『初恋ホスト』そんな名前のお店があるのを知っているだろうか。
『初恋』と『ホスト』だなんて両極端な気もするけれど、その店は色恋を売りにしているホストにしては珍しい『初恋の想い出を引きずっている人』向けの店らしい。
私が完全予約制で完全招待制のその謎に満ちた店の存在を知ったのは、『初恋』『断ち切り方』なんて拗らせたキーワードでSNSを検索している時だった。
同じような境遇の人の呟きが見付かればいい、何かしら共感出来ればいい。自分一人ではないのだと感じたい。あわよくば傷のなめ合いとばかりに語り合いたい。
そんな軽くも重たいノリで調べていると、不意に『初恋ホスト』について呟いている人を見付けたのだ。
『初恋を断ち切ろうと思って行ったんだけど、逆に沼落ち……。初恋ホストやばい』
『初めての恋はやっぱり特別! 無理に断ち切らなくても、初恋ホストで別腹として楽しみたい』
そんな前向きな投稿がいくつか見つかる。けれどもやはり『初恋』と『ホスト』の関係性が上手くイメージ出来ず、興味本意で店のホームページを調べる。
完全招待制と書かれたトップページにはパスワードを入れる部分があり、それ以外の情報がほとんどなかった。
店のSNSの公式アカウントも存在せず、在籍ホストのアカウントや店の写真すらなくて、ここまで来ると何とも胡散臭い。
先程見掛けた好評価な呟きがサクラの可能性すら浮上して、私はその店のことを考えるのはやめた。
きっと、私には関係のない世界なのだ。
しかし、それからしばらくして、店のことをすっかり忘れた頃。
久しぶりに幼馴染みのリカと遊んだ時、たまたま彼女から「今度サユにおすすめしたいお店があるんだ!」なんて無邪気に誘われたのが、その初恋ホストだった。
渡りに船というよりも、忘れていたタイムカプセルの場所を示されるような、不思議と導かれる感覚。
SNSで見る限り日頃からホスト遊びが好きなリカからの誘い。普段なら断るであろうその提案に、私は気付くと頷いていた。
「……ねえ、リカ。本当に行くの?」
「何を今更。アンケートもちゃんと書いてくれたじゃん」
「それは、そうだけど……」
来店予約時には、『ご来店五日前までに返送してください』と事前に初恋についての事細かな情報をアンケートに書かされる。
本来ホストなんてのは初来店までのハードルが高いからこそ、初回料金を破格にしてまで客を呼び込もうとするらしいのに。
この店に限っては、アンケート記載の手間やら予約やら、何とも来店までのハードルが高い。
ホストの客同士は同担も他担もある意味敵にも関わらず、完全招待制なのも中々だ。
まあ、全部リカからの受け売りでしかないのだけど。
『初恋の相手の名前は? 出会いはいつ? 二人の思い出トップスリーは? 二人だけのニックネームはある?』
予約を代わりにしてくれたリカから転送されてきた、そんな学生時代のプロフィール帳のような物珍しいアンケートに面食らいつつも、個人情報に触れない程度に、私は素直に記入した。
思い出しながら書き込む内、懐かしくて恋しくて、つい涙が出てしまったのは、リカには内緒だ。
私は、学生時代の初恋を引きずって、この年まで彼氏も出来ず来てしまった。
帰省の度に親にも結婚はまだかと暗にプレッシャーをかけられるけれど、どうにかして初恋を昇華させなくては、いつまで経っても前に進めない。
かくして、一度は胡散臭いと記憶から捨て去った、古馴染の紹介でもなければ絶対に行かないであろうその店に、私は恐る恐る足を踏み入れることになったのだ。
「そもそも『行くまで店のこと調べないで』とか怖すぎるから……。予約して招待承認されたんだから、ホームページのパスワードは貰えたのに……」
「えへへ。だって、最初はその方が楽しめるかなーって。そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。初回はちょー安いから!」
「担当とやらのバレンタインにって、アルフォート箱一杯のお札用意してたリカの金銭感覚はちょっと信用ならない……」
「えー?」
店を紹介してくれたリカは、やはり通い慣れているのだろう。毒々しいまでに眩しいネオンに照らされた町で、迷うことなく私を導く。
電車で一本の夜の町。はじめて訪れる新しい建物の地下。光の届かない薄暗い階段を降り、彼女はピンクのネイルが光る可愛らしい指先で、異世界への入り口をそっと開けた。
