半年前――紗栄子が失踪してすぐ、学校に記者やライターが取材をと詰めかけてきたことがあった。森崎はその中の一人で、世間が目も向けなくなった後も、自宅や学校にしつこく押しかけてきた。両親が警察に相談して厳重注意をしてくれてここしばらくは合うことはなかったが、まさか学校の敷地内まで入ってくるとは想定外だった。
「な、んで……」
「今度、この学校のことを記事にするんですよ。その取材で中に入れてもらっているんです。以前とは違って、ちゃんと手続きを踏んでいるんで不法侵入じゃないですよー」
「…………」
「そんなに睨まないでくださいよ。こっちも仕事なんだから。でも、ちょっとだけ君のお姉さんの話も聞けたらいいなって思ってたところだったんですよね。ちゃんと学校に登校しているみたいでよかった」
心配していたと言わんばかりの口ぶりだが、へらへらと笑う表情からは反省の色は見えない。鈴乃には悪いが、先に教室に戻っていたほうがいい気がして、穂香は名刺を押し戻して踵を返した。
「姉のことでお話することはありません。失礼します」
「まぁ待ってよ」
森崎は穂香の腕を掴む。振り払おうとするが、耳元でそっと問われる。
「少しくらい話してくれたっていいでしょ? それとも、あの噂は本当なのかい?」
(噂……?)
「あれ、知らない? 不倫で駆け落ちしたって噂」
聞きたくない言葉に、穂香は思わず森崎を見た。歪んだ口元を見て、挑発に乗ってしまったことに気付いた。
「旦那は暴力を振るう奴で、家族仲も最悪。君も味方しなかったんだろ? 今でもネット掲示板でいろんな憶測が飛び交っているんだよ。結局どれが正解なの? 警察の事情聴取の様子とか、教えてくれると嬉しいなぁ」
「……もう半年も経っているんです。今更何がしたいんですか?」
「半年も経ったんだから、そろそろ答え合わせしたいんだよ。最近、河川敷でもスニーカーとジャケットが見つかったことはわかっているんだ。あれはお姉さんのものなんじゃないの? 俺の仮説はね、わざと自分で流したんだと思うんだよね。『もう二度と探さないで』って!」
人が失踪しているというのに、森崎はそれをいとも簡単に扱い、足蹴にしている。彼にとって他人だから、気にする必要などないとでもいうのか。
早くこの場を立ち去りたいと、じりじりと後ろに下がる穂香に、森崎は掴んだ腕をさらに強く掴んだ。逃がすつもりは毛頭ないらしい。
しかし、ここは学校の校舎内。近くにある購買室には、今も多くの生徒や教師が並んでいる。少しでも騒ぎが起きれば、多くの目に触れることになるだろう。それを懸念しているのか、森崎は掴む以上に強く出られずにいる。
(もう叫んでしまおうか……)
自分の身を犠牲にしてでも早く抜け出せるならそれに越したことはないし、気付いた人が状況を見て教師を呼んできてくれることを願った。
「自分が何を言っているか、わかっているんですか? あなたがしているのは答え合わせなんかじゃない、ただの誹謗中傷です」
挑発に乗った手前、少しでも引っかかるようなことを言えば、声を荒げて注目の的になればいい。そう思って告げたのが失敗だった。
森崎は掴んだ腕にさらに力が込めて、煽るように嘲笑った。
「だって盛り上がったほうが楽しいでしょ? 結果として死んでいても、俺が殺したわけじゃないし」
言葉が出なかった。
本当に同じ人間として生きているのかと疑いの目を向ける。森崎の性根は腐っていると思うと怒りが沸々とこみ上げてきた。キッと睨みつけた穂香を煽るように、森崎がまた大きく口を歪ませたのを見て吐き気がした。自分勝手すぎるこの屑に、思う。
(……なんで人の不幸を笑える人がいるんだろう。なんで失踪した人の行方を面白がる人がいるんだろう。なんで嘘を正しいものだと勘違いするんだろう。なんで……なんでなんでなんでなんで!)
