どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
真っ白なノートを開いて、シャープペンシルを手に取る。
覚束ないままの感覚で一つ二つ文字を書いては、消しゴムで削る。
思いついた台詞や選んだ言葉は、路端の石ころと同じだ。
何一つとして進展しないまま、ノートがくしゃくしゃになってゆく。
昔の友達から最終選考に残ったという連絡を聞いて、僕は久しぶりに筆を執った。
天才として持て囃されていたかつての頃を思い出して、自分の中の小さなプライドが顔を出したのだ。
ちっぽけな自分が嫌になる。
もうとっくの昔に諦めたつもりだった。
こんなはずじゃなかったのに。
僕は高校を出て、電車で三〇分くらいのところにある学校に通っている。
そこでは皆が夢と希望に満ちていて、偶然受かっただけの僕は浮いた存在だ。
授業が始まってから一週間が経っても、僕は友達の一人も作れないでいた。
資料とノートに向き合っているふりで人目を避け、授業が終われば講義室をまっさきに抜け出して、トイレの中に籠る。
カフェテリアで同級生に会うのが怖くて、校舎裏に隠れ菓子パンを貪る。
どんなときでも、僕はひとりぼっちだった。
こんなはずじゃなかったのに。
誰かが悪いわけじゃない、巡り合わせが良くないだけだ。
今がどん底で、これから良くなっていくはずだ。
この経験はいつかきっと自分の糧になる。
自分を騙すような言い訳を重ねても気分はよくならない。
ただただ自嘲的な感情が心の奥底から込み上げてきて、僕の弱い部分を、まるで機械を壊す鉄錆のように蝕んでゆく。
僕の心の歯車はとうに錆び付いていて、立ち上がる勇気は既に尽きていた。
気まぐれに取った経済学の授業。
人はひとりでは生きて行けず、多くの人々が支え合ってこの社会は成り立っているという。
なら僕はいったい何なのか、どうしてこんなに惨めなのか。
ネットで話題の人工知能に尋ねてみても、ありきたりな答えしか返ってこなかった。
至極真っ当な答えではあるけれども、その言葉は僕には刺さらない。
自分で幸せを遠ざけているような気になった。
こんなはずじゃなかったのに。
小説を書くことを辞めてから後、それからの僕は他人の作品や創作論を読むことに逃避していた。
インプットとアウトプット。
読むことと書くことは二つで一つのサイクルを形成していて、どちらか一方だけでは成長することができない。
読むことに終始すれば見る目だけが無駄に肥えて壁となり、また書くことだけに終始すれば道を見失い誤った方向へ迷走してしまうことになる。
SNSにはどちらの成れ果ても同じくらいに沢山いて。
僕はその姿を一番近くで見てきた。
僕もまたその内のひとりとなってしまっていた。
『幸せの形とは』
肝心の中身はまだ一文字も書けていないけれど、タイトルだけは決めてみた。
ノートの表紙に鉛筆で書いてみて、それを眺める。
両手で持って、腕を伸ばして眺めてみる。
なかなか良いタイトルじゃないか、なんてことを思う。
かつての才能のカケラが、少しだけ僕に戻ってきたような気になった。
存分に眺めてから満足して机に戻すと、不意に後ろから人が現れた。
柔らかそうな白いシャツを着て、小さなリュックサックを背負っていた。
「何書いてるの?」
僕の肩越しにノートを覗き込んでいた。
書いては消しを繰り返して少しよれた僕のノートは、まだ真っ白で何も書かれていない。
白いシャツを着たこの人は誰だったか。
僕は人の名前を覚えるのが得意でない。
しかし、夏空に浮かぶ白雲のような立ち姿が妙に印象に残っていた。
「先輩ですよね。
おはようございます」
「うん、おはよう」
僕が朝の挨拶をすると、その人も挨拶を返してくれる。
よかった、まだ僕の声は錆び付いてなかったと安堵する。
夏空の雲のような人、その先輩は興味津々といった顔をして僕のノートを覗き込む。
筆を手に取ってしばらくが経つというのに、ノートの中身は空のままだ。
僕はなんだか恥ずかしくなった。
「それで、何書いてるの?」
「それは、ええとですね」
僕は言い淀む。
何も書けていないからだ。
なんと言って誤魔化そうか迷った。
いっそ走り去ってしまおうかとも思った。
けれどもそうはしなかった。
先輩が助け舟を出してくれた。
「もしかして、小説?」
「あ、はい!
