あの後、流石に陽が落ちてきたので、ジョー先輩と学校で別れを告げて真っ直ぐ家に帰ってきた。
 自分の部屋に入ると、部屋着に着替えないまま思い切りベッドに飛び込む。そして、ポケットからジョー先輩と連絡先を交換したばかりのスマホを取り出した。特に何も考えないまま、『鳩羽慎之助』と検索する。
 
 鳩羽慎之助。日本を代表する有名作家の1人。「群青に飛ぶ」「木霊の温情」など、純粋無垢で清らかな文章を得意とし、数々の作品をこの世に送り出した。しかし、今から五年前に出版された「譲られる椅子なんていらない」を最後に、界隈から姿を消す。数多い読者らは、新作が出るのを今も待ち侘びている。

『ジョー先輩の言ってた『本』っていうのは、ジョー先輩自作の本のことなのかな。人のことはよくわからないからなんとも言えないけれど、やっぱり自分の父親に感化されて、とか。まあ、これだけ有名で偉大な父を持っていて、あれだけ純粋そう、というか抜けているジョー先輩のことだから、あり得そう』
 寝転がったまま、スマホの画面をスクロールした。
 
 鳩羽慎之助にはまだまだ明かされていない秘密が多くあり、姿や家族構成、年齢までもが非公開となっている。いつか、公開される日が来るのだろうか。その時には、世界はその話題で持ちきりになることは間違いないだろう。
 
 ぴろぴろぴろ、と急に電話がなった。噂をすれば、ジョー先輩からだ。
「……もしもし、名波です」
「あ、透であってる?よかったー」
 電話の奥から、ジョー先輩の柔らかくて気の抜けた声が響く。
「あのね、せっかく連絡先交換してもらったのに、どうやってメッセージ送ればいいのか分からなくなっちゃって。頑張って試行錯誤してたんだけど、面倒になったからそのまま電話しちゃったんだ。ごめんね」
 そんなところだろうと思った。心の中で小さくため息をつく。
「それで、どうされたんですか」
「ああ、そんな大層な話じゃないんだ。明日、うちに来てほしい、ってだけで」
「さっきの話、冗談じゃなかったんですね」
「うん、そうだよ。それで、明日都合が悪かったら、悪いなーと思って」
 ちょ、ちょっと、展開が早すぎませんか……?この前連絡先を交換したと思ったら、もうジョー先輩の家に向かう感じですか。
「い、いや、都合が悪いとか、そういうのはないんですけど、何故に……?」
「ああ、今日話した、本の表紙についての話をしたくてね。学校で話すのもあれだし、せっかくなら、と思ってさ」
「は、はあ……」
「やっぱり、無理そう?美味しいお菓子も用意しておくけど」
 そういう問題じゃないんだよな。え、だって、一応鳩羽慎太郎の息子でしょ。そんな安易に招待してもいいものなんだろうか。
「ほら、ジョー先輩のお父様とか、お仕事されてたら、なんか申し訳ないですし……」
「ああ、父のこと?全然気にしなくて大丈夫!大抵パチンコか競馬してるだけだからさ。昼間はいないんだ」
 ぱ、パチンコ……?私の聞き間違いだろうか。
「んで、明日はどうかな。学校から家までは僕が一緒に行くし、帰りも透の家まで僕が送っていくからさ」
「あ、じゃあ、行きます……」
「了解!明日のホームルームが終わったら、美術室で待ってて」
「わかりました。では、失礼します」
「はーい、じゃあね」
 スマホを耳から話すと、電話をぷつりと切った。
 あの、鳩羽家って、一体どうなっているんだ……。鳩羽慎之助が賭け事?あんなにも純粋な文章を書く人が、しているものなのか。文章とは裏腹に、真実はわからないものなんだな。
 スマホの画面を閉じると、私はベッドの上から起き上がって勉強机の前の椅子にどかっと座った。明日の授業の最低限の予習くらいはしておかないと。今度こそ、問題を一問たりとも間違えないように。完璧であり続けられるようにしなければ。
 鞄の中から、わざわざ学校から持って帰ってきた教材を机の上に置く。突然、軽かったはずの心にどしりと重りが乗っかったような気がした。
『ううん。こんなこと、思ってる暇なんてない。今のうちにたくさん努力しておかなきゃ、鈍臭い私が、みんなに追いつけるはずなんてないんだから。とにかく、迷惑をかけないように。わかったなら、さっさとやらなきゃでしょ、私』
 無理やり意気込むと、私はペンケースからシャーペンを手に取り、握りしめた。


「透って、本当に真面目で頭いいよね。今度私にも勉強教えてよ」
「いや、全然真面目なんかじゃないよ。私だって、わからない問題ばっかりだし。さっきの授業の最後の問題だって、ちんぷんかんぷんだったし」
「そうなの、なんか意外だなー」
『どうだろう、今日は、当たり障りない会話が、ちゃんとできているんだろうか。表情だけじゃ、うまく読み取れないな。とにかく、必要なこと以上のことは言わないでおかなきゃ』
 4限目が終わって、昼休みに外で弁当を食べようと誘われたので、好意に甘えてついてきた。普段は教室で一人でさっさと済ませて次の授業の予習をしているが、今日は別にいいだろう。
「透って、いつも静かだしさ、どんな子なんだか初めは全然わかんなかったけど、めっちゃいい子じゃんね」
「ごめんね、私口下手だから、話しかけるのも苦手で」
「わかる、入学した直後とか、私も本当に話しかけられなかったー」
 お弁当を食べながら、当たり障りない話をひたすら繰り返す。だから、これと言って深い関係になれるわけでもないし、嫌われもしない。私は『本音を言いあえる友達』よりも、『もしもの時に助け合える関係性』がただ欲しかっただけなのだと思う。
「ところでさ、透って部活とか入ってるの」
「私は、美術部。中学の時にも入ってたから」
「へえ、んじゃ、めちゃくちゃ絵が上手いんだ」
「いや、全然。もっとうまい生徒は、わんさかいるし」
『あ、また否定から入ってしまった。自分から話繋げづらくしてどうするの。もう、本当に馬鹿』
「……あ、まあね、今度作品見せて!もしよければだけど」
 ほら、やっぱり。
 また自分の話の繋げ方のせいで、相手が困ってしまった。でも、私はこう話す以外に、どう会話を繋げればいいのかわからない。会話を繰り返していくたびに、どんどん自己嫌悪に落ちていく。
「うん、わかった」
「んじゃ、私、先生から手伝い頼まれてたの忘れてたから、先に戻るね。また後で!」
「う、うん、またね」
 いそいそと弁当を片付けると、その子は早足で離れて行った。すたすたと走り去る音が響く。せっかく誘ってくれたのに。結局私のせいで。
 膝に置いていた食べかけの弁当を見て、少し涙が滲む。もう食べる気にも慣れなくて、そのまま蓋をそっと閉じた。


 ホームルームも終わり、私は約束された通りに美術室の中でジョー先輩を待っていた。
 今日は土曜日授業だから、いつもよりも授業が終わるのが早い。他の生徒たちは、飛び出していくようにさっさと学校から出ていってしまった。
 静かになった校舎で、私はじっと外を見つめる。
『ジョー先輩は、なぜ私なんかにあの話を振ったのだろうか。絵のうまさだって微妙だし、もっと美しい絵を描く人だってたくさんいる。……私が頼まれたら断れない性格のことを、見抜いていたとか。いや、ジョー先輩に限って、それはないな。じゃ、なぜなんだろう』
 突然、美術室のドアが開いた。
「おく、れて、ごめ、んね、せん、せい、に、つか、まって、て」
「ジョー先輩!そんなに急がなくてもいいですから!それと、廊下は走らないでください」
 そういうと、ジョー先輩は肩を上下に揺らしながら、にこりと笑った。よくそんな呑気に笑えるものだ、と思う。
「でも、下に、車が、待ってて、くれてて、急いで、行かない、と」
「ダメです。とりあえずなんでもいいですから、休んでてください。ただでさえジョー先輩は細いのに、このままじゃ途中で折れそうです」
「そんな、こと、ない、よー、これでも、体育は、ギリギリ、二、だから」
「そんなに誇らしげに言わないでください!結構危ないです!」
 全く、とため息をつく。よくこの性格で、今まで生きてこられたものだ。
 それにしても、車が下で持っている、とは、どういうことなんだろう。やっぱり、有名作家の息子だけあって、高級車だったりとかするのだろうか。
 そんなことを思っているうちに、ジョー先輩がよろよろしながら立ち上がった。
「透、あんまり、待たせるのも、あれだし、早く、下に、いこう」
「いや、ジョー先輩明らかに瀕死じゃないですか。怪我しますよ」
「大丈夫、案外持久力は、あるんだ」
 ジョー先輩はにっと笑うと、私の腕を掴んだ。息切らしといて、どの口が言ってるんだ。
「ちゃんとついてきてね」
「ジョー先輩っ!?」
 ジョー先輩は一言そういうと、私の手を握ったまま、一目散に駆けていった。

「あの、急に、走り出して、急に、倒れるの、やめてもらえます?」
「あは、それは本当に、ごめん」
 ジョー先輩は、擦った足をさすると、あははと笑った。
 あの後、私の手を握ったジョー先輩は、一目散に昇降口へと駆け降りていった。そして、急いで靴に履き替え、いざ私の手を握り直して走り出そうとした矢先、ジョー先輩のスタミナが切れて、思いっきりその場ですっ転んだのだ。手を握られていた私もそのまま引かれて、瀕死のジョー先輩に追い討ちをかけるように被さって転んだ。幸い私自身は無傷だったが、私にのしかかられたジョー先輩は、しっかりのびきってしまったのだ。
「もう、危うくジョー先輩が私のせいで死んじゃう羽目になるところでした」
「いやいや、そんなに僕弱くないよー」
「どの口が言ってるんですか」
「あはは、ごめんごめん」
 ジョー先輩はぱんぱんと砂を払うと、よっこらせ、と立ち上がった。
「流石にもう転びたくはないし、すぐ近くだから、歩いていこうか」
「最初からそうしてください」
 