なんでこんな奴が、息を吸ってのうのうと生きているんだろう、と。
半年前――紗栄子が失踪してすぐ、学校に記者やライターが取材をと詰めかけてきたことがあった。森崎はその中の一人で、世間が目も向けなくなった後も、自宅や学校にしつこく押しかけてきた。両親が警察に相談して厳重注意をしてくれてここしばらくは合うことはなかったが、まさか学校の敷地内まで入ってくるとは想定外だった。
「な、んで……」
「今度、この学校のことを記事にするんですよ。その取材で中に入れてもらっているんです。以前とは違って、ちゃんと手続きを踏んでいるんで不法侵入じゃないですよー」
「…………」
「そんなに睨まないでくださいよ。こっちも仕事なんだから。でも、ちょっとだけ君のお姉さんの話も聞けたらいいなって思ってたところだったんですよね。ちゃんと学校に登校しているみたいでよかった」
心配していたと言わんばかりの口ぶりだが、へらへらと笑う表情からは反省の色は見えない。鈴乃には悪いが、先に教室に戻っていたほうがいい気がして、穂香は名刺を押し戻して踵を返した。
「姉のことでお話することはありません。失礼します」
「まぁ待ってよ」
森崎は穂香の腕を掴む。振り払おうとするが、耳元でそっと問われる。
「少しくらい話してくれたっていいでしょ? それとも、あの噂は本当なのかい?」
(噂……?)
「あれ、知らない? 不倫で駆け落ちしたって噂」
聞きたくない言葉に、穂香は思わず森崎を見た。歪んだ口元を見て、挑発に乗ってしまったことに気付いた。
「旦那は暴力を振るう奴で、家族仲も最悪。君も味方しなかったんだろ? 今でもネット掲示板でいろんな憶測が飛び交っているんだよ。結局どれが正解なの? 警察の事情聴取の様子とか、教えてくれると嬉しいなぁ」
「……もう半年も経っているんです。今更何がしたいんですか?」
「半年も経ったんだから、そろそろ答え合わせしたいんだよ。最近、河川敷でもスニーカーとジャケットが見つかったことはわかっているんだ。あれはお姉さんのものなんじゃないの? 俺の仮説はね、わざと自分で流したんだと思うんだよね。『もう二度と探さないで』って!」
人が失踪しているというのに、森崎はそれをいとも簡単に扱い、足蹴にしている。彼にとって他人だから、気にする必要などないとでもいうのか。
早くこの場を立ち去りたいと、じりじりと後ろに下がる穂香に、森崎は掴んだ腕をさらに強く掴んだ。逃がすつもりは毛頭ないらしい。
しかし、ここは学校の校舎内。近くにある購買室には、今も多くの生徒や教師が並んでいる。少しでも騒ぎが起きれば、多くの目に触れることになるだろう。それを懸念しているのか、森崎は掴む以上に強く出られずにいる。
(もう叫んでしまおうか……)
自分の身を犠牲にしてでも早く抜け出せるならそれに越したことはないし、気付いた人が状況を見て教師を呼んできてくれることを願った。
「自分が何を言っているか、わかっているんですか? あなたがしているのは答え合わせなんかじゃない、ただの誹謗中傷です」
挑発に乗った手前、少しでも引っかかるようなことを言えば、声を荒げて注目の的になればいい。そう思って告げたのが失敗だった。
森崎は掴んだ腕にさらに力が込めて、煽るように嘲笑った。
「だって盛り上がったほうが楽しいでしょ? 結果として死んでいても、俺が殺したわけじゃないし」
言葉が出なかった。
本当に同じ人間として生きているのかと疑いの目を向ける。森崎の性根は腐っていると思うと怒りが沸々とこみ上げてきた。キッと睨みつけた穂香を煽るように、森崎がまた大きく口を歪ませたのを見て吐き気がした。自分勝手すぎるこの屑に、思う。
(……なんで人の不幸を笑える人がいるんだろう。なんで失踪した人の行方を面白がる人がいるんだろう。なんで嘘を正しいものだと勘違いするんだろう。なんで……なんでなんでなんでなんで!)
