ダイニングキッチンの蛍光灯が切れ、
不安定に明滅を繰り返す。
わたしはひとり、
部屋の中で手袋をして、
イスの上に立つ。
ひとりきりの誕生日の朝。――母の景色。
取り付けて何年経ったか、
蛍光灯の死を看取る。
二重の輪だった外側の丸形蛍光灯、
ツガイのひとつが寿命を迎えた。
「まだ、あったかい…。」
外出用の薄い手袋越しでも熱が伝わる。
蛍光灯に残ったわずかな体温。
足場の小さなイスの上は高く、
わたしは背筋を凍らせて身震いした。
蛍光灯なんて割れ物を持っていればなおさら、
数十cmの、この高さはひどく恐ろしく思えた。
膝を深く曲げて慎重に床を降り、
深く息を吐いてイスは本来の役割を果たした。
歯を磨き、髪を梳く。
化粧という名の仮面をし、
服という名の仮装を施す。
わたしは嘘を塗り重ねる。
玄関前の廊下の片隅で、
客の持ち込んだワインの空き瓶が、
不法滞在で酔って寝転がっている。
回収日はとうに過ぎていた。
いってきますと扉を閉めて、
空き瓶の主に向けて挨拶をした。
◆
社会という歯車の中の、
会社という回し車の中でわたしは走る。
わたしが会社にいなくても、
社会という歯車には影響を与えはしない。
それにわたしの狭い歩幅は、
ほかのひとよりもいくらか遅い。
周回遅れのトップランナー。
そんなわたしは迷える羊たちを救う
指導者を演じ、欺くのが仕事。
コールセンターの電話対応は、
年度末のせいか、きょうも多い。
モニタに表示される次に待機している羊に、
5分10分と、待ち時間が蓄積される。
そんな羊たちは草を求めて
メェメェと可愛くは鳴かない。
怒鳴り声、罵声、性差別、
中にはわたしに対する誹謗中傷も混ざる。
けれどもそれは仕方がない気がする。
かれらは不本意な契約に気づいて、
法律上、解約を求める権利がある。
狼狽し、泣き叫び、奇声を発する迷える羊。
イヤホン越しの鳴き声が耳をつんざく。
詐欺に等しい契約内容でも、
わたしは偽の聖書を朗読して相手に説く。
問題ない、心配いらない、ここは安全だから。
牧羊犬をマネした、嘘つき狼。
もしも解約となれば、給料は減らされる。
こんな仕事にやりがいなど湧くはずもない。
ボロボロの聖書を読むわたしはうつむく。
電話中は鏡を意識しなければいけない。
鏡を見ながら、電話先の相手を想像する。
鏡に映るのは、無感情で扁平なわたしの顔。
地獄のような現実に、偽りだらけの
わたしは肩までどっぷり血の湯に浸かる。
母がずっと見ていた世界も、
こうだったかもしれない。
◆
「弥生さんって、彼氏とかいないの?」
勤務時間は毎日8時間、
途中1時間の休憩も地獄に含まれる。
わたしに話しかけた女性は
わたしに関心を向けたのではなく、
わたしを嘲笑する材料を探っている。
「いない、よ。」
手元に聖書がないので、
挙動不審さが伝わったと思う。
「じゃ、普段なにしてんの?」
「え、マンガとか、ドラマとか。」
用意しておいた、当たり障りのない回答。
厚さだけが自慢の仮面はすでにボロボロ。
相手はそんな答えをよしとはしない。
「暗ぁ…、え? なに見てんの?」
「『恋花物語』、とか…知ってる?」
「あぁ、あの光学院ナノのドラマ?
あははっ、毎週見てた。元カレと。
あーいうの好き?」
笑う彼女の身体が揺れる度に、
耳や胸元の装飾品がギラギラと輝く。
その眩しさに、
わたしの細い目はさらに半目になる。
わたしは学生時代から同性が苦手だった。
正しくは、同性どころか異性さえも苦手。
「あのドラマ、まあまあ人気あったけど、
ちょっと古くない? で彼氏いないのに、
ひとりで見んの?
『やおい』さん、マジ?」
「はぁ…。」
彼女は仕事のストレスから
休憩を利用してわたしをこうして嘲笑した。
想定通りの尋問時間が終了。
彼女に作品を貶められるよりはマシな時間。
嘘で塗り固めたわたしは、
呪いの言葉を散々浴びせられた。
わたしのあだ名、『やおい』。
◆
仕事を終え、蛍光灯を買って家路につく。
起伏に乏しい回し車の単調な毎日。
ラフな服に着替えを済ませてキッチンに立つ。
綺麗なドレスを身にまとった灰かぶりのような
華々しい人生は、わたしにはない。
お互いのプライドをかけて戦い、
壮絶な死を遂げる予定もいまのところない。
わたしの母も、いまのわたしを見て
地獄の淵で笑っているに違いない。
母はいま、地獄にいる。
母にとって、わたしは邪魔な存在だった。
いわゆるネグレクトというやつで、
物心がつく前から家政婦が出入りしていた。
両親は仲良くなく、父は仕事人間。
ふたりの会話を見たことはほとんどない。
世間体を気にしている父は母から目を背け、
母は家事さえせず、遊び歩くひとだった。
ふたりの最後の記憶は、父が母を
一方的になじる罵声だった。
母は不倫の罰も母親としての責務も放棄し、
父とわたしへの当てつけで首吊り自殺した。
わたしの誕生日の朝、
冷たくなった母が見つかった。
わたしは誕生日のきょうも、
ひとりきりの食事を済ませる。
わたしは母親のようにはならない。
世間体を気にする相手と結婚はしない。
自由と無責任を両立する遊びもしない。
夫婦仲睦まじい家庭は望まないし、
孫に囲まれながら畳の上で最期を迎える
旧世紀の幻想は持ち合わせてない。
母を失い、就職したときから変わらない。
他人と同じ普通が欲しいとも思わない。
好きなマンガを読んで、こうして
たまに実写ドラマの『恋花物語』を観て、
ひとりで暮らす、いまの生活でもいい。
これがいまの、わたしにとっての普通。
◆
化粧を落とし、ぬるい湯に浸かり、
歯を磨き、少し早めに寝床に着く。
嘘で塗り固めたわたしでも、
ひとりきりのときだけは正直になれる。
眠たくなるまでタブレットを開き、
スタイラスペンを走らせる。
すると間もなく携帯電話が鳴った。
「いっこぉ、寝てた?」
「んー、起きてたよ。」
予期せぬ夜の訪問者。
メガネにマスク、ニット帽は耳まで覆い、
野暮ったい服装の見知った女友達。
「もう歯、磨いちゃった?」
「…ううん。」
わたしは彼女に嘘をついた。
「はぁーよかった。
夜寒いよ。」
ニット帽とマスクを外すと、小柄な
絶世の美人が目の前に現れる。
小さな顔。細い体型。
慣れきった非現実的な存在。
それからほんのり甘い匂いが廊下に満ちる。
「飲んできた?
