朝の行進と昼休みのゴミ箱事件は、私を呼び出した南川さんによってひどく感動的に脚色され、砂糖とはちみつで漬け込んだチョコレートくらい甘い物語となって星山高校を駆けめぐった。

「これで入学式のうわさなんか完全に吹き飛んじゃったね」

 放課後に部室に向かいながら、瑞希がケラケラと笑う。

「他人事だと思って好き勝手言わないでよ」

 いつの間にか、ゴミ箱から上履きを見つけ出した遥が私の前にひざまずいて、シンデレラよろしく履かせたらしい、なんておかしな話になっている。
 うわさに尾ひれや背びれがつくのはまだ分かるけど、これじゃあ魚とプテラノドンくらい別物だ。

「いいじゃん。俺が千佳に言い寄られて困ってるってうわさより、こっちのほうがまだ真実に近いんだし」

 さもなんでもないように言う遥をちらりと見る。
 遥は吉田さんが私の靴を隠したかもしれないって知ってたはずなのに。
 わざとらしく手伝いを申し出たり、あざとくハンカチで顔を拭ってきたりする吉田さんを、どうしてああも簡単に受け入れたのか。
 吉田さんがかわいい女の子だから? 小学校と中学校が同じだから? それとも――吉田さんに、なにか「特別」な気持ちがあるから?
 遥に聞けば答えは返ってくるかもしれないけれど。だけど……それは私の知りたい答えじゃないかもしれない。
 どうして? どうして? と、不安ばかり心に積もっていく。 

「あれ、一年生は明日、試験じゃなかったっけ? みんなずいぶん余裕があるね」

 部室のとびらを開けると、相変わらず部屋の隅っこで本を読んでいた桐原先輩が声をかけてきた。
 呼んでいるのは今日もアガサ・クリスティ。
『予告殺人』……ミス・マープルか。私はポワロのほうが好きだけど。

「部長っていつ来ても絶対いますけど、友達とか彼女とかいないんですか」

 桐原先輩の驚異的な人脈を知らない遥が、ぶっきらぼうに言う。

「ははは。そんな冷たいこと言わないでくれよ、遥くん。僕たちは今日、仲間のために走った同士じゃないか」
「ぶちょーは見てただけでしたけどねー」
「ちっちっちっ。優秀な探偵は自分の手足を使わないのだよ」
「そんなことより瑞希も遥も、勉強しないの?」

 放っておけばいつまでも喋り続けそうな三人に割って入る。

「あっ、そーだった! あたし、ずぅえーったいあいつらには負けないんだから!」
「あいつら?」

 桐原先輩が首をかしげる。

「チッカの靴を隠したやつらですよ! 前からずーっと嫌いだったけど、今回のでもう大っ嫌いになった! こうなったらあたしらは正攻法で、つまり成績でけちょんけちょんにしてやるんだから!」
「はあ、それで前日の追い込みに来たわけだ」
「そうですよ。チッカは一位を死守! 遥くんは五十位以内、あたしは、あいつらより上の順位! これが今回の目標です!」

 顔を真っ赤にさせて怒ってるわりには現実的な提案だった。

「ほらほら、チッカも遥くんも、早く早く!」

 会議テーブルの真ん中に座った私の右隣に瑞希、左隣に遥。これが部室での私たちの定位置だ。

「じゃあ……もう時間がないし、各自苦手な教科とか、分からないところを集中的にやったほうがいいと思う。分からないところはすぐ聞いて。時間を無駄にしないこと。いい?」

 おっけー、と、了解。二人がそれぞれに返事をして、私も参考書に視線を落としたそのとき、部室のとびらが開いた。

「あの、ここ、文芸部の部室って聞いたんですけどぉ……」

 英語のリーディングに集中し始めていた意識が、聞き覚えのある声に引き戻される。

「あ、澤野さん、近藤さん。遥くんも」

 ひらひらと手を振っているのは吉田さんだった。その後ろには、いつものように西岡さんと伊東さんが控えている。

「あたしたち、文芸部に入ろうと思って来たんだ」
「……へー、どうして?」

 驚きで固まっている私をよそに、部長である桐原先輩が興味深そうに聞き返す。

「昼休みにみなさんが困ってる仲間のために協力し合うのを見て、なんかすっごく青春だなーって感動しちゃって。だから、私たちもそんな素晴らしい部に入りたいなって思ったんです」

 吉田さんは感極まったように胸元を押さえて、うるうると潤んだ目で先輩を見上げた。
 女の私から見てもすごくかわいい。その裏にあるものさえ知らなければ、頬の一つでも赤らめているところだ。

「ダメに決まってるでしょ!」

 瑞希が立ちあがって三人をびしっと指さした。

「こいつらがチッカにひどいことをしたんだから!」
「それって証拠はあるの?」

 吉田さんたちじゃなく、桐原先輩の発言だった。

「証拠もなしに犯人扱いはできないよね。推定無罪。罪が確定するまではみんな無罪として扱うべしっていうのが原則だよ」

 桐原先輩のそばで、吉田さんが勝ち誇ったように微笑んでいる。

「でも……こいつらはチッカの靴のありかを知ってたんでしょ? それって」
「私たち、職員玄関で生徒の上履きを靴箱に入れてる人を見ただけだもん。誰かは分かんなかったけど。あれが澤野さんのだったんだね」

