どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい──こんな自分のことが大嫌いだ。
教科や学習に関する教育。
人間性や能力に関する教育。
主にこの二つを主流としている日本の教育方針だが、どれだけの教師が私たち生徒と全力で向き合うことを心がけてくれているのか、度々わからなくなる。
「協調性」という名の縛りをかけられた教室は、広い世界を見渡すことが出来ないちっぽけな箱の中同然であった。
日本の自殺者数が、先進国の中でも第一位である上に、二〇二二年において学生のそれは、過去最多の五百人を超えていたことを大人たちはどう考えているのだろう。さらに、中でも最も多かったのが高校生の三百五十四人。
学生にとって、一日の大半の時間を過ごす場所と言えば、大抵が家か学校だろう。そして、そこでの軋轢の生じや、進路関係、恋愛の悩み。それらをコップから零れそうなくらいに抱えて零して、零れたとしてもまた、私たちは必死に隠そうとしている。まだまだ成熟しきっていない私たちの精神が破壊されていくのは一瞬であり、それの修復を試みたとしても、深い傷は治りにくい。
きっと誰もが、一人きりでは抱えきれない悩みに、不安に押し潰されそうになりながらも今を生きている。
──紙いっぱいの殴り書きを、ひとみだけ上下左右に動かして見つめる。瞬きをする度に睫毛が肌を転がり、くすぐったい。
スマホの電源をつけて、夜中の三時を過ぎたことを確認する。よく受験シーズンのCMに使われる、部屋の電気は暗くして机の上に置いてあるライトの明かりだけを頼りに勉強する彼らと同じスタイルをとっていた。そのため、お母さんにもお姉ちゃんにも起きていることはバレていない。
本来であれば、休みの日なんかは十二時間以上の睡眠を必要とする私だけれど、今日は夜になるにつれてドーパミンが増えていったに違いない。何に対してのやる気かはわからないが、目が冴えて世間に対する不満を書き綴っている。
夜中の静寂は心地よくて、だけどなんだか息苦しくて、そんなチグハグな感情を置き去りにした頃、やっと眠りにつくことができた。
それでも私の睡眠はかなり浅くて、夢の中でも自我を操ることができる。今日は、一人の男の子が目の前にいる。なんだか見たことあるような気もするけれど、誰なのかはわからない。その男の子が、突然に気を失ったかのように倒れるもんだから、私は誰かを呼ばなきゃ、と反射的に思い全力で走り始めた。屋上と思われる扉を開けるも、現実の百倍くらい重さを感じて、さらに走っているつもりでも、足を前へ進めることが難しい。身体全体が重くて、だけど目覚めることもできない。いわゆる睡眠麻痺と言うやつだろう、なんて冷静に考えられるほど、不安を煽られるような夢でも私は堂々としている。
現実でもそれくらい強気で居られたらいいのに、と目覚めてから思った。
「澪ちゃんおはよう」
「おはよう!」
教室に入れば、友達が挨拶をしてくれる。
「今日って、席替えするの?」
「うん!六限のLHRでするよ」
席替えは、高校生活でもかなり重要になるイベントのひとつだと思っていたが、私のクラスは文理混合クラスで、文系の人と理系の人が授業を一緒に受けることは殆どないので、あまり関係ないことに最近気が付いた。それでも少しだけ、このワクワク感を朝から消せないでいる。
一限は生物基礎(文系科目)なので、移動教室だった。誰もが仲のいい友達とくっついて廊下を歩く姿。私も勿論、そのうちの一人である。だけど、女の子の友情というものは呆気なく崩れてしまうことが数ヶ月に一度ある。この移動教室というイベントにおいては、それを周りに暗示することと同じであるため、その子たちに対してかなり気を遣って接する必要があるということを、早い段階で確認できる。
「澪ちゃん、一緒に行こ」
そして今日、長期戦なのか短期戦なのかはわからない喧嘩をしたであろう彼女たちのうちの一人が、私のことを猫目で誘ってきた。対して仲良くない、勉強をたまに教えるくらいの関係の彼女を見下ろし、瞼で頷く。
普段、教室では大声で騒いでいる彼女たちだが、ひとりになることを──いや、ひとりで歩いていることで、周りから「ぼっち」だと認識されることを何よりも恐れている。なんだかそのことが馬鹿馬鹿しく思えて、形容詞のみの適当な会話を流しながら歩いた。
気が付いたら、授業中に私の頭の中をぐるぐると巡っているものは「死」に関する情報だ。例えば、できるだけ傷や血液で汚れない綺麗な死体で見つかることができる死に方や、人間が苦痛を感じて死ぬまでにかかる時間など。
二限目は論理国語の授業で、今日は安楽死や臓器移植についてどれだけの知識を蓄えているか、という内容であった。
私は手を止めることなく、ノートに文字を書いていく。隣の席の子が、小さな声でまたその隣の子に声をかける。
「澪ちゃん、めちゃくちゃ書いてるじゃん」
「この子の頭の中、辞書みたいだからね」
多少変人扱いされることも、慣れている。
一年生のとき、定期テストの総合順位で上位層の欄に名前が載っただけで、友達と距離ができた気がする。
「地頭の良さが違うもんね」
「頭良いって、それだけでもう勝ち組じゃん」
負け組共の言い分に耳を傾けたくなくても、嫌でもそのような台詞は頭から離れなかった。
「お、倉木がたくさん書いてくれてる」
安楽死と臓器移植についての知識を存分に書き綴ったページを、須郷先生が発表者形式にしてクラス全体に晒す。
こういうとき、カースト制度にこだわりをもっていて、かつ自分たちが「一軍である」と思い込んでいる女の子たちからの視線は怖い。
また倉木だ。なんでアイツが?
そんなことを語っている、妬みを凝縮したひとみを私は絶対に見ない。
このあと、あからさまに無視されても、机を離されても、私は彼女たちのことを人だと思わない。いや、心を殺されて罪悪感がない可哀想な人間だと思おう。というか、私は彼女たちとして生まれてこなくてよかった。自分で自分の非を認められない可哀想な人間に生まれてこなくて本当によかった。
「澪ちゃん?」
名前を呼ばれていることに気付いていなかった。もう既に六限で、席替えのクジをひくところだった。
「あ、ごめん。考え事してた」
嫌いな人への最大限の悪口として「私はあなたとして生きていたくない」というものをよく使う。自分の性格が悪いことなんて、自分が一番知っている。
四つ折りの紙を開き、番号が二十七ということを確認して新しい席に移動する。運が良かった、窓側の一番後ろの席だ。だけど、視力は右がA、左がDの私は一番後ろの席では少しだけ不便を感じる。
手を挙げて席を交換してもらおうか迷ったとき、隣の席に誰も座っていないことに気が付いた。
「ねえ、ここって誰かわかる?」
前の席の風花ちゃんに声をかける。
「そこ多分、高村くんだよ」
「あー、高村くんね」
高村くん──。高校二年生になって、もう一ヶ月以上は経っているのに、まだ一度も姿を見たことがない。元々同じクラスだったわけでも、名前を聞いたことがあるわけでもないので、どんな人なのかはわからない。
だけど、今ここで手を挙げて席を変えてもらったら、風花ちゃんは私が、「隣の席の人が嫌で席を変えた」と思うかもしれない。もしくは、「隣の席の人がずっと休んでいるから、ペア学習のときに一人になるのが嫌で席を変えた」とも感じるかもしれない。
(失敗した)
風花ちゃんがそんなことを思うはずないとわかっていても、なんだか名前を聞いた以上、席を変えるという行為は失礼なことに当たるのではないかと思い、私は月曜日から眼鏡を持参することを決めた。
六限のLHRが終わると同時に、歓喜の声があがる。金曜日は、誰もが好きな曜日であることを今一度実感させられる。
部活や課外活動へと教室から出るみんなの姿を見送り、家に帰る気分じゃない私は、教室に残って勉強をしていた。
数IIの三角関数が理解出来ず、時間をかけて一から勉強していた。一問を解き終わる頃には、既に四十分が経過しており、自分の理解力の無さに少しだけ絶望する。
「地頭がいいって羨ましい」
そんな台詞が、脳裏に存在している。
私はもともと、勉強が好きな方ではなかった。中学生の頃なんかは、勉強をせずに定期テストに臨み、順位は半分よりも下であった。それでも、中学三年生になって、受験を意識し始めたクラスの人達がものすごい点数をとるものだから、流石に私も焦って勉強するようになった。そしてその努力は、きっとクラスでも上位層の方であったと自分でも言える。
