遥の登場に、三人――特に吉田さんは、分かりやすく慌てていた。
昼休みに私たちの話を聞き、遥がいないときを狙ってこんな計画を実行したんだろうけれど、遥は約一時間の『石倉ゼミ』が終われば来るって言っていたのに。
そんな当たり前のことさえ分からなくなるくらい、女王様は狂ってしまった。
「お前らこそ、道徳の教科書でも読んだほうがいいんじゃねーの? 少しは性格マシになるだろ」
「ち、違うの。遥くん、これは、その、ちょっと、ふざけてただけで」
もごもごと言い訳を口にする吉田さんを押しのけて、遥は私たちに歩み寄った。
「……二人とも、大丈夫?」
遥に手を借りて立ち上がると、チリっと手のひらと膝が痛んだ。見ると、うっすらと血がにじんでいる。さっき転んだときに擦りむいたみたいだ。
「ごめん、あたしのせいで、チッカが」
瑞希の顔は真っ青で、その手はまだかすかに震えていた。
「な……なんか私たち、ちょっと悪ノリしちゃったかな? 澤野さん、近藤さん、ごめんね。ほら、二人も謝って」
いつもの完璧なスマイルを取り戻した吉田さんが、私たちに向かって手を合わせる。西岡さんと伊東さんも「ごめんなさぁーい」と頭を下げた。どうせ、下を向いたその顔には薄ら笑いが浮かんでいるんだろうけど。
「……ふざけてただけ、なんだ?」
「そうなの、ホントにそんなつもりなくて――」
「じゃあこれから俺もふざけるわ」
え、と思った瞬間、遥持っていたプリントの束が、床に散らばった。
そして、遥が近くにあった机を思い切り蹴飛ばした。思わず仰け反ってしまうくらいの大きな音が響き渡る。
「いいよな。俺もちょっとくらい悪ノリしたってさ」
吉田さんたちは身を寄せ合って、言葉なく目を見開いている。
こんなときなのに、遥が浮かべた笑みに背筋がぞくっとした。
怖いほどの美しさ、とはまさにこのこと。そこにあるのは、純度百パーセントの怒り。
「瑞希ちゃんにひどいことしたんだろ」
ガン! と椅子が飛ぶ。
「千佳にも怪我させた」
ゴトン! と机が倒れる。
校舎に残っていた数少ない生徒たちが騒ぎを聞きつけたらしく、廊下がざわつき始めた。
「は、遥くん。やめて……ね、お願い」
吉田さんは遥のブレザーの裾をそっとつまむと、うるうると潤んだ目で見上げると、小さく首をかしげた。
あれは、(おそらく)吉田さん必殺のあざといポーズだ。
吉田さんのような可愛い女子にあんなふうにされたら、普通の男子はイチコロだろう。けれど、遥は普通じゃない。「特別」だ。
遥は、吉田さん渾身のあざとさを一瞥して、あっさりと振り払った。
「ごめんね。――先に謝っとくわ」
にっこり笑って、倒れていた椅子を蹴飛ばした。
上目遣いを続ける吉田さんのすぐ横を掠めて壁にぶつかるとすごい音がした。西岡さんが、ひっ、と声を漏らす。
「遥、もういいよ」
吉田さんたちなんてどうなっても構わないけれど、遥がいまこの状況の責任を問われることになるのは嫌だった。この人たちは、私たちが知らないところで存分に不幸になればいい。
「よくない。俺が千佳を守るって約束したのに。俺は、また……」
遥は絞り出すような声でそう言って、少しうつむいた。
「私は大丈夫だから。瑞希も、もう平気?」
大暴れの遥にフリーズしていた瑞希も、こくこくとうなずいた。
床に落ちたままの吉田さんのスマートフォンを拾い上げて、差し出す。画面に小さくヒビが入っていたけれど、素知らぬふりをした。これくらいは許されるはずだ。
「ロック解除して。瑞希の写真、全部消すから。いま撮ったのも昔のも全部」
吉田さんは憎々しげににらみつけてきたけれど、私の後ろに立つ遥ににらみ返されたらしく、慌ててスマートフォンを操作した。
中にあるデータを消したところで、どこからかまた手に入れることなんて簡単だろう。それでも消したかった。少なくとも、吉田さんたちの手の中に瑞希のかけらを残しておきたくなかった。
「――消した」
「見せて」
