「てことがあってさあぁ、笑っちゃうよねぇ」

 ここは町に唯一ある商店街の一角のBAR。尾方巻彦行きつけの暇つぶしスポットである。

 少女から辛くも逃げ出した三十路フリーターは、家に帰るわけにもいかずBARで時間を潰していた。

「尾方さん呑みすぎよ。帰れなくなるわよ」

「帰らないために呑んでるんだよねぇ~。俺だってさあぁ、結構頑張ってるんだよぉ? でもさぁ全部はとれないじゃん? 苦渋を呑みまくってさぁ~あ、諦めてるってのにさぁ? あんなこと言われたらクるとこあるわけじゃな~い?」

「なに言ってるかさっぱりわからないわよ?」

 そして完全に出来上がっている彼はママからも大層煙たがられていた。

 その時。

「ここにおったか尾方巻彦! 話はまだ終わっとらんぞ!」

 BARでは絶対に聴くことの無い、幼さゆえの甲高い声が尾方の頭に響いた。

「うわぁ! なになに!?」

 BARの入り口にギョッと目線を移す尾方。

「ああ、また見えて来ちゃった...」

 そこに居たのは、どこからどう見ても件の少女であるが、酔っ払い尾方はそれを幻と断定。構わず酒を進める。

「お騒がせして失礼じゃママさん、オレンジジュースを一つ。横の酔っ払いのツケで」

 さらにその幻(本体)が横に座って自分の金でオレンジジュースを飲み始めたものだから、

「素晴らしい、夢の中でまでお天狗様とは...」

 このダメ男、事を夢だと断じてしまい。完全にスルーの構えに入ってしまった。

「よいか、尾方よ。組織復興は簡単な事ではない。すぐ決められないのも分かる。だが、だからといってな。目の前の現実を後回しにしても前には進めぬ。

悪の道その四! 

【まずは行動! 結果は経過と心得よ!】 

おじじ様も言っておった。世の中には単身で天使を襲う悪の奉仕活動に独り勤しむ。悪の道にそった人物がおるのは尾方でも聞き及んでおろう。最近世を騒がす通り悪魔「Return blood(返り血)」じゃ。なんでも目撃談が全部全身血まみれなところから来た通り名らしいんじゃがの。彼のように、まずは一人でも行動を起こすこと、これが大切じゃとワシも思うのじゃよ。それに彼に比べれば我らはもう二人、まだラッキーなほうと考えよ。これよりワシと二人力を合わせ、彼の者に負けぬ研鑽をじゃな...」

 つらつらとご高説講じるご令嬢であったが、尾方はすでに熟睡を開始していた。

「親父ィ...俺、まだ...」

 寝言までこぼす熟睡酔っ払い中年の隣でご高説たれる少女の異様な光景は、BARの閉まる時間まで続いた。



「ふあぁ~あ...ぃててて頭痛がぁ...」

 翌日、目覚めるとBARのシャッターにもたれ掛っていた尾方は

「...しっかし変な夢だったなぁ」

 と先日の件を全て夢だと思い込み、一旦家に帰りバイトへ出勤していた。

「おはようございます、今日も相変わらず眠そうですね尾方さん」

 そんな自堕落の極みに話しかける奇特な物好きが一人、

「んあぁ、おはようキヨちゃん。今日も朝から旅館前のお掃除? 小さいのに偉いねぇ」

 彼女は尾方のアパートの正面に位置する老舗旅館の一人娘、正端清まさただきよ。

 尾方の数少ない話し相手の一人であり、なにかと世話を焼いてくれる善き隣人であった。

 和服が似合う旅館の若女将は束ねた髪を翻して頬を膨らます。

「尾方さんが思っているほど小さくありませんよ、私。それにそんなこと言う人には今晩の肉じゃが分けてあげませんからね」

「えぇ、弱ったなぁ...おじさんアレだけが楽しみで毎日頑張ってるのに...」

「私小さいですかね?」

「心も体も尊大なご令嬢であられます」

「和服、似合っているでしょうか?」

「今生、お嬢様ほど和服を着こなす女性に巡りあう事はないでしょう」

「ふふ、敬称がバラバラですよ尾方さん。でもいいでしょう。ただし今日はあんまり無理せず早めに帰るんですよ?」

「とは言ってもねぇ、おじさん、アルバイトの数だけが自慢なんだよねぇ」

「前から、少し疑問だったのですけれど、なぜ沢山のアルバイトの掛け持ちをしてらっしゃるのでしょうか? ひとつのアルバイトに絞るとか、そこまで働く時間があるのであれば正社員のほうが生活が安定なさるのでは?」

