ー僕が美術室に突然立ち寄ったのに、特にこれといった理由はなかった。
強いて言うのであれば、美術部に所属するクラスメイトが以前から僕に、一度でいいから覗きにこいよ、と言われたからだ。
僕自身は特に部活も入っていなかったし、前々から誘われてはいたのだ。いや、正直絵を描くこと自体には興味はなかったし、運動部はそもそも性に合わないから、一応ね、という程度だったけど。
なんだかんだでずっとやる気が出なくて、実際向かったのは、六月に入ってからだった。その頃はとにかく雨ばかりだったし、わざわざ濡れて帰るのも気が乗らなかったその日、ふと、立ち寄ってみようと思った。
美術室は相変わらず閑散としていて、二桁にも満たない数の生徒が好きに制作に取り掛かっていた。みんな、もちろん僕には到底辿り着けないほどの上手さだったし、技術もアイデアも個性的で僕の感性も刺激された。でも、ある一枚の絵が視界に入った時、そんな感情は一瞬にして吹き飛んだのだ。
その絵は、異色の雰囲気を放っていた。パレットには幾らかの色が絞られているのに、キャンバスに乗っているのは、たった一色。青だけだった。
まるで、描いている本人には周りの景色がこう見えている、という投影のような、寒色なはずなのに、どこ心地いいと感じられるような。僕の言葉をもってしても、表現しきれない。
また、その絵からはどこか無気力さも発していた。でも、その奥底からはたくさんの感情がひしめき合っていて見ているだけでも、心の隙間に入り込んでいる。
まさしく、この美術室においては、明らかな異端の存在だった。
その絵に向かって、一直線に視線を向けて表現に励んでいたのは、純粋な瞳をした少女だった。クラスで一人はいる様な、これと言って目立った特徴も見当たらない女子高生。けれど、その瞳の奥は何かが溢れそうで、一生懸命にとどめているような気がした。
「綺麗……」
僕は、彼女の素質と表現の深さに思わず感嘆した。
彼女にもどうやら聞こえていたようで、こちらの世界に戻ってきたような驚いた顔をしていた。
あ、ちゃんと、人間なんだな。って、なんて失礼なことを思っているんだ、自分は。
それなら、自分だって大概だ。これだけへらへらしておいて、何一つ、実行すらできていないんだから。
……でも、不思議と彼女の世界には、僕の心が共鳴したように感じた。勝手なこっちの想像だけどね。
僕の中の、インスピレーションやらなんやらが、塊になって湧き上がってくる。
ーまた、あの感覚が戻ってきた。
一度は無くなった、奥底の感覚。
「また、君の絵を見にくる」
家に帰ってからも、あの高揚感は収まることはなかった。
「今まで塞がれてた、重い重い岩が、何かの拍子で外れたみたいな!いや、今まで見つからなかった宝物が急に見つかったみたい、って言った方が正しいのかな」
あ、と呟くと、畳の上にだらしなく転がっていた僕は、さっと立ち上がった。
自室の窓のそば、箪笥の奥底を引っ掻き回した。そして、はるか昔に仕舞い込んだノートをわっせわっせと引っ張り出す。
「これ、懐かしいなぁ。もう何年前になるんだっけ」
確か、小学生の頃に使っていた頃のものだっけな。まだ兄さんが学生で、この家に住んでいて。頭の弱かった僕に、教鞭をたくさん振るってくれたっけな。結局、あんまり身には付かなかったけど。
そして、父がまだ……いや、活動していたときだ。あの時はきらきらと輝いて見えたな。懐かしい……って、今がそう見えないと言ったら、嘘、になるかも、いや、ならないかも?、しれない。結局どっちなんだよ、ってのはなしね。
いくらかもう既に使われているノートをペラペラとめくると、新しい白紙のページを開いた。
あの頃、この紙に書き付けていた感覚と変わらないものが、今僕の心に湧きあがろうとしている。
机のそばに置きっぱなしにされていた鉛筆を手に取ると、一行目に早速さらさらと文字を書き連ねた。
『青に、染まる』
しばらくは、ずっと考え続けていた。
何故あそこまでに惹かれたのか。他の部員ではなくて、彼女に。
一ヶ月ほど経って、急に思い立った。もう一度、彼女の絵を見に行ってみよう。
そういえば、あの時「また見にいく」って言ったんだっけ。行く口実ができてるし、せっかくだから。
それから、彼女、名波透の元へは何度も通った。彼女の腕から描き出される世界はいつもいつも、僕の創作意欲と表現の幅を広げてくれた。
本人はあまり気に入っていない素振りを見せているけれど、僕の心には深く浸透している。
彼女の名前の通りに、透き通っていて何層にも重なっているその色は、神秘的の言葉の他に言い表せなかった。
僕は毎週のように、彼女の元へ行っては、後ろでじっとその出来上がる姿を見つめる。それだけでも、ものすごい幸福感と高揚感に包まれた。
時より、ふと浮かび上がってくる言葉がある。最近は、忘れないように、とメモをすることも多くなったかもしれない。これもまた、成長の一つなのかな。
