私たちが入ったのは、駅前のハンバーガーショップだった。
 こういった店に入るのはいつぶりだろう。カラフルな店内が珍しくて、ついきょろきょろと見回してしまう。

「ああいうお店の食べ物は体によくないから、千佳ちゃんは食べちゃダメよ」

 ママは私にファーストフードを禁止した。それだけじゃなく、ファミレスもカフェもコンビニもダメ。
 私の口に入る食べ物は、既製品以外は全てママの手作り。私の身体のほとんどは、ママの手を経たものでできているようなものだった。ときどきそれがたまらなく気持ち悪くなる。

「次のお客様、どうぞ」

 先にレジに呼ばれた瑞希に続いて、私の番が来てしまった。

「先にいいよ」

 遥に促され、しぶしぶカウンターの前に進み出る。
 ずらりと並ぶメニューはどれも同じように見えて区別がつかない。どれがどの値段で、なにをどう選べば注文が完了するのかがちっとも分からない。
 注文のマニュアルもないなんて。もっと分かりやすくしないと新規客がつかないだろうに。
 企業からしたら余計な(たぶん必要もない)心配をしながら、カウンターの向こうにいる女性スタッフを見たけれど、彼女は無表情にも思える笑顔で私を見返した。無言のプレッシャーを感じて、私はどんどん焦ってしまう。
 もうそっちで適当に決めてください。
 そう言ったらこの人はどんな顔をするんだろう。そんな妄想に逃避し始めたとき、私の肩に、ぽん、と手が置かれた。
 女性スタッフがハッとしたように目を見開いて鉄の笑顔が崩れた。

「俺はこれが一番好きなんだけど、千佳も同じのにしない?」

 耳元で遥の声がして、綺麗な指がメニューの上に置かれた。

「う、うん。じゃあ、それで」

 そう答えるのが精いっぱいだった。肩に乗せられたままの遥の手の重さと感触と体温に私の全神経が集中して、心臓が早鐘を打つ。
 遥がそのセットを二つオーダーすると、ぼうっと見とれていた女性スタッフは慌てたようにレジを打った。

「あ、私のぶん払うよ」

 私が財布を取り出すと、遥は「いいって」と笑った。

「今日は俺が誘ったから。その代わり千佳が誘ったときはおごって」
「……分かった。ありがと」
「持ってくから先に行っててよ。瑞希ちゃん、待ってるみたいだし」

 うん、とうなずいて、私は瑞希が待つ席に行った。

「見てたよー。遥くんめっちゃ優しいじゃん。チッカ、愛されてるぅ」

 瑞希がニヤニヤしながら肘で小突いてくる。

「そういうんじゃないってば」

――はるかって優しいんだよ。私が困ってたらいつも飛んできてくれるんだから。

 チーの言ってたとおり、遥はすごく優しい人みたい。

――でしょう?

 ふん、と胸を張っているチーの姿が目に浮かぶ。
 そうだね。チーはたくさん嘘をついたけど、遥のことだけは全部、本当なんだもんね。

「ねえ、二人って結局どういう関係なの?」

 遥が席に着くなり、瑞希がド直球の質問を投げつける。
 なにが潤滑油だ。爆薬の間違いじゃないか。
 にらみつけてやるが、瑞希は素知らぬ顔でポテトを口に運んでいる。

「俺と千佳は幼稚園が一緒だったんだよ。そんで、そのときよく一緒に遊んでたんだ」
「へー、幼なじみってやつ?」
「幼なじみっていうにはだいぶ短い期間だったよね。私、こっちに引越してきて何カ月かでまた引越しちゃったから」
「え、なんで」
「お父さんが、ちょっとね」

 そう言ってうつむくと、なにかを察した瑞希が慌てたように、

「でもこうやって再会できるとかマジ運命だよね!」

 と、明るい声を上げた。

――お父さんがいなくなっちゃったから。

 転園してきた理由を聞いたとき、チーは私にそう答えた。
 いなくなった、という衝撃的な言葉に怯んでしまった私は、それ以上聞けなかった。だから、チーの父親がいなくなったのは離婚したせいなのか、死んでしまったからなのか、いまも知らないままだ。
 もしかしたらパパとママは知っているのかもしれない。でも、あの家でチーの話をすることは許されない。
 遥は知ってるのかな、とふと思う。
 私が知らない、チーの父親がいなくなった理由を。

「そういえば、チッカ約束がどうとか言ってたじゃん。あれは?」
「それは、私が引越すときに遥と約束したの。大きくなったら星山高校で会おうねって」
「千佳、星山高校の制服着たがってたもんなー」

――とってもかわいいんだよ! わたし、あのせいふくではるかに会うの、楽しみだなぁ。そのときはカーもいっしょね! やくそく!