お酒の匂いがする。」
「打ち上げでね。ワインちょっと飲んだよ。
わっ、空き瓶。まだ捨ててないの?」
「そう思うなら持ち込まないで、
がっちゃん。」
「それは無理な相談だね。
ほら。」
「また持ってきてる…。」
こうして彼女の来訪で、
きょうも空き瓶が増える。
「部屋、暗くない?」
蛍光灯の電気がひとつ切れたまま。
蛍光灯は換えを買ってきたはいいものの、
部屋の片隅に古いものと一緒に置かれたまま、
面倒になって取り付けを後回しにしていた。
さらにこの客は部屋の変化にすぐに気づく。
「あっ! 懐かしいの出してるー。」
ダイニングのテーブルには、
実写ドラマ『恋花物語』のパッケージが
置きっぱなしだった。
「久しぶりに見たくなって、さっき見てた。」
「あれ、これもう2年前くらい?
いま見ると制服姿キツいね。」
「そんなことないって。」
背が低く、童顔な彼女には、
まだまだ制服が似合うと思う。
恋花物語の主演だった、
光学院ナノがウチに訪れた。
「がっちゃん、帰りどうするの?」
「もちろん、泊まってく!」
「わかった。あとで布団出すね。」
わたしは彼女をがっちゃんと呼ぶ。
彼女の本名は『愛雅』だけれども、
口下手なわたしが変に呼んだのを
彼女に気に入られて採用された。
わたしには分不相応な知り合い。
彼女は中学時代からカースト上位の子で、
日陰者のわたしはたとえ同好の士であっても、
とても苦手な相手だった。
「いっこ。お皿出して、紅茶もね。」
紅茶を要求しているがっちゃんは、
ウイスキーのごつごつした瓶を
テーブルにドカンと置いた。
「ちょおっといいお店のケーキ、
買ってきたからいまから食べよ。」
「こんな時間によく買えたね。」
「予約してたに決まってるじゃん。」
小さなチョコのホールケーキ。
こんな夜中にふたりで食べるにはやや多い。
「がっちゃん、ごはん食べた?」
「打ち上げで食べてきた。
挨拶済ませてすぐ撤退したんだよ。
こんな時間になっちゃったけどね。」
がっちゃんはわたしの職場でも知られる女優。
中学生時代から続く、
わたしの唯一の知り合い。
「いっこが今年も独身で安心する。」
わたしも同じ思いだけれど、
同じ立場ではないから決して口にできない。
女優業で忙しい彼女でも、
わたしの誕生日に毎年、
わざわざケーキを買ってくる。
もう祝われて嬉しい年齢ではないけど、
今年もがっちゃんと一緒に過ごせて
ホッとする。
「どうなのさ?」
「で、出会いないもん。いまの職場。
がっちゃんにはないの?
ほら、熱愛報道とか。」
がっちゃんは聞く耳を持たず、
開けたウイスキーをさっそくあおる。
彼女の美貌は周囲を狂わせる。
男子には等しく好かれ、付け回され、
女子には友情を押し付けられ、疎まれた。
わたしといえば、彼女を嗅ぎ回る男女から
値踏みついでに相談を受けたが、
口下手な役立たずと評判になった。
「きょうは私のことなんて、
どうでもいいのよ。
いっこの誕生日なんだし。
それより部長――」
満面の笑みで両手を差し出すがっちゃんから
目を背けてしまって、罪悪感が芽生える。
わたしをこう呼ぶときは決まっている。
「先生!」
わたしなんかをおだてたところで、
わたし自身になんの変化は起きない。
ホメオパシーはれっきとしたエセ科学。
けれども、中学から続く関係が
崩れるのを恐れてすぐに根負けした。
彼女はわたしを狂わせる。
寝室から持ってきたタブレットを起動して、
がっちゃんに渡した。
「おぉー、やっぱりあるの?
あれ、ひょっとしてまだ描きかけ?」
「…完成。一応、さっき…。
微修正はちょっと残ったけど…。」
ほんとうに細かい部分にすぐ気がつく。
「やったー! 第一読者?」
恥ずかしくなって、小さくうなずく。
わたしは中学時代、マンガ研究部の部長で、
がっちゃんは演劇部兼、マン研の幽霊部員。
なりたくてなったわけでなく、
やりたい3年生がほかにいないという理由で、
部長という絞首台に立たされた。
がっちゃんがわたしを部長に推薦したと
後輩たちからウワサ話もあったが、
そんないやがらせをするようなひとではない。
彼女がわたしの部屋に訪れる理由は、
わたしの蔵書を読み漁り続けるため。
わたしの描くマンガはそのついで。
「がっちゃんまだ、
マンガオタクなの隠してるの?」
「隠してないよ。
公表してないだけだもん。」
「一緒だよ…。」
「事務所がしてないんでしょ?
そんなのどうだっていいじゃない。
わたし、いっこ先生のファンだし。」
「ファンとか名乗らないで。
それにアマチュアなんだし、恥ずかしい。」
わたしはマンガは描くけど、
むかしからの趣味でしかない。
家や勉強、仕事への逃避の一環で、
欲の発露であって、ただの癖。
読ませる相手も、部を引退した
いまとなってはがっちゃんしかいない。
「これ、公開しないの? もう、した?」
「しないよ!
で、ど…どうでしょうか?」
ファンの顔色をうかがう。
ファンに甘える。
このときばかりは表情が引きつっている。
卑しい顔は鏡を見なくてもわかる。
「まだ読んでる途中ぅ。」
口をとがらせ、ウイスキーを喉に流す読者。
「がっちゃん、プロの脚本とか
いっぱい見てるんだから、
絶対、あれだよ…。」
スタイラスペンを持つ手が震え、
わたしは危惧の念を抱く。
「山なし、オチなし、意味なし?」
頭文字を取った『やおい』の由来。
平凡な展開、冴えない結末。
それからメッセージ性の欠落。
母は弥生というわたしの名前を貶め、
蔑むために、『やおい』と賤称した。
「あぁ…やっぱり…。」
ぐちゃぐちゃの頭を抱えて机に伏せる。
「いいんじゃないの?
