鬱蒼と茂る森の中。
 鳥のさえずりに気を取られないように、無線に耳を澄ます。
〈ジェシカ。追い込んだわよ。十五秒後に合流する〉
「了解」
 短く返事をして通信をきった。
 微弱な電波のザザッと乱れる音を聞きながら、意識を集中させる。(ウィップ)の柄を握ったまま。
 眼下に広がるのは草むらの地面。
 枝葉や幹など遮るものが極端に少ない開けた視界。その代わり、地上からは盲点になる高さ。
 あちこち吟味して発見した絶好の奇襲ポイントだ。
 その上に待機すること、かれこれ数十分。鳥の声と風の音以外にはとくに変わった様子はない。それが破られたのは、きっかり十五秒後。
 遠くからざわざわとした声がした。徐々にこちらに向かってくる。
 気配を殺し、ぎりぎりまで身を乗り出す。視界には変化はない。
 しきりに大きくなっていく声。歓声とも悲鳴ともつかない、叫び声。
 呼吸を止めて、食い入るように足元を見つめる。声は、いよいよ大きくなってきた。距離的に、もうすぐ視界に入る。
 ゴブリンの群れだった。
 大声とともに(ウィップ)を振る。地面にたたきつけるようなイメージで。
「爆ぜろ、【熾天使(セラフィム)】!」
 叫んだ瞬間に大きく爆発する。
 緋色の炎にゴブリンたちが慌てふためく。
 確実な手ごたえ。と思っていた矢先に落下する浮遊感。
 視界が反転して木々の間から空が見えた。
「いい!?」
 爆発の反動で吹き飛ばされたのだ。
 力みすぎたー!?
 少しばかり力加減を間違えたようだ。もちろん、反省するには遅すぎる。
 背中から落ちたから受け身もとれない。(ウィップ)で枝を掴もうと試みるけど間に合うか。
 それより地面に激突する方が早いか。
 一瞬の恐怖が手元を狂わせた。
 視界には、(ウィップ)が巻きついた枝が折れたところを目視できた。
(いやー! すごいあほじゃん! わたし!)
 間に合わないと目をつぶった時だった。
 どさっと尻から沈み込む感覚がした。想像していた衝撃じゃない。激痛もない。
「……ジェシカ。平気か?」
「うん?」
 落ちてくるのは抑揚のない優しげな声音。
 まぶたを開けると、端正な顔立ちの男性が覗き込んでいる。
 かなり近い距離。
 一体、なにがどうなったのかとまじまじ見つめてしまう。
「ジェシカ。怪我は?」
 そうだ。地面落下は免れたようだけどなんでだ?
 つぎに周囲を確認する。
 炎と熱で逃げまどうゴブリンが目線の先にいる。つまりは、落下はコンラッドによって助けられたと思われる。
「あ、ありがとう。コンラッド」
 お礼を口にした途端に気づく。
 わお。
 これは驚き。
 コンラッドに横抱きにされた状態だった。
 落下した距離は結構ある。彼の腕力に脱帽だ。というか感謝しかない。
 けれど、気づいた瞬間、申し訳なさと恥ずかしさが唐突に襲ってきた。
「コンラッド、ありがとう! もう大丈夫!」
「え、怪我は……?」
 慌てたせいか、彼の腕の中でもがいてしまう。
 そこへ、さらなる追い打ちが発生。
「ジェシカー、大丈夫ー?」
 遠くからした女性の声に、びっくりして肩が跳ねあがった。
「だ、大丈夫! コンラッド、もういいから。おろして!」
 コンラッドのきょとんとした顔が余計に羞恥心をあおる。
 うう。
 そんな至近距離で見つめないで。

 長い戦乱のなか、レシュトフォン大陸にはある信仰が広まっていく。
 ラスヴァトーレ神と呼ばれる創造主。
 あらゆる生命を司り、流れる力を循環させ、奇跡を起こす。
 国を持たないザクツェリ民族のみが信仰していた神だったけど、終わりの見えない戦いの中でその存在を大きくしていく。
 やがて救いと安寧、自由を求めるものたちが集まり、戦い、ラスウェルという国を作った。
 同時に大陸の戦乱も収束する。
 すでにラスヴァトーレの民はいなくなり、信仰のみがラスウェルの地に残るのみ。
 創造主の奇跡も、伝説も、戦の記憶も、時のながれとともに薄れていった。
 ラスウェルの南西部にある聖都ラソクウェルには、ソーフェン修道会がある。
 建国より以前に作られたヴェカデーレ宮殿。その内部にあるラソクウェルだ聖堂を中心に、修道士・修道女たちが数多く暮らしている。
 早朝からの祈りを終えて食事をとる。
 修道会は今日も平和……のはずだった。

「それでまた報告書?」
「…………」
 柔らかな口調とは裏腹の鋭い指摘に、ぐぐっと言葉を飲み込む。
 ついでに朝食のチーズリゾットも一緒に。
 口の中ではベーコンのカリカリとチーズのとろける触感がする。微かにニンニクの匂いもした。
 最後にブラックペッパーのからみがきた。
 すごくおいしいのに、ちまいちテンションがあがらない。
 早朝にあった任務のせいだ。
 畑を荒らすゴブリン駆除という目的は果たせたものの、ちょっと加減を間違えた爆発がいただけない。
 聖騎士という称号を持つ者として問題だと上官からの苦言を呈された。
「大変だね。やっと騎士になれたのに」
 料理人のひとりであるカイルが苦笑しながら、じゃがいもの皮むきをしている。すでに昼食の仕込みかもしれない。
 ここは食堂。修道院に関わるもの全員が利用できる。
 広い吹き抜けの空間は、見上げなければ天井が見えない。
 両側の壁に届きそうな長机がいくつも並べられ、置かれいる椅子は数え切れない。それだけで、このソーフェン修道会に在籍する人数が知れるというもの。
 シスターや司祭たちは共同で食事することが多い。でもその他の役職の人間はわりとバラバラだ。そのためか今の時間は人気があまりない。
「そうじゃなきゃ減俸だって。どっちがいいって隊長が」
「うーん。脅迫にもとれる選択だね」
 本来、食事は静かにとるもの。
 こんな世間話をしながらではシスターに睨まれる。つまり穴場な時間帯ってことだ。
 ただ単に報告書かいてて遅くなっただけだけど。
 ようやく報告書から解放されたのに気分は晴れない。
 世のためひとのため。慈愛と高潔な精神のもと、信徒を守る聖騎士。
 それが加減を間違えて爆発騒ぎは確かに問題だ。
 自分の制御(コントロール)の下手さに落ち込む。
 カイルの作る絶品の料理が唯一の救いである。
 と思いかけて、ちらりと横目で見る。
「コンラッドは付き合わなくてもよかったのに」
 隣に座る黒髪黒目の青年は黙々と食事をしている。
 彼の名前はコンラッド・グローヴァー。
 さきの任務で、助けてくれた先輩騎士だ。彼がいなかったら今頃は大けがをしていたかもしれない。
 しかも、わたしが隊長に怒られた時にも助け船を出してくれて報告書どまりの処罰にすませてくれた。もちろん、報告書の内容も一緒に考えてくれたのだ。
 当然、感謝しているけど申し訳なさの方が勝ってしまう。
 お礼を口にするよりも早くこぼれた呟きにも、コンラッドは整った表情を崩さない。
「別に」
 さらにそっけない、ひと言。
 彼の場合、反発とか迷惑といった感情は見えなかった。これは朴訥といった、飾り気のない本心だと思われる言葉だ。
 コンラッドはいいひとだ。
 こんな時、素直にお礼が言えたらいいのに。
 感激したいのはやまやまだ。でも、そんないい先輩を巻き込んだ自分が許せない。ちゃんと制御(コントロール)しろよって考えになる。
 さらには、カイルの満面の笑みで話が脱線する。
「愛だね」
「う、うーん?」
 わけがわからず戸惑う。
 どういうこっちゃ?