「いらっしゃいませー……あ、リカちゃん! また来てくれたんだね」
「こんばんはキラくん! やば、今日もイケメン~!」
「マジ? よっしゃ、リカちゃんに褒められるとテンション上がる!」
「……え、あれ。キラくんって、あのキラくん?」
早速出迎えてくれた派手な髪色のホストには、何と無く見覚えがあった。キラくんという珍しい名前と、目鼻立ちのくっきりした顔立ち。
間違いない。目の前の彼には、中学生一年生の頃リカや私と同じクラスだった男子の面影があった。
「えへへ。わたしの初恋、キラくんだったんだぁ……」
「えっ!? 中一で出来た初彼、別の子だったよね!?」
「んー……だって彼、わたしのこと好きって言ってたから……」
数年越しに初めて知る情報に衝撃を受けつつも、そういえばその後わりとすぐに破局していたなと思い出した。
入り口での立ち話もそこそこに、私達はキラくんに案内されるまま席につく。
ホストクラブらしく薄暗い店内を淡く照らす綺麗なライトと、高級そうな座り心地の良いソファー。それからホストでは珍しい、他の席が見えないように配慮されたカーテンに仕切られた空間。
少し低めのテーブルの上に、キラくんの持ってきたゼロの多いメニューが並ぶ。
初回料金について説明を受けつつ、適当に飲み放題メニューからお酒を頼むと、あまり待つことなく氷とグラスが運ばれてきた。
他にお客さんは居ないのだろうか。店のBGMと、何重にもなったカーテンによって半個室になっているせいで、周りの様子は良くわからない。
キラくんがリカの隣に腰掛ける様子を、ちらりと見る。やっぱり彼は、記憶より成長していたけれど、あのキラくんだ。クラス一のお調子者だったから、何と無くいつも目立っていたのを覚えている。
リカがホストにどっぷりなのは知っていたけれど、さらに同級生までホストになっていたなんて、何だか不思議な感覚だった。
「リカちゃん。また来てくれて嬉しい、元気だった?」
「えへへ、元気だよー。久しぶりになっちゃってごめんね?」
「あれ。リカ久しぶりなの? しょっちゅうホストに通ってるイメージだったんだけど……」
「ふふ。わたし、普段は別のお店に担当ぴが居るんだけど……たまに『初恋の思い出』に癒されたくてキラくんに会いに来るんだぁ」
つまり、貢ぎ先が何件もあるということだ。日頃からホストに給料のほとんどをぶち込む生活で疲れているのに、癒しと言いながら同じことをするのは如何なものだろう。
しかしながら、彼女はそんなことを気にした様子もなくにこにこと微笑んでいる。
「俺もリカちゃんに会えて、懐かしくて癒されるよ。実はさ……昔から可愛いなって思ってたんだ」
「ほんと? 嬉しい……! 担当変えしちゃおうかなぁ」
「え、しちゃおしちゃお!」
リカが『担当』と言っていたホストにガチ恋しているのは日頃の会話から明白で、担当変え云々は軽口に過ぎないとわかりきっている。
上辺だけの二人の会話を聞きながら頼んだお酒を一口含んでいると、カーテンのない正面から、不意に黒く大きな人影が現れた。
驚いて視線を上げた先、私を覗き込むようにして来た人物に、思わず目を見開く。ごくりと、アルコールを飲み込む喉が鳴った。
「え……」
「……久しぶり」
そうだ、こんな風に声を掛ける前に私を覗き込む癖。いつも驚いて、ドキドキと鼓動が跳ねた。
「アラタ、くん………?」
「……あー、その。また会えて、嬉しい。来てくれてありがとう、サユ」
記憶より伸びた黒髪、酒焼けしたような低く掠れ気味の声。それでも、優しげで柔らかな微笑みも、照れたように頬を掻く癖も変わらない。
そこに居たのは、記憶の中よりも成長した、私の初恋の彼だった。
*******
「……あー、改めて。この店のコンセプトは『初恋は青春の落とし物』。初めての恋は特別で、なのに叶わないことが多い。叶ったとして、大人になるまで続くのは稀。望んで手放したわけじゃなく未練がある恋は、忘れられず心に残る。……だから、その頃の懐かしさと共にドキドキする時間を体感できるのが、この店の売り」
私の隣に腰掛けて、店についての説明をしてくれるアラタくん。ソファーに四人並んで座ると、少し狭くて膝が当たり、何だか落ち着かない。