「ところで、その、車が待っている、というのは」
「ああ、僕の兄のだよ。仕事に行くついでに、僕の家に送ってくれることになってるんだ」
 ジョー先輩はそういうと、突然ぱっと指を指した。
「あ、あれが僕の兄の車だよ」
「え……軽トラ?しかも、荷物がたくさん乗ってる」
 ジョー先輩が指す車は、明らかにボロボロの軽トラだった。荷台にはたくさんの荷物が山積みになっており、かろうじて紐で支えられているが、揺れた衝撃で落ちてしまいそうだ。
「うん、かっこいいでしょ!軽トラ」
「いや、そうじゃなくて、そもそも定員二人まででは……?」
「ああ、荷台の隙間に隠れて乗るから、大丈夫!」
 ええ、と私は呆れた。そんなのでいいのか……。でも、せっかくのご厚意を断るのも申し訳ない。
「ほら早く早く!」
 結局、ジョー先輩に手を引かれて、軽トラのそばまで向かった。ジョー先輩は軽トラのそばまで行くと、こんこんと窓を叩いた。
「兄さん、遅くなってごめん。連れてきたよ」
 ジョー先輩は、軽トラの中に向かって話しかける。すると、くるくると窓を開けて日に焼けた、でも色素は薄い、ジョー先輩似の若い青年が現れた。ジョー先輩とは対照的に筋肉が至る所についていて、見るからに力が強そうだった。
「ジョー、遅かったな。兄さんも少し急いでるから、飛ばしても大丈夫か」
「うん、あでも、今日は僕だけじゃなくて、透も乗るから、安全運転で」
 ジョー先輩がそういうと、お兄さんは窓から少し顔を出して、ジョー先輩の後ろにいる私を見た。私はさっと会釈をする。
「ああ、昨日言ってたお嬢さんか。僕の弟に付き合ってもらって、すまないな。この車ももっといい車ならよかったんだが、仕事の途中でね。少しの間は、我慢をしておいてほしい」
「あ、いえいえ、こちらこそ、わざわざ送っていただけるなんて、恐縮です。私のことはお気になさらないでくださいっ」
 早口でそう言うと、ジョー先輩のお兄さんは、はは、と笑った。
「弟の友達とは思えないほどの礼儀の良さだな。これからも、弟のことを、よろしく頼むよ」
「あ、はいっ」
 そういうと、ジョー先輩のお兄さんは、ジョー先輩に向かって、
「お嬢さんを、いつもの荷台に乗せてあげてくれるか」
と明るく言った。
「うん、もちろん!透、こっちだよ」
 ジョー先輩は、私の手を握ると、荷台の上にひょいと乗った。私も手を引かれて、そのまま上に上がる。
「こっちの隙間。これ仕事の道具なんだけど、すごく頑丈だから、下に入れば安全なんだ。ここに入ってほしい」
 ジョー先輩に案内されるがまま、荷物の隙間に体を滑り込ませる。案外中は広くて、2人は余裕で入れる広さだ。
 ジョー先輩も後から入ると、軽トラの運転席に向かって、コンコンコンと叩いた。
「いつも、兄さんに乗せてもらってる時の合図。ちゃんと乗れたら、叩いて教えてるんだよ」
 わかったと言わんばかりに、軽トラは動き出した。ガタガタと揺れて乗り心地は良いとは言えないが、案外安定感はある。さすが軽トラといったところだろうか。
「なんか、小さい頃みた映画みたい」
「あ、透も同じこと思った?僕も毎回そう思ってる」
 ガタガタと揺られながら、私とジョー先輩は笑った。
「ところで、ジョー先輩」
「ん、何?」
「その、本というのは、なんなんですか」
「ああ、そういえば何も説明してなかったね」
 ジョー先輩はそういうと、私へしっかりと向き直した。思わず、私も息を呑む。
「僕が、有名作家の鳩羽慎之助の息子だって話は、前にしただろう。僕は、その影響もあって、幼い頃から文学に囲まれて生きてきたんだ」
 やっぱり、そうなんだ。環境がそうであれば、子供も感化されるというのは間違いじゃなかったみたい。
「それで、僕もそれなりに努力をしてきたわけなんだけど、ついに、僕も編集者さんが協力してくれることになってね、といっても父の協力があってのことなんだけど、小説を一つ、出版できることになったんだ」
 ジョー先輩は、誇らしげにそう語った。いや、親のコネをそんなに誇らしげに言われても……。
「あ、今絶対、絶対お前の実力だけじゃないでしょ、って思ったよね?でも、それは事実なんだよ。実際、僕はすごく恵まれているし、今こうしてここまで話が進んでいると言うのも、本当にすごいことだ。明らかに正当なやり方じゃないのはわかってる。でもね、実力があるかどうかは、読者が決めるものだと思ってるんだ。もちろん指標は必要だけれど、それを超越する力があれば、僕は」
 ここまで話して、ジョー先輩の口は止まった。
「……ま、まあとにかく、僕はね、僕を最大限に表現した一冊を作りたいんだ。それに、透が必要ってこと」
「でも、本って結局、中身が大事なわけですよね。私が表紙を描いたって、他の人が表紙を描いたって、何も変わらないんじゃないですか」
「いいや、違う」
 私の発した言葉を、ジョー先輩は塞いだ。
「もちろん、本の中身が素晴らしいことが前提だよ。でもね、それにプラス、人々の心を惹きつけ、印象付けられる表紙があったら?読んでくれるきっかけになるだけじゃない、読み終わった読者が、その表紙を見ることで思い出すんだ。まるで走馬灯のように、頭の中を駆け巡っていく。そんな表紙は、誰にだってかけるものじゃない。僕は、透だから、それができる気がしている」
 私、だから。何を根拠にそう言っているのか、全くわからない。けれど、不思議と嫌な気分は湧き上がってこなかった。
「今僕の家に、まだ未完成ではあるけど、原稿があるんだ。それに是非とも目を通して見てほしい。透の感じたことを教えて欲しいんだよ」
「……わかりました。とりあえず、確認、をしてからです」
「それは、オーケー、って解釈でいいのかな?」
「それはまだ言ってません」


「もうすぐ、僕の家に着くよ」
「なんでわかるんですか」
「だって、音が僕の家だもん」
 私は、軽トラの走る音で外の音が書き消されて何も聞こえないというのに。これも、土地勘の一環だというのだろうか。
「もうすぐ降りるからね、見て驚かないでよー」
「別に驚かないですよ、もうすでにジョー先輩の特殊さに勝るものはありませんから」
「え、僕ってそんなにオーラを放ってたけな。びっくりだよ」
「違います。その異常なまでの能天気さです」
 ジョー先輩のお兄さんが運転する軽トラは徐々にスピードが遅くなり、完全に止まった。
「透、もう出てもいいよ。頭ぶつけないように気をつけてね。……いったぁっ!」
「自分でぶつかっといてどうするんですか」
「あはは、結構痛いかも」
 ジョー先輩はぶつけた頭に手を当てながら、よろよろと外に出た。私もそれに続く。
「兄さん、ありがとね。仕事、頑張って」
「おう、言われなくても頑張るさ、ジョー。お嬢さんも、またいつか」
「はい。今日はありがとうございました」
 ジョー先輩のお兄さんは、ジョー先輩と同じように、にっと笑うと、再び軽トラに乗り込んで仕事に向かっていった。
「ところで、ジョー先輩の家って、どこなんですか」
 私がそう聞くと、ジョー先輩は平然とした顔で言った。
「え、ここだけど」
 あの、明らかに高級住宅地のど真ん中にある、豪邸ですけど……?
「大丈夫、今日はお客さんが来るって、ちゃんと伝えてあるから。僕の部屋に案内するね」
 ジョー先輩は私の手を握って、なんでもない顔をして玄関へ向かっていった。
 インターホンを押すと、
「ジョーです。今日はお客さんがいるので、そのまま部屋に行くね」
 と話しかけた。その瞬間、かちゃり、と鍵のあく音がする。
「僕の部屋以外にも、応接間とかも一応あるんだけどさ、荷物運ぶの面倒だから今日は我慢してね」
 我慢するも何も、もうすでにだいぶ庶民が来てはいけない雰囲気なんですけども。
「僕、朝起きるの苦手だからさ、玄関のすぐそばの部屋にしてもらってるんだ。少し狭いかもだけど、座れる椅子くらいは用意してるよ」
 ジョー先輩はそういうと、玄関のすぐ左の扉に触れた。その瞬間、かちゃり、とまた鍵のあく音がする。
「この家、無駄にセキュリティちゃんとしてるから、朝急いでる時とか本当に焦るんだよねー」
 さ、どうぞ、とジョー先輩は私を中に入れた。
 その瞬間、目に飛び込んできたのは、外観からは想像もできないような和室の空間と、とてつもない量の紙の束だった。
「これでも、片付けたほうなんだけどね。どうしても、捨てられなくて」
 思わず、感嘆の声を漏らす。部屋が広いのはもちろんのことだけれど、積まれた紙一つ一つにびっしりと手書きの文字が刻まれている。きっと全て、ジョー先輩が書き溜めたものなんだろう。
「本当、いつも私の予想の斜め上をいきますね、ジョー先輩は」
「え、そう?そんなに気に入った?」
「別に、気に入ったとは言ってませんけど」
 でも、ジョー先輩の部屋は、想像していたよりは無機質な部屋だった。異常な量の紙束を除けば、普通の和室と相違ないのだ。
「この部屋は、僕が頼んでこうしてもらったんだ。畳の雰囲気が大好きだから。あと、敷布団がすごい好き」
 ジョー先輩は、部屋の真ん中に私を案内すると、座布団をほいほいと置いた。
「これ、めちゃくちゃ気持ちいいんだよー。ずっと正座してても、あんまり疲れないんだ。透は別に、どんな格好しててもいいけどね」
「いや、そう言われたら、正座せざるを得ないじゃないですか」
 ジョー先輩に案内されるがままに、私は座布団に座った。いやでも、これが案外心地いい。待って、普通にハマりそう。
「あ、大事な本命を、渡さなくちゃね」
 ジョー先輩はそういうと、部屋の隅にある机の上にどさりと置かれていた紙束をわっせわっせと運んできた。これまた結構な量で、しかもそれが全て手書きというのだから驚きである。
「こ、この量ですか」
「ああ、別に全部は読まなくていいよ。読者は必ずしも、全ての文章を読んでくれるとは限らない。その中でも、どれほどの感情を読者の心に残すことができるか。それを僕は知りたいんだ」
「わかりました。できる限り、読んでみますね」
「よろしくです!その間、僕は新しいアイデア浮かんで来たから、ちょっとまとめるね」
 ジョー先輩はそういうと、すたすたと机の方へと向かっていった。
 この量の文章を書いておいて、まだ溢れ出てくるというのか。あの頭の中には、一体どれほどのアイデアが浮かんでいると言うのだろう。ジョー先輩、恐るべし。
 私は、ジョー先輩に渡された紙束を見る。
 タイトルは、『燕』と書き付けてあった。
 走り書きの、でも美しいジョー先輩の字に、私はもうすでに圧倒されそうになる。
 私は少し意気込むと、最初の一枚をめくった。


「ジョー先輩、読み終わりました」
「おお、もしかして、全部読んでくれたのかな」
 私はこくりと頷いた。
 全部読んだのではない。ジョー先輩の文章が、私を離してはくれなかったのだ。
 題材は、学生の秘めた心の内、といういかにもよくありそうなものだが、ジョー先輩の文章の連ね方は、そこらのものとは比べものにもならない。緻密で繊細であり、読者の心の動きを捉え、逃れられないように誘導している。私の言葉では到底表現しきれないような、恐ろしいほどの魅力とそれだけの力が、ジョー先輩の文字一つ一つに込められていた。
「素晴らしかったです。……って、これじゃ何の参考にもなりませんよね。ごめんなさい」
「いや、いいんだよ。透にその言葉を言わせるくらいの力があった、ってことだよね」
「正直、ちょっと悔しいですけど」
 初めは少し不安に思っていたが、この実力は、親のコネとかそんなことは言っていられないくらいに圧倒された。素人の私が言うのも説得力がないと思うけど、確実に伸びる。
「どうだろう、本格的に、この話を進めてもいいかな」
 私は一つ息を吐くと、ジョー先輩の目をじっと見て言った。
「……いえ、この話、お断りさせていただきます。ジョー先輩」
「え……」
 ジョー先輩も、思わず呆気にとられている。
「な、なんで」
「私には、荷が重すぎるんです。ジョー先輩の実力があるからこそ、私じゃその力を引き立てられない。プロでもなんでもない、ただの素人の私に、務まるはずがありませんから」
 私の醜いところだ。ジョー先輩があれほどにも能天気だから、もっと支離滅裂で、子供っぽくて、自分の父親の真似事の一環なんだろうと思っていた。でも、実際はそんなものではなかった。私の想像をずっと超えてきて、ジョー先輩は私よりもずっと先を見ていて、止まらずに走り続けている。人の見た目で判断して、軽々しい気持ちでジョー先輩と接してきた自分が許せない。過去に戻りたい。やり直したい。ジョー先輩にあった頃の自分の元へ行って「初めからお前は見合わない」と伝えてやりたい。
「違う、透。僕は、透がプロとか、プロじゃないとか、そんなことは気にしてない。僕のものに見合わないとか、そんなこと言わないでよ。透は、僕自身が、絶対にこれだ、と思ったんだ。それに技術がどうとかなんて、関係ない」
「関係なくないよ」
 私はそっと呟いた。その瞬間、ジョー先輩は黙ってしまった。
「私は、ずっと自分が醜い人間だった、ってことを忘れてた。ジョー先輩が、こんなにも能天気で、いつも同じように接してくれたから。私の力で上手く行ってる、って思い込んでた。本当にひどいよね、私って。内心、ジョー先輩には文才がなくて、下手っぴで、出版なんて到底できないようなものを想像してたんだから。そうであれば、私の絵は、ジョー先輩の作品を少しでも格上げするために使われるんだ、って。まだ心が救われた。でも、実際は全然そんなことなくてさ。ジョー先輩は、私よりもずっと遠くの世界を見てた。私は足元ばかり。こんな人が、ジョー先輩の作品と合わさったって、せっかくの素晴らしさを損ねるだけです」
 気がつけば私の目には、涙が浮かんでいた。抑えようにも、目の奥からどんどん溢れ出してくる。
「ほら、私って本当に、塵みたいな人間でしょ?こんな人間、誰も相手になんかしたくないよね。そりゃそうだ、先輩だって……」
「……わかった」
 ジョー先輩は一言、そうつぶやいた。それはどうしようもなく悲しそうで、でも、軽蔑の心は一切読み取れなかった。
 きっとジョー先輩は、感情を隠すのが上手いんだ。そうだよ、いつもあれだけ明るいんだもん。本当は裏表だってきっと激しくて、今までずっと私に隠してきただけのはず。
「わざわざ招待してもらったのに、本当に、ごめんなさい。今日は、お暇します」
「送っていくよ」
「大丈夫です。私一人で帰れます」
「……そっか。わかった。気を付けてね」
 私は、ゆっくりとジョー先輩の部屋を後にした。豪勢な玄関から出ると、途端に涙がもっと溢れ出してくる。こんな道端で泣いてられない。私は涙を袖で勢いよく拭いて、駅へと走っていった。