 コンラッドも反応しないので、ますます混乱するしかない。
 このまま食事を再開するべきか悩んだ時だった。
 ドンッと衝撃が響いた。
 続けて激しい爆発音。建物が二度、三度揺れる。
 地震ではなさそうだ。
 周囲を見回すと、食事の手をとめたコンラッドが椅子から立ちあがる。
 窓へと視線を流す。つられて追うとガラス戸の向こう側が、爆音と一緒に炎が噴き出した。
 何か起きた。みたいだ。
 同じく椅子からたちあがる。
「ごめん。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 申し訳なさげにふり向くとカイルは笑顔で送り出してくれた。話が早すぎる。
 他国との戦乱がない今、騎士団の仕事など巡礼者の護衛くらいのものだ。
 しかし、ラスウェル国民に何かあれば命をかけて守るのが責務。非常事態には駆けつけることも職務に含まれている。
 名残惜しく確認をしてしまう。
「カイル、その……」
「わかってるよ。ちゃんと残しておくから」
 もごもごとした言葉の意味を察してくれたらしい。
 さすがは修道会の料理人。食事を大事に考えている。ありがたいことである。
「昼食もとっておくよ。あとでふたりで食べにおいで」
「ありがとう! コンラッド、行こう!」
 苦笑しながらの見送りに、意気揚々と食堂を出た。
 
 ヴェカデーレ宮殿は、その名のとおり王族の居住区域だった。
 ラスウェルが建国される前、さまざまな民族や王族が争っていたなかで覇王アドルファスの統治した時代が長く続いた。
 長期間の治世は、文明や文化・技術・芸術が洗練される。アドルファス王朝も例にもれず、美しい宮殿や堅固な城が作られた。
 それは国が滅んでも残るほど。

 とにかく食堂から出て、中庭へ向かう。
 何か起きたか確かめるには、もっとも近い見晴らしのいい場所だからだ。
 騒動は気のせいではなかったようだ。
 あちこちから逃げ惑う修道士やシスターがいる。それらをかきわけるように中庭へたどり着いた時だった。
「わっ」
「ジェシカ」
 柱の影から出てきたひとと肩がぶつかる。
 後方によろけた瞬間コンラッドに支えられた。
「あ、ありがと」
 見上げれば、さっきと変わらない無表情。
 慌ててないのがすごい。頼もしいかぎりである。
 でなくて、今度はちゃんと言えたぞ。報告書のことも改めてお礼を伝えなくては。
 体勢を戻しつつ、本来の目的を忘れそうになった。
「誰だ、こんな道のド真ん中でぶつかってくるなんて!」
「す、すみません……」
 苛立ちを隠しもしない怒声に目を見開く。
「パスヒューム伯爵?」
「一体どこ見て歩いてるんだ!」
 彼の名前はフィリップ・エディ・シーモア。
 紫の瞳に、青の髪がゆるくウェーブがかかっている。
 見た目は、爽やかな青年貴族といった風貌。ただし、ここから先が少し残念。
「はッ、誰かと思えばいつもソーニャの周りをうろちょろしてる庶民出のふたりじゃないか」
 斜め上からの見下した視線。
 この人の出会い頭の挨拶は、決まってこうなる。
 確かに、私たちは貴族の出身じゃないけど。ちょっと違和感。
 私たちが所属するラスヴァトーレ教会は、あらゆる人々の救済を第一の教義としている。つまり生まれた身分は関係ない。敬虔に祈りを捧げ、毎日を誠実にひたむきに生きていれば誰でも救われるという素晴らしい教え。
 むしろ貴族の方が珍しい。庶民派の信者に出会えば、誰にでもこんな挨拶してんのかな。
 あからさまな侮蔑なんだろうけど、わたしといいコンラッドといい「はぁ、そうですか」と受け流すしかない。コンラッドはどうだか知らないが、わたしはリーヴィレスの片田舎で育った。両親も農場の手伝いをしていたので伯爵の言っていることは事実だ。
 けれど、それがなにとどう関係するのか。
 会話の流れが読めず、黙り込むしかない。
 その反応が期待通りでなかったためか、伯爵は眉根をよせて口元を押さえた。
「おやおや、やはり下々の者たちは挨拶の仕方もわからないのかな。今にも家畜やら土のにおいがかおってきそうだ。あまり近寄らないでくれるかい?」
 ついでに顔をそむけられた。くさいものにでも遭遇したかのような態度である。
「…………」
 うーん。
 こういう場合、どんな反応をすればいいのやら。
 しかも文脈的には伯爵はすでに挨拶をすませたみたいだ。
 ここでにこやかに挨拶できれば彼のような上流階級の人間なんだろう。できないから庶民派なわけで。
 どうしたもんかと思案していると、
「ん?」
 つむじ辺りになにか触れている気がした。
 上を向けば想像以上にコンラッドが接近している。位置的に髪に触れるか触れないかぎりぎりの距離だ。本人はいたって真面目な表情っぽい。よくよく見れば、ほんの少しだけ目元が細められた。
 笑ってる?