そんなアラタくんの説明に被せるようにして、ホスト慣れしているリカが元気に挙手をした。
「ホストクラブって、普通初回だといろんなホストが名刺持って卓につくんだけど、そういうのもないしね。最初から初恋一択! って感じで、一途な気分を楽しめるんだぁ」
「そーそー、そもそもこの店名刺文化ないんだよね、ほら、初恋相手なんだから見知った顔じゃん? だからサユちゃんも、リカちゃんと一緒に初恋気分に浸りながらゆっくりしてってね。初回二時間は料金内飲み放題だしさ!」
「あ……うん……」
キラくんとリカ、私とアラタくん。四人で横並びになりつつも、自然と二対二で向き合いながら、ちびちびとお酒を飲む。
いろいろ説明されたところで、ほとんど右から左だ。未だに動揺や緊張から、つい俯きがちになる。上手くアラタくんの顔を見ることが出来ない。
「……初回からいろんな奴がつかないのもそうだし、初恋の綺麗な思い出を汚さないよう、他店みたいな被り同士を牽制し合わせるようなシステムは取らない。だから、半個室なんだけど……周りの目がないからって怖いことはないし、安心して」
「いや、うん……ごめんね。アラタくんに会えると思わなくて、その、なんか変に緊張しちゃって……」
「それは、わかる……俺も、ちょっと緊張してる」
「アラタくんも?」
「ん。でも……緊張する時間が勿体ない。この店に居る間は、俺に恋してくれてた『あの頃』だと思ってくれていいから……サユ、久しぶりに会えたんだし、顔よく見せて」
「う……ん……」
楽しそうに過ごしているリカ達に比べ、明らかに緊張しっぱなしで無口な私に対して、優しく微笑んでくれる。
改めて見上げた彼の顔。目の下のほくろも、垂れ気味の目尻も、記憶の中と変わらない。
その仕草も、癖も、オーダーシートに書くために思い浮かべたかつての彼そのものだった。
懐かしさと、中学三年で別れた頃の記憶よりも随分成長した彼の姿に、思わず涙が出そうになる。
「じゃあ……ここは私達の中学の教室……にしては、明らかにあれだけど」
「中学校で飲酒してたら、さすがにヤバイな。がくぴーに叱られる」
「……! あー、懐かしい。居たね、担任のがくぴー先生!」
彼の口から出た懐かしい名前に、思わず瞬きを繰り返す。担任の名前なんて、さすがにオーダーシートには書いていない。
目の前に居るのはやっぱり本物のアラタくんなのだと、実感を得ると同時に緊張よりもあっという間に喜びが勝った。
「あのね、アラタくん。私……あなたに話したいことがたくさんあるの……!」
「うん。俺も、サユの話聞きたい。俺の知らない間のことも、いろいろ聞かせて」
*******
中学校の教室で、或いは放課後の図書室の隅っこの席で。こうして隣り合って肩を並べて、今にして思うと下らないことばかりを話して、無邪気に笑い合っていた日々を思い出す。
あの頃は、特別な何かがなくても、こうして二人で居られればただひたすらに幸せだった。
机を寄せあってのグループ学習中、机の下でこっそり手を繋いでみたこと。授業中手紙を回して、反応を盗み見たこと。バレンタインやクリスマスに、制服のまま放課後デートをしたこと。
当時の愛しい時間を思い出して、私はこっそり、リカ達に見えないようアラタくんの手に指先を触れさせる。
彼は驚いたように瞬きしてから、軽く頬を掻いて、あの頃のように優しく手を握り返してくれた。
「私、アラタくんが遠くに行ってから……ずっと、寂しかった……」
「あー……うん。ごめんな。でもあの時はさ、しかたなかったんだ」
「うん、わかってる。……アラタくん、スポーツ推薦だったし……遠くの高校に進学が決まったのも、本当なら、いいことだもんね……」
「……うん」
「でもね、私が勝手に、寂しかったの。あの時、言えば良かった……そうしたら、何か変わったかな?」
「サユ……」
三年の冬休みに別れた後、ずっとアラタくんを引きずったこと。
リカとも進学先が分かれてしまい、一人地元の高校に進学した私は人見知りを発動して、三年間ひっそりと過ごしたこと。
恋人として過ごした中学二年の終わりから三年の約一年間。受験に恋にと大忙しだったあの一年が、私の青春のピークだったこと。
幸せの後の寂しい思い出たちが、次々と溢れてくる。
それから地元を離れて大学に進学して、一人暮らし仲間のリカともまた遊ぶようになって、大学を卒業して適当な会社に就職して。
