くう、とお腹が鳴った。その音に、三原真希奈(みはらまきな)は十時におにぎりを食べたきり自分が何も口にしていないことに気付く。説明会の開始が十二時半という微妙な時間だったため、朝食と昼食を兼用にするしかなかったのだ。その上十六時から面接練習が入っており、それが終わると今度は履歴書の清書が待ち受けていた。休む間もなく動いていたおかげでスケジュールは全て問題なくこなせたし、履歴書も明日には郵送できそうだが、それにしてもお腹が空いた。
真希奈が空腹を訴えるお腹を擦りながら歩いていると、『食堂 喜怒哀楽』と書かれた看板が目に入る。
「変わった名前」
喜怒哀楽、という言葉からはその店の情報を読み取ることができない。飲食店というのは店の看板と共にメニュー表が掲示されていることが多いが、この店にはそれさえもなかった。
 メニューが分からないということは、自分の好きなものが提供される保証はないということだ。もし苦手な食べ物ばかりだったらどうしよう。ふと頭をよぎったそんな不安が、店の方向に向きかけていた真希奈の足を止める。
 食堂と言うからにはメニューはやはり定食だろうか。味噌汁や白米は好きだけれど、魚は苦手だ。肉ならば食べられるが、十時間ぶりの食事で急に重いものを食べたら胃が気持ち悪くなるかもしれない。
 看板の前で立ち止まりながら、真希奈はそんなことをぐるぐると考える。「分からない」は怖いことだ。石橋を叩いて叩いておまけにもう一度叩いてからでないと渡れない真希奈にとって、何が出てくるか分からない店に入るのは大きな冒険といえる。
 しかし、お腹の方は真希奈のそんな事情を汲んではくれなかった。一度お腹が空いていることを意識してしまうと、空腹感はどんどんと加速していく。
「……まぁ、さすがに食べれるものが一つもないことはないよね」
 慎重派の真希奈といえど、三大欲求には抗えない。結局、真希奈は自分に言い聞かせるようにそう呟くと『食堂 喜怒哀楽』に向かって一歩足を進めるのだった。

 その店は、食堂というよりもオシャレなカフェのような雰囲気を醸し出していた。オレンジ色の照明が照らす店内には、カウンター席の他にテーブル席が三つほど。真希奈には名前が分からないが、窓辺には背丈の低い観葉植物が置かれている。
 ガヤガヤとした雰囲気の大衆食堂を想像していた真希奈は、店に入るや否や自分が冒険に失敗してしまったことを悟った。今すぐ逃げ帰ってしまいたいが、一度入店してしまった以上それも憚られる。その上店内には他に客の姿がなかったので、真希奈は引くに引けない状況になってしまった。
 入口に立ち止まったままオロオロと狼狽えていると、カウンターの奥から男がひょこりと顔を覗かせる。
「どうかされましたか?」
 この男が店主……なのだろうか。二十代後半にも三十代にも、あるいは四十代にも見えるその男は、人間離れした不思議な雰囲気を纏っていた。癖のある黒髪は整えられていないのに、だらしない印象は受けない。表情も、笑顔は少しも浮かべていないのに何故だか無愛想な感じはしない。切れ長の目と高い鼻を持つその男は、芸能人のように顔立ちが整っていることもあって異質な空気を醸し出している。
「いえ、あの……ここって、食堂なんですよね?」
 真希奈が尋ねると、男は「ええ」と頷いた。
「うちに来るということは、持て余している感情があるんでしょう?」
 しかし、続けざまに吐き出されたその言葉は真希奈にはあまりピンとこないものだった。
「えっと……すみません、私、ご飯を食べに来ただけなんですけど……」
 恐る恐るそう告げると、男は「分かっていますよ」と答える。
「まずはおかけになってください。貴女の話を聞かないことには、作るものも作れませんから」
「えっ……?」
 男の口にすることは、やはり真希奈にはピンとこない。しかし、どうやらもう逃げることはかなわなそうだ。真希奈はそう悟り、男に促されるままにカウンター席に腰を下ろした。

「『食堂 喜怒哀楽』はお客様の持つマイナスな感情から料理を作っているんです。だから、選ばれたお客様しか入ることができないんですよ」
 真希奈が席に座ると、男は開口一番にそう言った。ふざけているとしか思えないそのセリフに、真希奈は「はあ……」と曖昧な相槌を打つ。
「そういうコンセプトのお店ってことですか?」
 世の中にはコンセプトカフェというものがある。メイド喫茶や執事喫茶はその代表例だ。そのような店では従業員も客もコンセプトから外れた発言をしてはならないと聞くので、この店もそのようなものなのだろう、と。真希奈はそう考えたのである。しかし、男は真希奈の言葉にふるふると首を振った。
「信じられないのも無理はありません。しかし、これはれっきとした事実なんです。貴女がこの店を視認できたことが何よりの証拠ですよ」
「……まるで、私以外の人間には視認できないような言い方をするんですね」
 真希奈がそう言うと、男は「事実そうですからね」と返す。