 驚いて訊ねるしかない。
「ど、どうしたの?」
「ジェシカからはいつもいい匂いがする」
「ううん? あ、ありがと……」
 なんだか見当はずれな返答に思えたけど、一応は誉めてくれたようなのでお礼を言っておく。
 コンラッドは口数は少ないけど嘘はつかない正直なひとだ。なにかしらの根拠があって言ってくれたのだろう。その真意は謎だけど。
 で、なんの話だっけ?
「おいコラ! そこでイチャつく奴らがあるか! 僕を無視するな!」
 今度は伯爵が怒りだした。無視したつもりはないのに。
 改めて彼に向き直るとハッとしたご様子。なにかを思い出したみたいだ。
「こんなことしてる場合じゃなかった! 早く逃げないと……」
「逃げる?」
 およそ普通に生活していたら出てこない発想だ。
 またなにかやらかしたんかな。
 この伯爵が挙動不審な場合、おおよその確率で騒動が起きているらしい。友人談。
「あの伯爵……」
「うるさいな!」
 声をかけた途端に腕を振り払われた。まだ何もしてないのに。
「あ」
 走り去る背中を見せられた時だ。ポケットからこぼれ落ちるものが。急いで拾って声をかける。
「あの、落としましたよー」
 姿は、もう見えない。声が届かなくても不思議ではない距離。
 鮮やかな逃走劇だ。一体、なにから逃げていたのか。
「ジェシカ?」
 コンラッドに声をかけられて、伯爵の落とし物が気になった。
 握ったてのひらを見る。コンラッドも覗き込んできた。
「鍵?」
 細かい細工が施された鍵だった。
 見た目よりは重い。純金製かもしれなかった。
 目を凝らせば、ところどころ傷や汚れもある。年季が入った代物だ。
「なんの鍵なんだ?」
「さぁ……」
 手首を返して鍵の裏表を見比べる。もちろん、それでなにががわかるはずもないのだけれど。
 伯爵は、なぜこの鍵を持っていたのだろう。しかもあの態度は気になる。
 首を傾げていると、背後で再び激しい爆発音がした。
 コンラッドと顔を見合わせる。
 騒動を解決したあと、伯爵を探すべきだと思った。
 なにをするにしても騒動の元を突きとめないことには始まらない。
 レッグポーチの中をがさごそと漁った。中から紫色の透明なカードをとりだす。
 リーヴィレスお手製の通信端末だ。これで業務連絡や給金の支払いをするシステムになっている。
 そのてのひらサイズの通信端末を見ても、画面に緊急性の高い通知はなかった。
「コンラッドにはなにか連絡きた?」
「いいや」
 向き直ったコンラッドは首を振る。
 彼とは所属する隊が違うので、連絡系統も違っていたりする。
 どちらも非常招集がかからないところをみると、まだ事態の把握と指揮権をどこに委ねるか決まっていないのだろう。
 とにかく現状把握が一番だと思われる。
 きょろきょろと周囲を見回していると、木々と宮殿に囲まれた空に現れた。
 思わず、目をこする。自分の目にしたものが信じられなかったからだ。
「……コンラッド。わたしの見間違いかな」
「大丈夫だ。きっと俺も同じものを見ている」
 コンラッドに確かめてみても幻覚の類ではないようだ。
 それは優雅に空を飛行し、視界から消えた。
 その直後に、再び爆発。今度は悲鳴とかも聞こえてきた。飛び去った方角である。
 間違いない。
 騒ぎの元凶はあれだ。
 わたしが見たものは、翼の生えた馬。ペガサスである。
 最近ベルストラスから友好の証に送られたけど、あれが脱走した……と考えるべきなんだろうな。
 晴天だった空も雲行きが怪しい。
 嫌な予感もした。あれを捕獲となると難しい気がしたし。
「……」
 コンラッドとふたりで途方に暮れる。
 ちょっと見なかったことにしたいとか、思ったり。
 もちろん、そうは問屋がおろさないわけで。
「ジェシカ!」
 声をかけられ、ふり返る。
「ソーニャ?」
 見れば、絶世の美少女が駆けてくる。
 名前はソーニャ・ロット・グリフィス。
 騎士見習い以前からの親友だ。
 しかも背後にいる人物にぎょっとする。
 赤銅色の髪に青磁の瞳。鍛え上げられた長身にはライフルケースを背負っている。
 第五分隊の隊長ではないか。しかも武器装備とは、事態はかなり深刻かもしれない。
「フィリップ様を見かけなかった?」
「え、パスヒューム伯爵?」
 何を考えるよりも先に見たままを答える。
「伯爵なら北宮殿の方に向かって行ったけど……」
 彼が去っていった方角を眺めながら呟く。
 様子は、いつもと変わりはなかった。
 まぁ、普段よりは挙動が怪しかったかもしれないけど。
 というか彼の通常運転など、わたしには判別がつかない。
 パスヒューム伯爵は、あの通り気難しい性格だから顔を合わせる度に態度がコロコロ変わる。山の天気と女心より移ろいやすいかもしれない。
 そんな人物観察はおくびにも出さないつもり。けれども、ソーニャはお気に召さない様子だ。
 形の整った眉を盛大につり上げ、鼻息も荒く歯ぎしりする。
「あんのエセ貴族詐欺師が~」
 歯の間からもれ出る恨み節。
 ソーフェン修道会騎士団きっての美姫と謳われた相貌が台無しだ。
 彼女はソレルベリー侯爵の令嬢である。ラスウェルが建国された当初より存在していた一族の家系という尊き血筋。本人もそれを強く心得ている人物……のはず。時々、令嬢らしからぬ言動をする時があるけど。ちょうど今みたいな。
 そうはいっても彼女が激怒するには必ず理由がある。間違っても気まぐれで周囲に当たり散らしているわけじゃない。
 なので素直に訊いてみる。
「なにが起きてるの?」
「見ればわかるでしょ、あのトラブル自動製造機がペガサスを脱走させやがったのよ!」
 とりあえず、トラブル自動製造機とは伯爵のことなのかな。
 侯爵令嬢ともあろう淑女が「させやがった」発言はスルーの方向でいこう。
