ゆびきりげんまん
嘘ついたら
針千本飲ます。
ゆびきった。
それは遠い幼い頃の思い出。
『大きくなったら、亮ちゃんのお嫁さんにしてね』
『約束だ。葵』
歌を口ずさみ、お互いの小指を離し、チュッとほっぺたに小さなキスをする。
私たちはシロツメ草の丘で、草で作られた指輪をお互いの薬指に嵌めこみ、幸せそうにそんな約束をした。
小学三年生にしては、おませだったと思う。
今思い返せば恥ずかしくなるような綺麗で大切な思い出は、ずっと私の心の支えになっていた。
そう、支えであったはずなのに……。
「疲れたな」
しくしくと闇に溶け込んだ空から雨粒が降り注ぐ。紫陽花と和菓子が目につく梅雨前線真っ只中の6月。すでに時刻は9時になろうとしていた。お外はすっかり真っ暗。ネオンの光だけが暗闇に鈍く彩り鬱陶しさを漂わせている。水野葵28歳はガタゴトと揺れる電車の座席で、深く腰を沈め、ひとりため息を吐いた。
参った。ゴリラが火を吹いた。
それは今日の昼の出来事であった。そのときの私の頭は、あることが大半を閉めていて、うっかりとしていたのです。
『──こんな簡単な発注ミス、あり得ないんだけど』
50歳を越える、我が社のお局、五里さんに怒鳴られてしまったのは今日の11時50分のことでした。もうすぐお昼ご飯になろうとしているところで、私は青ざめ、深々と頭を下げた。
『すみません』
『謝ったからって、どうにもならないわよ。発注数は50なのに、なんで5なのよ。あり得ない。もう一度、発注すると送料がさらに掛かるし、それに生産に間に合わなかったら、あなたのせいよ。始末書書きなさいよ』
『はい。すみません』
総務課で働く私はポカをしてしまったのです。何かと口やかましく、イビるために粗探しをするようなおばちゃんに、私は、まんまと餌を与えてしまい、口から火が出ていると思えるほど、五里さんに攻められた。
誰だってミスすることはあると思いませんか。
完全な確認ミスではある。ええ、私が悪るぅございます。確かに私のせいだ。しかし、もとはと言えば私の彼氏の亮ちゃんのせいでもあるのだ。
自分の失態を彼氏に擦り付けて、思い出しては私は腹を立てた。
電車で不安定に揺られながら、雨で湿気た前髪を剥ぎとるように額から掻きあげる。
──喧嘩をしたのだ。些細な。
かれこれ付き合って10年になる彼氏の坂田亮。顔も身長もそこそこで、優しいがため意外にモテた。しかし私意外、知らないだろうがズボラだ。そんな彼が私の誕生日デートで……。
『嘘でしょう』
彼はあり得ないほどよれよれの色あせた、いつ買ったかわからない緑の服を着て現れたのだ。あまりの衝撃に私は絶句した。
普段なら軽く流せていた。しかし彼女の誕生日なんです。
『腹減ったな。じゃあ行くか』
驚く私に気がつきもせず、何事もなくポケットに手を突っ込み、私の前を歩く亮ちゃんにイラつきを感じるのは仕方がないことだと思う。それでもエスコートしてくれるならと黙って彼に従った。なのにだ。
着いた場所は、よく彼が通っているラーメン屋ではありませんか。マジかと暖簾を睨めつけた。
いえ、別に高級レストランを期待していたわけではありません。でもその日は、おしゃれして花柄のワンピースを着ていたのだから考えて欲しいと思う。
なんでよっと怒鳴りたい衝動に私は陥る。ラーメンに罪はない。バリ固メンが喉に突き刺さったみたいに、なんだか悲しくなり、激辛ラー油をそのまま腹に流し込んだようにムカついた。
おい、付き合って10年とはいえ、手軽に済ませ過ぎではないだろうか。
折角の記念日が台無しだ。なんだか日頃の感情がちまちまと山となり、いままでの数々の言動が浮かんできてしまったのです。
『リモコン取って』
『味付けが薄い』
『さっさと片付けろよ』などなど。
何故に毎度命令なのか、あかん、腹立つわ。
そうして、とうとう私の限界の怒りが爆発した。
『あのね。私は亮ちゃんのなんなの? 彼女だよね。つき合って長いけど、もうちょっと私のことわかってくれない。誕生日にラーメン屋とかあり得ないんだけど。それに日頃から、私になにかしろって言うけど、私、召使いになった覚えはないし、亮ちゃんが残業で疲れてる、だなんの言うけど、私だってここのところ毎日残業なんだよ。私より早く帰ってきてるんだから自分でやればいいでしょう』
そんなことをポロリと言ってしまったのです。
どこかプライドを傷つけられたのか亮ちゃんも怒り、カンカンと鐘を鳴らして口喧が嘩勃発してしまった。それは洗濯機で回る衣類のように揉みくちゃに言い合った。
『お前、最近、可愛げない』
『亮ちゃんなんか、最近、やたらと女々しいじゃない。男の癖に』
『なんだと!』『なによ』
カンカンカンカン。
お互い、顔も見たくないっとなってしまい、口喧嘩は終了しました。しかしながら、まだ同棲してない私たちは、頑固者同士、そのまま連絡を断ってしまったのです。
そんなわけで仕事中、彼氏のことで頭がいっぱいだった。
私は頭痛でもするように額を押さえた。
「参ったな。あんな簡単なミスするなんて──それにお腹が空いた。ポカのせいで、お昼、食べそこなったんだよね」
落ち込む心に、空腹はさらなる虚しさを倍増させ沈鬱させた。
まったく。仕事に恋愛に散々。こうなれば、やけ食いだ。ダイエット。知ったこっちゃない。ああ、最近太ったんじゃないかって亮ちゃんに言われてたんだっけ。──知るか。食ってやる。
私はそう決め、荒々しく電車を降りた。
駅のホームで慌ただしくすれ違っていく電車。その風にボブカットの髪か靡かれて怒りが少し静まる。急に私はそこに取り残されたような、心を引き裂かれみたいな気分になりました。乱れた髪を耳に掛ける。