 それからというもの、ジョー先輩は一度も美術室に来てくれることは無くなった。連絡もこないし、学校で会うこともない。きっとジョー先輩は、私を心底軽蔑したに違いなかった。あれだけの見込みをしてくれたにも関わらず、私の心はいつまでも醜いままだった。後悔しても仕切れないのはもちろん、これ以上自分が良い人間にもなれないことは明白だった。
 どう足掻いても、気がつけば自分の欲に従順になっている。それでジョー先輩を傷つけてしまったことに、さらに憤りを覚えていた。

 
 気がつけば、もう夏も超えて九月になっていた。まだ残暑が続いているが、ちらちらと秋の姿も見え隠れしている。
 いつものように私は部室へと向かって、白紙のキャンバスを取り出した。
 前回まで書いていたのとは違う、文化祭の宣伝用のポスターを依頼されて、新しく用意したのだ。
 いつものように、耳にイヤホンとはめ込む。何も変わらないプレイリストを、淡々と流した。周りの音は遮られ、私の意識以外は何もいなくなる。
 本当はもう、部活来るつもりはなかった。そもそも自由な部であるのもそうだけど、ジョー先輩のことを少しでも思い出したくなかったのだ。もう、終わったことだと分かっていても、絵を描くたびに記憶が蘇る。
『ああもう、いつまで私は考えているんだろう。さっさと忘れて仕舞えばいいのに、たった数回しか会ってもいないジョー先輩のことなんか』
 文化祭の準備が本格化するなかで、唯一美術部に所属していた私がクラスの店の絵を任された。拒否しようにもできる雰囲気では無かったのだ。本当は気があんまり向かなかったけれど、それ以外にこれといってできることも無い私にとって、唯一貢献できることだった。これ以上は私の我儘になってしまうし、このくらい……。
 私はいつものように、流しの上にかけられている筆洗を手に取り、水を注ぐ。
 筆洗を机に運ぶと、いつも使っているパレットと少しの絵の具を取り出した。パレットに乗ったままのかぴかぴになった絵の具が、まだいくらか残っている。いつもどうにも勿体なくて、洗わずにそのままにしてしまうのだった。
 筆先を水に浸し、固まった絵の具の表面をなでる。じわじわとすぐに溶けていき、筆の先に付着した。
 パレットから筆を離すと、真っ白なキャンバスの上にいつものように乗せる。
『一応コンセプトは……迷宮、だったかな』
 私のクラスの出展する店のコンセプトは、こうだ。
 突然異世界の路地裏に迷い込んでしまったプレイヤー。見た目も話し方も独特な街の様々な人交流し、戦いを交えながら、現実世界へと戻る術を見つけ出す。
 いかにも、よく見る設定だと思うが、何せグラフィックにとても力を入れているらしく、物語序盤の路地裏は、本当のものかと勘違いするほどだった。
 せっかくだし、路地裏を描くか。
 キャンバスの上で握られた筆を、つっと動かしていく。

「あと、迷宮のストーリーはこんな感じなんだ。普段は自分の気持ちを発すことのできない少女が、帰り道で突然異世界に迷い込んでしまって、途方に暮れるの。言葉は通じず、その街の人々は誰一人として、その少女の気持ちは読み取ってくれない。少女が道端でうずくまっていても、誰一人として助けてはくれないの。なぜなら彼らは、口に出して表現されたものしか理解しない風習を持っているから」
 クラスの女の子の1人が、確かそう話していた。
 そのストーリーを踏まえて、迷宮の中のキャストは誰一人として日本語を話さないし、プレイヤーを助けない。平然と、日々の生活を過ごすのだそう。

 水で伸ばした絵の具を何を考えるもなく伸ばしていく。自分が、なんとなくこうだと思った方へ。

「それでね、その風習に気づいた少女は、必死に声をかけようとするんだよ。苦手なジェスチャーや、他人の真似だってした。そうしないと、何も進まないし自分が助からないことを理解してね。必死に欺いた」
 私はその話に、うんうんと大きく頷いた。特に意味なんてない。なるほど、と思ったから頷いただけだ。
 このクラスだって、結局は表面上なだけであって。互いの利害の一致をさせて、穏便に生活をしているだけなのだ。
 そのためなら、私も平気で嘘をついたし、笑った。

 絵の具の濃さを調節しながら、陰影をつけていく。
 中心に描く予定の少女が、一人ぽつりと光を照らされているかのように見せるために。どんなに端っこにいたって、必ず光が当たる時はくる。誰かが見ているのだ。心なしか、少女にそれを自覚させたくなった。

「そして少女は、なんとか街で生きる術を見つけていくの。時には納得いかないこともあったり、争ったり。そんな中でも、少女は裏もなく、ただ発せられる言葉だけを信じてもいいの世界に飲まれていった」
 そして少女は、自分の居場所を見つけたってわけか。

 少女の形を、おおまかに象っていく。何も知らない、私は悪くない、って純粋な目でこっちを見ているように。
 そんな少女を、その街の人は誰一人として、助けはしないのだ。情が欲しいなら、そう発する。ただそれだけ。

「けれど、その世界は少女の味方なんかじゃなかった。そもそも少女は異端の存在だもの。誰かが『少女は敵だ』と一言でも発して、それを信じた日には。少女の居場所はあっという間になくなった。表面で全て完結される分、それだけ脆いものでもあったの」

 少女の顔を、丁寧になぞった。陶器のような、若く綺麗な曲線。発育途中で、淀むことのない姿。どれだけ純粋で、愚かなものだろう。

「少女は、焦って逃げ出した。自分の居場所は、やっぱりどこにもなかったんだ、って泣き喚くの。けれど、その間に少女は気がつくんだ。現実の世界で居場所をなくしていたのは、紛れもない自分自身だったんじゃないかってことにね。いつまでも何も言わず、ただただ周りに流されて、周りのせいにして、自分をかわいそうだと慰めて。それでまた自己嫌悪に陥っていく自分に、やっとそこで気づいたんだ」

 少女の体と、取り囲む背景の描き込みを増やしていく。少女の目にはこの世界はどう映っているのか、美しい世界か、はたまた醜い世界か。

「そして少女は、やっと帰る道を見つけるんだよ」
「でも、どうやって」
 一人の男子が、女子生徒にそう聞いた。
「それはね、内緒」
 話を聞いていた生徒たちから、一気にブーイングが上がる。
「だって、少女が帰ったとして、その結果をこっちが決めつけたらつまらないわけじゃん。少女の決めた道は、何かその世界の仕組みを利用したものかもしれないし、気づいたら元の世界に戻っていたのかも。プレイヤーにも、その選択肢を考えて欲しいんだ」

 筆先を、キャンバスからすっと離した。
 もう少し加筆をしたら、完成で良いと思う。
 でも、どこかまだ足りない部分がある気がするのだ。

「透、うちのクラスの文化祭のポスター、どう?」
「あ、ああ、あともう少しで完成すると思う」
 突然、教室で店の設営に勤しんでいたクラスメイトの1人が、美術室に飛び込んできた。
「私、本当に何を描いても、気づいたら青ばっかり使ってて……それでも大丈夫なの?」
「全然!こちとら全く絵を描けない身からすれば、透の絵は、ルーヴル美術館飾られてるくらいの凄さだから!」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる!」
 んじゃ、後でね、とクラスメイトはすたすたと美術室を後にした。
 もうほとんど着彩が終わってしまったし、もうこのまま終わりにしようか、と思った時だった。
 ふと、私の頭に、ジョー先輩の姿が思い浮かぶ。何度も忘れようとしたのに、ふとあの能天気な笑顔を思い出してしまう。実際一緒にいた期間はほんの数日しかなかったのに、あの強烈なジョー先輩の姿。まるで、体全体で黄金に眩く光っているような。
「黄金……か」
 私は、終わらせようとしたポスターに視線を向けた。少女が向かっているのは、白く光る星だ。
 私は、思い立つと、青い絵の具しか出されたことのなかったパレットに、黄色の絵の具をちょこんと絞った。濡らした筆先に少しその絵の具をつけると、白く光ってた星に上書きしていく。気づいた時には、大きく光る黄色の光がポスターのど真ん中に描かれていた。
「これなら……」
 私は、描いたばかりの紙を手に取ると、そのまま文化祭の準備をしているクラスのもとへ、駆け戻って行った。


 毎日はあっという間に過ぎていき、気がつけば文化祭当日になっていた。元々私の高校は文化祭に力を入れているらしく、文化祭には生徒や保護者だけでなく、様々な人々が押し寄せて来ていた。私のクラスの脱出迷路は、それはもう大盛況だったらしく、一時は一時間待ちの賑わいだったという。
 しかし、私の驚いたところは、そこではなかった。私のクラスの店に来たお客が、記念に私の描いたポスターの前で撮った写真をネットに投稿したらしく、そこからとてつもない勢いでその写真が拡散されていったのだ。
「ね、ねえ、透!」
「え、どうしたの。手が足りていないというのであれば、どうせ行きたいところもないし、手伝いに戻るけど」
「そ、そうじゃないの。これ見て!」
 クラスメイトの一人に、突然スマホの画面を突きつけられて、私は唖然とした

ある高校の文化祭のポスターが話題に!表現力はもはやプロレベルで、数々のアーティストが感嘆の声を漏らしている
この絵を描いたのは、一体誰なのか!?

「な、なんなの、この記事……」
「なんか、透のポスターの絵がめちゃくちゃバズったみたいでね。今急速にネットで話題になってるんだよ!」
 私の描いた絵が、世間に広まって、話題になってる……?
 何がどうなっているのか、全く理解が追いつかなかった。何故、私なんかが。
 無意識のうちに私はトイレに駆け込んでいて、冷めない興奮を抑えつけようと必死だった。
 これは本当に真実なのか、本当はただの見間違いで、全てが嘘なのではないか。私はふと思い出して、ポケットに突っ込んだままだったスマホを急いで取り出した。唯一持っている、SNSのアカウントを開く。そこには、今まで描いていた絵を記録していた。
「嘘ー」
 ほぼゼロに近かったフォロワー数は、何倍にも増えていた。一番最近上げた、文化祭の絵の一部に自分では考えられないほどのいいねが付いている。

「これ、今話題の絵の人のアカウントだよね?」
「作風が完全に一致してる。間違いない」
「隠れた天才現る」

 とめどなく届くリプライ。もはや、自分が別の何かに変わってしまったかのようだ。
『もしかしたら、私は気づいてなかっただけで、実力が、ちゃんとついていたのかも知れない。……先輩に、手の届くくらいの』
 そんな感情も、気づけばちらちらと浮かぶようにまでなった。その度に、
『いやいや、こんなことくらいで、浮かれちゃだめだ。天狗になってどうする。また、馬鹿するところだった』
とほっぺを叩く。しかし、一度でも評価された、という感情はなかなか消えない。
 今までずっと静かで私しか存在しなかった世界が、急に騒がしくなった気がした。
 私は自分でうまくやれている、と心のどこかで思いながら、どこかふわふわしたまま過ごしていた。


 文化祭も無事に終わって、一週間がたったあたりだろうか。湧き上がった熱はひとまず落ち着いたものの、私の心の中には、いまだに浮ついた何かが残っていた。
『どうせ、たまたま話題になっただけ。あれからネットも一気に冷めたし、奇跡か何かだったんだ』
 ……でも。
『ところで、ジョー先輩は、今どうしているんだろうか。同じ学校にいるはずなのに、あれから一度も顔を合わせていない。やっぱり私、ずっと避けられてるんだ。そりゃ、あんなこと言っちゃったし……。うわ、本当なんてこと言ってしまったんだろう。ジョー先輩もきっと相当傷ついたよな。……会えたとしても、とてもとても顔を合わせられそうにない』
 私は、いつもの通りに、部室へと足を進めた。三年生も引退して、さらに人数が減った美術部は、いつ行っても閑散としている。
 ガラガラと美術室の扉を開けると、やはり一年生数名と二年生の先輩一人、先生が机に突っ伏して寝ているだけだった。いつもの定位置にのろのろと向かい、鞄を下ろすと、美術部専用の棚を開いた。その中には、何人かの生徒の作品と画材置き場になっていて、私はその中から、描きかけの絵といつも使っている水彩絵の具を取り出した。特に何を考えるもなく席に戻ると、キャンバスを置く。
「……あれ、何、この紙。誰かの、ひっつけてきちゃったかな」
 キャンバスの端に、軽くおられた紙が引っかかるように張り付いている。手でそっと引っ張ると、案外すぐに取れた。折られている紙を無造作に開くと、私は思わず息を呑んだ。

