セルミナはミーシャちゃんと共に王都へと出立した。二人の俺に対する憂患の視線は最後まで薄れることはなかった。
 静まり返った宵闇の下で、俺は緩やかに歩みを進める。セルミナから受け取った辺境伯家に代々伝わる剣を大事に抱え、ミーシャちゃんが作ったお守り代わりの首飾りを首に通し、覚悟を決めた面持ちで春暁の空を見上げていた。 
今になって、膝が震えてくるのを感じる。
 怖い、怖いに決まっている。これから死地に赴く、しかもルメニアの存亡を掛けたものになるかもしれない決戦に挑むという重圧が、予想以上に肩にのしかかっているのを感じた。
「聞いたよ。一人で東方連邦軍に向かっていくって」
「へっ?」
 俺は虚を突かれ、瞠目して振り返る。聞き覚えのあるやや高い男声は、凝り固まっていた緊張を微かに解かした。同じクラスのバーレッドだった。
 バーレッドはマーガレット先生の提案を蹴り、この町に残るという決断を下していた。その決断自体を否定する気はないが、それでも俺の前に現れたことに、驚きが隠せなかった。
「ま、そういうやつだってことは分かっていたが」
「誰だ」
 こいつは知らない。初めて声を聴いたが、おそらくクラスメイトだろう。他にも3人いるが、あまり顔に見覚えがない。俺は苦笑いで応えた。一人で立ち向かう俺を鼓舞しに来たのだろうか。
「忘れてもらっちゃ困る。同じクラスだろう」
「俺、お前らにずっと睨まれていたからさ。名前も知れなかったし」
「それはすまなかった。でも授業で名前呼ばれてただろう」
「他人の名前なんてじっくり聞くもんじゃないし、第一聞いただけで覚えられるか」
「それはそうか」
 真顔で納得したように頷く。変なやつだ、と鼻を笑った。
「我はラダルだ」
「そうか。というか、どうしてこんなところに?」
「僕たちもこの街を守りたいと思ってさ。勿論、3万の大軍に立ち向かって何かできるとか、そんなことを思ってるわけじゃなくて、僕たちに希望を見せてくれた男が一人で大軍に立ち向かおうとするのに、流石に放っておけないだろう?」
 バーレッドが爽やかに微笑む。他の男たちも鷹揚と頷いた。
「放っておけないって。人を小さな子供みたいに」
「まあまあ。俺らが他人事だとは思ってないのはわかるだろ? 何か僕たちにできることはないか?」
「……危険だぞ」
「危険は百も承知さ。むしろ危険を恐れて僕たちの住む場所が荒らされる方が、僕にとっては苦痛さ」
 扱いがどうであれ、彼らの故郷はルメニア、そしてクラムデリアである。その場所を守りたいという思いに偽りはないのだ。
「なら一つ、頼みたい」
「なんでも言ってくれ」
「東方連邦軍に潜入して、内情を探ってくれ。特に吸血鬼を圧倒している敵の戦力の源を探り出すんだ。凶悪な武器を使っているとか、改造人間を戦場に繰り出しているとか。色々想像はできるが、情報が少ない。得意だろ? そういうの」
 敵の戦力のコアがなんなのか、正直のところ謎だらけだった。数度の戦いで生き残った者も、よく分からないまま気づいたら勝負が決していたと語っており、その情報を剔抉できるのならば、大きく手間が省けるのは間違いない。
「そのくらいならお安い御用さ」
 バーレッドは一歩前に出て、胸に拳を当てる。
「ああ。なんのために魔法学校であの鬼教師にしばかれてきたと思ってるんだ」
「誰が鬼教師だ」
 ラダルが寒気に震えるような仕草で縮こまっていると、唐突に背後から頭を掴まれて、宙に浮いた。相当な握力が集中しているように見える。
「イダダダダ!!!」
 森閑な町にかまびすしい悲鳴が響き渡る。俺たちは驚いて振り向いた。
「ふん、貴様らはどうしようもない奴らだ。どうしてわざわざ死地へ赴こうとする」
「マーガレット先生!?」
 予期せぬマーガレット先生の登場に、俺たちはにわかにざわめき立つ。
「先生は逃げないんですか?」
「ふん、生徒が逃げずに残ると言っているのに、教師の私が逃げてられるか。貴様らが全員逃げるというのなら、喜んで逃げさせてもらいたいところだがな」