戦国時代の武将が、
読むわけじゃないんだから。
私以外にもこういうの、
好んで読むひとは絶対いるって。」
「いや、でも。
ど、同性愛だよ? それ。」
声が上ずる。
「戦国武将なら衆道で通じるって。」
「言ってること真逆…。」
わたしは趣味で、
そうした類のマンガを描いている。
もちろん戦国時代の話ではないし、
戦国武将に読ませられるものでもない。
こんなマンガと腐れ縁のわたしだけれど、
がっちゃんとの関係は部活の延長に過ぎない。
後ろ暗いわたしの抱える不安とは真逆の、
圧倒的な存在感を放つ読者の意見が怖い。
「玉稿でしたっ!
いい誕プレでした。」
「あっ、…ありがとう。
わたしの誕生日って
わたしのマンガをたかる日?」
「祝う口実なんだから、いいでしょ?」
買ってきたケーキを食べ、
ウイスキーをあおる客人。
それからがっちゃんは
タブレットをテーブルに置いて、
物語や人物、ページやコマを指さして、
面映ゆい感想を饒舌に並べる。
マンガなんてものは、この世にあふれている。
がっちゃんの演じた『恋花物語』だって、
原作は山ほどあるマンガの中のひとつ。
わたしが描いた、たった8ページのマンガを、
酔ったがっちゃんは目を爛々とさせて語る。
「大正ロマンいいよね。
服がなんでも可愛いもん。
こういう髪型もしてみたい。
私もそういう仕事来ないかな。」
「時代劇、まだ演じてないんだ…。」
「あー、あと幕末とかもいいかも。」
「あ、会津の婦女隊とか。」
幕末、戊辰戦争の初戦となった
鳥羽・伏見の戦いの後の会津藩では、
主君や夫を亡くした女性たちが集まり、
前線に立って新政府軍と戦う話。
往生際の姉を介錯する
妹を主役にしたマンガにしようか。
「あー! 演じてみたいっ。
いっこは次、なに描くの?」
「わっ、わかんない。」
「前に会社辞めたいって言ってたけど、
どうするの?」
「…わかんない。」
「結婚のご予定は?」
「ご、予定ない。」
「ないないだらけだね。」
相変わらず決断力のないわたしに、
叱るでも憐れむでもなく、
がっちゃんは微笑んでくれる。
迷える羊たちを救う指導者も営業時間外。
聖書がなければ、産まれたての仔羊も同然。
膝を揺らして立ち上がるので精一杯。
「がっちゃんは?」
「ん?」ケーキの残りを大口を開けて頬張る。
彼女の口の端についたチョコクリームを、
わたしはティッシュで拭った。
細い顎に蠱惑的な小さな唇が
ラメグロスでツヤツヤとしている。
クリームのように白い肌に、
ツノが立つ愛らしい鼻頭。
「女優になっての、目標…?」
「もう学生役は無理だね。」
『恋花物語』のパッケージを見せて笑った。
「まだオファーくるの?」
「あるかなぁ。
アラサーって世代的に厳しいんだよね。
若い人はいっぱい出てくるし、
上手いひとはすでに売れてる。
上はぎゅーぎゅー詰まってる。」
「そういう世界だもん。」
人気の若手女優と、
コールセンターの末席では
住んでる世界が違う。
がっちゃんは歯車ではなく、
とても力強いモーター。
周囲のひとたちを動かす力を持っている。
回し車の中のわたしなんてひとたまりもなく、
吹き飛ばされて揉みくちゃにされる。
「いっちゃんも、こっちの世界おいでよ。
辛くて楽しい地獄だよ。」
「役者なんて無理だって。」
「じゃなくって。」
わたしは勘違いしていた。
タブレットを指差すがっちゃん。
「これ、ネットに上げたりしないの?」
「しないよっ。」
わたしの描いたマンガ。
何年描いても、
何作も、何度読んでもらっても、
わたしは彼女のようにスポットライトの
眩しいステージに立てる自信がない。
――あなたの漫画って『やおい』ね。
わたしに弥生と名付けた母は、
わたしのマンガを勝手に見て、そう嘲った。
わたしを呪う、母の言葉。
「マンガ家いっこ、メジャーデビュー!
大人気連載! ドラマ化! 映画化!
そんで監督は私! 主演も私っ!
ふははっ…。」
「ごうつくばり…。」
お酒が入ってテンションの高い
がっちゃんは豪快に笑う。
「ヒロインはいっこ先生!」
「無理だよ。そんなの。」
「いっこが嫌なら無理強いしないよ。
でも私はいっこを自慢したい!
素敵なマンガ描く子がいるんだよ! って
世界中に自慢したい。私のいっこ!
けどファンとしては独占したい欲もある。
…なんか恥ずかしいな。」
「わたしもがっちゃんのこと自慢したい。
わたしの知り合い、すごいって。」
そういったわたしにガッカリしたのか、
がっちゃんが長いため息を吐いた。
「いっこにとって私って、
トロフィーみたいな
ただの知り合い?」
「ぶっ、部活の…友人…。」
がっちゃんは目を閉じて首を横に振る。
彼女は黙って次の回答に耳をすませた。
「しん…親友…ですか?」
テーブルに頬杖をつき、またため息をついた。
もうずっとお酒臭い。
演技ぶった女優の仕草を目の当たりにし、
わたしは固唾を呑むしかなかった。
お酒で赤くとろりとした潤んだ目が、
わたしをじっとみつめる。
「私はいっこに、もっとマンガ描いて欲しい。
いっこのマンガ、もっともっと読みたい。
これは傲慢だけど、私はいっこに自信と
モチベーションを与えたい。」
「…あの…、
描いてるとき、色々想像するよ。」
「どんな? ベレー帽被ってる?」
「被らないよ。持ってないし…。」
「じゃ、私が買ってあげる。ふふっ。」
「いらない。絶対、似合わないし。」
「つれないわぁ…。」
完全に酔っているがっちゃんは、
テーブルに突っ伏してしまう。
普段飲んでいるワインに比べ、
ウイスキーの度数が高いことを
わたしは知らなかった。
「もう寝る?」
わたしは立ち上がった。
彼女に布団の用意をしなくてはいけない。
「まだ寝ない。」
酔っていても返事はちゃんとしている。
「がっちゃん…。…どう思う?