平日は朝五時に起きて勉強、学校に着いてからも勉強、休み時間も勉強、給食時間も勉強、家に帰ってからも寝るまで勉強。そんな生活を送り続けて、模試の偏差値グラフは急激な右肩上がりを示した。だけど、私の志望校──今、通っている高校はそこまで偏差値の高い高校ではなかったために、勉強をしなくともそれなりの順位をとることができていた。塾の先生に止められ、もっと偏差値の高い高校へ足を運ぶよう勧められたが、それを断ってでもこの高校に来たかった理由があった。だけど、私は今、なぜこの高校を選んだのかわからなくなっていた。
言い方はあまりよくないが、生徒たちの質が悪く、そのために校則もかなり厳しい。きちんと学校生活を送っている人でも連帯責任である、と適当にあしらわれて集団で怒鳴られる。そしてそのストレスを私にぶつけてくる生徒もいる。正直、限界だった。
友達も夢も失った今、私は何のために頑張っているのかわからなくなった。
気持ちが晴れないまま空模様も怪しくなり、傘を持ってきていないことをぼんやりと考える。帰り道を歩ける自信が無い。傲慢に生きていける自信が無い。
どうしよう、なんて考えたそのときだった。
教室の扉が開いた。突然のことで、思わず肩が跳ね上がる。音のした方に目をやると、そこには背の高い男の子が立っていた。
初めて見る姿であるにも関わらず、その長い足と白い肌、高い鼻から目を逸らせなかった。
私の視線に気付いたのか、その男の子が驚いたようにこちらを見る。そして、思い出したかのように呟いた。
「すみません、僕の席ってどこかわかりますか?」
空気に溶け込んだ低い声が、二酸化炭素の塊として私の耳に滑り込む。
「え?……あ、すみません、お名前伺ってもよろしいですか?」
すぐにでも答えてあげたかったけど、そもそも誰なのかわからず、名前を聞く。
「高村、です」
その名前を聞いて、思わず母音が零れる。
この人が、高村くん。再びまじまじと見つめてしまい、高村くんが怪訝そうな表情をする。
「あの、僕の顔、何かついてますか?」
「え、あ、いや、ごめんなさい。えっと、高村くんの席、ここです」
「あ、隣なんですね。よろしくお願いします」
こちらこそ、と頭を下げて高村くんを見上げる。近くで見ても顔が綺麗で、後ずさりそうになる。
高村くんは、鞄からプリントや教科書類を全て机の上に置いていた。その仕草がどれも丁寧で、見惚れてしまう。
「……あの、お願いがあるんですけど」
突然こちらと目を合わせてくるから、驚いてしまう。
「国語のノート、よかったら見せてもらいたいです」
「あ、全然いいですよ!ロッカーからとってきます!」
心臓がドキドキして、早口だったり声が大きくなったりする。ロッカーからノートを取り出して、高村くんに手渡す。
「ありがとうございます」
「いえいえ!」
なんだか発する言葉の全てが私のものじゃないみたいで、気持ち悪い。いつもひねくれていて心の中に黒いモヤが蹲っている私が、男の子の前で猫を被っていると考えたら、気持ち悪い。
「くらき、って読み方であってますか?」
「はい、くらきです」
ノートの表紙に書いてある名前を見て、彼が呟く。そして、同時にノートをめくりだす。なんだか空気が澱んでいる気がして、言葉で綺麗にしようと試みる。
「字、すごく汚いんで読めないところあったら言ってください」
「え?……いや、全然汚いとか思わないですよ。むしろとても綺麗です」
「あ、ありがとうございます……」
なぜか褒められて、盛大に照れてしまう。顔があつい。頬を両手で抑えるも、指先にまでその熱が伝わって一向に冷たくならない。
「恥ずかしい!褒められるのって慣れてないから」
「そうなんですか?ノート、綺麗にまとめてあって見やすいです」
「うわああ、そんなことないよ、照れるからやめて!」
いつの間にか私の敬語が抜けても、高村くんはずっと丁寧な言葉遣いのままでいる。同い年であるはずなのに、なんだか不思議だ。すると水を弾いて音を奏で始める外が、暗くなってきた。
「え、雨!?」
「結構降り始めましたね……予報では、十八時が九十パーセントだった気がします」
腕時計に目をやると、十八時五分で予報は当たっていた。
「うわ……止むかな?」
「夜中まで降り続けるみたいですよ」
「えー……」
どうしよう。私は電車通学だけど、駅までかなり歩く必要がある。
(金曜日だし、制服濡れてもいいよね……)
もう少し雨が弱ってきたら帰ろう。
「あの、傘貸します」
「え!?」
「折りたたみ傘なので小さいんですけど……ノートのお礼に」
そう言って黒の傘を私に差し出す。
「いや、いいよ!高村くんが濡れちゃうし」
「いいんです。僕、バス通学なので」
正門を出てすぐのところに、屋根付きのバス停があることを今思い出す。
「……本当にいいの?」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
傘を受け取ると、高村くんは立ち上がった。
「僕、卯月先生に用事あるので職員室に行ってきます」
「うん。傘、ありがとう。今度返すね」
「はい」
言葉を残して私に背中を向ける高村くんに、まだ言い足りなくて、無意識のうちに名前を呼ぶ。
「高村くん!」
こちらを振り返る彼のひとみが、綺麗だったことをずっと忘れない。
「またね」
「……はい、また月曜日に」
優しく崩されたその表情が、永遠に私の脳裏にこびりついて離れなかった。
そして、今まで死んだように眠っていた休日をきちんとした生活リズムで終えることができた。月曜日が待ち遠しくて、私の中で何かが始まる音がしていた。
だけど、その月曜日は来なかった。
高村くんは、それから一ヶ月以上学校に来なかった。
どうしようもないくらい人を好きになったとき、私は一日中その人のこと以外考えられなくなる。授業中も、ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、頭に浮かぶのは好きな人。
高村くんと出会ってから、既に一ヶ月が経過していた。あのとき、別れ際に「また月曜日に」と零していた高村くんが、月曜日になっても、火曜日になってもずっと学校に来ない。
(何かあったのかな……)
あまり考えたくないが、交通事故や事件などに巻き込まれた可能性もある。担任の卯月先生にそれとなく聞いてみたが、上手く濁されるばかりで、高村くんについての情報をひとつも教えてくれなかった。
「澪ちゃん、大丈夫?」
「……んー?」
自分の席で、今日もまた高村くんのことについて考えていたら、風花ちゃんが声をかけてきた。
「最近ぼーっとしてること多いね。それにしても雨すごいね」
「そうだね……あ、風花ちゃんって、一年のとき四組だったよね?」
「うん、そうだよ」
そういえば、なんで思いつかなかったんだろう。先生ではなく、高村くんの知り合いに聞く方が早いのかもしれないということに。
「高村くんってさ、元々何組だったか知ってる?」
「高村くんも四組だったよ」
「え!そうなの」
グッドタイミングだ。風花ちゃんに聞こう。
「私この前高村くんに会って、傘借りたんだけどさ、それからずっと会えてなくて。なんかあったのかなって思って……」
「そうなの?……そういえば高村くん、一年生のときも結構休みがちだったなあ」
「そうなんだ……」
「うん、でもまあ二年生に進級できてるから、めちゃくちゃ休み多いってわけではないけどね」
「なるほど……。ずっと傘借りっぱなしなのも申し訳ないんだよね」
「大丈夫、きっといつか来るから気長に待っていよう」
「うん、そうだね。ありがとう」
しくじった。あのとき、連絡先を交換しておけばよかった。なんて今更後悔しても仕方がない。梅雨の時期だからという理由でクラスの誰かが作ったてるてる坊主が、窓付近で俯いていた。
今日は木曜日なので、部活があった。
私は写真部に所属していて、今日は部員が撮った写真をエントランスの壁に貼り付けるという作業をして解散した。
友達と帰ろうとしたときに、明日単語テストがあるにも関わらず、単語帳が鞄の中に入っていないことに気が付いた。
「ごめん、先帰ってて」
「りょうかーい」
友達を置いて、職員室へ向かう。教室の鍵を持って行こうと思ったけれど、そこに二年五組の鍵はなかった。
(まだ誰か残ってるのかな?)