「消したって言ってるんだからいいでしょ!」
「確認もせずに信じられると思う?」
抵抗する吉田さんに焦れた遥が、吉田さんからスマートフォンを奪い取って私に渡した。私が画面に指を滑らせると、吉田さんが、あ、あ、とうろたえたような声を出した。
「……やだ、なにこれ」
顔を引きつらせてそう言うと、瑞希と遥が横からのぞき込んで、同じように顔を引きつらせた。
画面にずらりと並んでいたのは、瑞希ではなく、小学校、中学校、そして星山高校、各時代の遥の写真だった。
半そで半ズボンで鉄棒にぶら下がってる姿、運動会のリレーでの姿、学ランで応援団をやっている姿、遠足で友達とお弁当を食べている姿、文化祭でドラキュラの仮装をしている姿など、いまとは少し違う、いろんな遥がそこにいた。
学校内の姿だけじゃなく、コンビニで飲み物を選んでいたり、信号待ちしながらスマートフォンをいじっていたり、本屋で立ち読みしているたりする、校外での遥の姿もあった。
恋する女の子の隠し撮り、なんて可愛らしいものじゃなく、これはもはやストーカーの域だ。
「気持ちわりぃ……」
遥が思わず、といった様子で呟いた。私は遥の昔のアルバムを見ているようでちょっと楽しいけれど、本人にしてみたらそうなるよね……と、ちょっとかわいそうになる。
「この写真、どうしたの?」
「べ、別にいいでしょ! 私は遥くんのこと好きだったんだから、写真くらい……」
私はさらに指を動かして、メッセージアプリの画面を開いた。
「……これ見て」
そこには『一枚500、二枚800、三枚なら1000でいいよ』『じゃあ三枚』『おけ』というやり取りがあって、そのあとに三枚の画像データが送られていた。
データを開くと、それは遥の画像で……。
「あ」
「うわっ」
よりによって体育前にジャージに着替える途中の、上半身裸の遥が映っていて、慌てて目を逸らす。なんてものまで撮ってるんだ! 顔が熱くなって、心臓が爆速で音を立てる。
「これってつまり……吉田さんは遥の写真を誰かに売ってたってこと?」
私がそう呟くと、遥と瑞希、さらに西岡さんと伊東さんも一歩後ずさって、吉田さんから距離を取った。
「絵里奈ちゃん……?」
「ち、違うよね? だって絵里奈ちゃん、藤原くんのこと好きだって言ってたじゃない。だから、あたしたちも協力したのに」
「これは……その……」
吉田さんは、助けを求めるように右へ左へ視線を動かして、出来損ないの引きつったスマイルを浮かべる。
「違うの。みんなが私の好きな人を知りたいって言うから見せたら、カッコいいね、その写真欲しいって言われて……譲ってただけで」
「けっきょく売ったってことだろ。お前、まじで最低だな」
遥がため息をついたとき、廊下のざわめきを切り裂く足音がして、塚本先生が姿を現した。机と椅子が散乱した教室をぎろりと見回したあと、
「澤野、説明しなさい」
と、なぜか私に言った……。
******
塚本先生による事情聴取が終わって廊下に出た私たちは、ホッと大きく息をついた。
「あー……最悪だった」
遥がこぼした一言が、私たち全員の気持ちそのものだった。
「あの、ごめん」
瑞希が私と遥に向かって頭を下げた。
「前にちょっとだけ話したけど、うち男兄弟ばっかでさ。あたしも男みたいに育てられたんだ。小学校まではそれでよかったんだけど、中学になったとき、気が付いたらみんなは、なんていうか『女の子』になってた」
彩りよりも食欲を満たすことを目的にした、いつも茶色ばっかりの瑞希のお弁当を思い出した。
「服装とかメイクだけじゃない。使ってるシャンプーとか、ハンカチの柄とか、髪を結うゴムとか、そういうとこがもう、あたしとぜんぜん違ってた。変えたいって思ったけど、親も兄弟も『まだ子どもなんだしそのままでいいじゃん』しか言わなくて」
瑞希はそのときのことを思い出したのか、ちょっと唇をとがらせた。