─私たち、もう駄目なのかなぁ。
くだらない喧嘩で別れが脳裏を過った。
「はぁ。昔はもっと亮ちゃん優しかったのに……」
初々しく仲睦まじく手を繋ぐカップルを横目で、その寂しさに私は大きなため息をつくと、最寄り駅を出たのでした。
さて、食うぞ。
夕飯はお家で食べる予定だった。献立は、餃子の皮にケチャップとチーズとベーコンを乗せた、ピザに見立てた物と、冷凍してあったクルミパンをこんがりオーブンで焼くつもりでした。
給料前のためコツコツと節約していたのですが、今日は、もう、ばーんっと食べたい気分です。
雨のせいでヒヤリとする外気を振り払い、真っ赤な傘を、ぽんっと広げ差すと、しとしと雨の中、ご飯を食べる思いが逸り、体がほんのり火照る。
嫌なことは食べて忘れるのが一番です。
ごはん。ごはん。
私は駅前をうろうろと放浪する。焼肉屋。うどん屋。カツ丼屋。見かけるのですけど、どれもここではないっと、何故かこだわりが邪魔をした。
疲れて鉛のように体が重い。なかなか決まらず、どうしようかと思ったとき。胃袋を鷲掴む最強のカレーの香りが鼻を掠め、心をぐぐっと奪われました。赴くままに進むと、ある店に行き着く。
「気まぐれ飯屋、まほろ」
こんなところに、こぢんまりとしたご飯屋さんなんてあっただろうか。私は小首を傾げる。
少し離れたところに大きな挙式上があり、明かりはすべてそちらに注がれるなか、暗がりの路地に挟まれるように、まほろは佇んでいました。
柔らかな黄金色の提灯に格子の引戸。木造作りの和風な店はどこか優美で格式高く見えた。
「お値段高いかな。でもカレーの匂い嗅いだら食べたくなっちゃったよ。大丈夫だよね」
言い聞かせ、傘を畳んでガラリと引戸を開く。中に入る。柔らかな橙色の照明にほっとした。真ん中には回転寿司のようなカウンター席がひとつ、ぽつりとあった。
えっ!
客が誰もいない。店員さんもいない。静けさに私は息を飲んだ。これは営業外だったのだろうかと不安に陥る。慌てて踵を返そうとしたところ、ゴトンっと音を立ててカウンター席の前のベルトコンベアーが運転しだしたのです。驚く。体が強ばる。そして、すっと流れてきた、習字書き。
ーーいらっしゃいませ。どうぞお好きな席にお座りくださいーー
なんじゃそりゃ。
達筆に書かれた習字書きが、ベルトコンベアーの上に乗って、からくり人形のようにカタカタと通りすぎていき、私は呆然とした。
どこかに、防犯カメラがあるのかと私は、不信感たっぷりで辺りをキョロキョロとした。
かたん。
またしても目障りな音をたて、ベルトコンベアーが流れてくるスタートラインの上の壁が開いた。いえ、小窓っといったほうが正解でしょうか。
上半身から上が小窓から見えました。頭にくるくるハチマキをしている。髪はショートカットで、目が三日月のように細い。少しぽっちゃりして……。
あれは、男だろうか?
たまに、見た目で性別出来ない人いますよね。それだ。
男だか女だかわからない店主は、ヘコヘコと頭を下げ、身振り手振りでジェスチャーで座れと促した。
変な人だ。
しかし、これであとに引けなくなりました。兎に角、この普通じゃない、不気味なご飯屋をビール一杯でも飲んでさっさと出て行こうと思いました。
私は渋々と誰もいないカウンターに座る。落ち着かない。なんだかお尻のあたりがそわそわする感覚に襲われました。
しまったな。あのまま家に帰って自分で料理でも作っていた方が良かったかもしれない。
後悔先にたたずです。
そこに、またしてもベルトコンベアーから習字書きが流れてきました。私の前で止まった。
おい。店主は恥ずかしがりやなのか。近くにいるんだから出てくればいいのではないだろうか。
口から出そうになる言葉を私は、すんでのところで飲み込み。まぁ、いいや。っと小さく深呼吸をすると習字書きを読んだ。
なになに。
ーーメニュー。
コースが二通りあります。
普通コースと思い出コースがあります。
どちらになさいますか?ーー
まて、これはビール一杯では済ませられないぞ。そのうえなんだ。思い出コースって……。
これはどうみても怪しすぎではないだろうか。
頭では危険信号が鳴り響いているのだが、心は興味を惹かれた子供のように、わくわくしていた。
二択。天国か地獄か。このくじ引きのような賭けに私は
「思い出コースで」
と言ってしまった。
身も心も疲れて思考力が低下していたのです。よって好奇心が脳天まで突き抜け危険信号の鳴り響くなか私は誘惑に負けたてしまった。
いいや。もう楽しもう。
店主が頷くと、するすると何事も無かったようにベルトコンベアーが動き習字書きが左に去っていく。代わりに右からなにやらお盆に載って、ある物が流れ、ビタンっと店主がベルトコンベアーの停止ボタンを、早押しのように押した。
ビクリ。と私は驚く。習字書きが目の前で止まる。
ーー食前のジュースーー
「食前酒じゃないんかい」
言いたいことは山ほどあるが、その習字書きに、突っ込まずにはいられなかった。店主は、にやっと笑い、照れを隠すように頭を掻いた。
どうするよ。この人。マジで変だ。
と、思いつつも、目の前のジュースを見れば、目が輝いた。
「懐かしい。ビー玉入りのラムネだ。昔よく飲んだな」
偶然とはいえ、思い出深いラムネを見て、心が弾まないわけがない。ラムネを手に取る。ヒヤリと冷たい。こんなにもラムネの瓶が小さかったかと驚いた。子供の頃は、もっと大きく思えていたのですが。
ぱちぱちと小気味のいい炭酸水の発泡に、気持ちが浮き足たちました。滑らかな瓶の口を傾け唇に触れさせる。すぐに喉をしゅわしゅわと甘い炭酸水が胃へと流れていく。
「美味し……」
ドオオオオオン!