 パスヒューム伯爵といえば社交界の中では有名人物である。
 振る舞いはスマートだし、容姿だって悪くない。寄宿学校でも優秀な成績だったようだ。
 ただし卒業してからの功績はいまいちパッとしない。
 父親は公爵で親類は議会の議員。華麗なる一族の末裔として後を継ぐかと思いきや、いっこうにその気配はない。
 司祭や騎士になるつもりもなさそう。真面目にこつこつと努力していれば、なにかしら報われそうなものなのに、たまに騒動を起こしては逃げ回っている。
 それが同じ貴族として気に入らないらしいソーニャとの折り合いは決してよろしくない。伯爵の方はソーニャに気があるみたいだけど。諦めない不屈の精神力でソーニャを口説こうとしている。はた目からしたらちょっと不毛と思わなくもない。
 もちろんそれどころではないらしいソーニャが、困った様子で口を開いた。
「ジェシカも手を貸して。きっと人手が欲しくなると思うから」
「それは構わないけど……」
 ちらりとコンラッドを見る。
 一緒に居合わせた彼としては迷惑なのではないか、そんな考えが頭をよぎった。
 視線が合った彼は、じっと見つめ返してくる。左手は剣の柄を握っている。いつでも準備は万端という彼なりのサイン。
 付き合ってくれるらしい。頼もしいかぎりだ。
 すると次の方針も固まってくる。
 まずは伯爵を探すべきなのだろう。さっきの鍵も返さないといけないし。
 あとの問題は……。
 おずおずとした上目遣いになってしまう。
 突っ込むべきか迷って口にする。
「それで、あの、殿下の方は?」
「いつものごとく勝手についてきただけよ」
 はっきりと吐き捨てた。
 ソーニャの目は明らかに迷惑がっている。
 それもそのはず、彼女の後ろにおわす人物は、ザカライア帝国の皇子様である。
 見分を広めるために大陸中を旅していたらしいけど、なんの道楽かソーフェン修道会に所属してしまった。
 語学は堪能、剣に銃も扱える。上昇気流に乗ったドラゴンのように短期間で実績を作り、分隊長までのぼりつめた。おまけに超がつくほどの美形である。いまや修道会に属する女子の憧れ的存在だったりする。
 そんな殿下が、ライフル装備で親友と行動を共にしているのだ。なにかあったと思うのが当然の流れではなかろうか。
 しかし、張本人はしれっとした口調で補足説明をはじめる。
「なに。爆発騒ぎが起きたのなら事態の収拾を図るのが騎士団の務めだろう。でなければ、どこぞの侯爵令嬢がクロスフォード公爵のご子息を血祭りにあげかねんと思ってだな」
 うわ。
 辛辣なお言葉。
 血の雨が降る予想してますよ。この方。
 もう少し控えめな表現にできないものかと考えて打ち消した。丁寧な口調にしたところで事実は変わらない。それどころかもっと怖くなるかもしれなかった。
 殿下のあんまりな発言にソーニャの怒声が響くかと思ったが、にこりと優雅な笑顔で向き直る。
 すごい。目が笑ってない。
「それはそれは。帝国の皇子殿下に骨を折ってもらうほどのことではございません。即刻、回れ右していただいてご自分の職場にお戻りください」
 丁寧な口調に騙されてはいけない。
 言外に、他国の皇子相手に「アンタに貸しは作りたくないんじゃボケ。兵舎に帰って書類にサインでもしてろ」みたいなメッセージを仕込んでいる。
 怖い。
 こんなに罵りあっても、どうして一緒にいるのか。
 ちなみにあれが通常運転。付き合いも長いらしい。
 双方、優秀だし?
 共同で任務を受けることもあるだろうけど。仕事の支障にならないのか、いつも不思議。
 慣れない針のむしろにくるまれたせいか、話が脱線しかけた。
 緊張が走る空気にも、殿下は動じない。
「ふっ、今さら取り繕っても」
 鼻で笑った。
 皇子も鼻で笑うんだ。かなりバカにしくさった態度。
 おまけに、やれやれといった口ぶり。見ているだけで胸にぐさりとくる鋭い攻撃だった。
 一方のソーニャも笑顔を崩さない。
 さすが。めげてない。
「ご安心ください。殿下。伯爵を発見したら、穏便かつ適切な対処をするだけですので。それにこれはグレース様より秘密裏に最小限の人数で当たるように厳命されております。殿下はどうかお気になさらずに」
 伯爵には、ただ聞きたいことがあるだけ。そんな乱暴なことはしませんよ。
 アンタには貸しは作りたくないだけだから、とっととどっか行け。
 手を借りる気は一切なし。もう近くにもいてほしくない感じだ。
 対する殿下の反応はというと、目を閉じて片笑んだ。皮肉たっぷりに。
「おまえのその短すぎる怒りの導線からして子息から事情を聞きだせるとしたら奇跡の(わざ)だな。せいぜい半殺しが関の山のくせに、穏便にすませようなどと口にしない方がいい。おまえの人格や信頼を損ねるだけだ。そもそもこれだけの騒ぎになってしまえば秘密裏に処理することなど不可能だろうに。聖女の判断が聞いて呆れる」
「なんですって?」
 ソーニャの眉がぴくりとはねた。
 いかん。
 殿下の発言は間違いなく彼女を不快にさせた。
 仕事第一のソーニャにとって、教会のシンボルともいえる聖女を侮辱したとも思える発言である。
 ソーニャの前で聖女を侮辱するということは、教会も侮辱したも同然。ましてや同じ修道会の人間が発言したことは許しがたい所業であろう。
 実際、柔和な笑顔でソーニャは自身の胸に手を当てる。
「殿下。もう一度、言ってくださいますか? 先ほど、聞き捨てならない発言を耳にした気がするのですが」
「鈍いのは頭か耳か、はっきりしろ。そんなだから貴族は回りくどい影口が得意になるんだ」
 もう一度、言ってみろの挑発に皇子殿下はにべもない。
 殿下も一体なにがしたいんだろう。
 先ほどの発言を好意的に解釈しても「冷静になれ」あたりだろうけど、自分も火に油を注いでませんかね?