「せめて仲間に入りたくてお調子者キャラなんかやってみたんだけど、めっちゃ空回りしちゃって、みんなに煙たがられて、無視されて、一人になって、三年になったときから教室に行けなくなっちゃった」
私が知っている瑞希は、いつもウザいくらい元気で明るくて、人のテリトリーなんかお構いなしにぐいぐい距離を詰めてきて、怒ったり笑ったり大忙しで――。
瑞希が語る過去と、私が知っている瑞希は、うまく結びつかないけれど、それでも、その二つは間違いなく繋がっていて、近藤瑞希という一人の人間なんだ、とそんな当たり前のことに気付く。
「ずっと変わりたかった。だから、あたしのことを知ってる人が誰もいないこの学校に入って、全部なかったことにして新しく生まれ変わろうって決めて頑張った。嘘ついて、ごまかしていればそのうち、こっちのあたしが『本当』になるって信じたかった」
オレンジ色の爪。ミルクティーベージュの髪。灰色のカラーコンタクト。短いスカート。
あの派手な格好はきっと、瑞希の決意表明だったんだ。
「でも、入学式でチッカのスピーチに感動したっていうのは本当なの。それだけは信じて。あたし、あれ聞いて、あたしだって、って思ったの。だから……チッカの友達になりたかった。ずっと嘘ついてて、迷惑かけて、ごめんなさい」
瑞希がもう一度、深く頭を下げた。ぎゅっと握りしめたスカートのチェックが歪んでいる。
「瑞希は嘘なんかついてないよ。いまの瑞希も、昔の瑞希も、ぜんぶ『本当』でしょ。迷惑をかけてきたのは向こうだし」
そう言った私の隣で、遥も笑った。
「瑞希ちゃんは、俺と千佳の大事な友達だからさ。ああいうときは怒らせてよ」
「遥は、ちょっとやり過ぎ。反省して」
「……ごめん」
私たちのやり取りに、瑞希はようやく笑った。握りしめていたスカートのチェックがほどけて、揺れた。
「でも……助けに来てくれてありがとう。嬉しかった」
遥は塚本先生にこっぴどく叱られて、反省文の提出を命じられた。あれだけ大暴れして、それだけで済んだのは奇跡的でもある。
「お前が悪いとは言わない。しかし、暴力的な解決はあまりに短絡的だ。そこは反省するように」
懇々と遥に言い聞かせる塚本先生のレンズの奥の目は、いつもよりずっと柔らかかった。
融通が利かない厳しいだけの教師かと思っていたけれど、あれでなかなか硬軟織り交ぜた優秀な教育者なのかもしれない。
「それにしても、チッカ、なんであの女が写真を売ってるって気付いたの?」
「うーん、なんだろう。女の勘ってやつかな」
瑞希と遥が、へえ、すごいね、と言い合っている横で、私はホッと息をついた。
実は、吉田さんの秘密を知ったのは、瑛輔くんからの情報だった。
――吉田絵里奈って名前、どっかで聞いたって言ってたろ? それ思い出したんだよ。実はね。ぴーちゃんのためにゲットした遥くんの写真の出どころが、その吉田って子なんだ。一枚五百円で買ったんだってよ。
「チーの代わりに初恋を叶える」というミッションの協力を頼まれた瑛輔くんは、探偵事務所でバイト経験のある後輩に、遥の現状調査を依頼していた。その過程で手に入れた遥の写真が、吉田さんから手に入れたものだった、というわけだ、。
とんだところで私と吉田さんが繋がっていたものだ。世の中って狭いな、と実感する出来事だ。
それから、なんとかして吉田さんのスマートフォンを手に入れられないかと思いあぐねていたけれど、遥や瑞希という証人もいるところで中身を確認できたのは、本当に運がよかった。
吉田さんは、おそらく最低でも停学処分。これで女王様は完全に失脚だ。
「千佳、怪我は大丈夫?」
手のひらと膝にでかでかと貼られた絆創膏を見ながら、遥が聞いた。
「平気だよ。ちょっと大げさすぎて恥ずかしい」
「そっか。――ごめんな。俺、約束したのに、またダメだった」
また。
その言葉に引っかかりを覚えた。
私たちを助けに来てくれたときにも、遥は「俺が千佳を守るって約束したのに。俺は、また……」と言った。
また。
つまり、今回の件以前に、遥が「ちか」を守れなかったことが少なくとも一度はあったということだ。
