嘘つきは世界のはじまり

「ところで、最近はどう? 部活もそろそろ大会でしょう?」
「順調だよ。先発メンバーにも選ばれそう」
「本当? 大会の日、仕事じゃなかったら応援に行けたのに……」
「無理しないでいいよ。きっと今年は全国大会まで行けそうな気がするの。皆すごいから。私が足を引っ張っているくらいで……」
「……何か、あったの?」
 次第に表情が暗くなっていく穂香に、紗栄子は問う。親には相手にされなかったが、姉なら何かアドバイスをしてくれるかもしれない。躊躇いながらも切り出してみることにした。
「最近、その……同じ悪い夢を見て、それがちょっと」
「夢?」
 灰色に染まった世界で、小屋に閉じ込められる夢――雨音が次第に聞こえてきて、見知らぬ誰かが穂香へ手を伸ばしたところでいつも目が覚める。
 決まって目覚めが悪く、首元を絞められたような感覚が拭えない。鏡の前で首元を確認するうちに、いつしかタートルネックを着ることも、ネックレスやマフラーもつけられなくなっていた。
「こんな話をしてごめん。でもお母さんに話してもすぐに忘れるからって流されるだけで……」
 一通り話を終えると、紗栄子はどこか真っ青な顔色をしていた。自分の妹が夢で苦しんでいるなんてと憐れんでいるというより、罰が悪そうな顔だった。
「お姉ちゃん?」
「……ううん、ちょっと驚いちゃって。他には何か覚えていることはある?」
「今のところは特に。……ごめん、混乱させちゃうよね」
「いいのよ。穂香が少しでも楽になるなら、なんでも話して。それに嫌なことは楽しいことをして忘れるのが一番! 買い物が終わったら、新しくできたカフェのケーキを食べて帰りましょう」
 どうしていいかわからない夢の話を、まっすぐ受け止めてくれた紗栄子の優しさに、穂香は礼を言うと、また歩き始める。
 迫ってきた結婚式に胸を躍らせる紗栄子を前に、穂香は先程の神妙な表情を、見なかったことにした。

 ――それからしばらくして、紗栄子は失踪した。

 時間をかけて準備をしてきた結婚式が五日後に迫っていた、強い雨の降る六月のことだった。
 孝明が夜中に自宅マンションへ帰宅すると、玄関の電気がつけっぱなしなことに違和感を覚えた。揃えられた紗栄子のパンプスがあったので帰ってきているものだと思っていたが、まめな彼女が玄関の電気をつけたままにするのは珍しい。
 リビングに行くと、テーブルには仕事道具が入った鞄、食材の入ったエコバッグが机の上に置かれていた。買い忘れたものを思い出して外に出たかと思ったが、スマホも財布も鞄に入ったままだった。
 念のために会社へ確認すると、定時には退社していると言われてしまった。
 不審に思った孝明は、紗栄子の実家に連絡した。しかし、彼女が最後に帰ってきたのは数週間も前で、それ以降の連絡は取っていないと母親は告げた。
 ちょうどそこへ、風呂からあがった穂香が入ってきたようで、母親に聞いてもらうと、最後に連絡をしたのはメッセージでのやり取りで、三日前で止まっているという。特に他愛もない世間話だったため手掛かりにはならない。
 孝明は一度電話を切って、心当たりのある場所をひたすら探し歩いた。夜になって雨がさらに強くなる中、どこを探しても見つからない。
 捜索して二時間以上経ってから、仕方なしに警察に相談。本格的に捜索が開始されたが、それから一週間経っても進展はなかった。
 孝明は仕事の合間や有休を使って、心当たりのある場所を探した。父親も仕事をなるべく早く終わらせて、途中から捜索に加わった。
 その頃、紗栄子がいなくなったことを知らされた母親は、穂香に毎日のように「姉から連絡は来ていないか」と尋ねてくるようになった。そのたびに穂香が首を振るので、大きく肩を落とした。
