「もうすぐ、僕の家に着くよ」
「なんでわかるんですか」
「だって、音が僕の家だもん」
 私は、軽トラの走る音で外の音が書き消されて何も聞こえないというのに。これも、土地勘の一環だというのだろうか。
「もうすぐ降りるからね、見て驚かないでよー」
「別に驚かないですよ、もうすでにジョー先輩の特殊さに勝るものはありませんから」
「え、僕ってそんなにオーラを放ってたけな。びっくりだよ」
「違います。その異常なまでの能天気さです」
 ジョー先輩のお兄さんが運転する軽トラは徐々にスピードが遅くなり、完全に止まった。
「透、もう出てもいいよ。頭ぶつけないように気をつけてね。……いったぁっ!」
「自分でぶつかっといてどうするんですか」
「あはは、結構痛いかも」
 ジョー先輩はぶつけた頭に手を当てながら、よろよろと外に出た。私もそれに続く。
「兄さん、ありがとね。仕事、頑張って」
「おう、言われなくても頑張るさ、ジョー。お嬢さんも、またいつか」
「はい。今日はありがとうございました」
 ジョー先輩のお兄さんは、ジョー先輩と同じように、にっと笑うと、再び軽トラに乗り込んで仕事に向かっていった。
「ところで、ジョー先輩の家って、どこなんですか」
 私がそう聞くと、ジョー先輩は平然とした顔で言った。
「え、ここだけど」
 あの、明らかに高級住宅地のど真ん中にある、豪邸ですけど……?
「大丈夫、今日はお客さんが来るって、ちゃんと伝えてあるから。僕の部屋に案内するね」
 ジョー先輩は私の手を握って、なんでもない顔をして玄関へ向かっていった。
 インターホンを押すと、
「ジョーです。今日はお客さんがいるので、そのまま部屋に行くね」
 と話しかけた。その瞬間、かちゃり、と鍵のあく音がする。
「僕の部屋以外にも、応接間とかも一応あるんだけどさ、荷物運ぶの面倒だから今日は我慢してね」
 我慢するも何も、もうすでにだいぶ庶民が来てはいけない雰囲気なんですけども。
「僕、朝起きるの苦手だからさ、玄関のすぐそばの部屋にしてもらってるんだ。少し狭いかもだけど、座れる椅子くらいは用意してるよ」
 ジョー先輩はそういうと、玄関のすぐ左の扉に触れた。その瞬間、かちゃり、とまた鍵のあく音がする。
「この家、無駄にセキュリティちゃんとしてるから、朝急いでる時とか本当に焦るんだよねー」
 さ、どうぞ、とジョー先輩は私を中に入れた。
 その瞬間、目に飛び込んできたのは、外観からは想像もできないような和室の空間と、とてつもない量の紙の束だった。
「これでも、片付けたほうなんだけどね。どうしても、捨てられなくて」
 思わず、感嘆の声を漏らす。部屋が広いのはもちろんのことだけれど、積まれた紙一つ一つにびっしりと手書きの文字が刻まれている。きっと全て、ジョー先輩が書き溜めたものなんだろう。
「本当、いつも私の予想の斜め上をいきますね、ジョー先輩は」
「え、そう?そんなに気に入った?」
「別に、気に入ったとは言ってませんけど」
 でも、ジョー先輩の部屋は、想像していたよりは無機質な部屋だった。異常な量の紙束を除けば、普通の和室と相違ないのだ。
「この部屋は、僕が頼んでこうしてもらったんだ。畳の雰囲気が大好きだから。あと、敷布団がすごい好き」
 ジョー先輩は、部屋の真ん中に私を案内すると、座布団をほいほいと置いた。
「これ、めちゃくちゃ気持ちいいんだよー。ずっと正座してても、あんまり疲れないんだ。透は別に、どんな格好しててもいいけどね」
「いや、そう言われたら、正座せざるを得ないじゃないですか」
 ジョー先輩に案内されるがままに、私は座布団に座った。いやでも、これが案外心地いい。待って、普通にハマりそう。
「あ、大事な本命を、渡さなくちゃね」
 ジョー先輩はそういうと、部屋の隅にある机の上にどさりと置かれていた紙束をわっせわっせと運んできた。これまた結構な量で、しかもそれが全て手書きというのだから驚きである。
「こ、この量ですか」
「ああ、別に全部は読まなくていいよ。読者は必ずしも、全ての文章を読んでくれるとは限らない。その中でも、どれほどの感情を読者の心に残すことができるか。それを僕は知りたいんだ」
「わかりました。できる限り、読んでみますね」
「よろしくです!その間、僕は新しいアイデア浮かんで来たから、ちょっとまとめるね」
 ジョー先輩はそういうと、すたすたと机の方へと向かっていった。
 この量の文章を書いておいて、まだ溢れ出てくるというのか。あの頭の中には、一体どれほどのアイデアが浮かんでいると言うのだろう。ジョー先輩、恐るべし。
 私は、ジョー先輩に渡された紙束を見る。
 タイトルは、『燕』と書き付けてあった。
 走り書きの、でも美しいジョー先輩の字に、私はもうすでに圧倒されそうになる。
 私は少し意気込むと、最初の一枚をめくった。