でもその「ちか」は私じゃなくて、チーだ。
前髪をそっと撫でつける。
――これはねぇ、わたしとはるかのひみつなの。
私にはないあの傷と、なにか関係があるんだろうか。
チーと遥だけの、私は知らない秘密が。
そう思ったら不意に泣きそうになった。
チーとカー。
私たちは二人で一人。一人なら半分。だけど、チーは私が知らないものをたくさん持っていた。チーは、きっと一人でもちゃんと「一人」だったんだ。
半分だったのは私だけ。
嘘つきで、ニセモノで、どうしようもない、私だけ。
――やめて。
「千佳?」
立ち止まった私に、遥が振り返った。
「……遥」
夕日が沈んだ空は、夜に備えて暗さを増していく。世界は色を失って、白と黒。モノクロに落ちていく。私だけが取り残されていく。
いやだ。やめて。チーはどこ? チーは――。
「私ね、ずっと遥のことが好きだったの」
そうだ。チーは私のなかにいる。
だから、遥と一緒にいると、胸が甘くときめいたり、締め付けられるように痛んだりするんだ。それこそが、チーが私になかにいる証拠だ。
チーが私のなかにいるから――だから、私は遥に恋をしたんだ。
この恋は、私の恋じゃない。
「――俺も」
遥は笑って答えた。そう答えると分かっていた気がする。
よかったね、チー。
これで、ちゃんとチーの初恋が叶ったよ。
――わたし、はるかのこと大好きなの。世界でいちばん、大好き。
「えええっ! いま⁉ このタイミングで⁉」
瑞希の声が夜空にこだました。
******
「ダメ。もう転校しましょう」
学校から連絡があったママは、取り付く島もなく言い張った。
「ママ。私は大丈夫だから」
「いやよ。だって千佳ちゃん、怪我してるじゃない」
ママは、まるで自分に痛みが移るのを恐れるように、びくびくしながら私の膝の絆創膏に視線をやった。
「そんなひどいところに千佳ちゃんを通わせるなんて、ママにはできない」
両手に顔を埋めてわっと泣き出したママが、なんだかいつもと違って見えた。
今まではママの不安や悲しみは私の心に繋がっていたけれど、今日は、ママの感情と私の感情は完全に切り離されていた。ママが、母親という生きものじゃなく、一人の人間に見えた。
「ママ」
母親みたいな声だった。
「私、友達のために頑張ったの。それに、私を助けてくれた人もいる。あの学校で、そういう大切な人たちができたの」
立場が逆転したみたいだった。ママが子どもで、私が母親。
「だから私、転校なんかしたくない」
私がそう言うと、ママの両手がずるりと滑って、膝の上に落ちた。
「……パパと相談します」
ママが、こんな騒ぎになっても二階の書斎から出てこないパパのもとに行って、私は一人、リビングに取り残された。
ようやく人心地ついて、ほうっと息を吐く。今日は本当に大騒ぎの一日だった。
でも……私は今日、チーの初恋を叶えるという目的を達成できたんだ。
よかったね、チー。これで……私のこと、許してくれる?
そのとき、まるで返事をするように家の電話が鳴って、私は飛び上がった。
私は、ママに「変な人からの電話だったら大変だから」とか「家にかかってくるのはママかパパのお仕事の電話だけだから」とか言われて、家の電話には出ないように、と言われていた。
パパの書斎にも子機があるはずだけど、話し合いが混迷を極めているのか、着信音は鳴りやまない。大切な電話だったら困るし……と、私はそうっと受話器を取った。
「もしもし」
私がそう言うと、受話器の向こうで息を飲む音がした。
「……もしもし?」
もしかしてこれが「変な人からの電話」なのかな、と思って、受話器を耳から離したとき、
「カー?」
という声がした。その一言に、全身の毛穴がぶわっと開いた。呼吸が早くなる。
「……チー?」
震える声で呼びかけた。この世界から消えてしまったチーは、もう私のなかにしかいないと思っていたのに。まさか――どこかにいるの?