 家族仲がこじれていたという事実はない。それでも母親が申し訳なさそうに聞いてくるのは、おそらく家族の中で姉と特に連絡を取り合っていたのが、妹の穂香だけだからだ。
 最後に連絡を取った、失踪する三日前の時点で特に変わった様子はなかったはずだ。
 ――いや、きっと顔を見てもわからなかった、と穂香は思う。
 紗栄子は悩みを人に言うことなく、いっぱいになるまで溜め込んで、最後に吐き出すタイプだった。
 次第に紗栄子が失踪した話は親戚だけでなく近所にも伝わり、ニュースにも取り上げられた。
 何か手掛かりが欲しいと、両親と孝明は情報提供をお願いするチラシを作っては駅前で配り歩く日々が続いた。しかし、周囲から向けられた言葉は厳しいものばかりで、中には紗栄子の失踪を楽しんでいるかのような考察がネット上で繰り広げられていた。
「スマホを置いていったのは、連絡がつかないようにしたかったからなんじゃないの?」
「社会人だし、人間関係で悩んでいてもおかしくない。旦那さんから暴力を受けていて、逃げ出したってこともありえるよ」
「本当は結婚したくなかったとか? よくあるでしょ、マリッジブルーだっけ?」
「きっと不倫して駆け落ちしたのよ。望まれた結婚じゃなかったんだわ」
「夜逃げしたってこと? それは誰にも言えないわねぇ」
「最後に連絡を取ったのが妹なんでしょ? だったら妹が嘘をついて匿っているんじゃない?」
 その言葉は皮肉にも、穂香の学校にも伝わった。
 興味本位で訊いてくる生徒が教室を訪れるたびに、穂香は無言を貫いた。ただでさえ、姉が失踪した事実を受け止めきれていないのに、容赦なく学校の前で新聞記者やフリーライターが穂香を待ち構える日々。さすがにこれ以上は他の生徒にも悪影響だと学校側が対応したが、穂香はしばらく学校に行くことを控えるほど大事になってしまった。
 さらに同じ頃、所属していた陸上部のインターハイが迫っていた。すでに先発メンバーに選ばれていた穂香は、練習でも思うようにタイムを伸ばせず、選手を辞退。それからすぐ退部を申し出た。誰も止められなかったのは、以前よりもやつれた彼女を、これ以上責めたくなかったからだ。

 穂香は、姉が自ら姿を消した意味が分からなかった。
 籍を入れて孝明と一緒に住むことになってからは、もっと料理を勉強したいと奮闘していたし、誕生日プレゼントは何を贈れば喜んでくれるのか、孝明の喜ぶ顔が見たいといつも楽しそうだった。
 なにより、結婚式当日に着るドレスを画面越しで眺めているときの横顔はとても幸せそうで、今でも忘れられない。式を誰よりも楽しみにしていたのは、間違いなく紗栄子だった。
 紗栄子は勝手にいなくなったりしない。――そう信じているのに、確証がない。
 警察の調べでは、紗栄子が孝明と仕事の関係以外に連絡を取っていたのは穂香と、高校の同級生の二人だけだという。様子が変わったことはないかと問われたとき、ふと、あの夢の話をした直後、紗栄子の様子がおかしかったことを思い出した。
「あのっ……!」
 穂香はそう言いかけて止める。夢の話をしただけで顔を歪ませたからと言って、彼女の失踪と関係があるとは考えられない。母親でさえ気にも止めなかった話だ。警察に話したところで失踪した理由に繋がるとは思えなかった。
「何かありましたか?」と一人が優しく問いかけるも、穂香は首を横に振った。
「いえ……なんでもありません」
 塞ぎ込んだ穂香を気に留めることなく、頭の上から溜息をつく声が聞こえた。
 それから毎晩、同じ灰色の夢を何度も、何度も見るようになった。
 雨が窓を叩く音も、埃まみれの小屋の匂いも、誰かに喉元を触れられる感覚も、日に日にリアルになっていく。
