どうしようもないくらい人を好きになったとき、私は一日中その人のこと以外考えられなくなる。授業中も、ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、頭に浮かぶのは好きな人。
高村くんと出会ってから、既に一ヶ月が経過していた。あのとき、別れ際に「また月曜日に」と零していた高村くんが、月曜日になっても、火曜日になってもずっと学校に来ない。
(何かあったのかな……)
あまり考えたくないが、交通事故や事件などに巻き込まれた可能性もある。担任の卯月先生にそれとなく聞いてみたが、上手く濁されるばかりで、高村くんについての情報をひとつも教えてくれなかった。
「澪ちゃん、大丈夫?」
「……んー?」
自分の席で、今日もまた高村くんのことについて考えていたら、風花ちゃんが声をかけてきた。
「最近ぼーっとしてること多いね。それにしても雨すごいね」
「そうだね……あ、風花ちゃんって、一年のとき四組だったよね?」
「うん、そうだよ」
そういえば、なんで思いつかなかったんだろう。先生ではなく、高村くんの知り合いに聞く方が早いのかもしれないということに。
「高村くんってさ、元々何組だったか知ってる?」
「高村くんも四組だったよ」
「え!そうなの」
グッドタイミングだ。風花ちゃんに聞こう。
「私この前高村くんに会って、傘借りたんだけどさ、それからずっと会えてなくて。なんかあったのかなって思って……」
「そうなの?……そういえば高村くん、一年生のときも結構休みがちだったなあ」
「そうなんだ……」
「うん、でもまあ二年生に進級できてるから、めちゃくちゃ休み多いってわけではないけどね」
「なるほど……。ずっと傘借りっぱなしなのも申し訳ないんだよね」
「大丈夫、きっといつか来るから気長に待っていよう」
「うん、そうだね。ありがとう」
しくじった。あのとき、連絡先を交換しておけばよかった。なんて今更後悔しても仕方がない。梅雨の時期だからという理由でクラスの誰かが作ったてるてる坊主が、窓付近で俯いていた。


今日は木曜日なので、部活があった。
私は写真部に所属していて、今日は部員が撮った写真をエントランスの壁に貼り付けるという作業をして解散した。
友達と帰ろうとしたときに、明日単語テストがあるにも関わらず、単語帳が鞄の中に入っていないことに気が付いた。
「ごめん、先帰ってて」
「りょうかーい」
友達を置いて、職員室へ向かう。教室の鍵を持って行こうと思ったけれど、そこに二年五組の鍵はなかった。
(まだ誰か残ってるのかな?)
足早に階段を登り、教室の扉を開けると、窓際に一度だけ見たあの姿があった。
「……高村くん?」
それは突然で、状況を理解しきれなくて、私は瞬きを繰り返す。
「倉木さん」
振り向いた高村くんの声が、私の鼓膜を震わした。目の前に高村くんがいることがなんだか信じられなくて、その場から動けないでいる。
「……大丈夫?」
高村くんがこちらへ向かってくる。あれ、初めて敬語じゃなくてタメで話しかけてくれた、とか背高いな、とか声忘れかけてたけど今思い出せたな、とか。色々な感情が溢れかえって、思わず笑みが零れた。
「ごめんね、久しぶりに会えてすごくびっくりしてる」
「……あのとき、また月曜日にって言ったのに、約束守れなくてごめんね」
「いや!全然大丈夫だよ!……結構心配はしたけど」
「ありがとう」
高村くんは、目を離した隙に消えてしまいそうな雰囲気がある。どこかフワフワしていて、なんだか危なっかしい。
「あ、これ、ずっと返そうと思ってて……本当に助かった。ありがとう」
「……そういえば貸してたね。役に立てたなら良かった」
一ヶ月越しに返せた折りたたみ傘も、高村くんの元へ戻ることができて嬉しそうだ。傘を受け取って席に戻る高村くん。
「席替え、してないんだね」
「そう。テスト期間とか文化祭の準備とかが重なって、中々時間がないんだよね」
私も高村くんの隣に座る。
「文化祭……五組は、何をするの?」
「五組はね、メイドカフェをするっぽい」
「メイドカフェ?それって、男はどうするの?」
