とうとう瑞希が服装のチェックに引っかかって、放課後に呼び出しを喰らった。
「うう、ぜったい待っててよ。待ってなかったら呪ってやるんだからっ」
と、さんざん念を押されたので、私はしかたなく教室で時間をつぶしていた。
高校に入って初めての試験である実力テストまであと一週間。
生徒の多くは休み時間も教科書と向かい合い、授業が終わったら飛ぶように帰っていくから、教室に残っているのは私一人だった。
みんながここまで力を入れるのも理由がある。
星山高校では、試験ごとに上位五十人の名前を廊下に貼り出すのだ。
各中学校で上位に名を連ねていた生徒たちにとって、そこに自分の名前がないなんてありえないことだった。
「ここが最初の挫折になって、卒業まで立ち直れない生徒も多いですからね」
と、恐ろしいことを塚本先生がさらりと口にしたせいもあって、ますます全員が必死になった。
でも、そのおかげもあって、私と遥のうわさも下火になっていた――のだが、いまだにそのうわさを広めているらしいのが、吉田絵里奈、西岡、伊東の三人組だ。
これは、遥を巡る恋の鞘当て、というやつになんだろうか。
客観的に見れば、私と吉田さんじゃ勝負にならない。
言うなれば吉田さんは生まれながらの女王様で、輪の中心や山のてっぺんにいるのが当たり前の人だ。
実際、うちのクラスも、すでに彼女を中心としたコミュニティが完成されつつあり、私と瑞希は弾かれた異物のようなものだった。
彼女に対して私が持っている武器は「幼なじみ」と「約束」だけ。それだってニセモノでひどく頼りない。
でも、これでどうにかするしかないんだよね、とため息をついていると、いままさに考えていたその人が、西岡さんと伊東さんを引き連れて教室に入ってきた。
「あ、澤野さーん、ちょっといいかな？」
うわ、と思ったけれど、西岡さんと伊東さんに両サイドを塞がれ、どうにも逃げられそうになかった。
「遥くんに聞いたんだけど、澤野さんって遥くんの幼なじみだったんだね」
「うん、そうだよ。ここで偶然再会したの」
答えながら、遥と吉田さんはそういう会話をする関係なんだ、という事実が頭にインプットされる。
「ふぅん。偶然ね」
吉田さんがふふっ、と笑った。
「それって本当？ あんなドラマみたいなこと、現実じゃあり得ないと思うけど」
やっぱりそう思いますよね。私もそう思います。
心のなかでは吉田さんに大賛成しながらも、口ではうまく嘘をつく。
「私もびっくりしたよ。まさか遥がここにいるなんて――」
「白々しい！」
「このストーカー！」
西岡さんと伊東さんがヒステリックに叫んで、私を遮った。
まあ……確かにそう言われるようなことをしているんだけれども。
「で？ 偶然再会した二人はいま、付き合ってるの？」
さすが女王様。イエスかノーでしか答えられない問いで、単刀直入に切り込んできた。
私が黙っていると、吉田さんはふっと笑った。
「私ね、遥くんのこと好きなの。小学校三年生のときに同じクラスになってからずーっと」
ナチュラルメイクを施したかわいらしい顔に不似合いな好戦的なまなざしが、私をにらみつける。
「そういうのは、私じゃなく遥に言ったほうがいいと思うけど」
「遥くんってあのルックスだから、ずーっとめちゃくちゃモテて、大勢に告られてたんだけど、全員フッてたのよね。一回フラれちゃったら、付き合える可能性減っちゃうでしょ？ だから、私が告るとしたら、ぜったい成功するとき以外ありえないの」
「はあ……なんかすごいね」
恋愛ってここまで考えて動かないといけないのか。入試よりずっと難しそう。
