どぼん! という音とともに、全身が水に包まれた。
 息ができない。必死に水を掻いて、海面に顔を出すと、潮のにおいが一気に肺に流れ込んできた。

「遥!」

 波に揺られながら叫んだ。
 どこ? どこにいるの? 
 早くしないと、また私の大切なものが奪われてしまう。
 暗い海は、あの日、私が隠れていたクローゼットの中とよく似ていた。
 柔らかくて、生暖かくて、真っ暗で、なにも見えない。

「遥……ねえ、返事して!」

 チーが波にさらわれたのは、私のせいだ。
 かくれんぼでチーに勝ちたくて、外に出たなんて嘘をついた。

「遥……っ!」

 あのあと、パパとママが、私を探してくれた人たちやおばさんとどんな話をして、どんな決着を迎えたのか、私には少しも伝わってこなかった。
 ただ、私たち家族は逃げるようにあの町から引っ越して、真っ白な新しい家で何事もなかったように新しい生活を始めた。けれど、その内側はどんどんと歪んでいった。
 チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと半分。一人だと生きられない。
 だから私は、自分のなかにむりやりチーを閉じ込めて、私が生きていていい理由を探した。
 だから、チーの代わりに初恋を叶えるなんてバカなことを考えた。

「私は、ここだよ。チー」

 かくれんぼはもうおしまい。いつもみたいに私を見つけて。
 ひとかけらも残さずに消していいよ。
 だから――お願い。遥を助けて。連れていかないで。

「遥!」

 声を限りに叫んだ瞬間、背後で大きな水音がした。
 振り返るより早く、伸びてきた手が私の体を抱きしめた。

「動くなよ」

 その声に闇が晴れていく。

「は、るか」

 生きている。ここにいる。
 触れ合ったところから伝わる体温に、私の心と体が緩んでいく。
 遥は私を抱えたまま、確かな泳ぎで陸へと向かった。砂浜に上がると、私たちはそのままへたり込んだ。
 ずぶ濡れの体に夜風が冷たい。へばりつく髪も服も、まとわりつく砂も、うざったくて仕方ない。
 でも、それは私が生きている証。

「千佳が飛び込む必要はないだろ! 溺れたらどーすんだよ!」

 なんだか今日は遥に怒られてばっかりだな。

「だって、遥、泳げないって……」

 私がそう言うと、遥はぐっと詰まって目を逸らした。

「それは、その……なんつーか、嘘」
「え?」
「ああでも言わないと、千佳は気を遣うだろ」

 全身から力が抜けた。ふらりと揺れた私の体を、遥が慌てて抱きとめる。

「お、おい。大丈夫か?」
「――よかった」

 嘘でよかった。本当によかった。
 目を閉じると、遥の心臓の音が聞こえる。この音が消えなくて、本当によかった。
 波の音と遥の心臓の音を聞きながら、私は息を整えた。
 遥に、本当のことを伝えなくちゃいけない。

「私はね」

 もしもチーが私たちを助けてくれたのなら、それはきっと私に本当のことを言わせるためだ。

「どうしようもない嘘つきなの。ずっと、嘘をつき続けてる。もう誰にも許してもらえない」

 チーにも、おばさんにも、パパにも、ママにも、私はきっと許してもらえない。

「話してみなきゃ分かんないだろ?」

 遥の前髪から落ちた雫が、私の頬を伝う。これじゃあなんだか泣いているみたいだ。泣く権利なんか、私にあるはずもないのに。

「無理なの。もう誰も私を許してくれない」
「だったら!」

 遥が苦しそうに顔を歪めた。どうして、遥がそんな顔をするの?
 私より、泣いているみたい。

「俺が許してやるよ」

 遥の唇が、私の唇に触れた。ひやりと冷たい感触。それでも触れ合っているうちに、じわりと熱をはらんだ。

「だから、もう嘘はつかないで」

 唇を放して、遥がそう言った。きらめく星空を背景にして、青白い月の光に照らされた遥は、ぞっとするほどに美しかった。

「ねえ、遥」

 あなたもきっと、私を許してくれない。
 遥の体温が残った唇で、私は「本当」を口にした。

******

 私の話を聞いた遥は、しばらく呆けたように海を見ていた。

「死んだ?」

 そう呟いて、膝を抱えてうずくまった遥にかけるべき言葉を、私は知らなかった。
 私はもうチーの代わりにはなれないんだな、と思ったあと、こんなときでさえ自分のことしか考えられないなんて、と嫌な気持ちになった。

