朧気な意識の中で誰かが呼ぶ声が聞こえた。
 深く沈んだ水底から引き揚げられるように、穂香はゆっくり目を開ける。
 ぼんやりと視界に入ってきたのは、真っ白な天井とレールに釣り下がった薄ピンクのカーテン。微かにアルコール消毒のような匂いがする。起き上がろうとしても体が重く、なんとか目だけを動かして辺りを見渡した。
「起きたか」
 声がして目を向けると、安堵の笑みを浮かべた敷島尚の姿があった。
「気分はどう? 随分うなされていたけど……」
「……敷島、くん? なんで……」
 孝明と河川敷に行ったことまでは覚えているが、その後のことは覚えていない。今いる場所も、家ではないことは確かだ。敷島は穂香の顔を覗き込むようにして言う。
「お前、倒れたんだ。覚えてる?」
「倒れた……? ごめん、あまり覚えてなくて……でもなんで敷島くんが……?」
「十六時過ぎだぞ。ホームルームが終わって、ほとんどの生徒が放課後を満喫してる時間だ。俺があそこにいたのは偶然だよ」
 話によると、自宅の鍵を忘れて家に帰れないことに気付いた敷島は、河川敷近くに診療所を営んでいる伯父の家を尋ねるように父親に言われたらしい。そこへ向かっていた矢先、穂香が倒れたところに遭遇したのだという。
「さっきまで点滴してたくらいなのに、お前本当に気付いてなかったんだな。発熱してたのに雨に打たれるとか余計悪化したんだろ。ああ、着替えは伯母さんがやった。俺はただ、お前をここに運び込んで起きるのを待っていただけ」
 ベッドサイドに置かれたデジタル時計は十九時半を示していた。つまり、穂香が気を失って目覚める三時間以上もの間、彼は自分の隣で起きるのを待っていたことになる。
「秦野さんって人は帰らせたよ。親御さんにも状況報告してもらうついでにさ。ちゃんとこっちからも連絡して状況説明もしてある。今夜は泊まって明日俺が家まで送ることになってる。今日が金曜日で良かったな」
「……そっか」
「それと伝言。『迎えにいけなくてごめん』ってさ。いい親御さんだな」
「え?」
「お前の家、いろいろ大変なんだろ」
 何が、とはまで言わなかったが、敷島の言葉に穂香は視線を落とした。
 今の両親はボロボロだ。姉が失踪してから半年、ずっと帰ってくると信じて待っていた日々を、たった片足のスニーカー一つで無かったことにさせられてしまった。心の支えが折れかけている今、迷惑はかけられないと思っていた矢先だったのに。
 小さく唇を噛むと、途端に敷島は立ち上がった。
「腹は? 減ってるなら何か持ってくるけど」
「……ううん」
「そう。じゃあ飲み物だけ持ってくる。眠れそうなら寝てろよ」
「うん。ありがとう」
 部屋から出て行く敷島を見送って、穂香は布団に顔を埋めた。真っ白で慣れない場所で緊張しているのか、目を瞑っても眠れる気がしない。
 いや、何をしても眠れないと思った。
 目を閉じて浮かぶのは、最後に会った時の紗栄子の顔。夢の話をした直後に挙動不審になったあの姿を、やけにはっきりと思い出す。
 姉は何か知っていたのではないのか。
 確証はないけど、あの時もっと問い詰めていれば、失踪なんてしなかったのではないのか。――そんな世迷言を、何度考えたことだろう。
 頭に浮かんだ姉の姿を、灰色の靄が包むようにして隠していく。
(待って……やめて、連れて行かないで!)
 何度叫んでも、手を伸ばしても、靄はたちまち紗栄子を包み込んでいく。何もできない、ただ見ているだけの無力な自分に、穂香は唇を噛み締めた。
 ――きっと大丈夫。
 夢の中で聞こえた子どもの声が耳元で聞こえた気がして、ハッと目を開く。
 布団から顔を覗かせると、ちょうど敷島がスポーツドリンクをベッドサイドに置いたところだった。
「悪い、起こし……藤宮?」
「え……あ」
 手の甲で頬を拭えば、涙がこぼれていたことを知る。穂香は慌てて袖口で拭おうとするも、敷島はその手を掴んで止めた。
「泣いとけ。誰も止めないから」
「…………」
「涙が勝手に出てくるのは、限界だっていうサインだろ。だから無理に止めようとしなくていいんだよ。俺がいない方がいいなら部屋出るから――」
 敷島はそう言って掴んだ手を緩めると、穂香が震える手で握り返した。
「……い……かないで」
「藤宮?」
「いかないで……ここに、いて」
 熱で朦朧とする意識の中で、敷島が姉のように自分の元から去ってしまうような気がして、息苦しさを呑み込んで告げる。敷島は少しだけ考えて、穂香の手を自分の手で包んだ。
「どこにも行かない。だから安心して寝ろよ」
 ふっと微笑んで、敷島は空いている手で穂香の額に触れた。
 冷たい手が心地良くて、次第にゆっくりとやってきた睡魔に襲われた。毎晩見る灰色の夢も見ないほど、穂香は久しぶりに深く眠りについた。