なんでこんな奴が、息を吸ってのうのうと生きているんだろう、と。
怒りがこめられた目をする敷島に睨まれると、森崎は汗をにじませ、ガタガタと震え上がった。これ以上は言い返す気力もない、ただ恐怖で怯える蛙のようだった。そのだらしない姿を前にして、容赦なく敷島は固めた拳は大きく振りかぶった。ハッタリなどではない。渾身の力を込めて、本当に森崎を殴ろうとしている。
「敷島くん、待って――」
慌てて穂香が手を伸ばそうとするが、これで留めてくれるとは到底思えない。どうすれば彼を止められるのかと考えていると、横から誰かが追い抜いていく。
「敷島ぁ!」
森崎に向かって拳が振り下ろされる――その瞬間、敷島の動きがピタリと止まった。
見れば、近くにいた男子生徒が数名束になって、しがみつくようにして敷島を押し戻そうとしていた。敷島も途端に我に返る。振り上げた腕を間一髪で森崎の鼻先すれすれで止めたのは、あの新田だった。
「落ち着けよ! 暴力はダメだって!」
「……離せよ。コイツは一発殴らねぇと気が済まねぇ」
「この人が藤宮を殴ったところは動画に撮ってあるから! 先生ももうすぐ来る! 今殴ったら、全部お前のせいになるぞ!」
「でも!」
「そんなことしてる暇があるなら、藤宮を連れてどっか行け!」
「そうだそうだ! 手当てしてやれ!」
「早く行けよ! 女子の顔に傷残ったら、俺らがお前をぶん殴りに行くからな!」
新田だけでなく、周りの男子生徒からも野次が飛ぶ。すると、こっそり逃げようとする森崎に、周囲にいた男子生徒が逃がさないようにと掴みかかった。廊下の奥から「先生、こっちです!」と女子の声とともに数名の慌ただしい足音が聞こえてくる。
敷島が横目で困惑の表情を浮かべる穂香を見て、小さく舌打ちをした。
「……っ、悪い!」
新田が手を離した瞬間、敷島は穂香の手を取って走り出す。
穂香は振り返ろうとするが、歩幅の違う敷島に引っ張られるまま走るので精一杯だった。後ろから教師の怒鳴り声とともに森崎の悲鳴が響いたが、聞こえないふりをしてただまっすぐ走った。
保健室に逃げ込んだ二人に、保険医の中原先生は珍しい組み合わせだとたいそう驚いた。
事情を説明すると、慌てて穂香を座らせて手当てに移る。出血してはなかったが、熱を帯びているようで、念のため保冷剤をハンカチにくるんで上から冷やすように渡した。かすめた場所からじりじりと痛みを感じると、穂香は顔をしかめる。掴まれた腕も痛みはなかったがうっすらと赤くなっていた。
「これで様子見るしかないわね……気になるようなら、病院行ってらっしゃい」
「はい、ありがとうございます」
「さて、どうしようかしら。教室に戻ったらまた厄介なことになりそうね。葉山先生に連絡するから、ちょっと待ってて」
中原先生はそう言って、内線電話から電話をかける。ここに来る途中も、騒ぎは大きくなっていたのを考えると、職員室に人がいるか怪しい。
それをよそに、残された二人の間にはなんとも気まずい空気が流れた。
「あ、あの、助けてくれてありがとう、敷島くんは怪我してない?」
「…………」
いたたまれない空気に耐え切れずに穂香から切り出すが、敷島はムッとした顔のまま、無言で見てくるだけ。
「敷島くん?」
「……なんで」
「え?」
「なんで庇った? 避けようと思えばできただろ」
それはそうかもしれないけど、と言いかけて止める。
敷島の瞳が揺れて、心配そうに眉をひそめる顔を見てしまうと、適当な言い訳は通用しない。
「ひ、引っ張った反動で、つい」
「体格の差を考えたらそうなるってことくらいわかるよな。本当は?」
「それは……」
ふと、敷島の後ろにあるデスクで電話をしている中原先生の姿が視界に入る。まだ通話中だが、話している内容が聞こえてしまうかもしれないと思うと、穂香は躊躇って視線を逸らした。
敷島はそれを察したのか、小さく溜息をついてから無理やり穂香の顔を自分のほうへ向けて、再び問う。
「俺の左耳が聞こえてないこと、いつから気付いてた?」
冬の寒空の下でも、公園に遊びに来た園児たちは楽しそうに追いかけっこや遊具に夢中になっている。鼻先や頬が赤くなってくる頃には、保育士の号令で集まって列になって園に戻っていく。
賑やかで微笑ましい様子を横目に、穂香と敷島は入れ替わるようにして公園に入っていった。
