大騒ぎの朝が過ぎると、私の学校生活はあっさりと平穏を取り戻し、無事に昼休みを迎えた。

「ねー、チッカ。このままでいいの?」
「お弁当食べたら購買に行って、新しいの買うつもりだけど」
「上履きじゃなくて、チッカと遥くんのこと!」

 瑞希が箸先をぴしりと私の鼻先に突き付ける。

「もう告っちゃえばいいじゃない。ぜぇーったいうまくいくよ。あたしが断言する」
「瑞希じゃあてにならない」
「やだなー。恋愛関係において、あたしの右に出る者はいないんだから」

 箸で突き刺した拳大(こぶしだい)の唐揚げを食べながら、瑞希はふふん、と鼻を鳴らした。

「今朝のチッカと遥くん、もうマジでラブラブだったじゃん。逆にあれで付き合ってないほうがおかしいって」

 今朝のことを思い出すたびに、心臓は甘く速度を上げた。そのたびに私は「違う」と呟いてブレーキをかける。
 予定していたよりずっとうまくいってる。
 このままいけばきっと、チーの初恋は叶うだろう。
 目的達成。
 これでいい。そのために、私はここに来たんだから。
 私が、一口サイズの梅しそチーズチキンカツに刺さったハートのピックをもてあそびながら「そうだね」と言ったら、瑞希はぱあっと嬉しそうな顔をした。

「よっしゃ! チッカの覚悟も決まったし、最高の告白シーンを考えなきゃね。あっ、チッカのビジュアルも磨かなきゃ! うう、恋愛マスターの腕が鳴るぜっ! こうなってくると明日テストとかまじウザっ! 一日だって待ってられないのにさぁ」
「そういうのは私のタイミングでやるものでは……」
「さ、澤野さん!」

 突然割って入ってきた声に、私と瑞希が振り返る。その声の主は、いままで話したこともないクラスメイトの南川(みなみかわ)さんだった。

「あ、あのっ、大変なの!」

 南川さんは、廊下のほうを指さした。
 いや、大変って言われても……と、私と瑞希が顔を見合わせていると、南川さんはじれったそうに私の腕をつかんだ。肌に食い込んでくる指のかたちに、ぞわりと鳥肌が立つ。

「藤原くんが大変なの!」

 遥の名前が出てきたせいで、鳥肌が一瞬にして引っ込んだ。

「遥がどうしたの?」
「藤原くんが、学校中のゴミ箱ひっくり返してるの!」
「は?」
「とにかく来て!」

 食べかけのお弁当をそのままに、私は立ち上がった。遥の上履きをぺたん、ぺたん、と鳴らして精いっぱい急ぎながら、私は南川さんのあとを追った。
 瑞希も巨大な唐揚げを口に放り込んで、目を白黒させながら私に続く。

「ちょっと、遥! なにしてるの?」

 連れていかれたのは、二階の渡り廊下。
 小さすぎるスリッパを履いた遥は、ゴミ箱に顔を突っ込むようにして中をのぞいていた。
 足元には中から取り出したらしい丸まったティッシュやプリント、お菓子の袋、空のペットボトルなどが散らばっていた。
 その周囲には、各学年のギャラリーがドーナツ状に集まっている。

「ん? 千佳の靴、探してる」

 ゴミ箱から顔を出した遥はそう言って笑った。
 柔らかそうな髪の毛が乱れて、ところどころにホコリがまとわりついている。
 いったいどれくらいのゴミ箱を探したんだろう。

「靴なら新しいの買うから。だから、遥がそんなことしなくても」
「俺、そういうの嫌いなんだよ」

 遥は、ワイシャツの袖をまくり上げたむきだしの腕で額をぬぐった。

「ズルいやつの思い通りになるのって、なんかムカつくから」

 私のことを言われているようで、胸がチクリと痛む。

「……でも」
「大丈夫だって。きっとどっかにあるから」
「あたしも一緒に探す!」

 出がけに放り込んだ唐揚げのせいで、まだ口をもぐもぐさせている瑞希が、ぴん、と手を挙げる。

「あー、じゃあ瑞希ちゃんは、そっちのゴミ箱お願いしていい?」
「オッケー、まかせといて!」
「……そんなことしなくていい!」

 私が叫ぶと、みんなが動きを止めた。アイラインとマスカラで縁取られた瑞希の目が、少しだけ泣きそうに歪んだように見えた。
 遥は、じっと私を見つめている。

「私は――」

 そんなことをしてもらえる資格なんかない。
 そうでしょう、チー。
 だって――。
 だって私は――。

「大丈夫だよ」

 遥の声がした。世界を鮮やかに彩る遥の、優しい声。

「約束したろ。俺が、ずっと千佳のことを守るって」

 その「ちか」は、私じゃなくてチーだって分かってる。
 だけど、遥は私の心をふわふわ柔らかくするから。
 私が受け取るべきじゃない優しさを、受け入れてしまいそうになる。