 透へ。
 この前は、ごめんなさい。まだ会ってばっかりだったのに、急に僕のお願いを聞け、だなんて、本当無理な話だよね。
 言い訳に聞こえるかもしれないけど、僕は純粋に、透の描く絵に惹かれたんだ。ただそれだけの感情で、見ず知らずだった僕についてきてくれただけでも、奇跡みたいな話だよね。
 透は、プロじゃない、自分を卑下していたけれど、そんなこと言われたら僕だってただ有名作家の息子ってだけで、外面だけ見ればただの素人だ。何になるにしても、それだけ経験を積み重ねてこその肩書きだ。つまり、僕も透も、同じスタートラインに並んでいるわけ。
 と、話が逸れてしまったね。僕、透に伝えておきたいことがあったんだ。あの小説、出版することを辞退したよ。別に透のせいとか全然そんなんじゃなくて、完全に僕の問題。編集者さんと、ちょっと揉めちゃってね。せっかくの話を、僕が白紙に戻してしまったんだよ。全く、僕ったらいつまでも透に言われた『能天気』が治らないや。また呆れられちゃうね、とほほ。
 だからね、透。今度は、お互いを縛りつけるんじゃない、ちゃんと向き合った立場から言わせて。
 僕は、透の絵が好きだ。それだけは、何があったって変わらない。
 また、透の絵を見に行くよ。って、ここに来てる時点で、ちょっと見ちゃってるんだけどね、ごめん。
 とにかく、もし透さえいいなら、また僕に電話して。いつでも待ってる。
 ジョーより。

 最後の一文字まで目を通すと、そっと紙を閉じた。
 ジョー先輩はこんな手紙をわざわざ書いて、捻くれていた私に気を利かせてこの絵に留めておいたのか。やり方に難ありだけど、なんだかんだでジョー先輩らしい。
『何を私はうじうじと考えていたんだろう。結局、自分のことばかり考えていたんじゃないか。自分がずーっと考えている間に、事は進んで、話もなくなっていたというのに、自分の絵が少し伸びたからって理由で、また依存してた』
 そう思ったとたん、私ははっと目を覚ました。
『私は、ずっとジョー先輩の優しさに甘えていたんだ。同じくらいの技術があれば、また私を見てもらえる、声をかけてくれるって、受け身ばっかりで。自分から動こうとなんて、一切しようともしなかった…本当、馬鹿みたい』
 私は、手に握られた紙をじっと見つめた。あの時読んだ原稿と同じ、癖のあるでも達筆で美しい、ジョー先輩の字が連ねられている。
 私はその紙を大切にポケットにしまうと、描きかけの絵と絵の具を再び棚にしまった。そして、足元に無造作においていた荷物を手にとる。
「先生、今日は用事があるので、はやめに切り上げて帰ります」
「え、あ、はーい、気をつけてねー」
 先生の声を待たずとして私はすたすたとさっきよりも少しだけ軽い足取りで、美術室を後にした。もう、何も気にしてなんかいられない。
 急いで校門から出ると、制服の片方のポケットに突っ込まれていたスマホを取り出し、電源をつけた。そして、しばらくの間開くこともなかった連絡先を開いて、画面をタップする。
 スマホを耳に当ててしばらく待つと、慌てたような声をあげて返事をする、あの能天気な声が電話の奥から響いてきた。
「もしもし、ジョー先輩」
 
 ー僕が美術室に突然立ち寄ったのに、特にこれといった理由はなかった。
 強いて言うのであれば、美術部に所属するクラスメイトが以前から僕に、一度でいいから覗きにこいよ、と言われたからだ。
 僕自身は特に部活も入っていなかったし、前々から誘われてはいたのだ。いや、正直絵を描くこと自体には興味はなかったし、運動部はそもそも性に合わないから、一応ね、という程度だったけど。
 なんだかんだでずっとやる気が出なくて、実際向かったのは、六月に入ってからだった。その頃はとにかく雨ばかりだったし、わざわざ濡れて帰るのも気が乗らなかったその日、ふと、立ち寄ってみようと思った。
 美術室は相変わらず閑散としていて、二桁にも満たない数の生徒が好きに制作に取り掛かっていた。みんな、もちろん僕には到底辿り着けないほどの上手さだったし、技術もアイデアも個性的で僕の感性も刺激された。でも、ある一枚の絵が視界に入った時、そんな感情は一瞬にして吹き飛んだのだ。
 その絵は、異色の雰囲気を放っていた。パレットには幾らかの色が絞られているのに、キャンバスに乗っているのは、たった一色。青だけだった。
 まるで、描いている本人には周りの景色がこう見えている、という投影のような、寒色なはずなのに、どこ心地いいと感じられるような。僕の言葉をもってしても、表現しきれない。
 また、その絵からはどこか無気力さも発していた。でも、その奥底からはたくさんの感情がひしめき合っていて見ているだけでも、心の隙間に入り込んでいる。
 まさしく、この美術室においては、明らかな異端の存在だった。
 その絵に向かって、一直線に視線を向けて表現に励んでいたのは、純粋な瞳をした少女だった。クラスで一人はいる様な、これと言って目立った特徴も見当たらない女子高生。けれど、その瞳の奥は何かが溢れそうで、一生懸命にとどめているような気がした。
「綺麗……」
 僕は、彼女の素質と表現の深さに思わず感嘆した。
 彼女にもどうやら聞こえていたようで、こちらの世界に戻ってきたような驚いた顔をしていた。
 あ、ちゃんと、人間なんだな。って、なんて失礼なことを思っているんだ、自分は。
 それなら、自分だって大概だ。これだけへらへらしておいて、何一つ、実行すらできていないんだから。
 ……でも、不思議と彼女の世界には、僕の心が共鳴したように感じた。勝手なこっちの想像だけどね。
 僕の中の、インスピレーションやらなんやらが、塊になって湧き上がってくる。
 ーまた、あの感覚が戻ってきた。
 一度は無くなった、奥底の感覚。
「また、君の絵を見にくる」


 家に帰ってからも、あの高揚感は収まることはなかった。
「今まで塞がれてた、重い重い岩が、何かの拍子で外れたみたいな!いや、今まで見つからなかった宝物が急に見つかったみたい、って言った方が正しいのかな」
 あ、と呟くと、畳の上にだらしなく転がっていた僕は、さっと立ち上がった。
 自室の窓のそば、箪笥の奥底を引っ掻き回した。そして、はるか昔に仕舞い込んだノートをわっせわっせと引っ張り出す。
「これ、懐かしいなぁ。もう何年前になるんだっけ」
 確か、小学生の頃に使っていた頃のものだっけな。まだ兄さんが学生で、この家に住んでいて。頭の弱かった僕に、教鞭をたくさん振るってくれたっけな。結局、あんまり身には付かなかったけど。
 そして、父がまだ……いや、活動していたときだ。あの時はきらきらと輝いて見えたな。懐かしい……って、今がそう見えないと言ったら、嘘、になるかも、いや、ならないかも?、しれない。結局どっちなんだよ、ってのはなしね。
 いくらかもう既に使われているノートをペラペラとめくると、新しい白紙のページを開いた。
 あの頃、この紙に書き付けていた感覚と変わらないものが、今僕の心に湧きあがろうとしている。
 机のそばに置きっぱなしにされていた鉛筆を手に取ると、一行目に早速さらさらと文字を書き連ねた。

『青に、染まる』

 しばらくは、ずっと考え続けていた。
 何故あそこまでに惹かれたのか。他の部員ではなくて、彼女に。
 一ヶ月ほど経って、急に思い立った。もう一度、彼女の絵を見に行ってみよう。
 そういえば、あの時「また見にいく」って言ったんだっけ。行く口実ができてるし、せっかくだから。
 
 それから、彼女、名波透の元へは何度も通った。彼女の腕から描き出される世界はいつもいつも、僕の創作意欲と表現の幅を広げてくれた。
 本人はあまり気に入っていない素振りを見せているけれど、僕の心には深く浸透している。
 彼女の名前の通りに、透き通っていて何層にも重なっているその色は、神秘的の言葉の他に言い表せなかった。
 僕は毎週のように、彼女の元へ行っては、後ろでじっとその出来上がる姿を見つめる。それだけでも、ものすごい幸福感と高揚感に包まれた。
 時より、ふと浮かび上がってくる言葉がある。最近は、忘れないように、とメモをすることも多くなったかもしれない。これもまた、成長の一つなのかな。
 
 最近、僕の周りに視線を感じるようになったかもしれない。昔からそうだったけど、なぜか人が寄ってくる。僕、そんなに価値のある人間に見えるのかな?そうであっても損をすることはないけど、少し、彼女の気が散っているように思える。
 早いうちに離れてあげたほうがいいのかもしれない。でも、もう少し見ていたい、見逃したくないという思いの方が強いから、葛藤が続いている。

 周りに流されてしまって、つい、そのまま誘いに乗ってしまった。
 書道自体は嫌いじゃないけど、彼女が遠く感じる。物理的にも、精神的にも。
 周りは皆、僕にたくさん優しくしてくれるし、本当にありがたいとは思っているけど、僕求めているのはそれじゃない。
 ただ、彼女の描く姿がそばで見られれば、それだけでいいのに。


 彼女と会ってから、もう一、二ヶ月が経っただろうか、僕の手は一向に止まることを知らなかった。あまりにも熱中するものだから、おじいちゃんが慌てたように僕の部屋に飛び込んできて、久しぶりに大笑いしたな。こんな些細なことすらも、久しぶりに感じるなんてな。あは、今度兄さんに伝えなくちゃ。
 そういえば、僕がこのおじいちゃんの家に移ってきてからどのくらい経ったのだろう。確か、……父が母と別れてからだっけ。もう随分と、時間が経ってしまったんだな……なんせ、僕がもう高校生なんだもの、そりゃそうだよね。
 こんなに考え事をするのも、久しぶりかもしれない。それまでは特に感じることもなければ、ただ周りに流されるだけだった。
 でも、なんでなんだろう。彼女の絵に、僕はこんなにも感化された。
 ……いや、正確には、彼女に、なのかな。どこか、シンパシーを感じるっていうかさ。
 彼女の場合には、自らの手を伝って、心のうちを投影しているのだろうか。それにしても、あの引き込む力は異常だった。
「あの子と、もう少し、話がしてみたいかも」
 そう思った瞬間、ふと、何かがぽんと浮かび上がって気がした。何を考える間もなく、僕は紙と鉛筆を握る。
 あれから、たくさんのアイデアが浮かんできたものだけれど、それとはまた少し違った。
 ……前に少し書いたあのノート、先が進んでないんだっけ。
 書き始めようとしていた紙を避け、僕は机の引き出しから大切にしまっていたノートを取り出した。ぺらぺらとページをめくると、二ヶ月前と何ら変わりもない『青に、染まる』とただ一言だけ記されたページが浮かび上がる。
 僕はその最初の一行目に、鉛筆の先を当てた。
「最初の一言は、きっと」

