鬱蒼と茂る森の中。
 鳥のさえずりに気を取られないように、無線に耳を澄ます。
〈ジェシカ。追い込んだわよ。十五秒後に合流する〉
「了解」
 短く返事をして通信をきった。
 微弱な電波のザザッと乱れる音を聞きながら、意識を集中させる。(ウィップ)の柄を握ったまま。
 眼下に広がるのは草むらの地面。
 枝葉や幹など遮るものが極端に少ない開けた視界。その代わり、地上からは盲点になる高さ。
 あちこち吟味して発見した絶好の奇襲ポイントだ。
 その上に待機すること、かれこれ数十分。鳥の声と風の音以外にはとくに変わった様子はない。それが破られたのは、きっかり十五秒後。
 遠くからざわざわとした声がした。徐々にこちらに向かってくる。
 気配を殺し、ぎりぎりまで身を乗り出す。視界には変化はない。
 しきりに大きくなっていく声。歓声とも悲鳴ともつかない、叫び声。
 呼吸を止めて、食い入るように足元を見つめる。声は、いよいよ大きくなってきた。距離的に、もうすぐ視界に入る。
 ゴブリンの群れだった。
 大声とともに(ウィップ)を振る。地面にたたきつけるようなイメージで。
「爆ぜろ、【熾天使(セラフィム)】!」
 叫んだ瞬間に大きく爆発する。
 緋色の炎にゴブリンたちが慌てふためく。
 確実な手ごたえ。と思っていた矢先に落下する浮遊感。
 視界が反転して木々の間から空が見えた。
「いい!?」
 爆発の反動で吹き飛ばされたのだ。
 力みすぎたー!?
 少しばかり力加減を間違えたようだ。もちろん、反省するには遅すぎる。
 背中から落ちたから受け身もとれない。(ウィップ)で枝を掴もうと試みるけど間に合うか。
 それより地面に激突する方が早いか。
 一瞬の恐怖が手元を狂わせた。
 視界には、(ウィップ)が巻きついた枝が折れたところを目視できた。
(いやー! すごいあほじゃん! わたし!)
 間に合わないと目をつぶった時だった。
 どさっと尻から沈み込む感覚がした。想像していた衝撃じゃない。激痛もない。
「……ジェシカ。平気か?」
「うん?」
 落ちてくるのは抑揚のない優しげな声音。
 まぶたを開けると、端正な顔立ちの男性が覗き込んでいる。
 かなり近い距離。
 一体、なにがどうなったのかとまじまじ見つめてしまう。
「ジェシカ。怪我は?」
 そうだ。地面落下は免れたようだけどなんでだ?
 つぎに周囲を確認する。
 炎と熱で逃げまどうゴブリンが目線の先にいる。つまりは、落下はコンラッドによって助けられたと思われる。
「あ、ありがとう。コンラッド」
 お礼を口にした途端に気づく。
 わお。
 これは驚き。
 コンラッドに横抱きにされた状態だった。
 落下した距離は結構ある。彼の腕力に脱帽だ。というか感謝しかない。
 けれど、気づいた瞬間、申し訳なさと恥ずかしさが唐突に襲ってきた。
「コンラッド、ありがとう! もう大丈夫!」
「え、怪我は……?」
 慌てたせいか、彼の腕の中でもがいてしまう。
 そこへ、さらなる追い打ちが発生。
「ジェシカー、大丈夫ー?」
 遠くからした女性の声に、びっくりして肩が跳ねあがった。
「だ、大丈夫! コンラッド、もういいから。おろして!」
 コンラッドのきょとんとした顔が余計に羞恥心をあおる。
 うう。
 そんな至近距離で見つめないで。

 長い戦乱のなか、レシュトフォン大陸にはある信仰が広まっていく。
 ラスヴァトーレ神と呼ばれる創造主。
 あらゆる生命を司り、流れる力を循環させ、奇跡を起こす。
 国を持たないザクツェリ民族のみが信仰していた神だったけど、終わりの見えない戦いの中でその存在を大きくしていく。
 やがて救いと安寧、自由を求めるものたちが集まり、戦い、ラスウェルという国を作った。
 同時に大陸の戦乱も収束する。
 すでにラスヴァトーレの民はいなくなり、信仰のみがラスウェルの地に残るのみ。
 創造主の奇跡も、伝説も、戦の記憶も、時のながれとともに薄れていった。
 ラスウェルの南西部にある聖都ラソクウェルには、ソーフェン修道会がある。
 建国より以前に作られたヴェカデーレ宮殿。その内部にあるラソクウェルだ聖堂を中心に、修道士・修道女たちが数多く暮らしている。
 早朝からの祈りを終えて食事をとる。
 修道会は今日も平和……のはずだった。

「それでまた報告書?」
「…………」
 柔らかな口調とは裏腹の鋭い指摘に、ぐぐっと言葉を飲み込む。
 ついでに朝食のチーズリゾットも一緒に。
 口の中ではベーコンのカリカリとチーズのとろける触感がする。微かにニンニクの匂いもした。
 最後にブラックペッパーのからみがきた。
 すごくおいしいのに、ちまいちテンションがあがらない。
 早朝にあった任務のせいだ。