 灰色の夢の話をした姉はもういない。もし夢の話をしたせいで、行方知らずになってしまったのなら、これ以上誰かに話すわけにはいかなかった。
(ごめん、お姉ちゃん。私のせいだ)
 姉の失踪と、灰色の夢が関係している確証はどこにもない。それでも穂香にはどこかで繋がっている気がして、それがすべて自分のせいのような気がしてならなかった。
 朧気な意識の中で誰かが呼ぶ声が聞こえた。
 深く沈んだ水底から引き揚げられるように、穂香はゆっくり目を開ける。
 ぼんやりと視界に入ってきたのは、真っ白な天井とレールに釣り下がった薄ピンクのカーテン。微かにアルコール消毒のような匂いがする。起き上がろうとしても体が重く、なんとか目だけを動かして辺りを見渡した。
「起きたか」
 声がして目を向けると、安堵の笑みを浮かべた敷島尚の姿があった。
「気分はどう? 随分うなされていたけど……」
「……敷島、くん? なんで……」
 孝明と河川敷に行ったことまでは覚えているが、その後のことは覚えていない。今いる場所も、家ではないことは確かだ。敷島は穂香の顔を覗き込むようにして言う。
「お前、倒れたんだ。覚えてる?」
「倒れた……? ごめん、あまり覚えてなくて……でもなんで敷島くんが……?」
「十六時過ぎだぞ。ホームルームが終わって、ほとんどの生徒が放課後を満喫してる時間だ。俺があそこにいたのは偶然だよ」
 話によると、自宅の鍵を忘れて家に帰れないことに気付いた敷島は、河川敷近くに診療所を営んでいる伯父の家を尋ねるように父親に言われたらしい。そこへ向かっていた矢先、穂香が倒れたところに遭遇したのだという。
「さっきまで点滴してたくらいなのに、お前本当に気付いてなかったんだな。発熱してたのに雨に打たれるとか余計悪化したんだろ。ああ、着替えは伯母さんがやった。俺はただ、お前をここに運び込んで起きるのを待っていただけ」
 ベッドサイドに置かれたデジタル時計は十九時半を示していた。つまり、穂香が気を失って目覚める三時間以上もの間、彼は自分の隣で起きるのを待っていたことになる。
「秦野さんって人は帰らせたよ。親御さんにも状況報告してもらうついでにさ。ちゃんとこっちからも連絡して状況説明もしてある。今夜は泊まって明日俺が家まで送ることになってる。今日が金曜日で良かったな」
「……そっか」
「それと伝言。『迎えにいけなくてごめん』ってさ。いい親御さんだな」
「え?」
「お前の家、いろいろ大変なんだろ」
 何が、とはまで言わなかったが、敷島の言葉に穂香は視線を落とした。
 今の両親はボロボロだ。姉が失踪してから半年、ずっと帰ってくると信じて待っていた日々を、たった片足のスニーカー一つで無かったことにさせられてしまった。心の支えが折れかけている今、迷惑はかけられないと思っていた矢先だったのに。
 小さく唇を噛むと、途端に敷島は立ち上がった。
「腹は? 減ってるなら何か持ってくるけど」
「……ううん」
「そう。じゃあ飲み物だけ持ってくる。眠れそうなら寝てろよ」
「うん。ありがとう」
 部屋から出て行く敷島を見送って、穂香は布団に顔を埋めた。真っ白で慣れない場所で緊張しているのか、目を瞑っても眠れる気がしない。
 いや、何をしても眠れないと思った。
 目を閉じて浮かぶのは、最後に会った時の紗栄子の顔。夢の話をした直後に挙動不審になったあの姿を、やけにはっきりと思い出す。
 姉は何か知っていたのではないのか。
 確証はないけど、あの時もっと問い詰めていれば、失踪なんてしなかったのではないのか。――そんな世迷言を、何度考えたことだろう。
 頭に浮かんだ姉の姿を、灰色の靄が包むようにして隠していく。
(待って……やめて、連れて行かないで!)