「も、もしもしっ!まさか、透!」
「……はい。そうです」
「と、透!あの時は、本当にごめんね。僕、僕は」
「ジョー先輩、私こそ、本当にすみませんでした」
 落ち着いた声で、私はそう言った。
「……、透」
「私、本当に馬鹿みたいですよね。あんなに後悔したっていうのに、また浮かれてたんですから」
「浮かれてた、って……、もしかして、ネットのこと」
「知ってましたか。……そうです、惨めなことに」
「み、惨めなんかじゃないよ。それって、本当にすごいことじゃない。僕、本当にびっくりして」
 興奮気味に話すジョー先輩は、何も変わっていなかった。本当は、もっと軽蔑されるべきなのに。いや、して欲しかった。私の心を諌めるために。
「私、ずっとジョー先輩に甘えてて。待ってばっかりで、本当に弱かったんだってこと、今わかったんです。あれだけのことを除先輩に言い放っても、まだ、ジョー先輩に期待してたんですから。ずっと、じっと待って」
『そう、私は、ジョー先輩に申し訳ないから、と自分に言い訳をして、ジョー先輩がいつか迎えに来てくれることをずっと待っていたんだ。ジョー先輩なら、きっとこんな私でも、許してくれると、私の方がずっと呑気なことを思って』
「だから、今日はジョー先輩にちゃんと、謝ろうと思ったんです。……本当に、すみませんでした。私の勝手な感情ばっかりに、先輩の心まで平然と傷つけていました」
 電話の奥では、静寂が響いていた。以前までの私だったら、絶対もう許してくれない、どうしよう、なんてことをいつまで考え続けていたと思う。でも、ちゃんと真正面から、向き合わなきゃ。
「私、ジョー先輩が部室で話しかけてくれてから、ずっと、ジョー先輩に期待していました。私をちゃんと見てくれて、そして……どこか、シンパシーを感じていたんですよ、勝手なことに」
 電話の奥から、息を呑む音が聞こえた。
「先輩の文章の繊細さ、私の心に響いた、って言えばいいのかな。何処か自分と重なる部分があったんです」
 私はぎゅっとスマホを握り直した。
「こんなこと言われても困ると思いますけど……ジョー先輩は、先輩の道を突き進んでください」
『私は、ジョー先輩のことを慕っています。できることがあるとすれば、自分が何をするか、じゃなくて、ジョー先輩を純粋に応援できるか、だと思うから』
 電話の奥で続く沈黙。しばらくして、息を吸う音が聞こえた。
「なんだ、透も同じこと思ってたんだ。お互い、すれ違ってただけなのかな」
 ジョー先輩は、はは、と笑った。
「透は相変わらず、真面目さんだ。何も変わってなくて、本当に安心した」
「はい、おかげさまで」
 学校の中では、外部活の生徒たちが騒ぎながら一生懸命に取り組んでいる。
「あれ、もしかして透、今学校?」
「あ、はい。ジョー先輩に早く連絡をすることしか考えてなかったので、家に帰る前ですみません」
「い、いやいや!まだいるのなら好都合だ!そこで待っててくれる?すぐ向かう!」
「え、向かうって、ジョー先輩どこに」
 その瞬間、ジョー先輩のダッシュする音が響いたと思えば、ぷつりと電話が切れた。
 また走って、転んだりしたらどうするというのだろう。本当、こういうところには、呆れてしまう。
 少し経って、あの電話の奥から鳴り響いていた足音が、ふと聞こえた気がした。だんだん近づいてくる。あれ、もしかしてジョー先輩は学校にいたのだろうか。
「ー透、透!」
 背後から、またあの柔らかい声が聞こえてくる。ずっと変わらない、あの能天気な声だ。
「ジョー先輩」
 振り返ると、ぐちゃぐちゃのままのジョー先輩が立っていた。
「ごめ、んね、また、走って、来ちゃった、っはあ、また、透に、怒られ、ちゃうや」
「本当ですよ」
 ジョー先輩が肩を揺らして息を切らす姿は、もはや恒例になって気がする。私は、そんなジョー先輩の姿に一つ、見慣れないものを発見した。大きな袋に何か重そうなものが入っているみたいなのだが、いまいち中身の想像がつかない。
「ジョー先輩、荷物持ちましょうか」
「ああ、ありがとう、……って、そうだ、大事なこと、忘れてた」
 ジョー先輩はそういうと、その重そうな荷物を私に手渡した。
「これ、……なんですか」
「新しく描いた原稿なんだ。出版社に持っていくためじゃない。透のために書いた」
 ジョー先輩はそういうと、にかっと笑った。
 私は、その大きな袋から一番上の一冊のノートを取り出した。古びているけれど、丁寧に使用された跡が残っている。
「それはね、僕が小さい頃に少しずつ使ってたノートなんだ。その中の途中、僕の今の筆跡で書いている部分があるでしょ。そこを、透に呼んでほしい。あ、続きは、その袋の中に全部入ってるから」
 これ、全部……。この量を、本当に書いたというのか。ジョー先輩らしいというか、もはや常人じゃないというか。
 私はそのノートをぺらぺらとめくった。拙い字がしばらく続いた後、私の読み慣れた筆跡の字が現れた。
「『青に、染まる』ー」
「そう。あ、今読んじゃダメだよ!その先は、家に帰ってから!」
ジョー先輩は次のページを開こうとした手を、慌てて止めた。
「分かりました、先輩」
「それと!僕はジョーだから!先輩じゃなくて!」


 あの後、先輩は先生に用事を頼まれていたようで、ジョー先輩は名残惜しみながらも学校の中へ戻って行った。私はしっかりジョー先輩の言いつけを守って、バスの中でも開かず無事に帰宅した。
 一直線に自室へ向かうと、ベッドの上にジョー先輩にもらった袋を置き、自分もベッドの上に飛び込んだ。袋を手繰り寄せると、一番上に積み重ねたジョー先輩のノートを取り出した。
 ぺらぺらとページをめくり、あの文字が書かれた部分を開いた。
「青に、染まる。……か」
 『透のために書いた』と言ってはいたけど、やっぱり題名にも意識しているのだろうか。
 私は、帰るまで絶対に開いちゃダメだ、とジョー先輩に止められていたページをひらりとめくった。

 僕は、いつも無意識のうちに文字に連ねている。まるで、呼吸をするように。止まってしまえば、僕の中の鼓動も止まってしまうような。辞め方も知らないし、辞めようと思ったこともない。
 それは、彼女にとっても同じことなんだと、それを見た瞬間に感じた。
 人の中に一人紛れて、あたかも一緒のように振る舞っていた彼女は、明らかな異質の存在だった。いや、皆それぞれ個性を持っているのは事実だ。皆胸に秘めていることはそれぞれだし、それだけの思いを持っている。
 しかし、彼女ほど、自分以外のものに依存し、融合しているものは、周りに誰一人としていなかったのだ。
 まるで空っぽのような体と向き合っているのは、紛れもない感情の塊。
 その状態になった時、自分の身体さえも消えたような、向き合う世界と自分の意識だけの世界となる。
 多分僕は彼女と、そんなところにシンパシーを感じたのだ。
 それが、僕は言葉で、彼女は絵、という差だけだった。
 きっと彼女も胸に秘めた何かが、外の世界へ飛び出そうと日々蠢いている。それが唯一表面に現れるのは、自分の意識と向き合える場所。五感さえも消えて、周りにあるもの全てが消え去って、それで初めてその怪物と対面するのだ。
 
 透、僕の勝手な気持ちだけれど、紛れもない本心の言葉だ。
 透が僕に見せてくれる絵の世界と同じように、僕の世界も見ていてほしい。


 まず、僕の生い立ちについて、話していこうと思う。急に話されても、と思うかもしれないけど、透には色々と隠しすぎていた気がするからね。いつもよりもずっとまとまりのない文章になるかもしれない。それは、申し訳ないです。