「遥くんっていままで特に親しい女の子っていなかったのに、急に澤野さんと仲良くし始めたでしょう？ もしかして付き合ってるのかなぁって気になっちゃって」
ないない、と西岡さんと伊東さんがバカにするように笑った。
「もし、私と遥が付き合ってたらどうするつもりなの？」
「……そうね。人の彼氏に手を出すのはちょっとどうかと思うし、きっぱり諦めるかな」
嘘つけ。
吉田さんは、欲しければ手を伸ばす人だ。その途中でぶつかって落としたものも、傷付けたものも、ちっとも気にしないでいられる人。そうじゃなきゃ、女王様でなんかいられない。
「澤野さんは、私たちよりずーっとずーっと頭がいい新入生代表なんだもん。自分と遥くんが釣り合うかどうかくらい分かるでしょ？」
そう言いながら、西岡さんが私の顔をのぞき込む。
「だよねー。澤野さんより絵里奈ちゃんのほうが美男美女って感じで、ずーっと遥くんにお似合いだもん。ねえ？」
と、伊東さんが同意を求めてくる。
たしかに吉田さんはかわいい。遥が持っているような、人目を引く「特別」が彼女にもある。隣に立てば、そりゃあお似合いだろう。
だけど――負けるもんか。
チーの初恋は、ぜったい誰にも譲れない。
私が叶えてあげるって、チーに約束したんだから。
「吉田さんが遥を好きになったのは小学三年から？」
「そうだけど……それがどうしたの？」
私がそんなことを聞き返すとは思っていなかったのか、吉田さんは少し戸惑ったように答えた。
「そんなに長い間想い続けるなんて、絵里奈ちゃんったら一途にもほどがあるよね！」
「絵里奈ちゃんみたいにかわいくて一途なんて、もうヤバすぎ」
絶賛する西岡さんと伊東さんに挟まれて、私はふふ、と笑った。
「なに笑ってるのよ」
「ううん。それくらいでいばってるんだ、と思って」
私がそう言うと、三人は虚を突かれたような顔になった。
「私はね、そのずーっとずーっとずーっと前から遥に会いたくて会いたかった。そのために生きてきたの」
だって、遥に会って、チーの初恋を叶えることだけが、私の生きる意味だったから。
「そしたら、ここで再会できたの。これってもう運命じゃない？ 神様が私たちに仕掛けたサプライズだよね！」
神様なんて信じない。
運命くらい、私がいくらでも捻じ曲げて作り変えてみせる。
私の「お花畑満開です！」みたいな発言にドン引きしている吉田さんと西岡さんと伊東さんを見ていたら、なんだかちょっと楽しくなってきた。
「吉田さんも小、中、高って遥と一緒なんてすごいね。それも運命っぽくてステキだなぁ。あ、でも……」
教室には私たち以外誰もいないけれど、私はわざとらしく、内緒話をするみたいに声を潜めた。
「もしかして、吉田さんって遥を追いかけてこの学校に来たとか？ もしそうだったら、知られないように気を付けたほうがいいよ。だってほら……遥はしつこい女の子が苦手だって、吉田さんも言ってたでしょう？」
吉田さんの完璧スマイルが固まって赤く染まっていくのと反対に、西岡さんと伊東さんは青くなる。
どうやら図星だったらしい。
「おまたせ、チッカ……って、なにしてんの？」
戻ってきた瑞希が、私を取り囲む三人を見て、一気に臨戦態勢をとった。
「あんたに関係ないでしょ！」
吉田さんは私と瑞希、どちらに言ったのかよく分からないセリフを吐いて、入口に立っていた瑞希を強引に押しのけ、走り去っていった。
「絵里奈ちゃん！」
と、西岡さんと伊東さんが追いかけていく。
「なにあれ。やっぱりあいつ、いやな女」
バタバタと遠ざかっていく足音の行く先をにらみつける瑞希の目には、拒絶の色がありありと浮かんでいる。
「チッカ、なんか変なことされたんじゃないよね」
「別に。それよりさっさと帰ろう」
