「も、もしもしっ!まさか、透!」
「……はい。そうです」
「と、透!あの時は、本当にごめんね。僕、僕は」
「ジョー先輩、私こそ、本当にすみませんでした」
 落ち着いた声で、私はそう言った。
「……、透」
「私、本当に馬鹿みたいですよね。あんなに後悔したっていうのに、また浮かれてたんですから」
「浮かれてた、って……、もしかして、ネットのこと」
「知ってましたか。……そうです、惨めなことに」
「み、惨めなんかじゃないよ。それって、本当にすごいことじゃない。僕、本当にびっくりして」
 興奮気味に話すジョー先輩は、何も変わっていなかった。本当は、もっと軽蔑されるべきなのに。いや、して欲しかった。私の心を諌めるために。
「私、ずっとジョー先輩に甘えてて。待ってばっかりで、本当に弱かったんだってこと、今わかったんです。あれだけのことを除先輩に言い放っても、まだ、ジョー先輩に期待してたんですから。ずっと、じっと待って」
『そう、私は、ジョー先輩に申し訳ないから、と自分に言い訳をして、ジョー先輩がいつか迎えに来てくれることをずっと待っていたんだ。ジョー先輩なら、きっとこんな私でも、許してくれると、私の方がずっと呑気なことを思って』
「だから、今日はジョー先輩にちゃんと、謝ろうと思ったんです。……本当に、すみませんでした。私の勝手な感情ばっかりに、先輩の心まで平然と傷つけていました」
 電話の奥では、静寂が響いていた。以前までの私だったら、絶対もう許してくれない、どうしよう、なんてことをいつまで考え続けていたと思う。でも、ちゃんと真正面から、向き合わなきゃ。
「私、ジョー先輩が部室で話しかけてくれてから、ずっと、ジョー先輩に期待していました。私をちゃんと見てくれて、そして……どこか、シンパシーを感じていたんですよ、勝手なことに」
 電話の奥から、息を呑む音が聞こえた。
「先輩の文章の繊細さ、私の心に響いた、って言えばいいのかな。何処か自分と重なる部分があったんです」
 私はぎゅっとスマホを握り直した。
「こんなこと言われても困ると思いますけど……ジョー先輩は、先輩の道を突き進んでください」
『私は、ジョー先輩のことを慕っています。できることがあるとすれば、自分が何をするか、じゃなくて、ジョー先輩を純粋に応援できるか、だと思うから』
 電話の奥で続く沈黙。しばらくして、息を吸う音が聞こえた。
「なんだ、透も同じこと思ってたんだ。お互い、すれ違ってただけなのかな」
 ジョー先輩は、はは、と笑った。
「透は相変わらず、真面目さんだ。何も変わってなくて、本当に安心した」
「はい、おかげさまで」
 学校の中では、外部活の生徒たちが騒ぎながら一生懸命に取り組んでいる。
「あれ、もしかして透、今学校?」
「あ、はい。ジョー先輩に早く連絡をすることしか考えてなかったので、家に帰る前ですみません」
「い、いやいや!まだいるのなら好都合だ!そこで待っててくれる?すぐ向かう!」
「え、向かうって、ジョー先輩どこに」
 その瞬間、ジョー先輩のダッシュする音が響いたと思えば、ぷつりと電話が切れた。
 また走って、転んだりしたらどうするというのだろう。本当、こういうところには、呆れてしまう。
 少し経って、あの電話の奥から鳴り響いていた足音が、ふと聞こえた気がした。だんだん近づいてくる。あれ、もしかしてジョー先輩は学校にいたのだろうか。
「ー透、透!」
 背後から、またあの柔らかい声が聞こえてくる。ずっと変わらない、あの能天気な声だ。
「ジョー先輩」
 振り返ると、ぐちゃぐちゃのままのジョー先輩が立っていた。
「ごめ、んね、また、走って、来ちゃった、っはあ、また、透に、怒られ、ちゃうや」
「本当ですよ」
 ジョー先輩が肩を揺らして息を切らす姿は、もはや恒例になって気がする。私は、そんなジョー先輩の姿に一つ、見慣れないものを発見した。大きな袋に何か重そうなものが入っているみたいなのだが、いまいち中身の想像がつかない。
「ジョー先輩、荷物持ちましょうか」
「ああ、ありがとう、……って、そうだ、大事なこと、忘れてた」
 ジョー先輩はそういうと、その重そうな荷物を私に手渡した。
「これ、……なんですか」
「新しく描いた原稿なんだ。出版社に持っていくためじゃない。透のために書いた」
 ジョー先輩はそういうと、にかっと笑った。
 私は、その大きな袋から一番上の一冊のノートを取り出した。古びているけれど、丁寧に使用された跡が残っている。
「それはね、僕が小さい頃に少しずつ使ってたノートなんだ。その中の途中、僕の今の筆跡で書いている部分があるでしょ。そこを、透に呼んでほしい。あ、続きは、その袋の中に全部入ってるから」
 これ、全部……。この量を、本当に書いたというのか。ジョー先輩らしいというか、もはや常人じゃないというか。
 私はそのノートをぺらぺらとめくった。拙い字がしばらく続いた後、私の読み慣れた筆跡の字が現れた。
「『青に、染まる』ー」
「そう。あ、今読んじゃダメだよ!その先は、家に帰ってから!」
ジョー先輩は次のページを開こうとした手を、慌てて止めた。
「分かりました、先輩」
「それと!僕はジョーだから!先輩じゃなくて!」