まだ中身は何もありませんけど」
会話がなんとか繋がった。
僕の成果では無いけれども、繋がったことはきっと確かだ。
とはいえ言葉ひとつも出ないのは流石に情けがない。
一応は物書きの端くれだった身としては、なんとも不甲斐ない話だ。
頬に血がのぼって、じんわりと耳が熱くなるのを感じる。
顎に手を当て思案して、先輩は一つの提案をした。
「よかったらウチのサークルに来る?
私、文芸サークルなんだ」
僕は黙ったまま頷いて答えた。
今度は喉が絡まって、声をうまく出すことができなかった。
やはり僕の声は錆び付いてしまっていたのかもしれない。
僕たちは部活棟の中を連れ添って歩いた。
先輩に先導されて、この棟にあるという文芸サークルの部室を目指していた。
なんとも贅沢な話だ。
この棟では校内に存在するそれぞれのサークルに部屋が与えられて、なんとその中で活動できるほどのスペースがある。
運動部だけでなく、文化部にも部室が与えられていた。
高校までの頃には、部活動で専用の部屋が与えられるなんて話は聞いたこともなかった。
母校で一番大きな陸上部でさえ、せいぜいがコンクリートブロックを積んで組まれた物置くらいのもので、美術部や文芸部は教室をひっそりと間借りして活動するのが常のことだった。
ちなみに僕は文芸部の幽霊部員で、実質的にはほとんど帰宅部だった。
その頃にはもう、ほとんど何も書かなくなってしまっていたからだ。
今になって、真面目に行っていれば良かったと思う。
そうすればもう少し明るい色の青春を遅れただろうに。
多くの部屋の前を通り抜けて、僕らは先輩のいうサークルの部室へと辿り着いた。
窓に貼られた画用紙には『文藝』と書かれて、色鉛筆やマーカーで明るく装飾されている。
先輩は鞄から鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。
ドアに施工された簡素なシリンダー錠がカチャリと解錠される。
鍵は古いもので、幼い頃に流行ったマスコットのキーホルダーがぶら下がっていた。
「ようこそ、文芸サークルへ」
二つがくっいた折り畳みの机に、それを囲むよう並べられたパイプ椅子。
窓の横には大きな棚があって、中身の日焼けを避けるためか緑の大布が被せられている。
床に積まれた段ボールには何が入っているのだろうか。
先輩は両手をふわりと広げて、歓迎のポーズを取った。
僕はいそいそとお辞儀をしてその歓迎に応える。
「広いですね」
「そうだね。
歴史のあるサークルらしいから」
パイプ椅子は一つだけが引かれていて、前の机にはお菓子の袋が幾つかと読みかけの本が一冊だけ置かれている。
他のところは理路整然としていて、雑多な生活感のようなものは無かった。
「そこに座って」
先輩が向かいの席の机をウェットシートで拭いて、僕に座るよう促す。
他の席にはうっすらと埃が積もっているのが見え、使われていたのは先輩の席だけのようだった。
僕は背負っていた荷物を下ろし、その席についた。
静かな部屋の中に、パイプ椅子が軋む音が聞こえる。
机に載っていたお菓子は、おかきの詰め合わせと小さな砂糖ドーナツの大袋。
差し出された二つの内、僕は砂糖ドーナツを貰った。
今日は書けないなりに頭を使って糖分が欲しかったから。
「去年までは上の先輩と、私の友達も居たんだけどね」
「やっぱり、今は一人なんですね」
先輩は黙って頷いた。
口許は弧を描いているけれど、目は何処か寂しそうに見える。
かつての賑わいを懐かしんでいるようだった。
僕たちの間に、しばらくの沈黙があった。
この日は風が強くて、窓の外からは轟々と風の声が聞こえていた。
ドーナツの個包装を破いて、端の方を少しだけ齧ってみる。
しっとりとした生地と、ざらついた砂糖の舌触り。
幼い頃によく食べていた駄菓子と同じ味がした。
先輩は机の上で手をゆるく組んで、その様子を眺めていた。
僕はゆっくりと時間を掛けてドーナツを食べた。
口の中でじんわりと甘みが広がっていく。
もそもそとした食感も、なんだか懐かしかった。
最後の一片を口に放り込んで、もぐもぐと咀嚼する。
名残惜しい気持ちはあったけれど、いつまでも口の中に入れていると喋れないと思い嚥下した。
「ねえ、小説を書くのって楽しい?」