「そうだ。遥くんもそこで待ってるよ」
「え……」
「ほらー。早く早く！」
教室を出ると、廊下の少し先にいる遥が片手を上げて応える。この距離ならきっと、私と吉田さんの会話が聞こえたりは、しない……よね？
「千佳、教室にいたんだ。てっきり瑞希ちゃんと先に帰ったんだと思ってた。俺、掃除当番で遅かったからさ」
そう言って笑う遥はいつもと変わらなくて、ホッとする。あんなお花畑発言を聞かれたら、恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。
「ほら、さっさと行こうよ」
「誰を待ってたと思ってるのよ。それで、呼び出しのほうはどうだったの？」
あっ、と瑞希が叫んで、両手で私の肩をつかんだ。
「チッカ！ あたしに勉強教えてちょうだい！」
瑞希の突拍子もない発言に、私と遥は顔を見合わせたのだった。
＊＊＊＊＊＊
「いやー、ぴーちゃんもやるねぇ」
土曜の家庭教師の日に吉田さんとの一件を話すと、瑛輔くんはお腹を抱えて笑い転げた。
「ちょっと、ママに聞こえちゃうでしょ」
「だってさぁ……ぷふっ」
ひーひ―言いながら、目じりの涙を拭っている。
「でも、ちょっと反省もしてるの」
「へえ。ぴーちゃんにもそんな優しい一面が……」
「うん。だって、吉田さんは小中学校時代の遥を知ってるんだから、もうちょっと話を聞くべきだった」
瑛輔くんがズッコケる。
「したたかだねぇ。あーこわいこわい」
おちょくる瑛輔くんを無視して、私は話を続けた。
「とにかく、吉田さんは面倒なライバルなの。チーはたしかに『幼なじみ』だけど、小中いっしょだった吉田さんだって、拡大解釈すれば似たようなものだし」
「肝心の遥くんはどんな感じ？」
「うーん……」
ときどき、廊下で遥と吉田さんが話しているところは見かけるけれど、遥の口から吉田さんの話が出たことはない。
瑞希はいつも「いやな女！」と言ってるけど。
「どうなんだろう。でも、吉田さんみたいなかわいい子に言い寄られたら悪い気はしないよね」
「うーん……」
今度は瑛輔くんがうなりながら、また私のノートの隅に落書きを始める。
やけに首が長いけど、今日はキリンかな。
「その子の口ぶりからすれば、ちょっとでも遥くんに脈があるなら告白してたってことだろ？ でもそうじゃなかったわけで」
「あ、そっか」
つまり、遥は吉田さんに特別な感情はないってこと、なのかな。
「よし、ちょっと希望が見えてきた」
少なくとも、いまはまだ私のほうが遥に近い位置にいる。吉田さんより先に、遥の心を射止めなくては！
「それよりさ、俺、その吉田絵里奈って名前、どっかで聞いたような気がするんだよなぁ。どこだっけなぁ」
瑛輔くんが首をひねるたびに、落書きのキリンの首もうねうねと波打って、ろくろ首に進化し始めている。
階段を上がってくる足音が聞こえて、私たちは慌てて授業の体勢をとった。
英語のイディオムを解説する瑛輔くんの声を聞きながら、私はチーのことを考えていた。
ねえ、チー。
遥にはライバルがたくさんいるって言ってたけど、チーはどうやって戦ったの？
ケンカしたの？ それとも嘘をついて煙に巻いたの？
どっちにしろ、負けなかったんだろうね。
――カーは泣き虫だから、私がそばにいなきゃダメだね。
そうだよ。チーがいなきゃ、私はなにもできないんだから。
だからちゃんと私のなかにいて。
そしたら、吉田さんになんか負けないんだから。
「先生、千佳ちゃん。お紅茶いれましたから、ちょっと休憩しません？」
ママの声とともにドアが開いて、華やかなアールグレーの華やかな香りと、焼き立てのマフィンの芳醇なバターの香りが部屋を満たした。