 何度叫んでも、手を伸ばしても、靄はたちまち紗栄子を包み込んでいく。何もできない、ただ見ているだけの無力な自分に、穂香は唇を噛み締めた。
 ――きっと大丈夫。
 夢の中で聞こえた子どもの声が耳元で聞こえた気がして、ハッと目を開く。
 布団から顔を覗かせると、ちょうど敷島がスポーツドリンクをベッドサイドに置いたところだった。
「悪い、起こし……藤宮?」
「え……あ」
 手の甲で頬を拭えば、涙がこぼれていたことを知る。穂香は慌てて袖口で拭おうとするも、敷島はその手を掴んで止めた。
「泣いとけ。誰も止めないから」
「…………」
「涙が勝手に出てくるのは、限界だっていうサインだろ。だから無理に止めようとしなくていいんだよ。俺がいない方がいいなら部屋出るから――」
 敷島はそう言って掴んだ手を緩めると、穂香が震える手で握り返した。
「……い……かないで」
「藤宮?」
「いかないで……ここに、いて」
 熱で朦朧とする意識の中で、敷島が姉のように自分の元から去ってしまうような気がして、息苦しさを呑み込んで告げる。敷島は少しだけ考えて、穂香の手を自分の手で包んだ。
「どこにも行かない。だから安心して寝ろよ」
 ふっと微笑んで、敷島は空いている手で穂香の額に触れた。
 冷たい手が心地良くて、次第にゆっくりとやってきた睡魔に襲われた。毎晩見る灰色の夢も見ないほど、穂香は久しぶりに深く眠りについた。
 *

 翌朝、自然に目が覚めた穂香はゆっくりと起き上がった。昨晩のような気怠さもない。時計は朝の六時を指している。いつもより遅く起きたせいか、頭がすっきりしていた。
 ふと横を見ればベッドに顔を伏せて眠っている敷島の姿があった。肩には毛布が掛けられているが、ずり落ちそうになっている。いくら室内が温かくとも、十二月半ばにこの状態は風邪をひいてしまうかもしれない。
 毛布を掛けなおそうと手を伸ばすが、右手が動かないことに気付いた。自分の手がしっかりと敷島に掴まれているのを見て、寝る前の記憶がよみがえる。
(……そうだった!)
 思い出すだけで体温がかぁっと上がっていくのを感じる。体調が悪かったとはいえ、さすがに恥ずかしい。
 それでも敷島に風邪をひかせるわけにはいかない。空いている左手で少しずつ毛布を掛けなおしていると、小さくノックする音が聞こえた。
 穂香が答える前に入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。料理中だったのかエプロンを身に着け、腕まくりした腕には水滴が残っている。様子を見に来たようで、穂香が起きているとは知らずにカーテンを開くと、「あら」と驚いたそぶりを見せた。
「おはよう。ごめんなさいね、勝手に入って。気分はどうかしら?」
「は、はい、随分良くなりました。ご迷惑をおかけしてすみません。えっと……」
「尚の伯母で、(とも)()といいます。とりあえず熱計りましょうか」
 はいこれ、と体温計を渡される。片手で器用に脇に挟んでいると、その様子を見ながら彼女は問う。
「尚とはクラスが一緒なの? えっと……お名前を聞いてなかったわね」
「ふ、藤宮穂香です。敷島くんとは別のクラスで、授業でちょっと話すようになって……」
「穂香ちゃんね。いつも甥がお世話になっています。うちが近くて本当に良かったわ。最近はしっかり冷え込んでいるし、体調崩す子も多いわ。ウチはいつもそういう子たちを見ているから気にしないで」
 そういえば眠る前、敷島がここは診療所だと言っていたのを思い出す。毎日のように診察をしているとはいえ、診察終了後に急患が入ってきたのはさぞかし迷惑だったに違いない。影を落としたのが見えたのか、友恵は優しく穂香に声をかける。
「本当に気にしなくていいからね。尚が頼ってくれることなんて滅多にないから嬉しかったわ」
 話していると、脇に挟んでいた体温計が鳴った。取り出して確認すると、熱はすっかり下がっている。それを見て友恵は「きっと寝不足もあったのね。ここに来たよりもスッキリした顔をしているわ」と笑った。