 あの後、先輩は先生に用事を頼まれていたようで、ジョー先輩は名残惜しみながらも学校の中へ戻って行った。私はしっかりジョー先輩の言いつけを守って、バスの中でも開かず無事に帰宅した。
 一直線に自室へ向かうと、ベッドの上にジョー先輩にもらった袋を置き、自分もベッドの上に飛び込んだ。袋を手繰り寄せると、一番上に積み重ねたジョー先輩のノートを取り出した。
 ぺらぺらとページをめくり、あの文字が書かれた部分を開いた。
「青に、染まる。……か」
 『透のために書いた』と言ってはいたけど、やっぱり題名にも意識しているのだろうか。
 私は、帰るまで絶対に開いちゃダメだ、とジョー先輩に止められていたページをひらりとめくった。

 僕は、いつも無意識のうちに文字に連ねている。まるで、呼吸をするように。止まってしまえば、僕の中の鼓動も止まってしまうような。辞め方も知らないし、辞めようと思ったこともない。
 それは、彼女にとっても同じことなんだと、それを見た瞬間に感じた。
 人の中に一人紛れて、あたかも一緒のように振る舞っていた彼女は、明らかな異質の存在だった。いや、皆それぞれ個性を持っているのは事実だ。皆胸に秘めていることはそれぞれだし、それだけの思いを持っている。
 しかし、彼女ほど、自分以外のものに依存し、融合しているものは、周りに誰一人としていなかったのだ。
 まるで空っぽのような体と向き合っているのは、紛れもない感情の塊。
 その状態になった時、自分の身体さえも消えたような、向き合う世界と自分の意識だけの世界となる。
 多分僕は彼女と、そんなところにシンパシーを感じたのだ。
 それが、僕は言葉で、彼女は絵、という差だけだった。
 きっと彼女も胸に秘めた何かが、外の世界へ飛び出そうと日々蠢いている。それが唯一表面に現れるのは、自分の意識と向き合える場所。五感さえも消えて、周りにあるもの全てが消え去って、それで初めてその怪物と対面するのだ。
 
 透、僕の勝手な気持ちだけれど、紛れもない本心の言葉だ。
 透が僕に見せてくれる絵の世界と同じように、僕の世界も見ていてほしい。


 まず、僕の生い立ちについて、話していこうと思う。急に話されても、と思うかもしれないけど、透には色々と隠しすぎていた気がするからね。いつもよりもずっとまとまりのない文章になるかもしれない。それは、申し訳ないです。