「どうでしょう。
書き始めた頃は楽しかったんですが」
束の間の静寂。
息を吸って、吐いて。
トクトクと鼓動が早くなる。
初めて作品を作った頃は楽しかった。
心の中に閉じ込めていた綺羅星のような考え事を、軽やかな運筆で紙の上に、思うがままに書き連ねて。
楽しいこと、未来の夢、頭の中にあった空想の世界。
次はどんな物語を紡ごうかと頭を悩ませていた。
希望で胸がいっぱいだった。
だが今はどうだろうか。
「今はその、あんまりかもしれません」
「そっか」
笑うでも悲しむでもなく、先輩は只そう呟いた。
いつの間にやら目線は窓の外を向いて、四月の花曇りをじっと見ていた。
切れ間なく続く灰色がかった雲の群れ。
ころころと移り変わる春の天気が、今はずっしりと重たく感じられる。
僕は荷物から例のノートを取り出して机の上に開く。
先輩は僕がさっき食べたのと同じ砂糖ドーナツを袋から取り出して頬張っていた。
しとしと冷たい雨が降り始める。
段落を一マス空けて、手に持ったシャープペンシルがゆっくりと動き始める。
話の方向性を大まかに定めて、僕は小説を書き始めた。
冒頭は台詞から始めると良い、というのはインターネット上に流れる通説の一つだ。
数多くの作品が飽和する電脳の世界で、誰もが気軽に自分の著作を発表できる玉石混交の坩堝で、そんな場所でまことしやかに囁かれる方法論の一つである。
そこにはジャンルを限定しても尚読み切れないほどの数の物語があり、読者は面白くなければ次に行くだけ。
始まりの時点でより多くの興味を惹けた者が続きを読んで貰える機会を手にする。
そして、その過程で弾かれがちなものが幾つかある。
幾つかある内の一つが、冒頭ポエムと呼ばれるものだ。
冒頭ポエムは作者のイデオロギーを込めて書かれる。
中身は千差万別に人の数だけあるが、大抵の場合は面白くない。
面白くないものは読まれない。
これが終われば面白くなる、そんなことは知ったこっちゃない。
どんなに素晴らしい冒険劇が待っているとしても、ページを捲られなくては意味がない。
誰かに掘り出さなければ永遠に地の底で土に塗れたままで終わることになる。
台詞から始めるというのは、そんな事態に陥ることを避けるために考え出された手法だ。
キャラが喋れば自然と話が動き始める。
最初の見せ場は近ければ近いほど良いのだ。
こういう話が流れるよのは当然の帰結とも言えよう。
かたつむりのように緩慢な滑り出し。
しかし僕の書く物語もまた、そうしてゆっくりと動き始めた。
「好きだな。
そうやって机に向かってる人の顔」
独り言のような小さな呟き。
先輩はドーナツを食べ終えて、口の端についた砂糖をちろちろ舐めながらそう言う。
かつてもこの部室で、同じように見ていたのだろうか。
ペンを執って机に向かう人の姿を。
僕はなんだか羨ましい気持ちになった。
「いつでも来ていいよ。
なるべくこの部屋は開けておくようにするから」
「良いんですか?」
先輩は頷いた。
「まあ私は居るけど、見られたくなかったら出来るだけ見ないようにするしさ」
「ありがとうございます」
短い会話を終えると先輩は椅子から立って、布の掛けられた棚へと向かう。
緑の大布が捲られると、その棚は本棚になっていた。
背表紙を指でなぞって、並んだ本のタイトルを順繰りに確かめていく。
目当ての本が見つかったのか、その指は二段目の中頃で止まる。
ほっそりとした指先が、背表紙の上部を押す。
そうして飛び出した本の下部を持って引き出した。
ベストセラーの恋愛小説だ。
タイトルは記憶していないが、表紙に見覚えがあった。
「読む?」
視線に気がついたのか、先輩がこちらを振り返る。
差し出された小説の文庫本に、僕は慌てて首を振った。
その日はしばらく机に向かって自分の作品の続きを書いた。
先輩は本棚から取り出した小説を読んでいて、時折懐かしそうな顔をしてこちらを眺めた。
ほとんど毎日、僕はその部屋に通った。
もしかしたら迷惑かとも思ったけれども、行かなかった次の日に先輩が寂しそうな表情をしていたので、そういう考えをするのはやめにした。
先輩の居る隣で、僕は小説を書いた。
そして、ある日のことだ。
紙の上をひた走る指先、ペン先がノートを叩く静かな音。