「――それでね、私はチーの代わりに遥との約束を果たすために、星山高校に入ったの。そして……チーの代わりに、チーの初恋を叶えるつもりだった」
「なんだよ、それ」

 遥が立ち上がる。月の光を遮って、黒い影が私にかかる。
 暗闇。

「ふざけんなよ」
「遥……」

 思わず伸ばした私の手を、遥が振り払った。心臓がひゅっと冷たくなった。
 遥が私に背を向けた。どこにいたって、すぐに見つけられる「特別」な遥の背中。
 その「特別」が明確に私を拒絶している。

「遥、私は――」

 言いかけて、次の言葉が出てこない。
 嘘に漬かり過ぎた私は、自分の中に生まれたばかりの「本当」の扱いかたを知らない。
 遥が歩き出して、背中が遠くなっていく。
 私は一人、波打ち際に座り込んだまま、立ち上がれずにいた。
 ねえ、チー。
 チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと半分。
 なのに私は、どうやってもチーにはなれないみたい。あなたの代わりには、なれない。
 私と遥がずぶ濡れになって、しかも別々に戻ってきたことで、みんなはひどく戸惑っていた。

「チッカ、なにがあったの?」

 バスルームから出てきた私に、瑞希が待ちかねていたように聞いてきた。

「……なにもないよ。散歩してたら海に落ちちゃっただけ」
「そんなわけないでしょ、だとしたら、遥くんがチッカを置いてくるなんてありえない。遥くんはチッカのナイトだもん」
「違うよ」

 遥が守りたかったのは、私じゃなくチーのほう。
 チーを殺してしまった私に許されるのは、ナイトに倒されて罰を受ける悪役だ。

「ごめん、少し疲れちゃった。もう寝るね」

 ベッドに潜り込んで頭から布団をかぶる。ずっと続いていた波の音がやっと途切れた。
 目を閉じると、眠りはすぐにやってきた。
 暗闇に落ちていく。

******

 午前十時、瑛輔くんが別荘の鍵を閉める音で、私たちの夏合宿は終わりを告げた。
 ここへ来たときと同じように空は青く晴れ渡り、海はきらきらと輝いている。だけど、私も遥も大きく変わってしまった。変わってしまえば、もう元には戻れない。
 お弁当を持った沙耶さんが見送りに来てくれた。

「また遊びに来てね。瑛輔なんか抜きでいいからさ」
「おいこら」
「冗談だって。来るの待ってるから。っていうかさ、お店じゃなくたって会えるのに、瑛輔ったら一度も連絡くれないんだもんね」

 瑛輔くんの黒いポロシャツの裾を、沙耶さんがそっと引っ張った。
 車が走り出すと、手を振る沙耶さんの姿がどんどん遠ざかって、小さくなっていく。ハンドルを握る瑛輔くんが、前を見たままプッと短くクラクションを鳴らした。
 車内は来たときと同じ並びで、後部座席の真ん中に座った私の隣には遥がいる。
 けれど、遥は窓の外を見つめたままで、私に触れないように全身を緊張させているのが分かった。
 その緊張が伝わっているのか、来るときはずっとはしゃいでいた瑞希も桐原先輩も、いまは、ぽつり、ぽつり、と言葉を発する以外、うつむいて黙りこくっている。
 そのまま一時間ほど走って、瑛輔くんがハンドルを切って駐車場に車を入れた。