 僕の父が『鳩羽慎之助』というのは、前に透に言ったよね。そう、これは僕の秘密の中でも最上級。トップシークレットだ。
 自慢みたいに聞こえるかもしれないけど、僕の父は日本の人々を魅了した天才だ。
 ……天才だったはず。
 僕は、最近自信が持てないんだ。ずっと父を信頼し続けて、尊敬して、近頃は少し道を逸れていくことが多いけれど、でも今だって敬愛している。それは変わらない。
 けれど、どこか、納得がいかない。
 僕は、何度も何度も父の作品を読んだ。内容だって、文章の構成、セリフだって、ほとんど覚えてる。幼い頃には、父に僕の文章を指導してもらったことだってあった。
 でも……いつだったか、僕は、兄さんの大学時代の論文を盗み見たことがあったんだ。僕と兄さんは十二歳離れていてね。いつも、「ジョーにはこの文章は難しいから」、と見せてはくれなかった。その時、僕が一番に興味があったのは紛れもない父の小説だったし、とくに気にしていなかった。その時は、父の真似をして小説をひたすら書いていて。しょっちゅうなくなってしまっていたから、兄さんの部屋に余ったノートと鉛筆を数本もらいに行った。僕が兄さんの部屋に行くと、ちょうど兄さんは席を外していて、机の上に置きっぱなしだったんだ。
 僕はノートと鉛筆のある場所を知っていたし、兄さんからも好きに持っていっていいと言われていたらから、いつもの通りにいくつか持って自室に戻ろうとした。
 でも、机に置かれた論文に興味を持ってしまってね。正直、その時の僕には読めない漢字もあって、そのまま素通りしようとしたんだ。その時、ふと目についたのは、その紙の下に隠されるように置かれていた、メモ用紙だった。
 そこには、僕の一番好きだった「海神に乞う」の設定のような文が走り書きされていて。僕は止まらぬ勢いで読んだ。
「兄さんももしかして、父のこの本、一番好きなのかなぁ」
 その時は、そう思っただけだった。
 それにいつも兄さんには、「兄さんがいいと言ったもの以外には、触れちゃいけないよ。兄さんとの約束だからね」と固く言われていたから、僕は慌てて元の場所に戻した。その後は、僕が勝手に兄さんのメモを読んだのがバレないように、このことは一歳話さずにいたんだ。
 その数年後、本当に続編は出て、僕は真っ先に読ませてもらった。
 そして、その内容は間違いなく、あの時に読んだものと一致していた。多少の改変はあれど、セリフの流れ、文章の構成、そして、汚れが一切ない清らかで美しい文章はそのままだた。
 でも、作者の名前には、父の名前が刻まれている。あ、補足だけど、兄さんの名は『祐之助』と言うんだ。
 僕はどうしてもそこが気になって、ある夏の晩、思い立って父の部屋に向かった。その日はちょうど、新月の晩だった。いつもは、新月の晩は、仕事に集中できる、という理由で父の部屋に入るのは御法度だった。けれど、僕はそのことをすっかり忘れて、そのまま向かってしまったのだ。
「父さー、……まずい、今日はダメな日だったっけな」
 僕は父の部屋に入ったあと、そのことに気がついた。けれど、父は気づいていないようだった。僕は胸を撫で下ろし、そのまま自室に戻ろうとした。
「ー父さん、僕はもう、この家を出ようと思っています」
 その時、父の部屋から兄さんの声がした。何故兄さんが、父さんの部屋に。しかも、家を出るって。自室に真っ直ぐ戻ろうとしていた僕だったけれど、戻るに戻れなくなった。
「出て行くことには反論しないが、ちゃんと、手伝い、をしてくれるんだろうな」
「それは……」
 手伝い?なんのことだ。兄さんは、父に何か手を貸していたのか。
「……それは、もうできません」
「なんだと」
 兄さんの言葉に、父が少し声を荒げた。僕の足は思わずすくんで、息を一生懸命に殺す。
「僕はずっと、父さんに、確かに手伝いとして、協力してきました。しかし、……僕も、もう自立する時です」
「自立するも何も、祐にはもう実力は備わっているのは明白だ。出ていったところで、何も変わらんぞ」
「違います」
 兄さんの、息をのむ声が聞こえた。
「父さんも、もう、自立してください」
 兄さんはそういうと、僕のいる扉の方へと歩いてくる音がした。僕がいたことがバレてしまえば、どれだけ怒られるかわかったもんじゃない。僕は焦って父の部屋を出ると、急いで自室に飛び込んだ。走ることに慣れていない僕は、思い切り部屋ですっ転んだ。しばらくして、トントンと部屋のドアをノックする音が聞こえて、
「ジョー、大丈夫?すごい音したけど」
 兄さんが心配した顔をして、僕の部屋に入ってきた。僕は慌てて笑顔を作って、
「ごめん兄さん、思いっきりちゃぶ台に足ひっかけちゃって」
 とぎこちなく誤魔化した。すると兄さんは、いつものように呆れた顔をして、倒れ込んでいた僕の手を引いた。