消しゴムを掛けた痕跡と屑が溜まるのもそこそこに、進捗は緩やかに進んでいた。
僕はいつでも居候をしてよいとの言葉に甘え、部屋の一角を借りて執筆に励んでいる。
しかし、最終選考に残ったという旧友の報告に嫉妬して書き始めた小説。
これと見定めたコンテストの締め切りは早くも一週間後に迫り、しかし僕の小説はまだ完成の兆しを見せられずにいた。
何が駄目なのかというと、結末までの道筋が確定できていないのだ。
僕は序文と結末との端の部分を先に決めて、その二点を結ぶように身頃を繕ってゆくタイプの物書きだった。
製作の過程に焦点を当てると、物語を書く者は二種類に大別される。
設計図を描いてから書き始める者、プロッター。
話を書きながら筋書きを考える者、パンツァー。
どちらが良いというものでもないが、僕はパンツァーに近い性質を持っていた。
自分の経験と勘に頼って、という意味の慣用句であるシート・オブ・ザ・パンツ、あるいは戦車を意味するドイツ語のパンツァーに由来する言葉である。
趣味に奔放な作品が、ぱんつ脱いで描いた、などと揶揄されることもあるがこの場合は異なる。
物語の設計図、プロットを書かなくてもよいという点においてパンツァーは幾らか気楽なのだが、その分だけ大変になる工程もある。
設計図なしに書き始めるため、続きの構想が形になっていないのだ。
モチベーションを保つという観点からすれば、続きのない物語を書くワクワクはとてもよいものなのだけれど、それは結末に辿り着くための道筋を知らない不安とも隣り合わせのものでもあった。
つまるところ、僕は先の展開を考えるのに行き詰まっていた。
続きをどう書いてよいかさっぱり分からない。
物語の締めとなる大トリの部分は用意してあったのだが、むしろそれ自体が進捗の邪魔をしているような気もした。
僕は筆を休めて休憩することにした。
握っていたシャープペンシルを机に転がして、大きく伸びをする。
体の凝り固まった部分がバキバキと音を立てた。
「凄い音だね……」
「すみません、どうにも進まなくて」
僕は進捗が上がらない現状を先輩に打ち明ける。
すると先輩はリュックサックの中をまさぐって何かを取り出した。
「なら、私と出かけてみない?
いつもと違う環境なら、何か浮かぶかもだしさ」
そう言って、先輩は手に持ったものを差し出す。
電車の駅に置いてあるようなパンフレットが握られていた。
この地域の大まかな地図の上に、ランドマークや名所の写真が散りばめられている。
幾つかは通学路の周辺にあるようだが、最短ルートからはやや外れていて、遠目にしか見たことが無かった。
「観光案内ですか?」
先輩はサムズアップして肯定する。
「君、いつも真っ直ぐ帰ってるみたいだからさ。
この辺りを一度歩いてみるのも良いかと思って」
「ありがとうございます」
「うん。
良い切っ掛けが見つかるかもよ」
先輩はふわふわと雲のように笑う。
今日は天気が良くて、窓の外はカラッとした晴天だ。
その日の時間割は二人とも、二限からが空いていた。
僕たちは荷物を整理して、必要最小限の物が入ったショルダーポーチだけを持って、人の少ない平日午前の町に繰り出した。
観光案内のパンフレットを眺めながら、ふらふらと町を彷徨い歩く。
いつもは通らない道、いつもなら気に留めない建物。
改まった目で見ると、世界がより一層色鮮やかに見える。
色とりどりの品物が並ぶ大きな商店街。
異国情緒のようなものを感じる外国人街。
神社にお参りをして、話題のカフェで美味しいランチを摂って、河川敷の遊歩道を南下する。
どんな町にも住む人がいて、その人たちに合わせて作られて居るけれど。
歩いてみて思う、ここは学生の町だ。
「学校がいっぱいありましたね」
「地元を離れて越してきたときは、私もびっくりしたよ。
なんでも、この地域だと十人に一人は学生らしいよ?」
街頭には雑貨屋や飲食店が多く並び、商店街も充実している。
財布の薄い学生をターゲットとしているのか、格安の居酒屋が多い。
いつもは行かない駅の反対側には、大きな市営図書館があった。
最後に僕たちは浜辺へ辿り着いた。
冷たい海の塩水が砂浜へ寄せては返し、波打ち際に縞模様を作っている。
「学生のための町、かあ。
文教都市とかっていうんだっけ」
「詳しいですね」