 和服少女は掃除の手を止め、本当に不思議そうに尋ねる。

「...若女将さん。そこに気づくとは貴方まさか...まぁ、気づかれたからには答えるしかないか...」

 尾方の声色が変わり、ゴクリと若女将は息を呑む。

「ほら、実際の仕事内容がサボりまくりでも悲壮感出るじゃない? そしたら周りの裕福な人がご飯恵んで貰くれるかなぁって」

 和服少女はニコっと笑い竹箒を尾方の顔に前から被せる。

「痛ッたい眼がぁぁぁぁ!」

「今日の肉じゃがはお肉抜きです」

「冗談! 冗談なんです! 場が和むと思って! ...あと、おじさん、肉じゃがで一番好きな部分は半透明の玉ねぎなんで。ぶっちゃけ大丈夫ですハイ」

「あ、分かります? 私も特に時間と温度に気をつけて長めに煮ているんですよ」

「キヨちゃんの未来のお婿さんは毎日そんな料理食べられるんだよねぇ? 前世で世界でも救った徳高き御仁なんだろうなぁ」

 叫んだり言い訳したりグルメぶったり口説いたり、なんとも元気な二日酔いの中年である。

「もう、またそうやって肝心な部分をはぐらかすんですから、尾方さんなんだか危なっかしいから心配して言ってるんですよ?」

「そーれなら大丈夫、おじさんぐらいの歳の人はね。若い子と話すだけで丸一日は死なない生命力を得ることが出来るんだよ。知ってた?」

「妖怪なんです?」

「オマケにその若い子にご飯まで貰ってるんだからキヨちゃんは僕にとって神様と大差ないよね? シュハキマッセーリ?」

「調子の良いことばかり言って、それに神様は私なんかよりずうっと尊いお方ですよ? それにご飯はくれません」

「じゃあ、キヨちゃんママ?」

「いってらっしゃい尾方さん」

「痛ッたい眼がぁぁぁぁ!」

 竹箒は存外硬く鋭い、尾方はまた一つ賢くなった。




 完全に若女将に手玉にとられた尾方は、バイト先のコンビニレジにて一つ思い出していた。

「(昨日の夢、変な夢だったよなぁ。歳はキヨちゃんより少し下ぐらいだっただろうか。親父の孫娘とかなんとか、組織の復興ねぇ...あんな夢みるなんて...まだ心の何処かで...)」

バイト中に物思いに耽っている中年であったが、

「頼もう! 見つけたぞ尾方巻彦! さぁ、今日こそはワシと一緒に来てもらうぞ!」


 夢は現実に、今日も朝から元気なご令嬢の登場である。

「...お帰りくださいませぇ」

「いらっしゃいませじゃろ! 接客がなってないぞ尾方巻彦!」

「いや、オジサン現実でまで夢の面倒見れないって言うか...もう色々面倒臭いっていうか...」

「前半も後半も聞き捨てならない台詞じゃ尾方! 今日という今日はハイと言うまで帰らぬからな!」

「ハイハイ...あ、言いましたよ。おかえりはあちらになりまぁす」

「ムキー!」

「うぉ、怒り方だけおじさんと同世代だ」

「おじじ様だってこう言って怒っておったわ!」

「あ、やめて、おじさんの中の新鮮な桃のような思い出に指を突き立てるのやめて」

「桃は好いておる! あるのかの!」

「いや、あったらオジサンが食べてます。おじさんもう半年は果物口にしてないので」

「えぇ、それは、こんど、ミカン持ってくるからの...」

「少女にガチ哀れみを向けられてもおじさんは動じない。なんなら姫子ちゃんがいただきますって言った後に、その横から桃を奪って笑顔で食べられるぐらいには強いよおじさん」