 畑を荒らすゴブリン駆除という目的は果たせたものの、ちょっと加減を間違えた爆発がいただけない。
 聖騎士という称号を持つ者として問題だと上官からの苦言を呈された。
「大変だね。やっと騎士になれたのに」
 料理人のひとりであるカイルが苦笑しながら、じゃがいもの皮むきをしている。すでに昼食の仕込みかもしれない。
 ここは食堂。修道院に関わるもの全員が利用できる。
 広い吹き抜けの空間は、見上げなければ天井が見えない。
 両側の壁に届きそうな長机がいくつも並べられ、置かれいる椅子は数え切れない。それだけで、このソーフェン修道会に在籍する人数が知れるというもの。
 シスターや司祭たちは共同で食事することが多い。でもその他の役職の人間はわりとバラバラだ。そのためか今の時間は人気があまりない。
「そうじゃなきゃ減俸だって。どっちがいいって隊長が」
「うーん。脅迫にもとれる選択だね」
 本来、食事は静かにとるもの。
 こんな世間話をしながらではシスターに睨まれる。つまり穴場な時間帯ってことだ。
 ただ単に報告書かいてて遅くなっただけだけど。
 ようやく報告書から解放されたのに気分は晴れない。
 世のためひとのため。慈愛と高潔な精神のもと、信徒を守る聖騎士。
 それが加減を間違えて爆発騒ぎは確かに問題だ。
 自分の制御(コントロール)の下手さに落ち込む。
 カイルの作る絶品の料理が唯一の救いである。
 と思いかけて、ちらりと横目で見る。
「コンラッドは付き合わなくてもよかったのに」
 隣に座る黒髪黒目の青年は黙々と食事をしている。
 彼の名前はコンラッド・グローヴァー。
 さきの任務で、助けてくれた先輩騎士だ。彼がいなかったら今頃は大けがをしていたかもしれない。
 しかも、わたしが隊長に怒られた時にも助け船を出してくれて報告書どまりの処罰にすませてくれた。もちろん、報告書の内容も一緒に考えてくれたのだ。
 当然、感謝しているけど申し訳なさの方が勝ってしまう。
 お礼を口にするよりも早くこぼれた呟きにも、コンラッドは整った表情を崩さない。
「別に」
 さらにそっけない、ひと言。
 彼の場合、反発とか迷惑といった感情は見えなかった。これは朴訥といった、飾り気のない本心だと思われる言葉だ。
 コンラッドはいいひとだ。
 こんな時、素直にお礼が言えたらいいのに。
 感激したいのはやまやまだ。でも、そんないい先輩を巻き込んだ自分が許せない。ちゃんと制御(コントロール)しろよって考えになる。
 さらには、カイルの満面の笑みで話が脱線する。
「愛だね」
「う、うーん?」
 わけがわからず戸惑う。
 どういうこっちゃ?
 コンラッドも反応しないので、ますます混乱するしかない。
 このまま食事を再開するべきか悩んだ時だった。
 ドンッと衝撃が響いた。
 続けて激しい爆発音。建物が二度、三度揺れる。
 地震ではなさそうだ。
 周囲を見回すと、食事の手をとめたコンラッドが椅子から立ちあがる。
 窓へと視線を流す。つられて追うとガラス戸の向こう側が、爆音と一緒に炎が噴き出した。
 何か起きた。みたいだ。
 同じく椅子からたちあがる。
「ごめん。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 申し訳なさげにふり向くとカイルは笑顔で送り出してくれた。話が早すぎる。
 他国との戦乱がない今、騎士団の仕事など巡礼者の護衛くらいのものだ。
 しかし、ラスウェル国民に何かあれば命をかけて守るのが責務。非常事態には駆けつけることも職務に含まれている。
 名残惜しく確認をしてしまう。
「カイル、その……」
「わかってるよ。ちゃんと残しておくから」
 もごもごとした言葉の意味を察してくれたらしい。
 さすがは修道会の料理人。食事を大事に考えている。ありがたいことである。
「昼食もとっておくよ。あとでふたりで食べにおいで」
「ありがとう! コンラッド、行こう!」
 苦笑しながらの見送りに、意気揚々と食堂を出た。
 
 ヴェカデーレ宮殿は、その名のとおり王族の居住区域だった。
 ラスウェルが建国される前、さまざまな民族や王族が争っていたなかで覇王アドルファスの統治した時代が長く続いた。
 長期間の治世は、文明や文化・技術・芸術が洗練される。アドルファス王朝も例にもれず、美しい宮殿や堅固な城が作られた。
 それは国が滅んでも残るほど。

 とにかく食堂から出て、中庭へ向かう。
 何か起きたか確かめるには、もっとも近い見晴らしのいい場所だからだ。
 騒動は気のせいではなかったようだ。
 あちこちから逃げ惑う修道士やシスターがいる。それらをかきわけるように中庭へたどり着いた時だった。
「わっ」
「ジェシカ」
 柱の影から出てきたひとと肩がぶつかる。