 言われてみれば、姉が失踪してからの半年、学校に行きながらほとんどの家事を担っていた。母親の代わりに朝食を作り、帰ってきてから洗濯や夕飯の準備をする日々が続いていたのが浮かぶ。家事自体は特別なことではないし、母親もやっていたから、そこまで負担ではなかったはずだろうが、気持ちの面が強かったのかもしれない。両親を少しでも休ませたい、土日にチラシを配りに行かせてもらえない代わりに何かしなければと、自分から言い出したことだ。結局自己管理ができておらず、周りに迷惑をかける結果になってしまったらしい。
「心当たりがありそうな顔だな」
 低くかすれた声がした。先程まで眠っていた敷島が、大きく伸びをしながら上体を起こした。握られていた手も自然と離れていく。
「あらおはよう、尚」
「ん……」
「寝ぼけているわね……まぁいいわ。二人とも、朝ご飯は食べられるかしら? 一応雑炊にしようと思うのだけど」
「え、えっと……」
「食っとけ、藤宮。残った分は俺が食う」
 着替えてくる、と立ち上がった敷島は気怠そうに頭を搔きながら部屋を出ていった。その後ろ姿に友恵は小さく笑う。
「そうね、尚のお腹は頑丈だから沢山作っても大丈夫ね。食べられる分だけ食べてくれたらいいわ。できたらこっちに持ってくるわね」
「……ありがとうございます」
 友恵が部屋を出ていくと、穂香はベッドサイドに置かれた自分のスマホを手に取った。
 画面に表示された着信は、両親と鈴乃で埋め尽くされていた。鈴乃にいたっては、学校を早退した時から連絡を貰っていたのを思い出す。倒れていたとはいえ、さすがに悪いことをしたとは思う。
 しかし、鈴乃から送られてきたメッセージは数十件にまで到達しており、穂香は恐る恐る画面を開く。【穂香、どうして返信くれないの?】【心配なの、返信して!】【先生に聞いても濁されちゃった。本当に大丈夫?】――いくら彼女の心配性とお節介な性格を知っているとはいえ、あまりにも過激で予想の範疇を越える異常さに、思わず開いたことを後悔した。ここまで詰めて聞かれるとは思っていなかったし、どこかストーカー化しているようにも思える。両親には連絡先を教えてないから、おそらく大丈夫だろうが、この様子だと自宅まで突撃されそうだ。
 慌てて【ごめんね、熱出して早退したの。連絡が取れなかったのはさっきまで寝ていたから。まだ体が怠いから、しばらくは返信できない】と打ち込んで送信すると、スマホの電源を落とした。
 両親からの連絡を見ていないが、敷島が孝明と話し、両親へ連絡しているとうろ覚えながらも言っていたのを思い出す。電源を切っていても「スマホの充電が切れた」と誤魔化せば問題はないだろう。
 壁にかけられた制服のすぐ下にある、椅子の通学用のリュックが目に入る。ベッドを抜け出して、電源の切れたスマホをポケットに突っ込んだ。これでしばらくはスマホを気にしなくていい。それでも無意識に視線がリュックにいってしまう。
 気を紛らわそうと、自分が病み上がりであることも忘れて朝食の準備を手伝えないか考える始末だ。
「あれ、伯母さんは?」
 一人でうだうだ考えていると、敷島が部屋に入ってきた。青のパーカーに黒のチノパン姿で、朝風呂から出たばかりだろうか、先程の寝起きよりもしゃきっとした顔つきをしている。濡れた髪の先から雫が滴り、首にかけたタオルに落ちて滲んでいった。
「朝食の準備をしてくるって。何か手伝いたいんだけど……」
「病み上がりの奴が何を言ってんだよ。寝てろ」
 ベッドを指さしながら、敷島にあっさりとひと蹴りされてしまう。渋々ベッドに戻ると、敷島は昨夜と同じようにベッドの脇に腰かけた。
「で、お前はなんであんなところにいたんだ?」
「……あんなところって?」
「河川敷だよ。体調不良の上にろくにメシも食ってない、雨が降っているのに傘をさそうとしないで何してたんだって聞いてんの。お前、バス通学だから普段あんなところ通らねぇだろ」
 学校から駅を巡回している市営バスのルートは、河川敷とは真逆の方向にある。
 話を聞いている限り、敷島は紗栄子の失踪については知らないようだ。躊躇いもなく直球で訊いてくるのは、悪気があってのことではないのは充分にわかっていた。