 大体、一番やんごとなき身の上であらせれるのはイヴァン皇子殿下だと思われるのですが。世界各国共通の貴族のいやみを切って捨てるとは。
 殿下のまとめる第六分隊は、確かに実力主義の精鋭揃いではある。殿下にとって負の不文律は通用しないためであろう。それがいいのか悪いのかはともかく。
 両者、無言のにらみ合い。
 周囲の空気がどんどん冷えていくのを感じた。ついでに緊張感で呼吸もしづらくなっている。
 逃げたいなーなんて思い出した頃、大事なことをまるきり忘れてることに気付いた。
「あの、そろそろパスヒューム伯爵を探しにいきませんか?」
 多少上擦ったかもしれない声音で提案すれば、ソーニャが「そうだった!」と踵を返す。
「あのニセモノ坊ちゃんめ! 見つけ次第とっちめてやる!」
 ソーニャはそう言うなり肩を怒らせて歩き出す。
 当然のように殿下はそれに続く。さっきまでの言い合いはなんだったのか。
 どうあっても伯爵を名前で呼びたくないご様子。
 ここまでくると前世でなにかあったのだろうかと勘繰ってしまう。
 彼女の後ろ姿を追いかけながら内心、思った。
 ソーニャの怒りの導火線。
 最後に火をつけたのは間違いなく殿下だ。
 伯爵の身が心配である。
 コンラッドと並んで歩きつつ、これから降りかかるであろう伯爵の災難に同情した。
 ペガサスという名前を聞けば翼のある馬を想像すると思う。
 空を駆ける姿は神聖かつ優雅な印象を受けるけど、実際はそんなメルヘンチックな生物じゃなかったりする。
 父親である海神は荒々しい気性の持ち主らしいから、その性質を引き継いだのかもしれない。
 乗り手を選び、気に入らなければ振り落とすという、筋金入りの利かん坊。単純な話、暴れ馬。
 本来なら天界で雷鳴と雷光を運ぶ使命を負っている。それが下界で珍獣扱いされれば腹も立つだろう。
 いずれにせよ、速やかな問題解決が望まれる。

 同行者がふたり増えたので、探し人はあっさり見つかった。
「あれ、ない? なんで!? ここに入れておいたのに!」
 背中からでもわかるほど狼狽した姿を披露する伯爵だった。
「見つけたわよ! フィリップ!」
 ダンッと踏み鳴らして宣言するソーニャは肩が小刻みに震えている。呼吸が乱れたわけじゃない。これはかなり怒っている。爆発も近いかもしれない。
 伯爵は一瞬まずいって顔をしたけど、すぐに柔和な笑顔を浮かべる。器用だと思う一方、その表情にはわずかな焦りが見えた。
「や、やあ、ソレルベリー侯爵令嬢。今日も、ご機嫌麗しいね」
「そんなわざとらしい挨拶は結構よ。というか、今の私がご機嫌に見えるのならアンタの目は間違いなく節穴だわね」
 表情を険しくさせたソーニャは腕組みする。
 本来ならここで貴族の挨拶なら手にキスするんだろうけど、それを断固拒否ってことかな。うわぁ。これは怒りなのか嫌悪なのか。知らない方がいい案件だ。
「さぁ、とっとと返すものを返してもらいましょうか」
 ソーニャは強気に、ずいと手を差し出す。
 その仕草で伯爵は少なからず動揺する。心当たりがある人の反応っぽい。
 それでも伯爵はにこやかな笑みを浮かべる。
「な、なんのことかな? 僕は、なにもしてないよ。人違いなんじゃないかな?」
「すっとぼけるだけ時間の無駄よ。アンタが【アテナの鍵】を盗んだことは、ちゃあんとグレース様から聞いてますからね」
 出てきた名前にぎょっとする。
 グレース様は教会の第三聖女だ。彼女が絡んできたとなると話は大事(おおごと)である。
 伯爵の顔色も変わった。
「げ……」
「げ、じゃないわよ! 見なさい! この騒ぎは間違いなくアンタの仕業でしょ! さっさと【アテナの鍵】を渡しなさい! でないとようやく昨夜に完成した新技をお見舞いするわよ!」
 ソーニャがあさっての方向を指をさす。爆発して悲鳴が聞こえてきた。いよいよ余裕がなくなってきたかもしれない。
 本来なら、こんなことしている場合じゃないだろうに。
 伯爵は焦った表情で口を開いた。
「し、知らない! 僕は無関係だ! 本当に鍵なんか知らないんだ!」
「鍵?」
 ここで重要っぽいキーワードに反応する。
 伯爵が落とした鍵と何か関係があるんだろうか。
 再び、ふたりに視線を向ければぎゃいぎゃい言ってる。
 ソーニャが伯爵の髪を掴んで引っ張っていた。子供のケンカみたい。
 というか、このふたりはいつもこんな感じだ。伯爵が絡んできたり騒ぎを起したりして、ソーニャを怒らせている。
 あのふたりから話を聞くには時間がかかりそう。仕方がないので殿下に向き直った。
 赤銅色の髪は鮮やかに映え、端正な顔立ちは気品と優雅さを兼ね備えている。
 王者の風格。これで第七皇子とか嘘でしょ、といった貫禄。
「あのう、殿下……」
 おそるおそる声をかければ、視線だけで返事をされた。
 うう。迫力がある。
 よくソーニャは怒鳴り返せるなぁ。
 下っ腹に力を入れる。ついでに気合も入れた。
「パスヒューム伯爵は何をしてソーニャの逆鱗に触れたのでしょうか?」
「あそこの坊ちゃんは、どうやら聖女が管理している【アテナの鍵】を盗んだらしい」
「【アテナの鍵】ですか」
 聞きなれない名前だ。文脈からして重要なアイテムだと思われる。
 ベルストラスかリーヴィレスで作られたものだろうか。教会にも大陸各地の術式が組まれたアイテムが保管されている。
 それも教会の人間がそれぞれ責任者を任命して管理している。
 ここまで考えてハッとなった。
 殿下の話では【アテナ鍵】をグレース様から盗んだという。ここから導き出される疑念は伯爵には窃盗の容疑、グレース様には管理不行き届きの責任が生じる。ましてやそれで騒動に発展したとなると、その責めも加算される。
 ソーニャの攻撃はさらに激化していく。
 伯爵の胸倉につかみかかり、首を前後左右に振り回している。
 それを見ながら殿下は淡々と続けた。とめる気はさらさらないようだ。
「【アテナの鍵】はペガサスを拘束する重要な捕獲アイテムなんだろう。ソーニャは、制御に失敗して拘束を緩めたと思っている」
 一連の説明を聞いて頷く。
「それでペガサスが暴走してる、と」
 こりゃ、面倒なことになるぞ。
 そもそもペガサスはベルストラスから友好の証として贈られた経緯がある。
 他国からの贈りものの管理不行き届き。その後の対応によっては国際問題に発展するかもしれない。
「捕獲するにしろ、屠殺するにしろ、【アテナの鍵】を回収しないと始まらん」
「そんな……他に方法はないんですか? 鍵の複製とか」
 捕獲はともかく、屠殺はあんまりだ。
 他の手段はないのかと訊ねてみても、鍵はひとつしかないのだろうか。