「ガキって公園で遊ぶんだな」
「え? 普通でしょ?」
「ちょっと前まで外出禁止だっただろ」
「ああ、そっか。でも友達と会えなかった分、外で遊べることが楽しいんじゃないかな」
静まった公園には、遊んだまま残された砂の山や、ブランコが不規則に揺れている。
近くのベンチに横並びで座ると、穂香はリュックからランチバッグを取り出す。敷島も、道中にあったコンビニで買ったおにぎりとお湯の入ったスープカップをそっと置くと、一度手を合わせてから食べ始めた。ビニール袋には梅と鮭のおにぎりがそれぞれ入っており、少し迷ってから梅のほうを取って食べ始める。途端に顔をすぼめたので、梅の酸っぱさに驚いた様子だった。
穂香もスープジャーの蓋を開けて、湯気の立つスープをすくった。今日は珍しく洋食にしたこともあって、具材がたっぷり入ったミネストローネに、ペンネパスタを加えてある。ボリュームもあり、おにぎりを作る手間が省けるので重宝している。
「藤宮って、旨そうに食うよな」
「へっ⁉」
「つか、毎日作ってんの?」
「う、うん。汁物は朝ごはんと一緒だから、大体味噌汁だけど」
「十分だろ。俺はいつもコンビニだし。……それにしても、ひどいよな。昼飯を食わせてから追い出せばいいのに」
「でも敷島くん、購買で買う予定だったんでしょう?」
「まぁな。確かに、一度コンビニに行かせるくらいなら帰したほうが学校側は楽か」
悪態をつきながら、おにぎりの包装を器用にはがして一気にかぶりついた。
学校で騒ぎを起こした森崎はその後、教師数名がかりで抑え込み、警察に連行されていった。
半年前、藤宮穂香に取材をしたいと言ってきた記者らに対し、学校側は名刺をすべてもらって一覧表を作り、すぐ追い返せるように準備をしていた。
それを懸念していたのだろうか、今回取材と評して入校を許可した事務員によると、偽名で伝えられていたことから、半年前に突撃してきたジャーナリストの一人と気付かなかったという。
顔写真でも撮っておけば防げた可能性はあると、保健室にやってきた葉山先生は穂香に頭を下げ、学校の指示で二人はそのまま早退することになった。
人目を避けるように車で駅まで送られると、敷島は穂香から「お昼を一緒に食べないか」と誘われた。
さすがに学校の近くで飲食店に入るのは憚れたので、話せる場所を探すことになった。途中の駅で下車し、コンビニで敷島の昼食を買って自然公園を見つけ、今に至る。
飲食店に入らなかったのは、穂香が昼食を持ってきていることを知った敷島が提案したことだった。
「まさか冬に外で飯を食うことになるとは」
「そうだね、雪が降ってなくてよかった」
二人ともコートを着ているからと言って、完全に寒さをしのげているわけではない。
食べ始める前に、敷島は自分のマフラーをひざ掛けがわりにと穂香に渡す。最初は拒んだが、「こっちが困る」と言って聞かず、仕方なしに借りることにした。ミネストローネなので、慎重に食べなければならない。
「でも本当に良かったの? お店のほうがよかったんじゃ……」
「二人のほうが話しやすいだろ。……それに俺、まだ聞いてないんだけど」
おにぎりとスープを平らげた敷島は、穂香をじっと見て再び問う。保健室で問われた言葉に対して、穂香は口を閉ざしたまま答えていない。
「俺の中ではもう吹っ切れていることだし、藤宮にもいつか言うつもりだった。……それに、耳が聞こえていたら、お前が庇うことも傷つくこともなかった」
悔しそうに唇を噛む。頬に負った傷は、冷やしたことで落ち着いたが、それでもうっすらと赤く線が残っている。
穂香はスープジャーの蓋を閉めて、敷島と向き合った。
「確信はなかったの。なんとなく気付いたのは診療所で診察が終わって戻ってきたとき、かな。いつも私の左側に座るのが気になってはいたんだけど、敷島くんの表情は変わらなかったから、たまたまだと思うようにしてた」
「そっか。じゃあ完全に聞こえてないって思ってなかったんだな」
納得した、と小さく安堵した。敷島は食べ終えて袋にゴミを詰め込みながら続ける。
「左耳が聞こえなくなったのは、小学校に上がった頃。ある事件に巻き込まれたストレスが原因なんだってさ」
敷島尚は六歳の頃、誘拐されたことがある。