 身寄りのない多くの生徒は、マーガレット先生がしたためた推薦状を手にして国外へと逃げ去った。なんの実績もない一年生にまでなるべく良い場所を用意したというから、手厚いというか、面倒見が良すぎるというか。素直じゃない先生だと思う。意外に生徒想いな先生だ。
 本人は否定するが、武闘大会での俺の無茶にも根気強く付き合ってくれたあたり、それは明白だろう。
「そういえばシェリルはどうしたのか知っていますか?」
「ああ、主人であるベルナール子爵と共に既に脱出している。貴族の使用人となればそうそう危険な目には合わぬからな」
「そうですか……。それはよかったです」
 俺もセルミナの使用人になっていれば王都に落ち延びてもなんとかなったのではないだろうか。そんな風に一瞬思ったが、人間の侵攻下にある現在、俺を使用人にしているとなれば、辺境伯家の当主であるセルミナは確実に強い風当たりを受けるだろう。ストレスの捌け口にしているとか、幾らでも言い訳はつくのかもしれないが、俺のために汚名を背負わせるわけにはいかなかった。
 この期に及んで人間を使用人にしているのが見逃されるのは、あくまで下級貴族までだ。
「もっとも、お前のことはセルミナ様と一緒に逃げたと思っていたようだがな」
「先生は否定したんですか?」
「一応は肯定しておいた。余計な心配はさせたくはなかったからな」
「賢明な判断ですね」
「何様だ」
 マーガレット先生は俺の頭をコツンを軽く殴った。
「あはは。すみません」
「武闘大会といい、今回といい、胆力が一丁前なのは認めてやる。6人で戦うつもりなのか?」
「最初から一人でやるつもりでした。こいつらには敵情視察をしてもらうだけです」
「他人を巻き込まんとする貴様の自己犠牲の精神は立派だと皮肉っておこう。だが一人では限界があるのも分かるだろう? 武闘大会で見たお前の奇妙な能力、あれで戦うつもりか?」
「察しがいいですね。その通りです」
「遠目から見ただけだったが、あれは敵を恐慌状態に陥らせるものだろう。敵を足止めし、敵将、もしくは武器といった敵の脅威を叩くことで、敵軍を撃ち破る。そういう寸法であろう?」
「……流石は先生。全てお見通しでしたか」
 恐慌状態、それが敵の状態を表す最も的確な表現だろう。言うなれば、『恐慌魔法』だろうか。言葉にすると、すごく強そうに聞こえるものだ。
 マーガレット先生はこちらの魂胆をいとも簡単に暴いてみせた。並外れた考察力から断片的な情報を繋ぎ合わせ、ここまで正確な作戦を割り出してしまうのには驚きしか沸かない。敵には回したくないものだと強く感じた。流石は多くの国々で要職を任されスパイとして名を馳せた女、と言うべきか。
「ふっ、私ほど手練れのスパイとなれば、これくらいは造作もない。お前らもこれくらいにはなってもらわないとな」
 得意げに微笑むマーガレット先生は、バーレッドたちに向かって煽るように告げる。バーレッドはそれにムッとするでなく、気合いに胸を燃やすでもなく、畏怖の念を向けて頷いた。
「シノブ、私はお前に協力してやる」
「へっ?」
「一生徒に賭けるなど、若い頃の私が鼻で笑う程の愚行だとは思うがな」
「ほっ、ほんとですか!?」
 思わぬ申し出に、声が上擦ってしまう。マーガレット先生がこの場所に来た時点で期待こそあったが、本当に協力してくれるとは思っていなかった。
 今からやることは、俺の勝手な理想を過剰な自信の下に展開する、勝算など計算することすら不可能で、不透明なものだ。
 この能力を使って、敵を打倒する。言葉では簡単だが、あまりに細い勝ち筋を掴みに行かなければならないのだ。だからこそ、俺は極力他人を巻き込むことはしたくなかった。
「私もそろそろ血が騒ぎ出してきたところだ。現役の時はどんな無茶な作戦だろうと、完遂してきたからな。死ぬ気は毛頭ないが、ここは私にとっても故郷だ。守るために命を賭けたって構わぬだろう?」