「ジョー先輩、読み終わりました」
「おお、もしかして、全部読んでくれたのかな」
 私はこくりと頷いた。
 全部読んだのではない。ジョー先輩の文章が、私を離してはくれなかったのだ。
 題材は、学生の秘めた心の内、といういかにもよくありそうなものだが、ジョー先輩の文章の連ね方は、そこらのものとは比べものにもならない。緻密で繊細であり、読者の心の動きを捉え、逃れられないように誘導している。私の言葉では到底表現しきれないような、恐ろしいほどの魅力とそれだけの力が、ジョー先輩の文字一つ一つに込められていた。
「素晴らしかったです。……って、これじゃ何の参考にもなりませんよね。ごめんなさい」
「いや、いいんだよ。透にその言葉を言わせるくらいの力があった、ってことだよね」
「正直、ちょっと悔しいですけど」
 初めは少し不安に思っていたが、この実力は、親のコネとかそんなことは言っていられないくらいに圧倒された。素人の私が言うのも説得力がないと思うけど、確実に伸びる。
「どうだろう、本格的に、この話を進めてもいいかな」
 私は一つ息を吐くと、ジョー先輩の目をじっと見て言った。
「……いえ、この話、お断りさせていただきます。ジョー先輩」
「え……」
 ジョー先輩も、思わず呆気にとられている。
「な、なんで」
「私には、荷が重すぎるんです。ジョー先輩の実力があるからこそ、私じゃその力を引き立てられない。プロでもなんでもない、ただの素人の私に、務まるはずがありませんから」
 私の醜いところだ。ジョー先輩があれほどにも能天気だから、もっと支離滅裂で、子供っぽくて、自分の父親の真似事の一環なんだろうと思っていた。でも、実際はそんなものではなかった。私の想像をずっと超えてきて、ジョー先輩は私よりもずっと先を見ていて、止まらずに走り続けている。人の見た目で判断して、軽々しい気持ちでジョー先輩と接してきた自分が許せない。過去に戻りたい。やり直したい。ジョー先輩にあった頃の自分の元へ行って「初めからお前は見合わない」と伝えてやりたい。
「違う、透。僕は、透がプロとか、プロじゃないとか、そんなことは気にしてない。僕のものに見合わないとか、そんなこと言わないでよ。透は、僕自身が、絶対にこれだ、と思ったんだ。それに技術がどうとかなんて、関係ない」
「関係なくないよ」
 私はそっと呟いた。その瞬間、ジョー先輩は黙ってしまった。
「私は、ずっと自分が醜い人間だった、ってことを忘れてた。ジョー先輩が、こんなにも能天気で、いつも同じように接してくれたから。私の力で上手く行ってる、って思い込んでた。本当にひどいよね、私って。内心、ジョー先輩には文才がなくて、下手っぴで、出版なんて到底できないようなものを想像してたんだから。そうであれば、私の絵は、ジョー先輩の作品を少しでも格上げするために使われるんだ、って。まだ心が救われた。でも、実際は全然そんなことなくてさ。ジョー先輩は、私よりもずっと遠くの世界を見てた。私は足元ばかり。こんな人が、ジョー先輩の作品と合わさったって、せっかくの素晴らしさを損ねるだけです」
 気がつけば私の目には、涙が浮かんでいた。抑えようにも、目の奥からどんどん溢れ出してくる。
「ほら、私って本当に、塵みたいな人間でしょ?こんな人間、誰も相手になんかしたくないよね。そりゃそうだ、先輩だって……」
「……わかった」
 ジョー先輩は一言、そうつぶやいた。それはどうしようもなく悲しそうで、でも、軽蔑の心は一切読み取れなかった。
 きっとジョー先輩は、感情を隠すのが上手いんだ。そうだよ、いつもあれだけ明るいんだもん。本当は裏表だってきっと激しくて、今までずっと私に隠してきただけのはず。
「わざわざ招待してもらったのに、本当に、ごめんなさい。今日は、お暇します」
「送っていくよ」
「大丈夫です。私一人で帰れます」
「……そっか。わかった。気を付けてね」
 私は、ゆっくりとジョー先輩の部屋を後にした。豪勢な玄関から出ると、途端に涙がもっと溢れ出してくる。こんな道端で泣いてられない。私は涙を袖で勢いよく拭いて、駅へと走っていった。