その時は兄と喧嘩して家を飛び出した際、見知らぬ男に声を掛けられてそのまま車に乗せられたという。隙をついて逃げ出し、なんとか近くの民家に助けを求めて駆け込んだところで意識が途切れ、病院に運ばれた。
彼が目を覚ましたのは脱走から三日経った頃で、その頃はまだ辛うじて聞こえていたらしい。その後の検査でストレスによる一(いっ)側(そく)性(せい)難(なん)聴(ちょう)と診断され、小学校を卒業した頃には完全に聞こえなくなってしまった。
「補聴器を付けていたらいろんな人が勘違いする。心配されるのも嫌でやめたんだ。聞こえない分、視力と嗅覚で補って、それでもカバーできない分は知らないふりをした。誰かが好き勝手につけた『一匹狼』ってのも、そのせいなんだろうな」
一年前の文化祭で敷島は、当時三年生の女子生徒からの猛烈なアプローチを完膚なきまでに無視し続けたことがある。ようやく目が合って話をしても、悪びれもなく『どちら様ですか?』と言い放った話は、学校中に根強い印象を与えた。
しかし、もし彼女が常に敷島の左側から話しかけていたとしたらどうだろう。
一側性難聴は、片方の耳が通常に機能していても、周りの騒音で聞き取りにくいときがあるのだという。さらに敷島の長身であれば、女子生徒の声も届かないことだってある。敷島は本当に、彼女の存在を知らなかったのだ。
「あの人には悪いことをしたと思うけど、難聴のことを話したところで下手に広められても困るから黙ってた。それに、一週間後には他校に彼氏作って俺に自慢してきたくらいだから、好意なんて初めからなかったんだよ」
「そんな……」
「だから正直、ホッとした自分がいる」
敷島はそう言って、諦めた顔で笑った。
「これでよかったんだよ。誰も近寄ってこなければ、たくさんの音が聞こえてくる。誰かと関わること自体、願うだけ無駄だと思ったんだ。外見は普通に見えて、何かが欠如している人間なんて世の中にはたくさんいる。……藤宮だって、本音で話せる相手がいなくなった途端、何も手に着かなくなったはずだ。こんなことになるなら、ひとりでいたほうが楽だったって思うときが少なからずあっただろ」
穂香は何も言えなかった。
灰色の夢の話を真摯に聞いてくれた紗栄子は直後に失踪した。穂香が話した本音を受け止めてくれた人が、途端に目の前からいなくなる恐怖は、いつ思い出しても恐ろしい。
それが失踪と関係していなかったとしても、いつも一緒にいた身近な人がいなくなるのは、心臓をえぐり取られた気分だ。だからこそ、家族や義兄、親友の前で灰色の夢の話を持ち出すなんてできなかった。
誰かに話したら、また大切な人が消えるんじゃないかと一度思ってしまえば、口になんて出せなかった。
「だから放っておけなかった」
「……え?」
「俺よりも複雑な事情があって嫌な思いをずっとしているのに、藤宮は周りが心配しないように平然を振る舞った。部活を辞めても、部員の奴らとお揃いのチャームを付けているのだって、続けたかった後悔よりも、部員が大切だったからだろ」
敷島の視線は、穂香の隣に置いてあるリュックにつけられたオレンジ色のチャームだった。二人が話すきっかけになったそれは、今も太陽の日差しに反射してきらめいている。
「多分俺は、周りに囲まれている藤宮が羨ましかったんだ。俺みたいにならないでほしいって、放っておけなかったからあの日、声をかけた」
「……私は敷島くんが孤立しようとしても、引き留めると思う」
敷島にすべて話せたのは、彼が真摯に藤宮穂香という、ひとりの人間を見てくれていたからだ。ならば、自分も敷島尚という人間と向き合うことだってできるはずだと、揺れた瞳を見て思う。
「その、上手く言えないんだけど……私は、ひとりになんてさせない。敷島くんが私を助けてくれたように、私も敷島くんの力になりたい」
(ああ、私の言葉はいつも拙いものばかりだ)
頑張れも大丈夫も、どれだけ励ましの言葉を並べたところで、嘘のように聞こえてしまえばそれまでだ。申し訳ないと思いながらも、敷島の目を見て今伝えられる精一杯の言葉を選ぶ。
「聞こえないこと、話してくれてありがとう」
「……お互い様だろ」
敷島は躊躇いがちにそう呟いて、視線を泳がせる。耳が真っ赤に染まっているのを見て、照れているのだと察すると、不意に笑みがこぼれた。
「笑うなよ」
「笑ってないよ」
「嘘つけ、お前の顔がにやついているときは大抵悪いことを考えてるときだっての」