そのときでした。突如、目の前から大量の鉄砲水が濁流のように現れ、私に向かってきたのです。
「ぎゃああああ。なんでぇぇぇ」
いったいどこから、どうして室内に。
それは滝の上から水が滝壺に落ちるように。頭から降りてきて簡単に私を飲み込みみました。
「がぼ、がは、ぶへ」
そして、足元が不安定になり、ドボンと沈む。大量の水。もはやそこは水の中。右も左も上も下も水です。髪がワカメのようにうねうねとして、水が入らないようにと口を塞ぐが、息が苦しくなり大量の泡を口から漏ぼしてしまいました。どどどっと激流の川になり、溺れるように私は流されて行ったのです。
嘘だぁ! 私、こんなところで死ぬの?
ぎゅと拒否して目を瞑る。っと体が急に上昇した。ぷはっと水から顔を出し酸素を吸い込む。
助かった。
荒い息のまま、安堵すると、さんさんっと照りつける太陽の直射日光が目に染みて、違和感を感じずにはいられませんでした。私は手で眩しさを遮った。なにが起きたのかと、うっすらと目を細め、180度、見回して視界に入れる。光景に私は驚愕した。
楽しそうにざわめく沢山の声。水着姿の人々。天まで届きそうな巨大な滑り台。ザラザラのコンクリートの地面は水を撒いたみたいに、てらてらとしていました。ここは……
「リッチランドだ」
もう倒産してなくなった、小さい頃にあったテーマパークです。夏は流れるプール。冬はスケートリンクになる施設。子供頃しょっちゅう遊びに来ていた。
なぜ、私がこんなところに、いるのかと水浸しになりながら唖然としていました。
──つと。
「亮ちゃん。喉かわいた」
「おう。いつもの買おうぜ」
えっ!
私の横を小学生二年生の自分と亮ちゃんが走り通りすぎていくではありませんか。躊躇いもなく手を繋いで。
衝撃な光景に私は瞬きすら忘れた。昔の自分と亮ちゃんは一直線に売店に行き「おばさんラムネ2つ」と指をピースサインして二人で軽やかにハモっていたました。その懐かしさに胸がドキドキする。
「亮ちゃん。見てビー玉が綺麗」
「おう、太陽の光でピッカ、ピッカだな」
「ふふふ」
淡く清い光を浴びる子供の頃の自分達が眩しすぎて、おもわず、思い出を捕まえようと私は手を差し出しました。瞬間。目の前が霞む。「あっ」と、か細く言葉を発すると、もとのまほろのカウンターに私は座っていたのです。掴み損ねた手が宙を寂しく行き場を失う。すっと冷静になる。
今のはいったいなんだったんだろうか。あんなにびしょ濡れになっていた服も髪も、なにもなかったように元通りでした。
なんだ、この店は……。違和感を感じつつも、懐かしさが胸を支配した。
呆然としていると、すぐにベルトコンベアーから次の品が流れてきました。ご丁寧に習字書きまで一緒に。
ーー肉まんーー
「なぜに肉まん?」
真ん丸のお皿の上にはひとつの肉まんが主張するように流れてきて、食べてくれと言わんばかりに私の前で止まった。
食え食えっと店主が口をぱくぱくさせてジェスチャーする。
もう冷静な判断は出来ずにいました。さっきのが何だったのか、気になって仕方がなかったのです。この店が酷く怪しく、可笑しいのはわかった。それでもあの懐かしい思い出に逢えるのではないかと募り、私は騙されてもいいと恐る恐る肉まんを掴む。
ほかほかの肉まんを、ひとくち、ぱくりと食べる。ぱさついた生地に、肉汁がない安物の味がしました。なんともなしに目をとじると、ひゅうっと冷凍庫を開けっぴろげた瞬間のように、頬に冷気が通り過ぎていきました。ゆっくりと目を開くとそこには、一台のトラックと普通車が停車していました。狭い道路。青い屋根の一軒家。
私はアスファルトの道路で、寒さで白い息を吐きながら、立ち尽くしていました。
ここは実家だ。
と、目の前には小学五年生の頃のお揃いのダッフルコートを着た自分と亮ちゃんがいました。
「引っ越してもメールするからね。亮ちゃん」
「俺も」
──これは……。父の転勤で三重県に行くことになった日のことです。思い出した。遠い昔の光景。私は無理矢理、記憶が掘り起こされました。
「これ。寒いだろう」
「なぁに。あ、肉まんだ」
小学生の小遣いで亮ちゃんは近くのコンビニに行き大慌てで息を切って、ひとつの肉まんを選別にくれた。
「ありがとう。亮ちゃん」
昔の自分の声が震えている。あの頃、私は本当に亮ちゃんと離れたくなかったのです。ずっと一緒だと思っていた。
私は今度こそ、昔の亮ちゃんに触れたくなり、手を伸ばした。腕を掴む。ことはできませんでした。するりと私の体は透けて、まるで水を切るように空気を裂いた。これは……。私自身が幻になってしまったのだろうか。透けた手を、まじまじと見る。
昔の自分に母が「葵」っと普通車の助手席から声を掛けた。
「もう、行くね」
「うん」
無理に笑顔を作って昔の自分は普通車に乗り込んだ。
私は普通車のうしろに同乗した。
「葵」
「亮ちゃん」
窓を隔てて大人の都合で引き裂かれた昔の自分と亮ちゃんが見つめ合う。父の運転する車は躊躇いながらも出発しました。心がチクリと痛んだ。