 後方によろけた瞬間コンラッドに支えられた。
「あ、ありがと」
 見上げれば、さっきと変わらない無表情。
 慌ててないのがすごい。頼もしいかぎりである。
 でなくて、今度はちゃんと言えたぞ。報告書のことも改めてお礼を伝えなくては。
 体勢を戻しつつ、本来の目的を忘れそうになった。
「誰だ、こんな道のド真ん中でぶつかってくるなんて!」
「す、すみません……」
 苛立ちを隠しもしない怒声に目を見開く。
「パスヒューム伯爵?」
「一体どこ見て歩いてるんだ!」
 彼の名前はフィリップ・エディ・シーモア。
 紫の瞳に、青の髪がゆるくウェーブがかかっている。
 見た目は、爽やかな青年貴族といった風貌。ただし、ここから先が少し残念。
「はッ、誰かと思えばいつもソーニャの周りをうろちょろしてる庶民出のふたりじゃないか」
 斜め上からの見下した視線。
 この人の出会い頭の挨拶は、決まってこうなる。
 確かに、私たちは貴族の出身じゃないけど。ちょっと違和感。
 私たちが所属するラスヴァトーレ教会は、あらゆる人々の救済を第一の教義としている。つまり生まれた身分は関係ない。敬虔に祈りを捧げ、毎日を誠実にひたむきに生きていれば誰でも救われるという素晴らしい教え。
 むしろ貴族の方が珍しい。庶民派の信者に出会えば、誰にでもこんな挨拶してんのかな。
 あからさまな侮蔑なんだろうけど、わたしといいコンラッドといい「はぁ、そうですか」と受け流すしかない。コンラッドはどうだか知らないが、わたしはリーヴィレスの片田舎で育った。両親も農場の手伝いをしていたので伯爵の言っていることは事実だ。
 けれど、それがなにとどう関係するのか。
 会話の流れが読めず、黙り込むしかない。
 その反応が期待通りでなかったためか、伯爵は眉根をよせて口元を押さえた。
「おやおや、やはり下々の者たちは挨拶の仕方もわからないのかな。今にも家畜やら土のにおいがかおってきそうだ。あまり近寄らないでくれるかい?」
 ついでに顔をそむけられた。くさいものにでも遭遇したかのような態度である。
「…………」
 うーん。
 こういう場合、どんな反応をすればいいのやら。
 しかも文脈的には伯爵はすでに挨拶をすませたみたいだ。
 ここでにこやかに挨拶できれば彼のような上流階級の人間なんだろう。できないから庶民派なわけで。
 どうしたもんかと思案していると、
「ん?」
 つむじ辺りになにか触れている気がした。
 上を向けば想像以上にコンラッドが接近している。位置的に髪に触れるか触れないかぎりぎりの距離だ。本人はいたって真面目な表情っぽい。よくよく見れば、ほんの少しだけ目元が細められた。
 笑ってる?
 驚いて訊ねるしかない。
「ど、どうしたの?」
「ジェシカからはいつもいい匂いがする」
「ううん? あ、ありがと……」
 なんだか見当はずれな返答に思えたけど、一応は誉めてくれたようなのでお礼を言っておく。
 コンラッドは口数は少ないけど嘘はつかない正直なひとだ。なにかしらの根拠があって言ってくれたのだろう。その真意は謎だけど。
 で、なんの話だっけ?
「おいコラ! そこでイチャつく奴らがあるか! 僕を無視するな!」
 今度は伯爵が怒りだした。無視したつもりはないのに。
 改めて彼に向き直るとハッとしたご様子。なにかを思い出したみたいだ。
「こんなことしてる場合じゃなかった! 早く逃げないと……」
「逃げる?」
 およそ普通に生活していたら出てこない発想だ。
 またなにかやらかしたんかな。
 この伯爵が挙動不審な場合、おおよその確率で騒動が起きているらしい。友人談。
「あの伯爵……」
「うるさいな!」
 声をかけた途端に腕を振り払われた。まだ何もしてないのに。
「あ」
 走り去る背中を見せられた時だ。ポケットからこぼれ落ちるものが。急いで拾って声をかける。
「あの、落としましたよー」
 姿は、もう見えない。声が届かなくても不思議ではない距離。
 鮮やかな逃走劇だ。一体、なにから逃げていたのか。
「ジェシカ?」
 コンラッドに声をかけられて、伯爵の落とし物が気になった。
 握ったてのひらを見る。コンラッドも覗き込んできた。
「鍵?」
 細かい細工が施された鍵だった。
 見た目よりは重い。純金製かもしれなかった。
 目を凝らせば、ところどころ傷や汚れもある。年季が入った代物だ。
「なんの鍵なんだ?」
「さぁ……」
 手首を返して鍵の裏表を見比べる。もちろん、それでなにががわかるはずもないのだけれど。
 伯爵は、なぜこの鍵を持っていたのだろう。しかもあの態度は気になる。
 首を傾げていると、背後で再び激しい爆発音がした。
 コンラッドと顔を見合わせる。
 騒動を解決したあと、伯爵を探すべきだと思った。