「あんた、カーなの?」
これは――と思ったとき、階段を駆け下りる足音が聞こえてきた。まずい。
「おばさん! おばさんでしょ?」
私が叫ぶのと同時に、ママの手が伸びてきて電話を切った。しんとしたリビングには、私とママの弾む息の音だけが残った。
昼休みに私たちの話を聞き、遥がいないときを狙ってこんな計画を実行したんだろうけれど、遥は約一時間の『石倉ゼミ』が終われば来るって言っていたのに。
そんな当たり前のことさえ分からなくなるくらい、女王様は狂ってしまった。
「お前らこそ、道徳の教科書でも読んだほうがいいんじゃねーの? 少しは性格マシになるだろ」
「ち、違うの。遥くん、これは、その、ちょっと、ふざけてただけで」
もごもごと言い訳を口にする吉田さんを押しのけて、遥は私たちに歩み寄った。
「……二人とも、大丈夫?」
遥に手を借りて立ち上がると、チリっと手のひらと膝が痛んだ。見ると、うっすらと血がにじんでいる。さっき転んだときに擦りむいたみたいだ。
「ごめん、あたしのせいで、チッカが」
瑞希の顔は真っ青で、その手はまだかすかに震えていた。
「な……なんか私たち、ちょっと悪ノリしちゃったかな? 澤野さん、近藤さん、ごめんね。ほら、二人も謝って」
いつもの完璧なスマイルを取り戻した吉田さんが、私たちに向かって手を合わせる。西岡さんと伊東さんも「ごめんなさぁーい」と頭を下げた。どうせ、下を向いたその顔には薄ら笑いが浮かんでいるんだろうけど。
「……ふざけてただけ、なんだ?」
「そうなの、ホントにそんなつもりなくて――」
「じゃあこれから俺もふざけるわ」
え、と思った瞬間、遥持っていたプリントの束が、床に散らばった。
そして、遥が近くにあった机を思い切り蹴飛ばした。思わず仰け反ってしまうくらいの大きな音が響き渡る。
「いいよな。俺もちょっとくらい悪ノリしたってさ」
吉田さんたちは身を寄せ合って、言葉なく目を見開いている。
こんなときなのに、遥が浮かべた笑みに背筋がぞくっとした。
怖いほどの美しさ、とはまさにこのこと。そこにあるのは、純度百パーセントの怒り。
「瑞希ちゃんにひどいことしたんだろ」
ガン! と椅子が飛ぶ。
「千佳にも怪我させた」
ゴトン! と机が倒れる。
校舎に残っていた数少ない生徒たちが騒ぎを聞きつけたらしく、廊下がざわつき始めた。
「は、遥くん。やめて……ね、お願い」
吉田さんは遥のブレザーの裾をそっとつまむと、うるうると潤んだ目で見上げると、小さく首をかしげた。
あれは、(おそらく)吉田さん必殺のあざといポーズだ。
吉田さんのような可愛い女子にあんなふうにされたら、普通の男子はイチコロだろう。けれど、遥は普通じゃない。「特別」だ。
遥は、吉田さん渾身のあざとさを一瞥して、あっさりと振り払った。
「ごめんね。――先に謝っとくわ」
にっこり笑って、倒れていた椅子を蹴飛ばした。
上目遣いを続ける吉田さんのすぐ横を掠めて壁にぶつかるとすごい音がした。西岡さんが、ひっ、と声を漏らす。
「遥、もういいよ」
吉田さんたちなんてどうなっても構わないけれど、遥がいまこの状況の責任を問われることになるのは嫌だった。この人たちは、私たちが知らないところで存分に不幸になればいい。
「よくない。俺が千佳を守るって約束したのに。俺は、また……」
遥は絞り出すような声でそう言って、少しうつむいた。
「私は大丈夫だから。瑞希も、もう平気?」
大暴れの遥にフリーズしていた瑞希も、こくこくとうなずいた。
床に落ちたままの吉田さんのスマートフォンを拾い上げて、差し出す。画面に小さくヒビが入っていたけれど、素知らぬふりをした。これくらいは許されるはずだ。
「ロック解除して。瑞希の写真、全部消すから。いま撮ったのも昔のも全部」
吉田さんは憎々しげににらみつけてきたけれど、私の後ろに立つ遥ににらみ返されたらしく、慌ててスマートフォンを操作した。
中にあるデータを消したところで、どこからかまた手に入れることなんて簡単だろう。それでも消したかった。少なくとも、吉田さんたちの手の中に瑞希のかけらを残しておきたくなかった。