これが永遠の別れのような気がしていた。タイヤは回りに回り、ずっと見守って立ち尽くしていた亮ちゃんが、とうとう見えなくなった。昔の自分は亮ちゃんから貰った肉まんを頬張った。「うっうっ」と泣き出し「早く大人になりたい」と小さく呟いていた。
車の窓から分厚い空の雲が見えた。ちらりと真っ白な消えそうな、ちいさな、ちいさな雪が降ってきたのです。なんてちっぽけな真っ白な固まりだろうか。しかし、それは突如、車に挑むように向かってくる。ごうっと、粉雪が車を通り越し私に飛びかかってきた。
遮るように手を翳すと、ひやりとして静寂に包まれた、すると目を開けると温かな。まほろの店で私は座っていたのです。
これはもう、ただ事ではありません。
しかし、そんなことより手が冷たい。それなのに手の中の肉まんは柔らかく、ぬくもりを持っていた。私は無言でその肉まんを食べる。
そうだ。この安っぽい感じ、あの日の……なによりも温かな肉まんの味に似ている。
私の瞳が熱を持つ。溢れそうになる涙を私はこらえ。噛み締めるように肉まんを食べた。
「ごちそうさま」
心から出た感謝の言葉に店主はあからさまに、喜び、バンザイをしていました。もう、違和感だらけでも、どうでもよくなっていました。それよりも早く次の品が来ないかと思うようになっていたのです。
ーーカレーライスーー
次の品でした。
「やった」
待ち構えていたカレーが流れてきて、私は心が弾みました。温かなお皿を手に取り、スプーンでカレーを掬う。何種類かのスパイスの香りが鼻をくすぐります。大きめのジャガイモを頬ばると、どこか甘みを感じました。ごろごろのお肉も食べました。
あれ? これ牛肉でもなく鳥でもなく、豚肉だ。 それに……。カリ。
細かく刻まれた香ばしいアーモンドに私は懐かしさを感じ、食べる手を止めました。
この味は……。
遠くで蝉の鳴き声が聞こえてきます。まほろの店内が霞に覆われ、唐突に大きな蝉の鳴き声が耳障りに騒ぎ出しました。すると私は6畳間の和室に立っていたのです。もう驚きません。ここがどこなのかきょろきょろとする。開け広げられた窓からは夏虫が賑わい、強い日差しが縁側を照らしていた。よく伸びた雑草に、楠木が一本あり、そよそよと風が吹く度にカサついた音を立て木々が揺れていた。
この場所は……。
すらりと障子が開く。真っ白な髪をまとめた老女が、割烹着で濡れたらしい手を拭きながら言った。
「葵。昼ごはんは、なにがいいかい」
──おばあちゃんだ!
5年前に亡くなった祖母でした。そうか、ここは父の実家だ。もう会うことのない祖母を目の前にしてぎゅっと心が嬉しさに震える。
「カレーが食べたい。頭が麻痺するくらい辛いやつ」
中学二年生の自分が不貞腐れながら畳のうえで寝転がっていました。
「この暑いのにカレーなんぞがいいんか」
祖母は首を傾げながらも「まっちょり」っと言い台所に向かった。残された昔の自分はスマホを見て、つっと一筋の涙を流すと、ゴミのようにスマホを畳に置いた。
私はスマホの内容を覗き見た。
ごめん葵。好きな人が出来た。
離れ離れになった亮ちゃんからのメールです。すっかり忘れていましたが、そんなこともあったのです。子供にとって一年、一年は、大人の時間よりも長く感じたもの。私たちはの心は、すっかり溝が出来てしまったのです。初めこそは豆にメールをしあって、日常のことや新しい友達のことを伝えあっていましたが、ひと夏が過ぎるころから、徐々にメールの回数が減っていった。しだいに暑中見舞いや正月などでしかメールをしなくなってしまった。そんな夏のことでした。
昔の自分はどこか寂しそうな、後ろめたいような、それでいてどこか怒ったようにスマホを掴むと慣れた手付きでメールの返信をする。
私も好きな先輩が出来た。
それは強がりでもなく事実だった。お互い攻めることはできません。なのに何でしょうか、このやるせない気持ちは。
私はあの頃の気持ちがむせ返りました。今だから言えるが、先輩への思いは、恋に恋をしていたのだと思います。
それでも、私たちはそのときの気持ちが本物だったのです。
「──葵。出来ちゃよ」
大きな声で祖母に呼ばれ、スマホを持って昔の自分は食卓に向かう。それに続く。カレーの香りが充満する食卓で着席すると、すぐになみなみに盛られたカレーがテーブルに置かれました。
「いただきます」
昔の自分が食べだす。祖母のカレーは少し変わっていた。鶏肉が嫌いな祖父を気遣って、安価な豚肉を使用し、コクを出すため、ひと欠片のチョコレートを入れていました。そしてアクセントに、きざんだアーモンドを散りばめるのです。こりこりとした食感のアーモンドは、香ばしさが鼻を抜ける。しかし、歯に挟まるのが難ではありました。
「どうしたね。葵」
昔の自分は食べながら、ポロポロと泣いていました。なぜ、泣けるのか、わからなかったのです。
歯に挟まるアーモンドが、取れそうで取れない。そのなんともしがたい状況は、あの頃の自分と亮ちゃんに似ている気がします。
「ばあちゃん」
ざめざめと泣く自分。感情が蘇る。そこにモヤがかかりだしました。
ああ、あの頃の時間が終わるんだ。そう感じました。そうです私は、気がつくと何事もなく、まほろに佇んでいたのです。目の前にはカレー。私はもくもくと食べました。
