らかにあれだけど」
「中学校で飲酒してたら、さすがにヤバイな。がくぴーに叱られる」
「……! あー、懐かしい。居たね、担任のがくぴー先生!」

 彼の口から出た懐かしい名前に、思わず瞬きを繰り返す。担任の名前なんて、さすがにオーダーシートには書いていない。
 目の前に居るのはやっぱり本物のアラタくんなのだと、実感を得ると同時に緊張よりもあっという間に喜びが勝った。

「あのね、アラタくん。私……あなたに話したいことがたくさんあるの……!」
「うん。俺も、サユの話聞きたい。俺の居ない十三年分のことも、いろいろ聞かせて」


*******


 中学校の教室で、或いは放課後の図書室の隅っこの席で。こうして隣り合って肩を並べて、今にして思うと下らないことばかりを話して、無邪気に笑い合っていた日々を思い出す。

 あの頃は、特別な何かがなくても、こうして二人で居られればただひたすらに幸せだった。

 机を寄せあってのグループ学習中、机の下でこっそり手を繋いでみたこと。授業中手紙を回して、反応を盗み見たこと。バレンタインやクリスマスに、制服のまま放課後デートをしたこと。

 当時の愛しい時間を思い出して、私はこっそり、リカ達に見えないようアラタくんの手に指先を触れさせる。
 彼は驚いたように瞬きしてから、軽く頬を掻いて、あの頃のように優しく手を握り返してくれた。

「私、アラタくんが遠くに行ってから……ずっと、寂しかった……」
「あー……うん。ごめんな。でもあの時はさ、しかたなかったんだ」
「うん、わかってる。……アラタくん、スポーツ推薦だったし……遠くの高校に進学が決まったのも、本当なら、いいことだもんね……」
「……うん」
「でもね、私が勝手に、寂しかったの。あの時、言えば良かった……そうしたら、何か変わったかな?」
「サユ……」

 三年の冬休みに別れた後、ずっとアラタくんを引きずったこと。
 リカとも進学先が分かれてしまい、一人地元の高校に進学した私は人見知りを発動して、三年間ひっそりと過ごしたこと。
 恋人として過ごした中学二年の終わりから三年の約一年間。受験に恋にと大忙しだったあの一年が、私の青春のピークだったこと。
 幸せの後の寂しい思い出たちが、次々と溢れてくる。

 それから地元を離れて大学に進学して、一人暮らし仲間のリカともまた遊ぶようになって、大学を卒業して適当な会社に就職して。
 気付けば二十代も終わりに近付いて、この年になっても、結局新しい恋のひとつもしなかった。

 アラタくんと離れてからの無味乾燥な時間が、こうして隣に居るだけで一気に押し寄せるようだった。
 お酒が入ったこともあって、つい涙が滲む。

「あの時、アラタくんとずっと一緒に居られたら……私、今頃アラタくんのお嫁さんになれてたかな? こんな可愛げのない暗い女じゃなくて、もっと前向きに生きてるような、素敵な大人になれてたかな……?」

 思わず愚痴のように吐き出してしまった弱音に、アラタくんはホストらしく甘い言葉をくれるのではなく、少し考えたようにしてから首を振る。

「どうだろう……『もしあの時こうだったら』って、想像はいくらでも出来るけど、どれも正解じゃないから。……でも、今のサユも十分素敵だと思う」
「……ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃない。それに……あの時離れ離れになっても、その先の未来で、今またこうして会えて嬉しいし。……いろいろあったけど、その、生きててよかったって思う」
「うん……そうだね」

 叶わなかった理想と可能性。あり得ないもしもに適当に同意することのないアラタくんは、あの頃と変わらず現実主義者だ。

「……私も、現実見ないとね」
「え……?」
「お話し中ごめんね、サユちゃん。そろそろ初回料金ラストオーダーの時間なんだけど、注文はある?」

 不意に、キラくんがリカ越しに私へと声をかけてくる。ほんの少しで帰るつもりが、随分と長居してしまったようだ。私は慌ててメニューを捲った。

「えっと……カクテルとかもある?」
「うん、あるよ~。わたしいつも甘いの頼むんだ。メニューになくても言えば作ってもらえる!」
「えっ」
「あはは、そうだね。大好きなリカちゃんのリクエストなら応えないわけにはいかないし」
「わーい、やっぱりキラくんしか勝たん!」
「いえーい!」
「それって常連待遇なんじゃ……」

 仲が良さそうに笑い合うリカとキラくんは、いつもこんな調子なのだろうか。
 初恋相手だからと躊躇せず、気心知れた関係のように接する二人に、幼かった頃の自分達が重なる。
 懐かしさと羨ましさから、つられて笑みが溢れた。

「……じゃあ、カーディナルが飲みたい気分かな。アラタくん、メニューにはないけど……作ってもらえる?」
「カーディナル? 赤ワインとカシスか……うん、カシスリキュールは店にあるし出せるよ。ワインに拘りは?」
「何でもいい。……アラタくんの売上になるなら、高いやつで。グラスじゃなくてボトル入れるよ。みんなで飲もう?」
「え、いや、それは悪い……」
「まじで!? サユちゃん太っ腹!」
「サユもホストに貢ぐ幸せに目覚めちゃう!?」
「そういうんじゃないけど……初回料金内でメニューにないの出してもらうわけにはいかないでしょ。それに、アラタくんが作ったのが飲みたいから」

 遠慮しようとしてくれたアラタくんの言葉よりも、キラくんとリカのノリに流され注文が通る。

 元々、リカに誘われた時点では然程期待していなかったし、初恋がコンセプトの店だなんて言っても、精々初恋の記憶をホストが上書きする、くらいのものかと思っていた。

 だから、飲み放題に含まれない高いワインボトルも、予想を遥かに越える奇跡のような素敵な夜のお礼のつもりだった。

「……なあ、サユ。本当に、無理させてない?」
「うん、ゼロの多さは最初にメニュー見た時に確認済み」
「……そっか。あー……うん。じゃあ、遠慮なく……ありがとう、サユ。今日初めての個人売り上げだ……嬉しい」
「そうなんだ? ふふ、アラタくん、あんまりホストって感じじゃないもんね。どういたしまして……こちらこそ、ありがとう」

 運ばれてきた赤ワインとカシスリキュールのボトル。そのワインは、メニューで最初に見掛けたそこそこ高めのボトルだ。
 煽ったわりにキラくんがオーダーを通したのが物凄く高いボトルではなかった辺り、初回客の支払い能力の有無がわからない以上妥当な判断だと言える。
 キラくんはお調子者に見えて、結構しっかりとしたホストなのだろう。

「それじゃあ……カーディナル。どうぞ。俺も一杯もらって良い?」
「うん、勿論」

 目の前で彼の手によって作られたカーディナルは、燻らせた初恋の熱によく似た深い赤。
 私はそれを、味わうことなく一気に飲み干す。高いワインの味なんて、そもそもよくわからない。

「ちょ、一気って……! サユ、あんまり無理な飲み方は……」
「いいの! ほら、アラタくんも飲んで飲んで。今夜だけは、素敵な夢に溺れたいじゃない」
「……ああ、そうだな」

 こうして結局、閉店時刻の午前零時まで、私達はカーテンの内側の小さな世界で楽しい夜を過ごした。

 普段そこまで飲まないお酒をたくさん飲んで。いつにも増してたくさん笑って、たくさんはしゃいだ。こんな時間は久しぶりだ。

 夜の世界の片隅で、シンデレラの魔法が解けてしまうその時まで。
 私は、彼が『アラタくん』だと信じていたかったのだ。


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