足早に階段を登り、教室の扉を開けると、窓際に一度だけ見たあの姿があった。
「……高村くん?」
それは突然で、状況を理解しきれなくて、私は瞬きを繰り返す。
「倉木さん」
振り向いた高村くんの声が、私の鼓膜を震わした。目の前に高村くんがいることがなんだか信じられなくて、その場から動けないでいる。
「……大丈夫?」
高村くんがこちらへ向かってくる。あれ、初めて敬語じゃなくてタメで話しかけてくれた、とか背高いな、とか声忘れかけてたけど今思い出せたな、とか。色々な感情が溢れかえって、思わず笑みが零れた。
「ごめんね、久しぶりに会えてすごくびっくりしてる」
「……あのとき、また月曜日にって言ったのに、約束守れなくてごめんね」
「いや!全然大丈夫だよ!……結構心配はしたけど」
「ありがとう」
高村くんは、目を離した隙に消えてしまいそうな雰囲気がある。どこかフワフワしていて、なんだか危なっかしい。
「あ、これ、ずっと返そうと思ってて……本当に助かった。ありがとう」
「……そういえば貸してたね。役に立てたなら良かった」
一ヶ月越しに返せた折りたたみ傘も、高村くんの元へ戻ることができて嬉しそうだ。傘を受け取って席に戻る高村くん。
「席替え、してないんだね」
「そう。テスト期間とか文化祭の準備とかが重なって、中々時間がないんだよね」
私も高村くんの隣に座る。
「文化祭……五組は、何をするの?」
「五組はね、メイドカフェをするっぽい」
「メイドカフェ?それって、男はどうするの?」
「男の子もメイド服着たい人は着るっぽい。あとはウェイターさん」
「そうなんだ。面白そうだね」
この企画は、クラスのリーダー的存在である北原さんたちが考えた。女子は、メイド服て接客をする女の子と、裏で料理をする女の子とに分かれるが、勿論北原さんたちのグループがメイド服をかっさらっていき、私たちは裏でパンケーキやドリンクを作る係になっていた。
「倉木さんも、メイド服着るの?」
「え、着ないよ」
「それは勿体ないね」
「んー?どういうこと?」
「似合いそうだなって思ったから。着ないの、勿体ないなって思って」
そんな恥ずかしい台詞を、表情ひとつ変えずにサラリと言う高村くんのギャップに、目を見開く。
「いや、全然、そんな似合うとか……」
舌が回らなくなる。あのときと同様、顔が火照っている。
「文化祭かあ……。僕も参加したいな」
「……え、?」
高村くんが、あまりにも遠くを見つめているから、顔の火照りが段々と落ち着いてくる。一点を見つめる高村くんの頭に浮かんでいるものは何なのか、わからなくて戸惑う。
「……参加しようよ。一緒に準備して、一緒にパンケーキ作って、一緒に回ろう?」
高村くんが、どこかに消えていきそうで、不安になる。私の言葉に驚いたのだろう。少しだけ高村くんの表情が柔らかくなった気がする。
「うん、ありがとう」
だけど、その表情には寂しさも隠されているような気がした。
「それじゃあ、僕そろそろ帰るね」
いつの間にか時計の針は七時を指していて、時間の経過があまりにも早いことに今気付く。
「……うん」
また、会えなくなる日々が続くのだろうか。
それは嫌だ、と思っている私がいる。
「……また、会えるよね?」
ぼそりと呟いた私の声さえ拾ってしまう高村くんが、愛おしい。
「会えるよ。文化祭、一緒に回ろう」
約束。そう言って小指を差し出す高村くん。言葉で表せないほどに嬉しくて、指切りをする。
「またね」
「うん。またね」
そんな言葉を交わせた瞬間は、まるで幻のようにぼんやりとしていて、夢を見ているみたいだった。
文化祭は六月二十八日。
あと一週間で本番を迎えることになる。だけど、あれきり高村くんは学校に来ていない。
そして今日は、この前受けた定期考査の総合結果の紙が手渡しされた。
二年生になって初めてのテストで、私の順位は百十二人中、二十三位であった。一年生の頃は、一桁しかとったことがなかったので、成績の急降下に焦りを覚える。卯月先生からも、返却されるときに言われた。
「大丈夫?なんかあった?」
卯月先生は、一年生の頃も私の担任であったため、今までの順位について全て把握している。それ故に、今回の結果を踏まえて過剰な心配をされた。
廊下にある掲示板に張り出されるのは、十位までであり、当然私の名前は載らない。得意教科の国語と英語では、名前が載ったが、総合順位に私の名前がないことに対して誰かが言う。
「澪ちゃんの名前が載ってないよ」
「珍しい。なんかあったのかなー?」
ヒソヒソと、私に聞こえないように言っているつもりでも、三歳の頃からピアノを習っていて耳だけには自信がある私は、その全てを聞き取れてしまう。耳を塞いで、しゃがみ込んでしまいたくなる。
「倉木さん、大丈夫?なんかあった?」
掲示板の前で、去年同じクラスだった湯崎翔太が声をかけてきた。この人の名前を、どこかで見た。ああそうだ、さっきの順位に載ってたんだ。九位に。
湯崎翔太には悪いけど、息が上手く出来なくなってその場を離れる。よく小説や映画の世界では屋上が開放されているが、現実では開放なんてされていない。屋上という青春の場を、学校側は提供してくれない。行き場を失くした私はトイレにこもって泣いた。
視界がぼやけ、耳が聞こえなくなる。息をすることが出来ない。どうにか、肩で息をしようとしても今は頭が回らなくてただ便座に座ることしか出来ない。
耳が籠っていても、チャイムの音だけは微かに聞こえて、二時間目が始まったことを暗示される。やばい、戻らなきゃ。そう思うのに、立てるほどの気力もなく、ただ息の仕方を探す。
そうこうしている間に、意識が朦朧としてきた。
「誰か、助けて、お願い」
そんな言葉が届く訳もなく、私は目を閉じた。
白い天井。
ただ、それだけ。
ハッキリと目が見えるようになったときには、ここが保健室であることを理解出来た。
こういうとき、自分から声をかけて保健室の先生を呼ぶのもなんだか気が引けるので、目を開けたままぼーっとしていることにした。
暫くして、足音が近づくと共に右側のカーテンが開けられた。
「倉木さん!目が覚めた?」
保健室の水野先生が心配そうにこちらを見ている。
「あなた、トイレで倒れてたのよ。すごく大きな音がしたって女の子たちが騒いでて、駆けつけたら汗すごくて」
そういえば、制服ではなく体操服に着替えさせられている。
「とりあえず、卯月先生呼ぶね」
返事をすることも難しくて、目だけで応答する。水野先生が電話をしている。家の親もそうだけれど、大人というのは電話のときによそ行きの声を出す。それは全国共通なんだな、とぼんやりとした思考回路を巡らす。保健室は、どこの部屋よりも白くて少し明るく感じてしまう。だからか、目が思うように開けない。
「失礼します」
卯月先生の声だ。
「倉木。大丈夫か?」
声を上手く出せないので、必死に頷く。
「……何かあるんだよな。テスト、採点してびっくりした。あの倉木が五十点切るなんて」
頭を抱えて話す卯月先生に、テストの結果が悪かったことについて謝るべきなんだろうと思ったが、上手く声が出せないために何も言えなかった。
「何かあるなら話してほしい。担任として力になりたい」
真剣な表情で言う卯月先生を横目に、私は声を出せないことと、自分の悩みが明確にわからないこと、わかったとしても先生には話したくないということをぐるぐる考えていた。
今この場ではどっちみち話せないから、ここは寝たフリをしておこう。そう決意し、目を閉じる。
「倉木?……早退させるか。お母さんに電話するか……」
私の名前を呼んだ後に、独り言のように呟いたその台詞を聞いて、思わず体を起こす。
「それだけは、やめてください」
声を出す。流石に卯月先生も驚いていた。
「びっくりした……倉木、なんでだ?お母さんと喧嘩でもしているのか?」
「……違います」
違う、そんなんじゃない。だけど、早退なんて、絶対にしたくない。
「話してみろ。話すことでスッキリすることもあるんだぞ」
「……っうるっさい!!」
人生で初めてだった。
幼稚園の頃から、大人というものに恐怖心を人一倍感じて、ずっと「いい子」を演じ続けてきた。小学校でも、中学校でも高校でも、大人に怒られたことなんて一度もなかった。