「飯にしようぜ。せっかく沙耶が作ってくれたんだし」

 砂浜にビニールシートを敷いて、私たちは輪になって座った。遥は私の斜め前。

「わっ! すごい! おいしそー」

 重箱の蓋を取ると、瑞希が歓声を上げた。三段のお重にはそれぞれ、色とりどりのおにぎり、唐揚げ、玉子焼き、キュウリの漬物なんかが入っていた。

「おお、沙耶のやつ、前より腕上げてんじゃん」

 梅とわかめのおにぎりを一口食べて、瑛輔くんが少し笑った。

「さ、みんなも食べよ。ピクニックって感じでなんか楽しいね」

 瑞希がわざとらしく声を弾ませるけれど、重たい空気は消えてくれない。

「すみません。俺、食欲ないんで」

 遥が立ち上がった。夏の太陽を背にしたその姿は、黒い影のようだった。

「大丈夫?」

 瑛輔くんが声をかけるが、遥は無言で背中を向けて、足早に車に戻ってしまった。

「ぴーちゃん、ちょっと見てきたら?」
「……たぶん、私じゃないほうがいいと思う」

 私がそう答えると、三人が視線を交わし合った。

「瑞希、遥に持って行ってくれる?」

 私は紙皿に遥のぶんを取り分けた。遥はお肉が好きだから唐揚げをたくさん、おにぎりの具は鮭が好きで、梅は嫌い。シラスは目があるから苦手で、玉子焼きは甘いほうが好きで、でもネギを入れたしょっぱいのは好きで――。
 喉の奥がぐっと詰まって箸が止まった。
 いつの間に、私はこんなに遥のことを知っていたんだろう。

「チッカが持っていったほうがいいよ。いうのって時間が経てば経つほど、どうしようもなくなるんだよ」

 瑞希がそう言って、紙皿を押し返してくる。

「でも」
「じゃあ僕と一緒に行こうか」

 桐原先輩が挙手をして立ち上がった。さあさあ、と私が抵抗する間もなく、桐原先輩は私を遥のもとへと連れていってしまった。
 遥は車のタイヤのところにしゃがみこんで、ぼうっと空を見上げていた。
 私と先輩に気付くと顔をしかめてから、ふいと背けた。

「あの、これ」

 私が差し出した紙皿には目もくれない。仕方ないことだって分かっているのに、胸が痛むのを止められない。

「遥くん、君と千佳ちゃんになにがあったのかは知らないけど、その態度はよくないんじゃない?」
「……放っておいてください」
「君は、もう少し紳士だと思っていたんだけどな」

 桐原先輩が軽く肩をすくめた。

「部長には関係のないことですから」
「……関係なくもないんだな」

 そう言って、桐原先輩が私の前にひざまずいた。え、と思う前に先輩は私の左手を取った。紙皿を持つ手が不安定になって、鮭のおにぎりが地面に落ちる。

「せ、先輩?」

 私の戸惑った声に、遥が振り向いた。その目が驚きで少し見開かれる。

「プリンセス。あなたが何者でも構わない。どうか僕のものになっておくれ」

 芝居がかった台詞を口にして、先輩は私の左手の薬指にキスを落とした。

「――っ!」

 突然のことに、思わず息をのんだ。唇の感触のくすぐったさが、体の内側に線を描く。

「実は僕、千佳ちゃんが好きだったんだ。遥くん相手じゃ諦めるしかないかって思ってたんだけど……チャンスが来たなら、手を伸ばしてもいいよね?」

 遥は、なにか言おうと口を開いた。けれど、言葉を発する前にきゅっと結ばれてしまう。

「いいかな?」

 桐原先輩が念を押すように繰り返した。

「……それは、部長が決めることですから。俺には関係ないです」
 波の音がもっと強かったら、そんな遥の返事も聞こえなくて済んだのに。
 私が落とした鮭のおにぎりの上を、蟻が二匹、這い回っていた。