「うう、ぜったい待っててよ。待ってなかったら呪ってやるんだからっ」
と、さんざん念を押されたので、私はしかたなく教室で時間をつぶしていた。
高校に入って初めての試験である実力テストまであと一週間。
生徒の多くは休み時間も教科書と向かい合い、授業が終わったら飛ぶように帰っていくから、教室に残っているのは私一人だった。
みんながここまで力を入れるのも理由がある。
星山高校では、試験ごとに上位五十人の名前を廊下に貼り出すのだ。
各中学校で上位に名を連ねていた生徒たちにとって、そこに自分の名前がないなんてありえないことだった。
「ここが最初の挫折になって、卒業まで立ち直れない生徒も多いですからね」
と、恐ろしいことを塚本先生がさらりと口にしたせいもあって、ますます全員が必死になった。
でも、そのおかげもあって、私と遥のうわさも下火になっていた――のだが、いまだにそのうわさを広めているらしいのが、吉田絵里奈、西岡、伊東の三人組だ。
これは、遥を巡る恋の鞘当て、というやつになんだろうか。
客観的に見れば、私と吉田さんじゃ勝負にならない。
言うなれば吉田さんは生まれながらの女王様で、輪の中心や山のてっぺんにいるのが当たり前の人だ。
実際、うちのクラスも、すでに彼女を中心としたコミュニティが完成されつつあり、私と瑞希は弾かれた異物のようなものだった。
彼女に対して私が持っている武器は「幼なじみ」と「約束」だけ。それだってニセモノでひどく頼りない。
でも、これでどうにかするしかないんだよね、とため息をついていると、いままさに考えていたその人が、西岡さんと伊東さんを引き連れて教室に入ってきた。
「あ、澤野さーん、ちょっといいかな？」
うわ、と思ったけれど、西岡さんと伊東さんに両サイドを塞がれ、どうにも逃げられそうになかった。
「遥くんに聞いたんだけど、澤野さんって遥くんの幼なじみだったんだね」
「うん、そうだよ。ここで偶然再会したの」
答えながら、遥と吉田さんはそういう会話をする関係なんだ、という事実が頭にインプットされる。
「ふぅん。偶然ね」
吉田さんがふふっ、と笑った。
「それって本当？ あんなドラマみたいなこと、現実じゃあり得ないと思うけど」
やっぱりそう思いますよね。私もそう思います。
心のなかでは吉田さんに大賛成しながらも、口ではうまく嘘をつく。
「私もびっくりしたよ。まさか遥がここにいるなんて――」
「白々しい！」
「このストーカー！」
西岡さんと伊東さんがヒステリックに叫んで、私を遮った。
まあ……確かにそう言われるようなことをしているんだけれども。
「で？ 偶然再会した二人はいま、付き合ってるの？」
さすが女王様。イエスかノーでしか答えられない問いで、単刀直入に切り込んできた。
私が黙っていると、吉田さんはふっと笑った。
「私ね、遥くんのこと好きなの。小学校三年生のときに同じクラスになってからずーっと」
ナチュラルメイクを施したかわいらしい顔に不似合いな好戦的なまなざしが、私をにらみつける。
「そういうのは、私じゃなく遥に言ったほうがいいと思うけど」
「遥くんってあのルックスだから、ずーっとめちゃくちゃモテて、大勢に告られてたんだけど、全員フッてたのよね。一回フラれちゃったら、付き合える可能性減っちゃうでしょ？ だから、私が告るとしたら、ぜったい成功するとき以外ありえないの」
「はあ……なんかすごいね」
恋愛ってここまで考えて動かないといけないのか。入試よりずっと難しそう。
「遥くんっていままで特に親しい女の子っていなかったのに、急に澤野さんと仲良くし始めたでしょう？ もしかして付き合ってるのかなぁって気になっちゃって」