「あたしだって、チッカの大親友だもん。困ってるときは助けるに決まってるじゃん!」

 瑞希はゴミ箱の蓋を開けると、今朝、自慢げに見せてきたベージュピンクの指先をためらいなく突っ込んだ。

「うえー、なんかベタベタするー」
「がんばろうぜー」
「おー」

 二人の姿を見ながら立ち尽くしていると、

「ねえ澤野さん、遥くんも近藤さんもなにか探してるの?」

 いつの間にやって来たのか、吉田さんが私のそばにいた。

「――吉田さん、お願い。私の靴、どこにあるのか教えて」

 吉田さんの唇がゆっくりと弧を描く。楽しくて仕方ない、みたいに笑う。

「どうして私に聞くの? へんなの」
「それは、あなたが」
「私が?」

 威嚇するような視線が私を貫いた。
 不正解。これは女王様の望む答えじゃない。

「遥くんたち、かわいそう。澤野さんのせいであんなことになっちゃって」

 見ると、瑞希と遥はまた別のゴミ箱を開けて、中をのぞきこんでいた。

 笑いながら二人を指さし、スマートフォンを向けて動画か写真を撮っている人までいる。
 やめて。やめて。やめて。

「お願い。吉田さんだって遥にあんなことしてほしくないでしょ? ねえ、お願い」

 ううん、と人差し指の先を顎に当てて、吉田さんは首をかしげた。

「そういえば……西岡さんがなにか言ってたような気もするけど。ごめんね、よく覚えてないの。西岡さんなら教室にいるから、聞いてみたら?」
「分かった。……ありがとう」

 私は、吐きすてるように礼を言って、教室に向かって走り出した。
 ぶかぶかの靴のせいで走りにくい。階段を一段上るのさえモタついてしまう。

「西岡さん!」

 教室に飛び込んできた私を見て、西岡さんは笑いをこらえるようにしながら、なんでもない風を装った。

「澤野さん、そんなに慌ててどうしたの?」
「吉田さんに聞いたんだけど、私の靴をどこかで見かけた? 教えてほしいの」
「ええ? どうだったかなぁ」

 右に、左に首をかしげながら、西岡さんは「ええとね」「ちょっと待ってね」を繰り返した。
 早く! と急かしたいのを、ぎゅっと手を握って堪えた。

「あっ、そうだ。それって伊東さんが言ってたんじゃなかったかな。やだなぁ、絵里奈ちゃんったら。いつもはしっかりしてるのに、たまーにおっちょこちょいなんだから」
「……じゃあ、伊東さんはどこにいるの?」
「うーんと、トイレだったかなぁ。あっ、カッコいい先輩を見に、二年生の教室に行くって言ってたっけ。それか体育館に忘れ物取りに行ったかな? ちょっと頭痛いって言ってたから保健室かもしれないなぁ」
「そう。ありがとう」

 踵を返すと、私は教室を飛び出した。情報に信憑性はないけれど、いま手掛かりはそれだけだ。
 トイレをのぞいたけど、伊東さんはいなかった。
 二年生の教室は四階。階段を上るのに手間取るのがもどかしくて、途中で脱いだ。

「伊東さん!」

 カッコいい先輩とやらがどのクラスか分からないので、廊下で呼んでみたけれど、見慣れない二年生たちが怪訝そうに私を見ただけだった。
 両手に上履きをぶら下げた一年生が、靴下で仁王立ちして「伊東さん!」なんて叫んだのだから、当たり前だけど。
 全クラスを一つずつ周るのは時間がかかる。他にも行かなきゃいけないところがあるのに……。
 自分があまりにも無力で、どうしようもなくて、情けなくて、視線が下に落ちる。
 しょせん、私にできるのは、ろくでもない嘘をつくことだけなんだ。