 びっくりだよねー、と言いながら、西岡さんと伊東さんと顔を見合わせてうんうんうなずいている。

「そんなの、ぜんぶ嘘じゃん!」

 机の上に置かれた瑞希の手がぶるぶると震えていた。

「嘘だっていう証拠はないよ。それに、特段の理由なく、入部したいという生徒を拒むことはできない。遥くんだってそう思わない?」

 急に矛先を向けられた遥は、ちらりと瑞希を、そして私を見た。

「……そうですね。理由もなく、断るのはよくないと思います」

 吉田さんの笑みがぐっと深くなる。勝利を確信した女王様の笑みだ。
 桐原先輩と遥が言っていることは正しい。仕方ないことだって分かってる。
 だけど、遥は「だったら俺は辞めます」とか言って私を守ってくれるかもって、勝手に期待していた心が、裏切られたと感じて痛み出す。

「やっぱり入学式のスピーチがよくなかったんじゃない? あれ、みんな怒ってたもの。だからってこそこそ靴を隠すなんて最低。私、そういう卑怯なやりかたする人って大嫌い」

 吉田さんが私に慈愛に満ちた笑みを向けてくる。

「私たち、いろいろ誤解もあったけど、これからはよろしくね。澤野さん」

 差し出された手を取らないわけにはいかなかった。私を侵食するように、吉田さんの体温が伝わってくる。

「いま一年はテスト前で部活動禁止期間だからね。入部届はテスト明けでいいかな。ああ、部室を使うのは構わないよ」

 大丈夫です、と答えた三人が私たちのもとに突進してくる。

「うわー、みんな勉強してるんだ」
「ねえ澤野さん、あたし分かんないとこあるんだけどぉ」
「あ、ずるーいあたしも!」

 西岡さんが私と遥の間に、伊東さんが私と瑞希の間に割り込んで、矢継ぎ早に質問をぶつけてくる。

「ちょ、ちょっと待って」

 二人が差し出す問題集の文言に目を通す向こうで、吉田さんが遥に話しかけているのが見えた。
 かわいらしい完璧なスマイルを浮かべた吉田さんの指先が遥のブレザーに触れた。 

「ねえ、小学校のとき――」

 そんな声が聞こえた。
 氷を飲みこんだように、身体の真ん中が急に冷たくなった。
 吉田さんのなかには、私も、チーも知らない遥がいる。小学校三年からの六年間、さらにいまも続く想いがある。
 チーのたった数ヶ月の初恋と、私の一ヶ月かそこらのニセモノの想い。
 その二つを足しても、吉田さんの想いには届かないのかもしれない。

「ねえ、ちょっと澤野さん。ボーっとしてないでよ。テストは明日なんだから」
「あ……ゴメン」

 私はハッとして、問題集に集中しようとする。だけど、どうしてもその向こうの二人の姿に意識が引っ張られてしまう。

「これは、この公式を使うんだけど……」

 吉田さんの笑い声が弾けたのにつられて視線が上がる。
 遥が笑っていた。
 世界を鮮やかに彩るその笑顔を、吉田さんに向けている。

「やだぁ、遥くん」

 吉田さんの手が、遥の肩に、腕に触れる。
 やめて。やめて。
 喉の奥で叫ぶ私の声が、あの日(・・・)の声に重なる。
 ガタン、と椅子が鳴って、ぼやけ始めていた世界の輪郭が戻ってきた。

「あたし帰る」

 瑞希は机の上に広げたばかりの教科書とノートをカバンに突っ込むと、部室を飛び出していった。

「なにあれー。感じ悪―い」
「澤野さんもさぁ、あんまり近藤さんと付き合わないほうがいいよ。あんな派手なカッコしてる人ってぜったい遊んでるもん」
「そうそう。もしかしたら、遥くんに近付くために澤野さんを利用してるんじゃない?」

 西岡さんと伊東さんが、瑞希の悪口を言うたびに、私の心は少しずつ冷静さを取り戻していった。そして、ゆらりと怒りが立ち上がる。
 瑞希のこと、なんにも知らないくせに。 

「……あなたたち、勉強する気ないなら帰ってくれる? 私だって暇じゃないの。この学校で誰にも負けるつもりなんかないって言ったでしょ」

 部室の空気がぴりっと緊張をはらんだ。
 遥がじっと私を見ている。心のなかまでのぞき込むようなその視線を跳ね返すように、にらみ返した。

「誰かを煽るためでも、失敗して焦って口走ったわけでもないの。あれは私の本心だから言ったの。バカにするのは勝手にしてもらっていいけど、邪魔だけはしないで」

 私は机の上を片付けると、部室を出た。
 しばらく行ってから振り返ったけれど、遥は追ってこなかった。
 駅の近くでようやく、ベンチに座り込んでいる瑞希を見つけた。派手な格好もこういうときは役に立つものだ。