「――消した」
「見せて」
「消したって言ってるんだからいいでしょ!」
「確認もせずに信じられると思う?」
抵抗する吉田さんに焦れた遥が、吉田さんからスマートフォンを奪い取って私に渡した。私が画面に指を滑らせると、吉田さんが、あ、あ、とうろたえたような声を出した。
「……やだ、なにこれ」
顔を引きつらせてそう言うと、瑞希と遥が横からのぞき込んで、同じように顔を引きつらせた。
画面にずらりと並んでいたのは、瑞希ではなく、小学校、中学校、そして星山高校、各時代の遥の写真だった。
半そで半ズボンで鉄棒にぶら下がってる姿、運動会のリレーでの姿、学ランで応援団をやっている姿、遠足で友達とお弁当を食べている姿、文化祭でドラキュラの仮装をしている姿など、いまとは少し違う、いろんな遥がそこにいた。
学校内の姿だけじゃなく、コンビニで飲み物を選んでいたり、信号待ちしながらスマートフォンをいじっていたり、本屋で立ち読みしているたりする、校外での遥の姿もあった。
恋する女の子の隠し撮り、なんて可愛らしいものじゃなく、これはもはやストーカーの域だ。
「気持ちわりぃ……」
遥が思わず、といった様子で呟いた。私は遥の昔のアルバムを見ているようでちょっと楽しいけれど、本人にしてみたらそうなるよね……と、ちょっとかわいそうになる。
「この写真、どうしたの?」
「べ、別にいいでしょ! 私は遥くんのこと好きだったんだから、写真くらい……」
私はさらに指を動かして、メッセージアプリの画面を開いた。
「……これ見て」
そこには『一枚500、二枚800、三枚なら1000でいいよ』『じゃあ三枚』『おけ』というやり取りがあって、そのあとに三枚の画像データが送られていた。
データを開くと、それは遥の画像で……。
「あ」
「うわっ」
よりによって体育前にジャージに着替える途中の、上半身裸の遥が映っていて、慌てて目を逸らす。なんてものまで撮ってるんだ! 顔が熱くなって、心臓が爆速で音を立てる。
「これってつまり……吉田さんは遥の写真を誰かに売ってたってこと?」
私がそう呟くと、遥と瑞希、さらに西岡さんと伊東さんも一歩後ずさって、吉田さんから距離を取った。
「絵里奈ちゃん……?」
「ち、違うよね? だって絵里奈ちゃん、藤原くんのこと好きだって言ってたじゃない。だから、あたしたちも協力したのに」
「これは……その……」
吉田さんは、助けを求めるように右へ左へ視線を動かして、出来損ないの引きつったスマイルを浮かべる。
「違うの。みんなが私の好きな人を知りたいって言うから見せたら、カッコいいね、その写真欲しいって言われて……譲ってただけで」
「けっきょく売ったってことだろ。お前、まじで最低だな」
遥がため息をついたとき、廊下のざわめきを切り裂く足音がして、塚本先生が姿を現した。机と椅子が散乱した教室をぎろりと見回したあと、
「澤野、説明しなさい」
と、なぜか私に言った……。
******
塚本先生による事情聴取が終わって廊下に出た私たちは、ホッと大きく息をついた。
「あー……最悪だった」
遥がこぼした一言が、私たち全員の気持ちそのものだった。
「あの、ごめん」
瑞希が私と遥に向かって頭を下げた。
「前にちょっとだけ話したけど、うち男兄弟ばっかでさ。あたしも男みたいに育てられたんだ。小学校まではそれでよかったんだけど、中学になったとき、気が付いたらみんなは、なんていうか『女の子』になってた」
彩りよりも食欲を満たすことを目的にした、いつも茶色ばっかりの瑞希のお弁当を思い出した。
「服装とかメイクだけじゃない。使ってるシャンプーとか、ハンカチの柄とか、髪を結うゴムとか、そういうとこがもう、あたしとぜんぜん違ってた。変えたいって思ったけど、親も兄弟も『まだ子どもなんだしそのままでいいじゃん』しか言わなくて」
瑞希はそのときのことを思い出したのか、ちょっと唇をとがらせた。
「せめて仲間に入りたくてお調子者キャラなんかやってみたんだけど、めっちゃ空回りしちゃって、みんなに煙たがられて、無視されて、一人になって、三年になったときから教室に行けなくなっちゃった」