 ふとわいた疑念に殿下は首を横に振る。
「【アテナの鍵】はペガサスとともにベルストラスから送られた。術の構築式が複雑らしくて複製品が作れないそうだ」
 さすがは魔法の国。
 簡単に技術は渡さない仕組みになっているわけね。
 もともと何の保険もなしにペガサスと対峙するのは論外っぽい。
 ただでさえ空を飛んでるし。それだけで二の足を踏むってもんだ。おまけに電撃をくらうかもしれない。動きをとめるなり、攻撃するなりしておとなしくさせるのは人力だけでは難しいときたもんだ。
 どうしようか途方に暮れた時、
「ん?」
 ふと気が付く。
 鍵。確かに、鍵だな。あれも。
 伯爵と接触した時、去り際に発見したものを思い出す。
 ポーチの中にあるものに触れた。ひんやりとした感触と固い質感。
 もしやと思ったその時、絶叫が響いた。
 驚いて声の発生源を見る。
「早く鍵を渡しなさいよぉッ!」
「いだだだだだ! 何だ、その技! まさか、それが新技とかいうんじゃないだろうな!?」
「そんなわけないでしょう! これは前座よ! とっておきを喰らいたくなかったら、とっとと出すもん出しなさいーッ!」
「痛ーッ! 肩が外れる! 腕が折れる! さっさとのけよ、この怪力女!」
「なんですって!?」
 ソーニャの形相がさらに険しくなった。
 で、でも、なにしてるんだろう。
 説明することが難しい。
 とりあえず、ふたりは地面に倒れ伏している。
 ソーニャが伯爵の胸部付近を足で拘束していた。さらに右腕を掴んで背中をのけぞらせる。
 早い話、伯爵の肩と腕に激痛が走っている模様。ソーニャの力の入れ方によっては脱臼、骨折もありえた。恐るべき技である。
 ただし、その前に問題は他にも存在していた。
 侯爵令嬢としてあるまじき体勢ではないだろうか。
 男性にのしかかり、腕をがっちりと掴んでいるのだ。
 修道会には、ソーニャに憧れる少女たちも多い。彼女たちをガッカリさせること間違いなしの現場に見えなくもない。
 どうしよう。止めさせるにしても、あの勢いに声をかけづらい。
「なんだあれは。異大陸の技か?」
 そっちが気になりますか。
 殿下は結構のんきだ。ソーニャが繰り出している技が気になるらしい。
 腕組みして静観を決め込む。すごい余裕。
 そこで、ぼそりと呟く声が聞こえる。
「……腕ひしぎ十字固め」
「ええ?」
 見れば、コンラッドの真剣な表情。
 あの技をどこで修得したんだろって顔かな。
 殿下とふたりで見つめるも、それ以上は深く語らなかった。
 彼はイーストレアという東の最果てにある異大陸出身者だ。師匠である祖父とともに各地を渡りながら、剣の腕を磨いたコンラッドなら見たことがあるのかもしれない。
 ただし、語ってくれることは稀。もともと口数が少ない人だ。そもそも、あれがどんな技だとかどの流派だとか知ったところで意味はない。時間が経過するごとに伯爵の怪我するリスクがあがるだけだ。
 とうとう我慢の限界に達したらしい伯爵は自棄ぎみに叫ぶ。
「濡れ衣だ! よく見ろ、何も持ってないだろ! 証拠もなしに他人を疑うなんて騎士団の名折れだぞ!」
「は? この期におよんで言うことそれ!? 今さら、そんな理屈が通るわけ……」
 鍵を持っていないと主張する伯爵に対し、ソーニャは眉をひそめるだけ。いや、むしろ両腕にぐっと力を込めた。
 まずい。このままでは伯爵の血を見るだけになる。
 わたしは慌ててポーチの中を探った。複雑な細工の鍵を勢いでとりだす。
「あの! これに見覚えある方はいらっしゃいませんか!?」
 手にした鍵を天上に掲げた。
 その場にいた面々の動きが、ぴたりと止まる。
 ぽかんとしか顔から一転、目を見開いたソーニャが口を開いた。
「ジェシカ! それどうしたの!」
「なんで、おまえがそれを持ってるんだ!」
 ソーニャが飛びあがった。しかも伯爵を蹴りながら。
 彼の発言は、その……認めてるよね。少なくとも自分が【アテナの鍵】を持ってたってこと。しかも紛失したことまで。嘘がヘタとかのレベルじゃない。
「てっきり、パスヒューム伯爵の落とし物かと……」
 親友の剣幕に気圧されながらも事実だけを話す。
 さっきまでなら伯爵が鍵を盗んだか確証はなかった。しかし、わたしの発言であきらかに事態は動いた。
 ソーニャからすっと表情が消える。
 背後には、そそくさと逃走を図る伯爵の背中が見えた。
 親友はガシッと彼の襟首を捕まえる。
「ほ~。なに? つまりアンタは【アテナの鍵】盗んだだけじゃなく、落としてシラを切った挙句に逃げた出したってワケ?」
「違う、僕じゃない!」
「何が違うってのよ、このホラ吹き伯爵が!」
 もはやフォロー不可能。
 絶対に認めようとしない頑なな伯爵。それをも黙らせるソーニャの怒声。
 おのれの危機を悟ったのか両腕をのばし、手を振る。
 距離をとって怒りを鎮めてくれってポーズ。でも、そんな時間はとうに過ぎた。
「待ってくれ! 話せばわかる!」
「問答無用! 目覚めなさい、【星の女王(セレーネ)】!」
 大声を張りあげながらソーニャが細剣《レイピア》を引き抜いた。
「瞬きなさい! 【聖流閃(せいりゅうせん)】!」
 彼女の声に呼応したかのように白銀の閃光が周囲を覆った。
 電撃と見紛うばかりのスパークが迸り、伯爵の絶叫が響く。
 その後もソーニャの気が晴れるまで制裁は加えられた。
 あまりの過激さについていけずに、そっと目を逸らす。殿下やコンラッドのようにスルーはできない。
 その後、伯爵の心身はずたぼろ。見るも無残な姿になった。
 思うに彼にとってソーニャは最も関わってはならない人物なのかもしれない。
 にじむ涙をこらえながら伯爵は叫ぶ。
「畜生! 覚えてろ!」
 そんなお約束の捨て台詞を吐いて帰っていった。
 気の毒だけど、それを黙って見送るしかない。
 あらためてペガサス捕獲作戦を展開するために。
 今にも大雨が降りそうな空。
 嵐の前みたいに湿った風も出てきた。
 事態の悪化は食い止めなければならない。
 ソーニャが伯爵に制裁を加えたあと、北宮殿へやってきた。
 爆発の音を追っていったら、そうなった。
 修道会には結界が張られているから、ペガサスからすれば一定エリアに封じ込められた形になる。幾度となく進路を阻まれて苛立っているだろう。
 遠くからでもわかる。明確な怒気。嘶きと足運びに表れている。
 そろそろ雷を落としてくるかもしれない。
 捕獲アイテムがあるとはいえ、伝説クラスの幻獣をどう相手にしたらいいのか。 
「決まっている」
「へ?」
 考えていることを読まれたのか。
 殿下が背後でライフルをかかげている。いつの間に。
 というか、まさか?