家庭訪問や三者面談でも、いつも言われてきた言葉がある。
「倉木さんはとってもいい子です」
その「いい子」としてのイメージを崩さないようにするのに必死だった。あるとき、クラスみんなの前で、悪さをした男の子が怒られていた。そのとき、自分が怒られているように感じる。「ごめんなさい」と謝り泣きわめく男の子を目にして、私も泣きたくなる。
それから、自分は絶対に怒られたくない、と更に思うようになった。忘れ物をしてはいけない。宿題の答えを間違えてはいけない。友達の悪口なんて、言ってはいけない。
そして、倉木澪を正当化したつもりで生きていた。それが今日初めて、卯月先生の前で破壊された。
「出席日数、勉強、テスト、課外活動……全部全部、先生たちが言ってること!受験のために全部全力でやらなきゃいけないのはわかるけど、でもキツい。授業中、当てられて答えられなかったときにクラスみんなの前で罵倒されて、順位下がったら心配されて、学校休んでる子には理由聞き出してそれでもその子が傷つくようなことばっかり言って!本当に体調悪いのに、休んだだけで色々言われるんだから、休めるわけない。学校休んだとしても心殺されるし、行っても殺される。うざいんだよ!本気で生徒と向き合いたいなら、生徒のこと傷つけないでよ!殺すとかそんなこと言わないでよ!!」
半分は叫び。涙がぼろぼろと溢れて、白い布団に零れる。申し訳ないと思いつつも、私の言葉は止まってくれない。
卯月先生が目を見開いている。
これが、倉木澪だ。
本当の、倉木澪。
肩で息をしながら冷静になってきた頃、脳裏に浮かぶのは高村くんだった。
六月二十八日。
朝、虹を見た。天気予報では晴れだけれど、夕方からの空模様が怪しい。
文化祭の準備をバッチリ進め、北原さんたちのグループがメイド服を身にまとっている。
「写真撮ろうよー」
「それな。夢、美南、来てー」
教室の真ん中で写真を撮る北原さんたちを見て、風花ちゃんが呟く。
「私、澪ちゃんのメイド服見たかったんだよね」
「え!?何を言い出すの突然」
「いやー、絶対似合うだろうなって思って」
そんな台詞、どこかで聞いたな。
「いやいやいや、無理無理」
あ、高村くんだ。高村くんが、言ってくれたんだ。あの雨の日に会ってから今日まで、一度も高村くんに会っていない。
(今日、来るかな……)
あの日、高村くんとは「文化祭一緒に回ろう」という約束を交わしたけど、どこかで回れない気はしている。
「皆さんおはようございます。ただいまより、第五十三回、春芽咲高校文化祭を開催いたします」
時刻が九時を告げるのと同時に校内放送が流れた。きっと、楽しい一日になる。今日だけは、全て忘れて楽しもう。
そんな矢先に廊下でばったり会ったのは、卯月先生だった。
「……倉木」
目が合うと同時に呼び止められ、気まづい雰囲気が漂う。
「体調は、大丈夫か?」
「……はい」
あの後──保健室で、再び気を失ったかのように布団の上に倒れた私は、お母さんに病院に連れて行かれた。検査した結果、貧血だと診断されそれから二日間学校を休んだ。と言うよりかは、学校に行こうとしたらお母さんに止められた。
学校を休むことは、私に罪悪感を覚えさせることであり、自分が駄目な人間であると思い込んでしまった。それでも、風花ちゃんが連絡をくれて話したことで、なんとか立ち直れた。
ただ、学校に行き始めてからはやはり卯月先生との間に壁ができている。
卯月先生は、こちらの顔色を必要以上に伺っていて、なんだか私も感情を爆発させたことが申し訳なく感じていた。だけど、それでも先生たちからプレッシャーを感じていることに代わりはなし、日本の教育方針が正しいなんて一ミリも思っていない。中々素直に謝る気になれず、そんな自分に嫌気がさしていた。
「……」
「……」
卯月先生は何か言いたげな表情をしている。だけど、言葉を聞くのが怖くて、私は一礼してその場から離れた。
いつも逃げてばかり。そんな自分が大嫌いだ。
今日のスケジュールとしては、私は十四時から十六時までキッチンに入る予定になっている。そしてその後はフリータイムで、十八時から後夜祭が始まる。
二年五組の教室を覗くと、北原さんが男子に囲まれていた。北原さんは、学年一の美女とも呼ばれていて、一年生の頃なんかは、昼休みに他クラスの男子がわざわざ見に来るほど人気だった。小柄で小動物みたいな背格好であるのに、くっきり二重で高い鼻、分厚い唇は世の中の男を全員虜にしてきたかのような顔をしている。
正直、私は北原さんのことが苦手だ。
優しいところもあるけれど、好きな人と嫌いな人に対しての態度がかなり違う。私も一度用事があり名前を呼んだことがあるが、聞こえてないようなフリをされたり、わざとらしく机を離されたりしたことがある。
確かに、人間である以上、人を嫌いになってしまうことは仕方のないことである。全員が全員、自分と価値観が合うなんてそんなことはない。でも、だからといって相手を傷付けていいわけではない。
黒いモヤが私の中で大きくなってきたので、そそくさと体育館へ足を向ける。風花ちゃんが今、ミスターコンとミスコンの司会を体育館でしている。その様子を見に行こうと思ったのだ。
外からは、バンドメンバーが奏でる音楽が聞こえて、とても盛り上がっている。見渡す限り、みんな笑顔でいるのに、私だけはどこかに不安があって俯いている。
すると、今日だけは使用許可が出ているスマホの通知音が鳴った。見てみると、風花ちゃんからメッセージが来ていた。
「澪ちゃん!北原さんの出番がもうすぐなんだけど、まだ体育館に来てなくて……。北原さん、どこにいるかわかる?」
そういえば、うちのクラスからは北原さんがミスコンに出場することになっていた。五組の教室に戻り、北原さんの姿を確認する。
「教室にいるよ。声かけてみるね」
「ありがとう!助かる」
声をかけるだけなのに、心臓がうるさいのはなんでだろう。
「北原さん」
私の声に、北原さんは無表情でこちらを見つめる。
「ミスコンの出番、もうすぐだから体育館に来てほしいって」
いちいち相手の機嫌をとるような言葉を選ぶことも面倒くさい。別に嫌われても構わない。私だって、北原さんのこと好きじゃないから。
「……ありがと」
それだけ言い残して、北原さんは教室から出ていった。少しだけ罪悪感が実る。
これじゃあ、私も北原さんと同じだ。嫌いな人と好きな人への態度をあからさまに変えてしまっている。
自分に嫌気がさして、教室の窓から空を見上げる。空は、全てを受け入れてくれる気がする。今日は雲ひとつない快晴だ。それなのに、夕方から本当に雨は降るのだろうか?
私たちの教室は南校舎にあり、向かい側の北校舎には誰もが一度は憧れる屋上がある。そんな屋上に人影が見える。誰かがいる。
目を凝らすと、それは男の子のようだ。どこかで見たことある横顔。いつの日か、私の夢に出てきた男の子にそっくりだ。
気付いたら、私は駆け出していた。北校舎へ繋がる渡り廊下を全力疾走し、五階までの階段を一気に上がる。
普段、運動しない私にとってそれは息切れの材料となり、折角セットしたお団子もボサボサだ。それでも、微かな願いを込めてドアノブをひねると、簡単に開いた。
屋上へ初めて来た。そこには、大きなプールがある。確か入学してすぐの頃に誰かが言っていた、「屋上にプールを設置してしまって、建物の構造的にアウトだから水泳の授業ないらしいよ」と。それが本当なのかはわからないが、確かにこんな場所で水泳の授業をするのは無理そうだ。
だけど今日は、この大きな水槽に青藍を含む大量の水滴 がチャプチャプと音を立てていて、奥には結婚式を連想させる主祭壇がある。
確か三年生のどこかのクラスが、カップルのために誓いの場を設けるとかなんとかで、この屋上を借りたのだろう。だけどそのイベントは、後夜祭の最中しか行われないらしい。
水槽に浮かぶ色鮮やかな風船。私は、主祭壇の前に立っている後ろ姿に声をかけるか迷った。だけど、彼がこちらを振り向いて、あのときと同じように優しく表情を崩す。
「倉木さん」
その姿を見て安堵を覚えてしまう私がいる。
「高村くん」
主祭壇のところまで向かう。
「何してたの?」
「んー……考え事?」
高村くんの笑顔には、寂しさが紛れている。その笑顔をどうしようもなく守りたい。