 事情を知らない彼に、紗栄子の話をしていいのか。――今よりももっと騒ぎ立ててしまえば、穂香はきっと口を開いた自分が許せないだろう。
 躊躇っていると、敷島は口を開いた。
「昨日、帰る前に藤宮のクラスに寄ったんだ」
「え……?」
「朝から顔色が悪かったし、席の交換を渋るくらい真面目なお前のことだから、無理をして授業を受けてそうだと思って。……で、教室に行ったらお前が見当たらない代わりに、河川敷で警察が捜索していた話で盛り上がっていて。藤宮がいないからようやく話せるって、ふざけた奴がいたから聞き出した」
「聞き出したって……何もしてないよね?」
「別に、ちょっと首根っこ掴んだくらい。すぐ大人しくなった」
「掴んだって」
(そんな猫みたいに言われても……)
 ふと、穂香の頭には新田の顔が浮かぶ。彼は河川敷の近くが通学路で、学校に遅刻しそうになりながらも動画や写真を撮影していた。自分が早退し、ようやく意気揚々と話せるようになった直後に敷島が現れたのだろう。関わりがなくても敷島の容姿や噂は嫌でも耳に入ってくる。絶望の表情を浮かべる新田が容易に想像できた。
「だからある程度は把握した。……河川敷で見つかったのは、お前の姉さんの持ち物だったのか?」
「…………」
 夢であってほしかった。せめて倒れたときに頭でも打って、記憶が飛んでいればよかったのにと、敷島の問いを前に思う。
 自分の目で確かめてきたはずだった。自分がプレゼントで贈った、姉が欲しがっていたスニーカーを忘れるわけがない。それは警察のほうでも調べはついていて、姉のもので間違いないと断定されている。せめて川底に沈んでいてくれたら、どれほど良かったことか。
「……信じたく、ない」
 ふり絞って告げた声は、驚くほど震えていた。シーツをぎゅっと握って耐えようとしても、知らぬ間に浮かんだ涙が零れていく。
 この半年の間、穂香は姉のことで涙を流したことはなかった。
 きっとどこかで生きていると、何度も自分を奮い立たせ、自暴自棄に入ってしまった両親に心配かけさせないように、いつも一緒にいて気にかけてくれる親友のためにと、自分のことを後回しにして機敏に振る舞った。
 振る舞うことしか、できなかった。
「警察署で確認してきたの。流れ着いたスニーカーは私が注文して贈った特注品だし、見間違うはずがない。でも……どうしても姉がどこかで生きているんじゃないかって思って、諦められなくて」
「……信じていたほうが気楽なら、それでいいと思う。昨日の今日そこらで整理できるモンじゃない。それに……ちょっと引っかかるし」
「引っかかる……?」
「失踪したのが半年前なのに、なんで今頃出てくるんだよ。話を聞いている限り、スニーカーも綺麗な状態だったんだろ?」
 言われてみれば、と穂香はハッとする。
 水に濡れることでガーベラの花が浮かぶ仕組みになっているあのスニーカーは、しばらく水の中に浸けておくと、特殊な塗料が劣化し、完全にはがれると花びらが浮かばなくなってしまうという注意書きがあった。
 昨日、河川敷から見つかったあのスニーカーは水に浸かっていた。ガーベラの花は乾ききっていなかったため疎らに模様が浮き出ていたが、元の薄ピンク色のスニーカーに戻りかけていたのを見ている。
 もし川の流れに沿って河川敷まで漂ってきたとして、塗料が完全に剥がれるほど時間は経っていないことになる。
 それを敷島に話すと、眉をひそめた。
「雨の日でも履いていた可能性は? 履き潰して劣化していたかもしれない」
「どうだろう……仕事はスーツ着用だから通勤はいつもパンプスだったし、レインブーツも持っていたと思う」
「靴はいつもどこに? 出しっぱなし?」
「パンプスは出しっぱなしだったと思う。他の靴は下駄箱で……基本几帳面だけど、普段から使う靴だけは出したままにしていたはず」
「失踪した日は? 休みだったのか?」
「平日だよ。仕事が終わって帰宅していることはマンションの防犯カメラにも映っていたって。スマホも財布も、リビングに置かれた鞄の中から見つかっている」
「ってことは、失踪時はパンプスからスニーカーに履き替えたってことだよな? 最初から失踪計画を企てていたとしたら、さすがにスーツから目立たない服装に着替えるだろうし、誰かに攫われたとしてもわざわざ下駄箱に入っているスニーカーを履くか?」