これ、おばちゃんの味だ。
しば漬けの塩っぱさとアーモンドの甘さがカレーに絶妙に混ざりあった懐かしくて美味しいカレー。
もしもあのとき、違うメールを返信していたら。もしもあのとき亮ちゃんと離れていなかったら。
あの頃の自分達はどうなっていたのでしようか。
そんな、もうどうにもならい過去に私は、しんみりしながら思ったのでした。
「ごちそうさまです」
店主が肩を落とす。私が浮かない顔をしてたいたからでしょうか。私は「美味しかったです」と言うと頭に着けていたハチマキを取り、ぐるぐると右回転させていました。喜びの舞いでしょうか。なんだか不信を抱くのも馬鹿らしくなって、くすりと笑ってしまいました。っとすぽりと店主のハチマキが手からブーメランのように離れて飛んでいきました。壁にぶつかったようで、なにやら、ペコペコと焦りながら、どこかに謝っているではありませんか。
ん。もしかして誰か他にいるのでしょうか。
オオオオ。っと小さな振動が部屋を揺らした気がしました。
地震? いや。気のせいだ。たぶん。
「えっと、お会計は」
と私が言うと、店主は左右に首を振り、座れっとジャスチャーで伝えてきます。紙を持ち出し、習字の筆を持ち。書き出しました。そして流れてきた習字書き。
ーーデザート。その1ーー
「その1ですか」
ーー杏仁豆腐ーー
真白な透明なカップに入ってぷるんぷるんの杏仁豆腐が流れてきました。手に取り私は食べました。普通に美味しい。杏仁豆腐になにか思い出などあっただろうかと考えていると視界が変わりました。
「──久しぶりだな。葵」
自分と亮ちゃんが高校一年生のときの光景てした。ピンクの桜並木です。その背景を見て立ち尽くし、これは高校の入学式のことだと悟る。覚えている。
父の転勤が終わり、私は親の都合で、高校を地元で受けることになり、偶然、同じ高校に入学した亮ちゃんと出会ってしまったのです。衝撃でした。あの頃は、もうお互い連絡しあうことは無かったからです。亮ちゃんも声を掛けるか悩んでいたのでしょう、どこか不安げな様子でした。
「……あのさ」
言い淀む亮ちゃんは桜の花を見ては、私に視線を戻しました。まぁ、気まずいよなぁ。最後のメールは好きな人が出来た、だったのですから。
「あのさ、葵。杏仁豆腐、食うか」
「はぃ?」
散々言葉を躊躇って出てきた言葉がそんなことで、私は思い出して、吹いてしまいました。
─あったな。そんなことあったわ。
のちのち亮ちゃんは思わず声を掛けたが、なにを話していいかわからなくなって、あんなことを言ったんだと教えてくれました。しかし、そのころの私は要領を得ず、イラっとしたのを覚えています。
「どういうこと」
「うちの高校の売店にさ、紙パックで杏仁豆腐が売ってるらしいんぞ」
「……だから?」
「だから、買ってやる」
「なんで」
「人気があるらしくって……あぁ、もう、そんなこと言いたいじゃなくて、仲直りしたいって、言いたいんだよ」
「えっ」
頭を掻きむしって亮ちゃんは、昔の自分を見つめました。
「深い意味はねぇーよ。ただ、これから同じ高校だろ、気まずいままが嫌なんだよ。友達として……」
その情けなさが、可愛く思えて
「ふふ。あはは。亮ちゃん、なに、杏仁豆腐で私の気持ちを買収するつもりなの」
可笑しくて昔の自分はお腹を抱え、満面に笑いました。亮ちゃんは驚いたような、少し頬を赤らめ、そしてとても優しい眼差しをしています。笑っている昔の自分は気づいていません。
あの頃の亮ちゃんは、あんな表情をしてたんだと初めて知り、心がきゅっとしました。
杏仁豆腐。
そうだった。高校時代、なにかとあれば、亮ちゃんは必ず、売店の杏仁豆腐を買ってくれていたのです。テストの点が絶望的に悪かったときや、体育祭のリレーで転んで最下位になりクラスに迷惑かけたとき、それこそ亮ちゃんと喧嘩したとき。そんなとき必ず杏仁豆腐を買ってきてくれました。
「ほら、葵。食え」
「餌付けみたい」
なんて言いながらも、甘くて喉を通る杏仁豆腐が甘くて甘くて。するする喉に流れていった。好きな気持ちと一緒に……。
──ざぁっと、突風が吹き、遅く咲いた桜が散り散りに舞った。──入学式のあの日。
「亮、その子だれ」
っとさばさばとした子が亮ちゃんの肩を馴れ馴れしく触れ現れました。それは私の高校のときの友達でした。
そのとき私は気づいていたのです。さっちゃんが亮ちゃんのことが好きだって……。
ピンク色の桜が徐々に薄らぎ、橙色の柔らかな照明にかわりました。私はまほろにいました。
「馬鹿な葵」
景色が戻ったことにも頓着せず、私はあの頃の感情に浸っていました。
高校で再会して間もないころ、私は亮ちゃんを友達以上に好きになることは、もうないと思っていた。それよりも、新しく出来たばかりの友達と、もっと仲良くなりたかった。だから、さっちゃんに協力した。
本当に馬鹿だった。
亮ちゃんから杏仁豆腐を貰うたび。するすると好きな気持ちが心に沈んでいった。それでも気づかない振りをしてた。
「馬鹿な葵……」