ないない、と西岡さんと伊東さんがバカにするように笑った。
「もし、私と遥が付き合ってたらどうするつもりなの？」
「……そうね。人の彼氏に手を出すのはちょっとどうかと思うし、きっぱり諦めるかな」
嘘つけ。
吉田さんは、欲しければ手を伸ばす人だ。その途中でぶつかって落としたものも、傷付けたものも、ちっとも気にしないでいられる人。そうじゃなきゃ、女王様でなんかいられない。
「澤野さんは、私たちよりずーっとずーっと頭がいい新入生代表なんだもん。自分と遥くんが釣り合うかどうかくらい分かるでしょ？」
そう言いながら、西岡さんが私の顔をのぞき込む。
「だよねー。澤野さんより絵里奈ちゃんのほうが美男美女って感じで、ずーっと遥くんにお似合いだもん。ねえ？」
と、伊東さんが同意を求めてくる。
たしかに吉田さんはかわいい。遥が持っているような、人目を引く「特別」が彼女にもある。隣に立てば、そりゃあお似合いだろう。
だけど――負けるもんか。
チーの初恋は、ぜったい誰にも譲れない。
私が叶えてあげるって、チーに約束したんだから。
「吉田さんが遥を好きになったのは小学三年から？」
「そうだけど……それがどうしたの？」
私がそんなことを聞き返すとは思っていなかったのか、吉田さんは少し戸惑ったように答えた。
「そんなに長い間想い続けるなんて、絵里奈ちゃんったら一途にもほどがあるよね！」
「絵里奈ちゃんみたいにかわいくて一途なんて、もうヤバすぎ」
絶賛する西岡さんと伊東さんに挟まれて、私はふふ、と笑った。
「なに笑ってるのよ」
「ううん。それくらいでいばってるんだ、と思って」
私がそう言うと、三人は虚を突かれたような顔になった。
「私はね、そのずーっとずーっとずーっと前から遥に会いたくて会いたかった。そのために生きてきたの」
だって、遥に会って、チーの初恋を叶えることだけが、私の生きる意味だったから。
「そしたら、ここで再会できたの。これってもう運命じゃない？ 神様が私たちに仕掛けたサプライズだよね！」
神様なんて信じない。
運命くらい、私がいくらでも捻じ曲げて作り変えてみせる。
私の「お花畑満開です！」みたいな発言にドン引きしている吉田さんと西岡さんと伊東さんを見ていたら、なんだかちょっと楽しくなってきた。
「吉田さんも小、中、高って遥と一緒なんてすごいね。それも運命っぽくてステキだなぁ。あ、でも……」
教室には私たち以外誰もいないけれど、私はわざとらしく、内緒話をするみたいに声を潜めた。
「もしかして、吉田さんって遥を追いかけてこの学校に来たとか？ もしそうだったら、知られないように気を付けたほうがいいよ。だってほら……遥はしつこい女の子が苦手だって、吉田さんも言ってたでしょう？」
吉田さんの完璧スマイルが固まって赤く染まっていくのと反対に、西岡さんと伊東さんは青くなる。
どうやら図星だったらしい。
「おまたせ、チッカ……って、なにしてんの？」
戻ってきた瑞希が、私を取り囲む三人を見て、一気に臨戦態勢をとった。
「あんたに関係ないでしょ！」
吉田さんは私と瑞希、どちらに言ったのかよく分からないセリフを吐いて、入口に立っていた瑞希を強引に押しのけ、走り去っていった。
「絵里奈ちゃん！」
と、西岡さんと伊東さんが追いかけていく。
「なにあれ。やっぱりあいつ、いやな女」
バタバタと遠ざかっていく足音の行く先をにらみつける瑞希の目には、拒絶の色がありありと浮かんでいる。
「チッカ、なんか変なことされたんじゃないよね」
「別に。それよりさっさと帰ろう」
「そうだ。遥くんもそこで待ってるよ」