 藍色のブレザーに、白と黒のチェックのスカート。ありふれたデザインだし、これよりかわいい制服なんていくらでもある。でも、チーがこの制服の話をするときはいつも目を輝かせていた。

「私、この制服を着て遥に会うの、すっごく楽しみにしてたんだよ」

 右側に軽く首を傾けながら遥に笑いかける。何度も練習したチーの癖だ。
 遥がかすかに目を見張って、ストローの先から口を離した。

「……うん。よく似合ってる」

 嘘だ。
 私にはあんまり似合ってないことくらい、ちゃんと分かってる。

「あーいいなぁいいなぁ、めっちゃロマンチックじゃん! しかも約束の相手が遥くんとか羨ましすぎ! あーもう、あたしも昔どっかでイケメンと約束交わしてなかったかなぁ」

 足をバタつかせる瑞希を横目に、やたらと塩気の強いフライドポテトをかじる。
 さっき、オーダーに困っている私を助けてくれたこの人は、チーが話していたとおり、すごく優しい人なんだろう。
 私は、これからこの人を騙していくんだ。
 覚悟していたことなのに、胸がちくりと痛んだ。
 バカじゃないの。もうとっくに、どうしようもない嘘つきのくせに。
 胸に走った痛みをごまかすように、私はハンバーガーを手に取った。
 バンズに二枚のパテとチーズ、それに細切れのレタスが申し訳程度に挟まっている。持ち上げて口元まで運ぶあいだにレタスがぽろぽろとこぼれ落ち、はみ出たソースが指先を汚した。
……これ、ちょっと大きすぎない? しかもなんて食べにくい……。

「下手くそ」

 遥がくすくすと笑っている。恥ずかしくなって、かぁっと顔が熱くなった。

「ちまちま食うからだろ。もっと勢いよく、ガッといかなきゃ」

 そう言うと、遥は外見に似合わぬ豪快さでハンバーガーにかぶりついた。口の端についたソースをぺろりと舐め取る舌先の鮮やかな赤に、心臓がどきりと音を立てる。

「こうやって食うの。やってみ?」

 促されるまま、見様見真似でハンバーガーにかぶりつく。
 咀嚼すると、肉とチーズの塩気と旨味、レタスや玉ねぎのしゃきしゃき感、マヨネーズソースのわずかな酸味、そして小麦の香りと素朴な味が、口の中で一つにまとまっていく。……あれ、美味しい、かも。

「やっぱり下手くそ」

 遥の指先が私の口元をなぞる。思わず体が強ばって、レタスがまたひとつこぼれ落ちた。

「口の周り、ベタベタ」
「え」

 慌てて口を拭うと、紙ナプキンがソースでべったりと汚れた。
……つまり、これがついてたってこと? あり得ない。あり得ないでしょ。

「これは特訓が必要だな」

 ぺろりと指先を舐める。あの、それは、さっきまで私の口元についていたもので。それは、つまり、その、いわゆる――。

「あーもう! 目の前でいちゃいちゃしないでー!」

 その叫びに瑞希の存在を思い出す。

「遥くんちょーイケメンだし、チッカもかわいいし、二人がいちゃついてるのぜんぜん見てられるけどでもやっぱり見てらんない。恥ずかしすぎてもうムリ限界許してお願い」

 なんだこの人。
 瑞希の支離滅裂な叫びに、周囲の視線が集まってしまう。

「み、瑞希なんかごめん。あの、ちょっと声が大きすぎるっていうか――」
「謝るのやめてよぉ。泣きたくなるじゃん」
「ごめんってば」
「やだぁー! 謝られるとミジメになる!」
「はは、千佳の友達っておもしろいね」

 遥が楽しそうに笑った。

「……でしょ?」

 私の笑顔は少し引きつっていた、かもしれない……。

******

 ハンバーガーショップを出て腕時計を見ると、四時半を過ぎていた。
 門限には間に合いそう。あとは間食したのがバレないように、なんとか夕食までお腹を空かせておかなくちゃ。