「男の子もメイド服着たい人は着るっぽい。あとはウェイターさん」
「そうなんだ。面白そうだね」
この企画は、クラスのリーダー的存在である北原さんたちが考えた。女子は、メイド服て接客をする女の子と、裏で料理をする女の子とに分かれるが、勿論北原さんたちのグループがメイド服をかっさらっていき、私たちは裏でパンケーキやドリンクを作る係になっていた。
「倉木さんも、メイド服着るの?」
「え、着ないよ」
「それは勿体ないね」
「んー?どういうこと?」
「似合いそうだなって思ったから。着ないの、勿体ないなって思って」
そんな恥ずかしい台詞を、表情ひとつ変えずにサラリと言う高村くんのギャップに、目を見開く。
「いや、全然、そんな似合うとか……」
舌が回らなくなる。あのときと同様、顔が火照っている。
「文化祭かあ……。僕も参加したいな」
「……え、?」
高村くんが、あまりにも遠くを見つめているから、顔の火照りが段々と落ち着いてくる。一点を見つめる高村くんの頭に浮かんでいるものは何なのか、わからなくて戸惑う。
「……参加しようよ。一緒に準備して、一緒にパンケーキ作って、一緒に回ろう?」
高村くんが、どこかに消えていきそうで、不安になる。私の言葉に驚いたのだろう。少しだけ高村くんの表情が柔らかくなった気がする。
「うん、ありがとう」
だけど、その表情には寂しさも隠されているような気がした。
「それじゃあ、僕そろそろ帰るね」
いつの間にか時計の針は七時を指していて、時間の経過があまりにも早いことに今気付く。
「……うん」
また、会えなくなる日々が続くのだろうか。
それは嫌だ、と思っている私がいる。
「……また、会えるよね?」
ぼそりと呟いた私の声さえ拾ってしまう高村くんが、愛おしい。
「会えるよ。文化祭、一緒に回ろう」
約束。そう言って小指を差し出す高村くん。言葉で表せないほどに嬉しくて、指切りをする。
「またね」
「うん。またね」
そんな言葉を交わせた瞬間は、まるで幻のようにぼんやりとしていて、夢を見ているみたいだった。


文化祭は六月二十八日。
あと一週間で本番を迎えることになる。だけど、あれきり高村くんは学校に来ていない。
そして今日は、この前受けた定期考査の総合結果の紙が手渡しされた。
二年生になって初めてのテストで、私の順位は百十二人中、二十三位であった。一年生の頃は、一桁しかとったことがなかったので、成績の急降下に焦りを覚える。卯月先生からも、返却されるときに言われた。
「大丈夫?なんかあった?」
卯月先生は、一年生の頃も私の担任であったため、今までの順位について全て把握している。それ故に、今回の結果を踏まえて過剰な心配をされた。
廊下にある掲示板に張り出されるのは、十位までであり、当然私の名前は載らない。得意教科の国語と英語では、名前が載ったが、総合順位に私の名前がないことに対して誰かが言う。
「澪ちゃんの名前が載ってないよ」
「珍しい。なんかあったのかなー?」
ヒソヒソと、私に聞こえないように言っているつもりでも、三歳の頃からピアノを習っていて耳だけには自信がある私は、その全てを聞き取れてしまう。耳を塞いで、しゃがみ込んでしまいたくなる。
「倉木さん、大丈夫?なんかあった?」
掲示板の前で、去年同じクラスだった湯崎翔太が声をかけてきた。この人の名前を、どこかで見た。ああそうだ、さっきの順位に載ってたんだ。九位に。
湯崎翔太には悪いけど、息が上手く出来なくなってその場を離れる。よく小説や映画の世界では屋上が開放されているが、現実では開放なんてされていない。屋上という青春の場を、学校側は提供してくれない。行き場を失くした私はトイレにこもって泣いた。
視界がぼやけ、耳が聞こえなくなる。息をすることが出来ない。どうにか、肩で息をしようとしても今は頭が回らなくてただ便座に座ることしか出来ない。
耳が籠っていても、チャイムの音だけは微かに聞こえて、二時間目が始まったことを暗示される。やばい、戻らなきゃ。そう思うのに、立てるほどの気力もなく、ただ息の仕方を探す。
そうこうしている間に、意識が朦朧としてきた。
「誰か、助けて、お願い」