私が知っている瑞希は、いつもウザいくらい元気で明るくて、人のテリトリーなんかお構いなしにぐいぐい距離を詰めてきて、怒ったり笑ったり大忙しで――。
瑞希が語る過去と、私が知っている瑞希は、うまく結びつかないけれど、それでも、その二つは間違いなく繋がっていて、近藤瑞希という一人の人間なんだ、とそんな当たり前のことに気付く。
「ずっと変わりたかった。だから、あたしのことを知ってる人が誰もいないこの学校に入って、全部なかったことにして新しく生まれ変わろうって決めて頑張った。嘘ついて、ごまかしていればそのうち、こっちのあたしが『本当』になるって信じたかった」
オレンジ色の爪。ミルクティーベージュの髪。灰色のカラーコンタクト。短いスカート。
あの派手な格好はきっと、瑞希の決意表明だったんだ。
「でも、入学式でチッカのスピーチに感動したっていうのは本当なの。それだけは信じて。あたし、あれ聞いて、あたしだって、って思ったの。だから……チッカの友達になりたかった。ずっと嘘ついてて、迷惑かけて、ごめんなさい」
瑞希がもう一度、深く頭を下げた。ぎゅっと握りしめたスカートのチェックが歪んでいる。
「瑞希は嘘なんかついてないよ。いまの瑞希も、昔の瑞希も、ぜんぶ『本当』でしょ。迷惑をかけてきたのは向こうだし」
そう言った私の隣で、遥も笑った。
「瑞希ちゃんは、俺と千佳の大事な友達だからさ。ああいうときは怒らせてよ」
「遥は、ちょっとやり過ぎ。反省して」
「……ごめん」
私たちのやり取りに、瑞希はようやく笑った。握りしめていたスカートのチェックがほどけて、揺れた。
「でも……助けに来てくれてありがとう。嬉しかった」
遥は塚本先生にこっぴどく叱られて、反省文の提出を命じられた。あれだけ大暴れして、それだけで済んだのは奇跡的でもある。
「お前が悪いとは言わない。しかし、暴力的な解決はあまりに短絡的だ。そこは反省するように」
懇々と遥に言い聞かせる塚本先生のレンズの奥の目は、いつもよりずっと柔らかかった。
融通が利かない厳しいだけの教師かと思っていたけれど、あれでなかなか硬軟織り交ぜた優秀な教育者なのかもしれない。
「それにしても、チッカ、なんであの女が写真を売ってるって気付いたの?」
「うーん、なんだろう。女の勘ってやつかな」
瑞希と遥が、へえ、すごいね、と言い合っている横で、私はホッと息をついた。
実は、吉田さんの秘密を知ったのは、瑛輔くんからの情報だった。
――吉田絵里奈って名前、どっかで聞いたって言ってたろ? それ思い出したんだよ。実はね。ぴーちゃんのためにゲットした遥くんの写真の出どころが、その吉田って子なんだ。一枚五百円で買ったんだってよ。
「チーの代わりに初恋を叶える」というミッションの協力を頼まれた瑛輔くんは、探偵事務所でバイト経験のある後輩に、遥の現状調査を依頼していた。その過程で手に入れた遥の写真が、吉田さんから手に入れたものだった、というわけだ、。
とんだところで私と吉田さんが繋がっていたものだ。世の中って狭いな、と実感する出来事だ。
それから、なんとかして吉田さんのスマートフォンを手に入れられないかと思いあぐねていたけれど、遥や瑞希という証人もいるところで中身を確認できたのは、本当に運がよかった。
吉田さんは、おそらく最低でも停学処分。これで女王様は完全に失脚だ。
「千佳、怪我は大丈夫?」
手のひらと膝にでかでかと貼られた絆創膏を見ながら、遥が聞いた。
「平気だよ。ちょっと大げさすぎて恥ずかしい」
「そっか。――ごめんな。俺、約束したのに、またダメだった」
また。
その言葉に引っかかりを覚えた。
私たちを助けに来てくれたときにも、遥は「俺が千佳を守るって約束したのに。俺は、また……」と言った。
また。
つまり、今回の件以前に、遥が「ちか」を守れなかったことが少なくとも一度はあったということだ。
でもその「ちか」は私じゃなくて、チーだ。
前髪をそっと撫でつける。
――これはねぇ、わたしとはるかのひみつなの。