「全く、ジョーはいつまで経っても、幼児だった頃と変わらないな」
「ちょ、兄さん!もう僕小学生なんだけど!」
 兄さんに握られた手をぎゅっと握り返して、引かれるままに立ち上がる。
「もう少し、気をつけるんだ、ジョー。お前だと、こんなにものがない部屋でも、余裕で怪我をしてしまいそうだ」
「はい、兄さん。もう少し、兄さんみたいに力をつけられるように、努力するよ」
「絶対、口だけだろ?」
「本当だもん!」
 兄さんは、はは、と笑いながら、僕の部屋を後にした。兄さんの足音が完全に消えたあと、僕は胸を撫で下ろした。
「兄さんが父さんにしてた、手伝い、って、なんのことなんだろう。それに……」
 聞きたいことも、聞けないままで。
 そのあと数ヶ月もしないうちに、兄さんはこの家を出ていった。何回か父との喧嘩もあったそうだけど、僕は何も知らされていなかった。兄さんの優しさだったのかな。
 そして一年くらいが経って、父さんの刊行はぱったりと無くなった。
 何作か出したものもあったけど、全て続編か、改稿版だった。僕はいつものように真っ先に読んだけれど、どこか違和感を覚えた。いつものあの爽快感が無い。あの、心にすっと入ってくるような表現が見当たらない。きっと父も兄さんがいなくなった事で、落ち込んでいるんだろう。ずっとそう思うようにしていた。
 僕自身も兄さんの居なくなった影響は大きくて、思うように創作が進まなかった。それよりも、頭のなかにずっと残り続ける、あの兄さんと父の会話が忘れられなくてね。
そして父は、僕に話しかけることが増えた。以前も無かったわけでは無いけど、なんだか踏み込んだものが多くなってきた気がした。まだ小説は書いているのか、とか、兄さんとは連絡を取っているのかとか。だんだん父の言動も荒くなってきて、賭け事に行く日も増えた。そこから、じわじわではあるけれど、僕の家族の距離は離れていった。
 そのあとは、まあ、色々あって。
 いずれ、僕自身の心からも何も無くなった。意欲も無い、浮かぶものも、周りの景色さえも殺風景に見えた。
 まるで、透の描く、青い世界みたいなさ。全てが一色に包まれたような。
 普通に繕ってる分には何も問題はないのに、一人になると思い出す。自分が空っぽで、何も考えられていないって。
 高校に上がっても、環境が変わっても、これといって心が動かされることはなかった。毎日起きて、学校行って、寝て、また起きて、ご飯も食べたりして、宿題に手をつけたり。何をしても、どこか頭はぼーっとしたままだった。
 そんなことがしばらく続いて、気づいたら学年も上がってね。頭のどこかで、こんなこともしてられない、って思ってた。思うだけで、何も動けなかったけどね。僕の心は、自分が思うよりも弱いことに最近気づいた。
 そして、君、透に出会った。
 こうやって書くと、なんだか恋愛小説みたいだね。あながち間違ってないけど。
 透は、僕と一緒だった。それはずっと見ていて感じたものも少しあったけど、それだけじゃなかった。
 あの日、僕が透を家に誘って、透を傷つけてしまった時。
 透は「自分は醜い」と言った。ぽろりと吐き出した言葉の数々に、僕は初めて確信を持ったんだ。
 何でもかんでも、一緒一緒、っていうのも、なんだか縛りつけてる感じがして嫌かもしれない。それは、ごめんね。
 でも、小説でも、漫画でも、ドラマでも、映画でも、なんでも「共感」が人気に直結すると思わない?観客が自分と共通するところを見つけて初めて、やっとその登場人物の心に寄り添える。やっと自分のことについて、少し知ることができる。
 僕自身もあやふやだったことを、透を見て確信した。
 僕自身も弱かったんだ。ずっと。
 ……そういえば、さっき濁しちゃったことがあったね。兄さんが出ていってから、色々あったこと。透の心に突っ掛かりを残すのも悪いし、軽く話すね。
 僕は父さんに、協力、していた。
 勘のいい透なら、気がついたかな。そう、ずっと僕が疑問に思ってたこと。それがこの答えだ。
 僕は、父さんに作品を提供していた、いや、盗作させていた。
 文才に長けていて、僕の家を置いていった兄さんの代わりに。凡人の僕が。
 ずっと刊行が止まっていたのも、このせいだ。今更隠してたって、どうせ僕はいつか透に話してしまいそうだったし、この際気にしないでね。
 僕は父に一度、連想ゲームを誘われたことがあった。新月の晩にね。その時初めてちゃんと、父の部屋に入った。誘われるがままに、父の机の前の椅子に座ると、父に
「新月、と聞いて思いつくものは何か」
と聞かれた。僕は何を考えるもなく、父に話した。
「暗闇、静寂、微かな風、隠れるように流れる雲、虫の声、寂しさ、兄さんの声」
 父はそれを聞くと、僕に一冊の未使用のノートを僕に渡した。
「今話した言葉を、文章に書き表してみなさい。そして、次の新月にまたここへきて、俺に見せるんだ」