 それからというもの、ジョー先輩は一度も美術室に来てくれることは無くなった。連絡もこないし、学校で会うこともない。きっとジョー先輩は、私を心底軽蔑したに違いなかった。あれだけの見込みをしてくれたにも関わらず、私の心はいつまでも醜いままだった。後悔しても仕切れないのはもちろん、これ以上自分が良い人間にもなれないことは明白だった。
 どう足掻いても、気がつけば自分の欲に従順になっている。それでジョー先輩を傷つけてしまったことに、さらに憤りを覚えていた。

 
 気がつけば、もう夏も超えて九月になっていた。まだ残暑が続いているが、ちらちらと秋の姿も見え隠れしている。
 いつものように私は部室へと向かって、白紙のキャンバスを取り出した。
 前回まで書いていたのとは違う、文化祭の宣伝用のポスターを依頼されて、新しく用意したのだ。
 いつものように、耳にイヤホンとはめ込む。何も変わらないプレイリストを、淡々と流した。周りの音は遮られ、私の意識以外は何もいなくなる。
 本当はもう、部活来るつもりはなかった。そもそも自由な部であるのもそうだけど、ジョー先輩のことを少しでも思い出したくなかったのだ。もう、終わったことだと分かっていても、絵を描くたびに記憶が蘇る。
『ああもう、いつまで私は考えているんだろう。さっさと忘れて仕舞えばいいのに、たった数回しか会ってもいないジョー先輩のことなんか』
 文化祭の準備が本格化するなかで、唯一美術部に所属していた私がクラスの店の絵を任された。拒否しようにもできる雰囲気では無かったのだ。本当は気があんまり向かなかったけれど、それ以外にこれといってできることも無い私にとって、唯一貢献できることだった。これ以上は私の我儘になってしまうし、このくらい……。
 私はいつものように、流しの上にかけられている筆洗を手に取り、水を注ぐ。
 筆洗を机に運ぶと、いつも使っているパレットと少しの絵の具を取り出した。パレットに乗ったままのかぴかぴになった絵の具が、まだいくらか残っている。いつもどうにも勿体なくて、洗わずにそのままにしてしまうのだった。
 筆先を水に浸し、固まった絵の具の表面をなでる。じわじわとすぐに溶けていき、筆の先に付着した。
 パレットから筆を離すと、真っ白なキャンバスの上にいつものように乗せる。
『一応コンセプトは……迷宮、だったかな』
 私のクラスの出展する店のコンセプトは、こうだ。
 突然異世界の路地裏に迷い込んでしまったプレイヤー。見た目も話し方も独特な街の様々な人交流し、戦いを交えながら、現実世界へと戻る術を見つけ出す。
 いかにも、よく見る設定だと思うが、何せグラフィックにとても力を入れているらしく、物語序盤の路地裏は、本当のものかと勘違いするほどだった。
 せっかくだし、路地裏を描くか。
 キャンバスの上で握られた筆を、つっと動かしていく。

「あと、迷宮のストーリーはこんな感じなんだ。普段は自分の気持ちを発すことのできない少女が、帰り道で突然異世界に迷い込んでしまって、途方に暮れるの。言葉は通じず、その街の人々は誰一人として、その少女の気持ちは読み取ってくれない。少女が道端でうずくまっていても、誰一人として助けてはくれないの。なぜなら彼らは、口に出して表現されたものしか理解しない風習を持っているから」
 クラスの女の子の1人が、確かそう話していた。
 そのストーリーを踏まえて、迷宮の中のキャストは誰一人として日本語を話さないし、プレイヤーを助けない。平然と、日々の生活を過ごすのだそう。