わたしがマンガ描くの辞めたら。」
わたしはがっちゃんを試してしまった。
「つらい…。生きて行けない。」
「そんなに?」
それから伏せたままめそめそと泣き始めて、
ティッシュ箱を腕の中に取り込んで鼻をかむ。
自分の投げかけた愚かな質問に胸が痛む。
マンガを描いているときと同じ。
「がっちゃんにまで、つまんない
って言われたらどうしようって、
描いててずっと思うんだ…。」
「えー。ないじゃん。
じゃあ、つまらなかったら、
それ言わない方がいい?」
「そ…それはそれで胸が痛むよ。」
彼女はお世辞を言ってはくれない。
作品を、わたしの一部を好いてくれる。
だからこそわたしは描き続けられる。
「マンガ描いてるときは
もうこれで辞めようってなるのに、
描き終わるとこうすれば良かった
って迷いがいつもある。」
「向上心があって大変よろしい。」
「どうかな…。」
冗談めかして励ますがっちゃんの言葉に、
素直に納得できずに首をかしげる。
がっちゃんは天井を仰いでつぶやいた。
「私なんていつもそうだもの。
いろんな人にすっごい迷惑かけてるし、
これが終わったら辞めたいっていつも思う。
代わりの子は後ろにいっぱい並んでる…。」
弱気を見せるがっちゃんに
わたしは目を見張る。
画面の中のドラマでさえ
見ることのできない、
彼女の素の表情だった。
「それでも完成したの見たら、
もっとこうできたのにって、一緒。
反省して、後悔しての繰り返し。」
『恋花物語』のパッケージに写った
年齢不相応な制服姿の自分を指差して、
乾いた笑いを浮かべて頬を涙で濡らした。
こんなに泣き言をいうがっちゃんを、
わたしは初めて見た。
「わっ…、わたしは、がっちゃんの、
頑張ってるとこ、ちゃんと見てるよ。」
「私も、がんばって!
いっこは、会社辞めて!
わらしのためにマンガ描ひて!」
涙するがっちゃんは酔いが回って、
ろれつが回らず、言葉が暴走している。
「そんなに貯金ないし…。」
「ならいっそ、だれか捕まえて
ひっ、結婚しちゃえば?」
「けっ、結婚したからって…。
いやっ、そもそも相手いないもん。
言ったじゃん。」
相手はお酒の飲み過ぎで、目が座っている。
「これ。」
「なに?」
がっちゃんは上着のポケットから、
手のひらサイズの黒い小箱を置いた。
「…あの…誕生日…のプレゼント?」
「えぇ…、初めて。」
照れた彼女が疑問形だったのは気にせず、
わたしは面取りされた起毛の箱を手にする。
がっちゃんはこれまで食べ物や消耗品以外、
プレゼントらしいものは持ち込まなかった。
彼女は芸能界の人間なので、
週刊誌や一般人に撮られるような
軽挙妄動は慎まなければならない、
という事務所的な理由もあるんだと思う。
お互いマンガ以外に接点がないので、
わたしたちは常に距離を取り続けた。
箱の中身はペンダントで、
細いシルバーチェーンのトップには
プラチナの指輪が付いている。
「いっこにとって、わらしは、だれ?」
知り合い、友達、親友…
頭の中がごちゃ混ぜになっていると、
目の前のがっちゃんの様子がおかしい。
小さな頭が大きく舟を漕ぐ。
彼女はまた突っ伏しようとして、
ティッシュ箱が凹むほど額を強くぶつけた。
「だっ、大丈夫?」
「ぎぃ…気持ち悪ぅ…。」
持ってきたウイスキーを紅茶で割らずに
ガブガブと飲んでいたがっちゃんは、
滂沱の涙で膨れ上がる口を抑えた。
急いでトイレにつれていくと、
チョコケーキとウイスキーの
マリアージュを噴射した。
「いっこ…、ごめん…。」
「飲み過ぎだよ。がっちゃん。」
「ダメで、ごめん…。」
トイレットペーパーで
液体だらけの顔を拭きながら
がっちゃんは何度も謝った。
彼女の背中をさする。
彼女の肉体に触れる。
画面越しによく見る華奢な身体は、
演技に入ればときに威圧感を与える。
便器を抱える身体は昔から細くて、
首筋から背中の曲線が歪みなく美しい。
わたしは彼女に嘘を重ねている。
彼女はただの知り合いではないし、
きっと普通の友人でもないし、
ずっと親友ではいられない。
「がっちゃんは全然ダメなんかじゃないよ。
それにいつも、わたしのマンガ
読んでくれて、ありがとう。」
精一杯振り絞った感謝の言葉は、
無慈悲にも嗚咽と嘔吐でかき消された。
◆
がっちゃんをベッドまで運んで介抱して、
わたしはひとり、暗いダイニングに戻った。
嘘偽りだらけのわたしに対し、
お酒の力に頼ったがっちゃんが見せた
あの表情がたまらなく愛おしかった。
わたしも例に漏れず、
彼女の魅力に狂わされてしまった。
同じマン研の部員で、
中学時代からの知り合いで、
描いたマンガを読んでくれる友人で、
わたしを支えてくれる親友以上の存在。
がっちゃんがわたしを、
特別だと思ってくれている。
わたしにとってもがっちゃんは、
ただの読者以上に特別なひと。
わたしはイスの上に立つ。
不安定な小さな足場。
母と同じ視線の世界。
母が死んだ、わたしの誕生日。
でも、わたしは母と同じではない。
他人と同じ普通が欲しいとも思わない。
嘘を塗り重ねたわたしでも、
彼女と一緒のときだけは正直でありたい。
新しい丸形蛍光灯を取り付ける。
二重の輪を作るツガイの眩しい光。
イスを跳ね降りるわたしの胸元に、
ペンダントの指輪が反射して光った。
わたしはわたしの歩幅で、歯車を動かした。
(了)
あとがき
こんな作品はいかがでしょうか?