「強さ...強さって...なんじゃろな...」

「振り向かないことさ」

 のらりくらりと逃げる中年。

「ぐぬぬ...バイト先に迷惑ゆえ、ここではこれぐらいにするが、覚悟しておれよ尾方巻彦! 今日はまだ始ったばかりなのだからな! さらばじゃ!」

 ご令嬢は走り去りかけたが、二、三歩走ったところでスッと振り返ると、尾方の前にモジモジとやってきた。

「あ...あと、叫んだら喉が渇いたのでお茶買うのじゃ。お会計」





「ここにおったか! 尾方!」

「おるな! 尾方巻彦!」

「ここじゃな! 尾方ァ!」

「ここにおるぞ! 尾方! 尾方ぁ!」

「サボるな! 巻彦ォ!」

 少女は宣言のとおり、その日、尾方巻彦の掛け持ちしている全てのバイト先に現れ、またサボり場所にまで追ってきた。

 だが尾方も負けじとのらりくらりと煙に巻いては逃げを繰り返し、ついに本日最後のバイト場所、街角にある古本屋にまで逃げおおせていた。

「ハァ...おじさんバイトだけでも手一杯だってのに...」

 本の整理をする尾方には流石に疲労の色が見えていた。手を止めて溜息しながら腰を叩く仕草、実年齢よりオッサン度が高い。

「...アルバイトの身で溜息しながら休憩とはいいご身分ですね」

 疲労困憊の中年に歯に衣着せぬ物言いをするのは、先日も尾方が怖いと愚痴っていたこの古本屋の店長。名を守本一もりもとはじめという。

 現役JDにして祖父の古本屋を継ぎ、名門大学に通いながらも古本屋を経営する才女である。

 基本無口な彼女だが、サボる尾方を罵倒する際は別であった。また眼鏡の奥に潜む鋭い眼光を尾方は苦手としていた。

「店長こそ、まぁたレジをサボって本の話でもしに来たんですか?」

「違うわ。サボり魔がいるから定期的に巡回しておかないとなの」

「そいつは大変だぁ。どんな悪魔で? 二つ名とかあります?」

「ごく潰しの悪魔、中年ルーザーよ」

「酷い! 酷くない?」

「私なりに皮肉を利かせてみたの」

「皮肉は変化球! 店長のは暴投! デッドボール!」

「本当のデッドボールを見せてあげましょうか?」

「まだ先があるの!?」

「WWWワンダーワイドホワイトボールよ」

「あれボークだからね!?」



 息を切らしながらツッコみする尾方。

「ちょ、ちょっと、おじさん本当に辛いから、手加減して...」

 疲れを隠さない中年ルーザーは観念して言い訳を始める。

「いや、違うんすよ店長。今日はちょっと朝からストーカー被害にあっておりましてね」

「...ん」

「いや、違う! 適当な嘘じゃないの! 分厚い本持って振りかぶるのやめて!」

「...どう証明するの?」

「えぇ...? 証明のしよう? なくない? ないよね? こんなオジサンがストーカーされる証明でしょう? 逆にあると思っちゃう? 店長ちゃん?」

「...んん」

「わー! 待って! 待ってってば!」

 振り上げた本が振り下ろさんとされたその瞬間、

「尾方ぁ! 尾方巻彦はおるかぁ!」

 良く響く甲高い声が本棚を揺らした。尾方はハンズアップしていた両手で入り口方向を指刺しながら店長を見る。

 守本は溜息をしながら本棚の裏にある入り口へと赴く。

「むむ、お主が店の主か! 尾方巻彦という、ろくでなしの擬人化の様な中年がここにおらんかのう?」

「...ここにはごく潰しの擬人化のような中年しかいないわ」

「そうか、おかしいのう。この辺りなんだがのう、失礼したのう店主よ」

 少女は携帯のような端末を見てブツブツ言いながら店を後にする。溜息をしながら守本は尾方の所へ戻ってくる。尾方は渋い顔をして言う。

「色々言いたいんだけど、なんであれで撒けるのよ...」

「...隠し子?」

 心底ドン引きした目を店長に向けられる尾方。だがこの尾方なんと慣れたものなのである。

「そうだよ。昔やっかいになってた職場の店長の隠し子...だけどね」

「そう、昔厄介になった職場の店長との隠し子なの...店潰し中年崖下ルーザーさん...」

「昔! お世話になった! 人が! 拾った! 孤児! 俺! 無関係!」

「じゃあ、なんで貴方を捜してるのよ?」

「少し話を聴いてあげたら懐かれちゃって、困ってるんだよおじさんも...」

 守本は少し尾方の目を見るとスッと興味が失せた様に

「...そ」

 と一言いって奥に引っ込んでしまった。

「...あんなに喋る店長初めて見たかも。明日は雨かなぁ?」

 溜息が一層深くなった尾方は本棚の整理にヨロヨロと戻っていく。

「ところで尾方さん」

「うぉっと!?」

 去っていった反対側の本棚の影から守本が再度出てきたものだから尾方は情けない声を挙げる。

「な、なに? 店長? 心臓に悪いんだけど?」

「今日もシフト夕方まででしたが、もう少し長くできません?」

 急に仕事の話になるので尾方は息を整えて答える。

「ごめんね店長。夜は用事が有ってねぇ。ほら、おじさん色男だから、引く手数多でさぁ」

「そうですね。色男です。桑の実の色をしています」