 僕は何を疑うもなく、そのノートを受け取った。そして、いつものように文字を書き連ねていったんだ。父は、「お前は文才がある。俺がちゃんと面倒を見れば、俺よりすごい作家になれるかもしれない。書き終わったものを見せろ。助言をしてやろう」と話していた。僕はそれを信じて、次の新月の夜に、文字でいっぱいになったそのノートを父に返した。
 ぺらぺらと軽くめくり、僕の書いた小説を読んだ父は、呆れたように、
「こんな文章を書くなんて、何を今まで書いてきたんだ。これだけの文章量が書けるのは褒めてやれるが、それ以外は素人並みだ」
 と言って、ノートを机のすぐ横のゴミ箱に投げ入れた。僕は流石にその姿にショックを受けて、涙が滲んだ。
そして父は、僕にもう一度未使用のノートを一冊寄越した。
「次は、お前の思うように書け。もっと上手くな」
 僕は項垂れたまま自室に戻ると、鉛筆を握って思い切りそのノートに文字を書き殴った。
 もっと上手くならなきゃ、父さんに認めてもらえるように。ずっと憧れていた、父さんに。
 何度も読み返した。気に食わないところは何度も書き直した。
 もう、慰めてくれる兄さんはいない。時に泣き喚きながら、一人執筆をし続けた。
 その次の新月の晩、僕はまた父さんの部屋に向かって、そのノートを渡した。
 しかし、父さんの評価は何も変わらなかった。
「どうして同じ表現ばかり使うんだ。どうして展開をこうも早めてしまうのか。そもそも内容がありきたりすぎる」
 僕はじっと黙って、父さんの言葉を聞いた。僕の弱いところをつかれ続けて、涙は目のギリギリまで溢れ出しそうだったけれど、内心どこかで父さんの言葉に納得する部分もあったのだ。
 そしてまた、未使用のノートを渡された。
 それが、何度も、何度も何度も続いて、気がつけば、僕の父さんが言うことはいつも同じになってきていた。
「もっと量を書け。展開が早まったっていい。それだけでは足りない」
 僕は、父さんの言いつけを聞いた。多少満足できない部分はあっても、展開の回転を早めていった。
 そして、ひたすらに父の助言とはもはや言い切れない、暴言なような言葉を聞くのが僕のルーティーンとなっていった。
 ある日、久しぶりに父の新しく刊行した小説を本屋で見かけた。しばらくは自分の作品に明け暮れていて、父の新作が出ているとは全く知らなかった。僕はそれを無心で手に取り、会計をした。家に帰って自室に戻る。
 久しぶりの新作。いつも待ち遠しくしていた、大好きな父の本を僕は開いた。
「あれ……これって……」
 僕は、まさか、と思いながらも、ページをめくっていった。父の文章であるその小説は、僕があの日、父にゴミ箱に投げ捨てられたものと酷似していたのだ。話の展開、登場人物の視点、セリフ、全てが、僕の編み出したものと。
 ところどころ、僕の拙い部分は修正されていて、綺麗な文章にはなっている。しかし、これでは父の文章ではない。僕の小説を添削しただけじゃないか。それに、あのノートは捨てたはず。
 急に思い立つと、僕は自室を飛び出した。そして、父の部屋に飛び込んだ。たまたま父は外出していて、誰もいなかったことをいいことに、僕は父の机を漁った。
 たくさん積み重ねられた紙の奥の奥。
 間違いなく、あの日捨てられたノートが仕舞われていた。
 その下には、僕が今まで父に酷く言われてきた小説の一つ一つが重なっていた。一冊取り出して中を開くと、中の文章は父が赤いペンで添削したようなマークが大量につけられており、文章も修正されている。
 ……なんだ、そう言うことだったんだ。
 僕はこの時、やっと真実に気づいた。あまりにも、遅すぎたけど。
 あの時、兄さんの部屋で盗み見たメモは、父のものではなかった。兄さんのものだった。
 兄さんの『手伝い』は、父の名義で世の中に小説を出すこと。
 そして僕は、兄さんの代わりとして、父に利用されていた道具だったことに。
 僕は兄さんに比べれば、明らかに凡人だった。
 見た通りに、僕のノートには大量の添削がされていて、まだまだ未熟だ。僕のずっと憧れた兄さんのような展開は想像できないし、表現もできない。
 僕はその後、一文字も書けなくなった。
 新月の晩に父の部屋に行くことも無くなったし、会話すらも無くなった。
 僕の世界は、その瞬間に空っぽになったんだ。
 ……って、ちょっと長かったかな。ごめんね。
 そんなこんなで、僕はいわゆる、『病んだ』んだよ。情けないことにね。
 ずっと逃げ出せばよかったものを、自分の弱さを理由にずっと父の手の内で自分を慰めてた。
 ……そうだ、僕が父のことを、父さん、と呼ばなくなったのは、その頃だったかもしれない。その時には、父さん、というよりも、あくまで血の繋がったものもの、としか感じてなかったからかな。