「……確かに」
「特注品で、調べたら注文した人物がお前だってすぐにわかるものを、わざと履かせるような真似を、誘拐犯がするとは思えない。失踪時にスニーカーを選んだのは、おそらくお前の姉さん自身だ」
 敷島に指摘されてハッとする。自ら姿を消したのか、何者かによって攫われたのかがわからない今、どちらにしても辻妻が合わない。
「SOSの可能性も捨てきれないな。でも河川敷から見つかったってことは、今いる場所の近くに川が流れているってことも……」
「……どうして」
「ん?」
「どうして、敷島くんは私や新田くんの話を聞いて、姉が死んでないって、本当に生きていると思うの?」
 河川敷で遺留品らしきものが見つかった――それを見て誰もが失望するなか、彼だけが生きている可能性を探しているような気がした。
 興味本位で言葉を並べているのならやめてほしいと、喉まで出かかっている言葉を押し込んで、敷島の次の言葉を待つ。
「俺は藤宮から聞いた情報で気になったことを挙げているだけ。今の俺が指摘した場所も、警察はすでに調べているはずだ」
「それはそうだろうけど……」
「所持品が流れてきただけで、本人は見つかってない。少しくらい希望論を語ったところで、バチは当たらないさ」
(希望論……確かにそうかもしれない)
 穂香の思っていることも、敷島が指摘した部分もすべて、情報から真逆の可能性を考えた推察に過ぎない。
「お前がこれ以上話したくないならもう言わない。でも考えが上手くまとまらなくて、気になることを口に出すことで整理できるのなら、俺はいくらでも聞くよ」
「…………」
 穂香は、敷島尚という人物が未だにわからない。つい最近まで話したこともない相手で、ただ席を交換しただけという浅い関わりだったはずだ。ここまで助けられる義理はない。不思議な人だとつくづく思う。
「お前は、どうしたい?」
「……私は――」
「お待たせー! ごめんなさいね、開けてくれるかしらー?」
 穂香が言いかけたその時、戸の向こうから友恵の声がした。
 敷島が立ち上がって戸を開くと、友恵がお盆に土鍋と二人分のお椀を乗せて入ってきた。両手が塞がったままではノックも難しく、声をかけることしかできなかったようだ。
「あら、もしかしてお話の途中だった?」
「いいよ。ちょうど腹減ったって話してたところだったんだ」
 敷島はさも当然に受け取って机を置く。
 土鍋の蓋を取れば湯気が上がり、たまごとささみの雑炊が現れた。飾り程度の青葱が散りばめられ、雑炊が艶やかで輝いて見える。香りが穂香の鼻をくすぐったのか、小さく腹が鳴ったのが聞こえた。敷島は慣れた手つきでお椀によそい、レンゲを置いて穂香の前に差し出す。
「火傷すんなよ」
「あ、ありがとう。……いただきます」
 レンゲですくって口に運ぶ。熱々の米は柔らかく、淡泊な出汁とたまごの相性が抜群だ。
「美味しい……っ!」
「ふふっ、よかったわ。食べられるだけでいいからね」
 隣では敷島が自分の分をよそって大きな一口を運ぶと、思っていたより熱かったようでむせかえっていた。驚いた友恵は水を取りに慌しく出ていく。何とか呑み込んで、手のひらで口に向かって仰ぐ敷島の姿を見て、穂香は思わず笑ってしまった。
「お前、人が火傷しそうだってのにそれはないだろ」
「ご、ごめん。こんなに湯気が出ているのに一口の量じゃなかったから」
「昨日の夜から腹減ってんだよ。お前だって昨日はろくに食ってねぇんだから、俺の二の舞になるなよ」
「うっ……」
 スポーツドリンク、ゼリー。昨日の朝からろくに食事を取っていないことを思い出す。食欲がなかったのは風邪からくる倦怠感からだったのだろう。学校に着いたら食べようと思っていた高菜のおにぎりが無駄になってしまったけど、食べられる状況ではなかったのも確かだ。
 腑に落ちた途端、なんだか余計に腹が空いたような気がして、穂香はまた雑炊を口に運ぶ。その様子を見て、敷島は小さく笑った。
「今日は休みだし、家に帰るまで時間はある。飯食ってから考えようぜ」