気付けば二十代も終わりに近付いて、この年になっても、結局新しい恋のひとつもしなかった。
アラタくんと離れてからの無味乾燥な時間が、こうして隣に居るだけで一気に押し寄せるようだった。
お酒が入ったこともあって、つい涙が滲む。
「あの時、アラタくんとずっと一緒に居られたら……私、今頃アラタくんのお嫁さんになれてたかな? こんな可愛げのない暗い女じゃなくて、もっと前向きに生きてるような、素敵な大人になれてたかな……?」
思わず愚痴のように吐き出してしまった弱音に、アラタくんはホストらしく甘い言葉をくれるのではなく、少し考えたようにしてから首を振る。
「どうだろう……『もしあの時こうだったら』って、想像はいくらでも出来るけど、どれも正解じゃないから。……でも、今のサユも十分素敵だと思う」
「……ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃない。それに……あの時離れ離れになっても、その先の未来で、今またこうして会えて嬉しいし。……いろいろあったけど、その、生きててよかったって思う」
「うん……そうだね」
叶わなかった理想と可能性。あり得ないもしもに適当に同意することのないアラタくんは、あの頃と変わらず現実主義者だ。
「……私も、現実見ないとね」
「え……?」
「お話し中ごめんね、サユちゃん。そろそろ初回料金ラストオーダーの時間なんだけど、注文はある?」
不意に、キラくんがリカ越しに私へと声をかけてくる。ほんの少しで帰るつもりが、随分と長居してしまったようだ。私は慌ててメニューを捲った。
「えっと……カクテルとかもある?」
「うん、あるよ~。わたしいつも甘いの頼むんだ。メニューになくても言えば作ってもらえる!」
「えっ」
「あはは、そうだね。大好きなリカちゃんのリクエストなら応えないわけにはいかないし」
「わーい、やっぱりキラくんしか勝たん!」
「いえーい!」
「それって常連待遇なんじゃ……」
仲が良さそうに笑い合うリカとキラくんは、いつもこんな調子なのだろうか。
初恋相手だからと躊躇せず、気心知れた関係のように接する二人に、幼かった頃の自分達が重なる。
懐かしさと羨ましさから、つられて笑みが溢れた。
「……じゃあ、カーディナルが飲みたい気分かな。アラタくん、メニューにはないけど……作ってもらえる?」
「カーディナル? 赤ワインとカシスか……うん、カシスリキュールは店にあるし出せるよ。ワインに拘りは?」
「何でもいい。……アラタくんの売上になるなら、高いやつで。グラスじゃなくてボトル入れるよ。みんなで飲もう?」
「え、いや、それは悪い……」
「まじで!? サユちゃん太っ腹!」
「サユもホストに貢ぐ幸せに目覚めちゃう!?」
「そういうんじゃないけど……初回料金内でメニューにないの出してもらうわけにはいかないでしょ。それに、アラタくんが作ったのが飲みたいから」
遠慮しようとしてくれたアラタくんの言葉よりも、キラくんとリカのノリに流され注文が通る。
元々、リカに誘われた時点では然程期待していなかったし、初恋がコンセプトの店だなんて言っても、精々初恋の記憶をホストが上書きする、くらいのものかと思っていた。
だから、飲み放題に含まれない高いワインボトルも、予想を遥かに越える奇跡のような素敵な夜のお礼のつもりだった。
「……なあ、サユ。本当に、無理させてない?」
「うん、ゼロの多さは最初にメニュー見た時に確認済み」
「……そっか。あー……うん。じゃあ、遠慮なく……ありがとう、サユ。今日初めての個人売り上げだ……嬉しい」
「そうなんだ? ふふ、アラタくん、あんまりホストって感じじゃないもんね。どういたしまして……こちらこそ、ありがとう」
運ばれてきた赤ワインとカシスリキュールのボトル。そのワインは、メニューで最初に見掛けたそこそこ高めのボトルだ。
煽ったわりにキラくんがオーダーを通したのが物凄く高いボトルではなかった辺り、初回客の支払い能力の有無がわからない以上妥当な判断だと言える。
キラくんはお調子者に見えて、結構しっかりとしたホストなのだろう。
「それじゃあ……カーディナル。どうぞ。俺も一杯もらって良い?」
「うん、勿論」
目の前で彼の手によって作られたカーディナルは、燻らせた初恋の熱によく似た深い赤。