「ああいう類は撃ち落とすにかぎる」
 端的にまとめ、スコープを覗いた。迷いなく引き金を引く。
 銃声とともに、ペガサスが身じろぎをした。直撃した様子はない。
 ソーニャが慌てて殿下に駆け寄った。
「おおおお、お待ちください、殿下!」
「意外に狙いにくいな」
「イヴァン殿下、ペガサスを殺す気ですか!」
「安心しろ。ああいう幻獣は銃火器くらいじゃ死なない」
「どっから来るんですか、その根拠!」
 もはや駆除を試みているとしか思えない殿下隊長。
 ソーニャは青ざめたまま勢いよく突っ込んでいる。
「国際問題って知ってますか!」
 そりゃそうだ。
 しかも、グレース様からは穏便にすませるように言われているみたいだし。殿下の行動は果てしなくアウトだ。
 今さらだけど、よく一緒にいられるね。ソーニャ。
 もう、あのカップルは放っておこう。加わったところで解決する可能性は薄いし。
 どうしたもんかと思いながら空を見上げる。
「とりあえず引きずり下ろすしかないかな」
 当たり前すぎるくらい平凡な処置を口にするとコンラッドが頷いた。
 すでに柄に手をかけている。次に、すいと手の甲を見せる。「後ろに下がって」のサインだった。
「ジェシカは鍵を」
「あ、うん」
 そっけない態度なのに絶対的な安心感がある。
 素直に後ろへと下がった。
 殿下がペガサスを攻撃したことで、向こうも敵として認識したのだろう。
 空中を蹴って突進してくる。
 嘶き、足音、風の音。
 かすかに耳に届く。
 吐き出される息の音。深く、ゆっくりと呼吸する。
 コンラッドの戦闘態勢の合図。
 次いで、ザッと大きく踏み込んだ。姿勢を低くする。同時に柄に手をかけていた。
 最初に踏み込む一撃。ただそれだけのために全力を込める姿勢。
 ざわざわと感覚が浸食されていくのを感じる。コンラッドが術の構成を編みはじめた。
 ペガサスが突進してくる。
 コンラッドは動かない。目視することもない。
 距離は、どんどん近づいている。コンラッドは攻撃するつもりがないんじゃないか、そんな風に思ってしまうほど、微動だにしない。
「斬り裂け。【疾風(はやて)】」
 低い声音が耳に届いた瞬間、強風が吹き荒れる。反射的に目を覆ってしまう。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 ペガサスの嘶きに、強風。
 視界が開けた時には、コンラッドとペガサスの位置が反転していた。
 両者、にらみ合ったまま動かない。
 おそらく、ペガサスとコンラッドがすれ違いざまに攻撃をして相殺したのだ。
 太刀筋は読めなかった。
 おそらくコンラッドは剣を鞘から抜くと同時にペガサスへ斬りかかったはず。
 彼の剣筋は独特だ。
 レシュトフォン最強と謳われるダートダルクの剣技とは違う。
 余計なものをそぎ落としたような、初撃の早さに特化した技。
 その早さは騎士団でも一、二を争う。
 ペガサスと対峙するコンラッドは剣を構えたまま動かない。その表情はなんの感情も読み取れなかった。
 でも、きっと次の一手を考えている。
「外したか」
「コンラッドの剣でも当たらないとなると別の手段を講じる必要がありますね」
 観戦している風に感想をもらすのは殿下とソーニャだった。
 いつの間にケンカを終了させたらしい。
 コンラッドの戦いぶりに感心してる場合じゃなかった。
 わたしたちも彼の加勢をしなければ。
 そう思った時、ソーニャがこちらに手を差し出してくる。
「ジェシカ、【アテナの鍵】を!」
「え」
「こうなったら私が鍵を使っておとなしくさせるしか……」
 それはそうだ。
 確かに、ソーニャの方がいろいろ上だ。剣といい、神霊力といい。
 彼女に任せれば、ペガサス捕獲などたやすいはず。
 淡い期待をいだいて鍵を親友にわたそうとした。
「やめておけ」
「んな……!? どうしてですか!」
 制止する殿下に食ってかかるソーニャ。
 ふたりともそんな場合じゃないとわかっているのに、あえて口にする意味。
「さっきからおまえがひとりで騒ぐから見ろ。警戒どころか興奮している。コンラッドの攻撃で、いよいよ後がなくなったと思っているだろう。ここでおまえの直線的な捕獲術が成功する見込みは低い」
 イヴァン殿下は現実的だ。その冷静な判断力で隊をまとめてきた。
 つまりは生半可な力では無理ってこと。
「やってみなければわかりません!」
 ソーニャ食い下がるも相手にされない。
 殿下はライフルを構えた。
「くるぞ」
 カッカッと蹄の音がした。
 見れば、興奮したペガサスがこちらに向かって突進しそうだ。今にも。すぐ。
「ジェシカ! 鍵の使い方はわかるわよね⁉」
「ええ!?」
 大声で叫ぶソーニャが十時の方角へ走り出した。
「私と殿下が囮になるから、ガッツンとやっちゃって!」
 殿下はもとよりそのつもりだったのか、彼女とは反対方向へ飛び出す。走りながらペガサスを狙撃。
 天馬の方は鎧のような皮膚で銃弾を弾く。どんな仕組みなのか。
 それでも驚いたり、迷っている暇はなさそうだ。
 鍵をつよく握り、術の構成を編む。
「『黄金(きん)(くつわ)』」
 パキンッ――。
 呪文で封印が解けたのがわかった。
 鍵が重く感じる。
 たぶん大量に神霊力吸われている。
 ペガサスは殿下の方へと鼻先を向けた。一気に跳躍して襲いかかろうとする。
「唸れ、【星の女王(セレーネ)】!」
 今度はソーニャが叫ぶ。細剣(レイピア)を引き抜き、振りあげた。
「【聖覇斬(せいはざん)】!」
 カッと閃光が走り、ほぼ直線状の光が現れてペガサスにぶつかる。
 攻撃は直撃したと思った。
 よろけた天馬にダメージはなさそうだ。威嚇のような鳴き声で曇り空が鮮やかに光る。
 ゴロゴロと雷鳴が響き、暗雲から雷光が走る。
 しまった。
 何気にここは広い空間。避雷針的なものがなにもない。
 カッと視界が光った瞬間、左に跳ぶ。足元には焼け焦げた跡。喰らっていたら即死だ。
 死への恐怖よりも今は術の制御で手いっぱい。
「『天駆ける蹄、雷光を運ぶ翼、ふたつ星の欠片』」
 ペガサスを追いながら、呪文を詠唱する。
 鍵の形状が変化する。
 光が煌めいて、大剣へと形が変わる。白銀の光が鎖を編み、幾筋にも伸びてペガサスに絡みつく。足や翼、首に食い込み、動きを鈍らせる。
 嘶きと共に天馬が力任せに抵抗した。さらに鍵の握る手に神霊力を注ぎ込む。決して、逃さぬように。
 身体の内側を探られるような。撫でまわされるような、不快感。
(術の制御に失敗したら、内臓破裂するかも……)
 かなり気持ち悪い。
 反動のない奇跡はない。術は必ず代償が伴う。
 それが強力であれば、あるほど。
 綱引きのような状態で膠着に持ち込む。その時、ペガサスが突進しきた。
(嘘――――!)