「厳密には持て余した負の感情に溺れそうになっている人にしか見えない、ですけど」
「そういうコンセプトなら最初から説明しておいてくれないと……。急にそんなこと言われても、私合わせられないですよ」
 男が何と言おうと、そんな非現実的な話は信じられるわけがない。真希奈は「この店はコンセプトカフェだ」という前提を崩さずに話を進めた。すると、男は「疑り深いお客様ですね」と口を尖らす。無表情を貫き通していた男の顔に初めて現れた「感情」に、真希奈は少なからず驚きを感じる。そして、それほどまでに大切にしているコンセプトなのかと思うと、真希奈はだんだんと自分の態度が申し訳なくなってきた。
「……分かりました。このお店は負の感情に溺れそうになっている人にしか見えなくて、そんな負の感情を糧に料理を作っているんですね?」
 確認のようにそう問うと、男は「はい」と頷く。
「やっと分かってくれましたか。だから、まずはお客様の負の感情をお話頂かなくてはならないんですよ」
「なんだかカウンセリングみたいですね」
 真顔で荒唐無稽な話をされることが面白くてふっと笑みを浮かべると、男は「そのようなものだと思って頂いても構いませんよ」と言った。
 真希奈の心の中には、確かに抱えきれなくなりそうなほど大きな負の感情がある。しかし、その感情は人に話すのは躊躇われるようなもので、真希奈はこれまでたった一人でそれを抱え続けてきたのだ。
 だが、男が聞いてくれると言うのなら話してみてもいいかもしれない。どうせ男は普段の自分を知らないのだ。ここを出れば、もう会うこともないだろう。そんな思いが、固く閉ざされていた真希奈の口を軽くした。

 三原真希奈は就活生である。
 売り手市場などと言われる昨今ではあるが、内定をもらうのは大人が思うほど容易ではなく、真希奈の同級生たちも皆身を削りながら懸命に就職活動に取り組んでいた。そして、それはもちろん真希奈も同じである――と言いたいところだが、真希奈の場合は少し事情が違った。
 自他共に認める慎重派である真希奈は、早いうちから積極的に就活を行っていたこともあり大学三年生の秋には内定をゲットしていたのである。内定が出たのは県内で有名なトイレメーカーで、真希奈もそう悪い企業ではないだろうと思っていた。しかし、そこにきて真希奈の慎重派な部分が顔を覗かせた。
 エントリーする前にある程度会社のことは調べた。労働環境も給料もそこまで悪くはなさそうだ。――でも、本当に?
 一度疑い出すと、あとはもう止まらなかった。
 就活サイトに月の平均残業時間は書いてあるけれど、そんなものいくらでも誤魔化せる。説明会に参加したとき人事部の人は良い人そうだったけれど、入社してから態度が豹変しないとも限らない。
 結局のところ就活生は企業にとっては「お客様」に過ぎなくて、取り繕って着飾った良い側面しか見せてもらえていないのではないか。そう思うと、真希奈は何もかもを信じられなくなってしまったのだ。就活というのは「分からない」が多すぎる。慎重ゆえにあれこれ考えすぎてしまう真希奈にとって、就活とはとても相性が悪かった。
 それ以来、真希奈はエントリーしては内定をもらい、エントリーしては内定をもらいを繰り返している。いつか心の底から「ここなら大丈夫だ」と思える企業に出会えることを信じて。

 話し終わると、真希奈はふっと自嘲の笑みを浮かべた。
「贅沢な悩みだって思うでしょう?だから誰にも相談できないんです。キャリアサポートセンターの人たちも、最近じゃ遠まわしにさっさと入社する企業を決めてくれって言ってくるんですよ。私なんかより、まだ内定をもらえていない人のサポートを優先したいんでしょうね」
「それはそれは……」
 男は無表情にそう言って、けれど続く言葉が見つからなかったかのように黙り込む。
「……私だって、ほんとは分かってるんです。こんなことグダグダ考えても仕方ないって。きっとどこの企業から内定をもらっても不安を完全に拭い去ることはできないって」
 真希奈が吐き出すようにそう言うと、男は黙り込んだままカウンターの奥に足を運んだ。そして、コンロの前に立つと「見ていてください」と告げる。
「今の貴女にどんな言葉をかけるべきなのか、僕には分かりません。だから、料理で応えます。……そのまま、そこで見ていてください」
 一方的にそう言って、男はシャツの袖を捲り上げた。そして、エプロンの紐を固く結び直し調理場の背面にある冷蔵庫から食材を取り出していく。卵、白米、白だし――それから、あれは何かの調味料だろうか。色を見る限り一つは醤油である気がするが、もう一つが何なのか分からない。
 慣れた手つきでてきぱきと動く男をぼんやり眺めていると、男の前にはいつの間にか鍋が用意されていた。
「鍋に水と調味料を入れて沸騰させて――その間に、卵を溶いておきます」
「なるほど……?」
 全く自炊をしないわけではないが、真希奈はどちらかというとスーパーで総菜を買って食べることが多い。そのため、男が何を作っているのか、真希奈はこの時点では全くピンとこなかった。