 これまでどれほどの無茶を通されてきたのだろうか。想像するだけで震える。この人がいるだけでどれほど心強いか。
「先生がいるだけで百人力です」
「百人力? それじゃあ足りねえだろ。敵は3万もいるんだ。一万力だって不足だろうよ」
 本心か冗談かわからない戦闘狂の表情に、俺は苦笑いを浮かべる。
「マーガレット先生、ありがとうございます。俺を、助けてください」
「おうよ、任せておけ」
 不敵な笑みは、これまでで一番心強く見えた。



 東方連邦軍はクラムデリア郊外に本陣を構えていた。既に陽は上り、進軍の下知が降るのを今か今かと待ち侘びている。
 敵陣に忍び込んだバーレッドら5人は、警備兵を音もなく始末し、それに成り代わって息をひそめつつ帷幄に聞き耳を立てた。
「それにしても、魔族というのは大して強くないな」
「それは貴方が強すぎるからよ、グレン。どんな魔法でも意のままに使える貴方に敵う魔族なんているはずもないわ」
「はは、そうだったな」
 どんな魔法でも使える、という言葉にバーレッドは険しく眉を寄せる。そして同時に、吸血鬼を圧倒している戦力源がこの男なのだと確信に至った。
 紅蓮の能力はハッキリ言って異常だった。多くの魔法を意のままに使いこなし、その威力はまさに規格外という他ない。これまでの戦いでも、たった数発の魔法で敵軍は壊滅したのだ。
 あまりの威力に本人は退屈とすら思っていた。既に国から生きていくには十分すぎるほどの資金を受け取っていたので、『実は最強の冒険者』として美少女に囲まれて田舎でスローライフを送るのもアリだな、とまで考え始めていた。
「勇者パーティーというものを組んだ意味が無かったのではないですか? 剣士、戦士、僧侶なんておらずとも、グレン様一人で十分だったでしょう」
 シオンが淡々と告げると、グレンは苦笑いを浮かべるしかなかった。
 これだけの大軍の存在意義がないほどの圧倒的な戦力。吸血鬼はほぼ全員が魔法を使えるから、グレンも多少の警戒はしていたのだ。
 しかしそんな警戒は杞憂に終わり、グレンの魔法は敵を一網打尽にした。メンバーにも紅蓮から強力なスキルが付与されていたものの、一度も使う機会はなかった。
「でも俺は君たちに出会えてよかったと思っている。シオン、それは君もだ。この世界に召喚される前、俺には仲間と呼べる存在がいなかった。心の空洞を埋めてくれたのは君たちさ」
「グレン……」
 エリスは感激したように目尻に涙を溜める。
 シオンはその言葉を聞いてもなお、白々しい言葉だと心の中で断じた。
「私は母と妹と、慎ましくとも幸せな生活を送りたかった、それだけなのです」
「……外に引き連れてしまったことで、さぞ寂しい思いをしたことだろう。だからこそ、早く吸血鬼を倒し、国へと戻ろう」
 シオンの妹が国によって拘束されているという事実を知らないグレンは、胸に手を当ててそう告げる。
 質の低い憐れみだと、シオンは感じた。自分を外に連れ出したことを怒っているのではなく、妹を拘束して無理やり自分をパーティーに引き込んだその強引な手法に不満を抱いているのだ。まるでそれが無かったかのように話すグレンに、シオンの胸中にはどうしようもなく虚しい感情が去来した。



「なるほど、勇者パーティーか」
 そんなものは空想の異世界にしか存在しないと思っていたが、勇者という存在が一から作ったのだという。そして勇者の会話からは召喚という言葉が出てきたと、バーレッドは言っていた。
 魔法を意のままに操れることといい、勇者パーティーといい、召喚といい。このグレンという勇者には同じ世界出身の匂いを感じる。もしかしたら、俺はグレンの召喚に付随する形で、この世界に飛ばされたのかもしれない。むしろそう考えるのが自然だろう。
 そうなれば、俺は巻き込まれた身だ。本来なら怒るべきなのだろう。だが、不思議と怒りは沸いてこない。