「あれ、千佳ちゃん?」

 聞き覚えのある声がして顔を上げると、桐原先輩が驚いたように私を見ていた。

「こんなところでなにやってるの? それにその足元っていうか、手に持ってるものっていうか……いろいろツッコミどころが多いけど」
「先輩……」

 切羽詰まったこの状況で、いつもと変わらないものを目にしたせいか、なんだか泣きそうになって、鼻の奥がツンと痛んだ。

「ほうほう。そりゃあ大変だ。……ちょっと待ってて」

 私に伊東さんの特徴を聞いた先輩は、通りすがりの生徒を数人捕まえて、なにかを話した。

「よろしくね」

 先輩のその一言で、生徒たちは「オッケー!」とあちこちに散らばっていった。

「その伊東って子がいるかもしれない場所に行ってもらったんだ。念のため、他の場所も探してもらうよ。見つかったら連絡をくれるから、僕らは遥くんと瑞希ちゃんのところに行こうか。二人がゴミまみれになる前にね」

 私がぽかんとしていると、桐原先輩はくすっと笑った。

「僕ってけっこう顔が広いんだよ」

 私と桐原先輩が渡り廊下に戻ると、野次馬はあらかたいなくなっていた。
 遥と、なぜか吉田さんが二人で散らばったゴミを片付けている。二人の姿を見た瞬間、胸がぎゅうっと締め付けられたように痛んだ。

「千佳。あれ、部長までなにしに来たんですか?」

 私に気付いた遥が笑ったけれど、世界はいつものように鮮やかには色づかない。

「後輩のピンチだって聞いたからね。瑞希ちゃんは?」
「近藤さんは手を洗いにトイレに行ったんです。ペットボトルに残ってたコーラがかかっちゃったんだって。だから私がお手伝いしてたの」

 吉田さんはそう答えたあと、遥のほうを見て「ね?」と同意を求めるように言った。

「あ、遥くん。ちょっと動かないで」

 小走りで駆け寄った吉田さんは小さく背伸びをして、遥の顔をピンク色のハンカチで拭った。体を支えるように、さり気なく遥の胸元に手を添えて。

「すっごい汚れてるよ」
「まじで?」
「うん。けっこうひどい」

 くすくす笑う吉田さんに「まじか」と言いながら鼻先を拭う遥。二人が並ぶ姿は、まるで少女漫画の表紙みたいだった。
――やめて。
 喉の奥で生まれた叫びは、チーじゃなく私のものだった。
 そのとき、桐原先輩のスマートフォンが音を立てた。

「お探しの彼女が図書室で見つかったみたい。職員玄関の使ってない靴箱で見たんだってさ」

 急にやってきた見知らぬ二年生に問い詰められたのだから、伊東さんもさぞかし驚いただろう。あっさりゲロったのもきっとそのせいだ。

「よかったね、澤野さん」

 職員玄関に向かう私たちに、吉田さんがにっこりと笑って手を振った。
 トイレから戻ってきた瑞希と途中で合流して、四人で職員玄関に行き、名札の入っていない靴箱をかたっぱしから開けた。
「これじゃない?」と、桐原先輩が取り出したのは、まさしく私の上履きだった。

「いやぁ、なんだか悪いねぇ。最後は僕がおいしいところを全部持ってっちゃったみたいで」
「……気に入らないのは確かですけど、見つかったならいいです」

 遥に上履きを返して、自分の上履きを履いた。
 これですべて元通り。
 だけど、これでもう遥のヨチヨチ歩きとも、ぺたん、ぺたん、というあの間の抜けた音も終わりだと思うと、ほんの少し寂しかった。

「よかったな」

 遥がそう言って私の頭をくしゃりと撫でた。まくり上げたワイシャツの袖口に、茶色い染みがついていた。

「あの……」

 私の口から掠れた声が出たとき、昼休み終了のチャイムが鳴った。

「うわ、やっべ! 俺、手ぇ洗いたかったのに」
「てか、ほとんどお弁当食べてないーっ! お腹すいちゃうよー」
「僕、教室四階なんだよね。間に合うかなぁ」

 けっこうピンチなのに、どこかのほほんとしている三人を見ていたら、なんだか胸が詰まってきゅっとした。

「あ、あのっ!」

 三人が振り返る。

「ありがとう、ございました」

 ぺこりと頭を下げると、ダサい上履きが目に入る。こんなものを探してもらう必要なんかなかったのに。
 爪先がむずむずする。きっとぶかぶかから急にピッタリサイズになったせいだ。

「どういたしまして」

 遥に手を取られると、私の身体は自動的に、その触れた体温に「特別」のラベリングをした。

「早く行こうぜ。マジでやばい」

 遥に手を引かれて、みんなで走り出す。
 胸がじんじんと熱を持ち始めていた。
 熱くて、溶けてしまいそうなくらいだった。