 とっさに重心を前に傾ける。
 さっきまで互いに引っ張りあっていたのだ。そこで相手だけが力の方向を変えてきた。反動で尻餅でもついたら内臓破裂は確実だ。ぞっと心臓が縮みあがる。
 じゃない。反撃もしないと……
「ジェシカ!」
 ソーニャの声が遠くに聞こえる。
 それがやけにゆっくりだなと思った時、目の前を強風が通り過ぎる。さっきのように目を駆けていられない。かすかにこじ開けた視界には驚いて身をのけぞらせるペガサスの姿。
 ただの偶然にはできすぎている。
 もちろん、この風を発生させたのは――――、
「コンラッド!」
 二時の方向にはコンラッドがいた。剣を構えたまま静かに告げる。
「神の遣いだろうが、ジェシカに危害をくわえるのは許さない」
 そ、そんなに?
 さっきまではいつも通りだったのに。ペガサスは知らないうちに彼のご機嫌を損ねていたようだ。
 でも、コンラッドの援護で隙ができた。
 このまま押し切る!
「『戦姫神アテナが命じる。荒ぶる天馬よ、我が呼び声に応えよ』!」
 膨らんだ神霊力を爆発させるようなイメージで、鍵を後方へと振り回す。白銀の鎖が引っ張られ、ペガサスもろとも地面へ叩きつける。
 鍵の重さが増していく。ペガサスが抵抗しているからか。
 でも、ここまできたら力でねじ伏せるしかない。
 ドンッ!
 衝撃とともにペガサスが地面に倒れた。光る鎖がしっかりと天馬をとらえている。
 それを確認して嘆息がもれた。
「なんとか……」
 ほっとする間もなく、どしゃ降りの雨が降ってきた。
 あっという間にずぶぬれ状態。
「ジェシカ。お疲れ」
「コンラッドもありがとう」
 短い労いの言葉に安堵する。
 今度こそ、本当に終わったんだなと実感した。
 その後方では、
「寒い……」
「兵舎に浴室があるだろ」
 髪をかきあげた殿下が意地の悪い笑みを浮かべる。
 その姿は扇情的だ。見てはいけないものを見てしまった気になる。
「一緒に入るか?」
「遠慮します」
 すたすたと前を通り過ぎるソーニャ。鮮やかすぎる。
 そんな微妙な空気だったのでコンラッドと一緒に聞かなかったことにした。

「今回は、お手柄だったんじゃない?」
 数日後。
 再び、食堂で遅い朝食をとっている。
「ペガサスの捕獲なんてすごいね。他の騎士は右往左往してたってきいたよ」
「うーん。それがね」
 スプーンをくわえたまま、ぼやく。
 カイル特性のシェパーズパイの出来は素晴らしい。
 パイ生地のかわりのマッシュポテトが玉ねぎやトマトのうまみを吸っていて美味というしかない。
「街にも宮殿にも被害もないってことで内部処理扱いになっっちゃった」
「え、じゃあ……何も起きなかったこと?」
「そゆことですね」
 もちろん、それには深いわけが隠れていたりする。
 ことの子細を知った修道院は当然、グレース様とパスヒューム伯爵に事情聴取しようとするが思わぬ人物が割って入ってくる。
 伯爵の父親クロスフォード公爵である。
 あれだけぼんくらな息子でも、差し出すのは躊躇われるらしい。自分の監督不行き届きであることを認め、謝罪。被害を受けた宮殿の修繕費を保証すると約束。伯爵も自分の監視下において反省させると言われては修道院も強くは出れない。よってグレース様の責任も問うわけにいかなくなり、緘口令だけが敷かれた。つまりは何も起きなかったことになる。
 実害はないのだから穏便に済ませたい魂胆が目に見えてる。
 ソーニャが聞いたら怒り狂いそうにな気もするけど、これが実情なのかもしれない。
 戦乱から長く続く平穏な日々。
 変化のない暮らしは、いつしか怠惰と腐敗を呼び寄せる。
 けれど、わたしは自分の職務を全うするだけだ。
 パイをひとくち頬張って、視線を横に流す。
 そこには、同じく黙々と食事をこなす彼がいて。
 当たり前のように助けてくれる。そのことに感謝を忘れない人間でいたいから。
「コンラッド」
 名前を呼ぶと、食事の手がとまった。視線だけを向けてくる。
 お礼を口にしようとしたら、目の前に差し出される魚のムニエル。
「これも食べるか?」
「あ、ありがと……」
 ついつい受け取って一緒に食べる。
 そんな日常もたまらなく好きだから、わたしはここにいるんだと思う。

 素晴らしき創造主を信仰する神の国ラスウェル。
 今日もごくごく平和である。

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