 水で伸ばした絵の具を何を考えるもなく伸ばしていく。自分が、なんとなくこうだと思った方へ。

「それでね、その風習に気づいた少女は、必死に声をかけようとするんだよ。苦手なジェスチャーや、他人の真似だってした。そうしないと、何も進まないし自分が助からないことを理解してね。必死に欺いた」
 私はその話に、うんうんと大きく頷いた。特に意味なんてない。なるほど、と思ったから頷いただけだ。
 このクラスだって、結局は表面上なだけであって。互いの利害の一致をさせて、穏便に生活をしているだけなのだ。
 そのためなら、私も平気で嘘をついたし、笑った。

 絵の具の濃さを調節しながら、陰影をつけていく。
 中心に描く予定の少女が、一人ぽつりと光を照らされているかのように見せるために。どんなに端っこにいたって、必ず光が当たる時はくる。誰かが見ているのだ。心なしか、少女にそれを自覚させたくなった。

「そして少女は、なんとか街で生きる術を見つけていくの。時には納得いかないこともあったり、争ったり。そんな中でも、少女は裏もなく、ただ発せられる言葉だけを信じてもいいの世界に飲まれていった」
 そして少女は、自分の居場所を見つけたってわけか。

 少女の形を、おおまかに象っていく。何も知らない、私は悪くない、って純粋な目でこっちを見ているように。
 そんな少女を、その街の人は誰一人として、助けはしないのだ。情が欲しいなら、そう発する。ただそれだけ。

「けれど、その世界は少女の味方なんかじゃなかった。そもそも少女は異端の存在だもの。誰かが『少女は敵だ』と一言でも発して、それを信じた日には。少女の居場所はあっという間になくなった。表面で全て完結される分、それだけ脆いものでもあったの」

 少女の顔を、丁寧になぞった。陶器のような、若く綺麗な曲線。発育途中で、淀むことのない姿。どれだけ純粋で、愚かなものだろう。

「少女は、焦って逃げ出した。自分の居場所は、やっぱりどこにもなかったんだ、って泣き喚くの。けれど、その間に少女は気がつくんだ。現実の世界で居場所をなくしていたのは、紛れもない自分自身だったんじゃないかってことにね。いつまでも何も言わず、ただただ周りに流されて、周りのせいにして、自分をかわいそうだと慰めて。それでまた自己嫌悪に陥っていく自分に、やっとそこで気づいたんだ」

 少女の体と、取り囲む背景の描き込みを増やしていく。少女の目にはこの世界はどう映っているのか、美しい世界か、はたまた醜い世界か。

「そして少女は、やっと帰る道を見つけるんだよ」
「でも、どうやって」
 一人の男子が、女子生徒にそう聞いた。
「それはね、内緒」
 話を聞いていた生徒たちから、一気にブーイングが上がる。
「だって、少女が帰ったとして、その結果をこっちが決めつけたらつまらないわけじゃん。少女の決めた道は、何かその世界の仕組みを利用したものかもしれないし、気づいたら元の世界に戻っていたのかも。プレイヤーにも、その選択肢を考えて欲しいんだ」