 男は、ボウルに卵を落とすと手際よくシャカシャカとかき混ぜ始める。
「沸騰したらご飯を入れて、5分ほど経ったら溶いた卵を入れるんです」
「ご飯に、卵……?」
 そこにきて、真希奈はようやく男の作ろうとしているものを悟る。
「もしかして、卵粥?」
「ええ。疲れたときには胃に優しいものが良いんですよ。それに、まともな食事をしていない人が突然重いものを食べたら身体が驚いてしまいますから」
 男のその言葉に、真希奈はびくりと肩を跳ねさせる。
「まともな食事をしてない、って……なんでそんなこと分かるんですか?」
 真希奈の問いに、男は呆れたように一つため息を吐いた。
「見れば分かるでしょう。貴女、明らかに健康的でない痩せ方をしていますよ」
「うそ……」
 男の言葉を受けて、真希奈は確かめるように自分の身体をぺたぺたと触る。
 久しぶりに触れた自分の腕は、確かに記憶の中にあるものより一回りほど細くなっていた。腰回りも、知らないうちになんだか薄くなっているような気がする。
「仕事選びに失敗しても死ぬことはありません。でも、人間は食べないと死んでしまうんです」
 そう言いながら、男は器に盛りつけられた卵粥にさっと青ネギを振りかける。
「死なないように食べてください」
 カウンターに置かれた卵粥を覗き込むと、一瞬それがきらりと光った。――いや、光ったような気がした。ただの卵粥が光を放つわけもないのだから、きっとそれは真希奈の見間違いだったのだろう。
「……いただきます」
 真希奈は小さくそう言うと、レンゲを使ってひとくち粥を口に含む。
 作りたてということもあって、それはじんわりと温かかった。温かさが喉を通り、ゆっくりと胃に染みわたっていく。こんな多幸感を感じる食事、真希奈は随分長い間味わっていなかった。
「おいしい」
「そうでしょう。うちは食材にはこだわっていますし……なにより、貴女の感じた『不安』からできているんですから」
 男の言葉に、真希奈はふっと笑みを溢す。
「その設定、まだ続いてたんですね」
「だから設定じゃないって言ってるじゃないですか」
 終始無表情を貫く男は、この話になったときだけ不満そうに口を尖らす。それがおかしくて、真希奈は思わず笑い声を上げてしまった。
「ふふふっ、だって、『不安』が入ってるとは思えないくらい安心する味がするんですもん」
「それはそうでしょう。お客様から頂いたマイナスの感情は、僕が料理を通してプラスの感情に変えているんですから」
 どうやら男の中ではそういう設定になっているらしい。真希奈は笑いながら頷くと、「どうりで心が落ち着くわけですね」と言う。
「貴女、僕の言葉を信じてないでしょう。……まあいいですけどね。お客様の心を癒すのがこの店の存在理由ですから」
 真希奈の反応に男は諦めたようにそう言うと、卵粥を食べる真希奈をじっと見つめる。
「なんですか?」
「いえ、だいぶ顔色が良くなったようでよかったな、と」
「私、そんな酷い顔してたんですね」
 でも、きっともう大丈夫だ。真希奈は強くそう思う。
「さっき、仕事選びに失敗しても死ぬことはないって言ってくれたでしょう?言われてみれば確かにそうだなぁと思って」
 慎重すぎるがゆえに不安になってしまうこの性格は、そう簡単には変わらないだろう。でも、失敗してもそこで人生が終わるわけじゃない。今の真希奈は、素直にそう思えた。
「不安がゼロになったとは言えないけど、今までよりはずっと大丈夫な気がしてるんです。……だから、ありがとうございます」
 真希奈がそう言うと、男は「それが僕の仕事ですから」と答える。
 そういえば、男はどうしてこの仕事に就いたのだろう。こんなこじんまりとした食堂ではなくて、もっと大きな店に弟子入りするとか、そういった選択肢もあったのではないか。粥も食べ終えたことだし、男の仕事について聞いてみてもいいかもしれない。そう思い、真希奈はぱっと顔を上げる。――しかし、そこに男の姿はなかった。
「えっ……?」
 それどころか、気づくとそこは『食堂 喜怒哀楽』ではなくなっていた。
 真希奈は自分が喜怒哀楽の看板を見つけた通りに立っていることを理解し、慌てたように辺りを見渡す。
 しかし、男の姿はおろか食堂さえも見つけることができなかった。
「もしかして……あの話、本当だったの?」
 負の感情に溺れそうになっている人にしか見えないだとか、そんな感情から料理を作っているだとか、男の言っていた嘘くさい話を思い出す。あれが本当だったのだとしたら、自分はとても申し訳ないことをしてしまったかもしれない。真希奈は今更ながらにそう思った。
 いつかまた、私の心が不安でいっぱいになったらあの店に行くことができるのだろうか。そう考えながら、真希奈はリクルートバッグをぎゅっと握りしめる。
 そんな「いつか」を望む前に、今は就活に集中しなければならない。どこか心がほっとするあの卵粥の味を思い出しながら、真希奈は明日の予定を確認すべくスケジュール帳を取り出した。