そんな言葉が届く訳もなく、私は目を閉じた。


白い天井。
ただ、それだけ。
ハッキリと目が見えるようになったときには、ここが保健室であることを理解出来た。
こういうとき、自分から声をかけて保健室の先生を呼ぶのもなんだか気が引けるので、目を開けたままぼーっとしていることにした。
暫くして、足音が近づくと共に右側のカーテンが開けられた。
「倉木さん!目が覚めた?」
保健室の水野先生が心配そうにこちらを見ている。
「あなた、トイレで倒れてたのよ。すごく大きな音がしたって女の子たちが騒いでて、駆けつけたら汗すごくて」
そういえば、制服ではなく体操服に着替えさせられている。
「とりあえず、卯月先生呼ぶね」
返事をすることも難しくて、目だけで応答する。水野先生が電話をしている。家の親もそうだけれど、大人というのは電話のときによそ行きの声を出す。それは全国共通なんだな、とぼんやりとした思考回路を巡らす。保健室は、どこの部屋よりも白くて少し明るく感じてしまう。だからか、目が思うように開けない。
「失礼します」
卯月先生の声だ。
「倉木。大丈夫か?」
声を上手く出せないので、必死に頷く。
「……何かあるんだよな。テスト、採点してびっくりした。あの倉木が五十点切るなんて」
頭を抱えて話す卯月先生に、テストの結果が悪かったことについて謝るべきなんだろうと思ったが、上手く声が出せないために何も言えなかった。
「何かあるなら話してほしい。担任として力になりたい」
真剣な表情で言う卯月先生を横目に、私は声を出せないことと、自分の悩みが明確にわからないこと、わかったとしても先生には話したくないということをぐるぐる考えていた。
今この場ではどっちみち話せないから、ここは寝たフリをしておこう。そう決意し、目を閉じる。
「倉木?……早退させるか。お母さんに電話するか……」
私の名前を呼んだ後に、独り言のように呟いたその台詞を聞いて、思わず体を起こす。
「それだけは、やめてください」
声を出す。流石に卯月先生も驚いていた。
「びっくりした……倉木、なんでだ?お母さんと喧嘩でもしているのか?」
「……違います」
違う、そんなんじゃない。だけど、早退なんて、絶対にしたくない。
「話してみろ。話すことでスッキリすることもあるんだぞ」
「……っうるっさい!!」
人生で初めてだった。
幼稚園の頃から、大人というものに恐怖心を人一倍感じて、ずっと「いい子」を演じ続けてきた。小学校でも、中学校でも高校でも、大人に怒られたことなんて一度もなかった。
家庭訪問や三者面談でも、いつも言われてきた言葉がある。
「倉木さんはとってもいい子です」
その「いい子」としてのイメージを崩さないようにするのに必死だった。あるとき、クラスみんなの前で、悪さをした男の子が怒られていた。そのとき、自分が怒られているように感じる。「ごめんなさい」と謝り泣きわめく男の子を目にして、私も泣きたくなる。
それから、自分は絶対に怒られたくない、と更に思うようになった。忘れ物をしてはいけない。宿題の答えを間違えてはいけない。友達の悪口なんて、言ってはいけない。
そして、倉木澪を正当化したつもりで生きていた。それが今日初めて、卯月先生の前で破壊された。
「出席日数、勉強、テスト、課外活動……全部全部、先生たちが言ってること!受験のために全部全力でやらなきゃいけないのはわかるけど、でもキツい。授業中、当てられて答えられなかったときにクラスみんなの前で罵倒されて、順位下がったら心配されて、学校休んでる子には理由聞き出してそれでもその子が傷つくようなことばっかり言って!本当に体調悪いのに、休んだだけで色々言われるんだから、休めるわけない。学校休んだとしても心殺されるし、行っても殺される。うざいんだよ!本気で生徒と向き合いたいなら、生徒のこと傷つけないでよ!殺すとかそんなこと言わないでよ!!」
半分は叫び。涙がぼろぼろと溢れて、白い布団に零れる。申し訳ないと思いつつも、私の言葉は止まってくれない。
卯月先生が目を見開いている。
これが、倉木澪だ。
本当の、倉木澪。
肩で息をしながら冷静になってきた頃、脳裏に浮かぶのは高村くんだった。