 筆先を、キャンバスからすっと離した。
 もう少し加筆をしたら、完成で良いと思う。
 でも、どこかまだ足りない部分がある気がするのだ。

「透、うちのクラスの文化祭のポスター、どう?」
「あ、ああ、あともう少しで完成すると思う」
 突然、教室で店の設営に勤しんでいたクラスメイトの1人が、美術室に飛び込んできた。
「私、本当に何を描いても、気づいたら青ばっかり使ってて……それでも大丈夫なの?」
「全然!こちとら全く絵を描けない身からすれば、透の絵は、ルーヴル美術館飾られてるくらいの凄さだから!」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる!」
 んじゃ、後でね、とクラスメイトはすたすたと美術室を後にした。
 もうほとんど着彩が終わってしまったし、もうこのまま終わりにしようか、と思った時だった。
 ふと、私の頭に、ジョー先輩の姿が思い浮かぶ。何度も忘れようとしたのに、ふとあの能天気な笑顔を思い出してしまう。実際一緒にいた期間はほんの数日しかなかったのに、あの強烈なジョー先輩の姿。まるで、体全体で黄金に眩く光っているような。
「黄金……か」
 私は、終わらせようとしたポスターに視線を向けた。少女が向かっているのは、白く光る星だ。
 私は、思い立つと、青い絵の具しか出されたことのなかったパレットに、黄色の絵の具をちょこんと絞った。濡らした筆先に少しその絵の具をつけると、白く光ってた星に上書きしていく。気づいた時には、大きく光る黄色の光がポスターのど真ん中に描かれていた。
「これなら……」
 私は、描いたばかりの紙を手に取ると、そのまま文化祭の準備をしているクラスのもとへ、駆け戻って行った。


 毎日はあっという間に過ぎていき、気がつけば文化祭当日になっていた。元々私の高校は文化祭に力を入れているらしく、文化祭には生徒や保護者だけでなく、様々な人々が押し寄せて来ていた。私のクラスの脱出迷路は、それはもう大盛況だったらしく、一時は一時間待ちの賑わいだったという。
 しかし、私の驚いたところは、そこではなかった。私のクラスの店に来たお客が、記念に私の描いたポスターの前で撮った写真をネットに投稿したらしく、そこからとてつもない勢いでその写真が拡散されていったのだ。
「ね、ねえ、透!」
「え、どうしたの。手が足りていないというのであれば、どうせ行きたいところもないし、手伝いに戻るけど」
「そ、そうじゃないの。これ見て!」
 クラスメイトの一人に、突然スマホの画面を突きつけられて、私は唖然とした

ある高校の文化祭のポスターが話題に!表現力はもはやプロレベルで、数々のアーティストが感嘆の声を漏らしている
この絵を描いたのは、一体誰なのか!?

「な、なんなの、この記事……」
「なんか、透のポスターの絵がめちゃくちゃバズったみたいでね。今急速にネットで話題になってるんだよ!」
 私の描いた絵が、世間に広まって、話題になってる……?
 何がどうなっているのか、全く理解が追いつかなかった。何故、私なんかが。
 無意識のうちに私はトイレに駆け込んでいて、冷めない興奮を抑えつけようと必死だった。
 これは本当に真実なのか、本当はただの見間違いで、全てが嘘なのではないか。私はふと思い出して、ポケットに突っ込んだままだったスマホを急いで取り出した。唯一持っている、SNSのアカウントを開く。そこには、今まで描いていた絵を記録していた。
「嘘ー」
 ほぼゼロに近かったフォロワー数は、何倍にも増えていた。一番最近上げた、文化祭の絵の一部に自分では考えられないほどのいいねが付いている。

「これ、今話題の絵の人のアカウントだよね?」
「作風が完全に一致してる。間違いない」
「隠れた天才現る」

 とめどなく届くリプライ。もはや、自分が別の何かに変わってしまったかのようだ。
『もしかしたら、私は気づいてなかっただけで、実力が、ちゃんとついていたのかも知れない。……先輩に、手の届くくらいの』
 そんな感情も、気づけばちらちらと浮かぶようにまでなった。その度に、
『いやいや、こんなことくらいで、浮かれちゃだめだ。天狗になってどうする。また、馬鹿するところだった』
とほっぺを叩く。しかし、一度でも評価された、という感情はなかなか消えない。
 今までずっと静かで私しか存在しなかった世界が、急に騒がしくなった気がした。
 私は自分でうまくやれている、と心のどこかで思いながら、どこかふわふわしたまま過ごしていた。