「瑞希」

 声をかけると、瑞希は膝に乗せたカバンをきゅっと抱きしめた。

「……あんなの、ひどいよ」

 言葉の最後と丸まった背中が、かすかに震えた。

「遥くんもぶちょーもみんなひどい。なんでひどいことして笑ってられるの?」
「瑞希。自分が言ったこと忘れたの?」
「……え?」

 瑞希が顔を上げる。アイラインがにじんで黒ずんだ目元はまるでパンダみたいだ。

「行こう」

 私は瑞希の手を握って強引に立ち上がらせると、引っ張って歩き出した
 いつかのハンバーガーショップに入ると、きょろきょろとイートインスペースを見回す。

「先に来てるって言ってたんだけどな……」
「ねえチッカ。門限あるって言ってたじゃん。もう帰らないとヤバくない?」

 私の後ろでオロオロする瑞希は、子供みたいに不安そうな顔をしている。
 店内の奥でひときわカラフルな人が私たちに向かって手を挙げた。

「瑛輔くん」

 ブルーのツンツン頭、リアルな月がプリントされた穴だらけの黒いトレーナーに、膝小僧丸出しのジーンズを身に着けた瑛輔くんに、瑞希が「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
 今日の瑛輔くんのスタイルは地味なほうだし。自分だって負けず劣らず派手な格好してるくせに。

「お待たせ、瑛輔くん」
「ぴーちゃん、一応俺だって忙しいんだから、急に呼び出されても困っちゃうんだけど」
「でも来たじゃない」
「そりゃあ、予定外の授業ってことで報酬も弾むって言うし? うわさのお友達にも会ってみたかったし」

 瑛輔くんが瑞希に、どうぞ座って、と促すと、瑞希はおそるおそる腰を下ろした。

「この人、チッカの知り合い?」
「私の家庭教師」
「ええっ、これで⁉」

 まあ……そりゃ驚くよね。瑛輔くんはなにをどう勘違いしたのか、照れたように頭を掻いている。

「こんな見た目だけど、家庭教師としては優秀だから。教えてもらって損はないよ」
「教える?」
「明日のテスト、私は一位、瑞希は吉田さんたちには負けない。正々堂々、けちょんけちょんにしてやるって自分で言ったじゃない。それに……鼻っ柱に一発お見舞いしてやらないと、私も気が済まないし」

 瑞希の頬がゆっくりと紅潮していく。

「チッカ……」
「ほらほら時間ないんだから。瑛輔くん、ママにはうまく言っておいてよね」

 私が早口でそう言うと、瑛輔くんは笑いをかみ殺しながら「へいへい」と答えた。

******

「千佳ちゃん、先生に会うならおうちでいいじゃない。どうしてもお外じゃなきゃダメだったの? しかも、ファーストフードのお店なんて……」
「ごめんなさい。明日のテストが不安だって無理に私が頼んだから、先生もなんとか時間を作ってくれて、そこで会うしかなかったの」

 瑛輔くんからも、そして私からも何度もした説明をもう一度繰り返す。けれど、ママはちっとも納得してくれない。

「ねえ千佳ちゃん。ママと約束したわよね? 遅くなるなら部活は辞めるって」
「今回のことと部活は関係ないよ」
「でも……高校に入ってから千佳ちゃん変よ。いままではママの言うこと、ちゃんと聞いてくれたのに」

 そうしないとママが不安そうな顔をするからだ。
 私がママの手のなかにいて、じっとしているとき以外、ママはずっと不安そうだ。
 私が学校にいるあいだ、ママはどんな顔をしてこの家にいるんだろう。
 ふと、そんなことを思った。

「ごめんなさい。もうこんなことはしないから、安心して」
「……安心なんかできるわけないでしょう」

 ママはため息と一緒にそう呟いた。

「ママはずっと心配なのよ。もしかしたら千佳ちゃんがあの子みたいになってたかもしれないんだから」

 ママが私を抱きしめる。生温かい体温にぞくりと肌が粟立つ。

――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう。

 汗ばんだ肌にべたべたとなにかがまとわりついてくる。潮のにおい。私をきつく抱きしめるママの腕。ぴかっと光って、どぉんとお腹に響く音。白と黒が交互に繰り返される。パパの怒鳴り声。やめて。やめて。やめて。

「チーは?」

 出てきたのは、五歳の私の声。ママの体がびくりと跳ねた。

「チーは、どこ?」
「千佳ちゃん!」

 がくがくと身体を揺さぶられ、ようやく目の前のママに焦点が合う。ああ、また心配そうな顔をしている。
 私の嘘のせいだ。
 私が嘘つきだから。
 私の嘘が、みんなから大切なものを奪ってしまったんだ。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 私の謝罪はどこにも行けない。ただ私の中に沈んで降り積もっていく。
 その夜は、チーのことを書き記したノートを抱いて眠った。
 眠っているあいだに、チーそのものであるこのノートが私に溶けて、目が覚めたら私がチーになっていればいいのに、と思って目を閉じたのに、朝になっても私は私のままで、チーのノートはまたマットレスの下に押し込まれた。