食べかけの杏仁豆腐をラップするように、あのころの私は、透けて見えそうな気持ちに蓋をしたのだ。結果、人の気持ちを踏みにじることになる。あの頃、そんな簡単なことにも気づけずにいたんだ。
杏仁豆腐を食べながら、若すぎる行動を思い出し心がズキズキと痛んだ。
「ごちそうさまです」
ーーデザート、その2ーー
皿の上には500円ほどの小さな茶色の固まりがありました。心を昔に囚われながら、私は皿を受けとりました。
「えっと、これは」
ーーブラウニーですーー
習字書きが流れてきて教えてくれました。ブラウニーですか。しかし、いくらなんでもこのデザート小さ過ぎではないだろうか。
そんなことを思い、気持ちを切り替え、私は行儀悪く手で掴み、ひとくちでぱくりと食べ……。
「げほ。ごほ。なにこれ、塩辛い!」
っと咳き込むと、ゆっくりと景色が変わっていきました。いったいなんて酷いブラウニーを食べさせられたのだろうかと、ちょっと腹が立ちました。これはお金を取る味ではない。っと。
私は実家の部屋でぽつりと立ち尽くしていた。
高校一年の自分は、家のベッドに投げ出すように寝っ転がり、ペンギンのぬいぐるみを抱えて、スマホを片手に、さっちゃんと電話をしているところです。
「バレンタインのチョコレート?」
「そっ。一緒に作ろうよ」
本命チョコを作ろうと、さっちゃんが相談してきたのです。──そうだ。すっかり忘れていた。そんなこともあったんだ。昔の私は、乗る気ではありませんでした。しかし、さっちゃんの必死の懇願で了承してしまったのです。そこからは断片的に風景が変わりました。
気がつくと私は母校の一年三組にいました。料理の苦手な昔の私とさっちゃんは料理部の岡田さんに頼み込み了承を得る。さっちゃんは喜び、本番に向けて料理の練習をすることになりました。岡田さんの提案で、溶けないブラウニーを作ることが決定。
なんでこんなことになってしまったのだろうかと、あのころ優柔不断な自分を呪ったものです。
「──葵。落ちたぞ」
「え」
次の場所は廊下。移動教室の時間に昔の自分は、さっちゃんとお揃いで買った手のひらサイズの熊の人形を落としてしまい、亮ちゃんはひょいと拾い
「ドジ」
と言い手渡してくれました。
「ドジって酷いな」
「あのさ、放課後、料理部の岡田となんか作って……いや、なんでもない」
どきりとしました。まさかバレているとは思わなかったのです。決まり悪げに亮ちゃんはした。そこにどこぞの誰かが半開きにした窓から、冷たい悪戯な風が吹き込み、腰まであった昔の自分の髪が靡いた。
「あっ。私の髪が絡まってる」
「げっ。俺のボタンに絡まってんじゃん」
当時、腰まであった自分の髪が亮ちゃんの学生服に絡まってしまったのです。亮ちゃんは悪戦苦闘しながら外そうとしている。その必死さが可愛くて、くすりと笑ってしまう。
バレンタインのチョコレート、義理チョコならあげてもいいだろうか。
そんなことを昔の自分は思ったのを覚えている。しかし……
「なにしてるのよ。亮ってば」
先に進んでいた、さっちゃんが気がつき、慌てて戻ってくる。我にかえり、義理だろうがさっちゃんに悪いと心に蓋をした。
絡まったボタンを髪から剥がそうと、さっちゃんまで加わって、さらに絡まり悪化してしまった。まるであのころの心が反映したみたいに絡み合っているようではありませんか。
「いいよ。髪切っちゃえば」
「できねーよ。ばーか」
ブツ。
言うと亮ちゃんは自分のボタンを引きちぎってしまったのです。
「ドジ」
亮ちゃんの大きな手が、昔の自分に伸び、頭を撫でるように触れた。その光景を目の当たりにして私の心臓が、あの頃と同じように高鳴った。知らない男の子のようで、変わらない優しい男の子。亮ちゃんへの感情が溢れそうでした。
ーーどうしようーー
溢れてきた昔の自分の声。心の声が透けていた。
好きになんかなるものかと、好きになってはいけない人だと。聞こえてくる。
馬鹿ですよね。気持ちなんて押さえつけられるものではないのに。
場面がまた変わりました。
「葵。国語得意だったよね。今度勉強会しようよ。ってかお願い、亮を呼び出すチャンスが欲しいんだ」
「いいよ。さっちゃん」
ーーどうしようーー
「葵さ、亮の部活なかまの新城って知ってる」
「知らないよ」
「そいつが、どうも葵のこと気になってるみたいなんだぁ。どう、会ってみない」
「いいよ。やめとく」
「ええ、いいじゃん。そうだ、今度、四人で出かけようよ」
ーーどうしようーー
「あのさ葵。新城のこと好きなのか」
「そんなことないよ。何言ってるの、亮ちゃん……」
「そっか。だよな……」
ーーどうしようーー
「馬鹿、葵。ヤッパリ熱があるじゃねーか」
「えっ」
「自分で気づかなかったのかよ。悪い、こいつ保健室連れて行く」
「ちょっ。亮ちゃん。手!」
「何だよ、手なんかガキのとき、いくらでも繋いでただろうが」
「……そうだけど」
ーーどうしようーー
こんな昔の光景を見せられて、私の胸がぎゅっと締め付けられて痛んだ。もう、どうしようもないくらい昔の自分は亮ちゃんを好きになっていった。
とうとうその日がやってきた。
岡田さんの家で慣れない手付きで、昔の自分とさっちゃんはチョコレートを切り刻んでいる。