 話を戻すね。僕は透に出会って、心にずっと欠けていたものを、透と接することによって、ようやく見つけた気がするんだ。
 それはきっと、透にとっても一緒なんじゃないかな。って、あくまで予想だけど。
 心の弱さは誰にだってある。それは僕も透も、周りの人だってみんな一緒だ。
 それを認めてあげることも大切だけれど、時には少し膜から出てみるのも、最近は悪くないんじゃないかなって思ってる。
 ただ揺蕩ってるだけなら楽だけど、何も進まない。
 僕と透なら、二人で、それを乗り越えられるような気がする。

 透、僕は、君にずっと惹かれ続けていた。
 これからも、ずっと。
 離れるなんて、もう言わないで。
 傷ついた時には、言って。
 お互い依存する関係じゃない。支え合う関係になりたい。
 透を、ちゃんと知りたい。

 長くなったけど、僕が伝えたいこと、少しでも伝わったのかな。
 このノートたちを渡した僕はきっと、部屋の隅にでもうずくまって、やっぱり渡さないほうが良かったんじゃないか、って言ってると思う。ああ、この文章かいてる今の僕も、少し怖くなってきたかも。
 
 そういえば、この話の最初のノートのところ、途中から始まってたでしょ。
 このノートは、僕が書けなくなる前に、少しだけ使ってたものなんだ。なんだか勿体無くて、ずっと捨てられないままにしてたんだけどね。
 書きかけの物語、もしよかったら、読んでみて。
 あの頃の僕と、今と、何か少しでも変化があるんだとすれば、僕は嬉しい。
 僕は、成長できているのかな。


 文章は、これで終わっていた。
 何冊に分けられていたノートの最後の一冊を閉じる。そして、最初の一冊を取り出すと、一ページ目を開いた。
 今のジョー先輩の時よりもずっと拙い字で書かれた文字。それでも、ジョー先輩の芯の強さの面影はしっかりとある。
 