「え……」
「ほらー。早く早く！」
教室を出ると、廊下の少し先にいる遥が片手を上げて応える。この距離ならきっと、私と吉田さんの会話が聞こえたりは、しない……よね？
「千佳、教室にいたんだ。てっきり瑞希ちゃんと先に帰ったんだと思ってた。俺、掃除当番で遅かったからさ」
そう言って笑う遥はいつもと変わらなくて、ホッとする。あんなお花畑発言を聞かれたら、恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。
「ほら、さっさと行こうよ」
「誰を待ってたと思ってるのよ。それで、呼び出しのほうはどうだったの？」
あっ、と瑞希が叫んで、両手で私の肩をつかんだ。
「チッカ！ あたしに勉強教えてちょうだい！」
瑞希の突拍子もない発言に、私と遥は顔を見合わせたのだった。
＊＊＊＊＊＊
「いやー、ぴーちゃんもやるねぇ」
土曜の家庭教師の日に吉田さんとの一件を話すと、瑛輔くんはお腹を抱えて笑い転げた。
「ちょっと、ママに聞こえちゃうでしょ」
「だってさぁ……ぷふっ」
ひーひ―言いながら、目じりの涙を拭っている。
「でも、ちょっと反省もしてるの」
「へえ。ぴーちゃんにもそんな優しい一面が……」
「うん。だって、吉田さんは小中学校時代の遥を知ってるんだから、もうちょっと話を聞くべきだった」
瑛輔くんがズッコケる。
「したたかだねぇ。あーこわいこわい」
おちょくる瑛輔くんを無視して、私は話を続けた。
「とにかく、吉田さんは面倒なライバルなの。チーはたしかに『幼なじみ』だけど、小中いっしょだった吉田さんだって、拡大解釈すれば似たようなものだし」
「肝心の遥くんはどんな感じ？」
「うーん……」
ときどき、廊下で遥と吉田さんが話しているところは見かけるけれど、遥の口から吉田さんの話が出たことはない。
瑞希はいつも「いやな女！」と言ってるけど。
「どうなんだろう。でも、吉田さんみたいなかわいい子に言い寄られたら悪い気はしないよね」
「うーん……」
今度は瑛輔くんがうなりながら、また私のノートの隅に落書きを始める。
やけに首が長いけど、今日はキリンかな。
「その子の口ぶりからすれば、ちょっとでも遥くんに脈があるなら告白してたってことだろ？ でもそうじゃなかったわけで」
「あ、そっか」
つまり、遥は吉田さんに特別な感情はないってこと、なのかな。
「よし、ちょっと希望が見えてきた」
少なくとも、いまはまだ私のほうが遥に近い位置にいる。吉田さんより先に、遥の心を射止めなくては！
「それよりさ、俺、その吉田絵里奈って名前、どっかで聞いたような気がするんだよなぁ。どこだっけなぁ」
瑛輔くんが首をひねるたびに、落書きのキリンの首もうねうねと波打って、ろくろ首に進化し始めている。
階段を上がってくる足音が聞こえて、私たちは慌てて授業の体勢をとった。
英語のイディオムを解説する瑛輔くんの声を聞きながら、私はチーのことを考えていた。
ねえ、チー。
遥にはライバルがたくさんいるって言ってたけど、チーはどうやって戦ったの？
ケンカしたの？ それとも嘘をついて煙に巻いたの？
どっちにしろ、負けなかったんだろうね。
――カーは泣き虫だから、私がそばにいなきゃダメだね。
そうだよ。チーがいなきゃ、私はなにもできないんだから。
だからちゃんと私のなかにいて。
そしたら、吉田さんになんか負けないんだから。
「先生、千佳ちゃん。お紅茶いれましたから、ちょっと休憩しません？」
ママの声とともにドアが開いて、華やかなアールグレーの華やかな香りと、焼き立てのマフィンの芳醇なバターの香りが部屋を満たした。