「今日は、天気がいいね」
「そうだね」
「今まで倉木さんに会った日は、天気が悪かったから……今日は会えないと思ってた」
儚げな横顔を見て、思い出す。
私、一度夢の中で高村くんに会ったことがある。あのとき、何をしていたんだっけ。ただ、高村くんに何かがあって、私は全力で走っていた気がする。
「会えるよ。いつでも会いに行くよ?」
だからお願い、そんな寂しそうな顔しないで。そんな願いを込めても、言葉にしなきゃ伝わらない。
「倉木さん。僕が今からどんなにおかしなことを言っても、信じてくれる?」
高村くんがあまりにも真剣な表情でこちらを見つめるから、それだけ本気であることが伝わってくる。
「信じるよ」
だから私も真剣に聴こう。
「ありがとう」
だけど、それから数秒は沈黙で、高村くんは話すことを躊躇っているようだった。
そして、決意を固めたときには私を真っ直ぐに見つめてきた。白い空気に乗せられたその言葉は、空を切るとともに私に歪みを覚えさせた。
「僕、死んでるんだよね」
──死んでる。
「……感情を殺されて、生きている心地がしないってこと?」
言葉の意味を理解できなくて、必死にあらゆる可能性を頭に浮かべる。
「ううん。物理的に、死んでいるってこと」
それは。目の前にいる高村くんを否定してしまうということ。
「なん、で?だって、見えてるよ?高村くん、ここにいるよ?」
「うん。倉木さんには見えるみたいなんだ。あの日……教室に入ったら、倉木さんがこっちを見つめてくるから、まさかと思って声をかけた。そしたら返答されるもんだから、かなり驚いたよ」
時系列を整えて説明するね、と高村くんは続ける。
「僕ね、小学六年生のときにここに引っ越してきたんだけど、新しい環境に馴染めなくて、不登校になったんだ。それだけならまだ良かったのかもしれない。僕はだんだん学校に行けない自分を責めるようになって、精神科に通院するようになった。そこで鬱病と診断されて、中学生の頃も殆ど学校には行けなかった。なんとか受験生を終えて、この学校に受かったのはいいけど、それでもやっぱり駄目だった」
まだ、高村くんが死んでいるという状況を理解出来ていないにも関わらず、高村くんが淡々と話を進めるから、そんな話は一切私の頭に入ってこない。ただ、高村くんが死んでいる。それだけが頭の中で繰り返し再生される。
「気付いたら……屋上にいた。高二になってから一週間かな。天文部の友達がいて、その子から屋上の鍵を借りて……ここから、飛び降りた。それは夜の学校の出来事で、次の日朝早くに掃除をしにきたおじさんが僕の死体を見つけて先生たちや警察に報告してくれたから、きっと殆どの生徒が僕の死を知らないと思う」
そういえば──卯月先生に、高村くんのことを聞いたときに、かなり如何わしい表情をしていた。しつこく聞いても、一向に濁されるばかりだった。
「でも、亡くなっているなら、どうして先生は私たちに報告しないの?」
小説や映画で、クラスメイトが亡くなってしまったときには、必ず担任の先生が報告する。そして、お葬式にクラスみんなで行くはずだ。
「それが……僕、どうやら脳死状態みたいなんだよね。それで、親がまだ現実を受け入れられないっぽくて、呼吸器を繋げているんだ。だから、死んではいるんだけど、完全にお葬式とかを開ける状態ではないから、先生たちも黙っているんだと思う。あと、」
高村くんは、何かを思い出したように呟く。
「僕が書いた遺書を、先生たちが見つけた。そして多分……それを公開したくないんだと思う」
虚ろな目で語る高村くん。
「きっと、未練っていうものなのかな。僕は、あの遺書を世間に伝えたくて書いた。だけど、学校側がそれを揉み消そうとしてる。きっとその未練が、今僕がここにいる理由だよ」
寂しそうに笑う高村くんを、もう救うことができない。その事実が私の涙腺を緩ませる。
「あの日……遺書がどこにあるのかを探して学校に来た。もちろん、誰にも僕の姿なんて見えてなかった。だけど、一人だけ僕の姿を見れる人が居た。倉木さん、君だよ」
高村くん、君はどうして……死を選んだの?
どうして、誰にも助けを求めなかったの?
心の叫びが嗚咽に変わる。
「倉木さん、僕からお願いがあるんだ」
「なに、?」
「君の国語のノートを見せてもらったときに白い紙が挟まってた。それが気になって少し見てみたら、世間に対する不満がたくさん書かれていた」
いつの日か、私が夜中の三時に綴った不満。あのまま気付かぬうちにノートに挟まれていたのだ。
「僕と、似ていると思った。僕と同じ考えの人が、ここにいたんだって思った。……倉木さんにもっと早く出会っていたら、僕は死なずに済んだのかな」
今更どうすることもできない、変えられない高村くんの死を、私は受け入れられなかった。
「だから、倉木さん。伝えてほしいんだ。学校のみんなに……世間に。僕たちが、どれだけ苦しんでいるのか、大人たちの無責任な言葉にどれだけ傷つけられているのか、伝えてほしい」
高村くんに触れようとしても、一切触れることが出来ないことに気付く。空を切った私の指先は、行き場をなくして戸惑う。
「きっと、世間に伝えられたら……僕は今度こそ本当に、安らかな眠りにつくことができると思うんだ」
私がもしもこの先高村くんの遺志を繋いでしまえば、高村くんは本当にいなくなってしまう。もう、こうやって会うこともできなくなってしまう。
目の前にいる高村くんを、失いたくない。
あの日──。
空っぽの頭でどうにかパンケーキを作り、後夜祭が始まる頃に再び屋上へ向かった。既にそこには、何組かのカップルがいて、一人でいる私は目立っていた。だけど、そこにはちゃんと高村くんがいた。
「倉木さん」
「私、高村くんの未練を晴らすよ」
決意を固めた私は高村くんから目を逸らさない。いつまでもこの世界に高村くんを縛り付けてはいけない。高村くんとは、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。
それでも、私に出来ることと言えば、きっと高村くんの遺志を繋ぐことだけ。
「ありがとう」
それからどのようにして世間に高村くんの遺志を繋ぐか、二人で話し合った。
高村くんの遺書は、学校で探してもどこにもなかったらしい。卯月先生の元へ行っても、当たり前だが卯月先生に高村くんの姿は見えなくて、遺書がどこにあるかの手がかりはないらしい。
私たちが決めたのは、高村くんの遺志と私の思いを小説に綴ることだった。調べたところ丁度、十代限定の小説コンクールがあり、そのテーマが「命の大切さ、尊さを物語に表そう!」というものであったため、そのコンクールに応募してみようという結論に至った。もちろん、優勝の書籍化なんて難しいに決まってる。だけど、それでも応募してみないことには何も始まらないと思い、夏休みを使って小説を書くことにした。
夏休みに入ってからは、補習もとらずにひらすら文章を書いていた。最初は、プロットを構成し、大まかなストーリーの内容を決めた。この非現実的な事実を、誰も実話であるとは思わないと勝手に考えているから、私はありのままの現実を小説に綴ることにした。
スランプに陥ってしまったのは、文章を書き始めてから四日目のことだった。
もともと、進研模試の偏差値で国語は五十あるかないかくらいの私にとって、作文は難しく感じた。国語が得意な風花ちゃんに協力を頼もうか考えた。だけど、それは、高村くんの名前を出すことになるだろうから、避けたかった。
布団に横たわり天井を見つめる。
そういえば、一学期は結局、卯月先生と和解することができなかったな。
ぼんやりとした頭で考えて、気付いたら眠っていた。
「澪」
お母さんの声で目覚めたときには、時間軸は夕方の四時頃だった。
「おばあちゃんの病院行くけど、一緒に行かない?勉強ばかりも疲れるでしょ」
「……うん」
気分転換に、外に出よう。夏休みに入ってから、まだ一度も外には出ていなかった。
おばあちゃんは、癌で入院している。そのお見舞いとして、たまに春芽咲総合病院へ向かうことがあった。今日は、高校二年生になってから初めてのお見舞いだ。
病院のエントランスに入ったとき、私は驚いた。高村くんが、そこにいたから。