さざ波の音を聴きながら、柔らかな砂の上をゆっくりと歩く。
靴の中に砂が入ってくるのを嫌って、僕たちは裸足で砂浜を歩いていた。
ぺたりぺたりと足跡をつけてゆく。
先輩が不意に立ち止まった。
「そういえば言ってたな、あの子。
私の書くお話は、独りぼっちで寂しい思いをしているような子を元気づけるためのお話なんだ、って」
少しばかりの沈黙。
いつの間にか沸いた灰色の雲が空を覆っていた。
「私の友達ね、絵本作家になろうとしてたの」
花冷えのひんやりとした風が僕たちの間を吹き抜ける。
そうだ、と呟いて、先輩は僕に問い掛けた。
「君の書く小説は、誰に向けたお話なの?」
夜空のように黒い双眸が僕を見詰める。
これは誰に向けた話だっただろうか。
靄が掛かったようで上手く思い出せない。
あるいは最初から考えていなかったのかもしれない。
読んで欲しかった相手は誰だ。
僕は今まで誰に向けた話を作っていた?
昔に書いた話は、面白いと褒めてもらえたあの頃の作品は、あれらはみんな身近な友達に向けて書いたものだった。
ターゲットを絞れば絞るほど相手の心には深く刺さる。
逆に、すべての人に向けて作った物は誰にも刺さらない。
興味を持つ要素は人それぞれ異なるが、だからといってドリンクバーで作るジュースのように全部を混ぜこぜにする訳には行かない。
相性の良い要素を組み合わせてジャンルを決める必要がある。
今の僕にそれができるだろうか。
コンテストに応募された作品を読むのは運営側の審査員、それと読者投票に参加する多くの目が肥えた読者たちだ。
会ったことも話したこともない人たちだ。
人の心を打つためには読者層を絞り込んで、しかし審査のことを考えれば絞り過ぎてもならない。
曖昧な境界線を見極めて、バランスを取らなければならないのだ。
きっとプロはみんなそうしている。
言われて初めて気づいた。
知識としてはあったのに分からなかった。
僕にはそれができない。
次から次へと嫌なことが浮かんでくる。
何かを見落としているような嫌な感覚が背筋をじわじわと這い上がってくる。
きっと何かが足りない。
これだけじゃない、けれども判らない。
何も書かずにいた間に、知識だけは人一倍蓄えてきた筈なのに。
そうだ、敵う訳がなかったんだ。
叶う理由なんてなかった。
僕じゃホンモノの舞台には適わない。
一筋の雫が伝ってゆく。
こんなはずじゃなかったのに。
どんどん涙が溢れてくる。
止め処なく頬が濡れて、緩んだ涙腺はもう締められない。
そっと肩に手が置かれた。
「ごめんね、大丈夫?」
先輩は心配そうな目をしていた。
しかし止められない。
ひとつ頷いて、また泣き出した。
随分と久しぶりに泣いたので、ここで泣き止むと涙が出ないようになってしまうのではないかと思って、全力で泣くことにした。
気が済むまで泣くと、やがて段々と収まってきた。
濡れた頬は袖で拭って、目頭を揉む。
大きく深呼吸をする。
ゆっくりと鼻から息を吸って、それと同じくらいの時間を掛けて口から息を吐く。
それを数回繰り返すと、心が少し落ち着いた。
「すみません、もう大丈夫です。
大丈夫になりました」
返事を返す。
「ええと、さっきの問いについて、答えにはならないのですが」
軌道修正だ。
没となる文章も多くなるだろうが、まだリカバリは利く。
「結末を変更します。
先輩、貴方の好きなものを教えてくれませんか?」
「ええっ!?」
ターゲットを絞るほど、心に刺さる作品になる。
しかし今の僕にはその相手がいなかった。
ならばせめて今からでも。
想定する読者を先輩一人に絞る。
誰にも刺さらないよりも、誰かに刺さるものを。
先輩を刺し殺すくらいの気概で書く。
いや、本当に殺してしまう訳ではないのだけれど、そのくらいの意気込みで。
でなければ僕の実力では何処にも届かない。
「僕に付き合ってください。
お願いします!」
「あわ、あわわ……。
そのええと、その、はい!!」
あれ、何か間違えただろうか。
なにやら先輩の顔が赤くなってしまっている。
「あ……」
自分の言い回しが思い当たった。
泣き止んで熱が引いた筈の頬が、また熱くなってくるのを感じる。
「あいやごめんなさい変な意味では無くてですね。
告白とかそういうのではなくて、あの」
「わわ、わかってるよ!?