私はそれを、味わうことなく一気に飲み干す。高いワインの味なんて、そもそもよくわからない。
「ちょ、一気って……! サユ、あんまり無理な飲み方は……」
「いいの! ほら、アラタくんも飲んで飲んで。今夜だけは、素敵な夢に溺れたいじゃない」
「……ああ、そうだな」
こうして結局、閉店時刻の午前零時まで、私達はカーテンの内側の小さな世界で楽しい夜を過ごした。
普段そこまで飲まないお酒をたくさん飲んで。いつにも増してたくさん笑って、たくさんはしゃいだ。こんな時間は久しぶりだ。
夜の世界の片隅で、シンデレラの魔法が解けてしまうその時まで。
私は、彼が『アラタくん』だと信じていたかったのだ。
*******
閉店時間を迎え、すっかり酔ったサユを店の出口まで送り、俺は溜め息を吐く。リカと二人相当酔っていたけれど、大丈夫だろうか。
せめて駅まで送ってあげられたら、他店のようにアフターが出来たら安心だろう。
それでも、サユの初恋の相手『アラタ』で居られるのはこの店の中でだけだった。
「あー、リカちゃん相変わらずテンション高くて疲れた……」
「お疲れ。『キラ』もハイテンションなキャラだもんな……」
「そうそう、『クラス一のお調子者』なんて、僕に一番向かないキャラ……」
「あはは……でも、切り替えさすがだよ」
「お前も初回だったけど、上手くやれてたじゃん」
「あー、うん。一応……でも、サユはもう来ないかも」
「えっ、なんで!? 初回後の飲み直しまで入れてくれたのに!」
午前零時を過ぎた後。魔法の解けた店の片付けをしながら、先程まで同じ卓で絶えずトークを繰り広げていた同僚へと視線を向ける。
普段比較的クールな彼は、少しテンションが高い。まだ『役』に引きずられているようだった。
「なんとなく……リカはいろいろわかってて、それでも溺れて遊ぶタイプだけど、サユは……今夜だけの夢って、割り切ってそうだった」
「……人の客の分析までしてるのか」
「見てればわかる。まあ、だからリカも、きっとサユに店のシステムについて説明してなかったんだろ。……サユ、最初に『アラタ』を見て驚いてたし」
「あー、確かに。『キラ』のことも本物だと思ってたっぽいし。まあ、お客さんによってはその方が楽しめるしな。店について多少調べりゃわかるけども」
実際中学の同級生二人して、同じホストクラブで同じ期間に働く可能性なんて、どれくらいの確率だろう。しかもそれが友達二人の初恋の相手だなんて、現実的にあり得ない。
この店は、完全紹介制の予約制。つまり冷やかし客は来られないし、紹介されるのも『初恋』を引きずっている客であるのが前提だ。
「初恋ホスト、ね……」
事前にサユ本人からアンケートに書いて貰った情報と、サユを紹介したリカからの情報。
それを元に、店提携の探偵が調べた、その初恋相手の外見や現在の様子を含む詳細。
そしてそれを元に『役者の卵』である俺達が、客のニーズに沿った『初恋の相手』を再現してひとときの夢を提供する店。
俺は本物の『アラタ』ではなく、アラタに偶々顔立ちが似ていたから選ばれたに過ぎない、ただの売れない役者見習いのホストだった。
間接照明の薄暗い店内では、多少の容姿の違いは髪型やメイクで誤魔化せるし、背だって座っていればよっぽどじゃない限りバレない。
テーブルが低いのも感覚を狂わせるのにいいし、それでも拘るようなら、最悪シークレットブーツだのクッションを仕込むだの、いくらでもやり方はある。
そもそも大抵の場合は初恋から年数は経っているのだ、変化があったとしても成長だと言い張れる。
初恋をいつまでも引きずっている奴は、元々情が深い。
事前に偽物とわかっていても、言動や癖を寄せていけば酒の力もあって本物だと錯覚するし、そうなれば懐かしさと恋しさから、当時使えなかった分金を落としやすい。
うっかり役の設定が混ざっても困るから、他店のように同時刻掛け持ちで何人も相手には出来ないものの、一人あたりの単価は恐らく他所よりは高いし、同伴やアフターや営業メールがないから役者としてのレッスン時間も確保出来る。
客も競うことなく心穏やかに通ってくれるし、初恋ベースだから最初から好感度だって高い。日々の接客も役者としてのスキル向上に繋がるのだから、まさにいいこと尽くめだ。
「いいこと尽くめの、はずなんだけどな……」