「私、そんなに信用ない? やっと友達になれると思ったのに」
「はぁ? 友達になるならんは別問題だっつーの! ……つか、お前は友達だと思っていなかったわけ?」
「うっ……だっていつも同級生で済ますじゃん」
「同級生も友達も同じだろ! ……え、そんな他人行儀に聞こえんの?」
面倒臭ぇ、と頭を抱える敷島を見てふと、紗栄子が重なって見える。彼も本音を吐き出す場所がなかったのかもしれないと思った。
どんなに辛いことでも、本音を溜めておくほどのキャパは誰も持っていない。溜めて、溜めて、最後に吐き出すときに手遅れになっていてもおかしくはないのだ。
(……本音?)
ふと、頭をよぎったのは紗栄子の部屋だった。
秦野家の一室の、リビングとはまた違った温かみのある空間の中で、机の引き出しの奥に隠された彼女の日記にはその日あった出来事や心情が箇条書きで残されている。
しかし、それ以外に気持ちを書き記したものは見つかっていない。パソコンに残されている可能性も十分あるが、ならば毎日まとめていた家計簿や日記も、手書きで残す理由はないはずだ。
「藤宮? どうした?」
敷島が顔を上げて問う。そして、あることを思い出した。
「……敷島くん、まだ時間あるかな?」
「は? そりゃあるけど……どうした?」
「私、見落としてた。なんであの時、気付かなかったんだろう!」
穂香はリュックに乱雑に入れたランチバッグを詰め込んで背負うと、敷島の手を掴んで立ち上がらせる。
「お姉ちゃんの日記は一冊だけじゃない、まだあったんだよ!」
穂香は困惑する敷島の手を掴んだまま電車に乗り込み、最寄り駅で降りると、まっすぐ自宅へ向かう。思い出したことを簡単に説明したが、敷島の顔は眉をひそめたままだった。
自宅に着くと、穂香は階段を駆け上がった。学校から早退の連絡をしているはずだが、両親はともに仕事に出ている。この日に限ってパートの母親も遅番に入っているのは、今朝家を出るときに確認済みだ。
二階にある穂香の部屋の隣には、一年半前まで自宅から職場へ通っていた紗栄子が使っていた部屋がある。荷物はほとんどないが、実家に帰ってくるとその部屋を使っている。半年前に失踪して以来、誰もこの部屋に立ち入ったことはない。
「しばらく掃除してないから埃っぽいかも」
「それはいいとして、本当にその日記はあるのか?」
「多分。お姉ちゃんは、毎日書く短い日記とは別に、本音を書きこむノートを持っていたの」
幼い頃、穂香が友人と喧嘩して落ち込んでいた時、紗栄子が「本当はどうしたいの?」と問いかけてきたことがある。
言葉にするのを躊躇った穂香を見て、紗栄子はノートにしたいことを書き出してみてはどうか、とかわいらしいノートをプレゼントしてくれたのだ。『本音を口に出せないときは、書いてすっきりするの。私もやっているから試してみて』と、言われたとおりに実践した翌日、穂香は友人と無事に仲直りできたという。
「その方法を教えてくれたお姉ちゃんが、今も続けていないわけがないよ」
紗栄子の部屋のドアを開くと、あの頃と変わらない光景が広がっていた。
穂香は背負っていたリュックを床に置いて窓際に置かれた机に立つ。ラックに立てかけられた本や雑誌の中から、封筒を抜き取った。後ろから敷島もやってきて、『藤宮紗栄子』と大きく書かれた宛先を見て眉をひそめる。
「これってお前が最後にメッセージでやり取りした……?」
「うん。宛先も差出人もお姉ちゃんで、なぜか実家に送られてきた封筒。最初は書き間違えたって言っていたのを鵜呑みにしていたけど、本当は孝明さんに見せられないものだったんじゃないかな」
「見せられないもの?」
「孝明さんの家、一緒に行ったでしょ。お姉ちゃんのいない半年間、どの部屋も綺麗に保つことなんて、いくら掃除が好きな人でも難しいと思うんだ」
特に孝明は仕事に加え、休まずにチラシを配り、身近な場所を自分の足で探すほど多忙の中を親身になって紗栄子を探している。
しかし彼の家は塵一つもないほど綺麗で、整理整頓がきちんとされていた。一見、綺麗好きな孝明のことを考えると不思議ではない。
ただ、思っていることを溜め込んでしまう紗栄子のことだ。自分の醜い本音をノートに吐き出せたとして、それを堂々と部屋に置いておけば、孝明の目に入ってしまうとおもったのではないだろうか?