『浮いた女と重たい女』(サイト内リンク)
https://novema.jp/book/n1642068
来週(05/27)も別の作品を投稿予定です。
ブログ・Twitterなどでも告知します。
ブックマーク、フォローなど
よろしくお願いします。
(外部サイト)
https://shimonomori.art.blog/
https://twitter.com/UTF_shimonomori/
不安定に明滅を繰り返す。
わたしはひとり、
部屋の中で手袋をして、
イスの上に立つ。
ひとりきりの誕生日の朝。――母の景色。
取り付けて何年経ったか、
蛍光灯の死を看取る。
二重の輪だった外側の丸形蛍光灯、
ツガイのひとつが寿命を迎えた。
「まだ、あったかい…。」
外出用の薄い手袋越しでも熱が伝わる。
蛍光灯に残ったわずかな体温。
足場の小さなイスの上は高く、
わたしは背筋を凍らせて身震いした。
蛍光灯なんて割れ物を持っていればなおさら、
数十cmの、この高さはひどく恐ろしく思えた。
膝を深く曲げて慎重に床を降り、
深く息を吐いてイスは本来の役割を果たした。
歯を磨き、髪を梳く。
化粧という名の仮面をし、
服という名の仮装を施す。
わたしは嘘を塗り重ねる。
玄関前の廊下の片隅で、
客の持ち込んだワインの空き瓶が、
不法滞在で酔って寝転がっている。
回収日はとうに過ぎていた。
いってきますと扉を閉めて、
空き瓶の主に向けて挨拶をした。
◆
社会という歯車の中の、
会社という回し車の中でわたしは走る。
わたしが会社にいなくても、
社会という歯車には影響を与えはしない。
それにわたしの狭い歩幅は、
ほかのひとよりもいくらか遅い。
周回遅れのトップランナー。
そんなわたしは迷える羊たちを救う
指導者を演じ、欺くのが仕事。
コールセンターの電話対応は、
年度末のせいか、きょうも多い。
モニタに表示される次に待機している羊に、
5分10分と、待ち時間が蓄積される。
そんな羊たちは草を求めて
メェメェと可愛くは鳴かない。
怒鳴り声、罵声、性差別、
中にはわたしに対する誹謗中傷も混ざる。
けれどもそれは仕方がない気がする。
かれらは不本意な契約に気づいて、
法律上、解約を求める権利がある。
狼狽し、泣き叫び、奇声を発する迷える羊。
イヤホン越しの鳴き声が耳をつんざく。
詐欺に等しい契約内容でも、
わたしは偽の聖書を朗読して相手に説く。
問題ない、心配いらない、ここは安全だから。
牧羊犬をマネした、嘘つき狼。
もしも解約となれば、給料は減らされる。
こんな仕事にやりがいなど湧くはずもない。
ボロボロの聖書を読むわたしはうつむく。
電話中は鏡を意識しなければいけない。
鏡を見ながら、電話先の相手を想像する。
鏡に映るのは、無感情で扁平なわたしの顔。
地獄のような現実に、偽りだらけの
わたしは肩までどっぷり血の湯に浸かる。
母がずっと見ていた世界も、
こうだったかもしれない。
◆
「弥生さんって、彼氏とかいないの?」
勤務時間は毎日8時間、
途中1時間の休憩も地獄に含まれる。
わたしに話しかけた女性は
わたしに関心を向けたのではなく、
わたしを嘲笑する材料を探っている。
「いない、よ。」
手元に聖書がないので、
挙動不審さが伝わったと思う。
「じゃ、普段なにしてんの?」
「え、マンガとか、ドラマとか。」
用意しておいた、当たり障りのない回答。
厚さだけが自慢の仮面はすでにボロボロ。
相手はそんな答えをよしとはしない。
「暗ぁ…、え? なに見てんの?」
「『恋花物語』、とか…知ってる?」
「あぁ、あの光学院ナノのドラマ?
あははっ、毎週見てた。元カレと。
あーいうの好き?」
笑う彼女の身体が揺れる度に、
耳や胸元の装飾品がギラギラと輝く。
その眩しさに、
わたしの細い目はさらに半目になる。
わたしは学生時代から同性が苦手だった。
正しくは、同性どころか異性さえも苦手。
「あのドラマ、まあまあ人気あったけど、
ちょっと古くない? で彼氏いないのに、
ひとりで見んの?
『やおい』さん、マジ?」
「はぁ…。」
彼女は仕事のストレスから
休憩を利用してわたしをこうして嘲笑した。
想定通りの尋問時間が終了。
彼女に作品を貶められるよりはマシな時間。
嘘で塗り固めたわたしは、
呪いの言葉を散々浴びせられた。
わたしのあだ名、『やおい』。
◆
仕事を終え、蛍光灯を買って家路につく。
起伏に乏しい回し車の単調な毎日。
ラフな服に着替えを済ませてキッチンに立つ。
綺麗なドレスを身にまとった灰かぶりのような
華々しい人生は、わたしにはない。
お互いのプライドをかけて戦い、
壮絶な死を遂げる予定もいまのところない。
わたしの母も、いまのわたしを見て
地獄の淵で笑っているに違いない。
母はいま、地獄にいる。
母にとって、わたしは邪魔な存在だった。
いわゆるネグレクトというやつで、
物心がつく前から家政婦が出入りしていた。
両親は仲良くなく、父は仕事人間。
ふたりの会話を見たことはほとんどない。
世間体を気にしている父は母から目を背け、
母は家事さえせず、遊び歩くひとだった。
ふたりの最後の記憶は、父が母を
一方的になじる罵声だった。
母は不倫の罰も母親としての責務も放棄し、
父とわたしへの当てつけで首吊り自殺した。
わたしの誕生日の朝、
冷たくなった母が見つかった。
わたしは誕生日のきょうも、
ひとりきりの食事を済ませる。
わたしは母親のようにはならない。
世間体を気にする相手と結婚はしない。
自由と無責任を両立する遊びもしない。
夫婦仲睦まじい家庭は望まないし、
孫に囲まれながら畳の上で最期を迎える
旧世紀の幻想は持ち合わせてない。
母を失い、就職したときから変わらない。
他人と同じ普通が欲しいとも思わない。
好きなマンガを読んで、こうして
たまに実写ドラマの『恋花物語』を観て、
ひとりで暮らす、いまの生活でもいい。
これがいまの、わたしにとっての普通。
◆
化粧を落とし、ぬるい湯に浸かり、
歯を磨き、少し早めに寝床に着く。
嘘で塗り固めたわたしでも、
ひとりきりのときだけは正直になれる。
眠たくなるまでタブレットを開き、
スタイラスペンを走らせる。
すると間もなく携帯電話が鳴った。
「いっこぉ、寝てた?」
「んー、起きてたよ。」
予期せぬ夜の訪問者。
メガネにマスク、ニット帽は耳まで覆い、
野暮ったい服装の見知った女友達。
「もう歯、磨いちゃった?」
「…ううん。」
わたしは彼女に嘘をついた。
「はぁーよかった。
夜寒いよ。」
ニット帽とマスクを外すと、小柄な
絶世の美人が目の前に現れる。
小さな顔。細い体型。
慣れきった非現実的な存在。
それからほんのり甘い匂いが廊下に満ちる。
「飲んできた?