 僕の父が『鳩羽慎之助』というのは、前に透に言ったよね。そう、これは僕の秘密の中でも最上級。トップシークレットだ。
 自慢みたいに聞こえるかもしれないけど、僕の父は日本の人々を魅了した天才だ。
 ……天才だったはず。
 僕は、最近自信が持てないんだ。ずっと父を信頼し続けて、尊敬して、近頃は少し道を逸れていくことが多いけれど、でも今だって敬愛している。それは変わらない。
 けれど、どこか、納得がいかない。
 僕は、何度も何度も父の作品を読んだ。内容だって、文章の構成、セリフだって、ほとんど覚えてる。幼い頃には、父に僕の文章を指導してもらったことだってあった。
 でも……いつだったか、僕は、兄さんの大学時代の論文を盗み見たことがあったんだ。僕と兄さんは十二歳離れていてね。いつも、「ジョーにはこの文章は難しいから」、と見せてはくれなかった。その時、僕が一番に興味があったのは紛れもない父の小説だったし、とくに気にしていなかった。その時は、父の真似をして小説をひたすら書いていて。しょっちゅうなくなってしまっていたから、兄さんの部屋に余ったノートと鉛筆を数本もらいに行った。僕が兄さんの部屋に行くと、ちょうど兄さんは席を外していて、机の上に置きっぱなしだったんだ。
 僕はノートと鉛筆のある場所を知っていたし、兄さんからも好きに持っていっていいと言われていたらから、いつもの通りにいくつか持って自室に戻ろうとした。
 でも、机に置かれた論文に興味を持ってしまってね。正直、その時の僕には読めない漢字もあって、そのまま素通りしようとしたんだ。その時、ふと目についたのは、その紙の下に隠されるように置かれていた、メモ用紙だった。
 そこには、僕の一番好きだった「海神に乞う」の設定のような文が走り書きされていて。僕は止まらぬ勢いで読んだ。
「兄さんももしかして、父のこの本、一番好きなのかなぁ」
 その時は、そう思っただけだった。
 それにいつも兄さんには、「兄さんがいいと言ったもの以外には、触れちゃいけないよ。兄さんとの約束だからね」と固く言われていたから、僕は慌てて元の場所に戻した。その後は、僕が勝手に兄さんのメモを読んだのがバレないように、このことは一歳話さずにいたんだ。
 その数年後、本当に続編は出て、僕は真っ先に読ませてもらった。
 そして、その内容は間違いなく、あの時に読んだものと一致していた。多少の改変はあれど、セリフの流れ、文章の構成、そして、汚れが一切ない清らかで美しい文章はそのままだた。
 でも、作者の名前には、父の名前が刻まれている。あ、補足だけど、兄さんの名は『祐之助』と言うんだ。
 僕はどうしてもそこが気になって、ある夏の晩、思い立って父の部屋に向かった。その日はちょうど、新月の晩だった。いつもは、新月の晩は、仕事に集中できる、という理由で父の部屋に入るのは御法度だった。けれど、僕はそのことをすっかり忘れて、そのまま向かってしまったのだ。
「父さー、……まずい、今日はダメな日だったっけな」
 僕は父の部屋に入ったあと、そのことに気がついた。けれど、父は気づいていないようだった。僕は胸を撫で下ろし、そのまま自室に戻ろうとした。
「ー父さん、僕はもう、この家を出ようと思っています」
 その時、父の部屋から兄さんの声がした。何故兄さんが、父さんの部屋に。しかも、家を出るって。自室に真っ直ぐ戻ろうとしていた僕だったけれど、戻るに戻れなくなった。
「出て行くことには反論しないが、ちゃんと、手伝い、をしてくれるんだろうな」
「それは……」
 手伝い?なんのことだ。兄さんは、父に何か手を貸していたのか。
「……それは、もうできません」
「なんだと」
 兄さんの言葉に、父が少し声を荒げた。僕の足は思わずすくんで、息を一生懸命に殺す。
「僕はずっと、父さんに、確かに手伝いとして、協力してきました。しかし、……僕も、もう自立する時です」
「自立するも何も、祐にはもう実力は備わっているのは明白だ。出ていったところで、何も変わらんぞ」
「違います」
 兄さんの、息をのむ声が聞こえた。
「父さんも、もう、自立してください」
 兄さんはそういうと、僕のいる扉の方へと歩いてくる音がした。僕がいたことがバレてしまえば、どれだけ怒られるかわかったもんじゃない。僕は焦って父の部屋を出ると、急いで自室に飛び込んだ。走ることに慣れていない僕は、思い切り部屋ですっ転んだ。しばらくして、トントンと部屋のドアをノックする音が聞こえて、
「ジョー、大丈夫?すごい音したけど」
 兄さんが心配した顔をして、僕の部屋に入ってきた。僕は慌てて笑顔を作って、
「ごめん兄さん、思いっきりちゃぶ台に足ひっかけちゃって」
 とぎこちなく誤魔化した。すると兄さんは、いつものように呆れた顔をして、倒れ込んでいた僕の手を引いた。
「全く、ジョーはいつまで経っても、幼児だった頃と変わらないな」
「ちょ、兄さん!もう僕小学生なんだけど!」
 兄さんに握られた手をぎゅっと握り返して、引かれるままに立ち上がる。
「もう少し、気をつけるんだ、ジョー。お前だと、こんなにものがない部屋でも、余裕で怪我をしてしまいそうだ」
「はい、兄さん。もう少し、兄さんみたいに力をつけられるように、努力するよ」
「絶対、口だけだろ?」
「本当だもん!」
 兄さんは、はは、と笑いながら、僕の部屋を後にした。兄さんの足音が完全に消えたあと、僕は胸を撫で下ろした。
「兄さんが父さんにしてた、手伝い、って、なんのことなんだろう。それに……」
 聞きたいことも、聞けないままで。
 そのあと数ヶ月もしないうちに、兄さんはこの家を出ていった。何回か父との喧嘩もあったそうだけど、僕は何も知らされていなかった。兄さんの優しさだったのかな。
 そして一年くらいが経って、父さんの刊行はぱったりと無くなった。
 何作か出したものもあったけど、全て続編か、改稿版だった。僕はいつものように真っ先に読んだけれど、どこか違和感を覚えた。いつものあの爽快感が無い。あの、心にすっと入ってくるような表現が見当たらない。きっと父も兄さんがいなくなった事で、落ち込んでいるんだろう。ずっとそう思うようにしていた。
 僕自身も兄さんの居なくなった影響は大きくて、思うように創作が進まなかった。それよりも、頭のなかにずっと残り続ける、あの兄さんと父の会話が忘れられなくてね。
そして父は、僕に話しかけることが増えた。以前も無かったわけでは無いけど、なんだか踏み込んだものが多くなってきた気がした。まだ小説は書いているのか、とか、兄さんとは連絡を取っているのかとか。だんだん父の言動も荒くなってきて、賭け事に行く日も増えた。そこから、じわじわではあるけれど、僕の家族の距離は離れていった。
 そのあとは、まあ、色々あって。
 いずれ、僕自身の心からも何も無くなった。意欲も無い、浮かぶものも、周りの景色さえも殺風景に見えた。
 まるで、透の描く、青い世界みたいなさ。全てが一色に包まれたような。
 普通に繕ってる分には何も問題はないのに、一人になると思い出す。自分が空っぽで、何も考えられていないって。
 高校に上がっても、環境が変わっても、これといって心が動かされることはなかった。毎日起きて、学校行って、寝て、また起きて、ご飯も食べたりして、宿題に手をつけたり。何をしても、どこか頭はぼーっとしたままだった。
 そんなことがしばらく続いて、気づいたら学年も上がってね。頭のどこかで、こんなこともしてられない、って思ってた。思うだけで、何も動けなかったけどね。僕の心は、自分が思うよりも弱いことに最近気づいた。
 そして、君、透に出会った。
 こうやって書くと、なんだか恋愛小説みたいだね。あながち間違ってないけど。
 透は、僕と一緒だった。それはずっと見ていて感じたものも少しあったけど、それだけじゃなかった。
 あの日、僕が透を家に誘って、透を傷つけてしまった時。
 透は「自分は醜い」と言った。ぽろりと吐き出した言葉の数々に、僕は初めて確信を持ったんだ。
 何でもかんでも、一緒一緒、っていうのも、なんだか縛りつけてる感じがして嫌かもしれない。それは、ごめんね。
 でも、小説でも、漫画でも、ドラマでも、映画でも、なんでも「共感」が人気に直結すると思わない?観客が自分と共通するところを見つけて初めて、やっとその登場人物の心に寄り添える。やっと自分のことについて、少し知ることができる。
 僕自身もあやふやだったことを、透を見て確信した。
 僕自身も弱かったんだ。ずっと。
 ……そういえば、さっき濁しちゃったことがあったね。兄さんが出ていってから、色々あったこと。透の心に突っ掛かりを残すのも悪いし、軽く話すね。
 僕は父さんに、協力、していた。
 勘のいい透なら、気がついたかな。そう、ずっと僕が疑問に思ってたこと。それがこの答えだ。
 僕は、父さんに作品を提供していた、いや、盗作させていた。
 文才に長けていて、僕の家を置いていった兄さんの代わりに。凡人の僕が。
 ずっと刊行が止まっていたのも、このせいだ。今更隠してたって、どうせ僕はいつか透に話してしまいそうだったし、この際気にしないでね。
 僕は父に一度、連想ゲームを誘われたことがあった。新月の晩にね。その時初めてちゃんと、父の部屋に入った。誘われるがままに、父の机の前の椅子に座ると、父に
「新月、と聞いて思いつくものは何か」
と聞かれた。僕は何を考えるもなく、父に話した。
「暗闇、静寂、微かな風、隠れるように流れる雲、虫の声、寂しさ、兄さんの声」
 父はそれを聞くと、僕に一冊の未使用のノートを僕に渡した。
「今話した言葉を、文章に書き表してみなさい。そして、次の新月にまたここへきて、俺に見せるんだ」
 僕は何を疑うもなく、そのノートを受け取った。そして、いつものように文字を書き連ねていったんだ。父は、「お前は文才がある。俺がちゃんと面倒を見れば、俺よりすごい作家になれるかもしれない。書き終わったものを見せろ。助言をしてやろう」と話していた。僕はそれを信じて、次の新月の夜に、文字でいっぱいになったそのノートを父に返した。
 ぺらぺらと軽くめくり、僕の書いた小説を読んだ父は、呆れたように、
「こんな文章を書くなんて、何を今まで書いてきたんだ。これだけの文章量が書けるのは褒めてやれるが、それ以外は素人並みだ」
 と言って、ノートを机のすぐ横のゴミ箱に投げ入れた。僕は流石にその姿にショックを受けて、涙が滲んだ。
そして父は、僕にもう一度未使用のノートを一冊寄越した。
「次は、お前の思うように書け。もっと上手くな」
 僕は項垂れたまま自室に戻ると、鉛筆を握って思い切りそのノートに文字を書き殴った。
 もっと上手くならなきゃ、父さんに認めてもらえるように。ずっと憧れていた、父さんに。
 何度も読み返した。気に食わないところは何度も書き直した。
 もう、慰めてくれる兄さんはいない。時に泣き喚きながら、一人執筆をし続けた。
 その次の新月の晩、僕はまた父さんの部屋に向かって、そのノートを渡した。
 しかし、父さんの評価は何も変わらなかった。
「どうして同じ表現ばかり使うんだ。どうして展開をこうも早めてしまうのか。そもそも内容がありきたりすぎる」
 僕はじっと黙って、父さんの言葉を聞いた。僕の弱いところをつかれ続けて、涙は目のギリギリまで溢れ出しそうだったけれど、内心どこかで父さんの言葉に納得する部分もあったのだ。
 そしてまた、未使用のノートを渡された。
 それが、何度も、何度も何度も続いて、気がつけば、僕の父さんが言うことはいつも同じになってきていた。
「もっと量を書け。展開が早まったっていい。それだけでは足りない」
 僕は、父さんの言いつけを聞いた。多少満足できない部分はあっても、展開の回転を早めていった。
 そして、ひたすらに父の助言とはもはや言い切れない、暴言なような言葉を聞くのが僕のルーティーンとなっていった。
 ある日、久しぶりに父の新しく刊行した小説を本屋で見かけた。しばらくは自分の作品に明け暮れていて、父の新作が出ているとは全く知らなかった。僕はそれを無心で手に取り、会計をした。家に帰って自室に戻る。
 久しぶりの新作。いつも待ち遠しくしていた、大好きな父の本を僕は開いた。
「あれ……これって……」
 僕は、まさか、と思いながらも、ページをめくっていった。父の文章であるその小説は、僕があの日、父にゴミ箱に投げ捨てられたものと酷似していたのだ。話の展開、登場人物の視点、セリフ、全てが、僕の編み出したものと。
 ところどころ、僕の拙い部分は修正されていて、綺麗な文章にはなっている。しかし、これでは父の文章ではない。僕の小説を添削しただけじゃないか。それに、あのノートは捨てたはず。
 急に思い立つと、僕は自室を飛び出した。そして、父の部屋に飛び込んだ。たまたま父は外出していて、誰もいなかったことをいいことに、僕は父の机を漁った。
 たくさん積み重ねられた紙の奥の奥。
 間違いなく、あの日捨てられたノートが仕舞われていた。
 その下には、僕が今まで父に酷く言われてきた小説の一つ一つが重なっていた。一冊取り出して中を開くと、中の文章は父が赤いペンで添削したようなマークが大量につけられており、文章も修正されている。
 ……なんだ、そう言うことだったんだ。
 僕はこの時、やっと真実に気づいた。あまりにも、遅すぎたけど。
 あの時、兄さんの部屋で盗み見たメモは、父のものではなかった。兄さんのものだった。
 兄さんの『手伝い』は、父の名義で世の中に小説を出すこと。
 そして僕は、兄さんの代わりとして、父に利用されていた道具だったことに。
 僕は兄さんに比べれば、明らかに凡人だった。
 見た通りに、僕のノートには大量の添削がされていて、まだまだ未熟だ。僕のずっと憧れた兄さんのような展開は想像できないし、表現もできない。
 僕はその後、一文字も書けなくなった。
 新月の晩に父の部屋に行くことも無くなったし、会話すらも無くなった。
 僕の世界は、その瞬間に空っぽになったんだ。
 ……って、ちょっと長かったかな。ごめんね。
 そんなこんなで、僕はいわゆる、『病んだ』んだよ。情けないことにね。
 ずっと逃げ出せばよかったものを、自分の弱さを理由にずっと父の手の内で自分を慰めてた。
 ……そうだ、僕が父のことを、父さん、と呼ばなくなったのは、その頃だったかもしれない。その時には、父さん、というよりも、あくまで血の繋がったものもの、としか感じてなかったからかな。

 話を戻すね。僕は透に出会って、心にずっと欠けていたものを、透と接することによって、ようやく見つけた気がするんだ。
 それはきっと、透にとっても一緒なんじゃないかな。って、あくまで予想だけど。
 心の弱さは誰にだってある。それは僕も透も、周りの人だってみんな一緒だ。
 それを認めてあげることも大切だけれど、時には少し膜から出てみるのも、最近は悪くないんじゃないかなって思ってる。
 ただ揺蕩ってるだけなら楽だけど、何も進まない。
 僕と透なら、二人で、それを乗り越えられるような気がする。

 透、僕は、君にずっと惹かれ続けていた。
 これからも、ずっと。
 離れるなんて、もう言わないで。
 傷ついた時には、言って。
 お互い依存する関係じゃない。支え合う関係になりたい。
 透を、ちゃんと知りたい。

 長くなったけど、僕が伝えたいこと、少しでも伝わったのかな。
 このノートたちを渡した僕はきっと、部屋の隅にでもうずくまって、やっぱり渡さないほうが良かったんじゃないか、って言ってると思う。ああ、この文章かいてる今の僕も、少し怖くなってきたかも。
 
 そういえば、この話の最初のノートのところ、途中から始まってたでしょ。
 このノートは、僕が書けなくなる前に、少しだけ使ってたものなんだ。なんだか勿体無くて、ずっと捨てられないままにしてたんだけどね。
 書きかけの物語、もしよかったら、読んでみて。
 あの頃の僕と、今と、何か少しでも変化があるんだとすれば、僕は嬉しい。
 僕は、成長できているのかな。


 文章は、これで終わっていた。
 何冊に分けられていたノートの最後の一冊を閉じる。そして、最初の一冊を取り出すと、一ページ目を開いた。
 今のジョー先輩の時よりもずっと拙い字で書かれた文字。それでも、ジョー先輩の芯の強さの面影はしっかりとある。
 
「僕の、兄さん」
 僕の兄さんは、自慢の兄さんです。
 僕の兄さんは、頭も良くて、力も強くて、背も高い、とてもかっこいい人です。いつも泣いてばかりの僕を、頭をなでて慰めてくれます。そして、おいしいお菓子を二つ、お部屋から持ってきて、僕に好きな方を先に選ばせてくれるのです。
 でも、ある日兄さんは、僕をおいて、この家を出て行きました。理由は分かりません。兄さんは、そっと僕の頭をなでて、そのまま行ってしまいました。僕の心には、悲しさは浮かびませんでした。それよりも、兄さんがなぜ出ていったのか、それだけがずっと気になっていたのです。
 兄さんは、たまに僕に会いにきてくれました。いつもの通り、おいしいお菓子を持って。僕はいつもそれを笑顔で迎えましたが、兄さんはいつも、家の玄関の前で「秘密だよ」と口に人差し指を当てていました。
 僕が兄さんを家の中に入れようとしても、兄さんは決して入らないのです。
 しょうがないので、僕と兄さんはいつも、近くの公園に行っていました。そこなら、兄さんも口に人差し指を当てずに、笑って話してくれるのです。
 ある日僕は初めて、「兄さんはどうして、この家を出ていったの」と聞きました。すると、兄さんは困ったような顔をしました。
「兄さんはね、お外の仕事がしたかったんだ」
 兄さんは、僕に向かってそう言いました。でも、僕は知っています。
 兄さんは本当は、大学のもっと先に進んで、言葉の勉強をしたいと言っていたことを。
 兄さんは今、家の壁を塗りかえるの会社で働いていて、お金を貯めているそうです。そんなの、僕は嘘だと知っていました。
 お金は、兄さんはたくさん持っていました。僕のおじいちゃんはとてもお金持ちだからです。
 でも、兄さんはこう言いました。
「それは、ジョーに、やりたいことをして欲しいからだよ」
 僕には、この言葉の意味がわかりませんでした。どうして兄さんがお金を貯めると、僕がやりたいことができるのでしょう。
 僕は、ただ兄さんに幸せになって欲しいだけでした。
 兄さんと公園でお別れをする時、兄さんは僕を寂しくさせないように、いつも一つ、お話を話してくれます。全てを話すのではなくて、毎回少しずつ話すのです。この話が続く限りは、また兄さんに会える。そう思えば、ジョーも寂しくないだろう。
 僕は、大きく兄さんにうなずきました。
 