「じゃあ、私たちは電車だから」
「遥くん、また明日ね!」

 と、遥に手を振って、私と瑞希は駅に向かった。

「千佳」

 呼び止められて振り返ると、遥の指先が私の前髪をすくい取った。

「ああ……よかった。消えたんだ」

 飛びのくように体を引いて前髪を押さえた。心臓が嫌な音を立てる。

「えー、なになに?」
「瑞希ちゃんには秘密」

 遥は人差し指を唇の前に立て、ふわりと笑った。

「うあー気になるぅー! よし、もう一軒行こ!」
「じゃあ私は先に帰るから」
「あああー待って待って」

 瑞希がバタバタと私のあとをついてくる。
 改札を通って振り返ると、遥が手を振っていた。小さく手を振り返しながらエスカレーターに乗る。ゆっくりと遥の姿が見えなくなると、私はホッと息をついた。

「ねえ、さっきのってなに?」
「教えない。瑞希はあっちの路線でしょ。じゃあね」

 もう! と膨れている瑞希を置いて、私はホームに向かった。
 教えないんじゃない。
 知らないんだ。
 誰もが間違うくらいそっくりな見た目をしていた私とチーには、ひとつだけ大きな違いがあった。
 それは、チーの額の右上にあった五センチくらいの傷。
 赤い肉がミミズみたいにぷくっと盛り上がっていて、触るとちょっとぷよぷよしていた。
「痛そうだね」って顔をしかめた私に、チーは嬉しそうに笑った。

――これはねぇ、わたしとはるかのひみつなの。

 なんでも話してくれて、名前さえも私に分けてくれたチーが、それだけは最後まで教えてくれなかった。
 遥は知ってるんだ。
 私の知らないチーが、遥のなかにいる。
 そう思うと、私のなかにいるチーが、急に不確かなものになったような気がした。

******

「うぇー、うまくいってんの?」

 瑛輔くんが、参考書の隅に落書きをしながら驚きの声を上げた。落書きは瑛輔くんの癖だけど、私の参考書でやるのはどうかと思う。
 今日のおやつはガトーショコラだった。瑛輔くんのぶんも食べて、口の中にまとわりつくこってりした甘さをダージリンで流し込む。
 このあとに待っている夕食を思うと憂鬱だ。でも、私の食事の量が減るとママは心配してすぐ「病院に」とか言い出すから、そっちもしっかり食べなくちゃ。
 このままじゃ太っちゃうな、と机の下でお腹をさする。

「絶対ムリだと思ったんだけどなぁ」
「残念でした」

 あれから遥とは一緒に帰ったり、廊下ですれ違ったときにちょっと立ち話をしたりするようになった。……まあ、瑞希もいるから、二人きりではないけれど。
 いまのところ、子ども時代の知り合いとして、私と遥の距離はごく自然に、順調に縮まっている、と言えるだろう。

「でもぴーちゃん、その割にはなんだか浮かない顔してるけど」

 さすが瑛輔くん。するどい。

「私、チーのことなら、なんでも知ってると思ってたの」

 チーとカー。
 私たちは二人で一人、だったから。

「でも、遥は私の知らないチーを知ってるんだよね」

 チーはとてもおしゃべりで、私はいつも聞き役だった。
 いろんな話を聞いたけど、一番よく話していたのは遥のことだった。

――カーはだれか好きな人いる?

 パパとママかな、と答えた私に、チーはくすっと笑ってみせた。ほんのちょっと大人びた笑いかただった。

――カーは知らないんだ。「好き」のなかには、特別な「好き」があるんだよ。私にはいるよ。ふじわらはるかっていうの。わたし、はるかのこと、すごく好き。

 チーは遥にどんな顔を見せていたんだろう。

「そりゃ、好きな相手の前と友達の前じゃあ、見せる顔も違うよな。しかも、初恋相手って特別だし」
「瑛輔くんもそうだった?」
「ノーコメント。さて、と、休憩は終わり。授業再開」

 逃げたな、と思いながら、しかたなく参考書に視線を落とす。瑛輔くんが描いた、猫のような犬のような生き物が二匹並んで私を見上げていた。
 遥の初恋相手も、やっぱりチーだったのかな。
 そんなことを考えながら、瑛輔くんの声と、階段を上がってくるママの足音を聞いていた。