私にはないあの傷と、なにか関係があるんだろうか。
チーと遥だけの、私は知らない秘密が。
そう思ったら不意に泣きそうになった。
チーとカー。
私たちは二人で一人。一人なら半分。だけど、チーは私が知らないものをたくさん持っていた。チーは、きっと一人でもちゃんと「一人」だったんだ。
半分だったのは私だけ。
嘘つきで、ニセモノで、どうしようもない、私だけ。
――やめて。
「千佳?」
立ち止まった私に、遥が振り返った。
「……遥」
夕日が沈んだ空は、夜に備えて暗さを増していく。世界は色を失って、白と黒。モノクロに落ちていく。私だけが取り残されていく。
いやだ。やめて。チーはどこ? チーは――。
「私ね、ずっと遥のことが好きだったの」
そうだ。チーは私のなかにいる。
だから、遥と一緒にいると、胸が甘くときめいたり、締め付けられるように痛んだりするんだ。それこそが、チーが私になかにいる証拠だ。
チーが私のなかにいるから――だから、私は遥に恋をしたんだ。
この恋は、私の恋じゃない。
「――俺も」
遥は笑って答えた。そう答えると分かっていた気がする。
よかったね、チー。
これで、ちゃんとチーの初恋が叶ったよ。
――わたし、はるかのこと大好きなの。世界でいちばん、大好き。
「えええっ! いま⁉ このタイミングで⁉」
瑞希の声が夜空にこだました。
******
「ダメ。もう転校しましょう」
学校から連絡があったママは、取り付く島もなく言い張った。
「ママ。私は大丈夫だから」
「いやよ。だって千佳ちゃん、怪我してるじゃない」
ママは、まるで自分に痛みが移るのを恐れるように、びくびくしながら私の膝の絆創膏に視線をやった。
「そんなひどいところに千佳ちゃんを通わせるなんて、ママにはできない」
両手に顔を埋めてわっと泣き出したママが、なんだかいつもと違って見えた。
今まではママの不安や悲しみは私の心に繋がっていたけれど、今日は、ママの感情と私の感情は完全に切り離されていた。ママが、母親という生きものじゃなく、一人の人間に見えた。
「ママ」
母親みたいな声だった。
「私、友達のために頑張ったの。それに、私を助けてくれた人もいる。あの学校で、そういう大切な人たちができたの」
立場が逆転したみたいだった。ママが子どもで、私が母親。
「だから私、転校なんかしたくない」
私がそう言うと、ママの両手がずるりと滑って、膝の上に落ちた。
「……パパと相談します」
ママが、こんな騒ぎになっても二階の書斎から出てこないパパのもとに行って、私は一人、リビングに取り残された。
ようやく人心地ついて、ほうっと息を吐く。今日は本当に大騒ぎの一日だった。
でも……私は今日、チーの初恋を叶えるという目的を達成できたんだ。
よかったね、チー。これで……私のこと、許してくれる?
そのとき、まるで返事をするように家の電話が鳴って、私は飛び上がった。
私は、ママに「変な人からの電話だったら大変だから」とか「家にかかってくるのはママかパパのお仕事の電話だけだから」とか言われて、家の電話には出ないように、と言われていた。
パパの書斎にも子機があるはずだけど、話し合いが混迷を極めているのか、着信音は鳴りやまない。大切な電話だったら困るし……と、私はそうっと受話器を取った。
「もしもし」
私がそう言うと、受話器の向こうで息を飲む音がした。
「……もしもし?」
もしかしてこれが「変な人からの電話」なのかな、と思って、受話器を耳から離したとき、
「カー?」
という声がした。その一言に、全身の毛穴がぶわっと開いた。呼吸が早くなる。
「……チー?」
震える声で呼びかけた。この世界から消えてしまったチーは、もう私のなかにしかいないと思っていたのに。まさか――どこかにいるの?
「あんた、カーなの?」
これは――と思ったとき、階段を駆け下りる足音が聞こえてきた。まずい。
「おばさん! おばさんでしょ?」
私が叫ぶのと同時に、ママの手が伸びてきて電話を切った。しんとしたリビングには、私とママの弾む息の音だけが残った。