高村くんもこちらに気付いて、どうやら驚きを隠せないみたいだった。私たちは目が合って数秒、固まっていた。
「澪?どうしたの?」
そうだ、お母さんには高村くんのことが見えていないんだ。
「ごめん、知り合い見つけたから、先に行ってて」
「そう?わかった」
お母さんと別れると、真っ先に高村くんのところへ向かった。
「文化祭ぶり、だね」
そう言うと、高村くんは手招きをする。ついてこい、ということだろうか。
高村くんのあとを着いていくと、そこは病院の屋上だった。誰もいない屋上でなら、気楽に話せる、ということだろう。
「僕、ここの三階の病室で眠ってるんだよね」
唐突な事実に、口が開いてしまう。
「そう、なんだ」
「倉木さんがいてびっくりした。今日はなんでここに?」
「おばあちゃんのお見舞いで」
「なるほど」
昨日が雨だったために、屋上には水溜まりがチラホラできていた。
「小説、調子どんな感じ?」
「うーん……書きたいことがたくさんあるんだけど、文章書くの苦手でまだ全然って感じ」
「そっか」
小説を応募するにあたっての条件として、一万字以上から三万字以内の文章であること、というものがある。だけど、高村くんの遺志を繋ぐには、それなりの文字数が必要であり、正直収まりそうになかった。
「僕のことを覚えてくれている人って、どれくらいいるんだろうね?」
「え?」
高村くんが、ぼんやりと一点を見つめて言う。
「僕ね、ずっと死にたいとは思ってた。だけど、どうして僕が死ななきゃいけないんだろうって思いもどこかにあった。やりたいこととかたくさんあった。それなのに、周りから罵倒されて、傷つけられて……やりたいことなんて、一切見えなくなった」
高村くんが、生前を思い出すかのように語る。そんな思いを抱えた高村くんを、私は知らなかった。ずっと一人で苦しい思いをしていたなんて、そんなこと知らなかった。
「……高村くん。絶対、絶対に優勝して書籍化するからね。だから、私が小説を書き終えるまでに、高村くんのやりたかったこと、全部しよう?」
私の決意を、高村くんはいつも笑顔で聞いてくれる。
「ありがとう。……そうだね、折角肉体はここにあるんだし、最期だと思ってやりたいこと全部やるよ」
そんな高村くんのやりたいことは、たくさんあった。焼肉食べ放題に行きたい、水族館で海月を見たい、花火大会に浴衣を着て行きたい、学校をサボってみたい………希望を語る高村くんのひとみは、コバルトブルーのラメが凝縮されていた。
小説を差し置いて、次の日から高村くんのやりたいことを成し遂げて行った。
今日は、花火大会。浴衣が家にあるかどうかお母さんに聞いてみたら、おばあちゃんの白の花柄の浴衣があると言われた。着付けをしてもらい、髪もまとめてもらった。青い簪をつけて、私は夕方の街へと出かけた。
駅に着くと、浴衣姿の高村くんがいた。その綺麗な顔立ちに、とても似合っている。思わず見惚れて、声を出せないでいると、高村くんがこちらに気付いた。
「似合ってるね」
「ありがとう……高村くんも、すごく似合ってる」
傍からみたら、私は一人で浴衣を着て、一人でお祭りを楽しんでいる変人だ。だけど、実際には、隣に高村くんがいる。
「人、多いね」
「そうだね、はぐれないようにしなきゃ」
と言っても、私たちは手を繋ぐことさえできない。触れたいのを我慢して、隣をキープする。
「何食べたい?」
「チョコバナナ」
高村くんのチョイスは意外で、思わず笑ってしまった。
「チョコバナナふたつください」
一人なのにも関わらず、ふたつ頼む私を見て、屋台のおっちゃんが目を見開く。
「四百円ね」
チョコバナナを両手に持ち、人目のつかない場所へ移動する。
「おいしい」
チョコバナナなんて、食べたのは何時ぶりだろう?多分、小学生以来だ。少し幼い味を存分に楽しむ。
「ほっぺについてるよ?」
じっと見つめられた矢先に言われたその言葉に、口を手で覆う。そんな私の姿に笑みを浮かべる高村くんと、もうすぐ会えなくなるかもしれない事実に背筋が凍る。
「倉木さんはさ」
もうすぐ花火があがる、というアナウンスとともに人々の熱気が籠る。
「好きな人とかいないの?」
「えっ!?」
高村くんはいつも突然だ。私は大袈裟すぎるほどの反応を示してしまって、周りの人からチラチラと見られてしまった。
「いないよ、好きな人」
人生で一度も、異性を好きになったことがなかった。だから私は、好きという気持ちはどんなものであるのかがイマイチわからない。
「高村くんは?」
「……いる、かな」
「えっ、そうなの?」
それなら、私ではなくその好きな人と花火大会に来るのがよかったのではないだろうか。なんだか申し訳なくなり、俯いてしまう。
そんな私に気付いた高村くんが心配そうに声をかけてくる。
「倉木さん?体調悪い?大丈夫?」
「ううん……なんか、申し訳なくて」
「え?」
「花火大会、私が誘ったから断れなかったんだよね?本当はその子と行きたかったよね?」
私の台詞に、高村くんの瞳孔が大きくなる。そのひとみに映る私が歪んでいく。
「違うよ」
夜空に彩られていく花火の綺麗さをいつまでも目に焼き付けるべく、私たちは空を見上げる。
「僕は倉木さんと来たかった」
花火の音に掻き消されて、高村くんが何か言っているけれど聞こえない。
「僕は、倉木さんのことをずっと好きだから」
八月も終わりに近づいてきた頃、私は花芽咲総合病院に来ていた。
小説は、ある程度完成している。
だけど、どうしても最終章だけを書き切れずに、私は高村くんの病室の前に来ていた。
「高村 彗」
ネームプレートに書かれた名前を見つめるも、病室の扉を開ける気にはなれなかった。
立ち止まっていても、廊下を看護師さんや他の患者さんたちがすり抜けていくばかりで、周りが気になってしまう。
(やっぱり、完成してから来ようかな)
そう考えて踵を返そうとしたとき、扉が開いた。
「……」
そこには、やつれた女性がこちらを見上げて立っていた。目元が、高村くんに似ている。
「あなた……もしかして、彗のお友達?」
その瞬間に、この人が高村くんのお母さんであることを理解する。
「……はい、友達です」
「卯月先生から聞いたの?」
「えっと……おばあちゃんがここに入院していて、それでこの階を通ったら高村くんの名前があったので、驚いて……」
嘘と本当を混ぜながら語る嘘は、現実味があり相手も信じてくれやすい、と何かの本で読んだ。卯月先生の名前を出して嘘をつくと、ややこしくなりそうなので咄嗟にやめておいた。
「そう。……もしよかったら、彗に会ってくれないかしら?」
「はい。もちろんです」
そのつもりで来たもんだから、すんなり受け入れられる。心臓が、うるさかった。一歩ずつ進むのにどれだけの時間をかけただろうか。高村くんのお母さんがカーテンを開けると、そこには呼吸器をつけて眠っている高村くんがいた。
当たり前だけど寝息なんて聞こえなくい。横たわっているその手に触れると、夏なのに冷たくて、ここに高村くんは宿っていないことを暗示された。
「彗は……とっても優しい子なの。困っている人がいたら、迷わずに駆け付けてその人を助ける。自分よりも他人を優先して……だから、周りに迷惑をかけてしまうことをすごく恐れていたの。私たちにも辛そうな顔なんて見せずに、毎日学校に行って。だけど、高校一年生のときは授業には出ずにどこか他の場所で時間を潰していたらしくて……担任の先生から電話を何回か頂いたのだけれど、彗にそれを指摘するようなことはしたくなくて、気付いてないフリをしていたの」
高村くんのお母さんが話し始めたとき、窓側に高村くんがいることに気が付いた。
「だけど、彗が自殺を選ぶくらい苦しんでいたなら、選択肢をあげればよかった。親なのに、なにも気付いてあげられなかった……。本当、親失格よね」
嗚咽混じりの声に、高村くんが今にも泣きそうな表情をしている。
「そんなことない。母さんが、僕に毎日気を遣ってくれて、優しさ故に僕が話すのを待ってくれていたことなんてずっとわかってた。俺だって、話せばよかった。話せば何かが変わってたのかもしれない。母さんは悪くない……」
高村くんの声は、お母さんに届かない。どうして、こんなにも優しい人たちが苦しむ世界を神様はつくってしまったのだろう?