「だから日記を引き出しの奥に隠すようにしまい込んだ。でも問題は、本音を書きだしたノート。引き出しにまとめておくのは心配だし、本棚は論外。なら一番孝明さんの手が届かない場所といえば?」
「……そうか、滅多に来ない実家なら人の目は避けられる。でもお前や親御さんが見つけることだってあるだろ?」
「誰も触れないって自覚があったんじゃないかな。この部屋には、私や両親だけじゃなくて、孝明さんや警察も立ち入ってないから」
その頃に事件性があれば家宅捜索が入ったかもしれないが、ただの家出として扱われてしまっている。警察には穂香のメッセージのやり取りを見せてはいるが、気にも留めなかったのだろう。封筒は穂香がポストから取り出し、そのままラックに差し込んだ。――つまり、記憶の片隅で覚えている程度の、些細な動作だ。
「わざと忘れ去られるように仕組んだ可能性が出てきたな」
敷島が唸るように言う。
穂香は近くのペン立てに入っていたハサミで器用に封筒の口を開くと、中から一冊の分厚いノートが出てきた。表紙の縁にかわいらしい絵柄が書かれているノートを見て、思わずと大きく息を吐いた。
「やっぱり……お姉ちゃんの本音ノートだ」
中を捲っていくと、そこには紗栄子の心の叫びがつらつらと書かれていた。目も当てられないほど真っ黒なページが続く。ボールペンを無我夢中に走らせ、破った跡も残っている。
「仕事のこと、趣味のこと……全部が上手くいかないって、お姉ちゃんだけの問題じゃないのに」
「そういうもんだろ。自分がどうにかしなくちゃって思えば思うほど、底なし沼にハマっていくもんだ。なんでも簡単に飲み込めたら、きっとここまで書かなかっただろう」
目も当てられないほど乱雑に書かれたノートを捲っていくと、あるページに目を留めた。
『あの日聞いた「コーヘイ」の意味がようやくわかった。急に怖くなった。あの子はこのことを知らない。いや、知ってほしくない。なんてことをしてしまったんだろう。ただ人を好きになっただけなのに、また危険な目に遭わせたくないのに!』
「こーへい……? 人の名前?」
「藤宮、次のページ」
「え、う、うん」
考える間もなく、敷島に言われるがままページを捲っていく。
『全部調べた。これ以上は私がもたない。どうすることもできない。
六月一日にこのノートを実家に送る。誕生日の一週間前に手配したぬいぐるみにも入れるけど、気付かないでほしいと思う。
でも守りたかった。
いつかばれてしまうなら、嘘をついたままいなくなったほうがいい。二人とも大切な人だから。
穂香、お願い。思い出さないで』
「思い出す……何を?」
「……まさか」
敷島は顔を真っ青にしてノートを見入っていた。その焦った表情は、いつにも増して絶望しているようにも見える。
穂香はもう一度確認しようとノートに触れるが、敷島がその手を留めた。
「お前、もうこれ以上関わるな」
「え?」
「これはお前の姉さんが、お前を守るために隠したものなんだよ。実家に送ってきたのも説明がつく。藤宮、お前がなんの許可なしに封筒を開けるとは誰も思わない。もし親御さんが見つけても、お前には見せずに隠すか燃やして捨ててる。お前が知ったら、全部水の泡だ」
わなわなと震える敷島の表情は、怒りと後悔がにじみ出ていた。
「……いい。教えて」
「ふざけんな。行方をくらました理由はまだわからないけど、お前の姉さんが必死に隠してきたことは、藤宮にとって最悪な出来事なんだよ。怖い思いを二度と思い出させないように、ずっとずっと守ってきたんだ。お前はそれを無下にする気かよ!」