「クルミ入れても、亮って食べてくれるかな?」
「大丈夫だよ。昔と変わらなければクルミ入りのパン、亮ちゃん好きだったから」
「そっかぁ」
嬉しそうにするさっちゃが、このうえなく眩しく、幸せそうで、胸に刺さった。嫌気がするほどの甘ったるいチョコレートの香りが、部屋中に染み込んでいた。その溶かしたチョコレートにバターを加え、混ぜる。卵に砂糖に牛乳。ラムエッセンスを2、3滴加えて焼く。
心はそぞろでした。亮ちゃんは、さっちゃんから貰ったブラウニーを嬉しそうに食べるのだろうか。さっちゃんと亮ちゃんはこのまま……。そんな最低な渦が回っていたのを思い出した。
「完成。やったね。なんとか形になったぞ」
各個人で作ったブラウニーは特徴的。岡田さんはハート型で完璧。さっちゃんはクッキーのように固め。私は……。
「しょっぱい!」
「葵、あんたこれ、砂糖と塩、間違えてるよ」
もはやお菓子ではありません。折角練習までしたのに。
「これじゃあ、新城にもあげられないじゃん」
「……あげないよ」
「げふ」
「って、葵、なに食べてるのよ。勿体ないけど止めときなよ」
岡田さんが口直しにお水を持ってきてくれた。昔の私は、あまりの塩辛さに涙目になりながら水をごくごくと飲み干した。
これでいい。
亮ちゃんへの甘いふわふわした気持ちは、このブラウニーのように塩で辛くして水に流せばいい。そんなことを思って何度もその塩辛いブラウニーを吐きそうになりながら、あの頃の自分は食べた。
空気を入れ替えようと岡田さんは、からりと窓を開けた。気持ちが悪いほどの甘ったるいチョコレートの匂いが和らぐ。すでに空は茜色に染まっていた。
大きな夕焼けが、ふいに回るように歪んだ。ぐるぐると違う絵の具を混ぜるように。──急に目眩がした。気持ちが悪いまま、私は、まほろにいた。
ちょっと昔の記憶を思い出し過ぎたのだろうか。
軽い目眩に私は頭を振った。口のなかが、まだ塩辛い。水がベルトコンベアーから流れてきて私は受けとる。ぐっとコップを傾けて水を喉に流し込む。
馬鹿な葵。こんな水なんかで気持ちなんて流せるわけがないのに。もう、あのころ、どうにもならないほど亮ちゃんを好きになってたくせに……。
「若かったよな」
このまほろで食べた、酷いブラウニーは、私の作った洋菓子そのままだった。ほろ苦く塩辛い。そしてとても不味い。あの頃の醜い心みたい。
「ごちそうさまでした」
店主は両手を合わせて、私を拝むように頭を下げました。気分を悪そうにしている私に申し訳ないと思ったのだろう。しかし、私は平気だと手振り身振りでジェスチャーした。
あれ。店主の動きが移ってないか。
まっいいか。
続きまして、次の品が流れてきました。
ーーリンゴ飴ーー
「やった。私の好きな物だ」
気持ち悪さなどなんのその、あっと言う間に気分が上昇しました。真っ赤なリンゴ飴を手に取り、お口直しにと、甘いリンゴ飴をぱりっと食べる。
っと、どんどこ。どんどこ。っと太鼓の音が聞こえてきました。すると赤い鳥居の神社が見えてきました。提灯に屋台。浴衣姿に花火。どうやら夏祭りのようです。
「葵。こっち、こっち」
さっちゃんに呼ばれ浴衣姿の昔の私は振り返りました。高校二年のころです。
「葵、お願いね。告白するから亮を連れてきてね」
「うん」
泣きたい気持ちを押さえて昔の私は偽りの笑顔を浮かべました。ガランゴロンと下駄が足に食い込みピリピリと痛んでいるのか右足を少し引きずっています。スマホで亮ちゃんを呼び出し、ひとりで鳥居の前で待つと、亮ちゃんが息を切って走って来ました。
「お前なぁ。呼び出すなら、もっと前もって言えよな。友達と回ってただろうが」
嬉しそうに笑い、すっかり勘違いしている亮ちゃんに、あのころの私は言葉が出ませんでした。そんなことお構いなしに「行くか」っと亮ちゃんは言うと二人で並んで屋台が立ち並ぶ参道を歩きました。
「覚えてるか、昔さ。お前、買ったばかりのリンゴ飴を袋からだして、すぐに、落としやがってさ」
「うん。この神社の坂、リンゴ飴がゴロゴロに転がっていったね」
「二人で追いかけたな」
「うん。途中で私が転んで足擦りむいて」
「そうそう、俺がおぶって帰ることになったんだっけ。ドジだよな」
「なによ。亮ちゃんだってさ、水風船、びょんびょんやりすぎて、知らないおじちゃんの腰にぶつけて割って」
「はは。二人で謝ったな」
亮ちゃんと昔の自分は可笑しそうに笑った。すると、そっと手がぶつかり、そのままさりげなく亮ちゃんが昔の自分と手を繋いできた。子供のころの柔らかな小さな手とは違う、あきらかにゴツくなった手に、昔の自分はびくりとしてしまった。
「嫌だった」
「ちが……」
亮ちゃんの頬が赤い。これは提灯の明かりのせいだけではないでしょう。──駄目だ。そうだ。あのとき突き放すように私は、さっちゃんのことを思い出して、亮ちゃんの手を振り払ったんだった。
「あのね。私、亮ちゃんと祭りを回るために呼んだんじゃないんだ」
「どういうことだよ」
「あのね。あっちにね、さっちゃんがいるんだ」
それを聞いた途端、あからさまに亮ちゃんの機嫌が悪くなった。
「葵はそれでいいのかよ」