「もういっそどどめ色って言ってくれていいよ!?」

「どどめ色男さん」

「最下級の妖怪とかに居そう...」

「まぁ、分かりました。気が変わったら教えてください」

 そういうと守本はまた本棚の影に消えた。

「はぁ、夜は引く手数多っていうのは本当なのになぁ...」

 一応逆の本棚の影から店長が飛び出してこないか確認した尾方は、フラフラと仕事に戻った。



 バイトが終わり、 店長の手を逃れたオガタを待っていたのは、また少女だった。

「むせる」

「なにがじゃ尾方! やはりこの古本屋におったな! よくよく考えたらごく潰しも尾方っぽいと思っておったぞ!」

「だったらなんで再突撃してこなかったの?」

「そ、それは、あの女店主...なんか怒ったら怖そうだったのじゃ...」

「中々の観察眼...本能的に長寿タイプだねぇ」

「お主なんか喋るのが面倒になっていろんなところから引用してきてないか!」

「君のような勘の良いガキは嫌いだよ」

「ムキー! やっぱり! それぐらいワシでも知っとるわムキー!」

 尾方はまたもご令嬢を怒らせて逃げる算段をつけていた。というか既に回れ右をして裏路地に走り去っていた。

「待て尾方ぁ! 今度とゆう今度は逃がさんぞ!」

 流石に、本日何度目か分からないほどの目を盗んでの逃走。ご令嬢も反応が早くなっており、裏路地に追走を仕掛けてきた。

「速さが足りない!」

「いい加減にせい!」

 少女をおちょくりながら走るおっさん。存外すごく元気である。

 しかし正直、尾方も追いかけられるのは想定外であった。この先は、尾方のサボりスポット。つまり行き止まりである。流石の尾方もここから少女を撒くルートは知らない。

 しかし、先に行き止まりに着いた尾方は、落ち着いた様子で足を止める。

 そう、この男は組織でも指折りの諦めの悪さが売りの一般戦闘員。まだ策があるのだ。

 こなれた様子で悠々と準備をする尾方巻彦。そこには大人の貫禄、余裕が漂っていた。

 そこへ。

「追い詰めたぞ! 尾方巻彦! そこは行き止まりであろう!」

 最後の曲がり角を曲がり、姫子が追いついてきた。しかし姫子は、その光景に言葉を失ってしまう。そう、これが尾方巻彦、大人の一発逆転の天計。

「もう勘弁してください!!!!!!」

 土下座である。

 正直、地の文である私も形式破りのドン引きである。少女に追いかけ回され、逃げに逃げた中年フリーターの決死の土下座なんて誰も見たくない。

 見たくない。

「.........」

 暫く唖然としていた私と姫子であったが、ご令嬢の方が動く

「や、やめよ尾方。ワシこそ追い掛け回して悪かったの...」

 訂正しよう。

 少女に追いかけ回され、逃げに逃げた中年フリーターの決死の土下座を見て、少女に気を使われる男なんて誰も見たくない。

 見たくない。

「じゃ、じゃあ! 勘弁してくれるの?」

 おい、嬉しそうにするんじゃない駄目ダメ中年。

「そ、そうじゃのう。最後に一つだけ話を聴いてくれたら今日は諦めるかの...」

「うん、聴く聴く、競馬のラジオにイヤフォン繋ぐからちょっと待ってね」

「聴く気全くないじゃろ尾方ー!」

 もうコントを見せられてる気持ちにしかならない。私が見てるんだからもう少し頑張って欲しい。色々。

「わかったわかった。オジサンの負け。聴こうか、なんの話?」

 やっと観念した尾方は耳を傾ける。

 ハァ、と溜息をついた姫子はキッと尾方に目線を向ける。

「お主の話じゃ。尾方巻彦」

 少女の声色が変わる。

「おじじ様は、よくお前の話をしておった。一般戦闘員に納まる奴ではないと。ワシは尾方をもっと重用してやりたいが、本人が断る。謙虚な奴だと。そして、もしもの時は、やつが組織を背負うことも出来る器があるだろうとも。だから、だから私・は、尾方巻彦が生きていると聴いたとき...嬉しかったのじゃ。彼の者とであれば、たった二人でも組織を復興出来るかも知れないと。本当に本当にそう思ったのじゃ...なのに...うぅ」

 最後まで話せずに泣き出してしまう姫子。さっきとはうって変わって真剣な眼差しで話を聴いていた尾方巻彦は、これまた悲しそうに答える。

「ありがとうね、姫子ちゃん。そうだったんだね。オジサンにそこまで期待してくれていたんだね。オヤジの話も聴けてよかった、そうな風に想われてるなんて露にも思わなかった。でも...でもやっぱりその期待はオジサンには重すぎるよ。だってオジサンは...既に一度...」

「大丈夫じゃ! 尾方であれば! 【メメント・モリ】を!」

 その時、

「いま? なんつったぁ?」

 少女の後ろからおぞましい声が割って入ってくる。

 そして割って入ってくるのは声だけではなかった、同時に鋭利な刃物が少女に向って振り下ろされていた。

「――なにやってんのぉ!?」

 咄嗟に姫子と刃物の間に入った尾方は、当然刃物に、深々と切り裂かれた。

 返り血がその凶暴な乱入者を赤々と染める。その姿に姫子は一つの単語を思い出した。

「Return blood」である。