「それでも! 私のことが原因でお姉ちゃんがいなくなったのなら、私は知りたい。ううん、知らなきゃいけない。どんな結果になろうとも受け入れるって決めた!」
穂香の記憶と紗栄子の失踪が関係しているかは、そのノートをいくら探したところで明確な答えは出てこないだろう。
でも穂香はもう子どもではない。あと一年もすれば成人し、その数か月後には社会に出ていく。
隠された嘘があるとわかっていながら、真実を知らずに何事もなかったかのように生きていくことなどできやしない。
嘘に永遠などない。いずれ明かされる日が来るのだから。
「お願い。これ以上、お姉ちゃんを苦しめたままにしたくない」
「…………」
穂香の懇願に、敷島はしばらく睨みつけていたが、揺るがない彼女の目に諦めがついたのか、小さく溜息をついた。
「……ぬいぐるみ」
「え?」
「このノートに、ぬいぐるみにも入れるってあるだろ。きっとあのウサギだ。持ってきてくれ」
言われた通り、自分の部屋からウサギのぬいぐるみと手紙を持ってきて渡すと、敷島は手紙とノートを広げて言う。
「秦野孝明の話だと、思い悩んでいる様子があった時期が伊勢美月の話と重なる。もしかしたら秘密に気付いた、または状況が動いた時期だったんじゃないか?」
「時期……失踪の二週間前ってこと?」
「そう。秦野に対しての不安を伊勢に話していたことが以前からあったとしても、聞き手が喧嘩を連想するほどではなかったはずだ。……ちょうど思い悩む姿が見受けられた時期に、爆弾が落ちてきたとしたら?」
爆弾――そう言われて穂香は鞄に入れっぱなしにしていたメモ帳を開く。
昨日、三人の話で共通しているのは、紗栄子の変化を感じ取ったのは失踪する一、二週間前だったことだ。その間に連絡を取ったのは会社の人間以外いないという。
ならば、敷島の言う爆弾とは何か?孝明の変化を感じ取ったその時期に、紗栄子は誰と接した? どこに行っていた?
ふと、脳裏にある光景がよぎった。雨が強い夜、小屋に一人きり、顔がわからない人物。――実際に見た光景ではない。それでも、爆弾と呼ぶにはふさわしいと思ってしまった。
「お前が見る灰色の夢だよ、藤宮。お前が秦野紗栄子に相談した灰色の夢が、もし仮に本当にあったことだとしたら――答えがここに入ってる」
敷島はそう言って、ウサギのぬいぐるみを持ち上げた。
「ずっと気になってたんだ。ぬいぐるみに入っていた手紙にある『大事に持っていてね』――まるで子どもに言い聞かせているみたいだと思わないか。誕生日の一週間前に送ってくるところとか、天然にもほどがある」
「それは昔からで……」
「そこまで間違えるのは異常だろうけど、今回がわざとだとしたら?」
すると、敷島はウサギのぬいぐるみを掴んで腕、足、顔と、慎重に何かを探すように触れていく。
「いくら昔からだったとしても、間違えずに覚えておく方法はいくらでもあるだろ。現にノートには『誕生日の一週間前』としっかり書き残されている。だから、わざとショートケーキのいちごの日に届くように送ったんじゃないかって……あった」
ぬいぐるみの背中に触れたところで手が止まる。敷島はハサミを取ると、躊躇いもなくハサミで切り始めた。慎重に開いてみると、そこにはプラスチックの小さなケースが出てきた。中にはSDカードが入っている。
「……覚悟はいいか?」
神妙な顔つきの敷島に、穂香は小さく頷いた。