オーケーおーけー完全に理解したから!!」
僕が言葉遣いを誤ったせいで、そういう変な一幕も生まれてしまったが、まあ何とかなった。
二人して茹で上がった顔であたふたと弁明の言葉を並べた場面も閉幕して、僕は本格的に原稿の修正を始めた。
先輩の好み、好きな小説、キャラクター、台詞、シチュエーション、その他エトセトラを質問した僕に、先輩は快く答えてくれた。
感謝してもしきれない。
僕は小説の結末を書き換えて、新たな筋書きの構想を練った。
どんな要素を入れるか決めれば、何を書くかも自ずと決まってくる。
これまでの経験や読書歴から、自分の中に築いてきた創作の型だ。
創作は自由だとは言うが、小説や漫画、アニメなどを見て育った人間であれば、ある程度の王道やお約束というものを自分の中に持っていて、よほど突飛なものを書こうとしない限りはその中に収まる。
新しいものを取り入れるにしても、これまで築いてきたその型は必ず役に立つ。
書くことに夢中になっていた昔の頃を思い出して、僕はひたすらに書いた。
いつも通りに先輩と同じ部屋で書いた後も、家で続きを書いて、気がつけば夜が明けていた、なんてこともあった。
締め切りまでの残りの一週間、僕はノートを枕にして眠るような生活を送った。
途中で変なテンションになってしまい後で大幅に書き直すようなこともあったので、睡眠の時間はきちんと取った方がよいと学習した。
睡眠を抜いても良いことは無い。
効率が落ちるから大した時間短縮にはならないし、質だって落ちるので徹夜明けの文章は読めたものじゃない。
徹夜をして意味があるのは、締め切りギリギリでどうしても時間が欲しいときくらいだ。
睡眠時間とパフォーマンスはトレードオフで、求め過ぎれば痛い目を見ることになる。
そのときの一件で学んだのだ。
同じ過ちは繰り返すまいと誓った。
とはいえ夜更かしには抗いがたい魅力があるもので、結局僕の生活サイクルはあまり変わらなかった。
そうして僕の一ヶ月が過ぎた。
水底に沈む泥のように過ごした最初の週に比べて、先輩と出会ってからの日々は目が醒めるようだった。
締め切り間際の一週間は、まるで煌々と燃えながら山の斜面を駆けくだる火砕流のように鮮やかだった。
「例の小説は完成した?」
「いいえ、その、書けませんでした」
結局、コンテストの締め切りが過ぎても僕の原稿は完成しなかった。
「そっかぁ」
「はい、すいません」
けれどもそれは、諦めたからではない。
先輩といっぱい話をして、アドバイスも沢山貰った。
元のノートはメモ書きで埋まって、タイトルも変えたので、僕の前には今新しいノートがある。
締め切り前夜の時点において、ただ間に合わせようと思えば、締め切りまでに漕ぎ着ける自信はあった。
それをしなかったのは、それだけじゃ満足出来なくなったからだ。
「もう少しで、良い作品が書けそうな気がするんです」
「いいね」
先輩は何かを書いていた手を止めて微笑んだ。
悠々と空を泳ぐ白雲に誘われて、僕の時間も流れ出した。
夏への扉が開いたような気分がする。
「私もね、書いてみることにしたんだ」
「いいですね」
何かの心境の変化があったらしい。
いつも文庫本を持っていた手には黒の鉛筆が携えられ、その前には原稿用紙が広げられている。
「それでは、三限を取っているので僕はそろそろ行きます」
「ん、いってらっしゃい」
ノートと筆記具を鞄の中に片付け、挨拶を交わして部屋を出る。
僕はこのサークルの外でも、幾分か人目を気にしないようになった。
まだ知らない人と話すのは少し怖いけれど、それだけでもかなり気分が楽になった。
少しだけ息がしやすくなった気がした。