別れ際、シンデレラの魔法が解けるように、階段を踏み締め夢から覚めていくサユの一言が、忘れられない。
『生きてるアラタくんに会わせてくれて、ありがとう』
俺はホストだ。お客さんの幸せのために、偽物の初恋相手として、時には明るく、時には優しく振る舞う。
けれど、今回の役は正解が見えなかった。
「生きててよかった、は、地雷ワードだったかなぁ……」
中三の冬休み。彼は地元から離れ遠くの高校に進学するのに、はじめての一人暮らし用のアパートを内見するため、家族全員が乗った車での移動中、大型トラックと事故に遭ったという。
遠距離でも交際を続けようと決意した矢先、二度と会うことの叶わない別れをしてしまった二人。
そんな『アラタ』の存在しない未来を、サユはどう見たのだろう。
最初の驚き顔は、俺を本物の幽霊とでも思ってくれたのか、死んだ記憶が夢で、生きているのが現実と錯覚してくれたのか。担任の名前を出した辺りで緊張は解けていたようだったから、少しは本物だと感じてくれたのかもしれない。
けれど、どう足掻いても俺は本物のアラタではないのだ。
サユからしても、理想と違ったのか、一夜の夢を楽しめたのか、死者への冒涜と感じたのか。傷付けたのか喜んでもらえたのか、いくら考えても答えは出なかった。
それでも、偽物だとしても。止まったままだったアラタの時が進んだことで、彼女も一歩踏み出す切っ掛けになるといい。
こっそり繋いだ手に残った傷跡を今後増やさずに、もうアラタの後を追おうとしなくなればいい。
「……でも、サユが生きててよかった。それは、きっと紛れもない『アラタ』の言葉だ」
演技のための知識は、当然事前に詰め込んだ。けれど知識としてあった担任の名前じゃなく、自然と出てきた担任のあだ名。他にも二人しか知らないことを、時折勝手に話し出した口。
自分をスクリーンにして、誰かの初恋という遠い日の淡い夢を映す日々。この仕事をしていると、時折映像が実態を持つこともあるのだ。
一瞬一瞬に全力を尽くす生身の舞台で演じるのを夢見る俺達だからこそ、持ちえる感覚なのかもしれない。
だからこそこの店は、招待されると閲覧できるホームページに、ホストが役者であることや事前調査への同意云々に関して明記しているにも関わらず、『本物』のようだとリピーターが多い。
役が憑依する、なんてよく言うけれど。きっとあの瞬間、本当にアラタが俺の身体を使って、サユに会いに来ていたんだと思う。
「よし、鍵閉めるぞー」
「あ……はい。お疲れ様でした」
ミーティングや片付けを終えて、ようやく店を出る。
階段を上がり、眠らぬ深夜の町を歩きながら、もう何者でもない俺は置き去りにされたガラスの靴のように透明だ。
「明日は予約がないから……明後日のリピーターの役、改めて詰め込まないと……あー、明日一日で『アラタ』抜けるかな……久しぶりの新役、どっぷりだったもんな……」
上着のポケットからスマホを取り出して、SNSを開く。店用のアカウントはないものの、俺は役を演じた上で感じたことを呟くためのアカウントを持っていた。
フォローもフォロワーも居なく、誰と会話するでもない。壁打ち用の、役に応じて口調や一人称すら変わる、怪しい独り言ばかりのアカウントだ。
『初恋は青春の落とし物。それが店のコンセプトだけど……はじめての恋は特別だからこそ、他にはない希望にも喜びにも、悲しみにも切なさにもなる。命の果てまで続く気持ちなら、それは落とし物なんかじゃなくて……人生そのものだ』
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届いたハートマークに、この終わりなんてないような夜の下、見知らぬ誰かも人生をかけた初恋をしているのだと、僅かに頬が緩む。
十数年前。車の事故に遭ったらしく、身内は居らず事故前の記憶もない俺は、初恋を知らない。
それがどんなに身を焦がすものなのかも、よくわからなかった。だからこそ、お客さんひとりひとりの想いに憧れて、本当に愛しく感じた。
役者を目指すことで、この店でたくさんの役を得ることで、様々な記憶や感情に触れる。
過去を取り戻せなくても、こうしていくことで透明な俺を満たしていけると信じて。
愛の込められた役の人生をなぞりながら、俺は今日も、不確かな夜を歩いていくのだった。