 この世界で既に多くの人と関わりを持り、セルミナやミーシャちゃんといった大切な存在も見つけた。この世界での半年間は俺にとって日本で生きていた16年間よりも濃い時間だと、胸を張ってそう言える。加えて家庭環境のこともあり、俺には前世での未練はあまり残っていないのだ。
「勇者、か。スパイとして5年前まで現役だった私が知らんのだ。相当極秘に進められてきた研究だったのだろうよ。仮にあの勇者一人でこの戦況を作り上げたとすると、正直震えるな」
「もしかして怖いんですか?」
「たわけ。武者震いに決まっているだろう」
 そう答えると思っていた。俺は心の奥底で蓄積した恐怖を押し込み、不敵に笑って見せる。
「ただ勇者パーティーの雰囲気はお世辞にもまとまっているとは言い難いように感じたかな」
「それはなぜだ?」
「勇者パーティーのシオンという僧侶は、口ぶりから窺う限りでは母と妹から切り離されていることに不満を持っている様子だった。にもかかわらず、勇者の方は全く意に返さず、好意的に接しているというか。かなり不気味な関係に見えたよ」
「なるほど、弱みを握られている可能性は十分にある。勇者との交渉に使えるかもしれないな」
「それはどういうことだ?」
 マーガレット先生は眉根を寄せて小首をかしげる。
「まず、前提条件として敵は3万という大軍です。どのような作戦を採ったとしても、壊滅に追い込むことは不可能でしょう。となれば交渉です」
「和睦、もしくは撤退を飲ませるということか?」
「今回の戦で勇者以外の上級貴族がほぼいないことが気になりました。勇者には余程強い権限が与えられているのだと思います。もし和睦を飲ませることができれば、我々の勝利です」
 この戦況は勇者一人で作り出したものだ。勇者が決断したことに反対できる者は東方連邦にはいない。あの能力は国を滅ぼす程の脅威だからだ。
 同じ世界の人間で、かつ年齢がそう変わらないのであれば、交渉によって付け入る隙はあるだろう。
「なるほど。つまりそのシオンとやらを人質とするのだな?」
「戦いながら、隙を見て誘拐します」
「ま、戦いは避けられないだろうよ。勇者がその条件を飲んだとしても、三万の兵は納得しない。敵が壊滅しているのに、たった一人のために撤退するなど、阿呆のすることだ」
 逆にあれほどの戦果を一人で挙げた勇者を叩きのめすことができれば、3万の兵も恐れ慄く。
 シオンには勇者パーティーの情報、ならびに勇者に対する悪感情の根源を吐いてもらうつもりだ。脅すのではなく、あくまでシオンにも利のある話にする。バーレッドの話を聞く限り、母や妹が囚われている可能性がある。ならばその解放を勇者との交渉で和解の条件とすれば、必ず乗ってくるだろう。
「先生、私は勇者との一対一でおそらく限界だと思います。隙を見て、身柄を確保してください」
「承知した。クク、血が滾るわ」
 マーガレット先生は悪どい笑みを浮かべる。口では簡単に言うが、俺の『恐慌魔法』が上手く発動しない限り、事がうまく運ぶことはない。責任が肩に重くのしかかった。
「先生、僕たちはどうすればいいですか?」
「お前らは十分やった。魔法学校か城にでも避難していろ」
「いえ、最後まで戦わせてください」
「いいか、ハッキリ言ってやる。お前らは足でまといになる。ただでさえギリギリなんだ。お前らのことなんて構ってられない。いざとなっても守れねえぞ。分かったら早く行け」
 冷ややかな言葉だが、それが生徒であるバーレッドたちのことを思っての諫言であることは明瞭だった。
 バーレッドたちも自分達がこの局面では無力であることを察しているのは表情を見ても分かる。全員が歯軋りを響かせながらも、最終的にはマーガレット先生の命令を飲んだ。
「バーレッド」
「ん? なんだい」
「正直ものすごく助かった。お前たちがいなかったら、俺はまだ手探りのまま戦うことになっていたはずだ」
「そりゃよかった」
 勝利への筋書きを構築できたのは、間違いなくバーレッドの協力あってこそだ。俺は照れつつも本心から感謝を告げた。