お酒の匂いがする。」
「打ち上げでね。ワインちょっと飲んだよ。
わっ、空き瓶。まだ捨ててないの?」
「そう思うなら持ち込まないで、
がっちゃん。」
「それは無理な相談だね。
ほら。」
「また持ってきてる…。」
こうして彼女の来訪で、
きょうも空き瓶が増える。
「部屋、暗くない?」
蛍光灯の電気がひとつ切れたまま。
蛍光灯は換えを買ってきたはいいものの、
部屋の片隅に古いものと一緒に置かれたまま、
面倒になって取り付けを後回しにしていた。
さらにこの客は部屋の変化にすぐに気づく。
「あっ! 懐かしいの出してるー。」
ダイニングのテーブルには、
実写ドラマ『恋花物語』のパッケージが
置きっぱなしだった。
「久しぶりに見たくなって、さっき見てた。」
「あれ、これもう2年前くらい?
いま見ると制服姿キツいね。」
「そんなことないって。」
背が低く、童顔な彼女には、
まだまだ制服が似合うと思う。
恋花物語の主演だった、
光学院ナノがウチに訪れた。
「がっちゃん、帰りどうするの?」
「もちろん、泊まってく!」
「わかった。あとで布団出すね。」
わたしは彼女をがっちゃんと呼ぶ。
彼女の本名は『愛雅』だけれども、
口下手なわたしが変に呼んだのを
彼女に気に入られて採用された。
わたしには分不相応な知り合い。
彼女は中学時代からカースト上位の子で、
日陰者のわたしはたとえ同好の士であっても、
とても苦手な相手だった。
「いっこ。お皿出して、紅茶もね。」
紅茶を要求しているがっちゃんは、
ウイスキーのごつごつした瓶を
テーブルにドカンと置いた。
「ちょおっといいお店のケーキ、
買ってきたからいまから食べよ。」
「こんな時間によく買えたね。」
「予約してたに決まってるじゃん。」
小さなチョコのホールケーキ。
こんな夜中にふたりで食べるにはやや多い。
「がっちゃん、ごはん食べた?」
「打ち上げで食べてきた。
挨拶済ませてすぐ撤退したんだよ。
こんな時間になっちゃったけどね。」
がっちゃんはわたしの職場でも知られる女優。
中学生時代から続く、
わたしの唯一の知り合い。
「いっこが今年も独身で安心する。」
わたしも同じ思いだけれど、
同じ立場ではないから決して口にできない。
女優業で忙しい彼女でも、
わたしの誕生日に毎年、
わざわざケーキを買ってくる。
もう祝われて嬉しい年齢ではないけど、
今年もがっちゃんと一緒に過ごせて
ホッとする。
「どうなのさ?」
「で、出会いないもん。いまの職場。
がっちゃんにはないの?
ほら、熱愛報道とか。」
がっちゃんは聞く耳を持たず、
開けたウイスキーをさっそくあおる。
彼女の美貌は周囲を狂わせる。
男子には等しく好かれ、付け回され、
女子には友情を押し付けられ、疎まれた。
わたしといえば、彼女を嗅ぎ回る男女から
値踏みついでに相談を受けたが、
口下手な役立たずと評判になった。
「きょうは私のことなんて、
どうでもいいのよ。
いっこの誕生日なんだし。
それより部長――」
満面の笑みで両手を差し出すがっちゃんから
目を背けてしまって、罪悪感が芽生える。
わたしをこう呼ぶときは決まっている。
「先生!」
わたしなんかをおだてたところで、
わたし自身になんの変化は起きない。
ホメオパシーはれっきとしたエセ科学。
けれども、中学から続く関係が
崩れるのを恐れてすぐに根負けした。
彼女はわたしを狂わせる。
寝室から持ってきたタブレットを起動して、
がっちゃんに渡した。
「おぉー、やっぱりあるの?
あれ、ひょっとしてまだ描きかけ?」
「…完成。一応、さっき…。
微修正はちょっと残ったけど…。」
ほんとうに細かい部分にすぐ気がつく。
「やったー! 第一読者?」
恥ずかしくなって、小さくうなずく。
わたしは中学時代、マンガ研究部の部長で、
がっちゃんは演劇部兼、マン研の幽霊部員。
なりたくてなったわけでなく、
やりたい3年生がほかにいないという理由で、
部長という絞首台に立たされた。
がっちゃんがわたしを部長に推薦したと
後輩たちからウワサ話もあったが、
そんないやがらせをするようなひとではない。
彼女がわたしの部屋に訪れる理由は、
わたしの蔵書を読み漁り続けるため。
わたしの描くマンガはそのついで。
「がっちゃんまだ、
マンガオタクなの隠してるの?」
「隠してないよ。
公表してないだけだもん。」
「一緒だよ…。」
「事務所がしてないんでしょ?
そんなのどうだっていいじゃない。
わたし、いっこ先生のファンだし。」
「ファンとか名乗らないで。
それにアマチュアなんだし、恥ずかしい。」
わたしはマンガは描くけど、
むかしからの趣味でしかない。
家や勉強、仕事への逃避の一環で、
欲の発露であって、ただの癖。
読ませる相手も、部を引退した
いまとなってはがっちゃんしかいない。
「これ、公開しないの? もう、した?」
「しないよ!
で、ど…どうでしょうか?」
ファンの顔色をうかがう。
ファンに甘える。
このときばかりは表情が引きつっている。
卑しい顔は鏡を見なくてもわかる。
「まだ読んでる途中ぅ。」
口をとがらせ、ウイスキーを喉に流す読者。
「がっちゃん、プロの脚本とか
いっぱい見てるんだから、
絶対、あれだよ…。」
スタイラスペンを持つ手が震え、
わたしは危惧の念を抱く。
「山なし、オチなし、意味なし?」
頭文字を取った『やおい』の由来。
平凡な展開、冴えない結末。
それからメッセージ性の欠落。
母は弥生というわたしの名前を貶め、
蔑むために、『やおい』と賤称した。
「あぁ…やっぱり…。」
ぐちゃぐちゃの頭を抱えて机に伏せる。
「いいんじゃないの?