最近、僕の周りに視線を感じるようになったかもしれない。昔からそうだったけど、なぜか人が寄ってくる。僕、そんなに価値のある人間に見えるのかな?そうであっても損をすることはないけど、少し、彼女の気が散っているように思える。
早いうちに離れてあげたほうがいいのかもしれない。でも、もう少し見ていたい、見逃したくないという思いの方が強いから、葛藤が続いている。
周りに流されてしまって、つい、そのまま誘いに乗ってしまった。
書道自体は嫌いじゃないけど、彼女が遠く感じる。物理的にも、精神的にも。
周りは皆、僕にたくさん優しくしてくれるし、本当にありがたいとは思っているけど、僕求めているのはそれじゃない。
ただ、彼女の描く姿がそばで見られれば、それだけでいいのに。
彼女と会ってから、もう一、二ヶ月が経っただろうか、僕の手は一向に止まることを知らなかった。あまりにも熱中するものだから、おじいちゃんが慌てたように僕の部屋に飛び込んできて、久しぶりに大笑いしたな。こんな些細なことすらも、久しぶりに感じるなんてな。あは、今度兄さんに伝えなくちゃ。
そういえば、僕がこのおじいちゃんの家に移ってきてからどのくらい経ったのだろう。確か、……父が母と別れてからだっけ。もう随分と、時間が経ってしまったんだな……なんせ、僕がもう高校生なんだもの、そりゃそうだよね。
こんなに考え事をするのも、久しぶりかもしれない。それまでは特に感じることもなければ、ただ周りに流されるだけだった。
でも、なんでなんだろう。彼女の絵に、僕はこんなにも感化された。
……いや、正確には、彼女に、なのかな。どこか、シンパシーを感じるっていうかさ。
彼女の場合には、自らの手を伝って、心のうちを投影しているのだろうか。それにしても、あの引き込む力は異常だった。
「あの子と、もう少し、話がしてみたいかも」
そう思った瞬間、ふと、何かがぽんと浮かび上がって気がした。何を考える間もなく、僕は紙と鉛筆を握る。
あれから、たくさんのアイデアが浮かんできたものだけれど、それとはまた少し違った。
……前に少し書いたあのノート、先が進んでないんだっけ。
書き始めようとしていた紙を避け、僕は机の引き出しから大切にしまっていたノートを取り出した。ぺらぺらとページをめくると、二ヶ月前と何ら変わりもない『青に、染まる』とただ一言だけ記されたページが浮かび上がる。
僕はその最初の一行目に、鉛筆の先を当てた。
「最初の一言は、きっと」
強いて言うのであれば、美術部に所属するクラスメイトが以前から僕に、一度でいいから覗きにこいよ、と言われたからだ。
僕自身は特に部活も入っていなかったし、前々から誘われてはいたのだ。いや、正直絵を描くこと自体には興味はなかったし、運動部はそもそも性に合わないから、一応ね、という程度だったけど。
なんだかんだでずっとやる気が出なくて、実際向かったのは、六月に入ってからだった。その頃はとにかく雨ばかりだったし、わざわざ濡れて帰るのも気が乗らなかったその日、ふと、立ち寄ってみようと思った。
美術室は相変わらず閑散としていて、二桁にも満たない数の生徒が好きに制作に取り掛かっていた。みんな、もちろん僕には到底辿り着けないほどの上手さだったし、技術もアイデアも個性的で僕の感性も刺激された。でも、ある一枚の絵が視界に入った時、そんな感情は一瞬にして吹き飛んだのだ。
その絵は、異色の雰囲気を放っていた。パレットには幾らかの色が絞られているのに、キャンバスに乗っているのは、たった一色。青だけだった。
まるで、描いている本人には周りの景色がこう見えている、という投影のような、寒色なはずなのに、どこ心地いいと感じられるような。僕の言葉をもってしても、表現しきれない。
また、その絵からはどこか無気力さも発していた。でも、その奥底からはたくさんの感情がひしめき合っていて見ているだけでも、心の隙間に入り込んでいる。
まさしく、この美術室においては、明らかな異端の存在だった。
その絵に向かって、一直線に視線を向けて表現に励んでいたのは、純粋な瞳をした少女だった。クラスで一人はいる様な、これと言って目立った特徴も見当たらない女子高生。けれど、その瞳の奥は何かが溢れそうで、一生懸命にとどめているような気がした。
「綺麗……」
僕は、彼女の素質と表現の深さに思わず感嘆した。
彼女にもどうやら聞こえていたようで、こちらの世界に戻ってきたような驚いた顔をしていた。
あ、ちゃんと、人間なんだな。って、なんて失礼なことを思っているんだ、自分は。
それなら、自分だって大概だ。これだけへらへらしておいて、何一つ、実行すらできていないんだから。
……でも、不思議と彼女の世界には、僕の心が共鳴したように感じた。勝手なこっちの想像だけどね。
僕の中の、インスピレーションやらなんやらが、塊になって湧き上がってくる。
ーまた、あの感覚が戻ってきた。