見透かすように、亮ちゃんは昔の自分を見据える。昔の自分は、ばれないように顔を歪ました。
「なにが」
「気がついてないと思ってるのかよ。葵が、やたらと小林と俺を一緒にさせようとしているだろう」
「そんなこと」
「じゃあ。俺の顔見て言えよ。なんで顔を反らすんだ」
「…………お似合いだと思ったから、亮ちゃんとさっちゃん」
太鼓の音がやけに心臓に響いた。
「……ああ。そうかよ。じゃぁ、その通りにしてやるよ」
亮ちゃんは昔の自分に背を向けて行ってしまいました。「まっ」──まって。引き留めそうな声を飲み込み堪える昔の自分。
なんて馬鹿なんだろう。なんて愚かなんだろう。口を塞いで細かく震えている昔の自分の姿を私は見ていた。
馬鹿だ。
亮ちゃんの手を掴みたかったくせに。嫌だと言いたかったくせに。好きだと叫びたかったくせに。
見えなくなった亮ちゃんに昔の私は静かに泣いていた。痛む足を引きずり、なにもかも嫌になり家に向かう。近くの公園へ行き、亮ちゃんとブランコで遊んだことを思い出しながら、ブランコに座り、また泣いていた。
どれくらいそうしていただろうか。
「こんなところにいた」
亮ちゃんが追ってきて昔の自分の前に現れたのです。
「どうして」
「……馬鹿が。顔ぐちゃぐちゃだな。泣くなら、あんなこと言うなよ」
亮ちゃんは昔の自分の真ん前に立ち、どこか呆れたように言いました。わけもわからず、信じられなくて昔の自分は泣くことも忘れ、ブランコに座りながら亮ちゃんの顔をまじまじと見上げました。
「葵は、もっと昔は素直だったのにな」
「なにそれ」
「馬鹿になったなって」
「なんだと」
「……断ったよ」
「えっ」
「小林のことは、ずっと友達としか見れなかったから」
そう言って亮ちゃんはどこか熱い視線を昔の自分に向けた。どうしていいかわからなくなって昔の自分は視線を反らす。
「ほら」
「あっ。りんご飴」
「好きだっただろう」
「うん。大好き」
「うっ……お前」
うん。無垢って怖いよな。私は昔の自分たちの光景に、なんだかいたたまれなくなってきました。
「食べていい」
「好きにしろ」
頭のなかはパンク状態だったのを覚えている。さっちゃんを振ったこと。どうしようっとの思いと、嬉しいとの思い、そして、なんでわざわざ探してまで、亮ちゃんがここに来たのかとか。しかし、りんご飴の甘い味に、その感情が落ち着いてきたようです。昔の自分は「甘い」って言って無邪気に亮ちゃんに笑い掛けました。
「葵のその顔は、ずっと変わらないな」
「へっ」
「落ち着く」
ふいにペロペロと舐めていたりんご飴を取り上げられ、亮ちゃんの真剣な面持ちが昔の自分に迫ってきました。そのまま唇を奪われる。
「──甘っ」
「な……」
そっと唇を離して亮ちゃんは言いました。
「ごめん、我慢できなかった」
亮ちゃんは照れながら、また、昔の自分の顎をとらえると、長いこと口を塞いできました。すべてを吸い取られるような思いでした。好きと思う気持ちは奥深く沈めていたのに、それをいとも簡単に吸い上げられる。もう、駄目だと、この思いを隠しきれないとあのとき思った。
やっと離されて、昔の自分は大パニックを起こして、あっぷあっぷっと口を押させながら声にならない声を出していました。
ああ。こんな時分もあったんだったな。いたたまれない。
「しまった。告白する前にキスしちゃったな。なぁ、もっとして」
「だめぇぇぇぇ」
「くくく。いっぱい。いっぱいだな。お前」
「ムカつく」
「俺も、余裕なんてないよ」
昔の自分は真っ赤になり、その顔を見られたくなくてブランコから降りて、拗ねたように亮ちゃんに背を向けました。
「葵」
「知らない」
「たく。りんご飴いらないのかよ」
「いる」
背を向けたまま手を差し出すと、望み通り、リンゴ飴を渡される。背を向けたまま、カリリとリンゴ飴を食べる昔の自分。甘くてすっぱい、りんご飴。
さっちゃんを傷つけることになる。それでも、亮ちゃんの側にいたい。
そんな感情を思い出すと私の視界が朧に霞ました。やはり気がつくと、りんご飴を片手に、まほろのカウンターで座っていました。私はりんご飴を食べました。ひとくち食べる度に瞳から涙がポロリと溢れてきます。
どうして。どうして忘れていたんだろうか。
あんなに好きだったのに。
そうだよ。好きで、好きでしょうがなかった。
あのころ、周りを傷つけながらも私たちは付き合い初めた。私はなにかと亮ちゃんに、なにかしてあげたいっと思っていたはず。お互いがお互いを不器用ながらも想い合ってた。
付き合って10年。
今や不満ばかり感じ、そのイラつきを押さえることばかり考えていた気がする。
なんでやってあげないといけないんだろうとか。なんで私のことわかってくれないのだろうとか。
純粋に好きだったのに。
りんご飴の甘さが、あのときの亮ちゃんを好きな気持ちが湧きあがらせた。
あんな思いまでして両思いになったのに……。
「──なんて馬鹿な喧嘩をしたんだろう」
どんな格好をしようが亮ちゃんは亮ちゃんなのに、私のために誕生日に会ってくれた。いるのが当たり前になりすぎて、甘えていたのだと気が付く。
「ごちそうさまです」