戦国時代の武将が、
読むわけじゃないんだから。
私以外にもこういうの、
好んで読むひとは絶対いるって。」
「いや、でも。
ど、同性愛だよ? それ。」
声が上ずる。
「戦国武将なら衆道で通じるって。」
「言ってること真逆…。」
わたしは趣味で、
そうした類のマンガを描いている。
もちろん戦国時代の話ではないし、
戦国武将に読ませられるものでもない。
こんなマンガと腐れ縁のわたしだけれど、
がっちゃんとの関係は部活の延長に過ぎない。
後ろ暗いわたしの抱える不安とは真逆の、
圧倒的な存在感を放つ読者の意見が怖い。
「玉稿でしたっ!
いい誕プレでした。」
「あっ、…ありがとう。
わたしの誕生日って
わたしのマンガをたかる日?」
「祝う口実なんだから、いいでしょ?」
買ってきたケーキを食べ、
ウイスキーをあおる客人。
それからがっちゃんは
タブレットをテーブルに置いて、
物語や人物、ページやコマを指さして、
面映ゆい感想を饒舌に並べる。
マンガなんてものは、この世にあふれている。
がっちゃんの演じた『恋花物語』だって、
原作は山ほどあるマンガの中のひとつ。
わたしが描いた、たった8ページのマンガを、
酔ったがっちゃんは目を爛々とさせて語る。
「大正ロマンいいよね。
服がなんでも可愛いもん。
こういう髪型もしてみたい。
私もそういう仕事来ないかな。」
「時代劇、まだ演じてないんだ…。」
「あー、あと幕末とかもいいかも。」
「あ、会津の婦女隊とか。」
幕末、戊辰戦争の初戦となった
鳥羽・伏見の戦いの後の会津藩では、
主君や夫を亡くした女性たちが集まり、
前線に立って新政府軍と戦う話。
往生際の姉を介錯する
妹を主役にしたマンガにしようか。
「あー! 演じてみたいっ。
いっこは次、なに描くの?」
「わっ、わかんない。」
「前に会社辞めたいって言ってたけど、
どうするの?」
「…わかんない。」
「結婚のご予定は?」
「ご、予定ない。」
「ないないだらけだね。」
相変わらず決断力のないわたしに、
叱るでも憐れむでもなく、
がっちゃんは微笑んでくれる。
迷える羊たちを救う指導者も営業時間外。
聖書がなければ、産まれたての仔羊も同然。
膝を揺らして立ち上がるので精一杯。
「がっちゃんは?」
「ん?」ケーキの残りを大口を開けて頬張る。
彼女の口の端についたチョコクリームを、
わたしはティッシュで拭った。
細い顎に蠱惑的な小さな唇が
ラメグロスでツヤツヤとしている。
クリームのように白い肌に、
ツノが立つ愛らしい鼻頭。
「女優になっての、目標…?」
「もう学生役は無理だね。」
『恋花物語』のパッケージを見せて笑った。
「まだオファーくるの?」
「あるかなぁ。
アラサーって世代的に厳しいんだよね。
若い人はいっぱい出てくるし、
上手いひとはすでに売れてる。
上はぎゅーぎゅー詰まってる。」
「そういう世界だもん。」
人気の若手女優と、
コールセンターの末席では
住んでる世界が違う。
がっちゃんは歯車ではなく、
とても力強いモーター。
周囲のひとたちを動かす力を持っている。
回し車の中のわたしなんてひとたまりもなく、
吹き飛ばされて揉みくちゃにされる。
「いっちゃんも、こっちの世界おいでよ。
辛くて楽しい地獄だよ。」
「役者なんて無理だって。」
「じゃなくって。」
わたしは勘違いしていた。
タブレットを指差すがっちゃん。
「これ、ネットに上げたりしないの?」
「しないよっ。」
わたしの描いたマンガ。
何年描いても、
何作も、何度読んでもらっても、
わたしは彼女のようにスポットライトの
眩しいステージに立てる自信がない。
――あなたの漫画って『やおい』ね。
わたしに弥生と名付けた母は、
わたしのマンガを勝手に見て、そう嘲った。
わたしを呪う、母の言葉。
「マンガ家いっこ、メジャーデビュー!
大人気連載! ドラマ化! 映画化!
そんで監督は私! 主演も私っ!
ふははっ…。」
「ごうつくばり…。」
お酒が入ってテンションの高い
がっちゃんは豪快に笑う。
「ヒロインはいっこ先生!」
「無理だよ。そんなの。」
「いっこが嫌なら無理強いしないよ。
でも私はいっこを自慢したい!
素敵なマンガ描く子がいるんだよ! って
世界中に自慢したい。私のいっこ!
けどファンとしては独占したい欲もある。
…なんか恥ずかしいな。」
「わたしもがっちゃんのこと自慢したい。
わたしの知り合い、すごいって。」
そういったわたしにガッカリしたのか、
がっちゃんが長いため息を吐いた。
「いっこにとって私って、
トロフィーみたいな
ただの知り合い?」
「ぶっ、部活の…友人…。」
がっちゃんは目を閉じて首を横に振る。
彼女は黙って次の回答に耳をすませた。
「しん…親友…ですか?」
テーブルに頬杖をつき、またため息をついた。
もうずっとお酒臭い。
演技ぶった女優の仕草を目の当たりにし、
わたしは固唾を呑むしかなかった。
お酒で赤くとろりとした潤んだ目が、
わたしをじっとみつめる。
「私はいっこに、もっとマンガ描いて欲しい。
いっこのマンガ、もっともっと読みたい。
これは傲慢だけど、私はいっこに自信と
モチベーションを与えたい。」
「…あの…、
描いてるとき、色々想像するよ。」
「どんな? ベレー帽被ってる?」
「被らないよ。持ってないし…。」
「じゃ、私が買ってあげる。ふふっ。」
「いらない。絶対、似合わないし。」
「つれないわぁ…。」
完全に酔っているがっちゃんは、
テーブルに突っ伏してしまう。
普段飲んでいるワインに比べ、
ウイスキーの度数が高いことを
わたしは知らなかった。
「もう寝る?」
わたしは立ち上がった。
彼女に布団の用意をしなくてはいけない。
「まだ寝ない。」
酔っていても返事はちゃんとしている。
「がっちゃん…。…どう思う?