優しさを捨てて自由奔放に生きるあの人たちが、どうして楽に生きられる世界なんだろう。ある意味その人たちは、世界の軸から外れて自分ルールを独占しているために、周りを気にせずに生きていけるのかもしれない。
だけど、本当の優しさと真面目さと心の綺麗さを持ち合わせている高村くんや、他の人たちが死にたくなるほど苦しむ世界なんて、絶対に間違っている。
高村くんを死まで追い詰めた人達を、私はきっと一生許せないと思う。
高村くんを傷つけた人達を、私はきっと一生許さないと思う。
最終章を、書き上げよう。
私たちの物語を、完成させよう。
小説コンクールの締め切りは、九月二十三日だった。ギリギリまで推敲して、自分の納得いくものを書き上げ、九月二十日に完成した。
ひとつの目標を成し遂げた達成感と安堵で私は床に倒れる。
あとは、結果を待つのみだ──。
完成した小説を、高村くんの元へ持って行く。高村くんが原稿用紙を巡る度に冷や汗をかいてしまった。最後の一枚に辿り着き、高村くんが発した一言に私は安心した。
「すごい……僕の伝えたかったことが、全部ここに詰まってる」
もう一度原稿用紙を見下ろし、高村くんが涙を流す。
「本当に、なんてお礼を言ったらいいか……。ありがとう、本当にありがとう」
「どういたしまして。高村くんの力になれて嬉しい」
新学期が始まってからも、卯月先生は高村くんのことについて一切触れなかった。あのまま、高村くんのお母さんは高村くんの呼吸器を外せないでいる。
だけど、クラスのみんなも、高村くんのことが気になっているようだ。
「高村くん、大丈夫かな?」
風花ちゃんでさえ、高村くんの心配をしていた。一年生の頃も休みは多かったけれど、ここまで連続で休んでいるのは珍しいとのことらしく、クラスでも高村くんの話題で持ち切りになることがたまにあった。
しかし、それは卯月先生の耳にも入ったらしく、ある日のHRで先生の堪忍袋の緒が切れた。
「高村のことについてだが、真実かどうか分からない噂であれやこれや話すのはやめてくれ」
きっと、先生は精神的に参ってるのだろう。自分のクラスの生徒が自殺なんてしたら、それはある意味担任の責任でもあるため、先生としてもキツイのだろう。なんて冷静に考えていると、松村くんが声を上げた。
「でも高村に連絡しても返信こないんすけど。一年の頃は学校に来てなくても連絡したら返信は必ずくれたのに。何かあったんすか?高村に」
南川さんも、同じように喋り出す。
「先生、高村くんに何かあったんですよね?教えてください!高村くんのこと、私たちはすごく心配なんです」
「お前ら!いい加減にしろ!高村のことについて話すな!」
卯月先生は、何かを思い出しているようだ。
まさか、遺書?高村くんは、遺書に何を書いたんだろう。だけど、学校の先生たちがストレスのひとつであるとは話していた。その先生の一人が、卯月先生なのかもしれない。
「おかしいじゃないすか!なんで高村の話がタブーなんすか?」
「そーだよ!卯月、なんかおかしいって。私たちにバレたらまずいことでもあんの?」
北原さんの強気な言い方に、こういうときだけは味方であると心強いなあ、なんて考える。
生徒たちが騒ぎ出したことで、廊下にいたのか、校長先生が教室に入ってきた。
「卯月先生?どうかされました?」
だけど、卯月先生は目をかっぴらいて息を整えるばかりだ。過呼吸気味になっている卯月先生を見て、さすがに生徒たちも大人しくなり始めた。
そのままHRは終わり、濁り切った空気の中、帰る人やまだ高村くんの話をし始める人に分かれる。そんな中、スマホの通知音が鳴り響く。
(やば、電源切るの忘れてた)
不穏な空気から逃げたいというついでもあり、私はそそくさと教室から出た。
正門を通過し、スマホを覗くと一通のメールが来ていた。誰だろう、と思いメールを開くと、それは小説コンクールの結果通知であった。
大きな文字で書かれたそれに、心臓の音が追いつかなくなる。
「この度は、小説コンクールにご応募頂き誠にありがとうございます。
mio様の小説は、残念ながら優勝には至りませんでした。しかし、審査員の誰もがmio様の小説、メッセージに心を動かされたことから、審査員特別賞を受賞されました。おめでとうございます。特に審査員長の三越先生がmio様の小説に絶賛されていて、是非書籍化させて頂きたいとのことです。このメールに、編集会議の日程で都合がよろしい日を返信していただきたいです。よろしくお願い致します」
最後まで読み終える頃には、声が漏れていた。
「やったよ……」
高村くん、やったよ。
高村くんの思い、伝えられるよ。
私はその場に崩れ落ちて、泣いていた。後々色んな人から心配されたが、急いで編集会議をすることを決めて家路についた。
「審査員長の三越です。この度は審査員特別賞受賞、おめでとうございます」
東京にある編集部に行くなり、出迎えてくれた三越先生にお祝いの言葉を頂く。
三越美鈴先生。十代の心に響く小説を書くことで有名な、小説界でもトップクラスに人気がある作家さんだ。
そんなすごい人を前にして、私の体は鳥肌がたちすぎて鳥になりそうだ。
「ありがとうございます」
「早速、本題に入っていきましょう。mioさんの小説、とっても素晴らしかったわ。なんだか現実味があったというか……」
「はは……」
全部実話です、なんて口が裂けても言えない。
「それで、mioさんの小説には十代の悩みとか不満を、すごく世間に伝えたい!っていうメッセージが伝わってきたのよね。だから、書籍化はするという形でOK?」
「はい。書籍化はして頂きたいです」
「了解です。それじゃあ表紙絵とかアシスタントさんとか添削とかについて話していくわ。あ、その前に……ペンネームは、そのままmioでいいかしら?」
「ペンネーム……」
そういえば、名前を設定するときに本名をそのまま使ってしまったが、いざ書籍化するとなると、本名では厄介なことになるのではないか。特に、学校の先生にバレた場合、大変なことになりそうだ。
「ペンネーム、変えます」
そして、それから三時間ぶっ通しで書籍化するにあたっての話し合いをした。終わる頃にはさすがに疲れていた。
「そういえば……優勝者の方に優勝のメールをしてね、書籍化についての会議をするから来てって言ったのよ」
私が帰る準備を始めた頃に、思い出したかのように三越先生が呟く。
「だけど、辞退されちゃった。なんでも、会議に来れる日がないくらい忙しいらしくて……。オンライン会議でもいいですよって言ったんだけど、それでも断られちゃった」
「そうなんですね……」
「その小説ね、あなたの小説に少し似てたの。あなたの小説よりも恋愛的な要素が強かったけれど。素敵なストーリーなのに勿体無いわ」
「へえ……読んでみたいです、その小説」
「いいわよ。あっ、でもみんなには内緒ね」
三越先生は人差し指を口にやり、私に大量の原稿用紙を渡した。
「ありがとうございます」
電車に揺られながら、二つ折りの原稿用紙を開く。
「ハーデンベルギア
僕が人生で初めて好きになった女の子。
彼女は、僕なんかのためにでも一所懸命になってくれる女の子だった。あんなに可愛いのに、自信が無いところ。どんなに苦手なことでも、できるようになるまで努力する姿。自分の弱さを知っていて、それでも強く生きていく背中。いつも笑顔で周りを包み込む優しさ。そのどれもが、僕の心を揺らした。あれは雨の日。放課後、一所懸命に勉強する君に声をかけた。それから会えば、笑顔で声をかけてくれた君とのお別れが、もうすぐ来てしまうことを心から悔やんでいる。
君ともっと早く出会えていれば、どんなによかったか。君ともっとたくさんの会話を交わしていれば、どんなに幸せだったか。
そんな思いを馳せても、僕の願いは届かない。だから、少しでもいいから、願いが叶うように毎日夜空に祈ることにした。
君が、ずっと幸せで居られますように。
誰かに理不尽に傷つけられることなんて、ありませんように。
君のことを幸せにしてくれる人と出会って、結婚して、家庭を築いて、ずっと笑顔で居られますように。
……最後の願い事は、ごめんね、嘘だ。
本当は、僕が君のことを幸せにしたい。だけど、僕が一番君のことを幸せにできる自信はないんだ。僕なんかでは、君をずっと笑顔にさせることができないと思うから。
それでも、もしも来世でまた君と出会えたときには、必ず君を幸せにすると約束する。君が僕を救ってくれたように、今度は僕が君を救いにいくよ。
君に出会えたことが、人生で一番の幸せだと自信をもって言える。ずっと生まれてきたことを後悔していた僕に、人生最初で最後の幸せをくれた君に、ありがとうと伝えたい。
ありがとう。君のおかげで人生の最期をちゃんと迎えられそうだ。だけど君のせいで、もうすぐ終わる僕の人生を返してほしくなった。君のせいで、僕は大嫌いなこの世をまだ生きていたい。君がいるこの世界で、君ともっと笑いあいたい。
未練がないと言えば嘘になる。僕は、君のことがとても好きなんだ。言葉に表せないくらいに、君を好きなんだ。
だから、最後に伝えようと思う。
人生最後の今日──君に会いに行く。」
そこから第二章、第三章……と続いていく。
どこか。本当にどこか、デジャブを感じている。こんな非現実的な話を、私はずっと前から知っている気がする。