 文化祭も無事に終わって、一週間がたったあたりだろうか。湧き上がった熱はひとまず落ち着いたものの、私の心の中には、いまだに浮ついた何かが残っていた。
『どうせ、たまたま話題になっただけ。あれからネットも一気に冷めたし、奇跡か何かだったんだ』
 ……でも。
『ところで、ジョー先輩は、今どうしているんだろうか。同じ学校にいるはずなのに、あれから一度も顔を合わせていない。やっぱり私、ずっと避けられてるんだ。そりゃ、あんなこと言っちゃったし……。うわ、本当なんてこと言ってしまったんだろう。ジョー先輩もきっと相当傷ついたよな。……会えたとしても、とてもとても顔を合わせられそうにない』
 私は、いつもの通りに、部室へと足を進めた。三年生も引退して、さらに人数が減った美術部は、いつ行っても閑散としている。
 ガラガラと美術室の扉を開けると、やはり一年生数名と二年生の先輩一人、先生が机に突っ伏して寝ているだけだった。いつもの定位置にのろのろと向かい、鞄を下ろすと、美術部専用の棚を開いた。その中には、何人かの生徒の作品と画材置き場になっていて、私はその中から、描きかけの絵といつも使っている水彩絵の具を取り出した。特に何を考えるもなく席に戻ると、キャンバスを置く。
「……あれ、何、この紙。誰かの、ひっつけてきちゃったかな」
 キャンバスの端に、軽くおられた紙が引っかかるように張り付いている。手でそっと引っ張ると、案外すぐに取れた。折られている紙を無造作に開くと、私は思わず息を呑んだ。

 透へ。
 この前は、ごめんなさい。まだ会ってばっかりだったのに、急に僕のお願いを聞け、だなんて、本当無理な話だよね。
 言い訳に聞こえるかもしれないけど、僕は純粋に、透の描く絵に惹かれたんだ。ただそれだけの感情で、見ず知らずだった僕についてきてくれただけでも、奇跡みたいな話だよね。
 透は、プロじゃない、自分を卑下していたけれど、そんなこと言われたら僕だってただ有名作家の息子ってだけで、外面だけ見ればただの素人だ。何になるにしても、それだけ経験を積み重ねてこその肩書きだ。つまり、僕も透も、同じスタートラインに並んでいるわけ。
 と、話が逸れてしまったね。僕、透に伝えておきたいことがあったんだ。あの小説、出版することを辞退したよ。別に透のせいとか全然そんなんじゃなくて、完全に僕の問題。編集者さんと、ちょっと揉めちゃってね。せっかくの話を、僕が白紙に戻してしまったんだよ。全く、僕ったらいつまでも透に言われた『能天気』が治らないや。また呆れられちゃうね、とほほ。
 だからね、透。今度は、お互いを縛りつけるんじゃない、ちゃんと向き合った立場から言わせて。
 僕は、透の絵が好きだ。それだけは、何があったって変わらない。
 また、透の絵を見に行くよ。って、ここに来てる時点で、ちょっと見ちゃってるんだけどね、ごめん。
 とにかく、もし透さえいいなら、また僕に電話して。いつでも待ってる。
 ジョーより。

 最後の一文字まで目を通すと、そっと紙を閉じた。
 ジョー先輩はこんな手紙をわざわざ書いて、捻くれていた私に気を利かせてこの絵に留めておいたのか。やり方に難ありだけど、なんだかんだでジョー先輩らしい。
『何を私はうじうじと考えていたんだろう。結局、自分のことばかり考えていたんじゃないか。自分がずーっと考えている間に、事は進んで、話もなくなっていたというのに、自分の絵が少し伸びたからって理由で、また依存してた』
 そう思ったとたん、私ははっと目を覚ました。
『私は、ずっとジョー先輩の優しさに甘えていたんだ。同じくらいの技術があれば、また私を見てもらえる、声をかけてくれるって、受け身ばっかりで。自分から動こうとなんて、一切しようともしなかった…本当、馬鹿みたい』
 私は、手に握られた紙をじっと見つめた。あの時読んだ原稿と同じ、癖のあるでも達筆で美しい、ジョー先輩の字が連ねられている。
 私はその紙を大切にポケットにしまうと、描きかけの絵と絵の具を再び棚にしまった。そして、足元に無造作においていた荷物を手にとる。
「先生、今日は用事があるので、はやめに切り上げて帰ります」
「え、あ、はーい、気をつけてねー」
 先生の声を待たずとして私はすたすたとさっきよりも少しだけ軽い足取りで、美術室を後にした。もう、何も気にしてなんかいられない。
 急いで校門から出ると、制服の片方のポケットに突っ込まれていたスマホを取り出し、電源をつけた。そして、しばらくの間開くこともなかった連絡先を開いて、画面をタップする。
 スマホを耳に当ててしばらく待つと、慌てたような声をあげて返事をする、あの能天気な声が電話の奥から響いてきた。
「もしもし、ジョー先輩」