わたしがマンガ描くの辞めたら。」
わたしはがっちゃんを試してしまった。
「つらい…。生きて行けない。」
「そんなに?」
それから伏せたままめそめそと泣き始めて、
ティッシュ箱を腕の中に取り込んで鼻をかむ。
自分の投げかけた愚かな質問に胸が痛む。
マンガを描いているときと同じ。
「がっちゃんにまで、つまんない
って言われたらどうしようって、
描いててずっと思うんだ…。」
「えー。ないじゃん。
じゃあ、つまらなかったら、
それ言わない方がいい?」
「そ…それはそれで胸が痛むよ。」
彼女はお世辞を言ってはくれない。
作品を、わたしの一部を好いてくれる。
だからこそわたしは描き続けられる。
「マンガ描いてるときは
もうこれで辞めようってなるのに、
描き終わるとこうすれば良かった
って迷いがいつもある。」
「向上心があって大変よろしい。」
「どうかな…。」
冗談めかして励ますがっちゃんの言葉に、
素直に納得できずに首をかしげる。
がっちゃんは天井を仰いでつぶやいた。
「私なんていつもそうだもの。
いろんな人にすっごい迷惑かけてるし、
これが終わったら辞めたいっていつも思う。
代わりの子は後ろにいっぱい並んでる…。」
弱気を見せるがっちゃんに
わたしは目を見張る。
画面の中のドラマでさえ
見ることのできない、
彼女の素の表情だった。
「それでも完成したの見たら、
もっとこうできたのにって、一緒。
反省して、後悔しての繰り返し。」
『恋花物語』のパッケージに写った
年齢不相応な制服姿の自分を指差して、
乾いた笑いを浮かべて頬を涙で濡らした。
こんなに泣き言をいうがっちゃんを、
わたしは初めて見た。
「わっ…、わたしは、がっちゃんの、
頑張ってるとこ、ちゃんと見てるよ。」
「私も、がんばって!
いっこは、会社辞めて!
わらしのためにマンガ描ひて!」
涙するがっちゃんは酔いが回って、
ろれつが回らず、言葉が暴走している。
「そんなに貯金ないし…。」
「ならいっそ、だれか捕まえて
ひっ、結婚しちゃえば?」
「けっ、結婚したからって…。
いやっ、そもそも相手いないもん。
言ったじゃん。」
相手はお酒の飲み過ぎで、目が座っている。
「これ。」
「なに?」
がっちゃんは上着のポケットから、
手のひらサイズの黒い小箱を置いた。
「…あの…誕生日…のプレゼント?」
「えぇ…、初めて。」
照れた彼女が疑問形だったのは気にせず、
わたしは面取りされた起毛の箱を手にする。
がっちゃんはこれまで食べ物や消耗品以外、
プレゼントらしいものは持ち込まなかった。
彼女は芸能界の人間なので、
週刊誌や一般人に撮られるような
軽挙妄動は慎まなければならない、
という事務所的な理由もあるんだと思う。
お互いマンガ以外に接点がないので、
わたしたちは常に距離を取り続けた。
箱の中身はペンダントで、
細いシルバーチェーンのトップには
プラチナの指輪が付いている。
「いっこにとって、わらしは、だれ?」
知り合い、友達、親友…
頭の中がごちゃ混ぜになっていると、
目の前のがっちゃんの様子がおかしい。
小さな頭が大きく舟を漕ぐ。
彼女はまた突っ伏しようとして、
ティッシュ箱が凹むほど額を強くぶつけた。
「だっ、大丈夫?」
「ぎぃ…気持ち悪ぅ…。」
持ってきたウイスキーを紅茶で割らずに
ガブガブと飲んでいたがっちゃんは、
滂沱の涙で膨れ上がる口を抑えた。
急いでトイレにつれていくと、
チョコケーキとウイスキーの
マリアージュを噴射した。
「いっこ…、ごめん…。」
「飲み過ぎだよ。がっちゃん。」
「ダメで、ごめん…。」
トイレットペーパーで
液体だらけの顔を拭きながら
がっちゃんは何度も謝った。
彼女の背中をさする。
彼女の肉体に触れる。
画面越しによく見る華奢な身体は、
演技に入ればときに威圧感を与える。
便器を抱える身体は昔から細くて、
首筋から背中の曲線が歪みなく美しい。
わたしは彼女に嘘を重ねている。
彼女はただの知り合いではないし、
きっと普通の友人でもないし、
ずっと親友ではいられない。
「がっちゃんは全然ダメなんかじゃないよ。
それにいつも、わたしのマンガ
読んでくれて、ありがとう。」
精一杯振り絞った感謝の言葉は、
無慈悲にも嗚咽と嘔吐でかき消された。
◆
がっちゃんをベッドまで運んで介抱して、
わたしはひとり、暗いダイニングに戻った。
嘘偽りだらけのわたしに対し、
お酒の力に頼ったがっちゃんが見せた
あの表情がたまらなく愛おしかった。
わたしも例に漏れず、
彼女の魅力に狂わされてしまった。
同じマン研の部員で、
中学時代からの知り合いで、
描いたマンガを読んでくれる友人で、
わたしを支えてくれる親友以上の存在。
がっちゃんがわたしを、
特別だと思ってくれている。
わたしにとってもがっちゃんは、
ただの読者以上に特別なひと。
わたしはイスの上に立つ。
不安定な小さな足場。
母と同じ視線の世界。
母が死んだ、わたしの誕生日。
でも、わたしは母と同じではない。
他人と同じ普通が欲しいとも思わない。
嘘を塗り重ねたわたしでも、
彼女と一緒のときだけは正直でありたい。
新しい丸形蛍光灯を取り付ける。
二重の輪を作るツガイの眩しい光。
イスを跳ね降りるわたしの胸元に、
ペンダントの指輪が反射して光った。
わたしはわたしの歩幅で、歯車を動かした。
(了)
あとがき
こんな作品はいかがでしょうか?
『浮いた女と重たい女』(サイト内リンク)
https://novema.jp/book/n1642068
来週(05/27)も別の作品を投稿予定です。
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