 友恵の用意した土鍋いっぱいの雑炊を二人で平らげると、穂香は風呂を借りて制服に袖を通し、敷島の伯父の診察を受けることになった。
 熱も下がって、喉や鼻にも異常がないことを伝えられると、穂香自身もホッと胸を撫で下ろした。
「診察料は昨日、一緒に来た秦野さんって人が置いていたから、安心していいからね」
「孝明さんが……?」
「ああ。一晩預かることになったときにね、起きたら診察を受けさせてやってほしいと頼まれたんだ。処方箋も出すように倍の料金を受け取ったんだけど、ちょっと多かったかな。余った分を返しておいてくれるかい?」
「はい。あの、領収書もいただけますか?」
 釣銭を受け取って、寝ていた部屋に戻る。穂香が使っていたベッドに乗って、敷島がスマホを片手に待っていた。
「敷島くん、ありがとう。診察終わったよ。熱も下がったから問題ないって……?」
「…………」
「敷島くん?」
 反応がない。穂香が入ってきたことに気付かず、ただじっとスマホを操作し、集中して何かを調べている。
 気になって視界が入るところまで近付くと、敷島はハッと顔を上げた。
「うわっ! ……びっくりした、いつからいた?」
「ついさっき戻ったけど……気付かなかった?」
「あー……うん、ちょっと調べもの。それより診察は? 伯父さんはなんて?」
「問題ないって」
「……そっか。よかった」
 ホッと胸をなでおろす敷島に、穂香は違和感を覚える。数キロ離れているわけでもないのに、戸を開けた音も聞こえていないのは、本当に集中していたからだろうか。
 敷島はスマホをポケットにしまいながら立ち上がった。
「兄貴がもうすぐ来るって。出る準備しといて」
「え、お兄さん?」
「そう。家まで送るって言っても、病み上がりの奴を歩かせるわけにはいかねぇだろ。そんなに驚くことか?」
「だって敷島くんの家族構成なんて知らないし……」
 何度も言っているが、穂香が敷島と関わるようになったのは最近で、世間話をする程度だ。だから敷島に兄がいたことなど知る由もない。
「そうでもねぇと思うけど」
「え?」
「俺とお前の家、結構近いらしい。もしかしたらどこかで会ってたかもな」
(そんなの知らないって!)
 敷島がケラケラ笑いながら部屋を出ていくのを、穂香はただただ口を開いたまま固まって見送った。
 荷物をまとめて遅れて部屋を出ると、玄関にはジャケットを片手に持つ敷島と、彼と同じくらいの長身の男性がいた。穂香が来たことに気付いて、敷島が手招いた。
「藤宮、こっち。兄貴、コイツが……って、どうした?」
 長身の男性はかけていた眼鏡を直しながら、穂香を見て驚いた表情を浮かべる。まるで怪訝そうな視線に、穂香は一歩後ろに下がると、それに気付いて我に返った。
「あ、ああ……ご、ごめん。ちょっとびっくりして」
「びっくり?」
「尚が女の子を連れてくるなんて思っていなかったからさ。ごめんね」
「い、いえ……」
「敷島恵(けい)です。よろしくね」
 そう言って笑った恵に、穂香は宜しくお願いします、と頭を下げた。
 外に出ると、空気の澄んだ清々しい快晴だった。それでも風は冷たく、羽織ったコートの上から腕を擦る。診療所の前に止められた軽自動車まで行くと、恵が思い出したように忘れ物を取りに戻っていく。鍵を渡された敷島は穂香に問う。
「前に乗るか? それとも後ろ?」
「えっ……う、後ろがいい、です」
「そう。じゃあ先に乗って。あ、運転席側な」
 鍵を開けて扉を開くと、穂香は言われた通り、運転席側の後部座席に座った。他人の車だからか、どこか落ち着かない。ひとりそわそわしていると、反対側の扉が開いて敷島が乗り込んできた。
「し、敷島くんが前に乗るんじゃないの?」
「俺が助手席に乗ると、長身に加えて姿勢が悪いからサイドミラーが見えないんだと。それに、お前の話聞けないじゃん」
「……なんで私を右側に座らせたの? それも身長の問題?」
「さぁ? 気分かな」
 思えばバスの時もそうだった。後ろに座った穂香に、彼は隣に来させようとしていた。断った後も体を大きくねじって後ろを向いて話しかけてくるくらいだから、そのときはただ話したがりなだけだと思っていたが、そうではないのかもしれない。