「僕の、兄さん」
 僕の兄さんは、自慢の兄さんです。
 僕の兄さんは、頭も良くて、力も強くて、背も高い、とてもかっこいい人です。いつも泣いてばかりの僕を、頭をなでて慰めてくれます。そして、おいしいお菓子を二つ、お部屋から持ってきて、僕に好きな方を先に選ばせてくれるのです。
 でも、ある日兄さんは、僕をおいて、この家を出て行きました。理由は分かりません。兄さんは、そっと僕の頭をなでて、そのまま行ってしまいました。僕の心には、悲しさは浮かびませんでした。それよりも、兄さんがなぜ出ていったのか、それだけがずっと気になっていたのです。
 兄さんは、たまに僕に会いにきてくれました。いつもの通り、おいしいお菓子を持って。僕はいつもそれを笑顔で迎えましたが、兄さんはいつも、家の玄関の前で「秘密だよ」と口に人差し指を当てていました。
 僕が兄さんを家の中に入れようとしても、兄さんは決して入らないのです。
 しょうがないので、僕と兄さんはいつも、近くの公園に行っていました。そこなら、兄さんも口に人差し指を当てずに、笑って話してくれるのです。
 ある日僕は初めて、「兄さんはどうして、この家を出ていったの」と聞きました。すると、兄さんは困ったような顔をしました。
「兄さんはね、お外の仕事がしたかったんだ」
 兄さんは、僕に向かってそう言いました。でも、僕は知っています。
 兄さんは本当は、大学のもっと先に進んで、言葉の勉強をしたいと言っていたことを。
 兄さんは今、家の壁を塗りかえるの会社で働いていて、お金を貯めているそうです。そんなの、僕は嘘だと知っていました。
 お金は、兄さんはたくさん持っていました。僕のおじいちゃんはとてもお金持ちだからです。
 でも、兄さんはこう言いました。
「それは、ジョーに、やりたいことをして欲しいからだよ」
 僕には、この言葉の意味がわかりませんでした。どうして兄さんがお金を貯めると、僕がやりたいことができるのでしょう。
 僕は、ただ兄さんに幸せになって欲しいだけでした。
 兄さんと公園でお別れをする時、兄さんは僕を寂しくさせないように、いつも一つ、お話を話してくれます。全てを話すのではなくて、毎回少しずつ話すのです。この話が続く限りは、また兄さんに会える。そう思えば、ジョーも寂しくないだろう。
 僕は、大きく兄さんにうなずきました。
 
 僕は、真実を知った。
 今までずっと、騙されていたのか。兄さんはずっと、そのことを知っていたのか。
 何故ずっと隠していたんだ。
 ……兄さんは、僕にやりたいことをさせるために。
 でも結局、結果は同じだったけれど。
 
 兄さんの前だけは、ずっと笑顔で居よう。心配をさせないように。兄さんが、ずっと僕にしてくれていたように。


 ここまでだった。この先は、今のジョー先輩の文章だ。
 大丈夫。ジョー先輩は変われてるよ。
 ……先輩も今まで、ずっと葛藤に駆られて生きていた。
 そして今、それが変わろうとしている。その流れに乗るように、私の心も動いている。
 私はふと、考えが浮かんだ。
 ポケットに手を突っ込むと、スマホを取り出す。そして、ジョー先輩の連絡先に電話をかけた。
 ー何コールかして、いつものジョー先輩が出てくる。
「もしもし」
「もしもし、どうしたの、透。もしかして、読んでくれたのかな」
「はい。ジョー先輩、ありがとうございました。その、なんて言うか、……私も先輩の心に救われたんです」
 私はそう一言言うと、一度呼吸をした。そして、再び声を発する。
「ジョー先輩、もう一度、本を作りませんか」
「え……」
 ジョー先輩は、思わず声を失っていた。
「ジョー先輩。今の心の変化を、本にしませんか」
「本に、って……でも」
 私も、無理な話だとは思う。
 ……けれど、今のこうして抱いている気持ちは、無駄にしたくはなかった。
「ジョー先輩の、いや、鳩羽譲之助の心の怪物を、解き放つ時なんじゃないですか。私も、手伝います」
 電話の奥で、静寂が続いた。しばらくして、先輩の息を吸う音が聞こえる。
「いいよ。やろう。もう一度」
「ーはい。ジョー先輩。そう言うと思ってました」