一度は無くなった、奥底の感覚。
「また、君の絵を見にくる」
家に帰ってからも、あの高揚感は収まることはなかった。
「今まで塞がれてた、重い重い岩が、何かの拍子で外れたみたいな!いや、今まで見つからなかった宝物が急に見つかったみたい、って言った方が正しいのかな」
あ、と呟くと、畳の上にだらしなく転がっていた僕は、さっと立ち上がった。
自室の窓のそば、箪笥の奥底を引っ掻き回した。そして、はるか昔に仕舞い込んだノートをわっせわっせと引っ張り出す。
「これ、懐かしいなぁ。もう何年前になるんだっけ」
確か、小学生の頃に使っていた頃のものだっけな。まだ兄さんが学生で、この家に住んでいて。頭の弱かった僕に、教鞭をたくさん振るってくれたっけな。結局、あんまり身には付かなかったけど。
そして、父がまだ……いや、活動していたときだ。あの時はきらきらと輝いて見えたな。懐かしい……って、今がそう見えないと言ったら、嘘、になるかも、いや、ならないかも?、しれない。結局どっちなんだよ、ってのはなしね。
いくらかもう既に使われているノートをペラペラとめくると、新しい白紙のページを開いた。
あの頃、この紙に書き付けていた感覚と変わらないものが、今僕の心に湧きあがろうとしている。
机のそばに置きっぱなしにされていた鉛筆を手に取ると、一行目に早速さらさらと文字を書き連ねた。
『青に、染まる』
しばらくは、ずっと考え続けていた。
何故あそこまでに惹かれたのか。他の部員ではなくて、彼女に。
一ヶ月ほど経って、急に思い立った。もう一度、彼女の絵を見に行ってみよう。
そういえば、あの時「また見にいく」って言ったんだっけ。行く口実ができてるし、せっかくだから。
それから、彼女、名波透の元へは何度も通った。彼女の腕から描き出される世界はいつもいつも、僕の創作意欲と表現の幅を広げてくれた。
本人はあまり気に入っていない素振りを見せているけれど、僕の心には深く浸透している。
彼女の名前の通りに、透き通っていて何層にも重なっているその色は、神秘的の言葉の他に言い表せなかった。
僕は毎週のように、彼女の元へ行っては、後ろでじっとその出来上がる姿を見つめる。それだけでも、ものすごい幸福感と高揚感に包まれた。
時より、ふと浮かび上がってくる言葉がある。最近は、忘れないように、とメモをすることも多くなったかもしれない。これもまた、成長の一つなのかな。
最近、僕の周りに視線を感じるようになったかもしれない。昔からそうだったけど、なぜか人が寄ってくる。僕、そんなに価値のある人間に見えるのかな?そうであっても損をすることはないけど、少し、彼女の気が散っているように思える。
早いうちに離れてあげたほうがいいのかもしれない。でも、もう少し見ていたい、見逃したくないという思いの方が強いから、葛藤が続いている。
周りに流されてしまって、つい、そのまま誘いに乗ってしまった。
書道自体は嫌いじゃないけど、彼女が遠く感じる。物理的にも、精神的にも。
周りは皆、僕にたくさん優しくしてくれるし、本当にありがたいとは思っているけど、僕求めているのはそれじゃない。
ただ、彼女の描く姿がそばで見られれば、それだけでいいのに。
彼女と会ってから、もう一、二ヶ月が経っただろうか、僕の手は一向に止まることを知らなかった。あまりにも熱中するものだから、おじいちゃんが慌てたように僕の部屋に飛び込んできて、久しぶりに大笑いしたな。こんな些細なことすらも、久しぶりに感じるなんてな。あは、今度兄さんに伝えなくちゃ。
そういえば、僕がこのおじいちゃんの家に移ってきてからどのくらい経ったのだろう。確か、……父が母と別れてからだっけ。もう随分と、時間が経ってしまったんだな……なんせ、僕がもう高校生なんだもの、そりゃそうだよね。
こんなに考え事をするのも、久しぶりかもしれない。それまでは特に感じることもなければ、ただ周りに流されるだけだった。
でも、なんでなんだろう。彼女の絵に、僕はこんなにも感化された。
……いや、正確には、彼女に、なのかな。どこか、シンパシーを感じるっていうかさ。
彼女の場合には、自らの手を伝って、心のうちを投影しているのだろうか。それにしても、あの引き込む力は異常だった。
「あの子と、もう少し、話がしてみたいかも」
そう思った瞬間、ふと、何かがぽんと浮かび上がって気がした。何を考える間もなく、僕は紙と鉛筆を握る。
あれから、たくさんのアイデアが浮かんできたものだけれど、それとはまた少し違った。
……前に少し書いたあのノート、先が進んでないんだっけ。
書き始めようとしていた紙を避け、僕は机の引き出しから大切にしまっていたノートを取り出した。ぺらぺらとページをめくると、二ヶ月前と何ら変わりもない『青に、染まる』とただ一言だけ記されたページが浮かび上がる。
僕はその最初の一行目に、鉛筆の先を当てた。
「最初の一言は、きっと」