 僕は、真実を知った。
 今までずっと、騙されていたのか。兄さんはずっと、そのことを知っていたのか。
 何故ずっと隠していたんだ。
 ……兄さんは、僕にやりたいことをさせるために。
 でも結局、結果は同じだったけれど。
 
 兄さんの前だけは、ずっと笑顔で居よう。心配をさせないように。兄さんが、ずっと僕にしてくれていたように。


 ここまでだった。この先は、今のジョー先輩の文章だ。
 大丈夫。ジョー先輩は変われてるよ。
 ……先輩も今まで、ずっと葛藤に駆られて生きていた。
 そして今、それが変わろうとしている。その流れに乗るように、私の心も動いている。
 私はふと、考えが浮かんだ。
 ポケットに手を突っ込むと、スマホを取り出す。そして、ジョー先輩の連絡先に電話をかけた。
 ー何コールかして、いつものジョー先輩が出てくる。
「もしもし」
「もしもし、どうしたの、透。もしかして、読んでくれたのかな」
「はい。ジョー先輩、ありがとうございました。その、なんて言うか、……私も先輩の心に救われたんです」
 私はそう一言言うと、一度呼吸をした。そして、再び声を発する。
「ジョー先輩、もう一度、本を作りませんか」
「え……」
 ジョー先輩は、思わず声を失っていた。
「ジョー先輩。今の心の変化を、本にしませんか」
「本に、って……でも」
 私も、無理な話だとは思う。
 ……けれど、今のこうして抱いている気持ちは、無駄にしたくはなかった。
「ジョー先輩の、いや、鳩羽譲之助の心の怪物を、解き放つ時なんじゃないですか。私も、手伝います」
 電話の奥で、静寂が続いた。しばらくして、先輩の息を吸う音が聞こえる。
「いいよ。やろう。もう一度」
「ーはい。ジョー先輩。そう言うと思ってました」
 そして、ジョー先輩との本の制作が再始動し始めた。
 私たちの拠点はジョー先輩の自室とし、週末はそこに集まることに決まったのだった。
 十月序盤の土曜日、私は久しぶりにジョー先輩の部屋にお邪魔させて頂いていた。
「そういえば、ジョー先輩、前出版する予定だった編集者さんとの連絡って、もうつかないんですか?」
「ああ、あれね。嘘だよ」
「へえ、そうなんですか……って、嘘なんですか!」
 私は荷物を整理していた手をとめて、叫んだ。
「ごめんね。あれは、透を釣るための嘘だったの。こうでもしないと、ついてこなさそうだったから」
「もう、この詐欺師先輩!」
「詐欺師って、それは酷……いや、案外かっこいいな」
「開き直らないでください」
 編集者さんと話がついている、と言うのは真っ赤な嘘で、本当は何にもなかった模様だった。
「そもそも僕と父が不仲なのに、編集者さんと話つくわけないしね。っていうか、それ知らなかったんだから、そりゃ信じるか」
 ジョー先輩はそう言って、笑った。全然笑い事じゃないし!
「でも、本当にどうしましょう。個人の力だけじゃ、売り出すことすらも難しいですし」
「ネットって考えもなくはなかったけど、僕は個人的に紙面が好きなんだよねー。それに、透の表紙も映えるでしょ?」
「紙面で、ですか……」
 まずはそこが、一番の課題だった。
 それでも、一度作ると決めたものはやめたくなかった。とりあえずその問題は置いておいて、まずは本の内容制作の方に力を入れることにした。
 ジョー先輩は、もちろん内容を、私は部活内で先輩の本の表紙を。
「先輩の原稿ができない限りは、私が動けないのが難点ですけど……」
「それなら、もう書くのは決まってるんだ」
 ジョー先輩が、畳に寝転がっていた体を起こすと、私の前に向き直った。
「透に渡した、『青に、染まる』を書き直そうと思ってるんだ」
「あの、話を?」
 ジョー先輩は、私の目をじっと見て頷いた。
「で、でも、あの話はもはや、その……ジョー先輩の告白みたいなものじゃないですか!」
「そうだよ。でも、それを書きたい」
「お父さんのところは、カットするんですか?」
「しないよ。そのままにする。文章の修正はするけどね」
 私はもっと驚愕した。それは、世間に自分の父親の汚職を広めるようなものではないのか。
「あと、僕と透の話も書くから!」
「そ、それはっ……!せ、せめて、名前だけは、適当に誤魔化しといてください!」
「ああ、大丈夫!通って書いて、とおり、にしておくから」
「響ほとんど変わらないじゃないですか」
 そんなこんなで、同時進行の制作がスタートした。


 ジョー先輩の家に向かった、次の週の火曜日。まだ日差しが強い日もちらほら見かけるけれど、少しずつ寒さも増してきていた。
 私はいつものように部室へ向かうと、鞄を置き、棚から画材と、以前余分に作っておいたキャンバスを取り出した。
 流しにかかっている筆洗を蛇口の下に置き、そっと捻る。多少は勢いが強いものの、最近は自分も慣れて来たようで、水も筆洗から溢れ出してくることも無くなった。
 筆洗の半分ほどに水を注いで、蛇口を捻って止める。定位置の席へと向かうと、そっと机の上に置く。
『青に、染まる。の表紙、か……。いつも通りに描くのはもちろんのことだけど、それだけじゃ足りない気がする』
 あの話は、ジョー先輩の切実な思いを綴った、小説というよりかは随筆に近いものだ。あまり具体的な物体を描くのも違う気がするけれど、抽象的、というのも納得がいかない。
 一体、何を描けばいいのか……。
『……あれ、私、初めて悩んだかもしれない。絵を描くことについて』
 ここまでに筆が進まず、なおかつアイデアさえ思い浮かばないのは、初めてだった。いつもは何を考えるもなく描けるというのに。
『ダメだ。邪念があるに決まってる。描けないはずがない。いつも通りにしていれば、大丈夫なはず……』
 私は、はっと気づいたように、耳にイヤホンをさした。そして、いつものプレイリストをかける。
『……何も浮かばない』
 私は無意識に、焦っていた。描かないと、描かなければ。
 私にできることは、これしかない。ジョー先輩は今も自分と見つめ合って、執筆を続けている。私だって……。
 何度も筆を握る。パレットの表面を撫で、絵の具を溶かした。その度にすすいで、何も進んではいなかった。
 早く、描かないと。いつものように、そう、いつものように。
 何も感じず、考えず、意識せず。自分のぱっと思い浮かんだものをそのまま。そうだよ、そのままだ。
 何度も念じる。
 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
 音楽は、いつものように騒がしく、耳の奥に響いている。
 それでも、私の意識を完全に抹消することはできないままだった。
「ー名波さん、名波さん。聞こえてる、名波さん」
 突然、耳元で話しかけられた気がした。振り返ると、先生が私をじっと見つめて立っていた。
 私は急いイヤホンを外すと、「すみません」と呟いた。
「いや、こっちこそごめんなさいね。集中してたところ。でも、今日の部活はこれで終わりなのよ」
「あ、ああ、すみません。すぐに片付けますので」
「全然急がなくて大丈夫よ。……でも、名波さん、スランプ?珍しいね」
「ああ、なんか、調子乗らなくて。ずっと考えてたんですけど……」
 私は急いで筆洗を洗い流して、画材たちを棚に戻しながら言った。
「そうなのね。でも、スランプの時ほど、何もしないのが一番だと思うわ。……美術担当の私がいうのもあれだけど」
 先生がそう呟いた。
「そうなんですか」
「いいや、あくまで私の体験談よ。できない時は、できない。これ以上頑張っても、体が追いついてこないものよ。でもある一定期置いてみると、突然にできるようになった経験とかない?なんとなく頭の中が整理されて、無駄なものが削ぎ落とされたみたいなね」
「無駄なものが、整理される……」
「私はよく、邪念だ邪念だ〜なんて言ってたけど。名波さんも、たまには部活を休んでみてもいいのよ。もはや皆勤賞の子なんて、名波さんくらいしかいないし。何事も焦らず、ゆっくりね」
「ゆっくり、ですか。先生ありがとうございました」
 片付けを終えた私は、鞄を手に持ってそう言った。
「はーい、気を付けてねー。あと」
 先生は私に駆け寄ってきて、こう囁いた。
「鳩羽さんに、よろしくね。頑張んなさいね」
 !?
 私は一体、何を勘違いされているんだ?!
 先生はうふふ、と笑うと、美術準備室に戻って行った。
 勝手な想像されても……。
 でも、一度休んでみる、か。
 ジョー先輩には少し悪い気もするけど、少しそうしてみようかな。
 私は、少しだけ軽い足取りで美術室を後にした。


「あー終わんない。先生、そろそろ家に帰してよ!」
「ダメだ。今まで補習と課題貯めたのが悪いんだからな。家でやってこないというのなら、俺がしっかり監督しといてやるから。安心して取り組んでいいんだぞ」
 担任の強面先生が、ふんぞり帰って僕に言った。
「だってしょうがないじゃないですか。家帰って紙見たら全部メモしちゃうし」
「家に限った話じゃないだろ。ほら、今だって。そこは物語を描くところじゃないぞ。計算をする場だ」
「ただの物語じゃないですし。これは、僕と透の奇跡的な物語、なんですから」
「はいはい、なんでもいいですよ。そんなこと言ってる暇があるのなら、さっさと解いたらどうなんだ」
「……はーい」
 僕は渋々、目の前に大量につまれたプリントと問題集の山に手をつけた。
 僕は元来、そんなに頭はよくない。なんでこの高校に入学しているのか、自分でも不思議なくらいだ。あ、でも、国語の成績はずば抜けて一位とか、言ってたっけ。それ以外は最下位なんだけどね。
 それでいつもいつも、どんな紙にも思いついたことを書いてしまうせいで、ほとんどの提出物は〇点、テストすらもボロボロで、この有様というわけだ。
「あー、今頃透は僕の描く本をまだかまだかと待ちながら、絵を描いてるんだろうなー」
「お前は、自分のことを過大評価しすぎなんだ」
「でも、透はすごいって言ってましたよ」
「……全く、人のこと言ってる暇があるのなら、自分の心配をしろ。卒業できなくなってもいいのか」
「いや、一年くらいなら、別にいいですよ。透と同じ学年になれますし」
 案外、悪くないかもしれないぞ。このまま今日は帰って、家で続き書きたいし。
 すると、先生は呆れたようにため息をついた。
「透、透、って。鳩羽の頭の中にずっといる、その透ってやつは誰なんだ」
「あ、聞いちゃいます?長くなりますけど」
「やっぱいい。なんか怖い。てか、さっさとやれ」
「はーい……上手く騙されると思ったのに」
「全部聞こえてるぞ」
 僕と強面先生の攻防は続くー!