──十月が終わる日。
編集会議が多くなり、授業中眠ることが多くなった私。それは四時間目の論理国語の授業のことだった。
トントン、と右肩を誰かに叩かれた。
だけど、負けじと眠る。それでも、何回か肩を叩かれる。あれから卯月先生の精神状態がよくないので席替えがあっていなかった。隣の席は高村くんのはずだから、きっと回ってきた先生に起こされているのだろう。ここは大人しく起きるか──と体を起こして右側を見た瞬間に、世界が止まる音がした。
「久しぶり」
声には出さずに、口だけ動かす高村くんがいた。口をあんぐりと開け、状況を理解できていない私の机の上に置いてあるノートとシャーペンを奪い、何かを書いている。
「今から授業サボって、屋上に行こうよ」
綺麗な文字を見せつけられる。そういえば、高村くんのしたいことに、授業をサボりたいとかなんとかがあったな、なんて寝ぼけた頭で考える。
「先生!お腹痛いんでトイレ行ってきます!」
大きな声で報告する私に、周りからクスクスと笑い声が聞こえる。
「お、おう。わかった」
須郷先生も笑いを堪えていた。くっそー、違う理由にすればよかった、なんて考えても遅い。高村くんと一緒に廊下に出て、誰にも見つからないルートで屋上まで駆け出した。
「書籍化、おめでとう」
屋上に着くなり、高村くんが言う。
「ありがとう。……ごめんね、本当は早く報告したかったんだけど、編集会議が忙しくて、タイミングなくて」
「いいんだ。それよりも……読んでくれた?」
「え?」
何を言っているんだろう。何のことを話しているんだろう。
「ハーデンベルギア」
その文字を、私は何処かで見た。
過去の記憶を巡らせて、先程のノートの文字と同じ文字で原稿用紙に書かれていたその題名を思い出す。
──優勝者が辞退した。
それは、幽霊であるために編集会議に行ったとしても、誰にも姿を見られないから。
「高村くんが、書いたの……?」
「うん。倉木さんへ書いた物語」
信じられない。高村くんが、まさか小説を応募していたなんて。
そういえば、高村くんは後夜祭のとき、私に小説コンクールに応募することを勧めてきた。そのときに、私ではなく、高村くんが書く方がいいんじゃないかと思い聞いてみた。だけど高村くんは、倉木さんに書いてほしいと強く断言してきた。「幽霊だから、もし書籍化して編集会議に呼ばれてもこの姿じゃ行けないから」と理由を添えて。
だけど、今考えれば、小説コンクールの応募条件のひとつに、「一人一作品」というものがあった。高村くんは、自分の遺志よりも私への想いを優先させた。
その事実に頭が混乱してしまう。
「……最後まで、読んでくれた?」
「読んだよ……え、まって、本当に信じられない……」
思い返せば、そこには「好き」とか「幸せになってほしい」とか、そういうことが書いてあった。高村くんは、それを私のための物語だと言っていた。それならば、その言葉たちは私に向けられたものであるのか。
思い出しただけで頬があつくなる。
私が照れたことに気付いた高村くんが、いつもの優しい笑顔を見せてくれる。
「本当は、直接言おうと思ってた。だけど、僕がいなくなれば、言葉を伝えることは無理になる。だから、それなら形にちゃんと遺して、倉木さんに届けばいいなって思って書いたんだ。……っていうのは、まあ正直、直接言うのが恥ずかしいから殆ど言い訳だね。最後までかっこ悪い」
「ううん……嬉しい。すごく、嬉しいよ……」
嬉しいけれど、恥ずかしい。もうすぐ衣替えの時期だって言うのに、きっと今の私は体温三十七度は余裕であると思う。
「倉木さん」
私たちは、触れられない。
だけど、高村くんが手をこちらへ伸ばす。同じように私も、触れようと試みる。
「好きだよ」
「うん」
「好き、大好き、愛してる。倉木さんに、死ぬ前に……というかもう死んでるんだけどね、会えて本当に幸せだった。僕が、初めてまだ生きていたいと思った理由は倉木さんだよ。……倉木さんのいるこの世界で、僕はまだ生きていたい」
「……っ、うん」
涙腺は、緩むばかりで鼻がツーンと痛い。赤鼻のトナカイのような顔になっているだろうに、そんなことはもうどうでもよかった。
「だけど、ここでお別れ。……倉木さん、本当にありがとう」
それが、最期の台詞とでも言うように、微笑む。
「幸せになってね」
「高村くん!」
嫌だ。私、何も伝えられていない。
高村くん。お願い、まだ逝かないで。
そんな思いを抱えて、今にも消えそうな高村くんに抱き着く。だけど、当然の如く私の両腕は空を切ってしまった。
「高村くん、好き。私も高村くんのこと大好き。愛してる」
花火大会の日のモヤモヤが一体何だったのか、今ここで知る。
私、高村くんのことが好きなんだ。
ずっと好きだったんだ。
それに気付くのに、こんなにも時間がかかるなんて。
「……高村彗くんが、息を引き取りました」
帰りのHRで卯月先生が静かに言う。突然の知らせに、クラス全体が息を飲んだ。泣き出す子もいれば、現実を受け入れられずにただ一点を見つめる子、なんでだよ!と机を叩く子……反応は人それぞれだ。
「彼は……四月には既に自ら命を絶っていた。ただ、脳死状態で親御さんが呼吸器を昨日まで外さなかったんだ。だけど、今日……呼吸器を外したそうだ」
出会った日と同じように空模様が突然に変わり、雨粒が地面を弾く。まるで、高村くんの死を空も悲しんでいるようだ。
「みんなには、どうしても言えなかった。言えば、高村の遺書を公開することになるからな。そうなれば……俺たち教師は行き場を失くす。それが怖かった。だけど、そんなの俺が弱いだけで、本当は俺たち教師がしっかりと責任をとるべきなんだ。すまない。こんな教師が担任で」
卯月先生は、深く頭を下げた。
そして、スーツの内側のポケットから一枚の封筒を取り出し、高村くんの遺書を読み始めた。
「これが、世間に渡ることはあるのか不安で不安で仕方がありません。学校側が揉み消そうとする可能性が高いからです。
僕は、小学六年生のときに鬱病になり、普通の人とは少しズレている、と周りから評価されるようになりました。人生で死にたいと思うことがあり、実際に死のうとする僕はおかしいんだと。明日を迎えるのが怖くて、あるときは家──マンションの七階、ベランダに出て飛び降りようとしました。あるときは、学校の理科室にある硫酸を盗んで、毒薬で死のうとしました。あるときは、首を太いロープで絞めました。あるときは、靴を履かずに薄着で真冬の世界に出て、低体温のまま眠りにつきました。どれも、警察や親に発見され失敗に終わりました。死のうとするなんて、おかしい。命を大切にできないなんて、おかしい。そのように言われ続けてきた僕は、最初から生まれて来なければよかったと思いました。高校生になって、学校に行けなくなりました。鬱病がどんどん進行していて、薬を飲んでも飲んでもよくならなくて、入院の話が何度か出たけれど、それでも高校は出席日数が命だから入院を何度も断りました。それは、少し休んだだけで先生たちから理由をしつこく問い出されることが関係しています。体調が悪い、そう伝えても信じて貰えませんでした。熱があるのか、病名はあるのか。それを証明してくれ、と言われました。精神疾患をもっている人ならわかると思います。精神的な不安からくる腹痛や頭痛、吐き気は本当にあることを。わかってほしいとは思いません。わからないと思うからです。ただ、これ以上僕と同じ目に遭う人を減らしたいんです。同じように苦しむ人を減らしたいんです。僕の死が、それを実現できるのであれば、迷わずに僕は死を選びます。
なんていうのは、最後にカッコつけたかっただけです。子どもの未来を奪ってしまう教師たちのことが、僕は嫌いです。どうか、お願いです。苦しみを抱えきれない生徒を、さらに傷つけるようなことは言わないでください。
高村 彗」
涙を流しながら卯月先生が話す。
高村くんの声が聞こえる。高村くんが、強い遺志を語ってくれている。
書籍化された私の小説が本屋さんに並んだのは、あれから一年がたって私は推薦入試を終えた頃だった。
「アキメネス」
大きなタイトル。表紙は、私の好きな絵師さんにお願いした。女の子と男の子が手を取り合う絵が描かれている。
「すいーとぴー」
ペンネームは、三越先生に盛大に笑われたが、花の名前からとった。その理由としては、高村くんの名前を一部に入れたかったことと、スイートピーの花言葉に「別離」「門出」というものがあるからだ。
本を手に取り、最後のページを開く。
高村くんへ、届いてほしいという一心で、書き上げた。
「この本を、私の大好きな君へ贈ります。
最大限の愛と君に出会えて幸せだよって想いを込めて。いつかまた逢える日まで、私は前を歩いていくから、ずっと見守っててね。そして、次会えたときには絶対に、私のことを抱きしめてね。高村彗くん。あなたのことが、大好きだよ」
──倉木さんが最後のページに残してくれた僕への言葉を読む。
その内容に、口元が緩んでしまう。
いつか倉木さんがここに来たときには、力いっぱい抱きしめよう。なんて、あと何年かかるかもわからないけれど今から楽しみにしている。倉木さんが、僕の中でまだまだ生き続けてくれている。そう考えると、少しだけ息がしやすくなった気がした。