 あの日から二日たって、今日も部活の日だけれど。
 私の中には、いまいち何も浮かんでこなかった。元々、浮かぶも何もなかったけれど、それにしても何も湧き上がってこないのは事実だった。
「たまには、休んだっていいのよ」
 先生に言われた言葉が蘇る。
 ……休んで、みようかな。今日は。
 美術室に行こうとしていた足を止め、反対方向へ向いた。
 今日は早く帰って、ジョー先輩にもらったノートを読み返してみよう。そうしたら、イメージが浮かんでくるかも。
 昇降口へ降って、校門を通り過ぎたあたりだった。
「あれ、もしかして、ジョーのお友達のお嬢さん?」
 背後から声が聞こえる。振り返ると、前と同じ軽トラに乗った、ジョー先輩のお兄さん、鳩羽裕之助さんの姿があった。
「はい。先輩にいつもお世話になってます」
「世話にだなんて。逆だろう?確実にジョーが世話になってる」
 正解です。さすがお兄さん、鋭い!
「先輩のお兄さんは、いつもここ通るんですか?」
「ああいや、今日はもう家に帰るからそのついでに、少し覗けるかと思って来ただけなんだ。タイミングがよければジョーを拾えるんだけど、どうや無理そうだな」
「先輩、何かあったんですか?」
「いや、補習が溜まってるみたいでな。昨日も先生がどうだったとか、電話がかかってきたよ」
 やっぱり、ジョー先輩とお兄さんは仲がいいんだ。
「あ、そうだ。家の場所教えてくれれば送って行くけど、どうかな?」
「あ、いえいえ、そんな申し訳ないです。もしかしたら、先輩のお兄さんの家とは真逆かもしれませんし」
「いいんだ。本当のことを言えば、少しジョーのことを聞いて見たくてね。どう?」
 お兄さんのご厚意も断りきれないしな……。
「じゃあ、お願いします……!」
「おっ!じゃあ、今回は後ろの荷台じゃなくて、前の座席に乗ってくれるか。流石にジョーがいない状態じゃ、女の子1人じゃ危ないからね」
「はい、ありがとうございます」
 私は言われるがままに、軽トラの助手席へ乗り込んだ。狭そうに思っていたけれど、案外広々している。背負っていた荷物を足元に置くと、シートベルトを閉めた。
「お家はどちらかな」
「ショッピングモールの脇あたりです」
「じゃあ、そのあたりで下ろすよ」
 先輩のお兄さんはそういうと、軽トラを発進させた。普通の車よりもエンジンの音が少しだけうるさい。でも、逆にそれが新鮮だ。
「話の続きなんだけど、ジョーの様子はどうかな?やっぱり、迷惑ばっかりかけてるかな?」
「いえいえ、全然そんなことなくて。私も助けられてばっかりです」
「そんなこと言ってー。ジョーは本当にすぐにこけるから、巻き込まれたりしなかった?」
 お兄さんの言葉に、私は一瞬顔がひきつる。一回、ジョー先輩を押し潰しそうになったことはあります……。
「あ、やっぱり?本当にごめん、ジョーもいつになったら成長するんだろうなぁ」
 お兄さんはそういうと、はは、と笑った。
「そういえば、ジョーと本を作ってるんだって?」
「はい、まだまだ序盤なんですけど」
「そうなのか……、ジョーもその道に進む時が来たのかな」
「その時?」
 そう聞くと、お兄さんは困ったように笑った。
「いいや、なんでもないんだ。僕も一時期、目指していた時期があってね。もう諦めてしまったけど」
「諦めた、って……どういうことなんですか」
「ああ、ちょっとね、書くのに疲れてしまったんだ。体力の限界、っていうのかな」
 お兄さんはそういうと、ちらりと私の顔を見た。
「ジョーはこれからもまだまだ成長する。僕をずっと超えて行くんじゃないかな。僕はそれを応援できれば。……本を作るとは言っていたけど、ジョーはどうやって作るとかちゃんとわかってるのかな」
 お兄さんの言葉に、私は少しどきりとした。
「それが……どこで出版しようか、ってこと、全然考えてなくて。今、全く進んでいないんですよね」
 うう、気まずい。一応大口叩いておいて、これなんて……。
「そうなのか、なら、知り合いの出版社の人がいるんだけど、紹介しようか」
「そうですよね、できませんよね……って、今、なんて言いました!」
 思わず驚愕した。知り合いの、出版社の方が、いる?!
「ああ、いわゆる僕の、コネ、ってやつだよ。もちろん、ジョーの書く内容にもよるけど、最大限サポートするように話すことはできる。最終的に出版できる可能性もなくはない」
「本当、ですか!」
 これなら、まだ期待が持てる!
「なんだ、そうならジョーは早く言ってくれればいいのに。本当に能天気なやつめ」
「私もそう思います」
「あ、やっぱり思う?僕の弟、やっぱりちょっと特殊なのかなー」
 軽トラの中で、お兄さんと笑った。こんなふうに誰かと笑えるのも、久しぶりかもしれないな。
「そろそろ着くよ。たくさん話してくれて、ありがとね」
「こちらこそ、わざわざここまで送ってくださって、ありがとうございました」
 お兄さんは、私の家の近くのショッピングモールの少し影のところで下ろしてくれた。
「これからも、うちの弟を宜しくね」
「はい、こちらこそ」
 お兄さんの軽トラは、颯爽と道路を走っていった。
 これで、また一歩前進。
 私は私で、表紙のデザインを考えていこう。
 少し暗くなった空の下で、私は少し小走りをした。



「先生、今日も?昨日も頑張った気がするんですけど」
「昨日の頑張りじゃ足りないんだ。もう少し頑張れ」
「もう少し、ってどのくらい?あと一問?」
「目の前にある課題の三倍だが」
 僕は思わず項垂れた。今こんなに山積みなのに、この三倍?いつになったら、透に会えるんだ……。
「先生、ちょっとだけ、ちょっとだけ書いちゃだめ?今、すっごくいいやつ浮かんだんんだけど」
「ダメだ。許したら、永遠に書き続けるだろ」
「…僕が書かなければいいの」
「まあ、そういうことだな」
「んじゃさ、今から僕がいうこと、先生がメモしてくれる?それならいいんだよね」
「わかったけど、その問題解きながらな」
「やった!んじゃ、話すね」
 僕は一つ深呼吸をすると、早口で話し始めた。
「僕が通との接点は、それだけではなかった。心の空白、感情の表し方全てが、一致していたのだ。違った点は、感情を表現する対象が、言葉が絵かの差だけ。僕たちの心の中には、深い繋がりが、気づけば構築されていたのだった。ところで、僕と」
「待て待て待て。早すぎるわ。というか、ちゃんと問題解いてるのか」
「ん?考えてはいるよ」
「絶対考えてないだろ」
「でも、今のはメモできなかった先生が悪いと思うんですけど」
「……ああもう、わかったから。せめて十問解き終わったら、その都度三行な!」
「え、本当!僕、頑張る!」
「最初から頑張っといてくれ」


 その次の週の部活に、私は足を運んだ。
 ジョー先輩のノートを読み返して、なんとなくイメージが浮かんだ気がする。
 言葉に例えるとするならば、『繋がり』だろうか。どんなに孤立していても、必ず誰かと繋がっている。そのことを忘れないような。
 いつものように、私は準備を進めた。そして、キャンバスの上に筆先を置く。
 私の感情と向き合って。まるでキャンバスが、水面のように心を映し出すような。
 つっと、私は筆を動かした。


「その、……鳩羽の言う、通が気になるんだが。前に言っていた、透とやらと、関係あるのか」
「おお、先生気づきました?そうです!ありありの、ありなんです!透は、僕の大切な仲間なんですよ」
「そ、そうか。鳩羽の言う文章を書き起こしていると、その……愛が強すぎるというか」
「そんなことありませんよ、いやでも、大好きなのは変わりありませんけどね」
「これ、こんなに書いて、どうするんだ」
「え、ああ、本にするんですよ。出版するんです」
「出版?鳩羽の本をか?」
「そうですよ。話はついていますし」
「そ、そうなのか。なんか、すごいな……」
「やっと気づきましたか?それなら、早く家に」
「ダメだ」


 ジョー先輩のお兄さんがお知り合いに連絡をつけてくれたようで、ジョー先輩の方に会いに来てくれていたみたいだった。ジョー先輩の仮原稿の評価は上々らしく、今は順調に話がついているようだった。
 ジョー先輩自身は補習に忙しいみたいだけど、それでも進められるほどのスピードがあると言うのだから、本当に恐ろしい。
 ちなみに、私の方ももう終盤を迎えていた。あともう少し加筆をすれば、完成というところ。
 そう言えば、私のSNSアカウントの方はというと、まあそこそこで、定期的に上げている絵も反応をある程度もらえるようになっていた。私はこのアカウントを利用して、ジョー先輩の本の宣伝活動に努めたいと考えていた。
 あと、もう少し。
 ……逆に言えば、あともう少しで、このジョー先輩との生活も終わりを迎えるのだった。


「そう言えば、今日は原稿をかけだのなんだの言わないんだな」
「当たり前じゃないですか。もう終わりましたもん」
「そうか……って、え?!もう終わったの?前の序盤じゃなかったの?」
「確かに、序盤でしたよ。でも、もうとっくに書き終わりました。今確認もらってるところなんですよ」
「え、俺地味に楽しみしてたんだけどな」
「え!本当ですか!知りたい、知りたいですかね?」
「い、いや、いいや。出版されるんなら、それを待つ」
「本当は気になっているくせにー。先生だけ『特別に』教えてあげてもいいですよ」
「え」
「あ、今日は免じてくれるって言うのが条件ですけど」
「じゃ、ダメだ」
「毎日このくだりやめましょうよ。今日くらいは変化つけよ?」
「ダメなものは、ダメだ」


 ついに、絵の制作が終わった。
 今週末、ジョー先輩の家に出版社の方が来てくれるのだそうで、何も分からない私の代わりに絵を持っていってくれるのだそう。
 何から何まで、ジョー先輩のお兄さんのおかげだ。感謝しかない。
 ジョー先輩は、と言うと、補習の合間に書き終わらせていたみたいで、確認をとっているところらしい。
 本当に、あともう少しのところまで来たのだ。
 嬉しさもある。でも、やっぱりどこかで寂しさも感じているのだった。
 無事に、完成しますように。
 今はただ、それを願うばかりだった。

 ……それと。
 決して明かすことも無い、胸の内。
 ジョー先輩のこと、大好きです。
 ジョー先輩がそんな関係を想像してないことは分かってる。私の行き過ぎた気持ちってだけ。
 でも、認めたくはなかったけど……刊行することよりも、なにより私が心から思う、唯一の感情だ。
 
 一度認めた気持ちは、後には引けない。けれど、ジョー先輩は、きっと。
 今期最大!
 数々の書店で売上一位を総なめにしている超話題の一冊!
 表紙の担当はあの、世間をざわつかせた天才高校生
 「青に、染まる。」とは、一体どんな本?


 今や、この文字を見ない日はほとんど無かった。
 「青に、染まる。」はあのままGOサインが出て、色々ありながらもなんとか出版。
 初めは薄かった売上も、私のアカウントで宣伝をしたことが功を成したのか、気づけばぐんぐんと伸びていった。
 それと同時に鳩羽家の真実も明らかになったわけで、二重で世間は大騒ぎだった。
 
「僕ね、たまに、これでよかったのかな、って思う時があるんだ」
 ジョー先輩はふと、そう呟いた。
 放課後の美術室の中。誰もいなくなった部屋で、私とジョー先輩は二人で並んでいた。
「こんなに上手く行って、僕なりの、報復もできて、これで終わってもいいのかな、ってさ」
 先輩はそういうと、すぐそばの机に置かれたままのキャンバスを見つめた。
「透の絵はさ、本当にすごいや。表紙になった時ももちろん綺麗だったけど、本物とは比べ物にもならない」
 ジョー先輩は、そのキャンバスを掲げた。キャンバスには、空へと祈る少年少女とが描かれていた。
「ジョー先輩は、この先やっぱり、続けるんですよね。作家」
「実はそれ、考えてなかったんだ。これをつくるのに精一杯で」
「そうなんですか、なんだか、意外です」
「……でも、そうであれればいいなって、思ってるよ」
 ジョー先輩はそう言うと、キャンバスをおいて、私にニコリと笑いかけた。
「そうですね。私もそれがいいと思います」
 きっと、その先の未来で、私がジョー先輩の隣に立つことはない。
 元々、それだけの約束だったのだから。

「でも、一つ条件があるんだ」
「条件、ですか」
 ジョー先輩はそう言うと、私の手をぎゅっと掴んだ。
「透が、僕の本の表紙を飾ること。それ以外は、絶対に認めない」
 私は、放心した。
 私が、表紙を、飾る……?先輩の?
「僕さ、透がいないと、上手くできないって言うかさ、ほら、僕能天気だからさ」
 あの、えっと……と、ジョー先輩はもじもじと目を逸らした。

「あの、あのさ……、僕とさ、ずっと一緒に、いて、欲しいな、って」

「……言われなくても、分かってますよ。そんなこと」

 私は、ジョー先輩の手を握り返した。
 暖かいその手は、優しく柔らかく包み込む。

「私こそ、浮気したら、許しませんから。私、案外繊細さんですからね」
「透が?そうなの?」
「……もう、そのくらい読み取ってください」

 夕日が差し込む、冬の終わりの美術室。
 また、新しい季節が、巡ってこようとしている。

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